宇野弘蔵没後30周年


 以下の会合の案内いただく。一部学会向けかもしれない情報(集会の会費払い込み先やこまごました情報)は削除しました。当日の参加はフリーだそうで会費その他は当日払えばいいみたいです。近いから覗いてみるかなあ。続くにあります。

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第三回河上肇賞発表、本賞なし、奨励賞二名


 以下のように決まったようです。ちなみに僕が幹事やってるこの東京河上会と河上肇賞はなんの関係もございません。河上肇賞の方は河上肇研究には賞はやらんそうです。丹野さんは存知あげませんが、面白そうな題材ですね。松尾さんのような実力者が応募しているのによく同格で伍しましたね。これから注目したいと思います。


http://www.fujiwara-shoten.co.jp/kawakami-prize/prize.htm


■第3回「河上肇賞」受賞者・作品発表(2007年11月6日)
第3回「河上肇賞」(2007年8月末日〆切)は、厳正な選考を経て、下記の結果となりました。
選考過程の詳細は、2008年1月刊『環』31号に掲載の予定です。

〈本賞〉

該当作品無し


〈奨励賞〉
丹野さきら 氏(明治学院大学非常勤講師)
 作品名:「真珠採りの詩、高群逸枝の夢」

松尾 匡 氏(久留米大学経済学部教授)
 作品名:「商人道!」

赤松要の「生存権の社会政策」論(メモ)


 以前に研究会で池尾愛子先生の赤松要論を拝聴しましたが、そのときに僕は赤松要の生存権の社会政策論についてコメントしました(池尾報告には欠けている論点だったので)。以下はその赤松要の論を簡単に紹介したもの。メモ書きなので細部は無保証。


 基本文献は、赤松要「「生存権の社会政策」論争」(『一橋論叢』第42巻第6号539−557頁)が中心。以下で特に参照しなかったが、赤松要の『ヘーゲル哲学と経済科学』(同文館)ももちろん重要。



 赤松は、大正期の「生存権の社会政策」をめぐる論争を、福田徳三と左右田喜一郎の両者の対立から整理している。その上で、彼自身の「総合的弁証法」の立場から生存権の社会政策の基礎付けを行った。


 福田徳三の生存権の社会政策についてはEcnomics Lovers Liveで触れた小文を参照。福田の生存権の経済学的基礎付けは、人の生存という「自然的事実」の国家による「認承」と、生存権を認めることが社会の生存からいって望ましくないとするマルサス自然淘汰との対立、という問題を巡るものであった。


 左右田はこの福田の「生存権の社会政策」(生存権を国家に認承させること)は十分な政策的基礎を有していないと批判した。左右田の批判は、福田は人の生存という「自然的事実」=Seinから生存権の認承=Wertを求める。しかし「SeinからWertを導き得べしとの論理上の連鎖は有得ない」。そのため福田自身も生存権の認承の基礎として、「その事が社会の生存に取って必要であると云ふこと」を要求している。


 しかし「社会の生存に取って必要」という価値(判断)と、他方でそれと対立する「社会の生存に取って不必要」というマルサス的淘汰に立脚する価値(判断)も考えられる。このことから「具体的」な価値判断の基準はどれも経済政策・社会政策一般を基礎付けることはできない。(赤松によれば)左右田は、「経済政策はただ経済的文化価値という無内容な価値基準によってのみ科学的に可能だということに他ならないであろう」、そして生存権肯定・否定いずれの価値判断が正しいかを決定する上で、「この一般的価値形式」は「無力」である。これは左右田が福田の生存権の社会政策が十分な経済的基礎を有していないことを指摘したと解釈できる。


 赤松は、福田の生存権の社会政策論を、左右田の批判を念頭に置いて再解釈する。まず、人々が現に生存しているという「自然的事実」を福田が強調しているのは事実であるが、これは必ずしも左右田が批判してように「SeinからWertを導き得べし」とう考えには拠ってはいない。なぜなら左右田のようにSeinの問題としてではなく、福田は社会的必要というWertの問題として生存という「自然的事実」を考えているのである。言い方を換えると、すでに生存権を社会が必要であると見做しているために、人々の生存(権)は実現されているし、する方向にあるといえるのである。


 赤松自身の表現を借りれば

「しかし生存権は社会の各員が安心して働けるために必要だということもでき、極貧と早死とを近代社会から除くために、また各員が人間に価する存在であるために生存権は必要であるともいえるのである。すでに述べたようにマルサスの人口法則よりすれば生存権は不必要であり、人間に価する存在という近代的な社会的要求からすれば生存権は必要なのである。そして後者の必要論が勝利を占めることによって、生存権が実現する情勢となってきたのである。必要のあるところにSollenが求められている」(551-2)。


 福田と左右田を赤松の議論を利用して簡単に対照させると

 福田…生存(権)の「自然的事実」→社会的必要の反映(社会が不安定化しないための要求)→生存権は社会政策の基礎をもつ

 左右田…生存(権)の「自然的事実」への注目→SeinからWert出でず(=生存(権)の問題圏からの排除) →一般的文化価値が社会政策(経済政策)の基礎。


 ところで福田自身は生存権の社会政策を、赤松が断言したように「すでに述べたようにマルサスの人口法則よりすれば生存権は不必要であり、人間に価する存在という近代的な社会的要求からすれば生存権は必要なのである。そして後者の必要論が勝利を占めることによって、生存権が実現する情勢」とするだけでは十分ではなかったようである。もちろん福田も歴史的な生存権認承の流れが、生存権の肯定に寄与すると認めてはいる。しかしマルサス的「社会的必要」=生存権否定論と生存権肯定論のアポリアは、福田の課題のひとつとして残る(その解決策のひとつが戦略的不可知論)。


 ところで赤松要自身の「生存権の社会政策」論は以下。


 赤松は、政策目標は歴史的で、具体的価値を持たねばならないとする(×左右田の一般的文化価値)。その意味で福田の生存権の社会政策論側ともいえる。


 赤松の左右田批判は次の二点


1) 人間の存在はwantの状態=自然事実。wantは欠乏と同時に欲望の矛盾した状態でもある。「欠乏の矛盾または否定を媒介とする願望または欲望が人間生存の本質ということもできる。そしてこの願望こそ人間生活に内在する価値意識であり、私の直観的価値とよぶところのものである。この意味において人間生存は存在であるとともに価値的である」(553)。


 左右田は人間生存をSeinとしてしかみていないが、福田も赤松もともに人間存在をSeinであるとともにwert的であるととらえる(福田よりも赤松がより明確化)。


 「このような人間生活の内部から湧出する直観的価値が歴史の種種の段階において種種の社会的動向となり、社会的要求となって現われ、その時代の追求する社会的目標となるのである」


 さらに生存権の社会的必要 と マルサス的淘汰の社会的必要 との優劣は、この社会的動向が歴史的段階とどの程度適応しているかという客観的観点から決定される。赤松はこの観点から生存権の社会的必要が客観的条件を満たしていると判断している。下の2)を参照。


2)生存権の社会的必要 と マルサス的淘汰の社会的必要 との優劣について、左右田の一般的文化価値はなんらの決定にも寄与しない。赤松の解釈では、福田の方はこの両者の総合である。「福田博士はマルサス人口法則はさほど厳密な法則ではないということ、また生存権は各員の最低限の人間的存在を保護せんとするものであり、その均等条件の上でなお適者生存の法則性が働きうるものであるとの考察から生存権の確立を主張されるのである」(554-555)。


 赤松は1)の客観条件から、「時代の経過によってマルサスの人口法則は大きく変化し、一方に出生率、死亡率、並に自然増加率は先進国において著しく低下し、他方に人口扶養力としての生産力は大きく増大した。この客観的動向において社会保障制度はようやく拡大され、すでに生存権も先進諸国において半ば実現される状態にある」(555)。


3)一般的文化価値は無内容なものとはいえないのではないか? 左右田は文化主義を抱懐し、他方で平等主義を「文化の帰趨」とはみなしていない。「もし文化主義が他の主義と対抗し、これを批判する立場をとるならばそれはすでに具体的価値であり、そのいうとことの普遍妥当性は失われるのである」(557)

 浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』

 最近でた中嶋博行『この国が忘れていた正義』が犯罪者処遇の「福祉モデル」(犯罪者の更生を目的)から「正義モデル」(犯罪者の無効化を目的)への転換を唱える厳罰主義や割れ窓理論に親和的なものであり、その統計的な事実への参照が僕からみたら不足しているように思えたので、こちらの本も購入。浜井氏の書いた章が非常に参考になった。犯罪統計の基本的な読み方も書いてあり、参考文献の指示も豊富なのは助かる。「過剰収容」は「犯罪増加」「検挙率低下」などのレトリックの裏を実証的に解明する姿勢も好感。それと刑務所が経済不況の中で最後のセーフティーネットとなり福祉サービス化している実態も明瞭に書かれていて参考になった。いろいろ論点が多く、この本を出発にして関連するソースも点検したいところ。たぶん自由管理社会論と福祉システムとしての刑務所は密接な関係にあるだろうから。


犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

 9.11以後の監視


 ディビッド・ライアン『9・11以後の監視』を読む。最近の監視テクノロジーの展望としては一定の評価ができるのだろうけれども監視のグローバル化に対応するには、国家の強化あるいは別な組織の統制強化、という手段しかない、と読めるが、これは真実だけれども面白みには欠ける。論点は自由の追求ないし自由の確保がセキュリティ強化=監視強化につながるという側面にあるわけだが、この論点が本書で突き詰められているとは思えない。もう少し面白い著作だと思ったのだが。別な視点(どちらかというと監視が自由を拘束する観)からならば、斉藤貴男氏の『安心のファッシズム』の方が日本の監視テクノロジーの説明については参照に便利かもしれない。


9・11以後の監視

9・11以後の監視

内村鑑三・森有正・住谷悦治の三項図式における客観的知識


 上記で言及した論点についての補遺。図表が必要だが時間がないので後刻。


 拙著『沈黙と抵抗』における内村鑑三森有正・住谷悦治論を利用して、上記の宗教理念、「友愛・平等」そして社会的価値観が、当該する社会の中で客観的な知識の座をいかにしてしめるか、という話。常識的には「友愛・平等」などの理念がなぜ科学的知識のような客観的な地位を占めることができるのか、疑問に思われるむきもあるかもしれない。


 この点については、上記のエントリーでも紹介した山田雄三がカール・ポパーの『客観的知識』を利用して簡潔に要点をまとめている。

「これまで客観性というと、実在の側に確実なものがあると見るのが通説であったが、ポパーによればそういう確実性は主観的であり、むしろ知識の世界において討議・批判が行われることによって、そこに知識が形成され、再形成されるのである。知識は客観性を志向することを通じて客観的になるのであり、同じことが価値理念の形成・再形成についてもいえるとすれば、厚生闘争は厚生を志向すればよく、それ以上に概念的に確定する必要はないことになる。しかし認識の客観性と違って、価値の場合は主観間の合意が必要であり、それに何とか答えようとしたのが「社会的に必要」という概念であろう」(山田前掲書、302)。


 この山田の解釈をより具体的にみるには、例えば内村鑑三の議論が役に立つ。内村鑑三は近代的な自我の在り方(自己中心主義)への批判として、「先ず聖き神の正義を以て自己の良心を撃」たれることが重要だと述べた。神の正義を通しての自己中心主義やニヒリズムの超克といえる。内村は「神」を通しての人間と人間の相互の社会的関係の構築についてもふれている。以下は彼の「霊魂の父」(1929)からの引用である。


「各自異なりたる霊魂の所有者であるからである 略 それ故に人は直に人に繋がる事は出来ない。縦令親子と雖も然りである。人は神を通してのみ相互に繋がることが出来る。下の図1を以て之を説明することが出来る。
 甲と乙とは如何にして親しき身内なりと雖も相互に一体たる事は出来ない。一体たらんと欲せば、甲乙各自先づ霊魂の父なる神に繋がり、神に在りて一体たることが出来る」



 この内村流の「神を通しての人間関係観」を、宗教ではなく客観的な「宗教的真理」の問題として捉えなおしたのが、河上肇であり、その精神的弟子であった住谷悦治であろう。


 住谷は図1に類似した図2を掲げて以下のように書いている。


「友情が成り立つためには、必ずまず人格の自覚がなければなるまい。この歴史的現実において、この一つの生命を、如何に生くべきか。この内的な反省と、置かれたとことの歴史的、客観的世界との自覚が必要である。単なる「我」のめざめ、単なる「魂」の自覚だけではない。新しい意味での友情は、人格の自覚ーー個性の自覚ーー個性の成長をどの第一点とするけれど、この個性の人格的結びつきが、社会・歴史的な共同目的において共通なものであることが大切ではあるまいか」



 図1と図2では「神」や「共同目的・理念」=友情 を通じて人々が社会的関係を深め、そして同時にこの「神」や「共同的目的・理念」が一種の客観的な真理である、という観点が明示されている。


 このような図1と図2での三項図式を、森有正は『内村鑑三』の中で次のように「人格的関係」として形容している。

「私はそれ(内村の述べた人と神との関係 引用者注)を具体的現実的な人格関係そのものと呼ぼうと思う。それは西欧流の、ことにエラスムスモンテーニュにはじまる、人間の自己完成を追求するヒューマニズムではない。人格概念ではなく、人格関係たるものである。それは、あらゆる分析と総合以前の、それらの主体となるべき人間そのものの在り方である」。


住谷は「友情」だけが「共同的目的・理念」の中味ではなく、「貧困よりの自由」「失業よりの自由」、そして「社会主義社会の実現」などを候補にあげた。ちなみにこれらはいままでの議論をみればわかるように固定的なものではない。「共同的目的・理念」の中味は、「社会的必要」や「福祉」の中味同様に先決的に定まっているものではない。山田や福田が指摘したように、闘争的議論の結果として決まり、それゆえに一定の「客観的知識」の資格を得るわけである。


 住谷はこの三項図式による社会のあり方(彼は別な表現で「環境的・歴史的必然への被縛性」と名づけている)への理解がすすむことで、「社会における自由」の獲得につながるともいっている。つまり自由を求めるほどに環境的な被拘束性(三項図式的な人間社会のあり方)への自覚がすすむのであり、これはこのブログの関心ごとである、自由管理社会の論点とシンクロするものであろう。
 

 「厚生闘争」の現代的意義


 本家ブログで昨日、感想を書いた岡本裕一朗氏の『ポストモダンの思想的根拠』に連なる問題圏だと思うけれども、福田徳三の「厚生闘争」という考え方がある。これは「社会的必要」を満たす(労使間の)賃金闘争を意味している。従来の賃金交渉を福田は「価格闘争」としてそれはより高い賃金水準を目的としているにすぎず、「厚生闘争」の方は労働者のより高い満足、社会的必要の充足を求めるものだと定義している。


 山田雄三が指摘しているが、この場合の「厚生闘争」は単なるゼロサムの闘争ではない。むしろ交渉当事者が一種の社会的価値観を共有する過程である。労使間の交渉はそのままでは労働者の交渉力が弱い非対称的なものである(なぜなら労働者は雇用されないと死の恐怖にさらされるから)。そこで国家が統制し、労働者に団体交渉の自由などの一連の交渉上の権利を与える。いわば、ややポストモダン的にいえば、労使の交渉は管理(監視)されているといえる。労使はこの国家の制定したルールの範囲の中で自由に交渉を行うことになる(山田雄三によれば福田の交渉の在り方そのものは、ガルブレイスが『アメリカの資本主義』などで描いた「対抗力」=利益集団の闘争対立に近いという。もちろんガルブレイスでこの利益集団間の闘争が一定の合意をもたらすかどうかは私はよく知らない)。


価値多元時代と経済学

価値多元時代と経済学


 そしてその交渉の結果、労働者の「社会的必要」を満たす厚生水準を獲得することが目的とされる。もちろん「社会的必要」とは何であり、またそれはどの程度の水準を要求するものであるかは、まさに交渉当事者の社会的な合意形成によらなければならない。


 この「厚生闘争」のイメージが、ポストモダン的な自由管理社会論におけるデモクラシーの問題にきわめて近いように思われる。
 

 山田は次のように福田の「厚生闘争」を解釈している。

「福田先生が厚生闘争ということを語るのは、個人(または集団)の間の闘争を通じて、しかもそこに社会全体の厚生を目指すことによって、闘争を調整する体制が形成されると考えられていたのである。
 この場合、福祉国家が何よりもまず権力国家からの離脱を重視するかぎり、専制的ないし独裁的な体制を排することは、異論がないであろう。しかし民主的な体制を考えるとしても、集団間の利害対立が自然調和をもたらさないとすると、どういう体制が考えられるのか」(山田雄三『価値多元時代と経済学』岩波書店)。


 ここには規律管理社会から自由管理社会への問題圏の移行、そして後者におけるデモクラシーの問題として、山田の福田解釈を読み取ることもできるのではないだろうか。


 山田は、福田の「厚生闘争」(=「社会的必要」の決定過程)を理解するキーとして、グンナー・ミュルダールの『社会理論における価値』(1958)の議論を紹介する。


「ミュルダールによると、民主社会においては、はじめ特殊利益の立場から討議が行われても、そこから次第に社会一般の共通利益の立場が生まれてくるというのである。しかしそれは必ずしも楽観的に見るべきではなく、そういう共通的立場がどうしても出てこない場合には「決裂」(civil war)の他はないとミュルダールはいっている。しかし、同時に彼は、西欧において「友愛、平等」などの道徳が高い価値を認められ、また洋の東西を問わずいわゆる高等宗教が幾多の波乱の間に継承されている事実をとりあげ、そこに高次の価値の社会的形成の可能性があるという。ただわれわれの場合の「社会的に必要」という概念はミュルダールの場合の高次の価値と同様に考えるには少々弱いように私には思われる」(山田、前掲書、301-2)。


 山田はミュルダールの高次の価値の議論と、カール・ポパーの『客観的知識』にいける社会的価値形成の客観性命題を重ねることで、西欧の宗教的な理念、「友愛、平等」などといった高次の価値と類似した価値理念に、「社会的に必要」が客観的なものとして立ち現れるであろうと述べている。


 この宗教的理念、「友愛、平等」そして「社会的に必要」概念が、それぞれ三項図式的な配置(例えば、人ー友愛ー人 という三項)の中でもつシンメトリカルな意義については、私は『沈黙と抵抗』で述べた。それについてはエントリーを改めて以下に書いてあるので参照されたい。


 以上の議論をうけて、山田は福田の「厚生闘争」を以下のように整理する。


「福田説の厚生闘争は民主的過程のうえの闘争である。それは、他を抹殺して自らを強要する闘争ではない。互いに他の行き過ぎを批判し抑制しながら、自他を含む全体の生活向上をはかる闘争であり、開放的かつ経験主義的な民主的討議による闘争である」(山田前掲書、302)。


 ここから福田の「厚生闘争」を山田雄三の解釈の範囲内で考えることは、山田が紹介したミュルダール、ガルブレイスポパーだけではなく、岡本本で紹介されていた一連のポストモダン関連の文献、例えばライアン、ハーバマス、ローティー、コノリー、ムフ、そして岡本本にはでてこないと思ったがカール・シュミット、ジョン・ホブソン、バーナード・ラッセルらの発言を学習する必要があることになる。しばらくここでそれらの文献の歪ともいえる紹介をするかもしれない(しないかもしれない)。