失われる感受性。
どんなにいい音楽を聴いても、どんなにいい映画を観ても、どんなにいい本を読んでも、
わたしはもうどこへも行けない。
窮屈な世界での限界なんて、たかが知れてる。


北から、寒さがさびしさを連れてやってくる。
わたしの思う「幸せ」と世界における「間違い」は同義語であるということ。
だけどそれを喜んで迎え入れるだろうことを、わたしはずっと知っている。


波風を呼び戻さなくちゃ。

ギターと歌声だけの音楽をひたすら聴いていた。
雨の夜だった。


わたしという人間はいつだって大事なものをすぐに失くす。
目に見えるものも、見えないものも。
神さまはいつだってわたしにはいじわるだ。


理由もなく誰も彼もに優しくしたくなる瞬間があるよ、
理由もなく涙が出てくる瞬間があるよ、
理由もなく走り出したくなる瞬間があるよ、
理由もなく絶望に陥る瞬間があるよ、


この苦しみはなんだろか。
分かち合える人と出会えるんだろか。

たぶんやっぱり他人を深く愛せないんだと知った春の終わりに、意味のないめくばせに救われた。
「それはまだきみがそういう人に出会ってないだけ」は、なんの気休めにもならない、ただその瞬間に一緒にいてほしいだけだよ、ただその瞬間に頭を撫ぜてほしいだけだよ。
帰り道、トトロの木の下で、いつも立ち止まってしまうような絶望を、君も感じたりするだろうか。君に分かるだろうか。
いつだってわたしは間違ったほうを選ぶ。
恋人じゃなくて妹になりたい。
恋じゃなくて愛ばかり感じてる。


かわいいいやがらせ。
気まぐれなやさしさ。
夜の電車の窓越しの視線。
猫背に乗っかるへんな癖っ毛。
笑うとできる目尻の皺。
触ったあとの咳払い。
薬指の指輪。
誰でもいいわけじゃないけど、君じゃなきゃだめなわけじゃない。


オカリナという名の口笛を吹きながら泳いで帰る。

くだらないことをこぼすわたしに掛けられた言葉はあまりにも優しくて、涙が出るほどいとしく思った。
冬のはじまりの寒い夜、海のそばの小さな建物で初めて会ったわたしたちは、今では手をつないで街を歩いている。
そういえば、あの日もわたしはお気に入りの群青色のワンピースを着ていたっけ。


穏やかに生きていくには、たくさんのことを、ものを、人を、捨てなくちゃね。
それはあまりにもさびしいことだけど、この恋を守るためなら仕方のないことだ。
そうすればわたしは、純潔を取り戻せるような気さえするんだ。


思い出さないようにしている。
あの笑顔や、後ろ姿や、においを。

恋人と別れて一年半、いくらかの男の人に対して肯定的な感情を覚えたけれど、それでもあと一歩踏み込めなかったその理由は、自分でも分かっている。
「終わりたくないから始めない」
別れが怖くて誰とも関わろうとしないのは、交通事故が怖くて外に出ないことやおなかをこわすのが怖くて物を食べないことと同じ程くだらないことで、それでもわたしは誰かと対等に向き合って深く関わることによって知る痛みや悲しみや苦痛から逃げ回っている。
きみがぼくで、ぼくがきみで、世界はふたりでできていて、ふたりは球体の中にいて、誰もそこには介在できなくて、なんて、そんな夢みたいな関係が存在し得ないということは疾うに分かった。
同じ世界を見て、異なる感情を抱いて、それを分かち合って、そうして世界が広がるといいねって、そういう風にも思えるようになった。
だけどやっぱりまだ怖い。
差し出されたその手にわたしが手を伸ばしたら、いつか君はいなくなっちゃうのかな。


そんなことを思っている間に、みんなみんな、わたしに呆れて去っていくのね。