グレート・ムタVSグレート・ニタ(1999)


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晩夏の神宮にとどろいた、湿ったオナラのような音

 1999年8月28日。新日本プロレス、初の神宮球場興行。「GINGU CLIMAX BATTLE OF LAST SUMMER」と、タイトルも格好いい。だが野暮を承知で言えば神宮のつづりは「JINGU」だし、さらに「BATTLE OF LAST SUMMER」では「去年の夏の戦い」になってしまう。大丈夫か?
 初っ端からダブルで間違っていた神宮大会、そのメインイベントはグレート・ムタとグレート・ニタの「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」であった。
 99年といえば、大仁田厚が新日プロに単身殴り込んで「狙うは長州の首ひとつ!」と吠えていた時期だ。長州力の首ひとつと言いながら、健介に反則負けを喫したり、蝶野と電流爆破マッチを戦ったり、いろいろと寄り道していた。そんな大仁田がテレ朝の真鍋アナを恫喝、あるいは暴行する「大仁田劇場」は『ワールドプロレスリング』のレギュラーコーナーとして、人気を博していた。
 さて長州力に辿り着くまでの当面の敵として、武藤敬司を標的に定めた大仁田。ある日の6人タッグで武藤を大流血させた。武藤はその「化身」たる残虐ファイター、グレート・ムタのコンセプトを大仁田がパクり、グレート・ニタを名乗ったことに、かねてから不快感を露わにしていた。その大仁田に襲われたという屈辱。武藤はいきり立った。「ファック! あいつ、触っちゃいけないもの触っちゃったよ。俺は全力を出す! お前も全力で来い! グレート・ムタ、行っちゃうぞ!」。狂っていた。

(武藤敬司と同じか、あるいはそれ以上に、自分を含むファンの多くはグレート・ニタに苛立っていた。常に顔面を禍々しくペイントした……というか生まれつきそんな顔をしているはずのグレート・ムタは、何しろこの地上に生まれ落ちた悪の権化であった。いっさい言葉を発することなく、その体内から分泌されているであろう毒霧で対戦相手の視界を奪い、それから人間ならざる残酷性を剥き出しにして血祭りにあげた。悪の……あるいは善悪をさえ超越した、圧倒的な混沌の魅力。愚零斗武多、と、その名前を授業中の、また長じてからは打ち合わせ中のノートにしばしば書いた。それだけのスターの、その表層だけを真似る大仁田のことが許せなかった。大仁田は大仁田でいろいろ頑張っていた、それは認めるにせよ、ニタを名乗って奇矯な振る舞いを見せることだけは看過できなかった)

 数日後、「大仁田 大阪南港で遺体引き上げ」との見出しが、東スポ1面を飾った。いよいよムタを出すという武藤に対し、大仁田は(詳細は省くが、何か以前に死んじゃったなどいろいろあって)今や南港に沈むニタを蘇生させようというのである。
 この模様は件の「大仁田劇場」でも流れた。心細げな面持ちで大阪南港に佇む真鍋アナ。そこへ大仁田がやってきた。
 俺は、俺は、俺はこれからニタを召喚するが真鍋、お前にそれを目撃する覚悟があるのか云々、オイ、オイ、真鍋、オイ、などと一方的にまくし立てた後、大仁田は画面から消えた。すると入れ替わりで、夜の大阪湾から白塗りかつヘドロまみれのグレート・ニタ(大仁田厚2役)が、何だか奇声を発しながら現れるのだった。真鍋アナは絶句した。もちろんテレビの前の我々も絶句した。新日プロ初の神宮大会、そのメインイベントとなる試合の前フリがこれであった。実にくだらない。試合形式も決まった。冒頭にも書いたがもう一度書く。なぜなら書きたいからだ。「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」。要はロープ代わりの有刺鉄線に仕込んだ爆薬のほかに、リング下にも地雷が設置されていると。これが時限装置でもって大爆発すると。よくわからないがそういうことらしかった。

 そして迎えた神宮大会当日。そのメインイベントについて詳細に語るつもりが、前提を説明しているうちに紙数が尽きた。しかたないので試合のクライマックスからお届けする。

 「残り時間1分!」。地雷爆破までのカウントダウンが、神宮球場にこだました。サイレンの音も鳴り響いていた。グレート・ムタとニタ、リングから落ちたほうが負けだ! いったいどちらが……と気を揉むまでもなく、ムタの低空ドロップキックを食らってニタが落下した。厳密には自分からゴロゴロと転がり落ちた。そこにはいくつもの地雷がニタを待ち構えていた。球場に集った4万の観客が思わず耳をふさいだ瞬間! 特に何も起こらなかった。ニタがぼとりとリングから落ちただけだった。静寂が神宮を走った。それからバフン、という音を立てて、リングの下で小さな爆炎が上がった。この何だか湿ったオナラのような音が、観客の気持ちを何より雄弁に語っているような気がした。
 その後リングに戻ったニタは、自ら持ち込んだ鎖鎌でムタに脳天をちょん、と突かれてKO負け。勝ったムタは不機嫌に引き上げていき、その後ニタは息も絶え絶えに、花道を這いながら去っていった(その途中でパンパンに膨れたゴミ袋を投げつけられ、普通に立ち上がって怒っていたとき以外は)。
 試合後、大仁田はこの試合でふたたび生命を落としたグレート・ニタが眠るという棺桶にすがって泣いた。その頃、神宮球場を埋めた観客たちは苦虫を噛み潰しながら帰途についていた。

エイリアン4(1997)

 1997年の『エイリアン4』を、シリーズ最高傑作だという声はここ15年で2回ほどしか聞いたことがない。公開当時は微妙な反応が大多数を占めた『3』でさえ「単純にダメな映画というより、いろいろあって残念なことになってしまった作品」という評価がほぼ定着している。『3』には皆そうやって同情的な、優しいまなざしを向けるくせに『4』のことは大多数がフフンと鼻で笑う。中にはふざけるんじゃねえ、何だあの映画と激烈な反応を見せる向きもいるが(詳しくは後述)、大方の場合「ああ……アレね」と流されてしまう。酷い扱いである。

 『エイリアン』シリーズは足かけ14年続き、92年の第3部で完結した。しかも主人公の自決という、ぐうの音も出ない終わり方で。それでもまだやれると、続行の号令がかかる。シガーニー・ウィーバーのリプリー続投でまだまだ行くと。そのニュースには誰もが「えっ?」と言った。彼女は溶鉱炉に身を投げて蒸発したじゃないのと。いったいどうするつもりなのかと思っていたら、リプリーはクローンとしてあっさり復活することになった。

 『エイリアン4』の舞台は前作から200年後。軍の宇宙船オーリガ号で、エレン・リプリーが蘇る。あっという間に赤ん坊から中年女性にまで成長した彼女は体内に宿したエイリアン・クイーンの幼体を取り出される。これを成体にまで育て、さらにエイリアンを養殖しようというのが軍の恐るべき計画だった。かつてこの完全生物と戦って死んだ、その記憶が前世から残っているリプリーとしてみれば何をバカなことをと、みんな殺されるわよと鼻で笑う。そしてその通りになる。

 その前に、エイリアン培養の宿主となる可哀想な労働者たち(どこかで冷凍睡眠中のところを拉致したらしい)を運んできた密輸船のクルーが紹介される。恐ろしくドスの利いた声で喋る船長。ドレッドヘアを生やして両袖に『タクシー・ドライバー』ばりの2丁拳銃を忍ばせたクリスティ。ゴリラというか類人猿に近い巨漢ジョナー(『ヘルボーイ』ことロン・パールマン)。車椅子に乗ったヴリース。いずれも素晴らしく悪い顔をしている。美少女コール(ウィノナ・ライダー)も乗ってはいるが、それだけではどうにも埋め合わせようがないほどに人相も素行も悪いゴロツキの群れだ。

 リプリー復活からこれら魅力的な登場人物の紹介を経て、そしてエイリアンの暴走まで映画は最短コースを疾走する。死んだ主人公を生き返らせて物語を再開させようというアホみたいな前提を、おかげで観ているこちらは疑う間もない。シリーズ最短の109分、培養されたエイリアンたちがとうとう檻を破ってからは完全にノンストップだ。

 エイリアンを積んだ宇宙船は地球に向かっていた。これを止めなければ地球は怪物の巣に変えられてしまう。リプリーとゴロツキたちは直径3kmにおよぶオーリガ号を縦断して脱出、その後宇宙船を爆破しなくてはならない。簡単に言ってしまえば本作の物語は以上だ。観直すたびにその一直線なストーリー展開に驚かされる。

 本作のリプリーはもはや人間ではない。クローンによる再生の結果エイリアンとDNAレベルで結合、超人的な体力を持ち、体内には酸性の血液が流れる化物になってしまった。制御できるはずのないエイリアンを飼い馴らそうとして逆襲され、死んでいく人間たちを、彼女は常に冷たい眼で眺めている。だが怪物のDNAと同時に、人間としての記憶もリプリーには確かに残っていた。エイリアンを倒し、人類を救わなくてはならないと本能に刷り込まれていた。だから地球へのエイリアン到達を阻止するために戦う。

 そんな彼女がクローン技術によって蘇るまでには7回の失敗があった。ホルマリン漬けにされた出来損ないの奇形児たちが、人間ともエイリアンともつかない奇怪な姿を晒している。それに怪物のような姿を晒しながらまだ生かされている「リプリー7号」。脱出行の途中、ご丁寧に保管されていたそれらを目の当たりにしてとうとうリプリーは感情を爆発させ、自分自身の失敗作を泣きながら焼き払う。

 その間にもエイリアンの群れは主人公たちに迫っていた。水没した食堂を泳いで渡り切った一行だが、しかし長い垂直な梯子の上でエイリアンに追い詰められる。半身不随のヴリースを背負って必死に梯子を上るクリスティに、水中から飛び出したエイリアンが迫る。エイリアンの吐き出した酸を顔面に受け、思わず梯子から手を放すクリスティ。背中のヴリースが間一髪で梯子を掴む。小人が大男を背負う格好になる。絶体絶命のクリスティは先行していたジョナーに助けを求める。低いホーンの音がファンファーレのように鳴り響くなか、梯子に足を掛け、銃を構えた両手を大きく広げてゆっくりと逆さ吊りになるジョナー。「死ね、クソ野郎!」ジョナーが乱射する拳銃の餌食になって弾け飛ぶエイリアン。この「逆さ十字架・2丁拳銃乱れ撃ち」の場面だけを、何度も何度も観てしまう。ここまでのハッタリはシリーズ前3作にはない。このような、言ってしまえばバカみたいな演出が本作に漲っている。

 やり過ぎな演出が最高に光り輝く場面はまだまだある。かつてエイリアンの幼体チェスト・バスターに寄生された人間は誰しも胸を食い破られ、そのまま吐血して死んだ。だが本作での宿主こと、冴えない眼鏡の労働者パーヴィスは映画のクライマックスで信じがたいド根性を見せる。いよいよチェスト・バスターが自分の胸を食い破ってくると悟ったパーヴィスは、自分をそんな目に遭わせた軍の科学者レンに向かって突進。胸に何発も銃弾を浴びながら怨敵に鉄拳を叩き込み、さらには鉄製の階段にその頭をガンガン打ち付ける。その挙句、自分の胸から飛び出してきたチェスト・バスターでもって憎い科学者の頭を貫通させた。哀れなパーヴィスは結局チェスト・バスターもろともに射殺されるけれども、これは巨大企業や軍、あるいはエイリアンにいいように蹂躙されてきた人間がそれらに初めて一矢報いた、記念すべき瞬間だ。この際カメラは想像を絶する痛みに絶叫するパーヴィスに、フルスピードで接近する。その口内に突入するカメラ。喉を通って気管を過ぎ、さらに肺まで至ったところでチェスト・バスターが歯を剥いてケケケと笑う。この異常な描写。

 こうしたビジュアル的な過剰さにおいて『エイリアン4』はシリーズ最強だ。前3作の監督たちは神経質に画作りをし、理詰めで映画を構築していった。何しろ破綻を許さない。やり過ぎない。対する本作の監督、ジャン・ピエール・ジュネはまず画的なケレン味を何より重視する。何もかもが度を超している。演出も暴力もグロテスクさも。本作に登場するエイリアンはどれも過剰にドロドロした粘液にまみれており、地獄のように獰猛な咆哮を上げる。エイリアンだけではない。人間たちも埃と汗と血にまみれて皆ドロドロしている。本作の脚本を書いたジョス・ウェドンは、それまでにシリーズを手がけてきたタイプの監督が演出することを念頭にシナリオを書いたはずだ。だから本作は映像設計もキャスティングも演出も何もかもが間違っているし、全てがあまりに不気味かつ陰鬱で観るに耐えないと後に語っている。

 本作をいい意味でも悪い意味でも(圧倒的に後者において、だが)特徴づけているのはクライマックスに登場する人間とエイリアンのハイブリッド、ニューボーンだろう。世界中のエイリアン・ファンが本作を口を極めて罵る、その最大の理由がこのニューボーンだ。ハイブリッドといえば聞こえはいいけれども、その姿はとにかく醜い。むしろ腐れ果てて白くふやけた、老婆とオランウータンの雑種と呼んだほうがいい。初期の脚本段階のニューボーンは恐ろしくも格好いいクリーチャーだった。4つ足のその巨体は真っ白で、眼のない頭頂部には無数の真っ赤な血管が走っている。エイリアン・クイーンの進化型とも呼ぶべき新種の怪物には、宇宙怪物が本来持つべき美しさがまだ残っていた。

 ところが監督ジュネはこのニューボーンをいかがわしさの権化として描こうと思ったようで、実際その腹部に巨大な女性器と男性器のハイブリッド的な何かを造形させるほどだった(映画の完成後にこれはちょっとやり過ぎだと悟り、ポストプロダクションでその性器部分は削除させたというが)。とにかくこの新怪物がファンの不興を買った。こんな奇形の化け物を歴史あるエイリアンの眷属と呼べるか!と。それだけニューボーンはグロテスクに過ぎた。しかし人間とエイリアンの雑種という存在はおそらく、これらを掛け合わせて新種を作った人間の醜い心性の象徴であったはずだ。それが恐ろしくもクールな外見をしていてはいけなかった。人間によって造られたこの徹底的に醜い、糞のような化け物がリプリーを母と慕いながら、最終的には宇宙に臓物をブチ撒け、聞くに堪えない絶叫を響かせて死んでいく。その姿も死に様も実に汚らしい。しかし、だからこそリプリーも辛くて泣くし、観ているこちらもあまりのことに開いた口が塞がらなくなるのだ。このニューボーン・エイリアンが仮にウェドンの構想したような、凶悪ながらも美しいモンスターであったなら、映画はここまで凄まじいものになっただろうか。

 異常にハイテンションな地獄絵図が全て終わり、実に200年強の時間を経て、リプリーはとうとう地球に帰還する。クローンだから本人ではないじゃんとか、リプリー自身でさえも「地球に来るのは初めてだし」と言っているとか、そういう野暮なことはこの際言いっこなしだ。とにかく自らの命を賭してエイリアンの地球圏到達を阻止しようと戦い続けてきたリプリーが、途中で一度死ぬという大敗を喫しながらもようやく勝った。ここから始まる新しい物語を観ることは遂に叶わなかったわけで、そのことは実に惜しいと言わざるを得ない。が、さんざん蛇足と言われた本作が実は人間性の勝利を描きながら、見事にシリーズを完結させたことは大いに評価されるべきだと思う。

ターミネーター : ニュー・フェイト (2019)

 ご無沙汰しております。ご無沙汰している間に新しい『ターミネーター』が公開されてしまいました。4年前にもここでシリーズ第5作『ターミネーター : 新起動』について、飲み屋の酔っ払いみたいな様子でアレコレ書いたものです。せっかくなので今回もシリーズ最新作にして『ターミネーター2』の続き、『真(チェンジ!)ターミネーター3』こと『ターミネーター : ニュー・フェイト』に関して、飲み屋の酔っ払いみたいな様子で書いておきたいと思います。

 

 

この先、本篇を死ぬほどネタバレしています。ご注意ください!

 

 

 さてこの『ニュー・フェイト』。『ターミネーター2』を最後にシリーズを離れた本家本元の創業者、ジェームズ・キャメロンが製作総指揮で帰ってきて、3・4・5を丸っと抹消してまったく新しい物語を始めます、と。『ターミネーター』と聞けばどんな内容だろうが映画館にアイルビーバックしてしまうこちらとしてはですよ、そりゃ何をおいても駆けつけないわけにはいかないし、ここまでブチ上げるからには予想を完全に上回る何かがあるんだろう、あるに違いないと思ったわけです。

 そして劇場から出てきた俺の胸に浮かんだ言葉。それは「あ……新しくない!」ということでありました。

 というか未来からやってきた殺人ロボから逃げる、というお話を(第4部を除いて)延々繰り返しているのが『ターミネーター』シリーズの楽しみであって、別に新しくなくともそれは全然構わないのですが、ただ今回は創業者が帰ってきて「ワシのいない間に作った分は全部ナ~シ!」と言ったわけじゃないですか。どこの誰が作ったか知らんが全然分かっとらん、やり直し! という話で。何だかんだ愛する第3~5部をなかったことにされるのは納得いかないけれども、本家がそこまで言うなら……と思ったわけです。もしかしたらこれぞ『ターミネーター』! というものを見せてもらえるかもしれんし、キャメロン不在期間中の作品を毎度観てそこそこ、いや結構感動していた自分の不明を恥じることになるかもしれん。しかし蓋を開けたらどうだったかといえば、それがまさにさきほど書いた「あ……新しくない!」ということになります。

 映画は『ターミネーター3』、『4』と『新起動』を全部無視しつつ、実はそれらが登場させた新要素をちょいちょい摘まんで物語を構成しています。金属製の骨格にリキッドメタルのガワを被った新ターミネーター(T3)、人間だか機械だか判然としない新キャラクター(4)、すっかりジジイになったT-800の悲喜こもごも(新起動)、などなど。存在しなかったことにされながら、個々のイノベーションだけを本家に収奪された過去作が気の毒な感じになってくる。今回はスカイネットも既になく、「審判の日」も回避された世界ですから、じゃあどういう強敵とか危機が現れるのかといえばですよ。従来とは違う経緯でやっぱり人類は滅びて、スカイネットとはちょっと違うけどけっこう同じ人工知能が地球を支配していると。まあそういうことで納得してください、と言う。こちらとしたってどんなものでも飲み込んだろうと思ってますけど、にしてもちょっとねえ。工夫がなさすぎるんじゃないすか。と言わざるをえない。しかもそのうえに配置された各要素がですよ、さきほど並べたように過去作から持ってきたものとあっては。ねえ……やはり3作品が気の毒でならん。

 気の毒といえばシュワルツェネッガーもそうで、この人はキャメロンもリンダ・ハミルトンも去ったあとで第3部とか5部に頑張って出演していつものことをやり、そのたびに一部からよくやるよと嘲笑されてきたわけです。リンダ・ハミルトンにおいては『T3』の脚本を読んだものの、「ドラマがないから」という理由で出演を拒否したというエピソードもある。あったじゃん!ドラマ!何を読んでたの!節穴か!まあそれはともかくハミルトンが今回28年ぶりに重い腰を上げてくれたので、シュワルツェネッガーはクレジット1番めを彼女に譲ってですね。タイトル前にアーノルド・シュワルツェネッガーの名前がまずドバーン!と出てくる時代ではもうないんだな……と思って、寂しい話ではありますけど。ただ何か本当に必要だったのだろうかT-800。という役回りでですね。いろいろ上手くいってれば何でもいいんですよ。だけどその何か……ねえ!

 ていうか映画が始まるなりこりゃ新しくないなあ、と思ったのはですよ、ジョン・コナーが出てくるなり死ぬじゃないですか。コナーが死んでる、というのも『T3』で通った道で、あっちで亡くなっていたのはサラ・コナーのほうでしたけど。今回はジョン・コナーが死にました。どっちか死なないとお話を先に進められないのか。ていうか初っ端で前作の主役級が死ぬ!という展開を見ていて、まるで『エイリアン3』みたいだなあ、と思いましたけど、『エイリアン2』の監督キャメロンはたぶん同『3』を観てカンカンに怒ったんじゃないかと思うんですよね。俺のキャラクター殺しやがって、みたいな。本当のところは分かりませんし、これは俺の超憶測ですけど。だけど同じことを自分でするんだもんなあ。いいのかなあ、と思いました。

 あとやっぱりシュワルツェネッガーの扱い。というかT-800の扱い。じつは今回、映画を観にいく前日に、一足早く本作を観た高橋ヨシキさんから「ターミネーターは放っておくと自我に目覚めていい人になるの?じゃあ命を狙われても20年ぐらい逃げ切れば仲良しになるんじゃないか?」と聞かれてですね。何を言ってるんだろう、そんなことあるわけないじゃないすか、と思いながら「『T2』でもプログラムをいじって感情を身につけるようになったじゃないですか。そういうことじゃないですかね?」と返した。ところが翌日になって映画を観てみたらですよ。プログラムの改変も何もなく、本当に野良ターミネーターになってしばらくしたら勝手に自我に目覚めて、世のため人のために生きるようになったと。あるわけのないことがあってしまった。まあジョンを殺したT-800とサラ・コナーのその後の確執というドラマのためには必要なセットアップだったかもしれんですが、じゃあそのへんの理屈を!しっかり!説明しなさいよ!ろくな説明もなく、これはこういうことだと飲み込んでくれ、と言われても困ってしまう。もちろん老ターミネーター(4年ぶり2回め)に扮したシュワルツェネッガーはよかったです。が、だいたい俺がシュワルツェネッガーを腐すわけはないので。

 何から何まで文句をつけたいわけではなく、サラ・コナーの貫禄なんかは28年待った甲斐がありましたし、あと新キャラクターの戦士グレイス(マッケンジー・デイヴィス)は素晴らしかったですね。未来から裸一貫やってきてですね。無理な肉体改造が祟ってすぐ具合が悪くなるんですが、フラフラになりながらも必死に頑張ってですね。サラ・コナーやT-800はオマケ的に出しといて、本筋はこの人だけでよかったんじゃないかと思うぐらいです。というか今回の映画では『フォースの覚醒』的に世代交代が行われて、新『ターミネーター』サーガへの橋渡しが行われるんだろうな、と予想していたんですね。旧キャラクターたちはそれぞれにいいところを見せてオールドファンを満足させつつ、ハン・ソロやルーク・スカイウォーカー的に退場していくのだろう、と。ところが新登場のグレイスさん、さんざ頑張った挙句に尊い自己犠牲でもって死んでしまうじゃないですか。しかも腹から電池をえいやと出してですね、これで敵ターミネーターにとどめを刺すという。だから!それは!『T3』で!やった!じゃん!新しくない!それはそれでまあいいとして(よくないけど)、このグレイスさんが感動的に果てるわけですが、そのすぐ後にシュワルツェネッガーが同じように自己犠牲を払って機能停止するという場面があるので(4年ぶり4回め)、新しいお姉さんの最期がまあちょっと、いやむしろまるで盛り上がらない。ていうか同じ役割のキャラクターがふたり、ほとんど間を置かずに同じように死んでどうするんだと。しかも新しいほうが先に死んじゃった。これで世代交代という話は何となく有耶無耶な感じになります。まあでも新救世主たるダニーさんが生き残りましたんで、ここから満を持して新しい物語が始まる……と思いきや、旧救世主の母サラ・コナーもまんまと生き残りますね。言っちゃ悪いですけど、サラ・コナーの物語やキャラクターはもうこれ以上広がりようがないと思うのですが……。まあ未来からきたグレイスさんは亡くなってしまいましたが、劇中の現在における彼女は健在なので、厳密には死んだわけではない。ので、今後も出そうと思えば全然出せるんでしょうけど、だとすると未来からやってきて死にました、というドラマはちょっと、いや相当薄味になってしまったな、と思わざるを得ない。

 

 結論としてはこれがアリなら『ターミネーター : 新起動』だってアリじゃん、ということです。見どころはたくさんありますが、総体としてのヘッポコ具合は『新起動』とどっこいどっこいなんじゃないかというですね。短いドラマを間に挟んで、あとはひっきりなしに大破壊アクションをやっていた『T3』なんかもっとアリじゃないか(最新作はドラマパートが毎度長く、そこが『ターミネーター』シリーズとしてはけっこう問題だと思います)。『ニュー・フェイト』もこれだけいろいろ言わせるんだから悪い映画じゃないんです。ただ事前に聞かされた触れ込みがもろもろよくない方向に作用してしまったのかなという……。本作でもって今度こそ新シリーズを始めよう、という計画は興行不振などもあって先行き不透明ですが、もし今回もまたこの1回で終わってしまった、という話であってもそれはそれで味わい深いことになるのではないでしょうか。終わらない物語……というか、入り口あたりで何度もやり直して全然始まらない物語、というところに何ともしれんSF感もある。ということでキャメロンやハミルトン、およびシュワルツェネッガーが今後どう出るにせよ、新『ターミネーター』がやってきたら俺は観に行くしかないのです。皆さんだってそうでしょう?さんざんブーブー言いましたが、まあそうやって文句をたれるところまで含めて今回は(今回も)楽しみました。ではまた後日。

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よく頑張った

 

シュワルツェネッガー主義

 ご無沙汰しております。ご無沙汰している間に何をしていたかといいますと本を書いておりました。というのは若干嘘で、たしかに本を書きもしましたが、それ以外の時間の大半は昼寝したり夜寝したりしておりました。朝寝もしました。あとはその合間合間にビールを飲んでいました。前回の更新からの2年間をまとめると概ねそういうことになります。

 それはそれとしてわたくしの書いた本が出ます。タイトルを「シュワルツェネッガー主義」といいます。言わずと知れたアクション・スターのアーノルド・シュワルツェネッガー、その人生と作品を一気呵成に振り返ろうという、今までにありそうでなかった本でございます。

シュワルツェネッガー主義

シュワルツェネッガー主義

 

  何でまたこんな本が突如出現することになったのか。皆さんそう訝しんでおられることと思います。

 一昨年のことだったでしょうか。映画秘宝でおなじみ洋泉社の田野辺さんと小沢さんと別件で打ち合わせをしていたところ、そろそろ本でも出してみたらどうか、という大変ありがたいお話をいただきました。ほ、本!

 「わ、わしの名前で本を書いてええいうことですか」「ほうじゃ」「本を……」「こんなもここらで男にならんと、もう舞台は回ってこんど」

 これはえらいことになったと思いました。もちろん自分の書きたいことを1冊書かしていただけるなんていうのは願ってもない話でしたが、願ってもないあまり完全にノーアイディアだった。ライターたるもの著書の企画のひとつやふたつは常に持っておいて、ここぞというタイミングで練りに練ったネタを売り込むとか、そんな準備を常にしておくべし、というかですね。まあ何かその、攻めの姿勢というんですか? そういうプロアクティブな態度が成功の秘訣ですよね。ところが自分の場合は生まれつき怠惰な、じゃなかった、奥ゆかしい性格をしているものですから、まあ~そんな著書の企画を持っとくなんてことは。ねえ……。

 しかしせっかくいただいた機会に「いや~、どうもネタがありませんで……」ゲヘヘ、とか言って頭をかくわけにはいかないじゃないですか。少なくともこいつには何かあるんじゃないかと声をかけていただいているわけですから。そこで何だこいつ、空っぽか! と落胆させてはいけない。なのでこりゃあ間違いないというビッグアイディアを披露したいが! そんなものはない! どうする!

 その刹那、俺の脳裏にある男の顔がよぎった。小学生の時分からずっと追いかけてきたあの男の顔が。「シュワルツェネッガー……」。俺は口を開いた。アーノルド・シュワルツェネッガーで1冊というのはどうですか。

 一瞬、沈黙が流れた。ような気がします。シュワルツェネッガーもたしかに一時代を築いたアクション・スターであることは間違いない。とはいえ、その主演作品には何をどう語ればよいものやら見当もつかないものもある。むしろそんな映画ばかりかもしれない。同時代……というかちょっと先輩の筋肉スター、シルヴェスター・スタローンは映画作家としても鳴らしているから十分語りどころはあるだろうが、しかしシュワルツェネッガーで本1冊が成立するのだろうか。数秒間の沈黙からはそんな疑問が伝わってきたし、実のところ俺もまったく同じことを考えていました。じゃあ提案するなよ!

 しかし逆に考えればその沈黙、その疑問こそが、いまあえてシュワルツェネッガーの本を世に問う最大の理由でもあると言えはしまいか。不世出の大スターであるにもかかわらず、ごく少数の例外を除けばその作品について真面目に顧みられることはほとんどないわけです。でしょ? その例外たる『ターミネーター』および『ターミネーター2』にしてもどちらかといえば監督ジェームズ・キャメロンに関する文脈で語られるし、『コマンドー』なんかに至ってはほぼネタ的に消費されているに過ぎない。

 結局のところ、シュワルツェネッガー主演作品のほとんどは旬を過ぎた特盛ハンバーグ定食みたいな扱いしか受けていないのではないか。そういう何だかよくわからないものが大当たりした時代もあったよね、今となっちゃアレだけど、と。しかし百歩譲って馬鹿しか食わない特盛ハンバーグ定食であったとしても、ある一時期には数百万、数千万のオーディエンスがその馬鹿なメシに群がってうまいうまいと食っていたことは疑いようのない事実なわけです。

 凄い顔、凄い肉体と凄い名前。あと凄いオーストリア訛りの英語を喋る。そういう変な男に、なぜ人は(とりわけ自分は)そこまで惹かれたのか。そんな男の映画が、かつては本邦でも1000人収容の大劇場でドバーンと封切られていたのに、いまでは毎度毎度日本公開さえ危ぶまれる状況になっている。なぜ、あれだけ評判を呼んだものがいつしか凋落してしまったのか。考えてみればわからないことばかりなわけです。それを掘ってみる価値は十分以上にある。はずだ!

    それに何より1973年生まれの自分からしてみると、たとえば『ロッキー』といえば『ロッキー3』だったわけです。わかりにくいかもしれませんが、つまりスタローンはもう既にそこにいたと。対するシュワルツェネッガーに関しては、この何ともしれん存在感を持った男が82年に『コナン・ザ・グレート』でいきなり躍り出てきた瞬間に、当時9歳の俺は居合わせていたんですね。それからずっとリアルタイムで玉石混淆の(どちらかといえば石が多めの)主演映画を最前線で目撃し続けてきた。そうやって同じ時代を生きてきた人間の誰かがこのスターの栄枯盛衰を記録しなくてはならないし、そうすることで見えてくるものがきっとある! はずだ! たぶん!

 みたいなことを思いつきで力説しているうちに何となく骨子が固まりまして、いったい何を言っているのかわからんがとにかくやってみろとの大英断をいただいてですね。それからは来る日も来る日もシュワルツェネッガーの映画を観直して、その製作背景を調べ上げつつ、これはいったい何なんだと考え込む日々が続きました。なかには観るのもなかなかつらいものもありましたが、ともあれ約30本の主演映画についてはそれぞれの成り立ちを含め、すべて真面目に作品論を書かしていただきました。『コマンドー』や『トータル・リコール』といった重要作品、それに『ラスト・アクション・ヒーロー』などの問題作についてはそれぞれまるごと1章を費やしています(『ラスト・アクション・ヒーロー』、略して『ラヒー』について25ページ書いてある本は日本中探してもこれだけのはずです)。

 もちろんその生い立ちから、映画スターとして地位を確立する以前のボディビルダー時代、それにカリフォルニア州知事時代を経て現在に至る破天荒なキャリアについても時系列で追いかけております。ご存知の通りシュワルツェネッガーの俳優としてのキャリアは90年代後半から下り坂になりますし、また近年は私生活においてもいろいろありましたゆえ、本書も後半になればなるほどつらい話が多めになってきますが……。

 ともあれ何度か死にそうになりつつ、書けることは全部書きまくっていたら約300ページの分厚い本が出来上がってしまいました。どこをどう読んでもシュワルツェネッガーのことしか書いていないという、こんな異常な本が出ることは今後おそらくないかと思います。18輪トラックが川に落ちた事故でも目撃する感じで、カジュアルにお手に取っていただければ幸いでございます。シュワルツェネッガー案件では思いがけずラジオに出していただいたりして(2回も呼んでいただきました)、だいぶやり切った感があります。この後何を書いていくかについてはいろいろとアイディアがなくもないですが、すべてはこの本がバカ売れしないことには始まらない話でございます。ぜひよろしくお願いいたします。

 

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Montana

 ご無沙汰しております。ご無沙汰している間に流行りのツイッターなるものをダラッと見てますと、俺の好きなフランク・ザッパに関するこういう話がときどき回ってきてですね。

 何だかアーティストの名言というやつですね。愛だ平和だというメッセージを音楽に込めるのは馬鹿げたことだと、そうフランク・ザッパが言ってたらしいぜ。どうだ! と。そんな感じで10,000人ぐらいにシェアされているようです。音楽や何かにいろいろ難しいこと面倒くさいことを持ち込むのは格好悪いことで、娯楽は娯楽として楽しむがよし。そういうメッセージを代弁してくれて、ある意味胸がすく感じなんでしょう。たぶん。ふーん……と思いますけども、問題はこの「名言」が実はデマだということです。

 デマというのは正確じゃないかもしれません。後半部分のザッパ発言は確かにザッパ本人が言ったとされていることです。しかし前半の質問部分が明らかに後付けの捏造であると。

 真相はこうです。80年代半ば、ロック音楽が青少年に悪影響を与えているんじゃないかということが米国で盛んに言われたことがありました。暴力だとかセックスだとか、そういうロクでもない題材を扱った音楽の流通にはこのさい制限をかけたほうがいいんじゃないかと。後の合衆国副大統領アル・ゴアのパートナー、ティッパー・ゴアが率いる団体、PMRCがそういう主張を始めたんですね。この動きに対してフランク・ザッパを始めとするミュージシャンが昂然と異を唱えます。子供に何を聴かせるかはまず周りの大人が判断すべきことであって、いきなり十把一絡げに流通制限をするんじゃそれは検閲というものだろうと。表現の自由はいったいどうなるんだと。だいたい青少年の頭がおかしくなるのを、すべて彼らが聴くもの観るもののせいにするのはどうなんだと。そういう文脈で出てきたのが「私はデンタル・フロスについての歌を歌いましたが、それで誰かの歯が綺麗になったんでしょうか」というザッパ発言だった。青少年に対して音楽が影響を云々というのは馬鹿げた話なんじゃないですかということですね。これは1985年9月19日、PMRCの音楽規制問題に関する公聴会での発言か、あるいはそれに先立つ同年5月5日の声明文における発言と言われています。明確な引用元をズバリ出せないのが歯がゆいところではありますが、同時に冒頭に引いた「名言」なるものに関してもソースはどこにもない。だとすると、そんな不確かなものを錦の御旗みたいにして「娯楽にメッセージはいらない」という主張の裏付けにするのは、そりゃどうなのよと俺は思うわけです。
(それはそれとして娯楽作品が一部の人に与える影響、ということに関してはちょっと俺にも思うところがあるのですが、それについてお話しすると長くなるのでまた後日)
 と、ここまでダラダラ書きましたけども、この件に関しては下記のように、非常に素晴らしい論考を書かれた方が既におられます。
「デンタルフロスの歌を歌ったんだが、お前の歯は綺麗になったか?」はビートルズに対する皮肉ではない件について | スミルノフ教授公式ウェッブログ「デンタルフロスの歌を歌ったんだが、お前の歯は綺麗になったか?」はビートルズに対する皮肉ではない件について | スミルノフ教授公式ウェッブログ
なので今さら俺から言うようなことも特にないんですが、まあでも同じ話がひとつよりはふたつあったほうがよかろう。ということでもうちょっと続けます。

 件の「名言」に関して厄介なのは、フランク・ザッパが確かにヒッピー文化的なものに対して批判的だった、という事実があることです。なので前後をいい感じに編集した発言に変な信憑性が出てきてしまう。
ザッパにはたとえば"Flower Punk"(1968年)という曲があって、そこでは

 よう、お前 そんな花なんか持ってどこへ行くんだよ?
 - ええと、フリスコに行ってサイケデリック・バンドに入るの
 よう、お前 そんなバッジつけてどこへ行くんだよ?
 - ラブ・イン(ヒッピーのデモ)に行って泥の中でボンゴを叩くの

 みたいなことを言ってですね。お前らいろいろやってるようだが、そりゃ結局のところいったい何なんだと。確かにちょっと寝ぼけた感じのヒッピー文化には非常に冷ややかな目を向けていた。だからそこだけ切り取ってみれば、いかにも先の「名言」にも説得力めいたものは出てきますね。
 または"Oh No"(1970年)という歌もあります。
 とんでもねえ、俺は信じやしないぜ
 お前が愛の意味を知ってるだなんてよ
 愛こそはすべて、とお前は言う
 どんなアホも憎しみも、愛でもってすべて解決できるんだと
 頭がどうかしてるとしか思えないな

 愛だの平和だの実にくだらない話だと、やっぱりフランク・ザッパはそんなことばっかり言ってたんじゃねえかと思われてもしかたない流れです。ただここでそろそろ出しておきたいのはフランク・ザッパとマザーズ・オブ・インベンション、66年のファースト・アルバムです。『フリーク・アウト!』ね。

Freak Out!

Freak Out!

Amazon
そこに"I'm Not Satisfied"という歌があって、

 行く場所がない
 ひとりで通りを行ったり来たりするのにも飽きてしまった
 誰かに与えるような愛なんてものも俺には残ってない
 いろいろやってみたが、みんな俺のことが気に入らないんだとよ

 みたいなこととか、あるいは"You're Probably Wondering Why I'm Here"という曲では、

 不思議に思ってるんだろう、何で俺がここにいるのか
 俺もそう思ってるよ、俺だってな
 なぜ俺がこの場所にいるのか、お前が不思議に思ってるのと同じぐらい、
 俺もお前がどうしてそんなにバカっぽい面をしてるのか理解できない
 毎朝おんなじように目を覚まして、そのへんの通りでお友達に会う
 頭にスプレーか何かして、いい感じだと思ってる
 そんなお前の人生はまったく穴だらけだが、まあ俺の言うことでもないか
 俺はギャラ貰ってここで演奏してるだけなわけだし

 といったことをさんざん言っていてですね。まあどうでしょうか、この居場所のなさ。どこへ行っても何だかアホらしい、と眺めているしかない感じ。俺は高校生ぐらいの時に、こういう心境に本当にグッと来てですね。分かるわあと思いながら全寮制の部屋でこれらをひとり黙って聴いていたわけです。まあ俺の話なんかは別にどうでもいいんですけど、ことフランク・ザッパという人に関して言えば。つまり世の中のどこにも自分がうまくフィットできるような場所がなかったんでしょう。あるいはフィットしに行く気もなかった。初期作品なんか聴いてますと特にそんなことばっかり歌っている。それはたぶん、この人が誰よりも非常に強烈に個人であったからだろうと思います。それがために、どんな文化ないしムーブメントにも乗れなかったんだろうと。髪切って真面目に就職することはもともとできないような、そういう人からしてみるとですね(実際、髪切ってレコーディング・スタジオ経営を始めてみたらFBIが乗り込んできて、録音素材を全部押収されたという事件さえあった)。だからやれ平和だ愛だというヒッピー文化にしても、はっきり言えばそれは新たなコンフォミズム、画一化のひとつでしかなかったわけです。つまりみんなで似たような格好をして、似たようなことを主張して、みんなで特定のお作法を守ってですね。周囲と違ったことを言うような人がひとりでそのへん歩いてればそりゃ異質なものとしてブッ叩かれるかもしれないが、それが衆をなせば特に異質でもなくなるわけですよね。だけどそうやってひと固まりになった結果として、誰しも個を失っていく。それは世間が押し付けてくるような、いいからみんなと一緒のことをしなさいという有り様と何が違うんだと。しかもそうやって何か形になったっぽいことをして、いずれそれにも飽きてですね。そのうちみんな元いた定位置に戻っていくんじゃないのかと。それが結局いったい何になるんだと。だとすれば、そんなことよりそれぞれが個人として好きな格好をして、いつまでも何か気に入らねえなあ! と言い続けたほうがいいんじゃないのかと。つまり異質なものとしてあり続けるべきなんじゃないかと、フランク・ザッパが言わんとしたのは明らかにそういうことだったと理解しているわけです。

 「デンタル・フロスについての歌」というのは73年の『モンタナ』のことで、これはワシゃモンタナに移り住んでデンタル・フロスを栽培するんじゃ、という意味があるんだかないんだか分からない(たぶんない)曲です。

 確かにオッサン何言ってんのという、歌詞なんかはアタリだとしか思えないような、純粋に音楽的完成度を追っていた場合もありました。ありましたし、それはそれでもの凄い仕事だったわけですが、その後80年代に入ってからは。カネ儲けばっかり考えているレコード会社、アホなことばかり並べてとにかく言うことを聞かせようとしてくるレーガン政権に宗教右翼、それに件のPMRCが導入しようとしていた検閲制度などなど、その手の個人の自由を抑えこもうとしてくるような、ありとあらゆる勢力に対する直接攻撃をですね。いよいよ音楽でもって仕掛けていくことになるわけです。たとえばこのビデオなんか観ますとレーガン大統領を電気椅子に座らせてですね。

 まあ偉い勢いがあった。怒ってるなあ! ただコレは別にだんだん歳とってきて急に政治的になっていったわけでも何でもなくて、実は60年代後半から一貫して同じことを言ってるんですね。つまり個人が個人としてあることに横槍を入れてくる連中はどうあっても許すわけにはいかん。どこの誰とも知れんアホに管理されてたまるものかと。そういうことをずっと言い続けた。それは歌詞のある歌であろうとインストゥルメンタルであろうと全部そうだった。だからキャリアのどこを切っても変わらずに超かっこいいわけです。

 ということを踏まえて例の「名言」をもう一度読んでいただければ、俺がコレに対して抱いた違和感、さらにそれが「何かいいこと言ってる」的に引用されることに対する苛立ちといったものが。多少はお分かりいただけるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 既にガセ……というかいいように編集された言葉である、ということで決着のついた話に俺がガタガタ付け加えるのは完全に蛇足もいいところでしょう。が、フランク・ザッパも最近じゃ遺族がいろいろ揉めたり、とかく大変な感じになってますんで。

http://www.rollingstone.com/music/news/zappa-family-trust-threatens-dweezil-zappa-over-band-name-20160429

せめていま一度誤解は解いておいたほうがいいんじゃないかということで、いろいろと書かしていただきました。それではまた後日。

Imaginary Diseases

ご無沙汰しております。ご無沙汰している間には花粉症でさんざんハナを垂らしたりしておりました。今日はメンテナンスのつもりでこれを書いております。ので、そんなに書くことはないのですが、そういえば先日ふと思い立って『吾輩は猫である』なんかボンヤリ読み返しておりましたら

呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする

という一文があって、何だか知りませんが非常にグッときましたですね。みんなやって来てさんざん酒盛りをやった後、お客さんは帰ってしまって何とも寂し〜い感じになってですね。猫ちゃんが何かもう死ぬしかないなあみたいな気分になって、しょうがないので台所かどこか行って宴会の残りのビールを飲んでみたらすっかりいい気持ちになってですな。千鳥足で歩いていたら水甕にはまって死んでしまうという。最後は「ありがたやありがたや」とか言うんですけど、ありがたやじゃねえよバカ!というですね。どうも漱石はときどきグッとくるフレーズを繰り出してきますね。「可哀想たぁ惚れたってことよ」みたいな台詞もあった気がしますね、何だったか忘れましたけど。アレもよかったですね。ともあれ「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」というね。俺も今後はますます呑気に見えていきたい。そして心の底で悲しい音をさせていきたいと思いますがどうでしょうか。

Maggie (2015)

ご無沙汰しております。と書くのも白々しいほどの連続更新、いったい俺の身に何が起こったのでしょうか。このさいはっきり言いますが単なる現実逃避です。

さて、先日家に帰ったら米アマゾンからブルーレイが届いておりました。普段は何が届いたところでフーンとか言って本棚に投げ込んでおしまいです。遠足は家に帰るまでが遠足だと言いますが、輸入DVDは頼んだものが家に届いたところまでが輸入です。むしろ届いたものを観たら負けだと思っている。輸入DVDとかブルーレイとはそういうものです。しかしこの日ばかりはそういうわけにはいかなかった。なぜかといえば届いたのがアーノルド・シュワルツェネッガー最新作だったからです。

改めて解説するのもアレですが、シュワルツェネッガーも一度は政治家になるとか何とか言って俳優をセミリタイアした男です。政治家転身前の最後の仕事『ターミネーター3』(2003)は、まあ俺は好きですが(というかシュワルツェネッガー主演作で嫌いな映画なんか俺にはないわけですが)、しかし世間的にはうんこ以下という評価を受けている作品であった。そういうたいへん微妙な映画を最後っ屁的に放ち、みんなを何とも言えない心持ちにしたまま政界に消えた。これでもうあっちの世界の住人になってしまったんだな、シュワルツェネッガーも……と淋しい気持ちになりつつ、まあでもおそらくオーストリアのド田舎から出てきたその日からワシャ世界を獲るんじゃと、そんな野望を持っていたわけですから。それはそれで応援してやるしかない。俺はこの場所に留まって、これまでに御大が残してきた作品を宝物のように大事にしていくしかない。たとえそれが『ラスト・アクション・ヒーロー』とかそういう寝小便以下の作品ばかりであったとしても。早くも何を書いているんだか分からなくなりましたが、とにかくシュワルツェネッガーと決定的に道が分かれたなあ……と痛感せざるを得ない瞬間がかつてあったわけです。彼はいずれ大統領になるかもしれない。御大がそうやってサクセスロードを驀進する間に俺はまあ何だ、えーとラーメンとか食ったりするのだろう。とにかくこうなったらそれぞれの人生を生きるしかない。そう思った。
ところがシュワルツェネッガーは帰ってきた。詳細はまたいずれお話ししますが、いろいろあって政治家としてのキャリアが終わってしまったので、まあ俳優として帰ってきてしまった。誰もが羨むような家族にも一気に去られて、去られただけならまあいいがたぶんお金とかも入れなきゃいけない感じになった。しかも結構な額を。
そういう状況で、シュワルツェネッガーがさあどうするかと言ったらもう映画に出るしかない。そうやって復帰して以降の作品群には、実は外れがないわけです。いろいろ出てますけどいずれの作品も確かな満足を与えてくれる。『ジングル・オール・ザ・ウェイ』とか出ちゃって、観ているこちらも思わず死にたくなってしまったようなシュワルツェネッガーはもういない。心を入れ替えて、何かが吹っ切れたような感じでアクションの佳作にビシビシ出ている。いろいろ頑張っちゃって偉いなあ! と俺は思います。
これもまた改めてお話ししますが、最新作『ターミネーター : 新起動』だって凄くよかった。まあ中学生が書いたような脚本とかケレン味も糞もないような演出とか、または90年代中盤かと思わざるを得ないような特殊効果とか、問題は数えきれないほどありました。ありましたが、それらをあげつらって映画を腐すのは間違っている! なぜかといえば『ターミネーター : 新起動』はすっかり老いぼれて完全なるポンコツになったアーノルド・シュワルツェネッガーが、老体に鞭打って繰り広げる大活躍を見るための。それだけのための映画だからです。脚本がダメだったよネとかいうような意見にはこのさい冗談じゃないよと言いたい。だいたいみんな傑作だとか言っている『ターミネーター2』だってねえ、あんなの筋立てなんかあってなかったようなものですよ。未来から来た殺人マシーンが大暴れする、さらにはまた別の殺人マシーンと組んずほぐれつの死闘を繰り広げる、それでみんな大喜びしたわけじゃないすか。そう考えれば『ターミネーター3』だって、今度の『新起動』だって殺人マシーンが何かいろいろガチャガチャぶっ壊しながら大バトルを繰り広げているんだから全然問題ないじゃないか。何でみんな『マッドマックス』とか『ジュラシック・パーク』とかの最新作にはやんやの喝采を贈るくせに、新しい『ターミネーター』にはそんなに冷淡なんだ。シリーズ最新作でマックスが大暴れしたりティラノサウルスが大暴れしたら、やったぜ! これだよこれ、と言うくせに今度のターミネーターが大暴れする様にはみんなフフンとか言う。何だよそれ! おかしいよ! そりゃ『マッドマックス』や『ジュラシック・パーク』最新作に比べれば『ターミネーター : 新起動』は映画としちゃド下手糞ですよ。だからってそういうことじゃないんだ。これはもっと何だ、現在進行形のシュワルツェネッガーを見るための、何ていうか橋幸夫ショーみたいなものなんだ。何をバカなことを、と言うなら、たとえば完全に歳をとって適当な演技しかしなくなったメルギブ主演の『怒りのデス・ロード』とか、何かあんまり気は進まないけどギャラくれるって言ったから、という風情のサム・ニールが出てくる『ジュラシック・ワールド』とかを想像してみてほしい。みんながそれでどんなに微妙な気持ちになるか。作り手としちゃそういう結果が見えているからキャストをほぼ全取っ替えして、一から出直したわけですよね。でもシュワルツェネッガーは敢えてそこで出てくるんですよ。何かあの人も昔はよかったけど……ねえ……ジジイになっちゃって……と言われるかもしれないのに。というか誰がどう見たってそう言うしかないのに。この勇気はどうだ。結局ターミネーターかよ、と言われることをあの人は怖れていない。むしろ俺しかできないと思っている。そうは言ったってもう完全にジジイですよ。ねえ。それでもやった。やってみせた。ポンコツのジジイが。手作りのメリケンサックを手に最新最強の殺人マシーンに挑んでみせた。そういう姿に俺は感動しましたよ。と考えれば『ターミネーター : 新起動』のどこを笑えようか。みんなそういうことをですね。もうちょっとよく考えてほしい。いいですか!

と、ある日届いたシュワルツェネッガー最新作『Maggie』についてお話ししようと思ったらつい熱くなり、完全に話が明後日の方向に行ってしまいました。しかたがないのでシュワルツェネッガーがゾンビと戦うこの最新映画についてのお話は明日以降に続きます。わはは!