価値の多様性

価値の多様であること、あるいは、個別の価値の尊重。一方的な提示ではなく、フィードバックによる変化。
一方的、画一的であることの向こう側。
現在でいうと、こちら側。


なぜ多様であるということはよいことなのか。
それぞれの人間でいなさい、と言うことは、人々を納得させるのか。
誰かとの比較ではなく、個別の存在として価値を認められることに、私たちは心地よさを感じるのか。


意味がない、とは思いたくないからだ。自分の人生に意味があったと思いたい。死んですべてを失うとは思いたくない。あるいは、死ぬときに、意味がなかったと思いたくない。


多様、という言い方は、その願いを救う。そのままでいていい、と言うことは、比較からその人を解放する。


自己の基盤とは、自己であることだが、その基盤の確立には、常に比較がつきまとう。自然なことであり、そもそも比較しなければ、位置は決まらない。
だが、比較には感情がつきまとう。感情を自己の基盤と切り離すためには、感情に左右されない要素が必要だ。


個別と多様という言い方は、個人の自己を、他者の視線から救う。他者とは異なる価値、他者とは異なる自己、というもののまっすぐな肯定として、多様という言い方がある。


ではなぜ今、多様か。あるいは、個別的であることなのか。

働くということ

だいぶご無沙汰になってしまいました。実はこの2年ほど、ドイツはハイデルベルクにおりました。とても綺麗な大学町で、貴重な時間を過ごすことができました。
帰国後すぐ仕事を探しておりましたが、このたびめでたく中規模の住宅関係の会社へ入社が決まりました。


とても面白い会社で、こんなにここで働きたいと思う会社は初めてです。今回ここで働くことで、奇しくも3年前に私が書いていた、デザインやものづくりに携わることができるかもしれません。


あのころ、私はようやくデザインすること、そして働くことについて考えはじめました。そして今、以前にもまして、自分で動いて考え決める、という働き方について考えています。
企業とは、確かに多くの人が働き、それぞれの役割というものもある程度決まっています。ただ、その企業を動かすそれぞれの人は、完全に受動的でいては企業は止まってしまいます。社員が自ら考え行動すること。これを強く求めているのが、今回出会った会社でした。


私は、ほとんど偶然のこの出会いを、運命とよびたい衝動にさえ駆られています。同じように考えて、大きな企業にしている人たちがこんなにいるんだ、そう思ったら、嬉しくて、心強くて、本当に叫びだしたい気持ちでした。会社に負けないくらい、私自身も変化し、たえず動き続けよう。そう思いました。
すこし、浮かれています。でも、熱意というモチベーションを維持できるだけの大きさが、この会社にはあるのではないかと感じています。

建築アーカイブ

面白いサイトを見つけました!
ALL-A:http://blog.all-a.net/
きっと書き手のタケさんはとても勉強熱心で建築が好きな方なんだろうと思います。氏の書いた建築マップの記事(ロンドンに関する記事がすばらしい)もすごく充実しており、面白かったです。こういう、読み手がわくわくするような記事を書きたいです。

建築マップ:http://www.archi-map.jp/


タケさんの書かれた記事:
http://all-a.net/a_map/uk_london/haysgalleria/haysgalleria.html
http://all-a.net/a_map/uk_london/tatemodern/tatemodern01.html
などなど、他にも多数。


私も反省して、以前撮影してしっぱなしの写真に解説をつけていこうかと思います。日本建築の様式って、勉強しないとよくわからないものだし。以下、簡単なリスト。


ニューヨーク、ヨーロッパ旅行時の建築写真をアップし直す、もしくはサイトの復旧(メインのほうで)
寺写真の解説
それぞれの英語解説の併記


一年くらいかかるかもしれませんが、ゆっくりやっていきます。

それ自体は悪くないのに、多用されることで意味を失う

スタイリッシュ、シンプル、という言葉の使い方に戸惑いを覚える。特に、この言葉が宣伝文句として用いられる場合が顕著だ。さらに言えば「スタイリッシュな○○」「シンプルでスタイリッシュな○○」などという言い回しに出会うと憤りすら感じる。この人はほんとうに、この品物を売りたいのだろうか、この言葉が働きかけることになる人がどういうタイプの人間かわかっているのだろうか、と思う。
こういう言葉遣いを反省する場合、何かを褒めるときにその言葉を使うかどうかを考えてみると良い。友達の家に行って、形の美しい椅子に出会ったとき、「わー、スタイリッシュな椅子だね!」とは、私なら言わない。その椅子がほんとうに素晴らしいと思い、その椅子に感動したなら、その椅子のどこに、どんなふうに感動したのか、もっと細かく伝えようと努力するだろう。それが親しい友人であるなら尚更そうだ。
紋切り型の表現は、短い文字数の中で特定のイメージを喚起するためには有効だが、それが過ぎると、今度は狙ったイメージをまっすぐに指すのではなく、むしろ「多用されすぎて陳腐化した表現を使う担当者によって売られている」というイメージの方を先に喚起してしまうことになる。いわば逆効果だ。
宣伝文句は斬新でなければならないということはない。ただ、それが、受け手にとってどんな印象を与えることになるのかだけは、常に意識しなければならない。そのコントロールがいかに難しいことであるかを差し引いても、宣伝担当者が自分自身の用いる言葉に無自覚でいて良いと言うことには、ならないからだ。