2011年度研究会(近況報告会)のお知らせ
このブログを放置していて、申し訳ありません。
今年度も下記の日程で、研究会を行う運びとなりました。
日時 平成23年8月20日(土)14時より
場所 東京学芸大学人文科学研究棟1号館(通称:サンシャイン)6階 社会科教育演習室
今年度は、主催者側の勤務の都合で、諸々準備ができませんでしたので、自由研究のみとさせていただきます。
また、今年度も昨年度に引き続き、「続けて行う」ことを重視していきたいと考えていますので、研究という視点よりは、むしろ「現場に出て、大学の学びがいかに役立っているか」、あるいは「普段、現場でどんな授業を行っているのか」という点を重視した研究会にしていきたいと考えています。
発表は何でも構いません。自分の授業を紹介し、様々な意見を受けながら、よりよいものに仕上げていきませんか?
現在、発表者を募集しています。発表してくれる方は、aoimori2006@yahoo.co.jpまでメールをください。よろしくお願いします。
謹賀新年
新年明けましておめでとうございます。
昨年は大学院を卒業し、無事に高校の現場に立つことができました。
今年は無事に仮免時期を終え、真価の問われる2年目となりますが、日々に雑務に負けず、社会科の授業に研鑽を積み重ねていきたいと思います。
今年も夏休みに研究会がてら同窓会を開けたらいいな、と思っていますのでよろしくお願いします。
池上彰とマイケルサンデル
久々にだらだら書きたいと思います。といっても、かつての大学院時代ほど頭のキレはないので、その辺ご容赦。
今年は社会科、とりわけ社会認識や市民的資質を考える上で、とても参考になる2人の人物が現れました。
この2人、今の社会科の潮流でいうと、池上彰が科学的探求主義社会科、そしてサンデル教授が市民社会科(批判主義社会科)というものでしょうか。
まず、科学的探求主義社会科は、その代表的論者に森分孝治氏がいますが、よりざっくりした説明でいうと、社会科は社会科学の知見に基づいて、社会を「説明」できるような能力を身につけなければならないというものである。
なぜ社会科学かといえば、それは社会科学が専門家たちの議論を経た上で、現段階で暫定的に「正しい」とされる認識だからであり、しかもそれがどこの地域、どこの社会の事例にあてはめてもおおよそあてはまる普遍的知識(森分氏はこれを一般的説明的知識と呼ぶ)だからである。
つまり、社会科で教えるべきは、例えば「工場は費用コストが低くなるところに立地しやすい」や「人々の消費が活性化すると庶民中心の文化が生まれやすい」などのどこの地域、どこの時代にあてはめてもおおよそ通用する知識であり、それを具体的事例を通して理解することで、社会認識を深めていくべきだとする考え方である。
これを今年、メディアを通して大々的に行ったのが池上彰である。彼が大うけしたのは、この時代の閉塞感からもっと社会を知りたいという人々の欲求の上に、一見すると難しい知識を「誰にでも分かるように丁寧に」説明するからである。しかもその問題は、教科書的な知識ではなく、領土問題、環境問題など、人々が長い時間をかけても解決できない問題である。
それを池上彰は「どうして領土問題が起こったのか」「どうして環境問題が起きているのか」という「どうして(Why)」という問いを中心に、具体事例を挙げて探求していく。ちょうどそれは、探求主義社会科が「なぜ(Why)」という問いを中心に授業をしていくことの有効性を指摘している点と類似している。
僕は個人的には池上彰のテレビは参考になるのでよく授業ネタとして使っている。自分も授業は探求主義もどきの授業で、生徒が理解できるように授業を心がけている。
ただ、探求主義社会科はその認識が特定の科学理論を基にした探求に陥るという点で、認識が閉ざされてしまう、という批判に90年代以降さらされることになる。
それはきっと池上彰にも言えることだろう。メディアでは池上批判をあまり聞かないが(すると池上さんが来なくなるからだろうが)、テレビで語っている理論にだって十分批判可能性があるはずである。また、場合によっては間違っているかもしれない。あくまで池上彰の頭の中の理論であるから、それが「100%正しい」とは言えないのである。
それに対して、社会科にはもうひとつの潮流がある。それが、意思決定主義社会科以降、主に公民教育の分野を中心に登場した批判主義の考え方である。これは池野範男氏が代表的論者かな。
これもかなりざっくりした説明をすると、理論を批判するためには、その背景にある価値観、及びその価値観を支えている知識を相対化し、複数示した上で、「あなたはどっち?」と問う形の社会科である。これをすることによって、社会科の目標である社会を批判的に見る能力と、それを踏まえた上で議論をする能力の両方を養おうとするものである。
それを地でやっているのが、ハーバード白熱授業でおなじみのマイケル・サンデル教授である。彼の正義論の授業は、正義というのは一人ひとりの価値観やそれを支えている認識によって全く異なる、だからこそお互いの「正義」を表出させ、より確からしい「正義」へと導いていくというものである。
近年、この白熱授業は日本でも注目され、東京都職員の研修や、大学の授業でも積極的に導入されているとか。
僕は社会科の究極はここにあるんだろうなあ、とは常に思うけど、僕自身の社会科観は残念ながらこれではありません。なぜなら僕はこのタイプの授業をこう思っているからです。
まず一つは、この授業は優秀なプロデューサー(教師)がいないと絶対にできない実践だからです。価値観を表出する、議論をするというのは、時として感情論になります。特に議論が苦手で、批判と否定の区別すらつかない日本人、まして中高生にこれをやるのはかなりの無理があると自分は思うからです。
そしてもう一つは、これを受ける側に知識がないといけないと強く思うからです。この手の議論が面白くなるかはひとえに、議論をする側の力量に関わってきます。サンデル教授の授業も、発言できていたのは結局、エリートさんだったような気がしましたし、この間やっていた日本版白熱授業も、シラバスを見ると、あの議論の前にきちんと未来の社会を描きだすヒントみたいなものを授業で教えているようでしたし。
だから、白熱授業が素晴らしいから、プレゼン能力が身につくからといって安易に導入しようとする人間には僕は虫唾が走るわけですよ。いわゆる「○○力」と叫んで、結局中身は何もなし、的な。
ただ、白熱授業の内容は、どれもこれも面白いものばかりなので、いつかはやってみたいな、とは思っていますけど。
議論を分かりやすくするために、わざと二項対立で描きましたが、結局、白熱授業のようなレベルの高い授業(=社会問題をオープンエンド、生徒任せで行う授業)をするためには、その基礎となる池上彰みたいな知識が必要だと自分は思うわけですよ。だから自分の勤務校では白熱授業はしないし、しても意味がないと思っているわけです。
だから僕は、今の勤務校では社会科は池上彰のように教えようと思っていますし、それを2011年も続けていこうと思っています。
長くなりましたが、今自分が社会科について思っていることです。
[研究会]研究発表を終えて
第1回研究会終了
本日、無事に第1回目の研究会が終了いたしました。
今回は発表者3名のほかに、先生も含めて参加者4名の計7名の参加がありました。
社会科教育演習室でじっくりと議論するにはちょうどよい人数であったかな、と思っています。
現場の公務を言い訳に、なかなか宣伝ができなかったこと、このブログの存在をあまり知らせなかったこと、日程を事前に示さなかったことなど、様々な不手際がありましたが、宣伝の少なさからすると、結構な人数の参加者になったと思います。
どんな内容の議論となったか、あるいは発表者の感想などは追々アップしていきたいと思います。
改めて発表者・参加者のみなさん、お疲れ様でした。今後の仕事に研究に、お互い邁進していきましょう。
そして、また来年第2回目を実施しましょう。ひとまず2回目の運営も自分が担当することとなりましたので、引き続きよろしくお願いします。
また、研究会の名称も早めに決めましょうね。何か案がありましたら、お知らせください。