手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分に言い聞かせる必要なし

 

 実際、炎天下に身を置いている人が、「今日の天気は晴れですか?」という言葉を発するでしょうか? もし、そんな人がいましたら、頓珍漢な人です。わざわざ、天気を確認する必要はありません。普通は、「今日は暑いな~」という言葉が自然に出て終わりです。

 同様に、

いま現在、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人が、「私は救われていますか?」と自問するでしょうか? 普通は、「南無阿弥陀仏」と念仏が自然に出て終わりです。

 「念仏が出たから、私は救われている」と自分に言い聞かせる必要は皆無ですし、もし、そういう人がいましたら、その人は、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされていない、ということになります。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

阿弥陀さまと私

 

 確かに、法話(聴聞)やお聖教は大事です。しかしながら、肝心の阿弥陀さまを度外視しては意味をなしません。まずは、いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気づくことが先決です。「阿弥陀さまと私」「私と阿弥陀さま」が根本にあってはじめて、法話(聴聞)やお聖教が光輝く(より意味をなす)のではないでしょうか。

 深川倫雄和上は、以下の喩えもって教示しています。

譬えていえば、ある町へ行くと、お城があって大変高い石垣がある。お城へ登って外を見て、「ああ、いい景色」といえばそれでよろしい。下へ行ってから石垣を見て、「まあ高い石垣。よく組んだもの」と、暇があるから、この石垣の組み方を見てみようではないか。それがお聴聞。お聖教の勉強。上に立って、いい景色を眺めさえすればよろしい。だけども、暇があるから、よくもこんな石垣を組んだものだとその石垣の組み方を調べてみては、「ようこそ、ようこそ」というわけです。調べなくとも、景色に変りはない。石垣がどう積んであるかと研究しようがしまいが、石垣の上からの景色に変りはさらさらない。ないけれども、石垣を研究してみればみるほど、「ようこそ、ようこそ」とご恩が知らされる。

【佛力を談ず 深川倫雄 講話集 P117~P118 永田文昌堂 より】

 

 

聞こえたままが信心

 

換言しますと、

「南無阿弥陀仏のはたらき」に気付かされている、ということです。何の力みもありません。空っぽです。14年前、このブログで投稿した『無疑(稲城 選恵 和上)』を再掲します。

 

【2010年6月15日投稿】

無 疑

『御文章』四の八にあるが如くこの私の往生のさだまりたる証拠が南无阿弥陀仏である。あたかも今日の只今の天気の如くである。今は天気であると思う必要もいう必要もない。間違いないと思っているのが間違いないのではなく、間違いないものがらは天気そのものである。このことを宗祖の釈の上では無疑といわれる。元来無疑は決定が略され、この決定は過去完了でも、未来完了でもない。現在完了を場としているといわれるのである。

【開かれた信心と閉じられた信心 P9 稲城 選恵 著より】

 

阿弥陀さまのよび声

我称え  われ聞くなれど  南無阿弥陀仏  連れて往くぞの  親のよび声 原口針水)

                                    

心に響く詩です。親とは、阿弥陀さまのことです。南無阿弥陀仏という言葉を通して、阿弥陀さまと私が対話している、ともいえましょう。南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまと私の間を循環しているのでした。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏