自分のスタンス的なまとめ

 ある大学での大量ビラ貼り問題に対する学内外の反応と会話
 https://togetter.com/li/206243

(経過が長いので1,7,8,9頁だけでもいいと思います)

(↑)のTogetterまとめを読み返して考えた自分のスタンスまとめです。有事の際の行動原理として理解していただくとよいと思います。筆者が学部一年だった七年前、2011年に目撃した内容です。一年おきに思い出したように読み返し続けて今朝方やっと飲み込みきれたので一気に書きます。セルフQ&A方式で。

Q. Twitterはアカウント非公開でない限り、発言は第三者から常に観測可能である。そのような空間において、特定組織や特定コミュニティ内部の問題をメンバー間で話し合うことは、内部の問題を衆目に晒すことになってしまわないのか?

A. 恥部を晒すという意味では間違いないですが、メンバー間の公共圏*1が現実としてTwitter以外に無く、また議論に達するための日常的なコミュニケーションの地盤がTwitterで築かれていることから、Twitterがメンバー間で問題を語る空間として機能することは必然であり自然なことです。
 また、問題を放置した結果、SNSを通じて外部に可視化された場合に「自治がなってない」と判断されるのは結局その組織やコミュニティなのですから、あえて恥部を受け入れ、問題解決に取り組むためにTwitterで議論を行う方がよほど生産的であると言えるでしょう。


Q. 問題をネタとして茶化したり炎上を煽ったりする態度や行為をどう思うか?

A. 表現の自由の範囲内に収まる行為です。特定の相手の特定の発言を主観的な不快感で容易に取り締まれるという考え方は、他人に対してそういった権利があるかどうかという観点から言えば根拠がありませんし、危険です。しかし、そうしたネタや煽りに、例えば道徳的な観点から批判を加えること(問題性の指摘であり、行為の自粛を求めるものではない)もまた表現の自由の一端であります。
 元々の関心に従って申し上げると、問題解決に生産性をもって取り組む上での方策として、こうしたネタや煽りに(問題の本質を見失わせることの危機意識をもって)批判を加えることも、迂遠なやり方ではありますが、公共圏の土壌形成として重要ではないでしょうか。直接批判を差し向けなくとも、野次を空リプライするのも有効だと思われます。

捕捉
 https://twitter.com/suneo3476Doc/status/775075550306066432
 "無知を免罪符にした非難の正当化(例:正確な管轄や問題の所在を調べずに「学務が悪い」などと罵る行為)が「みんなもそう思ってる/同意してくれる」という思考回路で実行されるのだとしたら、それはやっぱり本人の無知に問題があるよ。"
 https://twitter.com/suneo3476Doc/status/775080610024919040
 "ひとつ目の不満点としては、問題そのものと関係のない自分の感想はノイズでしかないこと。もちろん問題の深刻性を知ってもらうためにネガティブな感情は武器になるけど、それはネガティブな感情を引き起こすに足る問題のがあってこそで、この問題の深刻性を伝える努力が放棄されてしまうこと。"
 https://twitter.com/suneo3476Doc/status/775083791983321088
 "ふたつ目の不満点としては、本人にとっては自分の不満の主張自体が目的となってしまうため、それを強化する議論を受け入れがちになること。本人も、主張に同意してくれたみんなへの表向きポーズのために意見を変える機会を失ってしまう。これは本人のためにならない。"

Q. 七年前のことを知らない人間に向けて蒸し返すのはいいのか?
A. 無目的に蒸し返しませんし、意義があるので蒸し返しています。2015年大学祭の騒ぎ(↓)は、このような教訓が生かされなかった結果だと思います。このときアクションを起こして問題にコミットしていたのは、この中で実質一名のみだと思います*2

 某大祭参加団体のSNS告知禁止に対する反応
 https://togetter.com/li/891466

二年後の大祭でも言及していました。(↓)

 https://twitter.com/suneo3476Doc/status/929990022580789248
 "ツイートは鬱憤を気持ちよく排泄する最高の手段だけど、おととしの複数の炎上からの学びとしてSNS上の発言が大祭委員会から公式的に意見として拾われ扱われることはとても難しいと考えてよいので、お互いにとって生産的な展開を切実に望むなら実名で投書するか委員会室の扉を叩くのがベストだと思う。"

Q. どうしても抑えきれない何らかの対象への悪意はどうしたらいい?

A. 隠す必要はないです。本音を無理して装うと屁理屈のような主張にしかなりません。大抵それは、なんらかの負の感情を表層的に言い換えたに過ぎないものです。

とりあえず以上。

*1:共通の関心に基づいて問題を語り合うための公共的な言説の空間

*2:当時このまとめを出した直後に同期から批判がありました。たしか、炎上の火種になるみたいなニュアンスだったと思います(参考:https://twitter.com/suneo3476Doc/status/658312099144298496)。しかし、筆者は面白半分でまとめたのではなく、過熱するTLの方々に彼ら自身の発言を客観視させて冷静になってもらうのが目的でした。このあと、自らの発言を反省する方もいらしたと思うので、部分的に成功でしょうか。また、大祭関係者を介して、「まとめを通じて初めて運営に対する具体的な意見が見えた」というコメントをいただきました。もちろん良い評価ばかりでないことは察しがつきますし、その他大勢のヘイトを集めたことに相違ないのでしょうが、「敵」の多寡は本当にどうでもよくて、筆者の視点では全体としておおむね狙い通りの流れになったと感じていました。

京大の立て看板規制に思うこと

京大:立て看板、取り戻し設置か - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20180515/k00/00e/040/243000c

↑これに関する父上のFB投稿を母上がシェアしていて、そこに↓のコメントを書き込んだら数分で消えていたので父上が投稿消したっぽい。なんで? ということで、行き場の無くなった下書きをここに載せます。

 立て看板は京大自治の象徴、シンボルだから、立て看板のあるキャンパス風景こそが彼らの景観なんでしょ。それで、この記事だけ見ると京大生vs大学当局あるいは京都市という構図に見えるけど、学生だけでなく京大職員組合も立て看板排除に異議を唱えているんだよね(https://mainichi.jp/articles/20180515/k00/00m/040/048000c)。それらが規制対象になるというのは、自治の否定という意味にもとれるわけで。「京大の教職員や学生らが勝手なことをしていて京都市に迷惑を掛けている、けしからん」という見方のいっぽうで、「形式的には行政側の都合によって、京大の教職員や学生らの活動が抑止されようとしている、けしからん」という見方も持っておきたいよね。
 ところで、外側を綺麗に取り繕ってみせるのが観光なのだろうか? それならば京都駅南側も綺麗にすべき、という危険な発想に至らないだろうか? ここは中部に住んでいると意識しにくい視点ではあると思うし、ボクも昨年の京大11月祭に行ったとき、京都駅から河原町通りを歩いてアガりながら見た景色を見て、自分の持っていた京都の町並みのイメージというのは作られたものだったんだなと気付かされた。ボクは小綺麗な側面もイビツな側面も持ち合わせているのが京都の魅力だと思うな。前者は家族旅行で散々連れ回されたので、後者を見て知っていきたい。

日本史苦手な人こそ網野善彦『東と西の語る日本の歴史』

網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(1998年、講談社
 

東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)

東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)

【引用】http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061593435 内容紹介より

日本人は同じ言語・人種からなるという単一民族説にとらわれすぎていないか。本書は、日本列島の東と西に生きた人々の生活や文化に見られる差異が歴史にどんな作用を及ぼしてきたかを考察し、考古学をはじめ社会・民俗・文化人類等の諸学に拠りながら、通説化した日本史像を根本から見直した野心的な論考である。魅力的な中世像を提示して日本の歴史学界に新風を吹き込んだ網野史学の代表作の1つ。

元々ボクが興味を持っていたのは被差別部落で、この本を知ったきっかけは偶然見つけた部落差別に関する2ちゃんまとめ記事だった。

 部落差別に詳しいけど何か質問ある?(部落差別の歴史や文化について詳しく語られるスレ)
 http://world-fusigi.net/archives/8434990.html

地域史専攻を名乗る >>1 によると、特に東西の社会構造の差異が、それぞれの地域における被差別部落の形成過程に表れているという。勉強したいから本を紹介してくれというレスに対して挙げられていた本をアマゾンで調べて吟味した結果選んだのが網野氏の本だった。

日本史を勉強したことがなく「どうせ暗記科目でしょ」的な苦手意識を持っていたけど、この本はまさに日本史に対する印象を塗り替えてくれた。それは小説などが読めなかった中2の自分がハルヒを読んでドハマりした以来の衝撃だったと思う。もっと早く出会えていればよかったのに。

自分みたいな日本史に関心がない人間にとっての日本の歴史って、だいたい1000年くらいが貴族の時代で、そこから500年くらいなんか戦っていて、とりあえず1600年以降は江戸時代というのは知っていて、19c後半くらいから明治期、というお粗末なレベルだと思う。ここから脱出したかった。

学校で習った古代から中世史はいったいなんだったのか。これを朝廷権力を基礎とする公家政権による「西国国家」と、朝廷に従属しつつ自立した統治を目指す武家政権による「東国国家」、そして「東国―九州」「西国―東北」という地域同士の対立と連合という、地勢的な観点から立体的に理解することができる。

逆に湧き上がってきたのは、寺社勢力への興味である。本書では主に、朝廷と武家という権力主体が登場するけど、あくまで東西の差異を中心とする内容という都合上、寺社勢力の立ち位置や内実については細かに触れられなかった。これは良さげな新書を探してポチってある。

 伊藤正敏『寺社勢力の中世─無縁・有縁・移民』(2008年、筑摩書房
 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480064356/
 

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

また、網野氏の知的情熱は中世日本史に極振りされていて、本書では江戸期以降についての東西論は課題として残されていたので、その後の著作に期待したかったが、残念ながら網野氏は2004年に亡くなられている。それでもこの労作のもつ価値は決して小さくはない。

MTFの女性用トイレ利用が「バレないゲーム」という批判

MTFの女性用トイレ利用が「バレないゲーム」という批判 がありうるだろう、という長文を書きました。

***性犯罪とセクシュアリティ

①ヤフーニュース個人 https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20170919-00075941/
②ハフィントンポスト http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/18/sexual-molester_a_23248308/
東洋経済 http://toyokeizai.net/articles/-/194291

少し前に痴漢冤罪が話題になったこともあってか、性犯罪の加害者臨床をしている斉藤章佳氏へのインタビュー記事が相次いでいます。③はタイトル付けが少しおかしいと思いますが、それでも全般的には、痴漢行為と性欲の因果関係を否定する斉藤氏の主張は面白いと思いました。電車内の痴漢行為そのものは、ほとんどが男性が女性に対して行うものであることから、一見すれば、男性の女性に対する性的指向(いかなる性を性愛、性欲の対象とするか)と紐付けられるのですが、これは結果論にすぎない、というわけです。

いいかえれば、「性犯罪」と呼ばれる行為の中には、加害者の動機に対する性的な意味付けを指して「性」犯罪と呼ばれるものもあるのだと思います。スリルを経験するという意味では、盗撮もその類に入ってくるでしょう。友人の寝顔をバレないように隠し撮りした経験のある方は、被写体が見知らぬ他人に置き換わることを想像していただければよろしいかと思います。いっぽう、①と②の記事中で触れられている強姦という犯罪は、どちらかといえば加害者の性的指向が性行為という性犯罪の手段と結びついた「性犯罪」になってくる気がしなくもありません。しかし、強姦は加害者が被害者の身体を撮影して通報をさせないように脅すなどして捕まるリスクを低減させるケースも存在するので、「通報されない」ことを「バレない」ことの延長上に置いた犯罪としては痴漢行為と共通していると考えることもできそうです。

***トランスジェンダーの自分にとってのトイレという場の意味づけ

自分もあまり他人事でないなと思うのが、トイレの問題です。ボクは男性として生まれながら男性でない性を社会的に生きようとする、いわゆる「MTF*1トランスジェンダー(Transgender、TG)*2で、日常生活では公共の男女別トイレを利用するとき、基本的に女性用トイレに入室しています。消極的理由としては、男性用トイレに入室することで他人から「結局男性なんだ」と看做されることが苦痛から逃れること。積極的理由としては、ボクが女性用トイレに何のトラブルもなく入室する/入室したことで「ボクは女性の特権的空間に立ち入る資格があるのだ」という個人的な達成感を得ることが挙げられます。

例えば、最近日本の世田谷渋谷区役所などの公共施設などに登場している、性別やセクシュアリティを問わない「だれでもトイレ」は、このうち消極的理由を解消する材料にはなりえるでしょう。しかし、だれでも利用できる以上は、性別による特権的な意味を「だれでもトイレ」は利用者に与えられません。「お前はトランスジェンダーだろ、あっち行けよ」とでも言われているような気分になるでしょう。もちろん、女性用トイレの既存の利用者からの露骨な反感を買うのだとしても、です。

***女性用トイレへの入室は「パスする」ゲーム?

ここまで一段落を消費してボクは女性用トイレに入りたいんだという溢れ出る自意識についての話をしたんですが、もう少し女性用トイレに問題なく入室することがトランスジェンダーにとって持つ意味について言及します。トランスジェンダー当事者のスラングに、生まれながらの性と異なる性として社会的にうまく溶け込めるかどうか「パス(pass)度」という言葉があります。たとえばボクは日常生活において公共施設などの女性用トイレを他の利用者に咎められることなく使用していますが、このとき「筆者はパス度が高い」「パスしている」などと表現します。パス度が高ければ、レストランや映画館などでレディース料金を利用しても*3その場では是非を問われる可能性が低いということです。

本稿では踏み込んで言及しませんが、パスする難易度はFTMよりもMTFの方が高いです。するとどうなるか。パスできる当事者とパスできない当事者*4で当事者内の序列化が生じることはもちろん想像に難くないでしょうけれども、それをも踏まえながら、パスの成功が、当事者のセクシュアリティ的な達成から浮遊した一種の「パスする」ゲームとして当事者間で競われることになります*5。ですから、「筆者は他のパスできていないMTFへの優位性を得たいがために女性用トイレに入室したがっている」という見方はありうるでしょう*6

***「バレないゲーム」と読み替えられうるという批判の課題

話を戻すと、このような「パスのゲーム」の観点からすると、MTFの女性用トイレの入室は、痴漢行為や盗撮行為と変わらないという批判がありえます。なぜなら、「パスのゲーム」といえば当事者的には快いですが、既存の利用者からすれば「バレないゲーム」に過ぎないからです。ストレートに言えばMTFのやってることは犯罪ではないかと。犯罪に対する指摘に対しては、日本の法的には犯罪にはあたらないという反論はできますが*7、もっと大事なのは、法的に犯罪であることではなく、その「犯罪性」を問われていること、つまり慣習のレベルにおける、日本の男女別トイレ利用規範が問われているのです。すると、物事の「是非」というよりは、まずこの規範に切り込んでいくのが適切なアプローチのように思われます。また、これは社会学専攻の筆者自身の興味によるものですが、トイレ自体が近代化した現代にあってどのような位相にあるのかも見極める必要があるように思います。

次に取り組むものがが見えてきたところで、いったん筆を休めることにします。長々と呼んでくださった方にお礼を申し上げます。もし、「お前は物知らずだ!」ということがありましたら、可視的なかたちでお叱りのコメントを頂戴できると泣いて喜びます。

***訂正(2017年10月25日)

だれでもトイレ」を設置しているのは世田谷区役所ではなく渋谷区役所の誤りでした。お詫びして訂正致します。本文は打ち消し線で明示的に修正済です。

***参考文献

森山至貴『LGBTを読みとく』(筑摩書房、2017)
筑摩書房のウェブサイト

*1:Male To Female、「男性から女性へ」の意

*2:歴史的経緯から、広義の「トランスジェンダー」と狭義の「トランスジェンダー」が存在します。元々は性別への違和に対して望む性で社会的に生きることを望む人々をトランスジェンダーと呼んでいたのが、肉体的な手段による性別違和の解消を望む「トランスセクシュアル」(Transsexual、TS)や、異性装を手段とする「トランスヴェスタイト」(Transvestite、TV)といった人々をも包括する概念として、広義の「トランスジェンダー」が90年代に登場しました(参考:森山至貴『LGBTを読みとく』(筑摩書房、2017))。

*3:それらの制度が背景にもつ本来的な趣旨とは異なることとは別として

*4:スラングで「ノンパス」と言われます

*5:現場では孤独に競っているという意味では「自分との戦い」かもしれない

*6:この見方を筆者自身は否定しておく。他の当事者と競う以前に、パスできるかどうか分からない自分と戦っているからだ

*7:この日本の法的な事情については別稿にでも書きたい

公民館や集会所とは異なる地域の公会堂

 先日、調査研究活動の一環として、キャンパス周辺の地域の単位地区自主防災隊のインタビューを行なうため、インタビュー協力者に案内された地域の「公会堂」に赴きました。その調査の帰り道にインタビューの補助をしてくださった方が「「公民館」と「公会堂」ってどう違うんですか?」と尋ねてきました。うーん、確かになんで違うんだろうなと考えて、行政的な意味合いが強いのが公民館で、ローカルな意味合いが強いのか公会堂ではないかという推測を述べました。

 公民館に関しては「社会教育法」の第五章(第二十条〜第四十二条)に規定があり、公営を基本とするようです。筆者らが訪れた公会堂は、見たところ町民が管理しているように見えました。

(目的)
第二十条  公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。
(公民館の設置者)
第二十一条  公民館は、市町村が設置する。
2  前項の場合を除くほか、公民館は、公民館の設置を目的とする一般社団法人又は一般財団法人(以下この章において「法人」という。)でなければ設置することができない

(太字は筆者/引用:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24HO207.html#1000000000005000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000

 公会堂は法律による規定はみられませんが、歴史的には公営、民営とも存在していたようです。ただ、ここで言及されている公会堂というのは例えば「はまホール」の名前で親しまれた「浜松市民文化会館」のような、大規模な公衆講演に適した「集会所」「講堂」を指しているようです。筆者らが訪れた地域の公会堂は主として地域住民が集い、自治会活動に特化した施設ですので、「集会場」的な公会堂とは区別して捉えるのが妥当でしょう。

公衆のための公益的な大集会行事に適した会堂のこと。これにあたる英語はパブリック・ホールpublic hallで、福沢諭吉らの唱道した「演説会」――のちに講演会・雄弁会等も加わる――を晴雨にかかわらず開催できて、しかも営利性と無関係な会場を要望する声が強い世論となって造営されることになった。いわば大正デモクラシーの象徴ともいえる建造物である。地方自治体による公営のもののほかに、地区住民自治組織で設ける民営のものも相当数あった。市立として早くできたものに、京都市岡崎公会堂(1916)、大阪市中之島公会堂(1919)、東京市墨田公会堂(1926)、同日比谷(ひびや)公会堂(1929)などがあり、たとえば岡崎公会堂では1921年(大正10)アインシュタイン博士の講演会が行われた。

(太字は筆者/出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/引用:コトバンク「公会堂」 https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E4%BC%9A%E5%A0%82-494308

情報学イブニングセミナー@情22/7/11(火)18時〜

大木先生@情報学研究推進室のメーリス連絡から切り貼り。

情報学イブニングセミナー@情22/7/11(火)18時〜

  • プログラム -
                                                                                    • -

第1部:「信頼と情報社会」
1800 山本 祐輔「信頼できるウェブ情報を得るために、情報技術がすべきこと」
1825 大木 哲史「パスワードがない世界はやってくるのか? 生体認証技術の可能性と課題」

1850 <コーヒーブレイク>

第2部:「クリエイティブ産業と情報学の未来:電通過労自殺問題から考える」
1910 藤岡 伸明「クリエイティブ産業の労働時間削減をめざして:労働社会学的アプローチからの提案」
1925 須藤 明人「クリエイティブ産業はどこまで自動化できるか?Computational Creativity
(計算論的創造性)の現状と未来展望」

1940-2000
公開討論「クリエイティブ産業と情報学の未来:電通過労自殺問題から考える」

2017年6月6日

9時半 起床 外戚の実家に地下室が存在するタイプの夢を見る
11時 登校 『ケータイ小説のリアル』半分くらい読む
Y先生と雑談する
18時 TAの仕事をする
20時 カタンを布教しにいく
21時半 ネサフ
22時半 下校