「後悔」とは大切な人との思い出にへばりつく何か

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いくら他人のことを思ったものだと言ったとしても、結局は自分のエゴなのだろうけども。

それでも「後悔」というのは、「自分自身の現状を嘆く、過去の自分の選択」というよりも、大切な人や、大切だった人に対して、してあげられなかった何か、言ってあげられなかった何か、してしまった何か、言ってしまった何か、という記憶にへばりついてるような感覚だという気がする。

自分自身が影響を受け責任を引き受ける選択ならば、たとえ過去に戻ったとしても、その時点で持っていた情報の中で、ベストだと考える同じ選択をしていただろうと思うだけだ。

しかし、自分の言動によって他人が何を考え、何を思い、何を感じたのかというのは、検証しようもないく、ただただ「あの時、あのようにしてればもっと……」「あの時、あのように言っていればもっと……」と、堂々巡りに陥りやすい。

だから「後悔」というのは自分にとっては、大切な人、大切だった人との思い出の周りに漂う、なんとも言えない何かなのだ。

明日は過去の繰り返し

脳が行ってるだろうと思われるパターン認識というのは、すごい技術だ。

「なんとなく、いやな感じがする」

などの直感もパターン認識から微細にズレが発生していることから知覚することなんだろう。

そうやって年を重ね、経験を積んで、それなりのパターンが蓄積されていけば、判断はスピードアップし効率化していく。
それはまるで、スピードある乗り物に乗っているようだ。ただひたすら時間の中を加速していく。

注意をひくカンバンはたまに見かける。しかし、もはや風景などを楽しむこともない。初めて見る街並みも、過去の街並みと同等だろうと予測する。実際似たようなものだろう。そうやって、「明日は過去の繰り返し」として処理されてゆく。

「世界」には何も起こらなくなり、色あせていくのだ。