観ると元気になる映画。

 

 先日、久しぶりに手持ちのDVDで映画「プラダを着た悪魔」"The Devil Wears Prada"を観た。

 

 以前の日記にも書いたが、ただでさえ画面に目を凝らすと目がゴリゴリに疲れてばっかりだったのに、今年1月に緊急で受けた網膜剥離手術の影響で右目の視界が歪んでしまっている(2024年2月13日の日記参照)。それが気になって、特に自宅のテレビ画面で映画を観るのを躊躇ってしまう日々なのだが、映画を観たい気持ちは消えることがなくむしろ強まるばかり。

 先日、時間が空いて珍しく目の調子が良いタイミングがあったので、何度も観てお馴染み、かつ直線の少なそうな(笑)この映画なら大丈夫かもと思い切って観てみた。幸いにも目がゴリゴリすることもなく、やっと家のテレビで映画を観られた〜という喜びに包まれている。徐々に目の状態が良くなってきているのだといいが。これでようやく家のテレビで手持ちのDVDやブルーレイを再生して、大好きな映画を観ることができるかな。そう思えるだけでものすごくわくわくする。目が疲れにくいように、と一昨年末に大きい画面のテレビにせっかく買い替えたのに、なかなかその大画面を愉しむ機会がなかったのですよ。

 

 

 それもしても「プラダを着た悪魔」。めっちゃ大好きな映画です。もう何回このDVDで繰り返し観たことか。以前勤め仕事をしていた頃はよく日曜日の夜にこれを観て、その度に明日から頑張れる活力をもらって前向きな気持ちになったものだった。とにかくこの映画は、私がすごく重視する「後味の良さ」がピカイチ。今回もものすごく久々に観て、改めてそれを実感した。翌日に何もすることがなくても、すごく元気にポジティヴに、「明日からなんでもできる」ような気分にさせてくれる。何度この映画に「元気をもらった」ことか。あの、私が30代〜40代半ばだった頃はもちろん、今でも「観ると元気になる映画」を教えてほしい、と訊かれたら、私は迷わずこの「プラダを着た悪魔」と「ツイスター」"Twister"を筆頭に挙げるだろう。

 映画の公開は2006年。私たち夫婦が初めて下高井戸シネマで観たのが2007年3月なので(2007年3月31日の日記参照)、それから数えてももう17年前!も経ったのか。びっくり。というより、この映画が18年前のものになってしまったことの方が驚きだ。どうりで私もその間に二つ三つ歳をとったわけだ。公開当時24歳だったアンドレア(アンディ)役のアン・ハサウェイさんAnne Hathawayも、現在41歳。

 確かに(まだスマホが影も形もない頃なので)この映画の出演者たちは皆ガラケーを使っているし、画面に映し出されるいろいろなものがゼロ年代のニューヨークの風物であるのは間違いない。きっと現在とは大きく異なるだろう。何よりこの映画で華やかに描かれているジャーナリズムや出版産業が、今では大きく変貌してしまっている。それでも、この映画は私には全く古さを感じさせない。定番の場面は何度でも楽しめる一方で、観るたびに新しい気づきを得る。

 冒頭の、メリル・ストリープさんMeryl Streep演じる鬼編集長ミランダの登場シーンは、何度観ても感心する定番シーンのひとつ。なかなか本人の顔を映さず、部分的なカットとコミカルなほどに慌てふためく人々のカットを素早く積み上げて、じわじわと「タメ」と「焦らし」の効果を高めてゆき、ミランダの「大物感」を演出する。セオドア・シャピロ氏Theodore Shapiroの疾走感溢れる劇伴音楽がその効果をさらに盛り上げて素晴らしい。映画で重要人物が登場する場面の「教科書」にしたいほどの名場面だ。

 


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 一方で、中盤の編集会議のシーンで、ミランダはスタッフのプランをことごとく退けるが、スタンリー・トゥッチさんStanley Tucci演じるナイジェルのプランだけは「パーフェクト!」と称賛する。これは別にミランダがナイジェルをえこひいきしているのではなくて、他の人のプランが漠然とふわふわした言い方ばかりで曖昧なイメージしか感じないものであるのに対して、ナイジェルの提案は具体的でイメージが明確なのだと、今回初めて気づいた。プランに関わる固有名詞(撮影する服のデザイナー「ザック・ポーセン」やロケーション予定地の「ノグチ・ガーデン」など)を挙げることで、その名前が喚起するイメージをミランダをはじめ全員と共有し、彼が実行しようとしているプロジェクトの具体的なイメージが伝わるのだ。仕事の進め方のヒントにもなる場面だ。

 

 

 また、今回初めての気づきではないが、後半の、アンディがボーイフレンドのネイトから別れを告げられる場面では、ネイトはアンディの仕事そのものではなく、彼女が「自分が変わったこと」に気づいていないことに怒っているのを改めて確認した。彼は、アンディ自身が自分の進むべき道を選択しているのに、それを「仕方ない」と人のせいにしていることを批判しているのだ。実は、アンディは同じことを終盤にミランダからも言われている。そのつながりには今回初めて気づいた。アンディはミランダの鏡像になりかかっていたのだ。あの場面で既にネイトからそのことを言われていたのに、ミランダ自身からの言葉でようやく気づいたアンディ。彼女はミランダとは違う道を歩む決意をする。なるほど〜でした。

 手持ちのDVDでは、この場面でのネイトの台詞に「俺は朝から晩までワインを煮詰める仕事をしてる」と字幕が出てくる。最初に観た時は「はて? ネイトは飲食店に勤める料理人では?」と不思議に思った。それからずいぶん経って、数年前にスクリーンプレイ・シリーズ『プラダを着た悪魔 再改訂版』を読んでここの疑問が解消。同書から引用すると、この場面でのネイトの正確な台詞は以下の通り。

Andy, I make port-wine reduction all day. I'm not exactly in the Peace Corps. 

(対訳)アンディ、オレだって一日中ポートワインを煮詰めてるんだ。平和部隊にいるわけじゃない。

(154〜155ページ)

 同書の、この台詞の解説には、以下のように書かれている。

「ポートワインを煮詰めているのであって平和部隊で働いているわけではない」とは、飢えている人のために料理を作るというような崇高な目的のために働いているのではなく、ポートワインのソースを使うような、高価なグルメ料理作りを仕事にしているのだということ。だから、アンディの仕事そのものを見下しているのではないのだと説明している。

(同書155ページ)

 つまり、このポートワイン云々は高級な料理作りの比喩だったのである。字幕は後半の「平和部隊」をまるまる省略してしまったので、元のセリフの主要なニュアンスが全く出ていないのだ。もちろん字幕には字数の制限があるので逐語翻訳などできず「意訳」が主になるのは重々承知だが、ここはポートワインの部分だけを直訳するのは台詞全体の意味としては的外れになってしまう。むしろ元の台詞の言葉から離れて「崇高な仕事をしてるわけじゃない」の主旨を強調した字幕にすべきだった、ということがよく分かる。この本のおかげである。

 

 

 スクリーンプレイ・シリーズの他の映画の本は読んだことがないので分からないが、この『プラダを着た悪魔 再改訂版』は超オススメだ。上述のように映画から直接書き起こした台詞やその正確な対訳が完璧に収録されており、その全てに英語表現やイディオム、言い回しなどの詳細な解説が付随していて、映画を通じて「生きた」英語を学ぶのにとても役立つ一冊。というより「役立つ」以前にとにかく読んでいて面白いのだ。何しろこの解説がものすごく豊富。先述の英語関係の説明にとどまらず、台詞の中に山のように出てくる実在のファッションデザイナーやフォトグラファー、店名や固有名詞の説明、さらにはカメオ出演しているモデルや有名人やこの映画にまつわる小ネタや豆知識まで、多岐に渡って徹底的に扱っている。これを読めばとことん「プラダを着た悪魔」を理解できるのは間違いない。ネット検索で内容の薄いこたつ記事を何本も渡り歩いて大した知識も得られず時間を無駄にするくらいなら、この一冊を読むほうが百倍お得だ。最近の言葉でいえば、圧倒的に「タイパ」がいい(笑)。

 

(写真は2024年4月14日に、東京・上野公園にて撮影)

 

引き返せない一線

 

 人が生きてゆくということは、実にたくさんの「引き返せない一線」を越えてゆくことなのだなあ、と最近とみに実感している。

 私の右目の網膜剥離の緊急手術から2か月半が経過した(2024年2月13日の日記参照)。幸いにして術後の経過は順調だが、右目の視界はまだかなり歪んでいる。しかしこの頃は、それを日々の暮らしの中で意識する頻度が少なくなった気もする。歪んで見えることに身体が慣れてしまったのかもしれない。あるいは時間の経過とともに多少は直ってきたのかもしれない。それでも、直線を見ちゃうとヤバい。家の中だと、テレビ画面とか相当ヤバい。左目だけで見るとシャキッと四角いのに、右目だけだと縁のラインがふにゃふにゃ波打って、画面が生乾きの布巾のような形に見える。外だと電柱とかビルとか、面白いくらいに直線がフニャらけて見える(笑)。この歪みは半年ぐらいかけて徐々に解消してゆくらしいのだが、先述の通り私の網膜剥離が中心の黄斑部まで及んでいたので、歪みが一生残る可能性もあるという。現状ではまだ不明だが、引き返せない一線を越えてしまったのかもしれない。

 引き返せない一線といえば、網膜剥離の手術と同時にいわゆる白内障手術、つまり瞳の水晶体を取り替える手術も受けている。これは、網膜剥離の手術をするとほぼ確実に白内障を悪化させて手術が必要になるので、二度手間にならないよう一度に両方を済ませてしまおうということだったらしい。網膜剥離の手術では、よくあることのようだ。

 そんなわけで私の右目の水晶体は、白内障の手術で人工のものに取り替えられてしまった。まあ白内障にかかる割合は50代でも半数近く、80代でほぼ100%だそうなので、実に多くの人が白内障の手術を受けて人工の水晶体を持つことになる。そう珍しいことではないらしい。むしろ生来のものより「良い」目が得られるいい機会と捉える人も多いとか。目で散々苦労してきた私なので、その気持ちは痛いほど分かる。とはいえ、それは残りの人生を生き抜くのに必要なある種の「代替品」であるのは間違いない。自分もそういう身になったのだなあ、という感慨はどうしても感じてしまう。知らず「引き返せない一線」を越えていたことに気づくのだ。

 右目の度数が変わってしまったこともあり、私の眼鏡のレンズも新しく作り変えねばならなかった。だが、ひとつ問題が。網膜剥離を扱う手術では人工の水晶体は単焦点のものしか使えないので、元々の水晶体のように厚みを変えて近くにも遠くにもピントを合わせることができる、なんていう器用な芸当ができない。ピントの合う距離が限られてしまうのだ。だからどんなに目を凝らしても、手元の文字とかがはっきり見えない。そこで遠近両用レンズの登場である。これまで強度の近視と乱視と斜視を抱えながらなんとか使わずにやってきた遠近両用レンズの眼鏡を、生まれて初めてかけることになった。当然ながらものの見え方が、今までの単焦点のレンズとかなり異なる。周囲をぐるりと見回すと、世界全体がゆらゆらと揺らぐ。かけ始めてひと月近くたつが、まだなかなか慣れない。もう少しかかりそうだ。

 というわけで私の目にまつわる日々の苦労はかなりしんどいものがあるが、それでも慣れもあって多少は落ち着いてきたかな、と感じ始めた2月の下旬。追い討ちをかけるように、すごく身近に大変な事態が起こってしまった。それ以来もうバタバタ。日常の生活を回すだけで精一杯の日々が続いている。さすが故・寂聴尼が「凶の月」と呼んだ2月である(2020年2月13日の日記参照)。難題ひとつでは足りないと思ったのか、ご丁寧なことにもうひとつ背負わせてくれたらしい。やれやれ。

 そこからもさらにひと月が経ったので、多少はバタバタのルーティーンにも慣れてきたのか、ようやくこの日記を更新できるくらいにはなった。とはいえ、この一本を書くのに1週間近くかかっていますが(汗)。

 

 

 バタバタの日々の連続では、なかなか世の中の動きに気を廻す余裕が持てない。だが、ふと立ち止まって外の世界に目を向けると、今年に入ってから日本でも世界でも騒然とした状態が続いているのに呆然としてしまう。元日の能登半島の大地震による惨禍はいうまでもない。それを含め、今年に入ってから全国各地で地震が続いていることを重く見る人がいる。それもさることながら、私はむしろ2月の異常な気温の高さと2月〜3月に頻発した強風のことを特筆しておきたい。2月なのに東京の最高気温が20度を超えるとか、一体地球はどうなっているの? 頻発する強風にしても、この季節特有の自然現象なのは承知だが、今年はその規模を台風並みの桁外れの激しさに押し上げたのは、2月の異常な気温の高さが寄与しているのは確かだろう。いよいよ「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来したのです」と国連事務総長グテーレス氏が語った通りになったのか。人類全体が、知らないうちに「引き返せない一線」を越えているのではないか(2019年12月31日の日記および2023年8月5日の日記参照)。

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 歪んだ視界とバタバタの日々のせいで、この日記はおろか、それまで頻繁に投稿したり閲覧していたインスタグラムのアプリもひと月以上まったく開いていない。最近とんとご無沙汰していたツイッター(あ、今は「X」というのか)は完全放置だ。読書もなかなか進まない。浴びるように本を読みたいのに。そして、視界の歪みと目の疲れが気になって、大好きな映画を観る気になれないのがとても残念。「デューン 砂の惑星 PART2」と「オッペンハイマー」をすごく観たいんだけどなあ。

 せめて画面が小さめで歪みが気になりにくいテレビドラマなら、と合間をみて少しずつ録画したテレビドラマを観ている。とはいっても生来ほとんどドラマを観ないので、ほんの少しだけ。昨年の終わりに録画しておいた連続ドラマ「いちばんすきな花」全11話を観終わってから、今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」を観ている。

 昨年9月から12月にかけて放送した「いちばんすきな花」は、社会現象になった「silent」(サイレント)が思いがけず秀逸な内容だった(2022年11月14日の日記参照)ので、その脚本の生方美久氏とプロデュースの村瀬健氏によるドラマというのでけっこう期待して、珍しく初回から全て録画しておいたもの。前作以上のクオリティの高さ、深い人間洞察が期待通りで嬉しかった。

 

 そして「光る君へ」が今のところめっちゃ面白い。平安中期という大河ドラマ史上初めての時代を背景に、スレ違いまくりでもどかしさ満点の王道ラブストーリーと「ゴッドファーザー」の如き宮廷権力闘争劇とのハイブリッドフィクション。それをいい意味で庶民が楽しめるテレビドラマのフォーマットに落とし込みつつ、画面にぎっしりと詰め込まれた情報量の多さがいくらでも深堀りできる。平安カルチャーが忠実に再現されているのも素晴らしい。ドラマやこの時代にまつわる本を読みつつ1、2週遅れくらいで楽しく観ています。

 自分の周りも世の中も大変なことばかり続いている2024年だけれども、せめて「をかしきものこそ、めでたけれ」。今年の生きがいのひとつは間違いなく「光る君へ」だな。序盤のこの面白さが、ぜひ通年で続いてほしいなあ、と。

 

 それにしても、大河ドラマこそは、毎年繰り返される「引き返せない一線を越えてゆく」人々の物語であることよ。

 

(写真は2024年3月27日〜30日に、都内各所にて撮影)

 

網膜剥離と七回忌

 

 近況報告、もしくは生存報告といいますか。

 昨年後半もいろいろ不調があったのですが。

 年が明けてまもないうちに、それらを吹っ飛ばしてしまう大変な事態が。

 私の右目に深刻な網膜剥離が見つかりました。

 直ちに緊急入院、緊急手術。

 そのおかげで、危ういところで右目の失明を免れました。

 56歳にして初めての入院に、初めての手術(しかも局部麻酔の)。初点滴に初車椅子。

 すごい体験だった。一度死んで生まれ変わったような心地がしました(大げさ)。機会を改めてこのことを書ければなあと思います。

 本日でちょうど術後一か月が経ちました。手術の際に右目の眼窩内に充填したガスは3週目でほぼ抜けて、右目の視界はようやく開けたところ。ただまだまだ全てが歪んで見えてしまい、視力も安定していないので右目は使い物にならず。ほぼ片目生活がまだ続いております。

 といっても右目をつぶり続けるわけにもいかないので、結局両目で見てしまう。それゆえに何もかもが変な見え方で、違和感抱えまくりの日々。特に、物を取り上げたり作業をしたりするときに、うまく距離感がつかめずに困ることが多い。この文章も病前はなかったキーの打ち間違いを量産しつつ書いております。いやあ、いかに二つの目が揃って見ることが、我々が物を立体的に捉えるのに大きな役割を果たしていることか。ひしひしと実感しております。

 手術自体は上手くいって術後の経過も順調なのですが、網膜剥離が右目の真ん中付近のヤバい範囲にまで及んでいたので、視界の歪みは一生残るかもしれないそうです。半年くらい経過を見ないと分からないそうですが。

 

 

 そして、今日は私の亡き父の命日。あれから6年経ちました。「七回忌」です。

 先日気づいたのですが、今年は6年前のあの年と同じ曜日の並び。曜日もひと回りしました。

 私の父が亡くなったのは胆管がんだったのですが、胆管を含む胆道のがんは非常に見つかりにくく、すい臓がんに次いで亡くなる方の割合が高いがんだそうです。

 寡聞にして昨日の新聞の広告で初めて知ったのですが、2月は「胆道がん啓発月間」だそうです。

oncolo.jp

www.az-oncology.jp

medg.jp

 

 「世界胆管がんデー」が父の命日の前日という奇遇も、何かのご縁でしょうか。この難治性がんのことに、もっと多くの人々が関心を寄せてくれればと願います。

 手遅れの涙を流す人が、ひとりでも少なくなればと。

(冒頭の写真は2024年1月5日撮影)

大根おろしは「ぶんぶんチョッパー」で作る

 

 以前の日記に、今年の夏は突然大のみょうが好きになったと書いた(2023年8月9日の日記参照)。

 今年の夏の酷暑をどうにか乗り切ることができたのも、ひとえにみょうがのおかげです。みょうがLOVE。

 そのときの日記にも書いたが、今年の夏に我が家でみょうがが活躍した料理は、肉や厚揚げなど、様々な焼きものの上にのせる「香味おろし」だ。

 この香味おろし、みょうがと紫蘇はもちろん欠かせないが、それ以上に主役を張っているのは勿論大根である。

 一般的にいって大根は冬の野菜。夏は店頭で値段が張ることもあって、あまり出番がないイメージだ。だが、今年の夏は大根がけっこう安かった。かなり大ぶりの大根まるまる一本が98円、なんていう冬でもあまり見かけない安値で売っていることもあった(もちろん買いました)。今年の夏の猛烈な暑さで野菜がよく育った、いや育ちすぎたのだろうか。そうであれば、この酷暑もひとつくらいはいいことがあったということになるか。ただ、安かったのは7月〜8月までで、今はとても高い。野菜全般がすごく高い。さっさと終わってほしい酷暑のほうはしつこく続いているというのに、だ。やれやれ。

 話がやや逸れたが、そんな安さのおかげもあって、今年はみょうがとともに、大根もまた我が家の夏の食卓の主役であった。香味おろしに使うので、当然ながら大根おろしにしていただくことになる。

 この大根おろしだが、今年の夏の我が家では、もっぱら「ぶんぶんチョッパー」を使って作っている。これがとても便利、簡単かつあっという間に出来上がるのだ。

 

 

 ご存知の方も多いと思うが、「ぶんぶんチョッパー」は手軽かつ簡単にみじん切りを作ることができる優れものアイテム。私がここ数年来頻繁にスパイスカレーを作っていることは以前の日記に書いたが(2021年8月28日の日記など参照)、そもそも私がスパイスカレーを作り始めることができたのも、この「ぶんぶんチョッパー」の存在があったからだ。カレー作りに不可欠な玉葱・ニンニク・生姜を放り込んでレバーを20回ほど引っ張ると、あっという間にみじん切りを作ってくれる。それも包丁ではよほどの熟練者でないと作れないような、かなり細かいみじん切りを。ハンバーグなどに使う粗めのみじん切りなら、5、6回もレバーを引っ張れば十分だ。

 元々は私がスパイスカレーを作り始めるに際して購入したのだが、あまりの簡便さに私の妻もみじん切りにこれを使うようになって、夫婦ともども愛用している。以来我が家のみじん切りは、ごく少量の場合を除きほぼ全て「ぶんぶんチョッパー」一本鎗だ。

 そこから、もしかしたら大根おろしも「ぶんぶんチョッパー」で作れるのでは、と気づくまでにはさほど時間がかからなかった。そして実際に大根を投入して試したら、なんとも簡単に大根おろしが出来上がったのである。レバーを30回も引っ張れば、十分におろし状態。40回くらいでほぼ完璧な大根おろし。おろし金を使うより早い気がする。実のところ、我が家にはおろし金がないので、実際に比べたわけでないのだが。そしておろし金を使う際のあのお決まりの不都合=おろし切れず最後に小さく残った大根、を無駄にすることがない。最後まできっちり使い切れる。指先をおろし金で擦って傷をこしらえることも、勿論ない。

 「ぶんぶんチョッパー」で作った大根おろしを実際に食べてみると、ごく小さな粒々感が舌先に残る。これが気になる人はいるかもしれないが、私たち夫婦は全然構わないし、むしろこの粒々の食感が心地よい。粒々が残ることで、水分を出し切らずある程度閉じ込めた大根おろしになるわけで、きちんとキープされた大根の水分を摂れる。大根おろし全体の瑞々しさがより保たれるので、この方が好みなくらいだ。好みは個人差なので、どうしてもふわふわの大根おろしでないと我慢ならない人には、あまり向かない作り方ではあるが(笑)。

 何はともあれ、今年の夏は「ぶんぶんチョッパー」で作った大根おろしが、幾度となく我が家の食卓を彩ったのであった。勿論、大根おろしの活躍はむしろ秋冬こそが本番。これからの季節もまた、楽しい食卓が続く。

 

(写真は2023年7月27日と28日に自宅にて撮影)

 

にんにくと生姜は最高のコンビ

 

 この日の夕食の主菜に私の妻が作った料理は、豚肉とゴーヤの味噌炒め(上の写真)。

 元は高山なおみさんの『野菜だより』掲載のレシピだ。

 


 南西諸島などで多く栽培されている苦瓜ことゴーヤは、もちろん夏に多く出回る野菜だが、我が家でもお馴染みのゴーヤチャンプルー以外ではなかなかお目にかからない気がする。それ以外でゴーヤを使った料理を、と妻が上記の本で目をつけたのがこの料理。以来、我が家の夏の定番料理のひとつになっている。

 私が思うに、この料理の美味しさのキモは、なんといっても味付けの段階で味噌と混ぜ合わせる二つの香味野菜、おろしにんにくとおろし生姜の組み合わせだ。にんにくの甘みのこもった味と深みのある香りに、生姜のピリッと爽やかな辛みと風味が合わさると、本当にえもいわれぬ奥行きの深い味わいと香りが醸し出される。

 実に、にんにくと生姜というのは、料理においてこれ以上ないくらい息の合ったコンビネーションだと、つくづく思う。私がここ数年よく作るスパイスカレーでも(2021年8月28日の日記参照)、基本の炒めの過程で玉葱ににんにくと生姜が加わることで、あのカレーらしい味わいの基礎作りの役目を果たしている。だからどのスパイスを使うかと問う以前に、そもそもこの二つの香味野菜を絶対に欠かすことはできない。麻婆豆腐にしてもそうだ。にんにくと生姜が味の下支えの決め手になっているといっても過言でない。

 ひとつひとつは何気ない日常の香味野菜が、二つ合わさることで倍以上の力を発揮する。こういうところに、料理を作る面白さの妙がひそんでいるのかもしれない。

(2023年9月23日投稿)

17年ぶりの分厚い驚き

 

 いやあ、正直な話、本当に出るとはもう思っていなかったので、すごくびっくりしました。

 何がって、京極夏彦著『鵼の碑』。

 氏の「百鬼夜行」シリーズの、17年ぶりの本編、長編小説。

 数日前、9月14日の木曜日。書店に入った私の目の前で、平台に山積みになっている最新刊を見て(すごく分厚いので、数冊だけでも「山」になってしまうのがスゴイところ)、驚きのあまり「うわあ本当に出たんだ……」と思わず呟いてしまった私。

 最近とみに世の中の情報に疎くなっている私は、事前情報や前知識が一切ないままいきなり現物と対面したので、ここ数年来味わったことのない「嬉しい驚き」を久しぶりに体験したのでした(笑)。

 

 

 実のところ私は、前作『邪魅の雫』を読了した時、つまり17年前に「次はもう出ないかも」という妙な予感(?)が浮かんだのだ。だから例によってカバーの袖に次巻予告として『鵼の碑』が記されている*1のを見ても、なんとなく「これを読むことはないかもしれない」という思いを抱いた記憶がある。なぜそう思ったかはっきりと言葉にすることはできない。『邪魅の雫』を読んでいく途中において、物語の質とは別の意味での違和感というか、このシリーズとしては不自然に思えるものを行間から嗅ぎ取ったから、としかいいようがない。

 そして実際に、短編集やスピンアウトが出ることはあったが、肝心のシリーズ本編たる長編作品が発表されることはないまま17年が経過したのである。その間、著者の京極夏彦さんはこのシリーズ以外では精力的に様々な作品を執筆・発表なさっている。それゆえ単にこのシリーズに行き詰まりを感じた、もしくはこのシリーズへの興味もしくは仕事上の関心が薄れたのかもしれないと思い、諦めに似た気持ちになっていたのは確かだ。『鵼の碑』は予告のみなされて語られずに終わった、「幻の作品」になるのだろうと。別に珍しいことではない。文学史・文芸史を繙けば、著名作家の「幻の作品」はゴロゴロしている。人の想うこと目指すことは、実に様々なところで、そして様々な形で、果たされずに終わることがあるのだ。

 だからそれを思うと、現にその本が書店の店頭に並んでいるのを目の当たりにして、ある種の奇跡が起こったとさえ感じたのは、決して大げさなことではない。著者のインタビューを読む限りでは、この17年間の「空白」は決してそのような「奇跡的」な経緯ではないようだが、それはあくまで著者の舞台裏であって、ひとりの受け手=読者たる私の個人としての思いは、そんなところにあったのだ。

 

ddnavi.com

 

 何はともあれ、嬉しい驚きとともに、その場で『鵼の碑』を購入。たまたまこの日(2023年9月14日)が発売日だったらしい。なんの目的もなしに書店に入ったので全くの偶然だったが、結果的に発売日に即買いできたわけで、これまた「嬉しい偶然」だった。同時刊行でハードカバーの単行本(重さ1.2kgとか)も出ていたが、これまでシリーズ全巻を講談社ノベルスの新書版で揃えていたので、迷わず新書版の方を選んだ。

 

 

 総ページ数は800超。さすがの分厚さ、さすがのボリューム感。この分厚さを見ているだけでワクワクする。巷では「鈍器」だの「煉瓦」だのといわれているようだが。全ページにおいて改行がページを跨がないように、本文の組版まで著者が手がけており、細部への徹底したこだわりぶりは健在のようだ。目次を見るだけでかなり複雑な構造の小説であることを窺わせる。実に嬉しい限りだ。さすがはグラフィックデザイナー出身の著者である。

 さっそく読み始めるとしよう。ちょうど一冊本を読了したばかりのタイミングだし。実をいうと、このあと3冊ほど読む本の順番が決まっていた。だが京極さんの「百鬼夜行」シリーズの本編最新刊とくれば、これは「割り込み」させる以外にあり得ない。

 

 

 さあて800ページ超の大作、読むのにどれくらいかかるか。前作『邪魅の雫』の時は、遅読で有名な私でもページをめくる手が止まらず、後半400ページを一日で走り抜けてしまった(2006年9月26日の日記および2006年10月15日の日記参照)。だが、それから17年経っており、私もいくらか歳をとったのは確かだ。あの頃よりは一冊の本を読了するペースが落ちているのは間違いなく、体力的にも集中力的にも多少の衰えを感じざるを得ない。特に目の力の衰えが著しい。いわゆる「視力」ではなく(そちらも生来とても弱いのは事実だが)、目を使うのに必要な力のことである。この数年、散々この日記で愚痴っている「目のゴリゴリ」のことだ。それでも、紙の本を読む分には、目の余計な力を込めすぎず疲れにくいので、まだマシなのだが。画面を(特にほどよく小さいのを)見るのがすごくダメなんです。

 それはともかく、この『鵼の碑』を買って気づいた最大の驚きは、なんといっても本の帯に「次作予定」(!)が記されていたことだ(下の写真)。

 

 

 『幽谷響の家』(やまびこのいえ)。

 ということは、京極さんは本気(マジ)なのだ。この『鵼の碑』が、ついうっかり前作のカバー袖に次作予定で載せてしまったので、この一冊だけを「ケリをつける」ために書いたワケではないってことだ。これからも本腰を入れて「百鬼夜行」シリーズを続けていくぞ、という著者の並々ならぬ決意を、この予告からひしひしと感じる。ただ、前巻までのようにカバー袖、つまり書物の本体ではなく、あくまで本の「宣伝物」=付属物である帯で予告しているというのが、後から撤回できそうなニュアンスを含んでいるように感じるけど(笑)。

 長らく愛読してきたシリーズなので、何より続いてくれるのは嬉しいものだが、さて読後にてその想いは変わらず持ち続けられるだろうか。どうであろうか。

 何はともあれまずは、初めの1ページ目をめくるのみ。

 千里の道もはじめの一歩から、だ。

 

osawa-office.co.jp

*1:翌日追記訂正:『邪魅の雫』のみ、予告掲載はカバー袖でなく本文末尾のシリーズ宣伝ページ内でした。記憶違い失礼しました。

「自然」と「文明」とのせめぎ合い

 

 妙にしつこくて申し訳ないが、映画『イニシェリン島の精霊』"The Banshees of Inisherin"について、あと少しだけ書いておこうと思う。

 なお、この作品に関して、先行して9月5日の日記9月6日の日記を書きました。ここからご覧になった方は、上記2つの日記を先にお読みいただけると幸いです。また9月6日の日記とこの日記には、映画の結末に触れている箇所があります。未見の方はご注意ください。

 

 

 この映画での主人公二人、パードリックとコルムの対立には、人間社会の中での「文明と自然のせめぎ合い」のようなものも投影されていると思う。人類という、元は大自然の中より出でてきた生き物の一種なのに、これだけの文明社会を築き上げてしまった存在。だから、全ての人間の人生には、その拠ってきたるところである「自然」と、既にその所属であること久しい「文明」(もしくは「文化」)の間のせめぎ合いが常に作用している。今さら私が説明するまでもなく、多くの人が話題にしていることではあるが。例えば生物学者福岡伸一さんは、「ロゴス」と「ピュシス」という言葉を用いてそのことに言及なさっている。

 『イニシェリン島の精霊』で語られている寓話性が高い物語の中に、そのせめぎ合いが織り込まれているように思う。最果ての孤島の大自然の中で描かれる、それまで親友であった二人の「ちっぽけ」な対立の物語。その背後には、自然と文明の間での果てしない押し返しが、通奏低音のように響き続けているのだ。

 コリン・ファレル氏が演じる主人公パードリックは、この島の大部分の住民と同じく貧しい農民だ。農民は自然と向き合って暮らし、働き、収穫を得ている。人間の中では最も自然に近く暮らす人々、より自然に近い存在だ。人によっては「原初的」な人間と言い換えるだろう(正直、私自身はこの文脈で使うのを躊躇する言葉だが)。中世ヨーロッパの農民は、いや場所によっては近世(それどころか現代)でも、人間と家畜が同じ家の中で寝起きするのは当たり前だった。パードリックが可愛がるミニロバのジェニーは家畜というよりは愛玩動物的な存在だが、彼はジェニーや家畜を当たり前のように家の中に入れては、一緒に暮らす妹のシボーンに嫌がられている。彼のこの家畜を家の中に入れる行為は、彼の「自然」との距離の近さを直接的に表している。

 一方でブレンダン・グリーソン氏演ずるコルムは音楽家であり、この島の中では数少ない「文化=文明」の代表として描かれている。彼が孤島の雄大な風景の中でフィドルを弾く姿は、大自然に押し包まれながらも人間文明を守る小さなともしびを灯す姿であるかのように映る。コルムの家の中は壁に絵画が飾られ、世界各地から集められた仮面があちこちにぶら下がっており、家主の幅広い文化的関心を物語る。ともすれば家畜で犇くパードリックの家とは対照的だ。そしてもちろん、コルムの職業であり主たる関心=音楽。演じるグリーソン氏は実際にフィドルの名手だそうで、その手腕は映画の中で遺憾無く発揮されている。彼の服装も他の島人よりはやや「文明的」だ。「進歩的」と呼ぶ人もいるかもしれない(これまた私自身は使いたくない言葉であるのだが)。

 大地に這いつくばって生きるのに精一杯で食べる手段が全ての「農民=自然=原初」と、より文化的である種クリエイティヴな「文化民=文化・文明=進歩」との対比、そのせめぎ合いと断絶。もともとその立場の違いを超えて気のおけない親友だった二人が、ある時にその違いが明らかになって先鋭化する。その過程が、この物語の中に込められているように思われるのだ。

 実はこの島にはコルムの他にもう一人、彼よりさらに「文化的」な人物がいる。ケリー・コンドン氏Kerry Condonが演じる、パードリックの妹シボーンだ。彼女の知性と教養の高さは、彼女が本を読んでいる場面がとても多いことからも直感的に窺われる。それと、兄が家の中にロバや家畜を入れることをひどく嫌うことも、彼女が「文明」の側に属していることを指し示している。それでも兄思いのシボーンは島にとどまって兄と暮らしている。だがもちろん彼女の「文明」性は本人が最もよく認識していて、本心はアイルランド本土に渡ってより「文化的な」仕事をしたいと熱望しており、実際に映画の終盤で島を出ることになる。この、物語の中で最も「先進的」な存在が女性として設定されているのは、もちろん偶然ではあるまい。ここにも映画の作者たるマーティン・マクドナー氏のある「意図」が込められているような気がする。

 「原初的」な農民ばかりで閉鎖的な孤島の中で、シボーンとコルムだけが「文化」を理解している。コルムにもそれが分かっており、彼女の言葉には冷静に耳を傾ける態度を見せる。「自然」と「文明」の橋渡し。彼女の存在がコルムとパードリックの間の「かすがい」の役を果たしているわけだが、彼女が島を去ることで二人の関係は破滅的事態に向かうことになる。

 

 

 全く話が変わるが、この映画は「ブラック・コメディ」という種類の映画だそうだ。寡聞にして初めて聞く言葉だ。どうも頭の固い私は、この物語に「コメディ」という言葉を当てはめることに躊躇を感じてしまう。といって主人公二人がカタストロフィの末に死ぬわけでもないので(むしろ一歩引いてみれば、物語そのものがいい大人同士の他愛もない喧嘩に過ぎない)、悲劇とも違うのかな。まあジャンル分け自体がそもそも無意味なことだと思っている私なので、どうでもいいといえばどうでもいいけれども。9月6日の日記で記したように、抽象的寓意を物語全体に滲むイヤ〜な雰囲気とともに描き出すことを目指した作品だということを踏まえておけば、ジャンル分けなどどうでもよろしい、と私は思う。

 それにしても、散々二度と観ないとかいっておきながら、映画の舞台や背景に論考まで収録した秀逸なパンフレットまで買って、これだけああだこうだと論考したのだから、ある意味「元は取った」というべきか。

 というか、益田ミリさんが「好きじゃない映画でも、好きなところがひとつもない映画はない」(朝日新聞2023年6月3日朝刊コラム「オトナになった女子たちへ」より)と仰っているのが、本当にその通りだと深く共感する。まさに至言。

 

(これ以外の写真は、2014年7月にアイルランド西部沖合のイニシュモア島にて撮影)

(前回日記の翌日くらいに大部分を書いたのですが、例によって目のゴリゴリに悩まされてしまい……。ネット上に上げるのが遅くなってしまいました)