過去のエンターテイナーから学ぶ

ミュージカルやショーを含むエンターテイメントやダンスパフォーマンスという言葉が曖昧な使い方になっているので、ここで明らかにしたい。私がこの中で記載する上記の言葉は、ジャズダンスを基本とするダンスがメインの作品のことで、例を挙げると「クレージーフォーユー」「キャッツ」「シカゴ」「マンマ・ミーア!」などのダンスシーンの多いミュージカル作品や、マシューボーンのショーのように作られたバレエ作品「ナットクラッカー」、またディズニーの提供するショーやパレードのことである。
これらの作品に影響を受け今回の研究が始まったため、まずは先人たちのやってきたことに学ぶべきだと考える。
初めに、エンターテイメントが成り立つために必要な構成要素を挙げる。プロデューサー、構成・演出、音楽、衣装、美術、振付、照明などのプランナーと現場で動くスタッフがいる。この中の一つに出演者がいる。全てを知ることは重要だが、今回は自分の入るべきポジションについて学びたいと思う。
「ニューヨークのパフォーミングアーツ」(1989年大平和登新書館)によると、イギリスからアメリカ大陸に移民してきた人々が、ロンドンでは上流階級のために行われていたミュージカルを自分たちのために始める。縛られた世界からの解放と明るい未来を夢見て、アメリカのミュージカルの歴史が幕を開ける。「アメリカンドリーム」である。また、現在に至るミュージカル作品の大半がハッピーエンドである。違うものまたは暗い作品は、ロンドン産に多いように感じる。例えば「オペラ座の怪人」「ジキルとハイド」である。また「キャッツ」もロンドン版よりもブロードウェー版の方が派手なダンスシーンが増え、より明るく構成されている。今現在でも経緯から考え、アメリカのミュージカルは「夢を見られる」が原則にありそうだ。
これらの作品の出演者たちはどのように演じてきたのか。過去の映像は生でないため伝わりにくいので、実際に自分が目にした出演者たちから学ぶ。
2003年にニューヨークへ行ったときに鑑賞したものから、「シカゴ」について。これはダンス命とも言える作品で、ダンサーのパワーに圧倒された。決して、丁寧に洗練された動きではないが、力が体から溢れたような解放的なダンス。客席を指す強い目線。癒しとは程遠いが、ストレートに客席に届くエネルギーは観る者に燐とする空気を与えた。
オフ・ブロードウェーで上演されていた「ストンプ」。これはミュージカルではなく、靴やモップを使って音を出しながらダンスするショーである。いかにもニューヨークの街中で行われていそうな若者たちのパフォーマンスである。これは、ただただ勢いに圧倒された。
また地下鉄の構内で、ブレークダンスをする少年。中から疼くようなリズムと、物怖じすることのない自信に満ちた演技が魅力的だった。
次に日本で上演されている「マンマ・ミーア!」について。アメリカ人を思うとだいぶさっぱりした演技に思えるが、それでも十分に伝わるものがある。ベテラン女優の余裕な演技は観ていて安定感があり、華と自信を感じる。また、若手の主演女優からはその人自身の性格からなのか、爽やかなプラスのオーラが伝わる。
以上の共通点は、皆自信が見えることとマイナスな力を発していないことであると考える。また自分の演技を届けたいという意志が伝わるように思う。
話は日本に移るが、「出雲のお国」という女性芸能者が存在したという。彼女については、色々な説があり同じような女性が複数人いたという話も聞く。けれど、実際どんな人がいたかはもはや問題でなく、今現在路上パフォーマンスをする者と同じ感覚で、本能から踊り、人に見せたいと思う女性が昔も変わらずいたということであろう。
国や時期が違くとも、ダンスで人々を喜ばせたいという思いは同じようである。
では、以上のことから自分がどの方向へ演技の幅を広げていけばよいのか。多くのダンサーを観た結果、私自身の好みが定まる。線の柔らかい繊細なダンサーではなく、力を込めて殻を打ち破るようなエネルギッシュなダンサー。それはただ見ているだけで、生きる活力を与えてくるたダンサーに学んだことである。この方向が、多くの人々に受け入れられるのかは分からないが、まずはこれを目指してみる。
けれども、そんなダンサーたちを観客として見るだけでは、どうしたらそれになれるかなど分からない。稽古がどんなものかも分からない。辛さが見えてしまうようなダンサーは問題である。しかし、一日の本番は三日の稽古に相当するという言葉を聞いたこともあるので、どうすればよいのかを考えながら、実践で進んでみようと思う。

本文書き始めたのですが、これでいいのか不安!意味が分からなくなってきて〜ダメ出しください!

〇問題意識
「エンターテイメントで人々に元気を与えたい」漠然としているが、これが自分にとって不動の願いであり、ダンスをしていく上での目的である。これは芸術家のみに理解される作品ではなく、非芸術家要するにダンスとは関係のない世界に生きる人々にダンスの楽しさを味わってもらいたい、また非日常的な時間を体験してもらいたいという考えからである。
そもそもこのような考えを持つようになったのは、自分自身が未だ哲学的な問題に向き合うような芸術家にはなれず、ただ娯楽を欲する人間であることが原因であろう。しかし、実際には頭でっかちでゆとりがなく、自分を追い込んでしまうような生き方をしている。たぶんそんな心を癒してくれたのが、ミュージカルやショーといったエンターテイメントと呼ばれる作品であったのだろう。作品を深く読み取るために頭を使うこともなく、見えるまま解放を、聞こえるままリズムを感じ「ただ楽しい」を体験するのである。そのように、難しい問題に頭を悩ませることもなく、たまには他人の力を借りてでも意識的に楽しい時間を過ごしたいという考えを持つようになる。それはゆっくりとした癒し空間ではないが、笑顔とパワーの漲る「元気」の提供場所として、エンターテイメントやダンスパフォーマンスが私の中に存在してきたのである。
初めのうちはそれらを観ることで喜びを感じていたが、次第にその空間に体を委ねるようになる。そして、観ているよりもそれを演じることの方が喜びを得れるのではないかと感じ、仕舞には、その提供者つまりは出演者になりたいという願望に変わっていったのである。
そんな心の解放を求め欲するようになったが、エンターテイメントと向き合う上でいくつもの問題に打ちあたることとなる。
一つは観客についてである。非芸術家にエンターテイメントを味わってほしいというのが基本の信念だが、非芸術家は「非」であるが故に、観る機会ともしかすると気持ちすらないに等しいのである。「舞台芸術の鑑賞行動」というアンケートによると「観たことはないが興味はある」という区分の数値が少ない訳ではない。けれどだからといって、行動に移す人は少ないであろう。実際に劇場に行ってみても、不特定多数の人々がいるのではなく、同じような人々、ほとんどが主婦のような女性であることが多い。上記のアンケートにもあったが、男性の割合は非常に低いのである。そのように、既に自らエンターテイメントに接する人々は、働き掛けなくても今後も関わっていくであろう。しかし欲しい観客はその人々ではなく、全くエンターテイメントと関係のない人々である。
そのような人々は、「エンターテイメントを観る」ことに慣れていないだけで、娯楽を欲していないわけではないはずである。私としたら、テレビ・映画・スポーツ観戦といった娯楽と同じように、エンターテイメントも人々に当たり前のものとして存在すべきであると考える。それが、人々に意識されていなくても、自然とパワーを与えられたら言うことはない。なぜならば、エンターテイメントが喜びなどプラスの力を与えると信じて止まないからである。そして自分がその仕掛人になりたいのである。
次にエンターテイナーとして観客の前でパフォーマンスをする際の技術についてである。どのダンスや演技でも自分が思い描く仕上がりと、実際に出来ていることは異なるであろう。しかし、その以前にエンターテイナーとして何を目刺し演じたらよいのかが疑問に上がる。「芸術家」は自分の志を形にすればいいであろう。それが多くの人々に受け入れられなくても、自分を貫き、認め理解してくれる観客に向けてやればいいのかもしれない。しかし、エンターテイメントの基本として気楽に受け入れられなくては意味がないと考える。そうなると、自己満足ではなく観客の欲する演技を心がける必要性が出てくる。よって、ダンスの技を研くだけでなく、多数の観客の反応に反映した演技や表現を目刺し、柔軟な技術が必要となってくるはずである。しかし、残念なことに全員に気に入られるというのは不可能なことであろう。だから、なるべく多くの心に入り込み、笑顔や元気を与えたいと考えるのである。
よって以上のことから、今回の課題が定まる。多くの非芸術家にエンターテイメントを体験してもらう。そして、受け入れられることを目的とする。また劇場ではなく彼らの前でパフォーマンスをすべきであるため、非制度的空間でやることが必要になる。つまり、「非制度的ダンスパフォーマンス」を実施することで、今後の自分に繋げていくという試みである。

第2回目ケーキ屋パフォーマンスを終えて!

前回の緊張はまるでなく、かなりリラックス気分でお店に向かえた。
オーナーさんは不在だったが、梅干し屋のおじさんと前回不在だった若い男の店員さんがいた。彼は挨拶に行っていたときによく話を聞いてくれていた人である。その人に、前回はどうだったかと聞かれ「足は止めてくれない」という話をすると、「月曜だからだよ〜」と言われた。その後、中杉通り側の黒板に書いたら〜と言ってくれ、お店の壁に付いている黒板に「ダンスパフォーマンスやってます!」と書かせてくるた。
試食のシフォンケーキはこの前は沢山切ってもらったが、使いきれなくて悪かったと思ったので、今回は少なくていいのでとお願いした。4時開始の予定なのにぎりぎりに付いてしまった上に、忙しそうで試食に手が回っていないようで30分程たってしまった。しかし悪くて言い出せずにいると、梅干し屋のおじさんから「もっと図太くいかなきゃ!」とダメ出し!まあまた準備には手間取ったがなんとかパフォーマンス開始!
始めようとしたのだが、自転車を押したおばさんがお店のケーキに興味津々で私たちに話し掛けてきてしまう。まず、無言が絶対だし、場所が取られてしまっていたので、その人がいなくなってから始めた。
音をかけると、梅干しおじさんが「もっと大きく!」と。なんでこんなに親身になってくれるのだろう!
とにかく開始。まずはオープニング試食ダンス。前回程の緊張はないが、ダンスしりとりがどうなるのか不安だった。最初は恐る恐るだったが、徐々にリラックスしていき楽しくなってきた。もう規則を付けたしりとりではなくなっていたが、その決まりがなくても自然に動きで会話が出来ていた。通行人の量も多かったので、「見てみて!」といった感じで合図をしてみたり、道の中程まで言って待っているのではなく積極的に試食を勧めていった。食べてくれた大抵の人は「これ何?」と質問してくるが、喋れないので店頭に並んでいる商品を指差したりした。もちろん伝わるが、きっと喋れない人だと思われていただろう。だからといって態度が変わるわけでもないし、むしろ私とその人がゆっくりした関係になって楽しく感じた。
また食べない人もいる。無視をするのではなく、顔を見ないで笑顔で会釈で通り過ぎていく。そのような人たちは確かに私たちを恐がっているようで残念だったが、その気持ちはよく分かる。自分だって、もし何かを振られたら、またはネタにされたら嫌と思うと関わりたくない。ただ食べてくれる人よりも、私たちのことを意識し過ぎか自意識過剰または自己防衛が強いのであろうと思う。
お店の前に張り付いて試食を配っていたときと違い、一度定位置を離れると解放が溶けたように気が大きくなり、遊べる。前の居酒屋の店員がお店の前を掃除していたので、絡んでみた。同い年くらいの女の人で、初めは全く気付いていたかったが、気が付くとさほど驚くわけでもなかった。たぶん店内から店員たちが見ていたので、その一人であったろうし前回があるから驚きはしなかったのだろう。試食を見せると「くれるんですか?」と、バイト中の言葉遣いで対応してくれた。内心めんどくさい、気持ち悪いと思われたかもしれないが、私としてはただ配っているのと違う試みが出来たので、この絡みは成功だった。
私たちの動きで場が少し盛り上がったというか賑わった感じがした。が、人の波が減り、お店の前でまた地味な動きをしながら商店街を見回したが、時間を持て余してしまったので2曲でオープニング試食ダンスは止めた。だから予定していた人が試食に寄っているときにケーキの箱を見せるという計画は出来なかった。
本編ダンス開始。ダンスを始めたときはちょうど人が少ないときだったので、もう少し待てばよかったと後悔したが仕方がない。見てもらえるように頑張ろうと思った。気付くと、梅干しおじさんは前のお店の方にいき見てくれている。しかも、私たちの後ろには店員さんたちが並んでくれていた。頼んだわけではないから、すごく嬉しくて元気が出た。恥ずかしさも全くなくなっていたので、遊びながら出来た。前回よりは踊っているときに、人の顔を見れたし、その人にアピールした動きをしたりも出来た。ずっとではないが、少し足を止めて見てくれる人が数人いたように思う。また前回よりもダンス最中の人の流れが多いときがあったので、がやがやしている時間があった。
子供を連れている若いお母さんが「あらっ可愛い〜」と言いながら通りすぎっていったのを、はっきり覚えている。別に止まって見てくれなくても、好印象なものとして人々に捕らえてもらえたら、やっている方は幸せになれるのだと感じた。その言葉に深い意味などなくても、「ただ楽しい」と思ってもらえれば満足である。ただ、それはやはり態度に出してもらわないとこちらには伝わらないから、素通りしている人の本当の感想が聞いてみたいと思った。もしかしたら、「今日踊っている人がいてね〜」と言われているのかもしれないから。
自分のテンションが上がっていくと、見ながら歩いていく人に絡みたくて仕方がなくなってきた。中学生の女の子たちが、見たいけどそうする自分が恥ずかしいという態度で歩いていくので、何をしたかは覚えていないがアピールをした。すると、照れながらも笑顔になってくれた。その反応が返ってくるとこちらが嬉しくなるので、自然に笑みがこぼれる。そうするとまた他の人とやりとりがしたいと思い、人を熱心に見るようになる。
前回の経験で、自分が思い描いたようには人は集まらないし、今の私に出来るのはここまでなんだと割り切れていた。だから、気持ちも楽で、この状況を楽しもうとなんでも出来た。
だから、私たちに気付いてすらいなそうなおばあちゃんに一方的に絡んでみたりもした。行ってしまう背中を追うようなリアクションで。自分が楽しいだけで、その光景を見ている人からしたら滑稽で面白いかもしれないし、もしくは勝手に人をいじって不愉快!と思われているかもしれないし。または自分ではやっているつもりでも、人に伝わるほどのアクションになっていないかもしれない。
エンディング試食ダンスはダンスが終わって、間髪入れずに声を出したかったのだから、急に緊張してしまい間を作ってしまった。気持ちの悪い間だった。ダンスが終わってしまうと、試食を熱心にする気が起きなくなってしまい、ただの試食のお姉さんだった。もらってくれる人もいたが、オープニングのように客と自分との間に不思議な空間が作れたわけでもなく、ちょっと声が大きくて熱心な店員と客の関係でしかなかった気がする。人が集まる気配もなかったため、途中で曲を切って終わりにした。
今回の全体の感想は前回よりはよかったである。止まって見てくれる人も増えたし、見ながら通って行く人も多かったように思う。また、「可愛い」「楽しそうね」などの声が届いたこともあった。自分がリラックスして出来て楽しんでいたから、軽く見てくれる人が増えたのか、それとも自分がプラス思考な感想を持てるだけなのかは分からないが、気分よく終えられてよかった。梅干しおじさんは終わった後、「なんで止まって見ないかね!だから俺向こう行ってみたんだけど」と少し怒っているように、私たち側からの感想を言ってくれた。「頑張ってね」とも言ってくれた。また他の店員さんたちは「次はいつやるの?いつでもどうぞ」と言ってくれた。一番の収穫はこのお店の人たちは優しい!と分かったことことかもしれない。
とりあえず、覚えているのはこれくらいなので、今度は今回のビデオを見て、客観的に考えてみたいと思う。