明日からNYです

夢の島   :日野啓三
西洋音楽史 :岡田暁生
イデオロギーの崇高な対象:ジジェク
異常者たち :フーコー
基礎から始める世界史B
フロイトラカン新宮一成
終末的建築症候群:飯島洋一
現代建築に関する16章:五十嵐太郎
瞳子    :吉野朔実
あのころ、白く溶けてく:安永知澄
絵画を読む :若桑みどり
畸形の神  :種村季弘
反建築史  :磯崎新
インディヴィジュアル・プロジェクション阿部和重
イッツ・オンリー・トーク:糸山明子
右手の優越 :ロベール・エルツ
白い果実  :ジェフリー・フォード
現代写真のリアリティ:宮本隆司
アーキラボ :
廃墟大全
廃墟ノスタルジア
批評理論  :丹治愛
現代思想入門:北田暁大
パサージュ論:ベンヤミン
痛々しいラヴ・blue・南瓜とマヨネーズ魚喃キリコ
王様のDINNER・グルービィナイト:吉野朔実
ひかりのまち浅野いにお
レヴィナス入門:熊野純彦
1970年 物質と知覚
ハッピーエンド:ジョージ朝倉
スノウ・クラッシュ:ニール・スティーブンスン
カリスマ先生の世界史
フォトグラファーズ:飯沢耕太郎
小林秀雄全作品集


あと、カーサブルータスくらいだと思います

ストローブ=ユイレの軌跡@アテネ・フランセ 最終日
浅田彰によるダニエル=ユイレ追悼記念講演メモ




ダニエル=ユイレが70歳で死去。追悼は、日本ではユリイカ(今月号)のみ。

ゴダール:「正しいイメージはない。ただ、イメージがあるだけだ」
イメージによるイメージ批判、メディアによるメディア批判→「映画史」のような巨大な万華鏡
割と受け入れられやすいと言える。


それに対して、ストローブ=ユイレは、正しいイメージは存在するし、必要である、とする。一種の唯物論
「正しいイメージ」に拘り抜く。ある種の重しであり、碇である。


ゴダールは、ある時は、アンナ・カリーナと結婚し、メナヘム・ゴーランと同志として協力し、アン=マリー・メルヴィルと逃走する。
ユニットとしては成り立っているが、絶対的ではなく、パッとした共鳴。


ズトローブとユイレは別ち難い。17歳から一緒にいる。
ユイレは、ソルボンヌに一応入るも、30分で退学。映画学校に入ろうとするも、試験を白紙で出す。その後、2人で映画を撮り始める。

この作品は、”間違って”クラシックファンが観たりもしたが、その後の作品はワケが分からないということで、その人達は置いて行かれた。
けれど、この作品に戻ると、彼らの方針がはっきりする。


当時無名だったグスタフ・レオンハルトを主役として撮るかで揉める。(カラヤンなどと言う案もあったが却下)
結局、実現まで10年かかり、その間に、譜を作り、当時の楽器、当時のスタイルで撮ることにする。
これは、彼らの厳密主義をよく表している。昔は、オケは10人くらいだったし、ビブラートも無く、強弱も強or弱、指揮台などもなかった。
禁欲的であり、ミニマリズムとも言える当時のスタイルを厳密に表現する手法は、60年代にはマイノリティだったが、現在では広がっている。(むしろ流行しすぎ)
これらは、ワグナーのような「どうだ、この美しさ」という美の帝国主義、美しい流線型で聴衆を引き込む後期資本主義、半強制的な共同体の全体的感情移入に対する批判であると言える。(だからカラヤンは却下)


この様に、大変厳格であると言えるが、逆に言えば普通の映画は厳格でなさすぎる。
ストローブ=ユイレの作品は、台本がとても細かく(音楽スコアのように)、素人俳優主体で、徹底的な稽古を積み、即興などを許さない(ヌーヴェルヴァーグと異なる)ことにより、最高の素人集団を作り上げている。

  • テクストを精密に朗詠する労働

オペラのオケは、客席から見えない。けれど、演奏会などのDVDを我々は観る。最終結果はCDで良いはずなのに。
これは、音楽の生産という一種の労働を観たいのであり、譜を正しく弾くこと、それだけで感動的であり、作品として成り立つということだ。
これと同様に、テクストを精密に朗詠していることそれ自体で、例えイタリア語が分からなかったとしても、感動的であり、作品として成り立つ。
2人の人間*1が、脚本をリサイタルするだけで感動的である。


ユダヤ人であるフォルティーニが、イスラエルを告発する「フォルティーニ/シナイの犬たち」は、イタリア人の詩人フォルティーニが、思い出のテラスで、自分が書いた詩をイタリア語で朗詠する作品である。
それを読むにおいて、フォルティーニ自身が書いた詩であるにもかかわらず、厳しい朗読稽古を受け、同じ場所で、思い出の花が咲くのを待って、撮影された。
観ていると、これが音楽だと思うときがあるが、その時、ストローブ=ユイレのフィルムを体験していると言える。
自分の文章をずっと読む作家がいるだけなのだが、「正しいイメージ」であり、それだけで、音楽的・文学的である。内容もあるけど、それは別にいい。


これらは、そう奇異ではなくて、ものすごくまっとうなことである。音楽では当たり前なのに、映画だと奇異に映るだけ。
「正しい」テクストの朗詠を、「正しく」撮っていることで、それ自体に価値がある。
バッハの「正しい」演奏を撮ろうとした時から同じである。

  • 2人について

ダニエル=ユイレは、労働としての厳密性を良く表現していた。
『あなたの隠された微笑はどこにあるの?』は、『シチリア!』の製作過程を撮った傑作ドキュメンタリーであるが、その中で、ユイレはてきぱきと労働し、ストローブが後ろで色々文句を言い、ユイレが怒ったりする。ユイレが亡くなったことは、ストローブにとって大きな喪失だと思われる。


ヴェネツィアで銀獅子賞を9月に取ったが、ストローブは、俺はテロリストであってそんなもの貰わない的なことを言って、参加せず。
その翌月ユイレが亡くなった。
アンティゴネーから10年程度で、妥協の一切無い作品を多数製作した。
「こんなに徹底したら、これ以上は無理」という点に最初から立っていた。
スゴイものを見て、茫然自失するのが、正しい見方である。

ゴダールのアワーミュージックは、先に撮られたダニエル=ユイレへのレクイエムに見える。
反暴力的テロリズムを行い、射殺されるオルガは、平和のためのテロリズム/反暴力のための暴力を追求した女性へのオマージュとレクイエムのようだ。


最後にこれを上映。
http://www.youtube.com/watch?v=EGU06JQ92lc

*1:本日上映の「あの彼らの出会い」が2人登場人物だった

アメリカ、家族のいる風景 [DVD]

アメリカ、家族のいる風景 [DVD]


数十年前はプレイボーイ、今は孤独な初老の男である主人公が、『子供がいる』という情報を知って、昔の女を訪ねるロードムービー
おそらくこの作品は、ブロークン・フラワーズと並べて論じられるべきだろう。
片方は、遠慮がちに花を抱え、今なお「元プレイボーイ」として登場し、現在の彼女らと一瞬の交点を探る。
片方は、「父親」として現れ、再び家族たる彼らと共にある新しい生活を探る。


流石ヴェンダース映画らしい映像と音楽で切り取られる風景は、最初から最後まで美しい。
すなわち、カウボーイはカウボーイのように振る舞い、息子は家中の家具を二階の窓から放り投げ、娘は道ばたに横たわるソファーに父親と座り、彼を諭す。
この上なく贅沢な映画的経験だ。これを観ただけで、実は十分にお腹いっぱいになれる。


しかしながら、本作の問題点は、「Don't Come Knocking」に、(どういうわけだか)「アメリカ、家族のいる風景」などという邦題を付けてしまったことに集約する。
そもそも、彼らは「家族」なのであろうか、という疑問は禁じ得ない。
30年(そう、30年!「パリ、テキサス」の8年くらいとはワケが違う。子供は完全に成人している)失踪していて、子供が生まれたことも知らなかったクセに、老いて、将来の孤独に不安を感じ、子供がいることを知ってこれ幸いに仕事から逃げ出してきた男は「父親」であるのか?
アール(息子)が彼をはじめて見たときに言った「Who are you!?」に、主人公は「I'm your father!!」と即答した。
この時に感じる強烈な違和感は、「人は、別々に生きている場合は、繋がり得ない」「関係性を作ることは困難なことである」「関係性があってもなくても、人間は一人である」という様な、極めてプライベートな(けれど誰もが持っているような)価値観と相違するものだからだ。


30年離れていた主人公に対し、何の抵抗感もなく愛情を示し、アールとの和解を説き、「家族」をやり直そうとするスカイ(娘)は、彼女の身元がはっきりせず、どこから現れたか解らない為に、フィフスエレメントやらAIやらアンジェラやら、あの辺りの「空から降ってきた天使」的ですらある。
30年、プレイボーイも限界に来た頃に「父親」として第二の人生というわけだ。
本当は「Don't Come Knocking」であることは明白であるのに、あまりに主人公の求める家族像は安易に提供される。
映画的ご都合主義に対する苛立ちと言えばそれまでだ。ただ一つ確かにしておきたいのは、好ましい映画的ご都合主義とあまり好ましくない映画的ご都合主義があり、本作は後者である。


それに比べて、あの遠慮がちで丁寧だけれど、喩えようもないほど孤独である彼はどうであったか。
彼女たちを訪ねる前に、毎回花屋で綺麗な花束を作り、それを抱えて思い出に会いに行く彼は。
「僕のことを覚えているだろうか」と、毎回呟きながら、孤独を確認するために、感傷的に彼女たちに会いに行く彼は。
フィクションの中での「プレイボーイ」という設定が、本当に感覚的に理解できることが時折あるが、ブロークン・フラワーズはその典型だ。
つまり、彼が出てきてからほんの数十分で、彼のことを大好きになってしまうということ。


年月とは重く、過ぎたものは取り返せず、人は孤独である。
だからこそ、思い出はやり直すためではなく、追憶するためだけにある。
何もかも取り返しがつかないまま年をとり、記憶はなぞられるためだけに存在し、「僕のことを覚えているだろうか」と意味は無いのは承知で祈る羽目になる。


そう、記憶の中に痕跡が残ることだけが重要になって、何かをやり直すことなど出来ないし、したくもならないはずだ。
そもそも、共にいた記憶すら一度も共有しない者同士は、その様な追憶の中ですら「関係性」を共有することは出来ない。
だから、「家族のいる風景」など、最初から最後まで存在し得ない。あるのは「今更来ないで」だけだ。


ノスタルジア [DVD]

ノスタルジア [DVD]


映像美。本当に美しい。DVDがTSUTAYAになくて、VHSで見たのが悔やまれるレベル。このコミュの画像のシーンとか、本当に圧巻。
シンセミアの、表紙画みたいなシーンばかり。(あの装丁が、この映画からインスピレーションを得てると言われても納得する)
しかし、静かな音の中で美しい映像がずーーっと続くので、死ぬほど眠くなる。
時折いきなり流れるベートーベンとかが強烈。「うわお。寝ちまった!」と目が覚める。でもまたうつらうつら。
何が問題って、ストーリーとか、あってないようなものなところ。
要するに、「詩」なんだろう。映画で「詩」をやってるようなもの。音楽・映像・言葉。物語なんていらないのだろう。
素晴らしい。でも、2時間は長い。眠い…、名作だけど…、眠い…。