或る意味で普通に



id:nessko


読んでいて、むしろヴィクトリア朝のころ「ゴシックリバイバル」があったというのが、おもしろいなと思いました。あのころの英国で、中流以上の家庭の子女の間で、ホラーや廃墟ブームみたいなのがあったのかなあ、その大衆化版が戦後のゴスなのかしらん? って。
廃墟マニアというのは、最近の古びた風俗街の写真につながってきそうですね。もっとざっぱくに昭和趣味とでもいうのでしょうかね。

「古びた風俗街の写真」とかは「廃墟」と違って、取り敢えずまだ現役として使用されている建物であるわけですよね。或いは「廃墟」になる途中というか。まあ、〈街歩き〉系のユーチューバーとかけっこういますけれど、危ういところがありますよね。中には、差別意識に裏打ちされた上から目線の覗き趣味をあからさまに提示しているというのもけっこうある。勿論、純粋なノスタルジーの表明というのもあるわけですけど。また、レトロとかヴィンテージへの指向には、レトロな対象を眺めるだけでなく、そういう古いモノに囲まれていたいというか、shabby chicなテイスト*1というのも含まれている。「昭和趣味」というのはshabby chicのひとつの形と言えるのではないでしょうか。
さて、「廃墟」ですけど、1980年代の所謂バブル経済の頃に東京で地上げブームがあった頃には、東京において建物は廃墟になる暇も与えられない(直ぐに更地となってしまう)と思っていたのですけど、最近では東京近郊のかつては新興住宅地と呼ばれていたエリアでも、「廃墟」は珍しいものではなく日常的な風景のひとつになってしまった。「廃墟マニア」は近所を散歩すればよろしい。
ところで、「廃墟」趣味というのは抑々は独逸や英国の浪漫主義に由来するものであり、その意味では、例えば土井晩翠の「荒城の月」*2とかも実はけっこうハイカラなのだということになる。じゃあ、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」*3はどうなんだ? ということになるかも知れないけれど、芭蕉が直面していたのは「夏草」であって、そこには「廃墟」も見えない。この「夏草」は「廃墟」にとっては重要なポイントであるかも知れない。谷川渥『形象と時間』*4によれば、茫々たる植物の繁茂は「廃墟」にとって重要な要素である。それは、人為的なるものを自然の活動が凌駕することを意味している。因みに、「廃墟」には「琉球朝顔*5が似合うとは思う。琉球朝顔は普通の朝顔とは違って多年草なので、その家から人がいなくなっても、毎年花を咲かし続けるのだった。

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090706/1246852032 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20101201/1291205726

*2:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20101208/1291739125 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20101209/1291864100

*3:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180905/1536116494

*4:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131228/1388237043

*5:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/08/07/092133 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/09/05/092511 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/09/12/095932 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/10/11/105350 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/10/26/102156 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/01/04/142824 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/10/30/083910 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/11/05/151319 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/11/18/105022 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/06/092210 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/08/221210 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/14/153108 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/21/035644 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/24/124620 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/01/05/082543 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/09/10/210235 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/11/07/171339 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/12/01/100842 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/01/22/160925 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/02/20/100017 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/03/23/153124

蓮舫が!

Via https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2024/05/27/072524

現職の小池百合子もあの石丸伸二*1も出るという東京都知事選挙蓮舫さん*2が出馬するという;


大野暢子、山口哲人「立民・蓮舫氏が東京都知事選に出馬へ 27日にも表明 6月20日告示、7月7日投開票」https://www.tokyo-np.co.jp/article/329568

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/05/19/111827

*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091129/1259488849 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100128/1264688062 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100419/1271645099 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100526/1274895252 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100604/1275654942 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110401/1301647461 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110425/1303707664 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110705/1309798635 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130219/1361235063 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160331/1459390045 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160620/1466438527 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161030/1477789932 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161107/1478494502 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161126/1480132269 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170129/1485699319 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170718/1500311611 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170727/1501157835 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170731/1501477531 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170806/1501998086 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170822/1503367771 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170920/1505876797 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180422/1524324795 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180722/1532282836 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20181109/1541750117 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/13/115207 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/19/032018 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/05/31/014417 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/03/15/092031 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/16/111555

「言葉とセックス」

花房観音「背徳感溢れる物語」『波』(新潮社)649、pp.122-123、2024


宇能鴻一郎*1アルマジロの手』について。


本書は『姫君を喰う話』に続く、宇能鴻一郎の初期短編集だが、いわゆる性行為を描いた「あたし~しちゃったんです」という女性の独白スタイルの「官能小説」ではない。しかし、直接の性行為に重点を置いてあるわけでもないのに、じゅうぶんに官能的だ。
「月と鮟鱇男」の中で、主人公は宴席の残肴を食べてしまう動機をこう語る。
「せめて自分の体におさめて、血とし、肉として同化し、愛しんでやろうと思う。血や肉にはならぬまでも、自分の歯で噛みくだき、舌でこねまわし、唾液と混ぜ、胃で揉み、醗酵させ、腸で水分を吸収し、数日体内において排泄してやるだけでも、自分とその食べもののあいだに交わされる親しみは、申し分なく強烈なものになるのに、と感ずるのである」
性描写の巧い作者は、食の描写も巧いと言われることがあるが、口と舌、そこから内臓を経て排泄に至るまでのこのくだりは、想像力豊かな男なら勃起し、女は濡れるぐらい言葉の羅列がエロティックだ。
この本の中では、表題作のアルマジロをはじめ、鮟鱇、鰻、海亀の産卵等、動物、魚、植物、そして何より食べ物をメタファーにして、「官能」が描かれている。
それらはすべて濃厚で、味と香りが漂い、五感を刺激する。本を手にとってページをめくるだけで、全身の毛穴から毒混りの蜜が体内に入り込み血液と混じり、支配されてしまうような感覚がある。しかも表現と構成も巧みで知的だ。これほど官能を文学として探求した作家はいない。自分の身体が、他人の言葉に陥落してしまうさまは、まさに極上の快楽をもたらすセックスのようだ。
読み終わっても、まだ身体に宇能鴻一郎の言葉が残り、何度も蘇ってぞわぞわと肌を刺激し続ける。脳からどろりと、ぬるく白い液体がしたたってくる。
本書を読むと、やはり宇能鴻一郎という作家は「官能」をずっと描き続けてきた人なのだと誰もが理解するだろう。(pp.122-123)

「官能とは何だと思う?」
著名な文筆家に酒席で問われたことがある。
とっさに私が、「背徳」と答えたら、彼は「その通りだよ」と言って、にこりと笑った。
辞書を調べれば様々な意味が出てくるけれど、私にとっての官能は「背徳」だ。うしろめたい、けれど惹かれずにはいられない、それなしには生きていけないもの、秘めごと。
セックスは、ほとんどの人間がしていることなのに、世の中で隠すべきものとされ、まるで無いことのようにされている。さらに、この短編集に描かれている人間の欲望は、当たり前の男女の営みを凌駕し社会を逸脱した背徳的なものばかりだ。
人の五感を捕えて離さない官能的な言葉で綴られた宇能鴻一郎の背徳感溢れる物語を手に取って読んで欲しい。
言葉とセックスして、絶頂に達して放心しながら、ページをめくり続けると、ぱっくりと割れた唇という裂け目から、声が漏れずにいられない。(p.123)
新潮文庫のこの本、まだ買っていないのだけれど、花房さんがここまでいうのなら、やはり読まなければいけないだろう、と思ってしまう。

Real/Retro(メモ)

長﨑励朗「苦労した人こそホンモノの音楽を創れる?――フォークと文化の価値転換」(in 『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学*1、pp.45-61)


所謂「四畳半フォーク」*2を巡ってのパッセージを引用する。


現在、「フォーク」という言葉から一般に想起されるのはかぐや姫さだまさし吉田拓郎井上陽水といった70年代を中心に活躍したミュージシャンたちだろう。彼らはフォークとみなされてはいるが、場合によっては「ニューミュージック」というカテゴリーに入れられることもある。ニューミュージックとは、自分で作った曲を自分で歌うミュージシャンの楽曲を指す言葉だ。作詞・作曲者と歌手が分業制になっている歌謡曲と差別化されることで、当時の若者に人気を博した。彼らの多くは後に楽曲提供などもしながら、流行歌の世界で近年にいたるまで息の長い活躍をしている。だからフォークと言ったときに、彼らのイメージがまず浮かぶのは当然のことであるといえよう。
しかし、その前史とも言える60年代後半のフォークを聴いてみると、世界は全く違う。プロテスト・ソングと呼ばれるストレートな社会批判を含んだ楽曲やユーモアの塊のようなコミックソングなど、おおよそその後の流行歌の系譜に位置づけられないような作品が多い。(p.48)
先ず突っ込んでおきたいのは「ニューミュージック」という言葉について。これはシンガー・ソングライターと混同している。「 ニューミュージック」の多くが自作自演であったことは事実だけれど、私の記憶によれば、1970年代の後半くらいには、「ニューミュージック」というのは、従来の歌謡曲(演歌やポップス)とは区別されたフォークやロック系の音楽を総称する言葉として使われていた。さらに、1980年代に入ると、現在ならシティ・ポップ*3と呼ばれるであろう音楽、ユーミン系の音楽を専ら指すようになった。また、吉田拓郎のキャリアは「その前史とも言える60年代後半のフォーク」にも重なっていて、或る意味で2つの時期の蝶番的な存在でもあるといえる。
話を戻すと、長﨑氏はここで佐藤八寿子さんという方の論を援用する。

こうした断絶を佐藤八寿子は「リアルフォーク」*4と「レトロフォーク」という名称で整理している*5。リアルな革命を夢見た60年代のフォークに対して、70年代フォークは果たされなかった革命を悼むレトロスペクティヴ(過去をかえりみる)なフォークであるというのだ。全ての楽曲がそうでないにしろ、この見立てはある程度正しい。バンバンの「いちご白書をもう一度」*6に登場する以下のような歌詞はその典型であるといえよう。

就職が決まって 髪を切ってきたとき
もう若くないさと 君に言い訳したね
70年代フォークの一部が貧乏くさく、未練たらしい「四畳半フォーク」と揶揄されることになったのも、このあからさまな過去への憧憬ゆえだといえる。佐藤はこうした変化を大学進学率の上昇に伴う大学生の地位低下と関連づけて論じる。

七〇年代の教育拡大期は、「憧れの大学生」に「自分もなりたい」「わが子をならせてやりたい」という強烈な欲望の時代でもあった。すでに内実は「レトロ」だったフォーク・ソングも、こうした大衆の高学歴への欲望によってさらに消費されたのはなかろうか。(中略)*7しかし、欲望の対象であるところの「学生」のオーラは、その欲望が次第に実現されていくより早く、急速にその輝きを失いつつあった。(中略)学生文化としての七〇年代フォーク・ソングの需要は、まさにすでに消え去った「学歴の輝き」へのレクイエムであると同時に、新たな主役。大衆による疑似貴族文化だったのではないか。
つまり、大学が大衆化したことで輝きを失った大学生という身分のありし日を疑似的に追体験することで人びとは欲望を満たしていたというのである。こうした解釈は、1970年代頃を境にしたフォークの変化をリスナーの高等教育に対する憧れと関連づけて論じている点で重要である。(pp.48-49)
ここで、次のような反問がある;

しかしその一方で、そうした「疑似貴族文化」が「貧乏くさく」あらねばならなかった理由については触れていない。例えば、「神田川」の主人公はなぜ「三畳一間の小さな下宿」で恋人と過ごさねばならなかったのか。憧れという意味で言うならば、もっとリッチで小ぎれいなキャンパスライフを楽しむ大学生がいてもいいではないか。
実際、そうした例がフォーク以前には存在した。1964年に発表され、ロングセラーとなったペギー葉山の「学生時代」*8はその代表例だろう。そこに描かれている「学生」は「蔦のからまるチャペルで祈りをささげ」るという夢のような「学生時代」を送っているのだ。ペギー葉山自身が青山学院女子高等部卒だから女学校文化のようにも解釈できるが、この楽曲はもともと「大学時代」というタイトルだったからというから、歌詞自体は当時の大学イメージを反映していたと見てよい。1964年の「学生時代」と1973年の「神田川」。このわずか10年間で人々が求める「学生」のイメージに一体なにがあったのだろうか。(後略)(pp.49-50)
答えは半分出ている気がする。つまり、大学の「大衆化」の前か後かということ。また、1960年代末の大学闘争の後か前か。まあ、「学生時代」で描かれているキャンパスは普通の大学ではなく、基督教系(ミッション・スクール)だったということも考慮しなければならないだろうけど。
ところで、佐藤さんが意味するのとは別の仕方で、「70年代フォーク」が「レトロスペクティヴ」だと思ったことはある。例えば、「神田川」は「あなたはもう忘れたかしら」というフレーズで始まる。つまり、ここで歌われる内容というのは、既に「忘れ」てしまった可能性がある程遠い過去のことだということになっている。語り手は、その時点で「あなた」(或いは「あなた」以外の男)と専業主婦をしているのかどうかは知らないけれど、とにかく大人になってしまった立場から自らの若き日の恋愛や同棲を回想しているということになる。こうした回顧的な指向性というのは、「リアルフォーク」、またその一つ前のカレッジ・フォークにはあまり見られなかったのでは? 

Goth(Memo)

白いケモノ*1「ロリータのある程度のウケについて少し。」https://abyss.hatenablog.jp/entry/2024/04/27/141737


曰く、


ゴシックの元々の意味は、ゴート人風、ルネサンス期のイタリア人が、より北のドイツとかでの様式を侮蔑的な意味合いを込めて言った言葉である。この頃は主に建築様式。
で、イギリスのヴィクトリア朝辺りで「ゴシックリバイバル」があり(書籍の受け売りだが)、特にイギリスで廃墟マニアみたいなノリがあったのだ。当時のホラーベースなのをゴシックホラーという。も少し現代では広く解釈されてるが、スチームパンクと馴染みがいいのはそのせいで、ゴスロリもその辺りのファッションイメージを踏まえている。ロリータファッション自体はメルヘン雰囲気を持ってきてたが、ゴシックの過剰な華美さや、夜会のドレスなイメージ持って来てる。
まあ、この頃の時代のフォーマルやカジュアルの感覚が今も続いているとは言えるのだが、ゴスロリはめちゃくちゃ雑に言うと、大人がランドセル背負ってるくらいの違和感はあるもので、ああうんいやまあ好きにしたらとは思うが。
実際、現在のファッションのテイストとしての「ゴシック」(「ゴス」)と中世の建築様式としての「ゴシック」はかなり間接的な関係しかない。19世紀的な「ゴシックホラー」はそれよりは関係が近いかも知れないが、より直接的な起源は1980年代におけるブリティッシュ・ロックの潮流のひとつである。ポジティヴ・パンクとも謂われたゴシック・ロック(ゴス)という潮流。代表的なミュージシャンを列記すれば、


ザ・ダムド
スージー・アンド・ザ・バンシーズ
ジョイ・ディヴィション
バウハウス
ザ・キュアー
シスターズ・オヴ・マージー
ヴァージン・プリューンズ*2


といったところだろうか。なお、私見によれば、1980年代の当時から、ゴスのファンはケイト・ブッシュのファンとかなり重なっていた。それはともかくとして、ダークなファッションとしての「ゴス」は、ゴシック・ロックの(「ポジティヴ」と呼ばれていたにも拘らず)ダークな雰囲気や世界観、そのミュージシャンやファンのダークなファッションに由来するものだ*3
「ゴス」と「ロリータ」が結合した「ゴスロリ*4は日本的なものとされる。


ゴシック・アンド・ロリータ (Gothic & Lolita) は、本来異なるゴシックとロリータの要素を結びつけた日本独自のファッションスタイル。またそのようなサブカルチャーを指して言う語。ゴスロリと略して呼ぶことが多い。カルチャーとしてのゴスロリは、ヴィジュアル系バンド、嶽本野ばらの提唱する「乙女」、ドール文化などの要素を内包する。

一般的にはロリータ・ファッションの総称ととらえられているが、本来はロリータ・ファッションというカテゴリーの中のジャンルの一つである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF

また、「ゴシック・ファッション」という項では、

その後、日本ではゴシック・ファッションをロリータ・ファッションと組み合わせたゴシック・アンド・ロリータ(略称ゴスロリ)が生まれる。

ゴシック・アンド・ロリータ・ファッションにおいてのゴシックの要素とは、クラシカル系ロリータの「クラシカル」やパンクロリータの「パンク」と同様、モチーフや色調のみによる非常に曖昧な定義であり、ゴシック・ファッションのシルエットはゴシック・アンド・ロリータでは取り入れられていない。また、そもそもゴシック・アンド・ロリータで表現される「ゴシック」の要素と、欧米など海外で表現されるゴシック・ファッションの「ゴシック」の要素とは微妙に意味が異なる。

ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシック・ファッションよりもロマンティックでセンチメンタル、ナイーヴな要素が強い。ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシック・ファッションにロリータ服のテイストを加えたというよりも、ロリータ・ファッションで表現される精神性を基盤にゴシック・ファッションを引用し、とりいれた服装であるといえ、そのため、ダークカラーの薔薇や耽美な蝶といった、ゴシックよりも、いかにもロリータ・ファッションの少女が好みそうなゴシック小説の要素が、ゴスロリでは強調されている。

現在、一般的にはゴシック・ファッションよりもゴシックロリータ・ファッションの方が有名であり、世間で言う“ゴスロリ”と混同されがちである。また、ゴシック・ファッションの意匠が一部のヴィジュアル系バンドに取り入れられているので、ヴィジュアル系バンドの衣装コスプレと捉えられてしまうこともある(ゴシック、ゴシック・ファッションの愛好者はゴシックロリータやヴィジュアル系バンドの衣装と混同されることを好まないとされる[誰によって?])。また、パンク・ファッションとの混同もみられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

と書かれている。しかし、どのような経緯で日本において「ゴス」と「ロリ」が結合されたのかということは、Wikipediaの記述からはわからないのだった。
ゴスロリ」は「日本独自のファッションスタイル」ということなのだが、「アトリエピエロ」というセレクト・ショップのサイトでは、「ゴスロリ」のブランドとして「ヴィヴィアン・ウェストウッド*5が筆頭に挙げられているのだった*6。これはなるほどな、と思った。

「昭和館」(メモ)

元村有希子*1「小さな映画館の夢」『毎日新聞』2022年12月10日


北九州市の映画館「小倉昭和館*2について。


(前略)レトロな外観、サイン色紙が並ぶロビー、緑色のシートが急勾配で配置された観客席。見慣れた景色を見た途端、こみ上げるものがあった。昭和館は今年8月に火災で全焼、今は跡形もない。

館主の樋口智巳さん(62)が昭和館を継いだのは10年前のことだ。創業は1939(昭和14)年。祖父が映画館兼芝居小屋から始め、父が守り抜いた家業を3代目で潰すわけにはいかないと、無我夢中で走ってきた。
専業主婦からの転身。経営に関しては素人だが、映画愛は人一倍との自負がある。良質の作品を上映するだけでなく、トークショーなど人々が集う場として、さまざまなアイデアを実現してきた。
歴史が築いた映画人との絆が財産だ。俳優の奈良岡朋子さんは「映画文化の砦」と評した。コロナ禍を乗り切り、あれもやろう、これもやりたい考えていた時に、隣接する旦過市場一帯が火事になった。
駆けつけたときには既に火が迫り、燃え移るとあっという間だった。創業当初からの神棚も、大切に使い続けた35ミリ映写機も、心の支えにしていた高倉健さんからの手紙も持ち出せなかった。
昭和館は私の居場所でした」。一夜明け、波ながらに樋口さんに声をかけてくる大勢の人がいた。映画を見るだけの場所ではなかったことを知った。片付けられた跡地を見ると、80年余の記憶まで失われるようでつらい。けれど土地と建物は借り物、経営難で蓄えも乏しい。

実は、焼け残ったネオンが倉庫に眠っている。地元出身の作家、リリー・フランキーさんに強く促され、焼け跡から回収した。これを形見として、支えてくれるすべての人たちと「新しい昭和館」を作りたいと樋口さんは考えている。

「小倉昭和館」は2023年12月に復活した。


See also


大倉美智子「小倉昭和館が再建 旦過市場火災から1年4か月」https://www.nhk.or.jp/kitakyushu/lreport/article/002/24/

According to Amnesty International

承前*1

イランのエブラーヒーム・ライースィー事故死に際してのアムネスティ・インターナショナルの見解。彼の生涯が若い頃から弾圧と虐殺の一代であったことを忘却してはならないだろう;


“Iran: President Raisi’s death must not deny victims of his grim human rights legacy their right to accountability” https://www.amnesty.org/en/latest/news/2024/05/iran-president-raisis-death-must-not-deny-victims-of-his-grim-human-rights-legacy-their-right-to-accountability/