震源地は巴里

ニューカレドニアに軍派遣/仏が非常事態、死者4人」https://nessko.hatenadiary.jp/entry/2024/05/18/065958
Julien Mazzoni “New Caledonia riots: parts of territory ‘out of state control’, French representative says” https://www.theguardian.com/world/article/2024/may/17/new-caledonia-riots-protests-noumea-out-of-state-control
“Violent protests erupt in French Pacific territory” https://www.bbc.com/news/articles/c51nn46d222o
“More French police arrive in New Caledonia amid riots” https://www.bbc.com/news/articles/cyj348wwggzo


仏蘭西の海外領土(殖民地)であるヌーヴェル・カレドニ(ニュー・カレドニア)における大規模な暴動。死者が出て、戒厳令が宣告され、仏軍も投入されている。
最初、日本語の報道を見たとき、暴動が起こって死者も出ているとしか書かれていなかった。しかし、今回の暴動の直接の引き金となったのは、巴里の仏蘭西国民議会に ニュー・カレドニア選挙制度改正案が提出されたこと。それによると、10年以上生活している移民に選挙権が与えられる。その結果、先住民たるカナック人の政治的力は削がれてしまうことになる。このことの是非以前に、国の根幹に関わるようなことどもが、遠く離れた巴里で、自分たちには与り知らないような仕方で、提案され、議論され、決定され、自分たちに押し付けられる。殖民地であるというのはそういうことなのだった。
ヌーヴェル・カレドニ(ニュー・カレドニア)では先住民による独立闘争が一貫して続けられているけれど、最も激しかったのは、大林宣彦の『天国にいちばん近い島*1が撮影された1980年代だったようだ。

Crashed

Al Jazeera Staff “President Raisi’s helicopter crashes in Iran: What we know so far” https://www.aljazeera.com/news/2024/5/19/president-raisis-helicopter-crashed-in-iran-what-we-know-so-far
Sam Jones “Helicopter carrying Iran’s Ebrahim Raisi crashes in mountains” https://www.theguardian.com/world/article/2024/may/19/iran-president-ebrahim-raisi-helicopter-hard-landing


イランのエブラーヒーム・ライースィー大統領*1が乗ったヘリコプターがアゼルバイジャンとの国境地帯(東アゼルバイジャン州)の山地に「墜落(crashed)」*2。現時点では、大統領の生死を含めて、あらゆる事情は霧の中である。

*1:http://raisi.ir/ See eg. Peter Beaumont "Ebrahim Raisi: Iran’s hardline president dogged by execution claims" https://www.theguardian.com/world/article/2024/may/19/ebrahim-raisi-irans-hardline-president-dogged-by-execution-claims "Iran's Ebrahim Raisi: The hardline cleric who became president" https://www.bbc.com/news/world-middle-east-57421235 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC

*2:英語圏のメディアは押し並べてcrashという動詞を使用している。また、hard landing(硬着陸)という言葉も。

「アナロジー」!

小林敏明*1柄谷行人論』では、柄谷行人の思考における「アナロジー」の役割に注目している。


(前略)それ*2を生み出す方法論として柄谷のディスコースの特徴をなしているのがアナロジー、すなわち類比である。穴ロジカル・シンキング(類比的思考)というのは、ふつう思われているようなたんに二つのものを並べて比べてみるだけのものではない。それは抽象作業の第一歩であり、新たな概念の創出および構造の発見である。言い換えれば、抽出される類似点をステップにして新たなアイデアを生み出すための基礎的方法論なのである。そもそも無からの創造などというものはなく、どんなに「新しい」ものも何らかのデータが出発点になっている。つまりクリエイティヴなものとは、データとデータの新しい擦り合わせから生まれ、その擦り合わせ作業においてアナロジーが重要な意味をもっているのである。そのことは最近企業の研究所などでも新薬開発の方法論として注目されるようになってきているが(たとえばUSITなど)、このことをもっともはっきり示しているのは先端の自然科学者たち、とりわけ物理学者たちの作業である。たとえは素粒子論と宇宙物理学というミクロとマクロの両極間のアナロジーはもちろんのこと、そもそも彼らが応用する数学との分野どうしの関係も、ある意味でアナロジーが前提となっていると言えるからだ。そのことは総じて仮説を立てる研究作業などによく見られる。(pp.16-17)
「アナロジー」と「メタファー」;

ここで、ひとつ注意を要するのは、新説発見の方法としてのアナロジーとメタファーとのちがいである。メタファーというのは、すでに一定の意味内容を前提としている。言い換えれば、それはすでに成立している意味に従属している。たとえばAがBのメタファーであるとすれば、それはあくまでBがもっている意味を代行表現しているだけにすぎない。だからそこからはニュアンスのずれとその効果が生まれるとしても、予期せぬ新しい意味が生じてくるということはない。これに対して、アナロジーにおいては原則的に比較される両項に優劣はない。ひとまず両者の意味がそれぞれ前提されるとしても、その結合から何が出てくるかが初めから決まっているわけではない。ちょうど化合によって異なった物質が生まれるように、そこにはAともBとも異なった別の意味が生まれる可能性があるのである。メタファーは安住的であり、アナロジーは冒険的である。
アナロジーとは、もともとギリシア語の ἀναλογίαに発し、「ロゴスに沿って」とか「ロゴスを超えて」の意味をもった言葉である。つまりひとつの事象からそのロゴスにそって別の事象への飛躍をおこない、その類似から共通の何かを析出することである。大事なのはこの「飛躍」である。これがなければ、だれでも思いつくようなありきたりの類似こそ見つかれ、そこに新しい類似性を見出し、それをさらに新しいテーゼやアイデアにまで高めるなど望むべくもない。現在のアナロジカル・シンキングは膨大なコンピューターのエータをベースにおこなわれるが、柄谷の場合は驚異的な読書量と記憶力をベースにして彼個人の直観にもとづいておこなわれる。それはときにアナロジカル・シンキングにつきものの誤推理や過剰推理をもたらすこともありうるが、それがうまく作動した場合はコンピューターには思いつきようもなかった新解釈として実を結ぶことがある。私の見るところ、通説を転倒する柄谷の「反時代的考察」の大半はそのようにして生み出されている。(pp.17-18)

水道橋と神保町の間、など

長崎励朗*1「音楽は語るべきでない?――『ロッキング・オン』と音楽語り」in 『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学』、pp.161-189、2021


雑誌『ロッキング・オン*2は1972年に渋谷陽一岩谷宏松村雄策橘川幸夫によって創刊された。この4人のうち、渋谷と岩谷と橘川は水上はる子*3が主宰していた『レボリューション』というミニコミ誌の投稿者だった(p.165)*4。橘川が『レボリューション』を知ったのは「ウニタ」においてだった;


水道橋方面へ向かう白山通りに「ウニタ書舗」*5があった。ウニタとはイタリア語で「統一」という意味らしく、学生運動の機関紙や、ミニコミなどが置かれていた。ここは当時の政治や文化の最前線の資料が集まるところだったので、僕は定期的に通っていた。
店内は、サークルの部室のように乱雑にアジビラセクトの機関誌が積み上げられていた。政治的な媒体だけではなく、アングラ劇団のパンフレットや、中央線沿線のヒッピーたちが作っていたレベルの高いミニコミもあった。そうしたサブカルチャーのコーナーに「レボルーション」というロックのミニコミがあった。(橘川幸夫ロッキング・オンの時代』晶文社、p.17、2016)(Cited in 166)
長崎氏は橘川のこの回想に、以下のようにコメントしている;

学生運動の機関誌とミニコミ誌が雑然と並ぶ店内の描写は「教養主義のクライマックス」*6としての学生運動文化と70年代以降台頭してくるサブ・カルチャーの連続性を物語っている。現在では峻別されがちな二つの文化だが、「メディアはメッセージ」として機能する以上、これらの媒体を創った若者たちの文化は当時にあっても、同種あるいは類似のものとして眼差されていたと考えられるからだ。ここに並ぶ雑誌『レボリューション』を母体に組織された『ロッキング・オン』はまぎれなく、学生運動文化やその背景にある活字文化の落とし子であった。(ibid.)
さて、橘川幸夫は長崎氏のインタヴューに答えて、次のように語っている;

ロッキング・オン』ってのは俺はずっと、バンドだと思っているわけだよ。だから岩谷宏ジョン・レノンで、渋谷がポール・マッカートニーで、俺がジョージ・ハリスンで、松村がリンゴ・スターだと。で、それは解散したわけだと。要するにポール・マッカートニーバンドになったわけだよ。それが今の『ロッキング・オン』でしょ*7。だからそれは『ロッキング・オン』ではあるけど、『ロッキング・オン』ではないわけだよ。(Cited in p.187)
 
ポール・マッカートニーのイメージ!    

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/12/25/105015

*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20051213 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060106/1136525882 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20060529/1148902022 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20071206/1196911203 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091116/1258338600 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110426/1303827132 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110827/1314422112 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110831/1314764943 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130914/1379122545 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150730/1438275807 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20150801/1438394795 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160921/1474471850 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170209/1486654022 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20171102/1509641714 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/07/30/113922 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/09/04/124625 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/22/154744 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/03/13/153735

*3:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20061008/1160276835

*4:松村雄策は、渋谷がDJをしていたロック喫茶「ソウルイート」(たしか、厚生年金会館の裏)で渋谷と出会っている(p.168)。

*5:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070820/1187581828 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100729/1280415113 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/01/07/100659

*6:竹内洋教養主義の没落』。

*7:このインタヴューは2015年4月に行われた。

石丸知らず

先週からTLに「石丸」という苗字が出てくることが多くなった。それで、石丸って誰だ? という知的疎外状態に陥ってしまったのだ。「石丸」といえば、北朝鮮を専門にするジャーナリストの石丸次郎氏*1。彼がスターリン主義者やら金日成主義者やらに攻撃を受けたのか? 秋葉原には「石丸電気」というのがあったな*2。また、俳優の石丸謙二郎は過去にストリーキングをやったことがあると告白していたけれど、そのことが再度炎上したのだろうか? 私の記憶から直ぐに引き出せる「石丸」はそのくらいのだった。
実際のところ、溢れる「石丸」の正体は「石丸伸二」だった。
NHK曰く、


東京都知事選 石丸伸二 安芸高田市長が立候補の意向を表明
2024年5月17日 19時21分

広島県安芸高田市の石丸伸二市長が7月に行われる東京都知事選挙に立候補する意向を表明しました。

石丸市長は17日、広島市で記者会見し「私が都知事を目指し、実行していきたいのは東京の発展、そして地方の発展、すなわち日本の発展だ。日本の総人口は次の20年間でおよそ1300万人減少し、多くの自治体が消滅に向かっている。46の道府県と密にコミュニケーションをとって多極分散を実現し、東京の過密を解消することで東京を世界で一番住みやすい街にできる」と述べ、ことし7月に行われる東京都知事選挙に無所属で立候補する意向を表明しました。

また、都知事選挙では政党の公認や推薦を受ける考えはないとした上で、考え方を共有できる政党からの支持については、歓迎する考えを示しました。

石丸氏は、広島県安芸高田市出身の41歳。

三菱UFJ銀行に勤めたあと、前回・2020年の安芸高田市長選挙で初当選し、現在1期目です。

石丸氏は市長就任後、政策課題への対応や行政の進め方をめぐって市議会の最大会派などと対立し、記者会見や自身のSNSでこうした対立について積極的に発信して注目を集め、今月10日、次の市長選挙には立候補しない意向を示していました。

東京都知事選挙には、このほかにあわせて18人が立候補の意向を表明しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240517/k10014452681000.html

知らねぇよ! 「伸二」といえば牧伸二*3。あーあ、やんなっちゃった。あんがあんがあんが驚いた。

知らぬが重なり



id:redkitty

「夏の嵐」(日活 1956)に大鶴義弘名で出演しているこども時代の唐十郎をみることができます。

確かに、Wikipediaには唐十郎が最初に出た映画として記載があるのですが、この映画は全然知らなかったです。監督は中平康*1、主演は(後に石原裕次郎夫人となる)北原三枝*2三橋達也*3津川雅彦*4。当時多く作られた〈太陽族〉映画の一環だったのだろうか。「原作は芥川賞候補作にもなった深井迪子の同名小説」*5。この小説は勿論、「深井迪子」という作家も知らなかった。「芥川賞候補」になり、映画化もされたくらいだから、当時はそこそこ有名で、売れてもいたわけですよね。深井が「芥川賞候補」になったときに芥川賞を受賞したのは近藤啓太郎。同時に候補になっていたのは、深井のほかに有吉佐和子島尾敏雄、葛城紀彦、小林勝、津田信*6
『夏の嵐』に戻ると、日活のサイトでは「一青年と三人姉妹が、繰りひろげる愛欲が渦となって、その四角関係にもだえ苦しむ青春の嵐を描く日活異色の激情巨篇」と要約している*7

皐月に門松

paperwalker*1「めでたくもあり、めでたくもなし」https://paperwalker.hatenablog.com/entry/2024/05/15/170000


この方は先月(4月)に誕生日を迎えられたのだという。


誕生日になると必ず思い出す言葉がある。

  門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

これは一休宗純が作ったとされる和歌である。あの頓知でお馴染みの一休さんだ。(ちなみに「門松は」の部分が「正月は」や「元日は」になっているものもある)

私と同世代の人なら、子どもの頃にアニメの『一休さん』を見ていたという人も多いだろう。上の和歌もそのアニメの中で知ったものだ。

昔はいわゆる「数え年」だったから、いまのように一人一人が誕生日を迎えて一つ歳をとるのではなく、新年になったら皆がそろって歳をとっていた。そういう意味でも元日はおめでたい日だったのだ。

しかし一つ歳をとるということは、一歩死に近づいたということでもある。そう考えると単純にめでたいとも言えなくなる。

また一休には、元日に髑髏(しゃれこうべ)を乗せた杖をつきながら町を歩いたという逸話も残されている。せっかく皆がおめでたい気分に浸っているのに、そこに冷や水を浴びせるのである。そんなに浮かれているけれど、死はお前のすぐそばにあるのだぞ、と。

もちろん一休さんだってただの嫌がらせや天邪鬼でそんなことをやったわけではないだろう。

西洋で言うところの「メメント・モリ」(死を忘れるな)みたいな感じだろうか。

「門松」って、一休宗純が生きていた室町時代半ばには既に存在したのだろうかと不図疑問に思った。まあ、平安時代後期にはあったらしい。院政期の歌人、藤原顕季*2の歌に、


門松を営み立つるそのほどに春明け方に夜やなりぬらん


という歌がある。また、『梁塵秘抄』にも


新年春来れば門に松こそ立てりけれ松は祝ひのものなれば君が命ぞ長からん


という今様が収録されている(「門松の起原についての流布説の出鱈目」*3*4
さて、「門松の起原についての流布説の出鱈目」に曰く、


門松とは、正月に家の門戸などに立てられる松や竹を用いた正月飾のことです。この門松の起原について伝統的年中行事の解説書やネット情報を読んでみると、まずほとんどが信頼できないものばかりです。まずウィキペディアには、「古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依代(よりしろ)という意味合いがある。・・・・神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は『祀(まつ)る』につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。」と記されています。

 依代とは神霊が出現するときの媒体となるもののことで、早い話が門松は年神を迎えるための目印であったというわけです。しかし神聖な樹木と見なされたものは、古典的文献を探せば松の他にも杉・槻(つき)(欅のこと)・椎(しい)・柏(かしわ)・楢(なら)・榊(さかき)など、いくらでもあります。松が「祀る」を掛けているので正月飾りに選ばれたとされていますが、そのことを示す文献史料を見たことがありません。また梢に神が宿るという理解が広く行われていたことを示す文献史料もありません。門松というものが出現する平安時代に、松が年神の依代となっていたという文献史料など何一つ見たことがありません。近現代の民間伝承として古老がそのように語ったということはあるでしょうが、門松は平安時代には出現しているのですから、起原という以上は平安時代の史料的根拠でなければ、検証のしようがないではありませんか。

門松の年神依代説は、民俗学者が提唱し始めたことです。和歌森太郎という高名な学者は、その著書『花と日本人』の中で、次のように述べています。「門松は、いわゆる年(歳)神とか歳徳神の祭りを、年棚、歳徳棚を前にして行うために、門口や棚の上に、その神霊を依りまさしめる代(しろ)として据え立てたものである」。この書物は雑誌『草月』に連載された文章をまとめて単行本としたものであるため、生花に関係ある多くの人が読みました。そのためその影響は大きく、門松の年神依代説は一気に流布するようになりました。このような門松理解を、伝統的年中行事解説書の著者達は大学者の説としてありがたく頂戴し、それを参考にするネット情報の筆者達は、そのままコピーしているのです。

和歌森太郎『花と日本人』*5てそんなに影響力の強い音だったのね!ところで、「一休宗純*6と謂う。「宗純」というのは俗人にとっての本名(諱)に中る戒名であり、小僧として出家したときは「周建」という名前だった。17歳の時に「宗純」と改名。「一休」という道号を得たのは20歳のときである*7。何が言いたいのかと言えば、小僧の「一休さん」というのはちょっとあり得ないのだった。日吉丸に、おい秀吉! と言っても、誰のことを言っているのか気づかなかっただろうというのと同じだ。
「門松」に戻る。「門松」が「冥土の旅の一里塚」なのは死すべき存在としての人間にとっての話だろう。他方で、アルフレート・シュッツが「世界時間(world time)」と呼ぶ時間性の準位*8を考えてみると(Cf, The Structure of the Life-World)、そこにおいては「元日」というのはエンドレスな反復のひとつの折り返し点、或いは「一休」にすぎないのだった。