書評 佐野真由子氏『幕末外交儀礼の研究』

 幕末期の日本は日米和親条約日米修好通商条約の2つの条約を締結したことによって、「西欧」へと投げ出された。
和親条約の第11条の規定によりタウンゼンド・ハリスがアメリカ総領事として下田に着任したのは安政3(1856)年7月21日のことであった。
佐野 真由子氏『幕末外交儀礼の研究』は、そのハリス着任後の翌安政4(1857)年10月21日の将軍家定への拝謁に始まり、慶応3(1867)年3月25日から4月1日に行われた、英仏米蘭4か国代表と将軍慶喜の拝謁に終わる幕末外交を「外交儀礼」の視角から分析している。

一般に安政5(1858)年6月19日に締結された日米修好通商条約は、幕府(公儀)がアメリカとの間に結ばされた「不平等条約」であるという評価がなされることがあるが、現在ではそのような評価も含め、幕府外交の見直しが進められている。そして本書でも、随所に幕臣の外交儀礼交渉における奮闘ぶりが滲み出ている。
本書のテーマである「外交儀礼」とは、本来、「外交官の日常規範をも含んだ全ての事柄」と定義することができるが、本書では、武家儀礼や将軍拝謁式などといった、より広い意味の「儀礼」に着目し、幕末外交史の研究に新たな視点を提示している。
本書は、2部6章で構成されている。

第1章は、儀礼研究の前提として、幕府における儀礼である「殿中儀礼」を概観し、江戸城内での儀礼における服装や殿席、さらに対外使節を迎えた儀礼の例として「朝鮮通信使」を取り上げる。慶長12(1607)年から文化8(1811)年までの計12回に渡る朝鮮通信使との交流が幕末に幕府がハリスに対応するための経験的蓄積となった、と指摘している。また、幕臣筒井政憲を取り上げ、ハリスの将軍拝謁式に至るまでの、いわば準備期間を描いている。

第2章では、欧米諸国の「外交官」が儀礼に際し、如何なるマナーや認識を以て望むのか、あるいは望むべきなのかということをアーネスト・サトウの著作から探り、あわせて、西欧諸国の外交官が、主として東アジア諸国の外交儀礼にどのように臨んだのかということを中国やタイの例を用い、記している。

第3章は、前章までを受けて、安政4年10月21日に行われたハリスの将軍拝謁式と、それが挙行されるまでの経緯が詳細に述べられている。本章では、幕府が朝鮮通信使や殿中儀礼での経験蓄積を参照しながら、柔軟にハリスの将軍拝謁式に対応していった、ということが指摘されている。幕府側にとって、将軍拝謁式の準備や挙行、そしてその先に生まれてくるであろう諸外国との交際や交流は、(十分に想定しえたことで)「未曾有」の事態にはなり得なかったのである。無論、以前の朝鮮通信使とハリスの例を比較して、如何なる位置づけでハリスの使節を迎えるのかということについては、様々な意見が交わされた。そして、無事に挙行された将軍拝謁式を、ハリスは「西洋の作法」で執り行われた儀礼であると評価した。著者はハリスの将軍拝謁式を「西洋国際社会を視野に入れ、信任状捧呈式を含む国際法に基づいて展開されていく近代の外交に連結された場面」である、と述べている。

第4章では、ハリスの将軍拝謁式以降の外交儀礼史上試行錯誤とでもいえる時期を、安政5年4月1日のドンケル=クルティウス、同年7月12日のプチャーチン、そして10月11日のハリスによる再びの将軍拝謁を通し、描いている。特にオランダ商館長から、領事官へと就任したドンケル=クルティウスは、ペリー来航の情報を日本にもたらしたことでも著名である。ドンケル=クルティウスを分析することは、幕末期の外交儀礼を考察する上でも非常に興味深い。また、アメリカ公使となった、ハリスの将軍再拝謁の際には、ハリスの立ち位置などに関わる、いわば儀礼の「簡略化」といった問題があり、ハリスと幕臣の間で議論が行われた。安政5年頃までの、この一連の儀礼や将軍拝謁式をめぐる動きは、幕臣に日常業務としての「外交儀礼」を意識させ、外交儀礼を平穏無事に挙行させるための「規範」づくりが行われていったのである。それは、「永世不易の禮典」という言葉に表されている。筆者は、当該期のドンケル=クルティウスやプチャーチン、ハリスの将軍拝謁式およびそれに関わる外交儀礼を「持続可能な外交」への萌芽であると評価している。

第5章は、万延元(1860)年7月4日のハリスの3度目の将軍拝謁から、文久2(1862)年閏8月9日のゴシケーヴィチの将軍拝謁までを扱い、外交儀礼の「安定期」について述べている。もっとも、これは外交儀礼や、将軍拝謁の側面からみて、「安定」したといえるのであり、この後の文久3(1863)年に朝廷に迫られ、幕府が(表向き)攘夷を標榜したことで政局が混乱していったのは、周知の通りである。そのため閏8月9日のゴシケーヴィチの将軍拝謁の後、外交官側から将軍拝謁に対するいくつかの要請があったものの、幕府の外交儀礼は「空白期」を迎えた。また、文久3年の上洛以来、数度の上洛を経て、家茂の拠点が大坂城へ移ったこともこの時期の特徴であるといえるだろう。このような状況下で将軍拝謁が中断されたのはむしろ自然なことであった。著者はこの時期を安政4年から続く、「儀礼様式の成立期」であると評価している。

最終章である第6章は、慶応3年3月25日から4月1日にかけ、大坂城で行われたパークス、ポルスブルック、ロッシュ、ヴァルケンバーグの4名に対し、個別に行われた慶喜への拝謁について詳細に検討している。そして、今回の将軍拝謁が幕末最後の外交儀礼の事例となった。前回の将軍拝謁から4年半の空白が存在したにも関わらず、今回の事例は、幕臣たちがそれまで蓄積してきた外交儀礼の「先例」に則り、基本的枠組みとして適用しようとしたということを明らかにしている。また、今回の将軍拝謁では新たな試みとして「内拝謁」、つまり初めての晩餐会が行われた。このフランス料理のフルコースを用いた豪華な晩餐会は、従来言われてきたようなフランス側のロビー活動がきっかけでなされたものではなく、幕臣側の発想から生まれたものであるということもこの晩餐会を考えるうえで重要な指摘であろう。

ちなみにこの時の晩餐会のメニューも収録されている。慶喜や、パークスたちがどのような料理を食したのか、想像するのも1つの楽しみ方かもしれない。

慶喜の将軍拝謁に外交官のミットフォードが詳細な助言を行っていたこともその大きな特徴であるといえるだろう。結果として、慶喜による将軍拝謁は、サトウに「全くヨーロッパの流儀」で行われたと驚嘆させ、また、慶喜は「外国人に対して友好的な気質」であり、「環境の変化に適応する力」がある将軍であると、パークスたちに強烈に印象づけ、魅了したのである。皮肉なことにその約半年後には幕府は瓦解することになるのだが―。幕末の「外交儀礼」はここに頂点を迎えたといってよいであろう。そして幕末期に行われた外交儀礼は維新政権へと引き継がれてゆく。

以上、内容の一部を紹介した。評者の誤読もあるかもしれないが、間違いなく、本書は幕末外交儀礼研究に一石を投じている。味読したい1冊である。

【エッセイ 徳川家茂】

今回は番外編として第14代将軍・徳川家茂について述べたい。幕末期の将軍というと、徳川慶喜の名を思い浮かべることが多いかもしれない。しかし慶喜が「征夷大将軍」であったのは慶応2(1866)年12月から慶応3(1867)年10月のわずか1年弱というごく短い期間である。したがって安政の大獄桜田門外の変、また薩長盟約(同盟)そして長州戦争など幕末期の重要事件のほとんどは、家茂政権下に起こったことだったのである。以下、家茂の履歴を振り返ってみよう。家茂は、弘化3(1846)年閏5月24日に紀州徳川家第11代当主である斉順(なりゆき)の嫡男(次男ともされる)として赤坂にある紀州江戸屋敷で生まれた。前将軍・家定の養子になるまでの名を慶福といった。嘉永2(1849)年閏4月2日に第12代当主である斉彊(なりかつ)の跡を継ぎ第13代紀州徳川家当主となり、嘉永4(1851)年10月9日にわずか6歳で元服した。慶福は第11代将軍・徳川家斉の孫で第13代将軍・家定とは従兄弟という間柄から、徳川将軍家の「血統」を継ぐ者として申し分のない人物であった。また慶福は幼いながら動物を愛する心優しき性格であった。その後、彦根井伊家の当主である直弼らから次期将軍に推されたのはよく知られるところである。安政5(1858)年11月21日には名を家茂に改名した。家茂は直弼に絶大な信頼を寄せており、8代将軍・吉宗の鞍や家定から賜った小刀を与えている。桜田門外の変で直弼が斃れた際にはあまりの衝撃に食事が喉を通らなかったという。家茂は大変に家臣思いであった。ある時、家茂は所の教授をしていた老齢の家臣である戸川安清に硯の墨を頭の上からかけ、「あとは明日にしよう」と述べ出て行った。当の戸川は泣いている。周りの者は家茂の行為を不審に思い、戸川に問うと「自分は老齢のため、思わず失禁をしてしまった。上様の前で粗相をしたとなれば厳罰は免れない、それを隠すためにわざと墨をかけるふるまいをしたのだ」と、戸川はまた家茂の温かさに泣いたという。安政5年に13歳で将軍になった家茂はその後幕末の難局に自分の身をすり減らすかのように立ち向かってゆく。文久2(1862)年には紆余曲折を経て孝明天皇の妹である和宮と結婚した。2人は大変仲睦まじいことで知られ、家茂が御所を離れて寂しさを感じているであろう和宮に金魚をみせて喜ばせるなどの逸話はその一端を表していよう。文久3(1863)年、家茂は孝明天皇に「攘夷」を誓うため、229年ぶりに上洛した。この「攘夷」という言葉は良くも悪くも幕末の政局を動かす1つであった。元治元(1864)年にはいわゆる禁門の変と呼ばれる「戦争」(元治甲子戦争)が起こる。そして勢いづいた長州毛利家は公儀と緊張状態に陥いり戦端が開かれる(「長州戦争」)。慶応2(1866)年2度目の「長州戦争」の陣頭指揮を行っていた家茂は、7月20日脚気衝心のため大坂城内で死去した。21歳の若さであった。なお死後の調査によると家茂の歯はたった1本を除いて全て虫歯であったという。家茂は大の甘い物好きであり、政務や戦闘の合間にストレス解消がてら菓子を食べていた、ということであるらしい。この家茂の歯の逸話に激動期に若くして亡くなった将軍のせつなさを観る思いがする。勝海舟は、後年、家茂の思い出を語るたびに涙を流したという。この逸話こそ何よりも家茂の人柄を物語ってはいないだろうか。

びっくりぽんな幕末維新史~広岡浅子

 「あさが来た」が最終回を迎えました。そこで「あさ」こと、広岡浅子の経歴を振り返りたいと思います。浅子は京都油小路出水の小石川三井家6代当主である三井高益の4女として嘉永2(1849)年に生まれました(西園寺公望が同年の生まれです)。三井高益が50歳を過ぎてから生まれた子で、「別腹」、いわゆる「妾の子」でした。浅子の回想録である『一週一信』によると、幼い頃の彼女は裁縫・生け花・茶の湯・琴などを習わされましたが、あまり性に合わなかったようです。浅子はそのような芸事よりも、当時、「女性には不要」とされていた学問に強い関心を持っていたそうです。そのような浅子を家族は心配し、13歳の時、浅子は読書を禁じられてしまいます。浅子は、その状況を打ち破ろうと奮起したようです。この頃の心情を『一週一信』で「女子といえども人間である。学問の必要がないという道理はない、かつ学べば必ず習得せらるる頭脳があるのであるからどうかして学びたいものだ」と述べています。「あさが来た」でも、お転婆で、学問好きな性格が、丁寧に描かれていました。さらに、浅子は2歳という物心もつかないうちから許嫁として広岡家に嫁ぐことが決められていました。浅子は、自らの意思に関わりに無く広岡家に「嫁いだ」ということに関して「何という不当なことであろう」と「慨嘆」した、と後に『一週一信』のなかで述べています。浅子が白岡「新次郎」こと、9歳年上の広岡信五郎の妻となったのは慶応元(1865)年、17歳の時でした。「あさが来た」では大らかで、あさを優しく見守る新次郎ですが、実際の信五郎について、「少しも自家の業務には関与せず、万事支配人任せで、自らは日毎、謡曲茶の湯等の遊興に耽っている」とその第一印象を述べてはいますが、やはり後年の浅子の活躍を考えると信五郎は魅力溢れる最大の理解者であったような気がしてなりません。慶応4(1868)年、20歳の浅子は維新を契機に実業界に飛び込みます。明治9(1876)年、28歳の時には娘の「千代」こと、亀子をもうけます。それから10年後の明治19(1886)年、38歳の時には、筑豊の潤野炭鉱の経営に乗り出し、「多くの荒くれた鉱夫どもを相手に生活し」、また明治21(1888)年、40歳の時には、加島屋を母体とした加島銀行を経営し「利に鋭き男子らを指揮して算盤場裡に没頭した」と『一週一信』にあります。浅子が48歳を迎えた、明治29(1896)年には、「成澤泉」こと、成瀬仁蔵の思想に共鳴し、「日の出女子大学校」こと、日本女子大学校の発起人として名を連ねます。明治33(1900)年には、目白台の三井家別荘に日本女子大学校が設立されました。浅子が52歳の時のことです。浅子54歳の明治35(1902)年には大同生命保険会社を設立します。浅子56歳の明治37(1904)年には夫の信五郎が亡くなります。享年64.信五郎の死因についてはよくわかっていないようです。ほどなくして浅子は実業界を引退します。61歳を迎えた、明治42(1909)年、浅子は乳がんを患い、東京帝国大学付属病院で手術を受け一命をとりとめます。明治44(1911)年63歳の時には大阪教会でキリスト教に入信しています。大正7(1918)年には、回想録である『一週一信』を出版し、翌大正8(1919)年1月14日東京麻布の別邸で亡くなりました。70歳でした。
浅子の生涯を親交の深かった渋沢栄一大隈重信と比較してみると面白いかもしれません。
「あさが来た」はとても爽やかで、柔らかい物語であったと思います。

書評 竹内誠(他)編『徳川「大奥」事典』

 「大奥」は、江戸城内の公的空間である「表」や将軍の居住・執務空間である「奥」に対して将軍やその家族が住む私的空間である。今や見る影もないが、誰もが一度はその言葉を耳にしたことがあろう。近年はドラマや小説などで、絢爛豪華なイメージとともによりいっそうなじみ深いものとなっている。あるいはそこに住まう人々の情念や欲望が渦巻く場所という少し不気味なイメージを抱く人もいるかもしれない。大奥とは何ぞやという問いかけに答えられる人はそう多くないかもしれない。
 本書『徳川「大奥」事典』はそうした問いかけに史料や構造、人物といった側面から大奥女中の日常や髪形に至るまで、丁寧かつ詳細に答えてくれる。本書は3部構成の形をとり、第1部「江戸城『大奥』」、第2部「将軍と『大奥』」そして、第3部が「大名家の『奥』」となっている。
 評者は幕末維新期に関心があるので、天璋院和宮、美賀子ら将軍の正室を始め滝山、庭田継子、観行院、一色寿賀、中根幸、新村信といった関係人物にまで、最新の研究に裏打ちされた記述がなされており、ありがたい。また大名家の「奥」について言及しているところにも本書の特色があろう。本書を読んでいると、江戸時代の女性たちも子孫を残すというだけではなく男性とともに戦っていたのだということがよくわかる。大奥や御台所に光をあてることによって、「表」や将軍を浮かび上がらせている。260年の太平の基盤を築いた徳川家の見事さに改めて気づくことのできる事典であり、今後の徳川・大奥研究の指針となるだろう。

びっくりぽんな幕末維新史~渋沢栄一

「あさが来た」を観た。明治20(1887)年頃だろうか。「銀行の神様」こと渋沢栄一が登場。渋沢は天保11(1840)年生まれなので数え年で五代より6歳年下である(!)渋沢は、2月13日、武蔵野国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県藤沢市)の養蚕や製藍を営む家に生まれた。若き頃の渋沢は、家業の藍の売買に精を出していたが、22歳になった文久元(1861)年には、江戸に出て海保章之助に儒学を、北辰一刀流・千葉栄治郎に剣を学んだ。翌文久3(1863)年には、「攘夷」を実行しようと横浜の異人館焼き討ちを計画するが、従兄弟の尾高長七郎の説得を受け中止した。もっとも渋沢が本気で異人館を焼き討ちしようとしたのか怪しいところである。しかし、青年期の渋沢にも志士的側面があったことは興味深い。その後、京都に出て一橋家の用人であった平岡円四郎や川村恵十郎らの知遇を得、翌元治元(1864)年からは一橋家に出仕し、徳川慶喜に仕えることとなった。慶応2(1866)年には一橋家の歩兵取立御用掛として一橋家領内の農兵の募集を行い、一橋家の兵力強化に尽力した。慶応3(1867)年になると、紱川慶喜の弟である昭武(あきたけ)のパリ万国博覧会参加に伴い昭武に随行し、その側近として昭武の身辺警護を行いながらヨーロッパを見聞した。同年10月の権返上により、幕府が崩壊したため、明治元(1868)年11月3日には日本に帰国した。明治2(1869)年からは新政府に出仕。明治4(1871)年には大蔵権大丞として新貨条例や国立銀行条例の起草に関わった。明治6(1873)年に官を退いた後は民間にあって第一国立銀行のほか、500以上の企業の発展に寄与したことは良く知られている。明治33年(1900)61歳の時には男爵となった。大正期には福祉や女子教育などの支援を行った。明治30年代からはかつての主君である慶喜の名誉回復のため慶喜の伝記編纂(『徳川慶喜公伝』)に情熱を傾けた。なお、渋沢自身が若き日の自らを回想した、岩波文庫『雨夜譚(あまよがたり)』は渋沢の性格や想いが垣間見え興味深い。渋沢は昭和6(1931)年11月11日、92歳で没した。渋沢の多岐に渡る活動の根底には、幕臣であったという強い誇りと自負があったのではないだろうか。48歳の渋沢は「あさ」との出会いに何を語るのだろう。

【びっくりぽんな幕末維新史 〜 五代友厚】


 ドラマ「あさが来た」で主人公・白岡あさの人生に強い影響を与えた五代友厚が亡くなりました。いうまでもなく、この五代は幕末明治を生きた実在の人物です。個人的には五代とあさの最期の交流や想いを丁寧に描いたとても感動的な回であったと思います。「五代ロス」になる前に改めてその足跡を追ってみたいと思います。

五代は天保6(1835)年12月26日薩摩藩に生まれました。大河ドラマで有名になった天璋院篤姫小松帯刀、土佐の坂本龍馬と同年代です。五代は13歳の時、正確な世界地図を模写し藩主・島津斉彬に献上するなど、向学心溢れる少年だったようです。五代は安政4年(1857)19歳の時、郡方書役という役職に就き、その後長崎海軍伝習所への遊学を命じられます。

五代は、この長崎海軍伝習所オランダ語や航海術など最先端の文化や技術に触れ、やがて世界へと眼を向けます。

長崎の遊学を経た五代は、薩摩本国に徴用され、文久2年(1862)28歳の時には、船奉行添役に就任します。同年、幕府艦・千歳丸の水夫として上海に密航し薩摩のために軍艦購入の契約を交わしています。この上海密航で五代は長州の高杉晋作とも交友を温めています。劇中、あさと五代が大坂で初めて出会ったのは、この密航前のことでしょう。

文久3年(1863)には薩摩とイギリスとの間に起こった薩英戦争において後の外務卿・寺島宗則とともに自ら進んでイギリスの捕虜となります。イギリスへの情報収集も含めてのことかもしれませんが、この辺りのエピソードは五代の豪胆さを感じさせます。

その後、慶応元年(1865)五代は31歳の時、長崎のグラバーの配慮で薩摩の留学生を引き連れ、自らもヨーロッパを見聞して周ります。これには、薩摩の家老・小松帯刀の意向が働いていたといわれています。最近、長州の海外留学生を指して「長州ファイブ」という言葉が流行りましたが、対して五代が引き連れた留学生たちは、「薩摩スチューデント」と呼ばれています。薩摩スチューデントと長州ファイブはロンドンで交流をしたというエピソードが残されています。

五代は慶応2年(1866)に国内でも目覚ましい活躍をみせます。慶応3年には坂本龍馬海援隊紀州徳川家に起こった海難事故である「いろは丸事件」を土佐の後藤象二郎とともに海援隊に有利な形で解決に導いています。

慶応4年(1868)には新政府の外国事務掛に就任し諸外国との事件の解決に尽力しています。五代はこの年の2月に初めて大坂を訪れています。明治2年(1869)には政府の職を辞し大坂の発展に力を注ぎます。

余談ですが明治3年(1870)には、大坂の経営にもかかわっていた小松帯刀が亡くなります。小松の最期を看取り、その遺児の面倒をみたのは、五代でした。五代にとって小松は自分を引き立ててくれた恩人のような存在だったのでしょう。

以後、五代は大阪商工取引所や大阪商船の設立など亡くなるまで大坂の発展・繁栄に力を尽くしました。五代友厚明治18年(1885)年9月26日東京で亡くなりました。49歳でした。
五代の死後「あさ」がどのように実業家として成長してゆくのか楽しみです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき 第18話〜第27話 まとめ

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政7年(1860)2月頃〜文久2年(1862) 1月頃。久坂玄瑞 21歳〜23歳。小田村伊之助 32歳〜34歳。
安政7年(1860)3月3日、井伊直弼が薩摩人を含む水戸系浪士18名に殺害されました。いわゆる桜田門外の変です。井伊直弼 享年46。
文久元年3月頃から毛利家では直目付長井雅楽を中心として航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)が国是として模索され始めます。長井が提唱した航海遠略策とは一言でいえば海外雄飛論であり、公儀の改革を前提として朝廷改革、挙国一致政策だったのです。
長井は文久元年4月29日頃からこの航海遠略策を以って江戸や京都での周旋活動に乗り出ます。航海遠略策は久坂らによって批判をうけるのですがその背景には久坂たちに松陰の江戸送りを申し渡したのが長井であったということも関わりがあるのかもしれません。小田村はこの2年間で側儒者となり毛利家当主慶親の上京に付き従っています。
文久2年1月14日、久坂のもとに武市半平太(瑞山)の書状を携えた坂本龍馬が現れます。翌日、久坂は龍馬・佐世八十郎・寺島忠三郎とともに国事を談じ藁束斬りを行ったといいます。1月23日龍馬は久坂の返信を持って萩を発ちます。龍馬と文は出会ったのでしょうか?

久坂の瑞山宛の返信には、「坂本君御出浮在らせられ腹蔵無く御談合仕り候頃、委曲御聞取り願い奉り候。竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、万乗の君の御叡慮相貫き申さず而は神州に衣食する甲斐は之無きかと、友人共申し居り候事に御座候。(中略)」とありました。(文久2年1月21日状)

この10日ほどの滞在が龍馬に心境の変化をもたらしたのでしょうか。

文久2年 3月24日 龍馬は「国抜=脱藩」をするのです。坂本龍馬 時に28歳。

まさに「坂龍飛騰(ばんりょうひとう)」の季節でした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久2年(1862) 1月頃〜4月頃でしょうか。久坂玄瑞23歳。高杉晋作24歳。久坂は2月頃より土佐の吉村虎太郎と交流し、国事を論じています。この年の1月15日には、老中・安藤信正が坂下門外に襲われるものの一命は取り留めるという事件がありました。また、2月11日には徳川家茂和宮の婚儀が行われます。このように国内の政治は徐々に変化を迎えていたのです。そのような情勢下の1月、高杉は徳川家公募の留学生(毛利家代表)として上海行きを命じられ、1月3日長崎へと向かっています。長崎滞在から3ヶ月ばかりのちの4月29日、高杉は幕艦千歳丸で上海に向かいました。留学生のなかには薩摩の五代友厚も参加していました。同じく4月頃、松浦亀太郎長井雅楽の殺害を試みますが、仲間に思いとどまるよう説得され、文久2年4月13日粟田山にて自刃します。享年26.ドラマの描写とは最期が異なるようです。ちなみに4月16日 島津久光が率兵上京し、4月23日には薩摩の同士討ちともいえる「寺田屋事件」が起きています。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久2年(1862)4月頃〜12月でしょうか。久坂玄瑞23歳。高杉晋作24歳。寺田屋事件(4月23日)の直後の4月25日 一橋慶喜・越前の松平春嶽 尾張徳川慶勝ら いわゆる一橋派の謹慎が解除され、彼らの復権がなされます。それから4日後の4月29日、毛利家の世子(跡継ぎ)定広が「天気伺い」(天皇の様子を伺う)と称して入京します。翌30日には朝廷から定広に浪士鎮撫の詔勅が降りました。5月6日 高杉が上海に到着します。5月22日 薩摩の「国父」・島津久光が勅使・大原重徳につき従い、兵を率いて江戸に下ります。6月5日 毛利敬親長井雅楽を免職にし帰国謹慎を命じます。6月10日 勅使 大原重徳が江戸に入り、「将軍が上洛し国事を議する」 「薩摩 長州 土佐 加賀 仙台の五藩を五大老に任ずる」 「一橋慶喜将軍後見職松平春嶽大老に任じる」ことを定めた勅旨、いわゆる「三事策」を伝達します。

これを受けて7月6日 一橋慶喜将軍後見職に、7月9日には松平春嶽政事総裁職に任じられます。同日、毛利家は国是を通商条約を認めたうえで「異国」との関係を保つとした「航海遠略策」から、通商条約を破棄し、改めて諸大名・朝廷の総意で条約を締結し直すべきであるとする「破約攘夷」へと転換しました。高杉は7月14日に長崎着。7月20日萩へたどり着きます。8月21日には生麦事件が起こります。閏8月1日には松平容保京都守護職に任命されました。9月8日には江戸へ攘夷実行の催促のための勅使派遣が決定され、10月27日には勅使三条実美が江戸に到着しました。久坂などはこの頃盛んに攘夷を唱えていたようです。そして12月12日英国公使館焼き討ちが計画されるのです。この時期は島津と毛利の力が拮抗した時期といえるのではないでしょうか。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。テロップでは文久3年(1863)1月〜となっていましたが時間軸は文久2年(1862)12月頃〜文久3年(1863)5月が良いでしょう。久坂玄瑞23〜24歳。高杉晋作24〜25歳。文久2年12月12日夜英国公使館の焼き討ちが行われました。正確にいえば品川御殿山の英国公使館建設予定地が高杉や久坂の他、伊藤利助、赤根武人、志道聞多(井上薫)、山尾庸三らによって襲撃されました。どうやら「長州人(が)一人くらいはと夷人なりと斬っ」てみせねばという意気込みであったようです。高杉1人はこの行動に反対であったようですが…。建設予定地であったので人的被害は出ませんでしたが公使館建設は中止になりました。久坂はこの後(12月17日)、水戸で国事を論じ、12月27日には信州上田に入り佐久間象山のもとで年末を過ごしています。翌文久3(1863)年1月5日、将軍後見職徳川慶喜が3月に予定された将軍上洛の先触れとして上洛。2月6日には「航海遠略策」を推進した長井雅楽切腹します。2月11日、久坂や寺島忠三郎が関白・鷹司政通のもとを訪ね、攘夷の決定を促しています。3月4日 徳川家茂が上洛してきます。3月7日 家茂が御所に参内、8年から10年以内の攘夷を約束します。3月11日 孝明天皇は家茂や諸大名を率い、賀茂社に攘夷決行を祈願。3月15日 毛利家から高杉へ10年の暇が許されます。これにより高杉は「東行」と号しました。ところが4月20日になって攘夷決行日が5月10日に決定されてしまいました。4月21日 朝廷と公儀より諸大名家へ「攘夷決行」の旨が通達されます。5月9日、老中格小笠原長行生麦事件の賠償金を支払っています。文久3年5月10日、久坂率いる光明寺党(前年11月頃結成。)は下関でアメリカ商船ベンブローグを砲撃。…しかし攘夷を行ったのは久坂たちだけでした。

文が自由に動いてますねえ。毛利敬親と文は言葉を交わせるものなのでしょうか…。僕にはわかりません。歴史的背景をカットしているものだからストーリーが唐突過ぎる気がします。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久3年(1863)5月〜6月頃。久坂玄瑞23〜24歳。高杉晋作24〜25歳。文久3年5月10日のアメリカ商船ベンブローグ砲撃以来、長州毛利家の過激派は5月24日にフランス軍艦キャンシャン号を、5月26日にはオランダ軍艦メデューサ号を次々と砲撃しますが6月1日にはアメリカ軍艦・ワイオミング号から、6月5日にはフランスのセラミス号から報復され毛利家の軍備は打撃を受けます。
その一方で5月12日には伊藤俊輔井上聞多ら、いわゆる「長州ファイブ」が横浜からロンドンに向けて旅立ちました。攘夷を掲げながらの密航とは不思議な気がしますが「攘夷してのち国開く」という周布政之助ら毛利家首脳部の主張からすれば何ら矛盾することではなかったのかもしれません。
久坂は5月27日に京都に異国船砲撃を報じ、6月1日には京都に入っています。
高杉は依然として「隠遁」していましたが、6月4日に毛利家政府から呼び出しを受け、6月6日「若殿様御前詰」として下関「出張」を命じられました。そして同日夜には下関の問屋白石正一郎邸に着。文久3年6月7日白石邸において光明寺党や有志の者を中心にして「奇兵隊」を結成したのです。高杉が毛利慶親の前で奇兵隊の結成の宣言した時、久坂も同席したのでしょうか。

文さんが「女台場」にどこまで関わっているのかよくわかりませんでした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久3年(1863)6月〜8月頃でしょうか。久坂玄瑞23〜24歳。高杉晋作24〜25歳。文久3年5月9日(攘夷決行の前日)に「生麦事件」の賠償金を支払わされたことによって将軍家茂は鬱になり6月13日には江戸へと戻ってしまいます。6月16日には桂小五郎が久留米の神官・真木和泉らとともに(孝明天皇に「攘夷」を行わせるための)「攘夷親征」を計画します。6月27日、前年の「生麦事件」のためイギリス艦隊が鹿児島湾にはいります。7月2日になってイギリス側が鹿児島の砲台を攻撃し打撃を与え、翌3日には鹿児島湾を去っていきました。世にいう「薩英戦争」ですが、薩摩とイギリスそれぞれの思惑があるようで興味深いです。7月11日、毛利敬親から「攘夷親征」の建白書が朝廷に提出されます。8月13日朝廷から攘夷親征(孝明天皇が主体者となって攘夷を行う)を目的とした「大和行幸の詔」が降されます。簡単に言えば攘夷を渋る幕府への、天皇行幸を使った圧力でした。しかし諸大名の眼にはさすがに「攘夷親征」は無謀に映ったようです。大和行幸の詔が降る2日前の8月11日、攘夷親征を計画した毛利家過激派に危機感を抱いた会津松平家と薩摩島津家の在京勢力は中川宮と語らい大和行幸の中止や三条実美ら長州毛利家寄り公家の参内中止・長州の堺町門警備の罷免などを画策しました。文久3年8月18日、会津・淀・薩摩の在京勢力が御所の警備につき長州毛利家はそれまでの堺町御門の警備を罷免されました。それは毛利家が京都政局での居場所を失ったことにほかなりませんでした。毛利家からすればまさに孤立であり政変でした。世にいう8月18日の政変(文久政変)です。翌日、三条実美ら七卿は三田尻へ落ち延びてゆくのです。敏三郎は奇兵隊に入隊したのでしょうか。高杉晋作奇兵隊総督を離れたのは奇兵隊士が起こしたいざこざである「教法寺事件」の責任をとってのことではないでしょうか。文久期に徳川家との強いパイプを築いていた吉田稔麿を丁寧に描いて欲しいものです。辰路と久坂の恋路も良いのですがもっと政治情勢を丹念に描いて良いはずです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久3年(1863)8月〜元治元年(1864)初頭頃でしょうか。久坂玄瑞24〜25歳。高杉晋作25〜26歳。文久3年8月18日の文久政変の翌日である8月19日、三条実美をふくめた七卿が毛利家領である三田尻へくだってきます。そして文久政変の報せが山口にもたらされたのは8月23日のことでした。8月29日、毛利家のなかでも徳川寄り(保守派)である、「俗論党」が萩から山口に入り革新派である「正義党」の周布政之助ら3名の免職を毛利敬親に要請。9月1日周布らは免職されますが俗論派がその直後に山口を離れたため事態はすぐに動き、10月10日より周布は再び毛利家の中枢で活動します。これにより正式に三条ら七卿は毛利家で受け入れられます。また、七卿たち自身は軍事力を以て「除奸」(反対派を除く≒現状の打開)を考えていたようです。三条たちの過激な攘夷はあくまで孝明天皇の意思に則って行われたものだとする自負があったのでしょう。10月には公儀(幕府)より京都近くの大名へ毛利家家臣の入京を強く取り締まるべしとする通達がなされました。10月2日、七卿の1人である澤宣嘉が奇兵隊総督の河上弥一とともに生野の変に加わります(同日 赤根武人が奇兵隊総督に就任しています)。生野組敗走により13日沢は落ち延びますが河上は14日に戦死します。「攘夷実行」以来、それを詰問に来た公儀役人を長州人が殺害した「朝陽丸事件」や、同事件を懸命に収拾しようとした吉田稔麿の活動など記憶に留めておいても良いでしょう。この時期になると公儀と毛利家の関係は微妙に変わりつつありました。久坂が小田村久米次郎を養子にしたのはこの年の5月のようです。沖田総司と久坂・高杉・入江九一・稔麿は対峙したのでしょうか?
「花燃ゆ」についてのつぶやき。元治元年(1864)初頭〜6月頃。久坂玄瑞25歳。高杉晋作26歳。文久3年12月から京都では一橋慶喜松平容保島津久光松平春嶽山内容堂伊達宗城ら朝廷に任命されたいわゆる国事参与(大名に準ずる人々)による参与会議が開かれ、横浜鎖港と長州処分について論じられますが薩摩の勅書への関与を察知した慶喜が薩摩への警戒を強め、3月9日には慶喜が参与を辞任し参与会議は空中分解しました。
一方、文久政変で京都政局から放り出された感のある毛利家は京都での地位を取り戻そうと毛利家の一部では京へ上るべしとする「進発論」が盛んになりました。毛利家で結成された諸隊の1つである遊撃隊の来島又兵衛などは強く進発を訴えました。過激な人物として描かれることの多い来島ですが吉田松陰は来島の人柄に一目置いていたようです。
 1月23日、進発に反対していた高杉に毛利定広は来島の説得を命じます。24日に高杉は来島に面会し説得を試みますが27日には失敗しそのまま大坂へ向かいました。3月19日には長州に戻りますが勝手に任務を放棄したということで3月29日から野山獄に投ぜられます。この際高杉は、「先生を慕うてようやく野山獄」と詠んでいます。
このような雰囲気を受けて5月21日頃毛利家の進発が決定しました。
毛利家の進発論で緊張をはらんでいる最中「池田屋事件」が起こります。当時、会津松平家・薩摩島津家と協力関係にあった尹宮の屋敷の「放火」計画の「噂」があったようです。京都守護職の配下であった新選組は事前にその「噂」をつかみ、(その際、坂本龍馬の居宅も襲われている)会津松平家に連絡。会津松平家は対応を慎重に協議します。そしてそのような不穏な空気が漂う元治元(1864)年6月5日、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が新選組に捕縛されます。古高の父は山科毘沙門堂門跡に仕え、また古高自身も長州毛利家の遠戚にあたることから、毛利家と有栖川家の強いパイプ役を期待されている人間だったそうです。この事態を受けて親毛利家の浪士たちは「古高奪還計画」をたてることとします―その会合が「池田屋」で行なわれます。かくして「池田屋」で「古高奪還計画」の会合中に親毛利家浪士が新選組に捕縛されてしまうのです。『池田屋事件の研究』の著者、中村武生氏は吉田稔麿文久3年以来、毛利家と徳川家との関係修復を模索し徳川家にもそれを望まれていたこと、毛利家京都留守居役・乃美織江(のみおりえ)の手記から桂小五郎が事件当夜、池田屋におり、屋根伝いから逃げたことを明らかにされています。さらにこの池田屋事件は、その後にやってくる毛利家と当時、京都で一勢力を担っていた「一会桑」( いちかいそう禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜京都守護職松平容保会津)、京都所司代松平定敬(桑名)3者)との対決・2度に渡る「長州戦争」や戊辰戦争の引き金になったと分析されています。謎の多い事件です。

小田村は3月に毛利家の命で武器を買っているようですがグラバーには面会しているのでしょうか。


「花燃ゆ」についてのつぶやき。元治元年(1864)6月頃〜7月頃。久坂玄瑞25歳。池田屋事件前日の6月4日、毛利家は京都進発を正式に決定します。池田屋事件の報せは6月9日頃五卿のもとへ伝わったようです。12日には大楽源太郎によってその知らせは山口へもたらされました。毛利家当主・定広の周辺は11日にすぐさま上京しようとしますが毛利敬親に諌められ一度は断念します。6月12日には毛利家使者が久坂や来島又兵衛のもとを訪れ、進発を一時見合わせるよう説得を試みます。意外なことに来島は説得に応じ、久坂は事ここに至っては「一刻の猶予もなりがたし」と反発しました。このように池田屋事件以前に京都進発が決定していたということは記憶に留めておいて良いでしょう。6月14日、毛利敬親が家老・益田右衛門介に出陣を命じます。6月15日、来島又兵衛が遊撃隊を率いて山口を出立。久坂も同日諸隊を率いて三田尻を出立しました。6月16日には家老・福原越後が出立。6月24日、久坂らは山崎の天王山・宝積寺・観音寺に陣を敷きました。
6月26日長州屋敷の浪士が脱走。これを受け27日来島が浪士鎮撫に向かいます。これが毛利家入京と誤解され、大混乱を招きます。長州毛利家の目的は戦闘ではなく、あくまで毛利家の入京・復権でした。長州側の記録では久坂らのグループを「清側義軍(せいそくぎぐん)」と称しているものもあります。毛利家の処置に関し、松平容保は討伐論、一橋慶喜は毛利家家臣を引き取らせたうえで様子をみようという慎重論に分かれましたが7月18日朝議は長州討伐に決定したのでした。

参考:中村武生氏『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、2011年)

「花燃ゆ」についてのつぶやき。元治元年(1864)7月。久坂玄瑞25歳。
7月17日男山八幡宮にて「清側義軍」の進退を決する「男山会議」が開かれました。出席者は久坂・来島又兵衛真木和泉入江九一を含む十数名でした。「君側の姦」を除くべしとする来島と、あくまで嘆願を続けるべしとする久坂の間で意見が分かれ最終的には真木の発言で「進発」に決定しました。翌7月18日、清側義軍は松平容保の誅戮を訴え、伏見・嵯峨・山崎の三方面より進軍します。元治元年7月19日、「禁門の変」の発生です。「元治甲子戦争」といった方がわかりやすいかもしれません。嵯峨方面から進軍した遊撃隊は蛤御門で会津国司信濃組は中売立門で筑前とそれぞれ奮戦。彼らは御所まで向かいますが
来島が薩摩兵に股を貫かれ戦死。享年48.これにより毛利勢は総崩れとなります。一方、久坂や真木の浪士組は山崎から堺町門に向かい鷹司邸に飛び込み鷹司 輔煕に長州復権を嘆願しますがそれもかないませんでした。鷹司邸が諸大名家に取り囲まれたことにより久坂は寺島と自刃。久坂 享年25.寺島忠三郎 享年21.久坂から後のことを言い含められた入江九一も眼を付かれ自刃しました。享年28.一時鷹司邸から逃れた真木和泉は7月20日、天王山で同志17名と自刃しました。享年52.この戦争で町は戦火にさらされどんどん焼けといわれました。この頃、一橋慶喜松平容保松平定敬による一会桑が成立したといわれています。椋梨藤太は文を足蹴にしたのでしょうか。7月23日長州征討令が下り毛利家は追い込まれることになるのです。