【地域】山村の限界集落と都市の限界集落


『限界集落と地域再生』
大野晃(著)
静岡新聞社



本書は「限界集落」という概念を提唱した論者による事例研究の書。



限界集落とは、本書の定義によれば
「65歳以上の高齢者が集落人口の50%を超え、
冠婚葬祭をはじめ田役、道役などの社会的共同生活の維持が困難な状態にある集落」
を指す。



このような集落は現在全国に2000以上あると言われ、
(2006年国土交通省「過疎地域等における集落の状況に関するアンケート調査」)
山村の住民、農林業関係者に留まらず、その存在とゆくすえに関心が集まっている。



さて今回は、本書の豊富な事例をもとに、
本書ではあまり触れられていない都市の限界集落
―高齢化の進む、大都市市域内・郊外の大規模団地など―
について考えてみたい。



〇山村と都市の限界集落
山村の限界集落にあって都市の限界集落にないもの。
それは2点
①共通の生業(生産の基盤)
②他地域との広域的な関係を前提に期待されている独自の役割
ではないだろうか。



山村の限界集落では、かなり弱まっているとはいえ
農協をベースにした農林業が健在。
また昨今は、地域の特産物のブランディング・生産販売など、
「むらづくり」も共通の生業を立ち上げることが一般化してきている。
(本書では、静岡市葵区有東木集落のブルーベリー・ワサビの事例が紹介されている)



そして、独自の役割については、
本書でも指摘されている通り、水源の環境維持という点が近年、各方面から指摘されている。
(本書では、京都府綾部市の「水源の里条例」が紹介されている)



※現代の日本の山村は、その多くが人工林。人工林は間伐などのメンテナンスが必要である。
なぜなら、メンテナンスができなければ、水量や含有する栄養分の調整も難しくなり、
山村だけではなく、下流の都市や漁村の生活にも危機が及ぶ可能性があるから。
かつて山村はその役割を担っていた。ところが現代の山村は限界集落化によって、
人工林のメンテナンスに人手が及んでいないところも多いという。



ところが都市の限界集落では、上記の2点があてはまる、
あるいは体現している集団や組織は存在しないことが多いのではないだろうか。



○都市の限界集落のこれから
さて、①の共通の生業がないことを「問題」とし、それを立ち上げることは、
地域の問題を解決する重要な方法だろう。
ところが、より重要なのは②の地域外の他者の期待にもとづく独自の役割で、
それを利活用可能な資源を組み合わせて、いかに創りあげていくかが
現代の限界集落に求められていることではないか。



都市の限界集落では、まだ②が見出されていないだけ、と考えてみるとどうだろうか。
もちろん「活動」と「生業」という言葉の間に存在する
大きな溝に着目しないわけにはいかない。
後者なきまま前者を創出することがいかに難しいか、
ということを知っていたから、社会学の巨人エミール・デュルケムは
職業集団を基盤にした人々の連帯の創出に着目したのだろう。



しかし、共通の生業(の創出)を、都市の限界集落のこれからの
唯一の指針として設定してしまってよいのか。
(あるいは、その有無に着目する意義はあるのか。)
都市の限界集落といっても、人口規模・高齢化率・有業率など
その内実は山村の限界集落と同様、さまざまである。



山村では、共通の生業がもともとあった。
都市では、それはもともとない。
もし、この観点から都市の限界集落の今後を考えるなら、
活動や生業といった概念の検討から、都市の限界集落で人々が従事できる
他の方策を導き出す必要があるのではないか。



「ないこと」「できないこと」は
「あること」「できること」は相互依存の関係にある。



「経済後進地域」「何もないところ」という状況を、
「何もないのがよいところ」と読み替えたかつての山村の戦略は、
若者がいない、生産活動の拠点がないことを「問題」として捉えられがちな
都市の限界集落においても、なお有効なのかもしれない。

【都市】五山送り火問題を考える

陸前高田の松を京都の五山送り火で受け入れるか否かの騒動について考える。

陸前高田の松、一転受け入れ=送り火連合会、批判受け―京都(8月10日/時事通信


東日本大震災津波で流された岩手県陸前高田市の名勝「高田松原」の松を、
京都の伝統行事「五山送り火」の一つ「大文字」で燃やす薪として使う計画が
中止になった問題で、
五山送り火の各保存会でつくる「京都五山送り火連合会」(京都市左京区)は10日までに、
陸前高田市から別の薪を受け入れ、16日の送り火で燃やすことを決めた。
 

福島原発事故による薪の放射能汚染を懸念する声が寄せられたため、
「大文字保存会」(同)が使用中止を決定。
しかし、これに「被災地の思いをなぜ酌めないのか」など、
京都市に対してだけでも900件以上の批判や苦情が相次ぎ、同市が連合会に受け入れを要請。
連合会が協議し、他の四つの送り火保存会が受け入れを了承した。


当初、大文字に使用される予定だった震災犠牲者や復興に向けた思いを
被災者らが書き込んだ薪は、8日に陸前高田市で盆の迎え火として燃やされたため、
京都市は、新たな薪500本をボランティア団体を通じて取り寄せる。 

記事リンク:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110810-00000044-jij-soci



興味深いのは、「放射能の灰が散布されるのでは」という具体的な主張と
「声の大きい「市民」が無体な事を主張している」という形式的な「論調」がぶつかって
後者が前者を凌駕した(ように語られる)こと。



後者の「声の大きい「市民」が無体な事を主張している」
というフォーマットは汎用性が高くて、結構どんな主張でも入ってしまう。
(いわゆる「プロ市民」と批判されてしまう人々の政治活動が、
教育問題、憲法問題、戦争問題など多様であることからもわかるように。)



もっとも両主張はともに、京都市への電話という方法でなされた
「抗議」という共通点もある。報道の多くは抗議件数を対比して、
その多寡が物事に影響を与えているように語られるのも、注目すべきかもしれない。
微に入れば、抗議電話の件数を数えるという営為(?)が
どんな方法と目的でなされているのかも気になるところ。(今更だけど)



とはいえ根本的には、
なぜある地域を中心に運営される物事が
決定→抗議殺到→議論というプロセスで進行していくのか、
という問題が重要かと。
集団でなされた決定を後で変更・内容修正するには様々なコストがかかるので、
決定そのものを問い直す議論はコスト次第で封殺されてしまうケースも出てくる。
「もうほうぼうにオファーを出してしまったから」「スケジュールの制限」
といった、よく聞く言葉で。



そう考えると、今回は決定の方針が変わっただけ、結果的には良かったのだろうか。

【その他】議論に関する小考

【とかく議論が多い世の中】
仕事の会議、学校のゼミ、趣味の集まり、
結婚式二次会の打ち合わせ…
あるいは、ブログやツイッターといった情報空間でのやりとり。



誰しも様々な場所で、様々な人と
意見を交わしあう機会があるでしょう。
また、そのような場をもつ機会や手段は、
一昔前に比べれば容易に得られるようになってきていると思います。
本稿では、そんな議論のありかたについて考えてみます。



【「素人」と「専門家」】
ある問題について議論するとき、議論の場にいる人が、
当の問題について背景知識を有していると、
高度な議論を展開できる可能性が拡がります。



※昨今の状況に当てはめれば、原子力発電を含めたエネルギーの安定供給に関する議論は
原子力に関して科学的に熟知している者、政治的な意思決定のプロセスについての
多くの事例を知悉している者がいなければ、場当たり的なものになってしまうはず。



ところが、議論をする人々が、
問題に関する背景知識や概念・思想についての知識を
十分に有していないからといって、議論ができない訳ではありません。
それどころか問題について専門知識を有していない人がいるという状況は、
当の問題の本質をえぐる議論ができるチャンスでもある。



重要なのは「素人」によってなされた本質的な議論を
専門知識を有するものが翻訳(相対化)することではないか。
そして、議論の際そのような翻訳の機会を確保すること。



※専門知識と言ってしまうと学術的な知識に限定されてしまうように
捉えられるのかもしれませんが、私は本稿でそのような意味に限定して使っていません。
例えば、話し合われた内容について、
専門家の間ではどのように考えられているのかを説明したり、
専門用語を簡単に紹介するといったことだけではなく、
たまたま該当する事例を知っていたり、体験をしていたりしたことを
話してもらう、といったことも、専門知識による翻訳に当たります。



なぜなら、翻訳を通じて「素人」は専門知識や概念・思想を
身に着けていくきっかけを得ることができるからです。
すると、「素人」は問題についての専門的な思考様式を知ったり、
専門知識を身に着けることで、別の場所では「専門家」の役割を果たすことに
なるかもしれない。そうなれば、当の問題について考える人々の輪は拡がります。



まとめると
「専門知識がない」という意味での「素人」も、
「専門知識がある」という意味での「専門家」も、
議論で俎上にあがるテーマや、議論に臨む人たちの関係によって
相対的に決まるんじゃないかということです。
※そのニュアンスを表現すべく、鬱陶しくも「」をつけていました。



詳述すれば、自分が議論で「素人」として本質的な論点を模索しようとするか、
専門知識をもとに議論を翻訳(相対化)するか、つまりどの役割を担うかは、
自分を含むそこにいる人たちの知識のあり方、立場―役割の違いによって決まる。



【合意形成のプロセスを大事にするか、意思決定のスピードを優先するか】
ただ、何らかの意思決定を前提としている議論のケースか、
ディベートのようなケース、
あるいはブレスト・アイデア出しのようなケース、
どのケースで上記のスタンスを適用できるのかという点については
様々な考え方があるはずです。
※ブレストでは意思決定や何らかの決着をつける必要はありませんが、
上記のスタンスは出席者すべての発言を活発化させることが
できるかもしれない…



ただ私個人としては、意思決定を求められる時こそ、
「素人」の役割が問われるのではないかと思います。
「素人」の存在は議論の進行スピードを遅くさせる要因かもしれない。
しかし決定ありきの空しい議論が各所で繰り広げられている
日本社会だからこそ、集団の合意形成のプロセスと、意思決定のスピードの
どちらを優先すべきかという論点に着目することに、
意味があるのではと考えます。



※もちろん議論の内容以前に、誰が議論の場を設定し、
どんなメンバーが議論に臨み、議論が意思決定のプロセスにおいてどのように
位置づけられているのかといった問題があります。
この問題は極めて重要ではあるものの、
政治的な権力関係や経済的な利害関係が関わる複雑な問題です。
(当面私の手におえないので)ここでは触れません。



だから、議論が表層を滑っているような、
誰もがちょっといらいらするような状況でも、
専門知識を有する者は早々に口を出さないほうがいいのかもしれません。
そうして待っていれば話が面白い方向に転がるかもしれませんから。

【都市】ある街の公園にて

本日、昼下がりの出来事。



僕は自転車でアルバイト先に向かっていました。
道中、尿意をもよおしたため、
ある公園の公衆便所に入ろうと考え、
公園の中に入っていきました。



公園には、砂場や遊具で遊ぶ三歳前後の子供たちと、
遠くの方で子供たちを見守りながら談笑するお母さんたちが。



僕はあまり深く考えずに、
子供たちの群れの真ん中を割くように
公衆便所に向かって歩いていきました。(それが最短距離だったのです)
何気なくお母さんたちの方を一瞥すると
お母さんたちが皆僕を凝視している。
その視線に警戒の色を感じ、きまりが悪くなった僕は、
用を足した後は子どもたちの群れを避けて公園を出ていったのでした。



明らかに昼間公園にいないような年齢の男が、
無神経にも小さな子供達の輪に入っていくのも「不自然」だった。
小さな子供が誘拐されたり、殺されたりする残虐な事件は
最近もしばしば報道されていることもあるし、
僕の家の近所でも自治会のパトロールカーが走るようになっている。
そういろいろ考えると、お母さんたちに警戒されて当然だと反省しつつ、
何やら釈然としない感じがこみあげる。



もちろん、お母さんたちの視線を「警戒」と一方的に感じたのは僕であって、
お母さんたちにそのような意図はなかったかもしれません。
それはそうなのですが。



○考察
僕が行った公園は繁華街の真ん中ではないですが、
繁華街から自転車で5分程度のところにあります。
公園の付近には幼稚園、私立の高校がある。
古い商店や住宅もあるのですが、新旧の民間集合住宅も周囲にいくつかある。
公園を囲む一帯はいわゆる「閑静な住宅街」と言えるでしょう。



このような街の公園で「平日」の「昼下がり」
僕(20代後半、男性、小太り、自転車に乗っている、
紺色の帽子に灰色のマウンテンパーカー、ジーンズ、黒の運動靴)
のような人間が、小さな子供の近くに寄っていくのは「不自然」だと仮定する。
では、同じ状況で僕と同じ行為をして「自然」な人間とはどんな人か。



ぱっと思いつくのは「おじいさん」「おばあさん」です。
彼らが平日の昼間に公園のベンチで座っていても
別に「不自然」ではないような気がします。
あとは公園にもいた「お母さん」「子供」。
(「お母さん」は子供を連れていないと「若い女性」に見られてしまうかもしれないので
「お母さん」一人では「不自然」かもしれません。「子供」は一人でもオッケー)
最後に「ペットを連れた人」。この場合は、どんな人であってもそんなに
「不自然」ではないような気がします。



○展開
あるところに、ある人がいることが「自然」か「不自然」かということを
別のある人が判断する際、どのような作用が働いているのだろうか。



判断の前提として、
そこがどんな所か(屋内か屋外か、公共的な場所か私的な場所か、自然環境etc…)
が規定されなければならない。



加えてそこにいる人が、
どんな人か(知り合いかそうでないか/性別/年齢/国籍etc…)
いつ、どんな時にいるか
(時間帯/季節/天候/平凡な日か特別な日か(たとえばお祭りや災害)etc…
何を持っているか(乗り物/ファッション/ペットetc…)
何をしているか、誰といるかなど、
考えうる無数の指標を洗い出さねばならないのではないか。



そして問題であり、重要なのは
無数の指標のなかから、見る人がどの指標を重視して、
どの指標を切り捨てているのかということ。
さらにある人に重視された指標は、その他の指標を飲み込み、見えなくさせたり
そもそもその他の指標がなかったかのような印象を
見る人に与えることができるのかということ。



そうすることで、ある環境や状況において、
人は人に対する態度を決定しているのかもしれない。
換言すれば「自分と同じ人間か」「自分と違う人間か」を判断する。
また、このようにはっきり自他を区別せずとも、
「自分と(その指標に照らし合わせて)どの程度距離のある人間か」
を考量し、その人間に対する態度を決定する。



それぞれの場面で、それぞれの人が用いる指標は千差万別でしょう。
とはいえ、ある状況のもとでは、特定の指標が判断において「全面に出てきて」
その他の指標を追いやってしまう傾向があるのかもしれない。
(そしてそれが、対立や差別につながってしまうのかもしれない。)



上記のプロトタイプ(?)を、
ある空間的に限定された「地域」の住民が
生活のなかで、お互いの存在を受け入れたり排除したりしていく過程を考える際、
例えば、新しい分譲住宅が完成し、複数の世帯がほとんど同じタイミングで入居し、
生活や交流が始まっていく場合に適用するとどうなるか。



このような場合、まずその「地域」がどんなところか
(産業構造、政治の状況、建物の様子、自然環境など、これらすべての歴史)
を把握する必要があるでしょう。



そして、どんな人が(世帯数/子供の有無・収入・性別・学歴・国籍・趣味etc…)
どこに住んでいるのか(階・住居タイプetc…)
何をしているか(職業の有無etc…)
何を持っているか(車の種類・ファッション・家財道具etc…)
どこに行くか(職場・学校・公共施設etc…)
を把握する必要がある。



そのうえで、住民同士が互いにどのような付き合いをして
どのように意識しあっているのかを観察していく。
すると何か面白い特徴がわかるかもしれません。



上記に取り上げたような分譲住宅や、
分譲住宅が同時期に大量にできたような街では、
都市論や郊外論の文脈で、しばしば住民の「同質性」が指摘されることがあります。



この場合、どの指標を持ち出して住民の固まりを
「同質的」であると言っているのか。



住民にとって特定の指標が大きな意味を持つがゆえに(例えば「収入」)、
その特定の指標が均一的なことを「同質的」であるとしているなら、
「同質的」であることが、その他の指標を不可視化させる傾向があるのか。
あるいは、その他の指標を不可視化させる圧力が働くことがありうるのか。



そして「同質性」が見られるとするなら、今も昔も同じなのか。
歴史的な比較や検証は可能なのか。



様々な問いが浮上してきます。
人が人を同じだ(仲間・身内)と考えたり、
違う(敵・他人)なと考えたりして
手さぐりをしながら情報を交換し、コミュニケーションをしていく。
人の思想や信仰、置かれている環境についての理解に共通の前提が見られないがゆえの、
現代人特有の及び腰なコミュニケーション。



そんな現代において、コミュニケーションの作法の特異なあり方が見られたり、
コミュニケーションの作法についての特定の語りが量産される「場所」が
現代にあるとすれば。
その実態を検証することに、
興味を掻き立てられずにはいられません。

【都市】ニュータウンの住環境と高齢化

月雑誌『クーリエ・ジャポン』3月号に
朝鮮日報の記者による、千里ニュータウン関連の記事が掲載されています。



記事のなかで、記者が指摘しているのは以下の三点。



①近年、千里ニュータウンにおいて人口減少、住民の高齢化が進んでいること。
(人口は全盛期の1975年:13万人から2010年:9万人、
65歳以上の高齢者比率は1975年:3.5%から2010年:29.9%)


②韓国の代表的ニュータウン「盆唐新都心」も千里ニュータウンと同じ
人口減少と住民の高齢化を進行させていること。


千里ニュータウンが人口を減少させるなか、同じ大阪市近郊の都市でも
東大阪市の工業地帯にあるマンションでは、若い層が入居しており、
「住工混住現象」が見られること。



本記事にそって本稿、次稿にわたり、
ニュータウンの問題について考察していきます。



ニュータウンの高齢化
①については本稿をご覧頂いている皆様も含め、
既にご存じの方も多いのではないでしょうか。



高齢化そのものは即「問題」ではないのです。
問題は、千里ニュータウンを含め日本のニュータウン
およびニュータウンを構成する団地が



・急な坂が多いところに位置している。
千里ニュータウンが最たるものですが、ニュータウン自体、
大都市郊外の丘陵地に建設されていることが多い。
そのため、ニュータウンでは住棟を移動するのにいくつもの階段を
使わないといけないこともあります。


※なお、丘陵地にニュータウンが建設された経緯については、
こうした丘陵地の多くが、明治政府成立以前・旧藩の入会地(共有地)であり
「手つかず」であったことが指摘されています。
(上田篤『75年のあゆみ 記述編』阪急電鉄株式会社)
つまり広域にまたぐプロジェクトを展開できる
中央集権国家、大資本の鉄道会社(千里では阪急など)が
切り開いた住宅市場の新天地が、丘陵地だったということです。


・エレベーターがついていない。
→1950年代末〜1960年代初期に建てられた最も古いタイプの日本の団地は、
5階建てで、エレベーターがありません。建て替えの進まない老朽化した
団地は、階段に手すりをつけるなどの対策をしています。
※たとえば、千里ニュータウン最古、1964年竣工の千里津雲台団地のうちの
一つの住棟は、こんな感じ



・スーパーなど、生活必需品を購入できるところが住居から遠い。
ニュータウンは開発当初、公団や行政が積極的に誘致した結果、
団地内に商店がたくさんありました。
しかし、現在は郊外大型店の進出の影響を受け、多くの団地内商店が
シャッターを下ろしています。


・公共交通機関(特にバス)のアクセスが悪い。ニュータウンは居住者の方はおわかりかと思いますが、
非常に広大です。住居から鉄道駅・バス停までかなり歩かなければならないところも多い。
そのため、団地内には広大な駐車場が設置されていることが多く、
住民の自動車依存度はかなり高い。



といった特有の住環境にあるということに存在しています。
つまり、とりわけ高齢者にとって、
現在のニュータウンは住みにくい住環境であり、
それが高齢者の住居へのとじこもりや、
社会的な孤立(外に出て友人・知人と交流するのがおっくうになる)
を促してしまう危険な側面があるということ。



もちろん、行政や住民の方々は手をこまねいているわけではなく、
集会所をデイ・サービスセンターとして活用したり、
(住民の方々が福祉NPOを運営しているケースも多い)リンク
お年寄りが気軽にあつまれる場(お茶会やカラオケ会)を設けたり、
高齢者が孤立することで起こりうる問題に対処しようとされています。



また、行政が自治会やNPOと提携してニュータウンの団地を巡回する
「出張スーパー」を展開しているところもあります。
※読売新聞の記事ではこんな例が紹介されています。
遠くまで買い物へ行かなくてもよく、楽で便利ということもさることながら、
出張スーパーの前でお年寄りが集まり、話に花が咲くという思わぬ「効果」も
あるとのこと。



このようなサービスは、高齢者がニュータウン
快適に生きるために大変重要です。
行政は地域住民のこうした活動を支援する必要があると思いますし、
非住民が営利・非営利の活動もニュータウン内で事業を展開できるよう、
政策・条例の見直し、経済的支援をしてほしい。
またニュータウンに住まない私たちも、
このような活動を見守っていくべきではないでしょうか。



〇分断されるニュータウン
ところでニュータウンは、1950年代の住宅不足の解消を目的に、
日本住宅公団、行政の公社などが連携して進めた一大プロジェクトでした。
当時入居してきた人の多くは、幼い子供のいる若い夫婦。
ニュータウンはその名が醸し出すイメージ通り、
「新しい、若い街」だったのです。



ところが現在、当時の「子供」の多くはニュータウンに留まらず、
他の土地で暮らしています。
老いた両親、また夫や妻と死に別れた一人暮らしの高齢者は残される。
子供が育つとともに、さらに便利な都心に住み替えた方、
新たに子育ての拠点として、よそから越してきた若い夫婦もいますが、
ニュータウンの高齢化は住民の人生のサイクルから、
概ね以上のように展開してきました。



そして近年、40年・50年の築年数を経ても
手を入れられない老朽化した、高齢者が多く住む団地が残されるいっぽう、
駅の近くの好立地にあった団地跡に建て替えられているのは、
大手デベロッパーによって供給される、
壮年の高所得者層を対象にした高層マンションです。



これらのマンションには
「キッズルーム」「交流ラウンジ」「エクササイズスペース」
など豪華なアメニティが備えられていることも多い。
子育てをするには望ましい環境でしょう。
ただ、住民が老いたその先をとらえた住環境ではどうやらない。



また、古い団地がこのようなマンションに建て替えられる際、
賃貸住宅の場合、家賃の相場が大きく上がってしまうことがあります。
このような背景から、ニュータウンの団地建て替えには、
低所得者が住み慣れた家を立ち退かざるを得なくなってしまう問題が
しばしば生じる。
つまり建て替えを境に、所得に基づく経済的なふりわけが
意図せずとも行われ、その結果、建て替え後の新しいマンションには
高所得者が集住する。



ニュータウンは先ほども述べたように広大です。
それぞれの団地間が地理的に離れてしまうのは必然です。
とはいえ、このまま古い団地が
このようなマンションばかりに建て替わってしまうと、
(また、同じような方針で建て替えが進んでしまうと)
古い団地に住む高齢者と
新しいマンションに住む子供・壮年者は「分断」されてしまうのではないか。



それは簡単にいえば、
・世代的
・経済的
な分断です。



かつて、似た境遇の若い夫婦と子供たちがつくりあげてきたニュータウンは現在、
古い・貧しい「オールドタウン」と
新しい・豊かな「ニュータウン」に
分断されつつあるるのではないか。
ニュータウン」をまとまった社会としてとらえることが
難しくなっているとするなら、政策はそれぞれに対応したメニューを
用意する必要があるのではないか。



いや、そもそもニュータウンは、長期的なスパンでみれば、
世代的・経済的に分断されてしまう要因が潜んでいたのではないか?
その要因は?


ニュータウンにはさまざまな問いが隠れています。



ところで、ニュータウン住民を対象にした
いくつかのアンケートの結果によると、ニュータウン
「多様な住民が住める街」
「地域活動に幅広い世代が参加する街」
「若い世代が住める街」
にしたいという要望を持つ住民が、一定数いらっしゃるそうです。



住民の方々は、自分たちの住む街の問題を確実にとらえています。
私たちは彼らの問題意識に寄り添いながら、
ニュータウンをどのような街にしていくことができるでしょうか。



≪参考文献・資料≫
『COURRIER JAPON』(2011年3月号),講談社
週刊ダイヤモンド(特集:ニッポンの団地)』(2009年9月号),ダイヤモンド社
山本茂,2009,『ニュータウン再生』,学芸出版社

【労働】「正社員志向」はこれからも続くのだろうか

ゼミである方が発表されていた、障害者運動に関する研究について
ぼんやり考えていたことを。



その研究では、障害者の「労働」はこれまで、
賃金を得るための労働か、
社会とのつながり=生きがいを得るための労働か
という二分法による労働観に終始していたと指摘されていました。
研究の知見は興味深いもので、
私も労働観について考えさせられました。



研究の詳細については、本稿では紹介できませんが
扱われていた事例では、上記の二分法による労働観ではなく、
「(健常者と障害者の垣根をこえた)働く者の関係性」
を重視している姿勢がみられたとのこと。
確かに、「誰かと一緒になにかをすること」は、
たとえ賃金が発生しなくても、社会のつながる意識を前提としなくても
愉しさや歓びが生じるもの。
広い意味での「はたらき」と言えるのかもしれない。
これを「労働」のなかに位置づけできれば、
全ての人が働きやすい環境が創ることができるかもしれません。


〇労働観の問いなおし
経済が成熟した社会の労働市場では、
・自発的(今働く必要がない人や、働く予定がない人など)
・非自発的(解雇されてしまった人・働きたいのに働けない人など)
な「失業者」は必ず存在します。
また、90年代半ばから一般化したアルバイトや派遣といった「正社員」ではない、
「非典型労働者」には、多くの企業が依存せざるを得ないのが現状で、
この傾向は今後もしばらくは続くでしょう。



であれば、正社員になることを働く者の経済的・社会的な「達成」と捉え、
正社員を頂点に収入・仕事のやりがいが配分されていく、
ヒエラルキー型の労働観に留まる限り、
正社員を選択しない人や正社員になれなかった人は
収入・仕事のやりがいの面で「下位」に置かれることになる。
すべての人が「正社員」になれない労働市場のなかで。



「誰かと一緒になにかをすること」の価値は、
もちろんこうしたヒエラルキー型の労働観を軸に据えた
労働環境でも得られるものです。
(正社員とアルバイト・パートの関係が、
良好な職場は珍しくはありませんし、その重要性は広範に認められています)
しかし、今一度突き詰めて考えてみるのであれば、
同じ職場で同じような労働に従事する労働者の間に、
収入ややりがいに差が出てしまうことは正しいことなのだろうか。



このような問題意識は、収入の面では
「同一労働・同一賃金」を求める議論に通ずるものかもしれません。
また、仕事のやりがいの面では「リア充」的な労働観へ
意義を唱える突破口になるのかもしれない。



加えて「誰かと一緒になにかをする愉しさや歓び」を捕捉した労働観のもとで、
70年代〜80年代に隆盛した主婦をキーパーソンとする地域活動
(生協運動や消費者運動など)は「労働」としての価値を再評価できるのかもしれない。



そして根拠はありませんが、
いまアメリカを中心に世界中で「価値」を生み出している
「労働」は、実はこの労働観に支えられているのではないか。



少なくとも、既存の労働観に対する問いなおしが、
さまざまな場から噴出しているのが昨今の社会状況と言えるでしょう。



〇日本の労働福祉政策
最近、行政や教育機関の就労支援に対して、
労働の自己承認機能(生きがい?)を捕捉した支援をせよといった議論があります。
仕事が人のアイデンティティと結びつくことは確かですので、
まっとうな主張ではないかと思います。



けれどもその就労支援が
正社員になること・フルタイム労働がゴールであるという労働観のもとで
組み立てられるならば、就労希望者は意識と現実の壁
(正社員で仕事をバリバリこなすリア充になりたい[意識]、
けど正社員の口がなくアルバイト・派遣に留まるしかない[現実])
に苦しみ続けることになります。
世間の評価も同じ労働観に基づくならば、
就労希望者は悩みや苦しみに対する理解を求めることも難しい、
大変苦しい状況に追い込まれてしまうのではないか。



※もちろん正社員に限定した労働市場のなかでも、
雇用者と就労希望者のミスマッチが存在しますので、
両者のマッチング・システムの再検討は、
これまで述べた労働観の検討と連動して進めなければならないでしょう。



ところで、1969年のニクソンの福祉改革案に用いられ、
アメリカから日本に持ち込まれた「福祉から就労へ」をスローガンに掲げる
政府・行政の福祉労働政策(「ワークフェア」[workfare])の概念は、
いまも世界各国の労働政策の根本を支える重要なオプションとして捉えられています。
ワークフェアはもともと、政府・行政の財政基盤の悪化に伴うコスト圧縮の命題のもと、
増大し続ける福祉歳出に歯止めをかけ、所得税による歳入増をねらうという
目的がありました。


※「ワークフェア」について、詳しくはこちら



日本の政府・行政は80年代以降顕著に、
労働政策の実践においてワークフェアを適用していきました。
その際、(基本的には)高所得を生み出す正社員への就労を促すという
方向性で進められてきた。



とはいえ、現代社会では高付加価値=高所得を生み出す「労働」は、
正社員・フルタイム労働者といった立場や地位を前提とするものではなくなっている、
とも考えられます。
働くことについてのあたらしい展望は開けている。
私たちは新しい時代に即した労働観を彫琢していく必要があるのかもしれません。



【参考文献・サイト】
『workfare.info』→http://workfare.info/
本田由紀内藤朝雄後藤和智(著)、2006、『「ニート」って言うな!』、光文社新書

【読書記録】忘れられた日本人


忘れられた日本人
宮本常一(著)
岩波文庫



日本民俗学を代表する名著。
著者・宮本常一は生涯を通じて全国の農村・漁村・山村を歩いて回り、
文字を持たない人の口承・伝承を記録した「旅する民俗学者」と呼ばれています。
彼の出身地は、山口県周防大島
郷土の民俗に関する著作や論文も多く残しています。
また、一人の文字を操る伝承者としての宮本常一は、
彼自体が今も研究の対象であり続けています。



民俗学という学問は、19世紀以降、日本が近代化していくなかで
驚くべき速さで失われていく百姓の生産技術、
農村社会の政治構造、紛争調停システム、祭礼のありかた
―ムラの生活知―
を、記録しなくてはならないという問題意識から生まれました。



彼らが得た知見は、実は地域社会における地下水脈として
今もなお、たしかに流れている。
現代の地域や都市を研究する者にとって、民俗学の知見や研究手法から
学ぶことは多いのです。



…と、固く考える必要はありません。
本書は明治・昭和初期に全国各地で百姓や漁民として生きた、
年寄のライフヒストリーから構成されてるのですが、
彼らの話が抜群に面白い。
人の生活というのはわずか数百年でここまで変わるのか、
と驚かれること請け合いです。
「現実は小説より奇なり」とはよく言ったもの。
岩波文庫からお求めやすい価格で出ていますし、
是非一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。



○非定住民のライフヒストリー
昔の村には、大きく分けて二種類の人々がいたと言われています。



・定住民…村に土地や家を持ち、一生をあまり村から出ることなく生きた人々。
多くは百姓。
・非定住民…村と村、村と都市を移動し、一生を旅するように生きた人々。
多くは漁師や大工、木挽、芸人、宗教者(山伏・聖)などの
専門技術を持つ者。
(とはいえ、彼らが拠点となる土地や家を全く持たなかったわけではない)



日本の村の構造を知るためには、定住民を中心に展開する生産活動(田植えや稲刈りなど)
、祭礼、村の寄合(村で起こる問題の話し合い)の実態に迫る必要がありますが、
非定住民の生活や、非定住民と定住民の交流にも着目しなければなりません。
また日本の村は、そもそも非定住民が生業を求めて切り開いたというルーツを
もつ場合も多く、非定住民の人生に迫ることが村の誕生を知ることにもなりえます。



本書には定住民・非定住民双方の興味深い話が収録されていますが、
本稿では非定住民を扱ったものから一つ、紹介いたします。



【梶田富五郎―漁師】
梶田翁は明治の世を生きた、対馬(長崎県)の漁師。
生まれは周防大島の久賀(くか)。



久賀は当時、タイ釣りの技術に秀でた漁師を排出する漁村でした。
久賀の漁師はタイの漁場をもとめて、
角島(山口県・下関の北方)、唐津(佐賀県)などにも出かけていったそうです。



梶田翁がまだ漁師見習いのときです。
当時すでに対馬に漁へ出かけていた広島の漁師によれば
対馬の海は魚で埋まっているという。
若き梶田翁を含む久賀の漁師一行はその話を聞き、対馬へ足を伸ばします。



行き着いたのは浅藻(あざも)という、木々の生い茂る何もない浦でした。
浅藻は土地の人々が「天道法師の森」という聖地と捉えていて、
当時誰も住んではいけない、通ってはいけないとされていた。



このような庶民のタブーだけではなく、
対馬は当時、侍が多く、しきたりにうるさい土地だった。
彼ら久賀の漁師はしがらみを逃れるべく、土地の人々の制止を押し切り
浅藻を漁の拠点として開発していきます。



浅藻を港として整備するのは並大抵の苦労ではなかったそうです。
特に大変だったのは、沖に沈む石の除去。
港というのは船が入れるだけの水深を必要とします。
大きな船が入れるようにするには沖の石をどけなければならない。
久賀の漁師は潮の満ち引きと船を駆使して少しづつ石をどけ、
三十年をかけて浅藻を立派な港にしていきました。



浅藻は港が整備されるにつれて人が住むようになってくる。
久賀からだけではなく、平戸(長崎県)や沖家室(久賀と同じ周防大島の集落)の漁師も
来るようになる。
貿易や商売の才覚がある者も住みつくなるようになり、
納屋が商店もできるようになる。
こうして浅藻は集落として発展していきました。



梶田翁はそんな浅藻の集落を、
自ら創りあげ、その生成を一から見つめてきた人でした。
宮本に浅藻の話を語るなかで、残した言葉が印象的です。



「やっぱり世の中で一番えらいのが人間のようでごいす」



○考察―専門技術者と未開地の開拓―
梶田翁・久賀の漁師のような人たちが切り開いた集落は、
全国各地に見られるでしょう。
興味深いのは、漁師の世界でみられる専門、
漁法の違いによって、漁師が切り開いた集落の成り立ちが
推測できるのではないかという点です。



久賀の漁師は一本釣りを基本とする漁法による
タイ釣りを専門としていました。
当然、彼らはタイの釣れる漁場を求めて対馬に来て
浅藻を切り開いたわけです。
江戸や明治の漁師は、自らの出身地で行われている漁や
漁法の適用できる土地を、どんどん見つめて拡げていった。



つまり、日本の漁村における
・漁場(どんな魚が獲れるか)
・漁法(どんな漁業技術が見られるか)

を検証していくことで、その漁村を切り開いた人たちのルーツや
その漁村を介する交易ルートが明らかになっていくということ。



とりわけ交易ルートは、日本の漁村の成り立ちに大きくかかわっている。
例えば周防大島のような漁業の盛んな島の集落は、
浦々の集落同士のつながりよりも
集落と遠く離れていながらも交易関係のある他郷の集落とのつながりが
強かったそうです。



交易関係があるということは、
そこに文化や習慣の上での類似点も見られるようになる。
海を介した村と村の交易関係を検証していくということ。
日本のような多くの島々からなる国家の都市、地域を考える上では
非常に重要な視点です。



現代にあてはめて考えれば、
交易ルートは交通手段(飛行機や船)や通信手段(電話やインターネット)は
世界規模に拡がり、つながっています。
従って専門技術者は、言葉の壁さえ超えれば
仕事を求めて世界各地を越境することができる。



現代の非定住民は自分の仕事や技術を介して
世界中の文化をつないでいるともいえるのではないか。
現代都市や現代人の国際移動を考える上では、
人々の民族や宗教、言語に注目するとともに、
越境者の専門技術や、彼らが作り出す産業のありかたに
着目する必要がありそうです。



ところで、日本史に関する議論においては
鎖国などの例をとり、「島国日本」の閉鎖性を主張する言説が
今なお根強く見られます。
誰がこう言いたがるのかは、それはそれで興味深いのですが、
昔も今も、海洋国家である日本は開かれていて、
世界とたしかに繋がっているという当然とも言える事実は
しばしば軽視されてしまう。



もちろん、ある国家や都市、地域の特徴や独自性を追求することは
これらを研究対象とする者にとって、根本的な姿勢であるといえます。
ただ、独自性の追究に固執するあまり、
広域での類似性をとらえる視点を失ってしまってはいけない。
そう思っています。