四回転ジャンプでは越境できない

荒川静香が女子フィギュアスケートで金メダルをとったことは喜ばしいと思います。ですが、日の丸を持って体育館に集合した地元の人たちばかりがテレビに映ることに違和感を持ちます。荒川を支えたのは、高いチケットを購入して、全国津々浦々を応援してまわった決して国旗を振らないフィギュアファンではないのでしょうか。(フィギュアスケートは日本人でも、国外の選手のファンであることが多い競技です。日本ではロシアやフランスの選手が人気。)四年に一度しかない五輪で大騒ぎする「国民」ではないはずです。

確かに、普段、フィギュアスケートを見ない人にとっては、連日報道される日本人選手に注目するのは当然だと思います。そういって納得しようと思ったのですが、元フィギュアスケーター渡部絵美が「(スルツカヤがジャンプで転倒したとき)国民はみんなガッツポーズをしたと思います」と発言したときにはさすがに呆れました。スルツカヤも荒川もベテラン選手です。フィギュアファンなら、どちらの選手の滑りも見てきたはずですし、スルツカヤのファンだっていないわけではありません。それが、「国民」という枠にはめられた途端に、日本人全員が荒川を応援していたような発言がまかり通ります。続けて渡部は「フィギュアやってて良かった」と言いましたが、このような選手がいるから、良い成績が残せなかったのではないかと疑います。(それに比べて荒川のクールさは際だって見えます。)

新採点方式が分かりにくいという声もあがっているようです。ジャンプで転倒したコーエンやスルツカヤより村主の順位が低かったことへの不満もあがっています。新採点方式は、各要素に細かく点数が分けられ、ジャンプなどの技術点に偏らないように配慮されています。(しかし、報道はされていますが新採点方式はジャンプに重きをおいているという批判も同時に起きています。)ですので、芸術点やプログラムの構成で順位が変わってくるので、観客側にはわかりにくいかもしれません。

わかりにくさとナショナリズムについて太田省吾は書きます。

現在の日本の文化(政治的思考もふくめ)は<わかりやすさ>が要請され、あるいは強制されている性状にあり、<わからない>ものは忌避され、劣等にランクされる。

(太田省吾「<ナショナル>なものへの疑い」『舞台芸術07』京都造形大舞台芸術センター、2004年、5ページ)

フィギュアスケートにはジャンプ、ステップ、スピンなどの各技術や、その組み合わせによって難易度が変わってきます。また表現力といった抽象的な言葉も使われます。必ずしも、観客が素晴らしいと思った演技が上位に入るとは限りません。ですから、フィギュアファンはつねにジャッジ(審査員)の採点と、自分の持つ感想のズレに耐えながら応援しなければなりません。その中で、自分の好みのスタイルの選手を選び、花束を投げるのです。それに比べれば、実況をみて「日本」と叫ぶのはわかりやすい構図です。どこかいいのではなく、成績の良い日本人として応援すること。国旗を振る「国民」はただ、自国に高い評価がつくことを望めばいいのです。

日本に生まれた私は、民族独立戦を闘っているような人々に抱かれているような、<よきナショナリズム>を知らない。<ナショナルなもの>をほとんど<思考停止点>をそこに設定することによって得られる<わかりやすい><自信ありげな>態度としてしか感じられず、それへの気味悪さと不信を感じてきた。

(太田、同上、6ページ)

フィギュアファンは常に苦悩に満ちています。早い引退(フィギュアでは20代でほとんどの選手がプロに転向します)、度重なる故障、ジャッジとの方針の相違。その限られた枠の中で得られる自由こそが、フィギュアスケートの面白さです。私もまた、ナショナリズムとは切り離せません。私も「国民」であるに違いはありません。それでも、私は荒川や村主や安藤だけではなく、スルツカヤやコーエンの応援をする自由があるのです。国旗を振る前に私は誰を応援したいのか。自問自答を避けることはしたくありません。

追記:他の記事を見て回ると、はてなに関してはスルツカヤ他、外国人選手を応援する声が多かったように思いました。元々、スルツカヤは人気の高いベテラン選手ですから、当然かもしれませんが。

見られたい身体

電車にゴスロリ若い女の子三人組が乗ってきました。私は興味を持って、ゴスロリで有名なブランド店BATSUを訪れたのですが、大体、スカート一枚で2万円くらいでした。三人組はそれぞれ、黒い制服スカート、紋章入りネクタイ、編み上げのブーツ、髑髏のイラスト入り鞄などを全身に隙無く身に纏っていました。思わず注視して、総額を計算しそうになりましたが、ジロジロ見るとは失礼だと思い目をそらしました。すると、その視線の先にはディオールモノグラム入りのバッグを持ったお姉さんがいるのでした。私はまた値段を計算していました。

ゴスロリのコスチュームも、ブランドのモノグラムも記号です。どちらも、その服装は属性を示します。この属性化をどんな持ち物も免れません。ジーンズであれ、ニットであれ、シャツであれ、何らかの属性を意味します。制服やスーツはそれを特化した物だと言えるでしょう。職業や学校名を特定する、これらの衣服による分断、それを支持するしないに関わらず、着ることを強制されます。

衣服というのは個性や自己表現だという主張もありますが、既製服を着ている限り、誰かと同じ服を着ることになります。また、デザイナーの意図を組むことになり、「自分自身の表現」というには無理があるでしょう。衣服は、単なる属性のチョイスにすぎません。カジュアルがいいとか、コンサバがいいとか、そういったおおまかな仕分けに、自らをはめ込むのです。これは社会への順応であり、「普通」と言われるために必要な選択です。

身体論を経由したフェミニズムでは女性の「見られる身体」が言及されます。一昔前は、よくミスコンがやり玉にあげられていました。女性は他者(特に男性)に見られるという価値観に縛られているという批判です。ですが、ここからこぼれおちているのは、「見られたい身体」ではないかと思います。

この「見られたい身体」とは、「劣情を抱かせたい身体」とは違います。<私>が自分の理想とするイメージを表現したものです。それは必ずしも他者が見る<私>とは一致しません。例えば、痩せていたり太っていたり、背が高かったり低かったり、そういった肉体の特徴と、衣服の持つ属性に、ズレができることもある身体です。この身体は絶えず他者の視線にさらされます。その結果「似合っている」として属性との結びつきを強化させたり、「似合っていない」として修正を迫られたりします。または、他者の評価を拒否することで、自分の主張を作り上げたりします。

この「見られたい身体」は男性にも当てはまります。特に近年では、若い男性の間では、「自分がどう見られるか」を意識させるような場面が増え、他者の視線にさらされることが少しずつ増えてきました。それでも、「見たい身体」、つまり自分が見られるのではなく、あくまでも見る主体だと信じている男性はいます。私が顕著だと思うのは、電車でスポーツ新聞を読む男性です。彼らは女性の身体を見ています。その自分が見られていることは、意識にのぼりません。また、のぼったとしても重要ではありません。

ある時期、電車内で化粧直しをする女性への批判がなされました。自分が「見られる主体」であることを放棄しているという批判です。このときに私が持つ違和感は、ジェンダー非対称性から発せられたのは言うまでもありません。

「東京都に抗議する!」の件に関して

すでに終了してしまいましたが、このような署名運動がありました
「東京都に抗議する!」http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB.html

女性学の担い手である上野千鶴子氏を、東京都が「ジェンダフリー」という言葉・概念を使用する可能性があり、不適切だとして、上野氏を国分寺市で開かれる人権講座の講師への起用を中止させた事が発端です。

上野氏はこの件に関して東京都側に公開質問状を送付し、一月末日までに答えるよう要請しています。(多分、答えはないでしょう。)内容は上のリンク先に詳しく書かれています。

さて、この署名運動ですが、上野氏の支持層でも分断があるようです。以下のブログをリンクさせていただきます。

Fem Tum Yum(1月6日) http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20060124

ここのコメント欄では、この抗議活動が「先走り」であるかどうかが言及されています。上野氏自身もよく述べていますが、フェミニズムは一枚岩ではありません。このような行動に全てのフェミニストが賛同すると言うのはありえませんし、上野氏に懐疑的なフェミニストもいます。ですので、このような現象が起きた事自体が非常にフェミニズム的だといえるでしょう。フェミニストには、一人一人に主義主張があるのですから、必ずしもこの運動に参加する必要はないと思います。同時に、このような署名運動が起きる事も自由であると考えます。

私は、このコメント欄でのcyanさんの主張に着目しました。

・署名文と上野氏の間に、明確なスタンスの相違が見られること
抗議文:『ジェンダー・フリー」という観念は(略)という意味に理解される。』
上野氏:『「ジェンダー・フリー」の使用について一致がなく(略)用いない者が多い』
これは上野氏の事件を利用した自分に都合のいい方向への誘導ではないかという懸念を覚えます。

確かに、抗議文はややわかりにくく、上野氏の意図する抗議と全く重なるものではないと、私も同感じます。また、この抗議運動に参加する事で、抗議運動を立ち上げた団体の「ジェンダー・フリー」定義に同意したものとみなされる可能性は否定できません。要するに、『抗議運動をしているのは「ジェンダー・フリー」を採用する「他の人」であり、上野氏自身ではないこと』と『上野氏への賛同』を混同しないかという疑念です。

上野氏は公開質問状の中で

私自身は「ジェンダー・フリー」の用語を採用しないが、他の人が使用することを妨げるものではなく、とりわけ公的機関がこのような用語の統制に介入することには反対である。

と述べています。

私自身の見解ですが、この行動は、上野氏からの発信ではなく、上野氏を講師として採用する事を中止させた東京都への、自律的な抗議活動とみなしたいと思います。抗議文では、上野氏からの要請であることや、上野氏の出した公開質問に触発されたとは書かれていません。このことから、この活動は、参考として上野氏の公開質問状を付記しているが、あくまでも上野氏とは「他の人」の活動であると、<私には>認識できました。ですので、署名に参加しました。

この抗議文はcyanさんの述べるように「上野氏の事件を利用した自分に都合のいい方向への誘導」ともとれる、多少荒削りな部分があったと思われます。ただ、この抗議活動は1月23日から26日という非常に短い期間で行われている事から、持続的な団体行動に参加させる意図が強いとは思われず、「本件は上野氏主導ではなく、周囲の人物による個人的活動である」と明記しなかった不手際があったとしても、それ以上になんらかの行動を起こすきっかけを作った、有意な運動であったと評価します。

また、もし、先走りや上野氏の意に反する形の運動である可能性を踏まえ、上野氏自身からの指摘を待つ形をとり、万が一そのような指摘があるならば、主催者は勿論、署名者にも上野氏への謝罪と、認識の誤りを正すアクションが必要であると考えます。その覚悟の上、署名しましたので、上野氏からの指摘がありましたら、またここで言及したいと考えます。

また、この活動には別の批判もあります。

(元)登校拒否系(1月25日) http://d.hatena.ne.jp/toled/20060125

こちらでは、

はたして西尾幹二さんや林道義さんにも、同じように「自由」を快く認めることができるだろうか? はたまた、『マンガ嫌韓流』の作者や、石原慎太郎さんにも? 渡部昇一さんにも? もっと言えば、人種差別主義者や部落差別者に税金を払って講演を依頼することを容認できるだろうか?

として、この活動が「言論の自由」を根拠に始まっている事を批判しています。ですが、本議論は「人権講座」において、上野氏が「ジェンダー・フリー」の言葉・概念を使うことを理由にした東京都への抗議運動についてです。仮に、西尾氏などが「人権講座」の講師としてふさわしくないと東京都に判断された場合、その正当な理由をやはり東京都は示さなければなりません。この運動はあくまでも「正当な理由」を東京都が示していない、またその理由の根拠に「ジェンダー・フリー」がありその概念解釈に疑問があることが問題ですので、この批判は少しずれていると思います。私は上野氏に自由が与えられるように西尾氏にも自由は与えられるべきだと考えています。また、上野氏や西尾氏に反論される自由もまた保護されなければならないと考えます。

また、今件は権威をめぐる問題であるという主張は、もう少し議論になれば触れたいと思いますが、現段階では私は問題視していません。「人権講座」という非常に啓蒙的なスタイルをとった企画にまつわる問題ですので、アカデミズムからの反発はむしろ自然だと感じます。

また、国分寺市の当事者としての意見もあります。

mut3の日記(1月24日) http://d.hatena.ne.jp/mut3/20060124

私は国分寺市民として、上野千鶴子教授の講演も聴きたかったし、都の推奨する講演も聞きたかった。講座自体が無くなってしまうなんて、どうして?

どうしてもネットという地域性から離れてしまいがちな空間で、このような声は拾えてよかったです。抗議活動とは別の視点ですが、参考になりました。

家族の物語

 私は今、三つの家族の物語を少し離れてみています。一つは息子の物語。もう一つは娘の物語。最後は父親の物語。三人とも成人しています。
 息子は両親から自立したいがために、両親の過剰な愛を振り払おうと家を出ることを決意し、両親と対立します。
 娘は両親に愛されずに育ったと感じていて、特に嫌いな母と自分が似てきたことを嫌悪し苦しみ、自分の「母」性を否定します。
 父親は、それまで家族制度を批判的に捉えていたのに、息子が生まれた事により祝福され、父となる事に違和感を覚えつつ受け入れようとしています。

 これは、どれも私の物語ではありません。家族の物語には他者は入ることが出来ないのでしょうか。私はただ傍観し、彼/彼女らの語る言葉に耳を傾けるだけです。ただ、どの物語も「家族制度」に引っかからずには展開できません。息子は両親を否定します。娘は自分に引き継がれた両親の痕跡を否定します。父親は、生まれた子どもの名前を聞かれ続け、その父の座に決定付けられます。

 過剰な愛、愛の不足、愛の誕生。そのユニットに生まれたからには愛さなければならない/愛されなければならないという繰り返される言説。三つの物語を聞かされるたびに私は家族愛というのはこうも強いものかと驚きます。まるで息子が出ていかないことが当然のように、まるで娘が自分の言うとおりにするのが当然のように、父が息子の名前で頭がいっぱいだと言うのが当然のように、させていることが家族愛の言説なのでしょうか。

 その物語の中心人物が家族愛をどう捉えているのかは私は知りえません。もしかすれば、とても肯定的に捉えているかもしれません。ただ、傍観者としてその物語の繰り広げられているのをみると、それに参加する事に私の足は止まってしまいます。
 例えば、息子に両親の元にとどまれといったり、娘に両親に似る事はむしろよいことだといったり、父親に無邪気に名前を聞いたり、そんなことは私にはできないのです。
 それは私が何か、家族愛に参加できない足かせや生育歴があるのかもしれません。けれど、私はなぜか羨ましくないのです。制度としての家族。少子化を促しているのは私のような、この非家族的な人間が増えているからかもしれません。

 昔、吉本隆明は「共同幻想より対幻想のほうが強い」と言いました。それは後々、上野千鶴子ら一部のフェミニストに言及される事になりますが、今では常識のように浸透しています。恋愛・婚姻に対して、違和感を持つ人間は、一時のウィメンズ・リブやフェミニズムの動きがあったころより、むしろ減っているのかもしれません。
 では、その運動を通過した息子や娘や父親はどのように物語を綴ればいいのでしょう。もはや「家族とは〜」という常識がハリボテだった事を知った人間はどうやって家族を維持すればよいのでしょう。
 吉本隆明の娘、吉本ばななは、子を孕み、エッセイを出版しました。その中に父の隆明は登場しません。もしかすると、吉本家は公開されないだけで、隆明→ばなな→その子は強く結ばれているのかもしれません。でも、それは既に宣言されたり、表立って推奨されるものではなくなっています。

 子はかすがいと言います。では、かすがいが、自立した人間になって成長すればどうなるのか。「私はあなたたちを結ぶ道具ではない」と子どもが言った時、その親はどうなるのか。そしてその子どもがさらに親になるとどうなるのか。少子化が問題だとすれば、そのことを論じなければ、要するに対幻想以降の、家族に対する思想体系が生まれていないことを問題にしなければならないと思うのです。

「アクメツ」

チャンピオンで連載している「アクメツ」という漫画が迷走しているようにみえます。ここ1年ほどしか読んでいないが、行き詰まりが見えて悲しいです。フェブリノゲン(血液製剤)を題材にすると、「ゴーマニズム宣言」と同じ展開にどうしてもなってしまうのでしょうか。やたら国粋チックで見ていて痛々しくなってきます。設定では、友人がフェブリノゲンから肝炎に感染し、亡くなったことをキッカケに、国を変えようと考える主人公が描かれています。

そういえば、友人にフェブリノゲンでC型肝炎に感染した人がいますが、実際的に彼はかわいそうな弱者ではありませんでした。むしろイヤなヤツでした。でも大変面白みのある人物で、イヤなのに縁が切れないという不思議な関係に私はおかれています。勿論、そのような血液製剤を放置した機関は処罰されるべきです。けれど、それが日本を変えるという文脈に置き換えるのは少し違う気がするのです。友人がC型肝炎に感染した事は非常に遺憾ですが、それは日本と言う国が腐っているからだ、と友人としては思えませんでした。あまり親密ではないからかもしれませんが。

小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」の「脱正義論」でもHIVに感染した青年がイヤなヤツだった、というような記述があったような気がしますが、それは過剰に「被害者=いいヤツ」という図式が頭に入っていただけのような気がします。別に弱者だろうがイヤなヤツはイヤなヤツだし、かといって、イヤなヤツだから支援が必要ないというわけでもないと思います。

私情から始まる公憤が重要だと言う人もいますが、公憤から始まる私情もあります。それを偽善や同情として切り捨てる人もいますが、案外そういった、みせかけの優しさが福祉では一番重要だったりもします。それがこの沈黙の一年間に経験した様々な出来事で私が学んだことでした。

お久しぶりです

ばたばたとしている間にパスワードを紛失し、暇に任せて、自分が入れそうなワードを入れていくとやっとログインできました。かといって何か、書くネタがあるわけでもなく、テスト代わりに書き込みます。随分はてなも書き込みのスタイルが変わったようですし。

私自身、この2年で4回の転居を経験する事になりました。明日、また家探しに行かねばなりません。新しい場所で暮らすため、色々な人にご意見を伺いましたが、みなさん住居観がそれぞれ違っていて興味深かったです。私は安くて静かで程よい田舎を希望しているのですが、そうするとそこそこの不便は覚悟しなくてはなりません。難しいものです。

さて、これからですが、もう少しセクシュアリティについて書ければいいな、と思います。特にヤオイについて。書いたからには放置できませんし、そのうち書くでしょう。ですが、あくまでも趣味ですので、時間が割けるときに少しずつ更新できればと思います。

例えば、エロ本をコンビニに置く事を規制するのは、フェミニストと言うファシストの陰謀だという説がありますが、デカデカと成人向けと書いて鬼畜系ヤオイ本が置いてあることに男性は耐えられるでしょうか。少なくとも私はイヤですが。女性を蹂躙するポルノグラフティに対応しているのが、ヤオイだと私は思っています。その点では、これまでフェミニストヤオイに親密的すぎたと思います。同じようにヤオイも規制にかけるべきです。それが私の性欲に関わってくるのかが問題ではなく。

殴られて笑うのはそれが痛いとわからないから

 gaikichiさんとやり取りをしました。きっかけは、gaikichiさんの、「戦争教育という残酷見世物」という記事です。

http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20041027

要約すれば、戦争というのは人間の残酷性がもっとも鮮明に現れるので、その人間の残酷性を、子供のうちから教え込むために、戦争教育を残酷見世物として扱うという議論です。私が、その中で、反応したのは、次の部分です。

こんだけ世が戦後民主主義的やさしさで飽和し、すぐACだDVだ傷ついた傷つけられたと言うような無痛社会(この辺、ずばり今出てる『サイゾー』のM2対談でも触れられてたが、宮台真司宮崎哲弥両人、最近すっかり「(人間が成長するためには)やっぱり社会には抑圧も必要」って論者になったなあ)となってはなおのこと、わたしは、公教育で「世界の残酷さ」「人間の残虐性」を、しょせん子供心には安手のホラーとしてしか受け取られなくても、一度はちょっとくらい刷り込んでおくのは無意義ではないと思っている。

このなかの、「無痛社会」に反応し、次のようにコメントしました。

「無痛社会だ」という点に関しては、「ACやDVだ」と実際に傷つけた/傷つけられた人がいることを、「ACやDVだ言っている人が居る」と他者の物語化することこそが、「無痛社会」なんではないでしょうか?
残酷教育なるものも、教育される側には、人間の残虐さを学ぶという有痛の行為であっても、教育させる側には「これは所詮安手のホラーなんだ」という無痛の行為になります。その結果、教育する側には戦争を語ることが無痛化されることになるんではないかな、と感じました。
同じように、「ACやDVの人がいる」ことは戦後民主主義のやさしさのなかで生み出される言説なんだ、とすることは、目の前で起きているかもしれない暴力をまさに無痛化して、語ろうとしている欲望を感じます。

それに対するgaikichiさんのコメントが以下のものです。

ここでは無痛社会という言葉の意味が「他者の痛みに鈍感になってる社会」という意味に取れるようですが、社会全般がどうかはともかく、なるほど、わたし個人に関する限り、たぶん世の平均値よりガサツな人間なので、うっかり単直に、少々の苦痛ぐらいも我慢しろよ、とか、自分が我慢できるんだから他の人間も我慢できるはずだ、とかいう考え方をしがちな人間なのは、ひとつ率直に認めておきます。
まず大前提として、そりゃわたしも、本当に不当に虐待されている子供や女性の人権は守られるべきだとは考えています。ただ、『AERA』の記事とかで毎度やれACだDVだとかそんな話ばっか書いてるのには、「オイ今や他に大状況的な問題はもうないのか?」とさすがにうんざりしているわけで。
なぜかというと、ひとつには、児童虐待とか家庭内暴力なんて昔からあった、何を今さら、とか思うからです。
ただ、かつては、そんなのも一面で日常の風景として受容して受け流せるような世間のクッションとか逃げ場(例えば、両親が乱暴でもおじいちゃんおばあちゃんが助けてくれるとか、隣近所の地域社会とか)があったが、都市化と核家族化でそれが失われて、人間が個々バラバラになって、結局、個々の「傷ついた」「傷つけられた」ばかりが浮上してきた、ということではないかと、で、それがなんか気持悪い、という次第。

これに対し、コメントをしようとしたのですが、長くなりそうだったので、こちらで記事にしました。
 さて、私が気になったのは、gaikichiさんのコメントの後半部分です。

かつては、そんなのも一面で日常の風景として受容して受け流せるような世間のクッションとか逃げ場(例えば、両親が乱暴でもおじいちゃんおばあちゃんが助けてくれるとか、隣近所の地域社会とか)があったが、都市化と核家族化でそれが失われて、人間が個々バラバラになって、結局、個々の「傷ついた」「傷つけられた」ばかりが浮上してきた、ということではないか

このような論点は、gaikichiさんだけが提示するものではなく、通俗的によく言われている部分です。が、しかし、このような暴力を受け止めるような、(地域)共同体とは、本当にあったのでしょうか。少なくとも、私はそのようなケーススタディを知りません。私が、以前テレビで見た番組に、おばあさんが出演していました。(残念ながら、番組名や、見た日時は覚えていません。)
 彼女は、夫が酒乱でギャンブル狂でした。彼女は、離婚し、役所に生活保護を求めましたが、当時は公的機関での保護は得られませんでした。そこで、地を這うような貧乏な生活をしていました。でも、彼女は、それを当然だと言い切っていました。「だって、自分の勝手で結婚して、その相手が勝手に借金したものを、役所が面倒みてくれるわけもないですよね」というようなことを言っていました。潔い、強い、傍から見ていれば敬服するしかない言い分です。
 今なら、彼女は離婚し、生活保護を受け、支援機関の援助が得られるでしょう。もしかするとDVで相手の男を訴え、慰謝料を請求できるかもしれません。私は、彼女の生き方より、後者を希望します。もしかすると、彼女のほうが立派な生き方かもしれない。でも、少なくとも私は、もし彼女の境遇におかれても、彼女のような考え方はできないと思うのです。多分、私は、私の勝手で結婚して、相手が勝手に借金しても、そこから助け出すための補助を公的機関に求めると思います。
 それは、彼女の状況に陥るのは、痛みを感じることだ、と判断する余裕があるからです。もし、彼女自身が、その状況で「痛い」と感じていれば生きていけなかったでしょう。「これは痛くないんだ」と信じ続けて、彼女は生き延びました。そのことを私は賞賛するし、敬服します。でも、今の状況にいる私はそれを「痛い」ことだと認識してしまうのです。
 それは、私がその状況におかれたときに、痛みを受け止めるクッションのような(地域)共同体がないと思っているからでしょうか。私はそうは考えません。私は「痛い」という認識は、社会的に受け容れられるプロセスがなければ、持つことが難しい認識だと考えています。「それは痛いことなんだよ」と周りが言って、初めて「これは痛いんだ」と認識できる、そのような痛みのプロセスがあるということです。

 私は、gaikichiさんの「児童虐待とか家庭内暴力なんて昔からあった、何を今さら、とか思う」という点には賛同します。私も、児童虐待家庭内暴力も、今になって出てきた問題ではないと、考えています。では、なぜ、今こんなに問題化されているのか。その理由に、私は(地域)「共同体」の不在ではなく、やっと児童虐待家庭内暴力の「痛み」の認識されたことだと考えているのです。
 その「痛み」を認識することがいいのか、悪いのか、それは、加害の場に立つのか、被害の場に立つのかによって変わると思います。「痛みを与えている」のか「痛みを与えられているのか」という違いはです。一見、「痛みを与えられている」側が過剰に「痛み」を認識しようとするかのように思われますが、おそらく実際は、「痛みを与えられている」側は認識を避けるでしょう。なぜなら、「痛い」ことを知っているならば、その状況を変革しなければならないからです。私たちは「痛い」ことを知る前は、「痛み」を無視できますが、「痛い」と知ってしまったら、「痛み」を無視するように我慢することはできても、知る前と同じではいられないのです。逆に、「痛みを与える」側が積極的に「痛み」を認識しようとするかもしれません。その「痛み」を与えられる側が「痛い」と感じないように策略をめぐらすためです。「痛みを与える」側が「それは痛くないのだ」と主張する、そういう風景は日常的なものです。

 島田伸介の事件についての記事を読みました。

http://shibuya.txt-nifty.com/blog/2004/11/post.html

彼女は島田の起こした事件は、男性から女性への暴力であり、その根源には女性への性差別があるのだと述べます。そして、彼女は、それは「お笑い界」が特別に男女差別が激しいわけではないといいます。

「お笑い界は感覚がマヒしている」という言葉は正しくない。「オトコ界は感覚がマヒしている」と言うべきなのだ。「お笑いの世界は……」という時、人は自分の世界のことを棚にあげている。「まったく芸人はしょうがないね」なんて言ってりゃ、自分のしょうがなさに目をむけなくて済む。

 
ここでは、ジェンダーの非対称性については言及しません。だから、ここで、私が読みたいのは、「自分のしょうがなさ」に目をむけなくて済むという部分です。問題は、「本当に不当に虐待されている子供や女性の人権」(gaikichi)ではなくて、本当に不当に虐待されている子供や女性などどこにもおらず、今、ここで起きている(かもしれない)虐待に自分が関与している(かもしれない)可能性の部分です。
 なぜ「『AERA』の記事とかで毎度やれACだDVだとかそんな話ばっか書いてるのには、「オイ今や他に大状況的な問題はもうないのか?」とさすがにうんざりしている」(gaikichi)のか。それは、gaikichiさんが、自分はDVにもACにも関わりはないと信じられるその素朴ともとれる立場に身をおいているからではないのか、と私は思うのです。「本当に不当」かどうかはわからないけれど、今、暴力の行使者、または受容者になっているのではないか、という疑念を持つ必要はない、というその判断こそが、「無痛化」ではないか、と私は考えているのです。

 私が指す「無痛化」とは、問題と自分を切り離す行為、つまり自分の暴力性と暴力を切り離す行為のことを指しているのです。自分が「痛みを与える」側に与していても、あれは「痛み」ではないというのが、「無痛化」です。そして、それに乗じて、「痛みを与えられている」側も、これは「痛み」ではないというのが「無痛化」です。これは何の構造かというと、DVの構造です。DVとは、「痛みを与える側」が「痛みを与えられる」側のために(「お前のために」)殴ります。快感の伴わない(正確に言えば、快感が認識されない)SMプレイです。
 では、「無痛化」のきわみであるDVに痛みを与える方法とは何か。それは、DVカップルを切り離し、殴る・殴られるという連鎖をやめさせることです。第三者によって、(もしくは自らの手によって、)DVカップルが解体されることです。DVが解体されたとき、殴ること・殴られることが「痛い」と認識され、「痛み」が認識されるのです。そのとき、DVの連鎖は終わります。だからDVを問題化することへの欲望が、「無痛化」への欲望ではなく、DVを問題化することを避けようとする(DV放置する)ことへの欲望が、「無痛化」への欲望だといいたいのです。
 戦争についても、同じことを私は考えています。戦争とは語りえない暴力です。それをどう語るのか、というのには大きな問題があります。しかし、それを安手のホラーの残酷物語として見せようとする欲望、それは戦争を「無痛化」することへの欲望ではないでしょうか。問題は、ホラーとして受け止める子供ではありません。戦争を自分と切り離す、つまり、自分の暴力性と切り離そうとする欲望こそが、「無痛化」への欲望であり、私はそれを危惧しているのです。