追憶のドゥ・ミルフィーユ


  一.


 僕の右手は義手だ。二の腕から先が僕にはない。ずいぶん昔、物心つく以前に事故に遭い、生死の狭間をさまよっていたらしい。そして僕は一部の記憶と、右手を失ってしまった。ある意味で、事故に遭うのが早くてよかったと思っている。作り物の右手というのが当たり前の状態なので、物理的な意味で苦労した記憶が特にはないからだ。もちろん、精神的に苦労したことは何度かあったが、まあそれはいい。それに近頃の義手は中々に優れた代物らしく、注意してみないことにはそれが偽物の腕だということが案外判らないのだ。まだまだ実用化には至っていないが、神経から電気信号を読み取って、思い通りに動かすことのできる義手も作られているらしい。いつかは僕も普通の人と同じように両手を使うことができるのかもしれない。でも、仮にそれが実用化されたとしても、取り付けるには多くの費用がかかるだろうし、そこまでして腕を手に入れたいかと言われると、少々考えてしまう。今のところは、単に右腕の空白を見てぎょっとされることがないようであれば、それでいい。
 しかし、彼女と手をつないで歩いている時だけ、僕はこの手のことが気になってしまう。ああ、彼女の左手と僕の右手をつなぐことはできないのだな、と。
 今までの恋人たちは僕の右手を気にして、同情からいつの間にか愛情に変わるというパターンが多かったように思う。居心地がいいのやら悪いのやら、不思議な気分をずっと感じていたものだった。この手でよかった場面もあったし、悪かった場面もあった。客観的に見れば、右手が不自由なのは中々にキャッチーな話題だというのが一つの利点だっただろう。そんな風に客観視できる程度には大人になったということかもしれない。欠点は――何と言えばいいか難しい所なのだが、あえて言葉にするのなら――今まで付き合っていた彼女たちはみんな「手の不自由な僕」を求めているのであって、「僕自身」を求めてはいないような気がしてならなかった。いつの間にかぎくしゃくして、すぐに別れていた原因も、押し付けようと思えばそこに押し付けられるだろう。
 今の彼女にも、確かにそういう部分はある。しかし、彼女だけは何かが違っていた。何が違うのかはわからないけれど、彼女の好意は、不思議と懐かしい気すらするような自然なものだった。あるいは、単に僕がそうあって欲しいと望んだからかもしれない、と思っていたこともあったが、彼女と一緒にいると実に居心地がよくて、瞬く間に一年が過ぎてしまった。
 彼女は僕に何を求めて、僕は彼女に何を求めていたのだろうか?
 このことを考えたことはないと言えば嘘になるが、今まではすぐ近くに彼女がいるという幸福感があり、徐々に安心感に変わり、そして側にいるのが当たり前になって、ようやくそのことを考え直すようになった。一年。長いようで短い時間。答えはまだ出ていない。これから見つけていけばいいと思う。
 ところで、僕には右腕以外にも不具合がある。事故の後遺症なのか、僕は時々ある物事を忘れてしまうのだ。一体どういう理由なのか、忘れてしまうのは女性についてのことばかりだ。記憶を失うというほど大事ではないし、流石に顔を忘れたり名前を忘れたりはしないが、何度か特別な記念日が頭からすっぽ抜けてしまい、怒らせてしまったことがある。今の彼女はそうならないように、付き合い始めた日や、最初に顔をあわせた日など、ちゃんと手帳にメモを取っているので今のところは平穏なのだけれど。
 彼女と付き合い始めて今日でちょうど一年。一応、最長記録を更新し続けている。もちろん彼女は覚えていて、僕も手帳のおかげか忘れてはいない。彼女好みの洒落た店を探し出し、少しリッチにディナーでも、という運びになり、僕はついさっきまで彼女の右手を取り街を歩いていたはずなのだ。


 彼女と待ち合わせをしたのは昼過ぎだったが、彼女の希望で買い物に付き合っているうち、あっという間に午後四時前になっていた。休日でもあったし、ちょうど衣替えの季節だけあり、セール品を目当てに普段より多くの人でどの店もごった返していた。彼女は嬉々として色んな店で色んな服を見たり試着したりしていたが、結局何も買わなかった。何も買わないのに付き合わされるなんて、と嫌な顔をする男性は案外多いらしいし、何となくその気持ちは判るのだけれど、僕自身は比較的こういう時間の使い方が好きだった。服や食器や雑貨という物を介して感情のやり取りをするのが好きだとでも言おうか。彼女もそのことを判っていて僕を連れまわす。好奇心に煽られ、コロコロと絶え間なく変わる彼女の表情を見ているだけで僕は幸福なのだ。
 流石に三時間ばかり歩き回っていると彼女も疲れたようで(当然僕だって疲れる)、どこかでお茶をしようという流れになる。僕はいつものように彼女の隣を歩いた。右側を。目当ての喫茶店に向けて、駅の反対側に渡ろうとスクランブルに向かったところで赤信号につかまり、僕は彼女に何かを言いかけて――何も言えなかった。信号について何かを言おうとしたのだけど、忘れてしまった。何だっけな。
 その時――僕は突然めまいに襲われた。急激に視界がホワイト・アウトして行き、足元がふらつくのが判る。彼女の左手につかまり何とか体制を保とうとするが――そこに彼女はいなかった。僕は確かに彼女の手を握っていたはずなのに、手だったはずの部分にずぶずぶと僕の左手が沈み込んでいくような奇妙な感覚。「千葉君?」という彼女の呼び声を聞いた直後、僕は気を失っていた。


  二.


 目を覚ますと、僕はふかふかの椅子にもたれかかるようにして座っていた。目の前には真っ白なテーブルが一台。それを中心に、周囲の壁は本棚で埋め尽くされている。部屋の広さは6畳くらいだろうか。図書館のミニチュアに、無理やりテーブルと椅子を運び込んだように見える。壁に並んでいる本棚をよく見てみると、そこにある本は全てが文庫版の小説らしく、ハードカバーや図鑑のようなものは見当たらない。順番に本のタイトルを眺めたが、その並び順に何らかの規則性は見出せない。僕もよく知っている古典もあれば全く知らない本もあるし、英語やフランス語で書かれたらしいものすらあった。
 左側の本棚をざっと見終えたところで、僕はようやく自分が全く知らない場所にいるということを思い出した。いや、気付いたと言っていい。ここはどこだ? 彼女はどこにいった? そもそもどうやって入ったんだ? 様々な疑問が浮かんだが、中々頭が回らない。もしかすると、貧血で倒れた僕を彼女がここに運び込んだのかもしれない。
 不意に背後からノックの音が聞こえ、僕ははっとする。何かをいたわるような、丁寧なノック。全くの等間隔で、トン・トン・トン、と三度鳴らされた。その音でやっと僕の後ろに扉があったということを知った。返事をするべきかどうか迷っていると、その逡巡を見透かしたかのようなタイミングで扉が静かに開かれた。
 出てきたのは、ぱりっとした白のシャツと黒のベストに身を包んだ、初老の紳士だった。どこかのバーのマスターとして十分に通用しそうな格好だ。彼はゆっくりと、靴音を響かせながら僕の正面にまで歩き、向き直った。
「お目覚めですか、双見様」
 バリトンの渋い声。バーのマスターというよりは、イギリスあたりの執事のように見える。モノクルや懐中時計があれば完璧なのだけれど。いや、それより――彼は僕の名前を呼んだ。どうして僕の名前を知っているんだ?
「ええと、ここは……」と僕が口を開くと、彼は「カフェのようなものでございます」と言った。
「カフェ?」
「ええ、双見様のための、です」
「一体僕はどうしてこんなところに?」
 彼は少しだけ寂しそうな表情を見せ「おや……お気に召しませんでしたかな? この内装は、私の趣味であつらえたものなのですが……」と言った。僕が何と言ったものか考えていると、くつくつくつ、と変な笑い方をした。
「冗談はさておき」と彼は普通の表情に戻る。「そうですな、ま、夢を見ているとでもお思いください。お代もいただきません。まあ別の形でいただくことにはなるでしょうが」
 彼が右手を顔の前まで挙げ、指を鳴らした。パチン、という音が静かな部屋に響き渡ったその瞬間――テーブルの上にはコーヒーと、ケーキが突如出現した。僕がゆっくりと目をつぶり、再び開いても、ケーキセットはまだそこに存在していた。夢、か。
「どうぞ」と彼は言う。「お召し上がり下さい」
 彼は僕を注視したまま動かない。彼の目に射止められているようで、僕は何だか不快な感じすら受ける。夢……これは明晰夢なのだろうか? 明晰夢にしては現実感がありすぎる。確かにこの部屋そのものや、彼が指を鳴らしただけでケーキセットが現れるだなんて夢以外考えられないのだけれど、こと僕自身に関しては、これが現実のように思えてならない。夢だとわかっている夢を見たことは何度かあるが、今ほど現実感があるわけではなかった。それに、もし仮にここが夢の中なのだとすると、突然倒れた僕を見て、彼女は不安がっていないだろうか。そのことが凄く気がかりだった。
 でもここから出る方法はあるのだろうか? 夢なら早く覚めて欲しいと思いながらも、僕は彼の言う通りにしてみようと決めた。
 改めてデーブルの上を見てみる。どれも高価そうな、真っ白な皿、カップと、銀色のフォーク。コーヒーに砂糖やミルクは付いていない。この男は僕がいつもブラックでコーヒーを飲むということも知っているのだろうか? ケーキは……どこかで見覚えがあった。一体どういう理由なのか、灰色をしたミルフィーユ。そうだ。これは確か、少し前に彼女が買ってきたミルフィーユにそっくりだ。もちろん色は全然違うが。
 とりあえずコーヒーカップに手を伸ばしてみる。ソーサーの白と液体の黒、このコントラストが美しい。そっと一口飲み、味を確かめてみるが……可もなく不可もなくといった所だった。食器の高級感に見合った感じではない。香りや後味は確かにいい。が、酸味やコクもあまりなく、コーヒーらしさを欠いている。もしかすると、ミルフィーユの引き立て役に徹したいということなのかもしれない。
 カップを置き、フォークを手に取るが……僕はミルフィーユは好きではないのだ。片手でケーキを切ったりすることくらいは難なくやり遂げることはできるが、さすがにミルフィーユのように表面の硬いものになると、左腕一本で綺麗に平らげるのは大変だ。男はそのことを知った上で、あえてこんな嫌がらせをしているのではないかという疑問すら浮かんだ。
ミルフィーユはお嫌いですかな?」と男はニヤニヤとした笑みを浮かべて言った。
「うーん……あまり、好きではないですね」
 男は意外そうな顔をして、「それはまた、どうしてでしょう? 何か理由がおありで?」と言った。
「それは……」不思議と僕の目は泳いだ。「だって、食べにくいじゃないですか。甘いものは好きだし、よくケーキやチョコレートを買って食べたりはするんだけど、ミルフィーユは表面が硬いし、僕は右手が不自由だし……」
 僕の言い訳が途切れた合間を縫うように「本当にそれが理由ですか?」と男は訊ねてきた。
 背筋が冷たくなるのがわかった。
 僕はどうしてミルフィーユが嫌いなんだ? 改めて言われてみると、食べづらいという理由だけで、ここまでミルフィーユを避ける必要があるとは思えなくなってきた。そもそも、僕が最後にミルフィーユを食べたのはいつだ?
 ……思い出せない。いつだ? いつ嫌いになって、いつからずっと買っていないんだ?
「どうか、しましたかな」
 男は気をつけの格好のまま立ち、ゆがんだ目と唇で僕を見続けていた。だめだ。心を落ち着かせることができない。右手にフォークを持ったまま僕は固まってしまっている。記憶障害? いや、こんな風に動揺したことは今までなかった。一体どうしてなんだ?
 パン、と男が大きく手を叩くと、僕の硬直は解けた。
「いやいや、すみませんね、あなたを見てるとつい、虐めたくなってしまうんですよ。ところで、ちょっと話を変えてみましょうか。双見様にはご兄弟がおありで?」
「兄弟?」
 この男が何を言わんとしているのか、さっぱりわからなかった。兄弟だって?
「僕には姉なんてい……」
 姉?
 口をついて出た「姉」という言葉に、僕は困惑した。
「ほう! お姉様がいらっしゃいましたか」
「いや……姉……姉さんは僕に……」
 頭痛がする。キリキリと何かをねじ込まれているかのように痛い。僕の手からフォークは滑り落ち、皿に当たって乾いた音を立てる。でもそんなことを気にしていられない。僕は耐えられなくなって両手で頭を抱え込む。姉さん。心臓が激しく鳴っている。その音を容易に聞き取れるくらいに。は、と短く息が漏れる。鼻の奥がツンとして、僕は泣きそうになっている。
 パン、パン。また男が手を叩いた。今度は二回。
 男は直立したまま、顔だけを前に出すような奇妙な姿勢をしている。その顔がどんどん僕の方に近づいてくるような気すらする。オペラのマスクのような歪んだ目が僕を縫い付ける。手を叩いてから少しは心が落ち着いたが、それでも僕の目からは涙が流れ落ちて、テーブルに小さな水溜りを作っていた。
「そうだ……僕には年の離れた姉さんがいたんだ……。どうして忘れてたんだろう……こんな大事なこと」
 姉さん。優しかった姉さん。僕はたった一人の姉のことを今まで完璧に忘れ去ってしまっていて、思い出すことすらなかった。水面に波紋が広がるように、ゆっくりと姉についての記憶が戻ってくる。
 でもまだ完全には思い出せない。姉さんと最後に会ったのはいつだ? どうして僕は姉がいたということ自体を完璧に忘れていたんだ?
 不意に、僕の右手がうずいた。


「まさか……そんな……だって……」
「思い出されましたか」
 彼は静かに言った。この男は一体どこまで知っているのだろう。
「姉さんは、死んだんだ。思い出した。僕の誕生日に、車にはねられて、それで」
 堰を切ったように、涙があふれて止まらなかった。
「そうだ。姉さんが僕にケーキを買ってくれるって。二人で出かけてたんだ。ああ……ミルフィーユを買ってくれたんだ、姉さんは。でも、その帰りに、姉さんは」
「双見様」と僕をいたわるような声で、男は言った。「お姉様がどうしてミルフィーユを選んだのか、お分かりですか」
「いや……」
 僕は左手で涙を拭った。姉のおかげで、僕は右腕を失うだけで済んだんだ。どうして今まで忘れていたんだろう。
「双見様、あなたのお名前は、何と申しましたかな」
「僕の名前、ですか?」
 男は一体何者なんだろう。
「千葉。双見、千葉です」
 ここに来てようやく男は僕から目をそらし、そのまま来たときと同じようにして、靴音を鳴らしながら僕の背後へと歩いていく。
「お姉様ならこう言うでしょうね。ミルフィーユはあなたのためのものなのだ、と。この名の由来をご存知ですか? ミルフィーユという呼称で広く知られてますが、語源どおりに発音するなら<ミル・フイユ>という所ですかね。パイ生地が幾層にも折り重なっているでしょう。そう……」
 男の声は、ここではない、どこか遠くから聞こえたような気がした。
「……まるで、千枚の(ミル)葉(フイユ)のように」


  三.


「……くん、……ば……ん」
 誰かが僕を呼んでいた。
「あ、起きた? 千葉君、どうしたの? 大丈夫?」
「えっと……」
 ここはどこだろう?
「ねえ、どうしたの? 千葉君、泣いてたよ」
「本当だ」と言って僕は目元に手をやりながら彼女に笑いかける。上手く笑えていればいいのだけれど、自信はあまりなかった。「ええと、ここはどこ? どうしたの、僕は?」
「もー……」と彼女はあきれた様に答えた。
「交差点のところで、急に倒れそうになったからびっくりしたんだよ。うわ、て思ってたら『大丈夫、大丈夫』って言いながら、そのままふらふら歩いて、ここに寝ころんじゃったの」
 辺りを見回してみると、確かにここは僕が気を失った場所からそう遠くない、バスの待合室のような所だった。何だか、とんでもなく長い時間ここに寝ていた気がする。
「いや、どうしたんだろね、貧血かな? 何か、変な夢を見ちゃってさ……」
 そう言って彼女の顔を見た。彼女は心底安心したような表情をしている。
 ああ、そうだったのか。
 僕は堪えきれずに笑ってしまう。
 彼女は、姉にそっくりだったんだ。

森の奥、昔の話

 寂れた小屋の中に一人の老人と、一人の青年がいた。老人は杖を置き、黙って椅子に座り、足をさすった。ついで青年がその正面に座った。
 老人は目の前の青年を見据え、語り始めた。
「昔の、話じゃよ。街の外れ、誰も立ち入らない深い深い森の奥に、男が一人で住んでおった。その男はかの有名な魔法使いの一人息子でな、みなから救世主として期待されておったんじゃ。お前さんも知っての通り、本来この街で生まれたものは皆魔力を持たぬ。あの魔法使いと、その息子だけが例外のはずだった、というわけじゃ。しかし、その男は運の悪いことに、魔術の才を持たなかったんじゃな。期待が大きかった分、民衆の落胆ぶりも凄いものじゃった。もちろん、プレッシャーが強すぎた、というのもあったのかもしれん。村人は――当時は街、というより村だったんじゃが――次第に勢力を拡大していく魔王軍に対する反感を、中途半端にしか魔法の使えない、その男に押し付けてしまった。そして男は逃げた。誰にも否定できんよ。仕方のないことじゃった。男も悪くなければ、村人たちも悪くなかった。ただ、時代が悪かったんじゃな――。
 ところがある日、一人の青年が、森に隠れ住む男を訪ねてきた。年の瀬は、男と同じくらいじゃ。その青年はこう言ったんじゃ。僕は勇者です、とな。

『あなたは魔法が使えるそうですね』
『少しだけ、な』
『確かに、あなたの魔術の才は皆の期待に沿えるものではなかったかもしれない。でも――』
『でも?』
『僕は一人ででも魔王を討ちに行く。厳しい旅になることでしょう。そういった厳しい環境の中で初めて、魔術の才が花開くこともあるかもしれない』
『……そうだな』
『それに……そうやって魔王を討つことができれば、あなたもこんな森の奥に住む必要なんてなくなる。誰もがあなたを心地よく迎えてくれますよ』

 男はうなだれて、青年に『帰ってくれ』とだけ言ったんじゃ。男を動かすのに必要な言葉はそんなものじゃなかった。男だってわかっていたんじゃよ。認められたい、という気持ちが自分の中にあることくらいは。青年が訪ねてきてくれたことも本当は嬉しかったんじゃ。でも性根がひねくれていたんじゃな。いざ、魔王を討てば認めてもらえる、お前だって認めて欲しいんだろう、と。そうほのめかされると、ひどく嫌な、悲しい気持ちになったそうじゃ。
 青年は大げさに落胆のため息をついて、出て行った。その青年も、男も、今はどこで何をしているのやら――あるいは死んだかもしれんし、まだ生きておるかもしれん。わしにはわからん。まあ、もし仮に――その青年に息子がいたとすれば、お前さんと同じくらいの年じゃろうな。
 ……話はこれで終わりじゃ。わしにはできることなんぞ何もない。その茶を飲み終わったら、さっさと帰ったほうがいい。日が暮れると、危険じゃぞ』
 老人は椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと目を閉じ、そしてまたゆっくりと開いた。何かを試すような目つきだった。それは厳粛な儀式のように見えた。
 男は目の前の老人を見据え、語り始めた。
「僕の父は愚かでした。あなたには申し訳ないことをしたと思います。しかし、あなたはどうしてそんな”昔の話”をしたんですか? どうしてこんな森にずっと住んでいるんですか? あなただって知っているはずだ、もう街の外は普通の人が出歩けないほどに荒廃しているという事実を。あなたは衰えてなどいない。むしろ昔より冴え渡っているくらいです。驚きましたよ、本当に”こんなところ”に人が住んでいるとは思いませんでしたから。
 どうして老いたふりなんてしているんですか? どうしてずっとこんな場所に?」
 老人は答えない。
「一度しか言いません。よく聞いてください。僕は勇者です。たとえ一人ででも魔王を討ちにいくつもりです。きっと、厳しい旅になるでしょう。
 僕にはあなたの力が必要なんです。あなたが必要なんです。もし、ふりでなく本当に足が弱いのであれば――僕があなたの足になりましょう。目が悪いと言うのなら僕があなたの目になります。お願いです。あなたの力を、知恵を、残りの人生を、僕に貸していただけませんか」
 老人は黙って立ち上がった。

焼き鳥にレモンを添えて


 得体の知れない不吉な塊が僕の心を始終押さえつけている。罪悪感、焦燥、自己嫌悪、そのどれともつかない、あるいはそれらの入り混じった、何というか言葉にできない不思議な――しかし、僕の知っている感情。そうだ、僕はそれをよく知っている。けれど知っているからといって、その影響が和らぐようなものでは決してない。この塊に名前をつけてしまえば楽になれる、もしそうなのだとすれば――名前をつけて見せよう。要するに僕は失恋したのだ。
 これはよくある失恋のパターンの一つで、いずれ時が経てばゆっくりと癒えていくことも僕は知っている。部屋の隅にうずくまって、頭を抱えている僕を俯瞰して眺めてみる。そこには一人の辛気臭い男がいる。何をそんな単純なことで悩んでいるのやら。あまりにもありふれていて、どの本を開いても、どの歌を聞いても、彼の抱えていることに似たものはあちこちに表現されている。彼は自分を大人な人間だと思い込んでいるようだが、一人の女性と綺麗に別れることすら思い通りに行かないただの子供だ。実に陳腐。そんな風に冷静に客観視しているのを自覚できる。しかしその他方では、全てを投げ出して何もかもを終わらせてしまいたいと願って恨んで悔やんでいる自分がいる。そして冷静な僕は、感情的な方の僕が大部分を占めているということを知っている。
 笑ってしまうけれど、僕は彼女の名前すら知らなかった。年も知らない。普段何をしているのかも知らない。恋人でもなければ友人ですらない。知人と呼べるかどうかも怪しいものだ。奇妙な関係。そこにはルールがあった。相手のことを知ろうとしないこと、僕から連絡しないこと、そして恋愛感情を抱かないこと。


 日常と非日常を隔てる壁は、僕が考えていたよりもずいぶんと薄かったらしい。そういうこともありそうではある、しかし起こりはしないだろうと確信を持って言えるような、宙に浮かんだままのリアル感。例えば恋人が自殺したり、交通事故にあって僕だけが生き延びたり、保険金目当ての殺人事件が起きたり。神によって描かれた脚本どおりに僕が生きているのだとしても、少なくとも僕のストーリーは絶対に単純で平凡で、つまらないものであると思っていたのだけれど。
 彼女との関わりは日常から逸脱しすぎていた。その嘘臭いリアルさが僕を虜にした。だって、そうだろう? つまらないと確信していた自分の人生が、突然まっすぐに歩くことも覚束なくなるくらい奇妙なものに変貌したのなら、誰だってのめりこんでしまうに違いない。彼女との関わりは、あるいは彼女自身は、まさしくドラマティックで、幻想的で、信じがたいほどに綺麗だった。多分、そう思いたかった。


 大学生になったのを期に東京に越してきたばかりの頃。まだ入学式前で何もすることがなかった僕は、なんとなく学校が始まる前に友人の一人でも欲しいと考えたのだった。友人はみな地元で就職するなり、近くの大学に通うなりしたために、その時の僕は天涯孤独の身。東京に行くことを強く望んだのは僕だけだ。多分そこには、退屈な人生から逃げ出したいという思いがあったと思う。僕の生まれ育った町は、退屈を絵に描いたような所だった。昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来る――そんな町。
 単身東京に飛び込んだ僕は、手始めにインターネットを通じて友人を作ろうと決めた。適当な語句で検索しているうちに、どこをどうやってたどり着いたのやら、モニターには「友達募集掲示板」の文字があった。黒の背景に赤い文字で彩られ、あちこちに十字架や髑髏のアイコンがある。これはちょっと趣味じゃないな、そもそも危なそうだ、そう思いながらも書き込まれた文字を眺めていたのだけれど、不意に――一つの文章に目が止まった。

  NAME:ヒナコ
    一名様
    退屈な人募集
    090-xxxx-xxxx

 この三行だけが書かれていた。他の書き込みでは、顔文字を添えての自己紹介、趣味などが長々と書かれている中、これだけが歪だった。携帯の電話番号が載せられているのも変だ。通常、こういう場所では用心のために無料で取得できるメールアドレスだけを載せるというのが常なのだが。書き込まれた時間は割と最近だ。携帯の番号を載せるなんて管理者の目に止まったらすぐに消されてしまうだろう。そもそも友人募集を装った悪戯かもしれない。時の止まったような沈黙の中で、パソコンの立てる僅かな駆動音だけが響いている。しかし、僕は確かに魅了された。「退屈な人」という言葉に。
 僕は恐々と、その番号に電話をかけた。胸の鼓動がいつもに増して強く感じられた。コール音を数える。一回……二回……三回……四回……、そして五回目の音が鳴り止まないうちに、彼女が出た。
「もしもし、どちら様?」
「あ、ええと……ヒナコさん? 掲示板の書き込みを見て、電話したんだけど……」
「そう。二時間後に、XXX駅まで来れる?」
「えっ」
 驚いた。彼女が告げた場所は、確か最寄り駅から三つ離れた場所で、それほど栄えた場所ではないのだが。案外近くに住んでいるのかもしれない。いや、そんなことより、まさか電話して一分も経たないうちに場所の指定なんて。こういうのはもうちょっと何らかの手順を踏むものなのでは――。
「七時にXXX駅。来れないの?」
「いや、行ける。七時だね」
「また電話するね」
 プツッという音がして電話が途切れる。口調は柔らかいのに、電話越しでも有無を言わせない雰囲気があって、僕はつい承諾してしまった。握り締めた携帯は、通話の終了を知らせる無機質な音を繰り返している。これでよかったのだろうか。とりあえず第三者による悪戯ではなさそうだけれど、行った先で怪しげな宗教に勧誘されたり、変な薬や機械を売られたりとか、そういったことは大いに考えられる。でも駄目だ。少しくらいのリスクは構わない。僕はもう彼女に会うことに決めている自分を感じる。ここに至って初めて時計を見た。午後五時ちょっと前。彼女と会う頃には、ちょうど夕飯時だ。財布の中身を確認して、出かける準備に取り掛かろう、そう考えた。
 何度も鏡を見ながら出来る限りのお洒落をして、ゆっくりと目的の駅に行ったが、それでも時間は随分余った。指定された時間の十分前になるまで駅前のコンビニで立ち読みをしてから、改札の前で電話が鳴るのを待った。どんな人が来るのか楽しみだったし、もちろん下心もないではなかった。
 約束の時間きっかりに電話が鳴り、僕たちは無事に合流した。綺麗な人だな、というのが最初の印象だった。彼女に案内されダイニング・バーで夕食をとり、そして僕は彼女と寝た。
 そうなることを僕は半ば予想していた。確信と言ってもいいかもしれない。彼女は多くを語らなかった。僕が話をして、彼女がそれを聞き相槌を打ち、続きを促す。多くを語らなかったが、彼女の熱っぽい瞳が何かを語っていた。それは井戸のような瞳だった。
 事が終わった後、同じ瞳のまま彼女は言った。今後も<こういうこと>をしたければ、以下のルールを守って欲しい、と。
「ルール?」
「そう。……私のことを知ろうとしないこと。ただ私からの連絡を待つこと。そして、恋愛感情を抱かないこと」
「変な、ルールだね。どうして?」
「だから、そういうのが駄目なの。どうする?」
「もちろん――」
 一も二もなく、僕は彼女と<契約>を結んだ。


 簡単に言えば、そこにあったのは極めて判りやすい関係でしかない。彼女と僕はただのセックスフレンドで、僕はルールを破って彼女を愛してしまった。それだけのことだ。でも僕は彼女との関係をセフレだとか、そういう風には思えなかったし思いたくなかった。彼女は僕の好意以上の思いに、すぐに気づいていただろう。でも彼女は見ないふりをしていた。そのことが凄くありがたい一方で、やはり辛かった。愛情を見せたくない、見せてはいけないという気持ちと、愛を伝えて何とかして彼女に振り向いて欲しいという気持ちが僕の中でせめぎあい、この葛藤はしばらくの間僕を支配した。もちろん、やがて破綻した。セックスを前提とした付き合いであった以上は無意味な仮定なのだけれど、二人の間にセックスがなければ、こうはならなかったかもしれない。愛する人と愛のないセックスをすることが僕をどんどん追い詰めて、そこから逃げるために安易な快楽にまた逃げる。泥沼だ。どうしようもなかった。グルグルと同じ場所を回りながら、しかし確実に降りていく螺旋階段を思わせられた。
 どうして僕は彼女を愛してしまったのだろう? 何も知らない相手だというのに、どうしてここまで強烈に惹かれてしまったのだろうか? 彼女がおそらくそうしていたように、僕も気軽に欲求を満たせる道具の一つとして彼女を利用していればよかったのだ。いや、彼女が何を思っていたかは判らない。単に、暇を潰す相手が欲しかったのかもしれないし、そういう口実で何か別のものを求めていたのかもしれない。判らないことだらけだ。せめて、僕がどうして彼女のことを好きになってしまったのかさえ判れば、今後に生かすことも出来そうなのものなのに。確かに彼女は綺麗だったし、会話も素敵でウィットに富んだものだったし、セックスだって上手かった。でも――それだけでは不十分に思える。いや、不十分なのだ。一体、どうして?


 彼女にさよならを言い渡されてからは、ろくに食事も睡眠も取れず、死んだように生きていた。けれど人間の本能と言うものは本当に素晴らしくて、僕は気がつけば眠っているようになるし段々食欲だって沸いてくる。心の中にはまだ得体の知れない物体が居座っているが、それでも僕は生きているし生きていかざるを得ない。
 気分転換も兼ねて、僕はアルバイトを始めた。体を動かしている時くらいは彼女のことを考えなくて済むと思ったが、果たして、そうはならなかった。
 選んだ職種がまずかった。もう少し吟味するべきだった。求人雑誌を読むのも面倒で、近くにある居酒屋にした電話してみたところ、ちょうど人手不足だったために用意した履歴書もろくに見られず、即採用という形になった。個人経営の小さな店で、アットホームな雰囲気がどことなく心地よい。客も常連ばかりで、学生がうるさく騒ぐようなこともないらしい。これは当たりクジを引いたかなと思いきや、始まって二回目にはもう行きたくなくなった。
 その居酒屋は焼き鳥をメインに据えているのだが、メニューに「ねぎま」と「ねぎ肉巻き」の二つがある。前者はモモ肉の間に長ネギを刺したおなじみの串、後者はネギを中心に豚バラ肉を巻いたもの。この二つを区別するために、伝票には「ひな」「ねぎ」と書く。
 本当に、本当に男というものは一体、どうしてこうも愚かなのだろう。伝票に「ひな」と書く度に思い出してしまうのだ。本名かどうかすらわからない、「ヒナコ」という彼女の名を。


 そんなわけで、今日も僕は<重労働>を終えた。最後の客を返し、僕たちは片付けに取り掛かる。いつものように僕が在庫を確認して表に書きとめ、もう一人のバイトが調味料を棚にしまい軽く拭き掃除をする。店長は炭を片付け、また別の店員が厨房を片付ける。いつもの光景。
 アスパラガス、長ネギ、玉ねぎ、大根……などなど、野菜類の数を数えていると、不意にあるものが目に止まった。篭の底に転がっていたレモン。何故そんな物が気になったのかは判らない。僕は一旦作業を途中止めにして、その黄色い果物を手にとって眺めてみた。冷蔵庫で十分に冷やされたそれは、手触りもきめ細かく、表面をなぞると若干の摩擦を残しながら、僕に掌との温度差を伝えてくれる。僕はそのまま手を鼻先に持って行き匂いを嗅ぎ、肺の中を酸味ある柑橘の香りで満たす。ふう、と一息つき、レモンを優しく愛撫する。
「おい、何をやってるんだ」という店長の声に、ようやく僕は我に返った。レモンを撫でていました、などと言えるはずもない。店長の方に向き直り頭を下げてから、篭の中にレモンを片付けた。
 その時になって――僕は彼女のことを思い出していたことに気がつく。心の中で舌打ちをする。全く、何をやっているんだか。


 閉店後の雑多な作業も終わり、シャッターを下ろそうとしている店長を僕は呼び止めた。
「あ、店長、中に忘れ物したみたいです。入っていいですか?」
「何だ、鍵でも落としたのか? 待っててやるから、早く取って来い」
「すみません。すぐ戻りますから」
 僕はあることを思いついた。いや、昔読んだ本のことを思い出していた。忘れ物なんてしていない。急いで冷蔵庫を開け、篭を引っ張り出す。その中からレモンをひとつだけ取り出し、テーブルの上に放置して行った。後で怒られるだろうが、そんなことはどうでもいい。
 何食わぬ顔で店の外に出た僕は、待たせてすみません、お疲れさまです、と皆に声を掛け、足早にその場を去った。あのレモンが爆発して店を粉々にしてくれたら、どれだけ気が晴れることだろう。痛快な想像に僕は頬をほころばせた。あまりにも愉快だったので、我慢しきれずに立ち止まり、腹を押さえて小声で笑い出してしまった。吹き飛ぶ店を思い描いて笑っていたし、そんな暗い妄想をしている僕自身を笑っていた。もう、忘れていいかもしれない。
 こちらに歩いてきた中年のサラリーマンが、笑い続けている僕を見て、目を少し見開き驚いた様子を見せた。それがおかしくて、僕はまた笑った。

三題噺「海岸」「目覚め」「永遠」


 私は眠っていた。多分夢を見たと思う。どんな夢だったか具体的な内容は忘れてしまったが、おぼろげなイメージだけは頭の中に残っていて、私はそれを失いたくないと感じる。確かベッドボードに筆記具があったはずだ、と体をひねり手を伸ばしたのだが、そこにあったのはペンではなく錐だった。どうしてこんな所に錐が、と頭の片隅で考えながらも、何故か錐をつかんだ右手がスルスルと伸び、私の左手の薬指を刺した。痛くはなかった。ただ見事に指の真ん中に刺さったのが、何となく美しく感じられた。次いでその傷から糸が出た。真っ赤な糸。血の代わりに糸が出ることもあるのかもしれない。やはり私は驚かなかった。
 糸はどんどん伸び続けた。意思を持っているかのように、あるいは意思を持つ者に操られるかのように。扉の隙間を通じて部屋を抜け出てしまったので、その先はどこに向かっているのやらわからなくなった。ふと私はまだ錐を持ったままだったことを思い出した。それをダーツの矢のように持ち替えて構え、扉に向かって完璧なフォームで腕を振る。静かな部屋の中にこだまする、ストーンという小気味のいい音。しかし何かが不満だった。何がかはわからなかった。
 私は糸を追いかけようと思い立った。桜色のネグリジェのままベッドから這い出し、床に散らばる化粧品を踏みつけて扉の方に歩いた。取っ手に触れた途端に、ひとりでに勢いよく開く扉。小さなため息が漏れた。目の前には海岸が広がっている。糸は迷うことなく海に向かって進んでいた。
 糸を追うために海岸を歩きながら、私は日焼けしたくないな、とだけ思った。足元の砂から熱さは感じられない。強い日差しで暖められてそうなものだが、せいぜい私の肌と同じくらいの温さがあるだけだ。段々と海が近づいてくる。それにつれ、水の色はどす黒くにごっていき、とうとう足を海水に浸すころには真っ黒になっていた。何もかもが吸い込まれそうなほどの黒だ。空も雲ひとつない、作り物めいた青。振り返って見ると、今まで歩いてきた肌色の砂が横たわっている。黒と、青と、肌色とに囲まれたピンク色の私だけが存在する世界。あまりにも極彩色すぎて、かえって奇妙な美しさを感じた。私は片一方の口角を上げ、どことなく不敵な笑みを浮かべてみる。赤い糸はいつの間にか消失していた。
 目を覚ました私は、彼に会いたいな、と思った。どんな夢だったかは思い出せないが、すごく久しぶりに彼の夢を見た気がした。もう二度と会えないことを思い出して、ただ口惜しくて、涙が流れた。

スプーン・アット・東京タワー

 自分の部屋から東京タワーが見える、という事実が私をなんとなく幸せな気分にしてくれる。眺めは悪くない、どころか十分すぎるくらいだ。ここからしか東京タワーは見えないので、もし私に兄弟姉妹がいればこの部屋の取り合いになっていたかもしれない。そういったことを想像するのも楽しい。朝目が覚めると目覚まし時計を止めるよりも、まず先にカーテンを開ける。今日も変わりなく赤い東京タワーを確認して、それから黒猫の形をした時計に手を伸ばす。些細な幸福感。
 私の父は東京タワーのふもとで母にプロポーズをしたらしく、結婚後は何とかして思い出の東京タワーが見える場所に住みたい、ということでこのマンションに決めたそうだ。そういうロマンチックな家庭に育っただけあって、私もそれなりにロマンチックに育つ。クリスマスはやっぱり東京タワーの前でクレープを一緒に食べて、タワーの一番上まで昇って、手をつないでうっとりと夜景を見て、人目も憚らずにキスしたりとか、そういうのに憧れてしまう。だって女子高生だよ。
 でも私の彼氏はそういうのを判っているのか判っていないのか、頭はいいのだけれど、一度こうだと思い込んだらなかなか考えが変わらない。そんなところで育ったなら東京タワーなんて見飽きてて新鮮味がないだろう、と桜木町に連れて行ったりする。そうじゃない、私は夜景が好きなんじゃなくて東京タワーが好きなんだって! でも判ってくれない。気遣ってくれるのは嬉しいけど、ちょっとずれている、そんな彼。


 ジリジリと目覚まし時計が朝を知らせている。夢の世界から現実に引き戻された私は、いつものようにカーテンを引く。その途端に日差しが私の体を照らして、葉緑素でもあるみたいに気持ちよくなる……のだけど、あれ? 何か違和感を感じる。が、ジリジリジリという音が思考の邪魔をして何がおかしいのかよく判らない。とりあえず猫に手を伸ばす。猫なんだからにゃーって鳴ればいいのに……。いや、そうじゃなくて。
 改めて窓の外を見てみる。ええと? 私はちょっと自分の目が信じられなくなる。寝ぼけてるのか、それともまだ夢の中なのだろうか。目をこすって、大きく深呼吸して、それからもう一度だけ東京タワーを見る。
 スプーン? 多分スプーンだ。東京タワーに、スプーンが刺さっている。
 銀色でツルツルした巨大なスプーン。柄の部分を上にして東京タワーを斜めにブチ抜いて刺さっていて、皿の部分が地面に接している。……なんだこれ? 空から巨大なスプーンが降ってきて刺さったのかな……などと考えるが、タワー自体は以前の形をしっかりとそのまま残していて、欠片が散らばっていたりということもない。まるで最初からそんな形だったかのように。そもそも隕石とかならともかく、スプーンが降ってくることもあるんだろうか? あるのかもしれない。
 もちろんスプーンが刺さるなんてことはありえないし不自然なはずなのだけれど、刺さり方があまりにも自然すぎる。一夜のうちにニョキニョキと柄やら皿の部分が生えてくる……早回しで花の咲く様子を映した環境映像のようなものを想像してみるけど、それも上手くいかない。タワーもスプーンも立派な金属だ。一体どうなったしまったんだ?
 新聞。テレビでもいい。突然スプーンが生えてきたのだから、絶対ニュースになっているはずだ。いや、新聞は間に合わないかな。印刷するまでの時間もあるだろうし。いやそうじゃなくて。私は寝間着のままリビングに行く。母はソファに腰を下ろし、コーヒーカップを片手にゆったりとテレビを観ている。
「お母さんお母さん! タワー見た? テレビ出てる?」
「え? 東京タワーがどうしたの?」
「いや、スプーン、スプーン生えてんじゃん」
「……やあねえ、まだ寝ぼけてるの? 早く着替えないと、間に合わないんじゃないの?」
 え。お母さんは東京タワーに異変が起きたことを知らないのか? 私の焦りっぷりを見て、怪訝な顔をしている。テーブルの上の新聞をパラパラとめくってみてもタワーのことは載っていない。間に合わなかったのだろうか。続いてリモコンを手に取り、チャンネルを順番に変えてみるのだけれど、どのチャンネルでもいつもと同じニュースしかやっておらず、タワーのタの字も出てこない。誰も気付いていない? まさか。私が寝ぼけてるってこともない。ちゃんと何度もこの目で確認したのだ。
「……お母さん、ちょっと私の部屋来て。タワー見てよタワー」
「もーどうしたの一体。はいはい、ちょっと待ってね」
 母はコップをテーブルに置き、律儀にテレビを消してから、私の後ろをついてくる。スリッパの立てるペタペタという音が私を苛立たせる。どうしてだろう。
「ほら、これ! 何でスプーン刺さってるの? 昨日までは普通だったでしょ?」
「え……?」
 母の「え」という声に私は少し安心しかけたのだけど、それは間違いだった。母は東京タワーを見て疑問に思ったのではなく、私を見てそう言ったのだ。何かおかしなものを見つけたかのように、私の方をじっと見ている。「私は今戸惑っています」とでも言いそうな様子で、両手でエプロンを引っ張った。少しの間手を動かしたあと、何かを言いかけて、口を閉じた。
「ねえ、どうしたの? 変じゃない?」
「何、からかってるの? ずっとこんな形だったじゃない」
 違う、と言いたいのだけど言えない。母は本気だ。いつもおっとりしていて、器用に嘘をつける人ではないのだ。今も、私のことを真剣に心配している。そんな顔をしている。嘘じゃない。なら、母はおかしくなってしまったのか? まさか。じゃあ、おかしくなったのは、私? 自信が持てない。自分が絶対に正しいという証明なんてできない。実際に、テレビでも東京タワーの異変については何も言っていないし、タワー周辺に人だかり、なんてこともない。やっぱり私が変なのかな……? でも認めたくない。


 結局どうすることもできなくて、私はそのまま着替えて学校に行く。タワーのふもとまで行って様子を見て来たいのだけど、流石に学校をサボるわけにはいかない。学校が終わってからだ。
 駅までの道のりでも、地下鉄の中でも、駅から学校までの道のりでも、誰も東京タワーのことを話題にしていなかった。たまたまテレビ中継されていなかったという逃げ場は打ち砕かれる。やっぱり変なのは自分なのだ。でもスプーンの刺さっている東京タワーなんて理解できない。一体私が寝ている間に何があったというんだろう、私に?
 ざわついている教室に入り、友人たちの輪の中に入っていつものように中身のない話をする。そこでもやはり東京タワーについては触れられない。自分だけが気づいているということで疎外されたように感じてしまう。口に出して、そのことを言ってみたいのだけど、おかしいやつだと思われるのだけは避けたい。どうすればいいんだろう? と思っていたところに彼氏がやってくる。でもちょっと遅くて、もう授業開始のチャイムがなりそうだ。昼休みに、話してみよう。彼になら話してもいい。
 東京タワーのように、授業にも何か面白いことが起きていればいいのに、と思ったけれどもちろんそんなことはない。友達と手紙のやり取りをしたり、居眠りをしたり、思い出したように真面目に授業を聞いたり、そんなことをしているうちにあっという間に午前中の授業が終わる。正直なところ、東京タワーのことが気になって気になって授業どころではなかったのだけれど。まあとにかく、かばんの中から弁当箱を取り出して、彼の席に向かう。
「ねえ、ちょっと外で食べない?」
「ん? ん……いいよ。いこっか」
 別に私たちが付き合っていることを隠しているわけでもなくて、こういうのもそう珍しい光景ではない。彼と私は友人たちに手を振りながら教室を出る。うちの学校は屋上には鍵がかかっていて出られないのだけど、屋上に通じる扉の前に広めな踊り場があって、これがなかなかどうして、素敵な空間なのだ。運良く今日は先客がいない。隅の使われていない机の中からシートを引っ張り出す。誰が持ってきたのか知らないが、ありがたく使わせてもらう。そういうルールがいつのまにか出来上がっていた。
「ねえ、変なこと訊いていいかな?」
 私は緊張しながらその言葉を紡ぎ出す。もちろん彼はいいと言うだろうが、答えが判っていても訊かずにはいられない。彼なら私の言うことを信じてくれるという思いと、こんな突飛な話を信じてくれるわけがないという思いが、複雑に交錯して私を縛る。
「何?」
「東京タワー見た?」
「へ? いや、最近見てないなあ。どうしたの、一体?」
「いやさ……えっと」
 やっぱり言いづらい。目が泳いでしまう。少しだけゴニョゴニョと口ごもったあと、意を決して私は言った。
「どんな形だった? 東京タワーって」
 やはり彼は少しだけ変な顔をする。母と同じだ。何を言っているんだろう、といった表情。頭の上にクルクルと回転するクエスチョンマークが見える。
「どんなって……普通の形?」
「そうじゃなくて、ちゃんと形を説明して」
「うん、ええと……縦に長い三角形で、下の方は赤、上の方は白と赤が交互」
「それで?」
「で、斜めにスプーンが貫いてる」
 ああ、やっぱり……。前もってこうなることは想像できていたのだけど、それでもやっぱり悲しい。彼氏だけが特別、というわけではないのだ。残念ながら。彼は「ユニークな形だよね。なんでスプーンなんかあるんだろ」と言っている。私はうまく笑えない。
「最初からそんな形だった? 本当に」
「いや……こんなことで嘘言っても仕方ないだろう」
 実にその通りだ。それでも判ってくれない彼に腹が立つ。
「違うの。昨日まで、スプーンなんて刺さってなかった」
「何だそれ、新手の冗談か? はは」と彼は半笑いを浮かべる。
「そんなんじゃなくて、本当に、今日目が覚めたらああなってたの! 何で私だけ気づいてるの? 絶対おかしいよ」
 彼は困っている。目線が左上を向いている。これは「何を言えば困らせないで済むか」と考えるときの癖だ。私は私で、つとめて冷静であろうとしながら、彼の言葉を待つ。彼は戸惑っていて、私も戸惑っている。
「昨日まで、スプーンは、なかった、だって?」
 彼は私の発言をなぞる様にゆっくりと口にする。そう言うことしか出来なかったということは、相当困っているということだろう。
「信じてくれる?」
「うーん、まあ、そういうこともあるのかもしれないけど……」
 彼はそう言った。私と目を合わせることなく。けど、何なんだ。バカ。


 結局、生理痛が酷いとか適当な理由を作って学校を早退した。本当に何だか気分が悪い。学校の帰りに東京タワーに寄ることもなくまっすぐに自宅へ帰った。相変わらずスプーンの刺さっている東京タワーを自分の部屋から眺め、イライラとも無力感ともつかない不思議な感情を両手で弄ぶようにして、自分の世界に閉じこもる。
 何度も何度も同じことを考えてしまう。どうして判ってくれないのだろうか。でもこんな突拍子もないことを判ってくれないのは当然だ。でも……。
 私だけが東京タワーの異常に気づいたということには意味はあるのだろうか。どれだけ考えてみたところで、「どうして判ってくれないのか」「どうして私だけが異変に気づいているのか」という問いに答えは出ない。いい加減考え疲れてしまったし、そういった事実は覆しようがないので、私は逆に「何のために判ってくれないのか」「何のために異変に気づいたのか」ということを考えてみることにする。母も、友人たちも、彼氏も、どうして判ってくれないのか? 逆に誰かが急に「東京ドームにナイフとフォークが突き立っていた」と言われても信じられないだろう。私は私の目を信じているし、誰もがそのような事実を認めてくれていないのだから。みんな自分の世界を守るのに必死な上に、その根拠は根拠のない周囲の同意というものから作られる。そういうものだから、みんなが判ってくれないのも仕方がない。仕方がないけれど、やっぱり悔しい。せめて彼氏くらいは私を特別扱いして、判ってくれてもいいじゃない。私は彼氏が変なことを言い出して、それが常識とは全く食い違っていても信じてあげたい。それはもしかしたら彼氏のことを信じてあげる私というイメージを守るための行動かもしれないけれど、それはそれでいい。理解するのも理解しないのも全部自分を守るためのものなんだから。
 じゃあ何のために私だけが異変に気づいたのだろうか。これは何かのメッセージ? こんな無茶苦茶を起こせるのはそれこそ神くらいのものだ。神は私に何を伝えたかったのか……。いや、さすがにそれは考えすぎかも。単に私の頭が変になったか、たまたま私以外の全員の頭が変になった、その事実があるだけだ。いきなり神とか言い出したりするなんて、それこそ頭がおかしくなったと思われてしまいかねない。それだけは嫌だ。
 パン、と目の前で手を叩き、私は考えるのをやめる。東京タワーにスプーンが刺さっても、崩れ落ちて無くなったとしても、私が日々を生きる上での問題は全くないんだ。まだ日の沈んでいない空を見ながらライトアップされた東京タワーを想像してみる。藍色の空に星は見えないだろうけど、光を反射する銀色のスプーンも案外悪くないかもしれない。そう思い込む。
 東京タワーに上りたい、とはしばらく思えないけれど。

コンフリクティヴ・ラヴ


 こんなことを言うと、お前は思春期真っ盛りの中学生か高校生かと思われるかもしれないが、僕は誰かを愛したことがない。いや、正確に言えば、誰も愛せない。愛って何だろう、というのが判らないのだ。全く。


 その一因は、酷かった家庭環境と、母に対する罪悪感からだと思う。
 僕の父は酒を飲んでは母に暴力を振るっていた。僕を産んだのだから、結婚当初はそんなことをしていなかったと思うが、少なくとも僕は父の笑顔を知らない。父は朝とは限らずいつの間にか起きてフラリと外に出て、夜とは限らず忘れた頃に帰ってきては酒を飲んだ。帰ってこないこともあったし、誰かを連れて帰ってくることもあった。仕事をしない父の代わりに働いていたのが母だ。母は毎朝七時に起きて夜九時に帰ってきていた。何の仕事をしていたかは知らないし知ろうとは思わないし知りたくもない。とにかく、父は何もせず、母が我が家の家計を支えていた。
 父も母も毎度毎度似たようなやり取りしかしていなかった。怒鳴る声は父がいる限りいつもしていたし、何かが割れる音がすることさえあった。僕は言い知れぬ恐怖と戦いながら部屋に閉じこもって、布団にもぐりこんでブルブル震えながら嵐が通り過ぎるのをいつも待っていた。僕だって学習して父が帰ってくるなり部屋に飛び込むようになったのに、どうしてお母さんもお父さんも同じことを繰り返しているのか。それが不思議で仕方がなかった。何で飯の準備ができていないんだ。何で酒がないんだ。金を渡せ。何がそんなに楽しいんだ。どこに行っていた。もう無茶苦茶だった。僕には二人が協力して笑えない茶番を作り出しているようにしか見えなかった。
 母は一体どうして僕を連れて出て行かなかったのだろう。まさかそのことを考えなかったはずはないと思うが、しかし母は黙ってずっと耐えていた。「私がいないとあの人は何もできないから」とか、そういったことさえ言ってくれれば僕も無理矢理自分を納得させることだってできたのに、母は全く何も言わなかった。何も。
 その理由を訊いたことはない。訊くのが怖かったというのもある。しかし僕はどうして父と母がこうなってしまったのかという想像はついている。僕の名前は浩二という。何も考えずに浩二と名付けた訳ではないだろう。つまり、浩一がどこかにいたのだ。僕が産まれる前に死んだのか、それとも浩一自身も産まれる前に死んだか、あるいは双子だったのか、それは判らないが。
 父と母は浩一を失ったことで、それと同時に何かを失ってしまったのだ、きっと。


 そしてこの両親のおかげで、僕は人の顔色を覗うのが奇妙に上手くなった。家の中でのトラブルに比べたら外のことなんて全然大した問題ではなかった。父の気配を察して逃げるのと同じように、何か嫌な空気を察すると逃げればそれでよかった。
 しかしある時、逃げるだけでは問題そのものは解決しないと気づいた。確かに一時的には解決するのだ。黙って閉じこもって逃げてさえいれば、父は疲れるか寝るか外に出るかして、とりあえずその日の恐怖からは開放される。でも、その根底を取り除くか、両親の意識を変えないことには、いつまでもいつまでも茶番は続いてしまう。実際何年も繰り返されていた。
 当時小学生だった僕は、何とかして家の問題を解決してみようと考えた。どうすればいいかは皆目検討もつかなかったし、何となく誰かに相談するのも躊躇われる。ない知恵を振り絞って一人で考えてみたが、やはりストレートに訊く以外の方法は思いつかなかった。ただの小学生に何ができるというのだろう? 今となっても、どうすれば父と母を「普通」にすることができたのか、さっぱり判らないというのに。
 僕は父の機嫌が比較的良さそうな時を見計らって、勇気を出して訊いてみた。
「ねえ、お父さんはどうしていつもお母さんに怒ってるの?」
 バン、と机を叩き父は僕を睨む。その音だけで僕はもう逃げ出したくてたまらなくなって背中に冷たいものを感じる。
「ガキが口出すんじゃない」
「でも」
 でも友達の竹中くんの家は仲良くて、休みの日は皆で出かけたりしてるみたいだし云々、あらかじめ考えていた言葉は一瞬で吹っ飛んだ。僕は尻餅をついていた。頬がジンジンと火照って、どうやら父に打たれたらしいということは何となく判るものの、事実を事実として飲み込めない。
「うるせぇ!」
 父の怒鳴り声に僕は飛び上がった。尻と両手を地面についたまま、僕は震えることしかできない。父の目に縫い付けられたように動けない。何かを言おうとしても喉に引っかかって全然でないし、もう目は真っ赤だ。どうしようどうしようどうしよう……グルグルとその言葉が頭の上を駆け回る。
 不意に父がリビングの入り口へと目を向けた。恐る恐るその先を追いかけると、いつの間にか母がいる。
「浩二には手を出さないであげて。……お願いだから」
 その時の母の表情。たとえ自分が殴られていてもこのような顔を見せたこともなかった。祈るように両手を胸の前で組み合わせて、顔には悲しみと諦観を貼り付けていながらも、切実に何かを訴えるようで、見ている僕でさえ心を抉られた。
 だが父は僕とはまた別の理由で心を抉られたらしい。一瞬呆気に取られ、次いで泣き笑いの表情を一瞬見せ、最後に激昂してこう叫んだのだ。
「そんなに浩二が大事なのか! 俺より!」
 凄い剣幕で立ち上がる父、それと同時に僕も転がるようにリビングを飛び出す。耳を塞いで目をつぶって夢中で駆け出した。何度か壁にぶつかったが、後ろから追いかけてくる母の悲鳴から逃れようと必死だった。僕は逃げたのだ。僕を庇ってくれた母を見捨て、ただ母が殴られるのを見るのが怖いという理由だけで逃げてしまった。その時の母の悲鳴を、僕は忘れられない。


 父は僕に嫉妬していたのだ。当時の僕は「嫉妬」という言葉を知らなかったが、それでも何となくこのことを理解していた。例え母の前に割って入ったとしても、そのことで余計に父は怒るだろう。どうしようもなかった。
 この一件で父をどうにかすることは無理だと諦めた。どうしようもなかったが、たとえそうであったとしても僕は一度きりの挑戦で止めずに、何かをするべきだった。母を見捨てた、という罪の意識がずっと僕を支配していて、母の方に何らかの提案をすることもできなかった。僕にはその権利がないように思えた。少なくとも母は僕を愛してくれていたと思うし、僕だって母を愛していたはずなのだ。でも僕は我が身かわいさに、愛していたはずの母を見捨ててしまった。父の嫉妬という尤もらしい逃避の理由は僕を虜にしたが、罪悪感は消えないで今もずっと胸の中にある。僕は僕の愛を信じられない。


 その後の僕はといえば、その反動からか、外の問題については次々に先回りし、根本の原因を洗い出し、それを解決していった。ただの代替行為だ。内の問題には目をつぶりっぱなしだった。自分の部屋に引きこもっても勉強くらいしかすることがなかった。電話がうるさいと怒られるために友人と遊ぶこともあまりなく、かといって家にいるのも苦痛なので休日はもっぱら近くの図書館で過ごした。僕が一人でいても誰も不審がらないし、お金も掛からない。もしかしたらクラスメイトたちは、あまり一緒に遊ばず、休み時間も図書館に足しげく通う僕に違和感を抱いていたかもしれない。けれど、最低限以上の日常会話をこなしてはいたので、何かのトラブルに巻き込まれるようなことはなかった。
 教師の求めるまま「いい子」になっていった。空気を読むのもどんどん上手くなった。勉強ができるからといって反発を受けるような立ち回りはしなかったし、クラスメイトの間でのしょうもないトラブルにだって頭は冷静なまま怒ったふりをしたり感心したふりをしたりしながら、裏で手を回して解決の方向に持って行ったりしていた。我ながら、小学生にあるまじき能力だったように思う。


 中学二年生になったばかりのころ、父が死んだ。交通事故だ。ポケットサイズのウィスキーの瓶を持ち、赤い顔をして家に向かっていた父は、同じように赤い顔をした運転手によって跳ね飛ばされたらしい。母に請われ二人で病院に駆けつけた時(正直なところ僕は行きたくなんてなかった)、父の顔は今まで見たこともないような穏やかな顔をしていた。そこには凶悪さなど微塵もなかった。最期に父はこう言った。すまない、と。それだけ言ってしまうとすぐに息を引き取った。
 母は泣いたが僕は泣かなかった。泣けなかった。何を言ったのかさっぱり判らなかった。すまない? 無茶苦茶だ。父は言いたいことを言って悔いなく死ねたかもしれないが、残された僕や母はどうすればいい? 今更そんな言葉を聞かされたところで、今までの暴力がなかったことにはならない。理不尽な悪逆非道の権化として、そのまま何も言わずに死んでくれた方がどれだけよかったことか。後悔していたのなら酒なんて飲むべきではなかったし暴力だって振るうべきではなかったのだ。
 僕は父を心底恨んだ。なんて弱く、なんて無責任な父。僕自身の弱さを裏返し、全てを押し付けて、父を呪った。
 父がいなくなってからというもの、母はめっきり老け込んで、前にも増して口数が少なくなった。一体何がそんなにショックだったのだろう。母を肉体的にも、精神的にも苦しめていただけの男が消えたのだから、これから母はようやく人間らしい生活を送ることができるものだとばかり思っていたのに。
 母が父の暴力に耐えていたのは、浩一を失ったことに対する償いのつもりだったのだろうか。自分が悪いのだから好きなだけ責めてくれ、と。責められることで、同時に母は浩一がいたこと、浩一を失ったことを忘れずにいられる。しかし、誰からも責められなくなったことで、浩一という幻想を維持できなくなってしまった。そういうことなのかもしれない。でも、責められなければ耐えられないなんて、そんなの悲しすぎる。


 僕の方は相変わらずだった。皆も成長期を向かえるにつれ行き場のないエネルギーをもてあますような感じで、こぞってスポーツ、音楽、恋愛、そういった発散の場を求めて動き回っていた。一部の人たちはそういった風に自己を発散することを愚かしいと決め付け、しばしばクラスで浮いていじめられたりする。中学生ってそういうものだろう。僕はできるだけいろんなグループの人と付き合い、どこでも同調するようなふりをして一定の距離を保ちつつ、争いを避けていた。
 その頃、図書館で一人の女の子と知り合いになった。僕が言えた柄でもないのだけれど、いかにも図書館に通いつめていそうな地味めな外見で、髪もとりあえず目に入らないようにまっすぐ切って、あとは伸ばしっぱなし、といった感じのロングヘアー。背は低くついでに胸も小さい。顔も覚えようと努力しない限りすぐに忘れてしまいそうな顔で、服だって休日にも関わらずいつも制服だった。ただ、その目立たない風貌の中で唯一眼鏡が異彩を放っていた。眼鏡をはずした途端に可愛くなる女の子、というのは使い古されたネタだけれど、眼鏡をつけた途端に可愛くなる女の子というのもいるらしい。紺色のセルフレームの眼鏡をかけると、目元が急に引き締まってとてもシャープな印象を受けさせられるのだ。
 知り合った切欠は実に些細なもので、彼女が落とした栞を僕が拾って返すと、どうも同じ作家の本を借りようとしていたところだったようで、話が弾んだ、とそれだけだった。翌日図書館に行くとまた彼女がいて、ほぼ毎日来ているということが判る。段々と親しくなっていくうちに、彼女にも図書館にいたい何らかの理由があると知れる。その話をしたがっている彼女を自然な形に誘導して、聞き役に徹して、公平な視点からアドヴァイスのようなものをする。彼女が求めていたことを、汲み取って判らせるだけでよかった。そうこうするうちに、付き合って欲しい、と言われた。好きだ、と。
 そんなわけで、実にあっさりと彼女ができた。彼女になったからにはと、それなりには努力をしたのだが、これまたあっさりと別れてしまった。僕は僕で付き合っている最中はそこそこ幸せだったけれど、ただ、きっぱりと一線を引いて、自分のことを語ろうとはしなかったのが気に入らなかったようだ。「浩二君と付き合っていたつもりだったけど、浩二君の形をした異星人と付き合ってるみたいで気持ち悪かった」らしい。
 確かに僕は自分のことを語ろうとはしなかった。語ったところでどうなる? 僕はちゃんと自分のことを判っているし、自分のことなんて他人に判る訳ないと思っていたし、そして判って欲しいとも思っていなかった。彼女は僕を判りたいと思っていたようだが、僕はそれを求めていなかった、というだけの話だ。そういったすれ違いで、あっという間に別れた。細かいやり
 取りの内容はもう忘れてしまったが、ただ、人間味がないと言われたことには驚いたので、そこだけは今もよく覚えている。


 それからも何度か付き合っては別れて、を繰り返した。大体が向こうからのアプローチをきっかけに付き合い始め、大体の女の子が僕を責めて別れた。付き合っている最中はそれなりに楽しくて、別れたあとはそれなりに悲しかった。


 僕はやっぱり愛とは何かが判らない。確かに、今まで付き合ってきたどの女の子も、皆それぞれに魅力的だったし、好きだった。そこは間違いないのだけれど、愛しているのかと聞かれると、返答に困ってしまう。何度も困った。その時その時で僕が抱いていた感情は、もしかしたら愛だったのかもしれない。「愛してる」と言葉で言うのは簡単だ。でも、言葉にするだけで十分なのなら、それこそ口にする必要はないだろう。僕には愛してるふりしかできない。そもそも愛なんて形のないものなのだ。どうやって愛を示せば彼女たちは納得してくれたのだろう?
 実際に僕が「愛してる」と口にすることはなかった。できなかった。いつもいつも、母の悲鳴が聞こえてくるのだ。僕には人を愛する資格もないように思えるし、愛したこともないと思う。父から逃げ、母を捨てた僕に、果たして誰かを愛することができるのだろうか? 一度愛してしまえばその責任を取らなければならない。でもお前は責任を取らなかった。お前には誰も愛せない。また同じように逃げるだけだ。そういった強迫観念がずっと僕を支配していた。


 しかし、だ。少し前、初めて付き合った彼女と再会した。例の地味めだった女の子だ。
 僕は小さなIT関連の企業で、システムエンジニアプログラマの中間のような仕事をしていた。新しい仕事が入って、先輩と一緒に細かなシステム要件を伺いに客先に出向いた。受付にいたのが彼女だった。どこかで見たような顔だな、と思いながら打ち合わせを終え、自社に戻ろうとエレベーターに乗った瞬間に突然思い出した。十年以上会っていなかったし、本当に彼女なのかどうか確かめる必要性だってなかったのだけれど、先輩になんとか言い訳をして時間を作った。会社でも僕は上手く立ち回っていたので、多少の融通はしてくれるのだ。
 向こうも僕のことが気になっていたらしい。僕が受付にいた彼女に声をかけると「もしかして、浩二君?」と訊かれた。「うん。久しぶり」と言うと、彼女も「久しぶりだね」と返してくれた。昼休みにこれから入るところだったようで、僕たちは一緒に昼食をとることになった。
 初めはやはりギクシャクしていた。お互いに再会するとは思ってもいなかった。今の仕事のことを軽く話して、共通の知人の話へと移り、連絡先を交換して、僕たちは何事もなかったかのように仕事に戻った。
 週末には彼女をデートに誘った。彼女も乗ってきた。僕にも色々あったように、彼女にも色々あったようだ。眼鏡もコンタクトに変えていたし、服装も、化粧も、何もかもが大人びていて、まるで彼女じゃないようだった。
 何度か彼女と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりした。以前と同じように、僕は彼女の望むことを先回りして用意し、聞き役に徹した。彼女はそれを懐かしがってくれたし、ありがたがってくれた。ただ以前と違って、彼女は無理に僕に干渉することはなかった。


 僕に何が起こったのだろう? そのことが酷くショックだった。彼女が干渉してこないということにショックを受けている自分に更にショックを受けた。もしかして僕は干渉されたがっていたのだろうか。今まで同じような別れ方をした時も、似たようなことを考え、自分のことを判って欲しいと思ってはいないと結論付けたはずなのだ。そういうふりをしていたというだけで、本当は判って欲しかったのだろうか? それとも、歩み寄ろうとしていた彼女がそうしなくなったために驚いているだけなのか? よく思い返してみれば、干渉しようと踏み込んだところで追い返されてしまった女の子たちは、皆諦めて、あるいは怒って、僕の元を完璧に去ってしまっていた。別れてから少なからず悲しい思いをしたのは、踏み込もうとされなくなってしまったからだったのか? 誰かを愛するということは、相手の領域に踏み込みたい、ということだったのか? そして踏み込んで欲しい、と思うということだったのか?
 そうだ。確かに僕は彼女たちに踏み込んでいった。それは、単に踏み込んで欲しそうな空気を感じ取ったからだ。これは愛だった……のか? 僕はたまたまその辺の空気を察するのが得意で自信があっただけで、本来踏み込むことには不確定な要素もあるし、勇気だっているし、責任を取らなければいけないもののはずなのだ。彼女たちは自信がなかったからこそ、そして確実に僕を愛していたからこそ、不安に思いながらも、しかし手を差し伸べていたのだ。それをのらりくらりとかわされ、あるいは正面から拒絶され、悲しんだり、そこを察してくれない僕に苛立ったのだ。
 僕より彼女たちの方が何倍も凄いじゃないか。母を見捨ててしまったように、裏切るのが怖いというだけの理由で、僕が踏み込みたいからではなく、相手が求めているというだけの理由で干渉していたのだ。そして同様に、裏切られる母の気持ちを強烈に意識していたからこそ、裏切られるのが怖くて干渉されることを避けていたのだ。確かに、僕は誰も愛していなかった……。


 いい加減にそろそろ母の悲鳴を忘れなくてはならない。
 僕が彼女のことを愛しているかどうかは、やはり判らない。愛について考えていることも間違いかもしれない。それでも、僕は彼女が好きだ。愛してみようと思う。間違っていたのなら、反省して次に生かせばいい。


 僕はこれから彼女に電話する。
 プルルル・プルルル・プルルル、と三回コール音が鳴り、彼女が出る。

コウモリと僕


  1


 コウモリから僕は実に様々なことを学んだ。とは言っても、その大半はどうでもいい事柄だ。ストライクゾーンの極端に狭い冗談や、知らずに一生を終えても全く後悔しないような雑学。今になっても彼の教えてくれたことの半分も理解できていないのだから、引き算をすれば自然とそういったものしか残らない。


 彼は「JOKE」という冗談のような名前のバーの常連だった。僕が一人でバーに行こうだなんて思いつくのは、二つの原因しかない。何かいいことがあったか、悪いことがあったか、だ。
 そしてその店を選んだ切欠も大したものじゃない。誘蛾灯に吸い寄せられるように、というほど強くはない。精々、目をつぶって歩いていたらいつの間にか左に曲がっていた、というくらいの理由だ。


 「OPEN」という文字をぶら下げている扉の前で、僕は一度足を止めた。プレートは丁寧に磨き上げられており、薄ぼんやりと僕の顔を反射している。それに比べ、扉は苔が覆っていると言われても納得できそうな感じの色。ギギギ……と軋む音を響かせながら、一歩を踏み出す。
 柔らかな明かりが僕を迎えた。沈みかかっている夕日を濃いサングサス越しに眺めれば、ちょうどこれくらいかもしれない。初めて訪れる店にもかかわらず、久しぶりに帰ってきたかのような感じがした。
 テーブル席のない極々小さな店の内には、二人の男がいた。カウンターの向こう側でグラスを磨いている男と、カウンターのこちら側に腰を下ろし真剣な顔をしている男。僕に向かって「いらっしゃいませ」という言葉を投げかけたのは、なんとこちら側の男だった。
「君が来るのを待っていたんだ、君は喫煙者かい?」
「ええ、吸いますけど……」
 戸惑いを隠しきれない僕を尻目に、男は細長い顔を精一杯横に伸ばすような笑顔を浮かべた。
「ようこそ! 君は我々の仲間だ!」
 カウンターの向こう側の男は、扇風機が回る程度の音を響かせて笑う。
「こらこら、せっかくのお客様を驚かせてどうする」と子供のいたずらを見守る父親の顔つきで言ってから、僕をカウンターの男の隣に案内してくれた。背の高い小さな椅子は、発泡スチロールでできているかのように軽い。しかし作りはしっかりしているらしく、腰を下ろした僕を確実に受け止めてくれた。渡されたおしぼりの暖かさを確かめるように両手で弄んでいると、隣の男は神妙な顔つきで僕に話しかけてきた。
「こいつの名前はタナカって言うんだ。実に残念なことに、顔はいいのに頭がおかしい。店長の俺を差し置いて、毎日店にやってきてはグラスを磨きたがる。その間俺は酒を飲む」
「ですから私はタナカじゃなくてナカタですって。……彼が金を落とす役で、私が拾う役。嘘ばっかり言わないでくださいよ」
「な? これだよ。かわいそうなヤツだ」
 この洗練されたやり取りに、僕はただ苦笑するしかできなかった。どう考えても僕の隣の男が嘘をついているのだが、それを演じる彼は余りにも様になりすぎていて、かえってシュールな笑いを生んでいた。
「で、だ。火を貸してくれないか?」
「いいですよ、ちょっと待ってくださいね」ゴソゴソとカバンの中からシガレットケースを引っ張り出し、ライターを抜き取って彼に手渡す。顔と同じように細長い手で、彼はそれをぐっと握った。
「これでやっと煙草が吸える。この出会いを神に感謝だ。最初の一杯、ご馳走しよう。何を飲む?」
「いいんですか? でも、ありがとうございます。……それじゃあ、ビールを」
 ナカタさんはいつの間にかグラスを取り出していた。自慢げな表情でそれを掲げながら、ゆっくりと時間をかけて小さく肯く。おや、と思う間もなく、彼はビールサーバーに向き直って言った。
「ビールを飲まれそうな気がしたんです。長年やってると、そういう雰囲気がわかるようになるんですよ。間違えていたならこっそり仕舞えばいいし、そう分の悪い賭けじゃない」
 しきりに感心している僕に、コースターに描かれた蜂が「計画通り」という感じの表情を見せていた。
 実にいい店だ。


「それじゃあ、君のライターに乾杯」
 グラス同士が触れてカチンと冷たい音を立てる。その音が消えてしまわないうちにグラスを傾け、僕はビールを一気に味わう。舌の上で踊る苦味、鼻を抜ける微かな麦の香り、喉を刺激する炭酸――。ふう、と一息つくころには、既にグラスの中身は半分ほど消失していた。ビールと一緒に心のわだかまりも飲み干してしまったような感じがした。
 男はうまそうに煙草を吸っていた。煙草とアルコールの組み合わせはどうしてこうも我々喫煙者を魅了するのだろう? 負けじと僕も煙草に火を点ける。煙を吐き出したところで、僕はあることが気になって、訊ねてみることにした。
「火って、店で借りればよかったんじゃないですか?」
「タナカはライターもマッチも大嫌いなんだよ。それで親が死んだから」
 意外な答えと「死」という直接的な単語とのために少し飛び上がりそうになったが、よく考えればこれも彼なりの冗談なのだろうと思い至った。ナカタさんを見ると、案の定小指一本分ほどの笑みを浮かべていた。
「ところで、君は何を吸ってるんだ?」
「これです」と言ってラクダの描かれた箱を見せる。それを見た彼は、奥歯に何かが挟まって取れないような顔をして言った。
「それ、ラクダの味がするだろ? よくそんなの吸ってるな」
「いやあ、最初に吸い出した時から、ずっとこれなんですよ。このラクダにも愛着が湧いちゃって」
 僕は大げさにそのラクダを撫でる。その様子を見ていた彼は、挟まっていたものが取れたのか、急に機嫌の良さそうな表情に切り替えて言った。
「よし、お前の名は今日から<ラクダ>だ。俺のことは、そうだな――」彼は僕の前にパッケージを投げてよこす。「<コウモリ>と呼んでくれ」
「なんですか、それ」と僕は二つの意味を込めて言った。見たこともない銘柄だったし、名前を伏せる意味も判らない。昔は<ジーパン>といったあだ名を付けるのが流行したこともあったらしいが、彼の年齢は二十代後半としか見えない。それに時代が古すぎる。
「これ、知らないか?」
 僕は首を振る。
「ある筋では有名なんだ。いいか、この煙草を吸う人間には三種類いる。貧乏学生と、馬鹿と、天才だ。……俺は、どれに見える?」
 さすがに初対面の、それもおそらく年上の人を馬鹿呼ばわりする度胸はなかった。しかし天才というのもなんだか憚られる。迷った末、僕は冗談めかして言った。
「……貧乏学生ですかね。それだけ留年してると、教室にもいづらいでしょう」
 コウモリは意外な答えに驚いたそぶりを僅かに見せたが、すぐに今までになく顔を綻ばせた。
「おいラクダ、俺とコンビを組もう。世界を狙えるぜ」



  2


 僕たちはそのようにして出会った。コウモリとのファーストコンタクトを終えた時点で、僕は彼のことが妙に気になっていた。彼の冗談が面白くて気に入ったというのもあるが、勿論それだけではない。煙草の銘柄という偶然ではあるにせよ、ラクダという僕の名は的確に僕の性質を表現していたし、コウモリという彼の名も確実に彼の性質を表現していた。僕はラクダのように何も考えず何も主張せず、しかし瘤の中には何かがあると思っていたし、彼はコウモリのようにフラフラと闇の中をさ迷い歩き、しかし確実に色々な音を聞いていた。僕には何もなくて、彼には何かがあった。その<何か>が一体何かというのは、僕は語る術を持たない。残念なことに。
 だから僕は、僕なりのやり方で彼を語ってみようと思う。そうすることで、彼はずっと生き続けられるような気がするからだ。


 コウモリはその名の通りに痩せていた。それはどちらかというと不健康な痩せ方で、服の上からではそれほど痩せているようには見えないものの、顔や首筋や手からは確実に痩躯独特の香りが漂っていた。不健康に見えたのは、もしかすると単に店の照明の問題だったのかもしれない。僕はついぞ彼と店の中以外の場所で会うことがなかったのだ。
 店にはいつもスーツで来ていた。それは若干くたびれた空気を発していたが、上等な品であるらしかった。彼の体のために選ばれたように見事なフィット感で、縫い目に手を触れれば切れそうなほど鋭利で完璧なラインだった。彼とスーツは、慣れ親しんだ夫婦のように落ち着いた感じを見た人に与えた。靴も、ベルトも、腕時計も、ビジネスバッグも、彼の選ぶ小物は実にシックだった。彼の服装を音楽のジャンルにたとえれば、ほぼ間違いなくクラシックだった。
 そんな彼でも、時々ではあるが、わざと小物の調子をはずすこともあった。そのことを指摘すると彼は決まって今日はデートなんだ、と言った。本当かもしれないし、冗談かもしれない。彼は真剣な表情でジョークを言うので、ときどき僕は全く知らないT字路に立たされるような感じを受けさせられるのだ。とにかく、たまにはジャズを聴きたくなることもある、ということだ。
 そして目つきは鋭かった。途轍もなく存在感があった。眼光のきつさを隠そうとして、かえって細めた目のために強調された結果の鋭利さだった。その目で見つめられると、体を貫いて中の神経をズタズタにされそうだった。そして必要な情報は全て抜き取られてしまう。
 しかしコウモリは自分の目のことに自覚的だった。よほどのことがない限り、人の目をじっと見るということをしなかった。その上、冗談を連発することで「怖い目のわりに面白い人」というイメージを効率的に作り上げさえした。彼の冗談は美しかった。芸術的でさえあった。全ての可能性を考慮に入れて、その中で最もいい選択肢を的確に選び出し、さらにそれを冗談にして吐き出していた。
 彼は確固とした自己像を持っていたはずだ。彼の服装から、言葉の端々から、そぶりから、彼の文体が伝わってきた。それは圧倒的なパワーを持っていて、僕は思い切り吹き飛ばされたのだ。
 間違いなく天才だった。



  3


 最初にJOKEに足を踏み入れたその日から、僕は一週間と空けずに店に通っていた。コウモリに会うためでもあったが、JOKEの居心地が最高によかったからだ。小さな店で、店員もナカタさん一人しかいない。客数も多くて五人。品のよい人が多く、騒がしいこともない。柔らかな照明に、ジャジーなBGM。上品過ぎず下品すぎず、落ち着いた内装。店の奥とカウンターの反対側の壁に架けられた、どこかの田舎町を描いたらしき風景画が二枚。誰も投げている人を見たことがないのに、穴だらけのダーツボード。何もかもが、僕に郷愁の念を抱かせる。ナカタさんが親と同じくらいの年齢というのも一つの理由かもしれない。とにかく懐かしい雰囲気で、家に帰るような気分でフラフラと立ち寄ってしまう。そんな奇妙な魅力があったのだ。
 ちょうど一ヶ月が経ったころだろうか、ある日僕が店に行くと、コウモリがいなかった。今まではいつも僕が来るより先にいたというのにもかかわらず。そりゃ彼だって毎日のように店に立ち寄るわけにはいかないだろうが、しかし彼がいないということに、まるで蛇の抜け殻だけを見つけてしまったような違和感を感じた。
 いつもコウモリが座っていた席に座ってみたものの、どうもソワソワとして落ち着かない。とりあえず、とビールにフライドポテトを注文して、彼が現れるのを待ってみることにした。僕のトレードマークとなった<ラクダ>に火を点しながら。
 しかし、当然といえば当然のことなのだが、一人で黙々とビールを飲み、煙草を吸い、またビールを飲んでいるだけでは思ったように時間は過ぎていかない。皮のついたまま大きめにざっくりと切って、それを簡単に揚げただけのフライドポテト。シンプルながらも実に美味い。そんな数少ないつまみの一品だが、もはや真っ白な皿の上にはケチャップとパセリを残すのみだ。ゆっくりと時間をかけて食べたはずなのだが、まだ一時間も経っていない。コウモリという存在の大きさに今更ながら気づかされる。彼の饒舌を聞いているだけで時間はそれこそ光のように過ぎ去ってしまう。また次回コウモリがいることに期待して、今日のところは引き上げるかどうか迷ったが、僕はふとナカタさんと話をしてみたい、と思った。よく考えれば、僕は彼のことも、彼とコウモリとの関係も知らなかった。ナカタさんはジュークボックスのような人だ。話しかければ確実にいい言葉を返してくれるが、向こうから自然と語りかけてくることは少ない。まず僕は彼にコインを入れなければならない。
 僕がナカタさんにどう話しかけたものかと思案していると、そんな空気を感じたのか、彼はさりげなくこちらに近づいてきてくれる。僕の考えが読み取られているのかもしれない。それほど自然だった。一体どんな訓練をすれば、彼のような技術が身につくのだろう? この機会を逃すまいと僕は無理に話題を考えてみたが、口をついて出たものはコウモリのことだった。
「ナカタさん、今日は珍しくコウモリを見かけませんけど、どうかしたんですか? そもそもどうしていつもいるんでしょう」
 グラスを拭く手を止めて彼は答える。
「さあ、私にはなんとも、て所ですね。一体この店のどこに惹かれたのやら」と彼のやり方で僅かに表情を動かす。「そういえば、この前仕事が忙しい、とか言ってましたよ」
 続いてナカタさん個人のことを訊こうと口を開きかけた瞬間に、入り口の扉が開いた。噂をすれば影が差す、とはこのことだろう。
「いやあ、遅くなった。お、ラクダがいるじゃないか。俺がいなくて寂しい思いをさせちゃったな?」
「どうしたんですか、僕より遅いなんて。コウモリがいないJOKEなんて初めてで、何だか落ち着きませんでしたよ」
「そうかそうか、やはり俺がいないと始まらないか」
 コウモリは嬉しそうな表情を見せる。ネクタイを緩ませながら僕の隣(いつも僕が座っている席だ。今日は逆の形になる)に腰を下ろす彼に、ナカタさんは黙ってビールグラスを持って行った。なるほど、最初の一杯はビール、というのが二人の暗黙の了解なのだろう。信頼関係を見せ付けられたような気がして、僕は少しだけ気恥ずかしい気持ちになった。
「ついさっき、ちょうどコウモリの話をしてたんですよ。仕事が忙しくなったとか」
 彼は優雅な動作で煙草に火を点け、答えた。
「まあ、そうだな。タナカから何か聞いたのか?」
「いえ、殆ど何も。ただ、忙しくなったらしい、とだけ」
「配置替えがあったんだ。前よりちょっとだけ慌しくなった」
「何のお仕事をしてるんですか?」
「ん……」彼は微かに顔を曇らせた。あまり触れてはいけない話題だったのだろうか。ナカタさんはそしらぬ顔で酒棚の整理をしている。
「井戸って知ってるか? 井戸。俺の仕事は、遠くの井戸まで行ってバケツ一杯に水を汲んで、これまた遠くの別の井戸にその水を放り込むようなもんだ。誰でもできるし、全くやりがいのない仕事だよ。冗談のタネにもならん」
「なんとも抽象的な話ですね」
「多くのことは抽象的にしか言えないんだ」
「でも、忙しいって言ってた割には楽しそうですよ」
 彼は煙草を咥えたまま頭をポリポリと掻いた。
「配置替えがあって、新しい井戸に回されたんだ。なんとその井戸はオレンジジュースが湧き出る」と彼は片一方の口角だけを上げる。「そりゃ楽しくもなる。でもやってることは一緒だ」
 コウモリと二人で煙草を吹かしながら、僕は彼の言葉を反芻していた。薄汚れた水色のポリバケツの中に汲まれていくオレンジジュース。深刻な表情で古井戸の釣瓶を引っ張っているコウモリ。その絵の中で異彩を放つ黄色の液体。彼はそこに何を見るのだろう。


 僕は彼について何も知らないことに思い当たる。結局、彼の仕事についても具体的には知れなかった。年齢も判らない。本名すら知らないのだ。どこに住んでいるのか、趣味は何なのか。好きな食べ物は何で、嫌いな食べ物は何なのか。音楽はどんなものを聴くのか。影響を受けた人は誰か。何でもいいから、彼のことを知りたいと思った。もしかすると、ナカタさんのことを知りたいと思ったのも、間接的にコウモリを知りたいという意識が働いたのかもしれない。きっとそうだ。
 僕は彼に対する憧れのような意識を抱いていたことを知る。
「そういえば、僕はコウモリのことを全然知らない」
「どうしたんだ、急に?」
 彼は懐かしそうに笑った。トントン、と煙草の灰を落とす仕草までが懐かしそうだった。
「それに、俺のことを知ったって何の役にも立たないだろ。まだシャンプーハットの方が役に立つ」
「紙やすりとか」
「そうそう、その調子だ」
「クレヨン、分度器」
「ねこ足のバスタブ」
 唐突に登場した上品な言葉に笑ってしまう。よくもまあ、役に立たない物を次から次へと思いつくものだ。僕はグラスに手を伸ばし、何かいい物はないかと思いを巡らせる。ホロスコープ……プレパラート……紙粘土……
「冗談が好きで、テレビが嫌いだ」
 彼の言葉で僕の思考は押しとどめられる。急な話題の転換に頭の方がついていかず、「え?」と間の抜けた音が出てしまった。
「俺のことが知りたいんだろ? 教えてやるよ。テレビはニュースしか見ない。バラエティーは絶対に見ない。嫌いなんだ。訳のわからないヤツが派手な動きをしながら勢いだけの言葉を言う。そこにテロップが出て、親切なことに『ここが面白いんですよ』と教えてくれる。全く頭を使わなくていい。最高だ。親切すぎて涙が出る」 それだけを言ってしまうと、彼はグラスに残っていた液体を一気に飲み干す。そして左手を大きく挙げ、パチン、と指を鳴らした。
「ナカタさん、ギムレットだ」
 指を鳴らすまでもなくナカタさんはコウモリの方を見ていた。彼は目をつぶり眉だけを上に動かす。「任せてくれ」と沈黙が語っていた。


「なあラクダ、世の中で最も高尚な冗談は何だと思う?」
 僕は少し考えて、かぶりを振る。
「正直、想像もつかないですよ」
 コウモリはギムレットの薄緑を見ている。そういえば、この店の扉もこんな感じの色だった。同じような色でも、三角形のグラスの中に入れられると不思議と生き生きと輝いて見えて、生命力あふれる新緑の木を彷彿とさせる。コウモリは煙草を引っ張り出し、神聖な儀式のような動作で火を点けた。パッケージも同じ色をしていた。奇妙な符合。
 彼はグラスから僕の目へと視線を移す。
「『坊さんが屁をこいた』だ。俺はこの冗談が最高だと思ってる。なあ、想像力の要らない冗談なんて無意味なんだ」
 目線が再びギムレットに向けられる。彼はグラスに手を伸ばし、途中で止める。行き場を失った中途半端な左手を残したまま、右手を口元に運び、一筋の白い煙を吐き出した。彼は話を続ける。
「坊さんがしかめっ面してお経唱えてる時に、不意にバフッ、だよ。絵面を想像して見ろ。このギャップが最高に面白い。確かに面白いが、しかし、だ。どうして坊さんが屁をこいたらおかしいんだ? 坊さんだって人間だ、そりゃ屁をひりたくなることだってある。それはこういうことだ。つまり、俺たちは坊さんを『坊さん』として神格化してしまっているために、屁をこいちゃいけない存在だと思い込んでしまってるんだよ。ギャップを笑うと同時に、そのギャップを作り出している俺たち自身の愚かさを笑い飛ばしてるのさ。判るか? これ以上短くて、これ以上頭を使う冗談を俺は知らない」
 僕は上手く答えを返すことができなかった。「それもそうだ」「なるほど」「確かに」「さもありなん」色んな発言が浮かんでは消えた。どれもが適切なように思えたし、どれもが不適当なように思えた。僕は考える。彼が言わんとしていることはよく判ったし、「それはそうだ」とは思う。しかし、これらの言葉の情報量はゼロだ。彼の言う「想像力」を僕は持っていない。そのことを痛感する。判らなかった。何を言ったとしても、そこには想像力が含まれていないように感じた。
「どうすれば、コウモリみたいになれるのかな」
 やっとの思いでその言葉を発したとき、僕の指の間の煙草はずいぶんと短くなっていたように感じた。コウモリは穏やかな表情を浮かべていた。何か可愛らしい小動物を手の上で弄んでいるような、そんな穏やかさだった。
「やっぱりお前は、昔の俺に似ているよ」
 そう自嘲気味に呟いて、コウモリは足を組み替えた。
「本を読め。それも、なるべく下らないと思うようなヤツをな」



  4


 僕はできるだけ下らないものを読もうとした。あくる日、僕は古本屋に足を運び、そこで「女の口説き方」といったようなハウツー本を買った。酷いタイトルで、装丁も酷かった。何件の古本屋をたらい回しにされたのか、本の状態も悪く背表紙にはいくつもの値札が重ねて貼られていた。内容も本当に凄く下らなかった。偉ぶった口調で、大体は僕が知っているようなことを書いていた。そして別に改めて読みたいと思うようなものでも当然なかった。選んだものが悪かったのかもしれない。しかし僕はコウモリが言いたかったことがやはり判っていなかった。なぜ下らないと思うような本を読めと彼が言ったのか、それを想像するということを怠っていた。
 結局、彼が言ったことの真意は次回聞いてみるということにして、以前買ってそのまま放っていた本を探し出してきた。これは数年前ベストセラーになったものらしい。当時の友人に勧められたはいいものの、読むことはなかった恋愛小説。電車の中の移動時間をもっぱら読書の時間に当てた。またJOKEにコウモリがいないことがあれば、その時間もつぶせる。これはなかなか悪くない考えに思えた。


 何日か経ち、もう何度目かも判らないギムレット色の扉を押し開けると、今度はちゃんとコウモリがいた。いつもの席に座り、いつものビールを飲み、いつもの煙草に火を点けた。
 彼は出し抜けに何か読んでみたかどうかを訊いてきた。僕は正直に下らないと思える本を読んでみたのだが、意図がわからなかったので今は普通の本を読んでいると答えた。彼はそうだろうなあ、と言いたげな顔をした。そしてカバンの中から一冊の薄い本を取り出した。何度読み返したのか判らないほどボロボロだった。僕はそれを受け取った。
 手に取ってみると、ますます薄く、ボロボロだということを実感した。赤と緑がそれぞれ右と左を染めている。あまり目に良くなさそうな装丁だった。その表紙にはこう書かれていた。
 国語。
 それは国語の教科書だった。
「何ですか、これ」
「知らないか? 教科書」
「そりゃ知ってますけど……」
 まだ彼の意図は掴めなかった。僕は僕なりに想像力を働かせてみたつもりなのだけれど、それでも全然判らなかった。僕は待った。彼が説明をしてくれることを期待していた。彼は僕の目を見た。目の奥の更に奥を覗き込まれた気がした。
「テロップが必要か?」
 凍えるような一言だった。
「なあ、俺はお前が考えてることくらい手に取るように判るんだ。期待するんじゃない。自分で考えて、自分の意見を言え。それが間違っているかどうかなんて恐れなくていい。失敗するのは悪いことじゃない。同じことを繰り返さないようにすればいいだけだ」
 僕はじっと押し黙って教科書の表紙を眺めていた。ただの教科書を、こんなにくたびれるまで読んだのか? 一体どうして? 想像もつかなかった。コウモリ流の冗談かもしれないが、それにしては手が込みすぎている。
「みんなが俺に期待しているような気がするんだ。これは俺の気のせいなのか? お前なら俺の意図を汲んでくれる、と。確かにそうだよ。俺は殆どの人の思惑が読める。でも疲れたんだ。その思惑通りに動いてしまっている俺自身にも嫌気がさしてきた。疲れたんだ」
 そう言ってため息をつく。コウモリはどこも見ていないようだった。言ったことも誰かに向けたわけではなく、むしろ自分自身に言い聞かすような口ぶりだった。乱暴に煙草を消すと、彼は席を立った。
「その教科書はお前にやる。宿題だ。次までに、ちゃんと考えておけ」
 あとに残されたのは孤独な空気だけだった。


 そして次の機会はやってこなかった。



  5


 コウモリは僕の前から姿を消してしまった。国語の教科書だけを残して。
 それでも僕はまたコウモリに会えることを期待して、何度もJOKEに通った。そこで教科書をずっと読んでいた。中学一年生のために編まれたものだった。載せられている文章自体は平易なものだったし、僕でも名前を知っているような文学作品や詩ばかりだった。実際にコウモリが使っていたのか、折り目がついていたり、傍線が引かれていたり、傍線同士が線でつながれていたり、書き込みがあったりした。書き込みは極簡素なものだったが、その数は膨大だった。ページの殆どが傍線と書き込みで埋め尽くされていた。「喜」や「哀」といった単語が無数に書き込まれていた。
 その教科書を三度読み終えたとき、僕はようやくコウモリが言いたかったことが判ったような気がした。全ての言葉には無駄というものがないのだ。ありとあらゆる言葉が何らかの意味を孕んでいた。一見ただのノイズにしか見えないような単語でさえも、想像力を働かせればそこに意義を探ることができた。


 次に二年生用の教科書を購入し、コウモリと同じことをやってみた。傍線を引いて、バラバラにして、その表現するものを掴もうとした。この作業はすごく楽しかった。今まで自分が使っていなかった想像力という機能を思いっきり発揮させた。もうこれ以上深く読むことはできないと思ったものでも、もう一度読み直してみると新しい発見があった。
 コウモリはまだ姿を現さなかった。ナカタさんに探りを入れても、仕事が忙しいようだ、と本当か嘘かも判らない言葉しか返ってこなかった。
 彼は僕のことを「昔の自分に似ている」と言った。彼にもそんな時代があったのだ。僕もいつかは彼のようになれる時が来るのかもしれない。彼が何を思ってここを去ったのか、ちゃんと理解することができるようになるのかもしれない。


 今日もライム色の扉を開け、彼がいないことを確認してからいつもの席に座る。教科書に書き込み、ビールを飲んで、煙草を吸って、ナカタさんと話をする。
「そういえばラクダさん、『羅生門』は今の子達もやるんですかね」
「ええ。確か高一の教科書に載ってますよ」
 僕はピンと来た。
「コウモリの行方は誰も知らない、か」
 きっと井戸でも眺めていることだろう。