課題作文

 僕にとっての読書の醍醐味、それは主人公を「真似する」ことだ。しかしそれは『竜馬が行く』『燃えよ剣』を読んで坂本竜馬土方歳三のようなカッコいい生き方を真似するというほどではない。『青年は荒野を目指す』を読んでユーラシア横断のようなたいそうな行動を真似するわけでもない。主人公のほんの小さな趣味を真似するだけで、自分がほんのちょっと物語の主人公に近づいた気がしてうれしいのだ。



 そんな点から紹介したい本は、江國香織の『冷静と情熱のあいだ』と『東京タワー』の2冊。江國香織の小説は、多くがあらすじというものがない。というと言い過ぎだが、物語の進行が非常に遅い。『冷静と〜』は辻仁成との物語に合わせて書いているので、さすがに物語の進展は激しいが、辻のバージョンよりも主人公の心情やその場の雰囲気の描写に文章を割いている。


 江國の物語に出てくる主人公は至って普通の人間だ。『冷静と〜』の主人公あおいはお風呂に入るのが好きだ。風呂上りにアマレットという酒を薄くソーダで割ったものを飲み、恋人とのデートに出かける。そのアメリカ人の恋人マーヴと別れて一人暮らしの部屋を探すときも、大きな風呂がある部屋というのは譲れなかった。
『東京タワー』に出てくる主人公透は、インスタントコーヒーが好きだ。『ドリップしたものよりも性に合うと思う。うすっぺらい香りがいいのだ』。彼は今日も自分で入れたインスタントコーヒーを飲みながら、母親と同じ歳の恋人詩史さんからの電話を待つ。
これらの主人公は自分に近くはないが、決して遠い存在にも感じない。まるで自分も物語の主人公になれる気がしてくる。



 僕はこれらの本を読んでから風呂によく浸かるようになったし、インスタントコーヒーを愛飲するようになった。アマレットも買った。別にこうしたからといって何が変わったというわけではない。ただ趣味が増えただけのことだ。だが、「物語の主人公と同じ」趣味が増えたことは僕を幸せにしてくれる。
欲を言うなら坂本竜馬の真似をしてみたい。でも僕にとってはあおいや透の真似をするだけでも幸せなのだ。

課題作文「責任の取り方」

 「責任」と「信頼」は切っても切り離せない関係にある。普段からのその人への信頼度によって責任の取り方も変わってくる。例えば、同じ遅刻をするとしても、いつも遅刻している人だったら「またこいつは遅刻か」と思われるだろうし、普段きちんと来ている人だったら「今日はもしかして何か病気か事故で遅れるのかな」と思われるかもしれない。もちろん、遅刻をして周囲に迷惑をかけていることには変わりはないが、その信頼度によって周囲の受け止め方、不快感などが変わってくることは十分にありえることである。


 これは仕事上の失敗についても言えることである。業績が悪化した会社のトップが辞任するのは、社員・取引先・株主・世間からもうすでに信用されていないからである。たとえ業績が悪くなったとしても「責任」を持って会社の再建をするのが、トップに課せられた本当の「責任の取り方」であると思うが、周囲の「信頼感」がそうはさせてはくれない。もし、数々の功績を残し、社員からも世間からも好かれている経営者であるならば、同じ業績であったとしても経営再建を託されるかもしれない。


 「責任の取り方」。これは結局、どんなミスを犯したとしても周囲と自分の「信頼」によって変わってくるものである。だから最も有効な責任の取り方は、普段から周囲の人と信頼関係を築けるよう努力し、一生懸命仕事に取り組むことではないだろうか。

お久しぶりですⅡ

ほんとに久しぶりです。3ヶ月弱書き込んでなかった…。


おそらくみなさんがこれを見るのは、今日の会議後になるでしょうから知っていると思いますが、4月から僕は編集会議への参加は辞めて、作文だけの参加にさせていただきます。理由は


・企画が好きではなくなった
今までは会議に参加していたのは、自分が編集者に向いているかどうか知るためというのもあったのですが、数ヶ月間やってみてそもそも本の企画を話し合うこと自体に楽しみを感じられなくなったので、辞めることにしました。ちなみに、就職活動でも出版系は受けていません。


・会議があまり好きではない
雑談が多かったり、話の方向性が定まってなかったり、遅刻が多くなかなか始まらない会議はキライなのです。良いことやってるのにもったいないですよね。


・作文は自分の中で役に立った
しかし、就職活動をしていてここで練習した作文が役に立っているような気がしたので、作文の方は続けさせていただきたいと思います(といってもなかなか書き込んでいないけど…)。みんなの文章を見れるのは楽しいですし。でも作文も何のために書いているのかメンバー内でも一致していないようなので、そこらへんも今後会議で考えていただければな、と思います。


雑学問題など、僕の仕事を引き継いでくれたり、どうもありがとうございました。これからもみなさん頑張ってください。




あ、ちなみに、上の作文は27日に掲載したのですが、これと同じ日付になるので「28日」となっています。一応ギリギリセーフで提出しました…。

ただの言い訳

お久しぶりです。前回の授業休んでしまってたいへん申し訳ありませんでした。

「徹底・自己分析」の作文を書きました。みなさんの批判にややビビった面もあり、みなさんの「戦争」と「自己分析」についてはコメントを書きました。それより前の作文についてもそのうちコメントしたいと思っています。
作文にも書いたんですけど、ほんとに飽きっぽい自分の性格が嫌になりますね。はてな自体は2日に一度は見ているんですけど、なかなか書く気になれなくて…。次書き込むのはいつになることやら。

徹底『自己分析』

『自己分析』とはいったい何なのだろうか。


 その名のとおり、自分を分析すること。自分のこれまで経験や考え方などを基に、強みや弱みを分析することである。YAHOOで検索するとなんと354,000件も「自己分析」に関するページが出てくる。


 自己分析が活躍するのは主に就職活動のときである。とある就職活動について書いてあるホームページでは「自己分析とは、自分の性格や行動を知り、自分の強みを見つけ、これからやりたいこと、できることを考えることだ。つまり、社会に出るにあたって、自分がどのような方向に進むのかを、自分自身で確認することだ」と書いてある。ポイントは「これからやりたいこと、できることを考える」という点だと思う。


 就職活動をする者は(現在の私もそうであるが)、企業に自分を売り込むために自己分析をする。自分が今までどういう経験をしてきてその企業に入りたいと思ったのか、自分の強みはどういったものでそれをどう仕事に活かしたいのか。実際にエントリーシートで「あなた自身を自己分析してください」と書かせる企業もある。ここまでストレートでなくても「あなたが大学生活で打ち込んだものは何ですか」「自分をアピールしてください」なども間接的だが自己分析だと捉えてもよいだろう。つまり、自己分析のひとつの目的は「企業に入るため(良い言い方をするなら、自分がこれから一緒に働くかもしれない人たちに自分を認めてもらうため)に自分の良いところを知ってもらう」ということだろう。この自己分析においては自分をいかに良く見せるかということが重要である。もちろん事実以上に飾る必要もないし、自分の弱みをひた隠す必要もないのだが、企業にアピールするために自分の悪い面ばかりを言う人はほとんどいないだろう。「自分は映画やドラマを見たり、小説を読んだりして今まで一度も泣いたことのない無感動な人間です」(事実です)と自分を分析してみても意味がないのである。


 自己分析のもうひとつの目的として「自分で自分のことを知る」というものがある。R-CAPなどの自己分析ツールを使って自分の適した職業を探す人もいるし、そういったものを使わなくても自分で自分の理想の生活を考えて仕事を決める人もいる。また、就職に当たってだけではなく、例えば「これからどういった大学生活を過ごすか」とか「自分はこのサークルでどんな役割をすればいいのだろうか」と考えるときにも、自分のこれまでを振り返り自己を分析することは必要である。


 長くなったが、結局言いたいのは「自己分析とはこれからの自分のため(企業に入るため、より良い生活を送るため)に行うものだ」ということなのである。目的なしでは自己分析は成し得ない。そうでなく、人に自分を知ってもらうためだけに自己分析をするのなら、それはただの「自己紹介」になってしまうだろう。




……自己分析結果。僕はとてもひねくれた性格をしています。

課題作文「徹底・自己分析」

「戦争」はまだ書いていません。というか何を書いていいやらさっぱり思いつきません。すいません。
 先に「徹底・自己分析」について書くことにします。(一応)就職活動中の僕にとってはなかなか身近な存在なものなので。上に書いたことに関連するんですけど、この作文の「自己紹介」の目的をどういったものにしようか迷ったんですけど、テーマとして「面接では言えない自己分析」といったものをしてみようかと思います。


 
 僕の性格を表す言葉を考えてみる。たくさんあるが、その中でかなり核心をついた言葉のひとつに「飽きっぽい」というのがある。昨年まで日記は2日以上続いたことはなかったし(2004年1月1日から書き始めた日記は5日間続いた!)、読書をやろう、筋力トレーニングをやろう、英語の勉強をしよう、漢字検定を受けよう、などと思っても1週間、いや3日と続いた試しがないのである。しかし節目節目にはそれを忘れて「今度こそは続けよう」となぜか自信満々に思ってしまうのである。例えば2004年の目標として、上に書いた日記や読書などを毎日続けようと思ったし、毎学期ごとに出もしないのにたくさん授業を履修してしまうのである。特に今学期(三年生後期)は酷かった。「残り半分の大学生活を有意義に過ごさねば」と思って、授業も、再履修の英語も、生協学生委員会も、就職活動も頑張ろうと夏に誓った。しかし結局は学部の授業はゼミ以外出ていないし、英語も危なくて留年しかけているし、単位にならないのに自主的に取った「編集者という仕事」は半分も出席しなかった。就職活動も年が明けるまで何もしてこなかった。

 勉強にすぐに飽きる、友達に飽きる、サークルに飽きる、彼女に飽きる、自主ゼミに飽きる、遊ぶことに飽きる、自分のしなければいけないことに飽きる、大学生活に飽きる。僕は今まで多くのことに飽きてきた。その中で飽きてしまった結果放棄してしまったものもあるが、結局ダラダラと続けてしまっているものがほとんどだ。まぁ、勉強は手放せないものとしても、学生委員会も3年生の終わりまで続けてきたし、この自主ゼミにも在籍している。

 しかし僕はなかなか放棄できない。別に勉強しないんなら漢字検定なんて受けなければいいじゃないか。でも僕はまた「漢字の勉強をしよう」と思ってしまう。なぜか。それは中途半端な「向上心」があるからだ。漢字ができるようになりたい、英語が話せるようになりたい、痩せたい、自分の知識を増やしたい。「それをやったら自分にプラスになるかも」という向上心があるからこそやめられない。しかし飽きっぽいから続かない。僕の人生はこれの繰り返しだ。

 もちろんそんな自分が好きなわけはない。しかしこれと言って大きな損をしているわけではないので結局こんな生活を続けてしまう。だが、自分ひとりだけの問題で済まないこともある。自分の中途半端さのために他人に迷惑を掛けてばかりなのも事実だ。他人に迷惑を掛けるのならいっそのこと辞めてしまったほうがいい。しかし、「続けてればなんとかなるかも」と思ってしまう自分もいる。この「自制心のなさ」、「反省をしないこと」、そして「飽きっぽさ」を改善しないことには僕は他人に迷惑を掛け続けることになるだろう。そして他人の信頼を取り戻すことは不可能だろう。






 愚痴のような、反省文のような、とにかく読んでいて楽しくもない文章です。
 「○○、○○、○○、」と並列の表現をたくさん使うことは僕の癖ですね。これが続くとそれこそ「飽きる」文章になってしまいます。あと、この文章は逆説が多すぎますね。こんなふうにわかっていても直せないのが僕です。「自分のことをけっこう冷静に分析できてはいるが、その分析結果を自分のステップアップに活かせない」というのが僕自身の自己分析ですかね。今回の作文はそれをさらに気付かせてくれたものでした。

小さき者

 僕が自分のことを「小さき者」と感じるのは、信号無視をしてしまったときだ。信号無視。それはほんの数十秒の余裕さえも持てない「小さき者」のする行為である、と。


 信号無視をするのはどういうときか。遅刻しそうになって1分1秒を争っている場合は別として、例えば深夜車の来ない交差点で、信号が変わるのを待たずに横断する場合のことを考えよう。
それは「青信号になるまで待てない」時である。しかし、べつに何分も信号で待たされるわけではない。せいぜい平均30秒も待てば信号は変わるのではないだろうか。「車が来ない交差点でバカ正直に信号を待つのは時間の無駄だ」という人もいるだろうが、果たしてそれほどの時間の無駄だろうか。朝なかなか布団から出られずにモゴモゴしている時間や、ボーッとテレビを見ている時間、おもしろくもない授業に出ている時間(これは冗談)の方がよっぽど時間の無駄である。これらの時間の無駄を考えれば、信号待ちによる時間の無駄なんてほんの誤差程度でしかない。ちりも積もれば山となる、というかもしれないが、たとえ一日に2回、30秒の信号無視をしたとしても、1年間で<30秒×2回×365日=6時間ちょっと>である。6時間なんて正月3が日でダラダラテレビを見ている時間をなくせばどうとでもなる時間である。
 こんな微々たる時間が「もったいない」と言って信号無視をするのは僕にとって「小さき者」がする行為に他ならない。


 また、「そんな簡単な交通ルールさえ守れないのか」とさえ思ってしまう。ただ信号が変わるまで待っていればよいだけのルール。車で一旦停止線で止まるのは多少なりとも経験や技術がいると聞いたが、信号を守るのなんて誰でもできるルールである。こんな簡単な法律を守らないで社会人と言えるのだろうか。少なくとも子どもがいる前では信号無視をしないでほしい。知っている子であれ知らない子であれ、大人の行いというのはその子に与える影響は大きいものである。「信号無視はよくない」と無垢に信じている子どもの前で、それを踏みにじるようにルールを破るのだけは止めてほしいと節に願う。


 したがって僕は信号無視をする人を「小さき者」だと思う。それは電車の中で携帯電話の電源を切らない人や歩きタバコを吸う人に対しても思う。ほんの少しの我慢をしさえすればできることなのになぜその決まりを守れないんだ、と思う。我慢できない人=余裕がない人=「小さき者」だ。
 しかし一番「小さき者」。それはこんな文句を並べておいてやはり実行することができない僕自身だ。タバコは吸わないが、信号無視はついついしてしまうし、電車の中でもメールを打ってしまう。それが悪いことだとわかっているのに守れない。これこそ「小さき者」だ。「信号が変わる時間くらい待ってやるぜ」という余裕がほしい。この余裕を持つことが「小さき者」から脱却して「大きい大人」になる方法のひとつであると僕は思っている。