labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

クラヴィウス『エウクレイデス原論注解』における点の定義の説明

先日のパスカル・シンポでは,とりわけ三浦先生のパスカル幾何学序論」にかんする発表に刺激を受けた.エウクレイデス『原論』およびその系譜の数学史の専門家の観点から,パスカルの「幾何学序論」の重要性をみごとに解析していた.発表原稿には,「幾何学序論」の翻訳もついていた.

パスカルの「幾何学序論」は,パスカルの遺稿の一つであるが,残されているのはライプニッツが筆写したもののみであって,ライプニッツ研究の観点からも,非常に重要な作品である.すでに以前からその存在を知っていたし,いずれ研究しようと思ってDescotes版のGéometries de Port-Royalなども入手していたが,なかなか手をつけられずにいて,すっかり失念していた.その意味でも,改めて課題を思い出す,良いきっかけとなった.

そこで,パスカル幾何学序論」をはじめ,ロベルヴァルやアルノーなど,当時の幾何学の導入がどのようになされているか,改めて関心を持った次第である.三浦先生の翻訳と照らし合わせつつ,原文をちゃんと読んでみることにした.

幾何学序論」では,パスカルはすでに「空間」の概念を幾何学に導入しており,物体したがって立体から面・線・点へと下降する,トップダウン的な定義が採用されていることが示唆されていた.当時すでにロベルヴァルをはじめ,下降的定義が採用されていたようだ.周知のように,エウクレイデスを始めとして,16−17世紀に出版された諸版が点からはじまるボトムアップ的な上昇的定義を通常採用しているので,これは興味深い事態と言える.

ただ,なぜそのような下降的定義が採用されたのか,その理由についてはもっと踏み込んだ検討が必要なように思われた.そこで,従来の研究課題を思い出し,重い腰を挙げて,16−17世紀にかけての数学について,とりわけ点の定義や連続体・空間の定義を中心に,再び調査することにした.

16世紀には,エウクレイデス『原論』の再発見がされ,その後17世紀まで,諸版の出版が相次ぐ.ラテン語に翻訳されたものとしては,とりわけウルビノのフェデリコ・コマンディーノやクリストフ・クラヴィウスのものが重要である.クラヴィウス版は翻訳というより独自の校訂と注解であり,立体論にかんする第XVI巻が付け加わっている.フランス語による翻訳も相次いで出版されるが,版を重ねて普及したDechales版の仏訳が重要である.

Claude François Millet Dechales, Les Elemens d'Euclide, expliquez d’une manière nouvelle & tres-facile, avec l'Usage de chaque Proposition pour toutes les parties des Mathematiques, Nouvelle edition : 1683

そこでのDechalesの点の定義の説明はなかなか興味深いので引いてみる(p. 2).

Le Point est ce qui ne contient aucune partie.

Cette definition se doit prendre dans ce sens. La quantité que nous concevons sans distinguer ses parties, on sans penser qu'elle en ait, est un point Mathematique, bien different de ceux de Zenon, qui estoient tout à fait indivisibles, puisqu’on peut douter avec raison, si ces derniers sont possibles, quoy qu'on ne doute pas des premiers, si on les conçoit comme il faut.

点とはいかなる部分も含まないものである.

この定義は次の意味でとらえなければならない.すなわち,その部分を区別することなしに,あるいはそうした部分を持っていると考えることなしに私たちが認識している量とは,数学的な点のことであり,まったく不可分な量であったゼノンのものとはまったく異なる.というのも,後者が可能かどうかは正当な理由によって疑うことができるからである.対して前者については,それらをそうあるべきものとして認識すれば,疑うことはない.

点の定義を,概念的に問題のある「不可分者」としてではなく,単純に,「数学的点」として捉えよ,ということのようだ.この時代は,やがて微積分が不可分者の幾何学に取って代わる時代にあり,移行期における不可分者に対する懐疑が示されていよう.

点を「いかなる部分も持たない」もの,したがって,「分割ができない」ものであると演繹するのが,通常の理解であろう.ただし,「単に部分をもたない」や「不可分である」というだけでは,数学的・幾何学的な点として十分でないことも,指摘されてきた.たとえば,ライプニッツは,モナドすなわち単純実体を定義して,「単純とは部分がないこと」であり(『モナドジー』1714,§1),「部分がないところには,拡がり(延長)も,形も,可分性もない」(同,§3)と演繹している.したがって,「部分がない」というだけでは,形而上学的点であるモナドも含まれてしまうし,「瞬間」や一部の者たちが定義する「原子」だけでなく,さらにはパルメニデス的な連続的な一なる「存在」も,新プラトン主義的な「一者」や,キリスト教的な「神」なども,この条件を満たしてしまう.

点の定義だけでも,こうしたさまざまな問題を孕むので,エウクレイデスの『原論』は哲学や神学の観点からも注目され,多くの注釈がほどこされてきたのだと思われる.

1574年には,クラヴィウスによっても『エウクレイデス原論注解』が出版され,イエズス会派の学校でも教えられたり,哲学者たちにも広く読まれたようである.そこで,クラヴィウスによる点の定義の説明に注目してみよう.

引用は,

Christophorus Clavius, Commentaria in Euclidis Elementa Geometrica, Opera Mathematica, 1612

の第I巻による.

まず,定義1として,「とは,いかなる部分も持たないものである」と紹介され,以下に注解が施されている.注解では,『原論』第一巻全体の説明がされ,それが「三角形の起源と性質を,それらの角度ならびに辺に関して,われわれに伝えてくれるものである」とされる.先立って注解をしたプロクロスなどにも言及があるが,点にかんして言及されるのは,中盤あたりからなので,前半は飛ばしてそこから粗訳を始めることにする.

Ante omnia vero Euclides more Mathematicorum rem propositam exorditur à principiis, initio facto à definitionibus, quarum prima punctum explicat, docens illud dici punctum in quantitate continua, quod nullas habet partes.

しかし,何よりもまず,エウクレイデスは数学者の流儀によって,提起された問題を,原理から取り掛かり,まず最初は定義から始め,その第一に点を説明し,いかなる部分も持たないものが,連続量における点と呼ばれることを教えている.

ここでは,原理から問題へ,したがって定義から始めると言う「数学者の流儀によって(more Mathematicorum)」エウクレイデス『原論』が書かれていることが説明される.そして,点が連続量において点であることが付記される.

Quæquidem definitio planius ac facilius percipietur, si prius intelligamus, quantitatem cōtinuam triplices habere partes, vnas secundum longitudinem, alteras secundum latitudinem, & secundum profunditatem altitudinemve alteras ;

なぜなら,連続量には三つの部分があり,一つは長さによるもの,もう一つは幅によるもの,そしてもう一つは深さまたは高さによるものであることを最初に理解すれば,この定義はより明白かつ容易に理解できるからである.

ここでは,「部分」というのが点の部分という意味においてではなく,したがって点が全体/部分関係を持ちえないものである,ということではなく,連続量が持ちうる三つの次元,すなわち長さ・幅・深さ(高さ)のことであると解釈されているのが興味深い.言い換えれば,「点はいかなる部分も持たない」とは,「点は次元を持たない」ということであり,点がゼロ次元の存在者だということになる.

quanquam non omnis quantitas omnes has partes habet, sed quædam vnicas tantum secundum longitudinem ; quædam duplices, ita vt illis adijciat partes etiam latitudinis ; quaedam denique, praeter duplices has partes, tertias quoque, altitudinis, siue profunditatis continet.

ただし,すべての量がこれらの部分をすべて持っているわけではなく,長さのみによる量もある.また,二つの部分をもつ量もある,つまり[長さに加えて]幅の部分もそれに追加される量がある.さらに、これらの二つの部分に加えて,高さまたは奥行きの 3 番目の部分も含まれている量がある.

Quantitas enim omnis continua aut longa solùm est, aut longa simul, & lata, aut longa, lata, atque profunda.

なぜなら,あらゆる連続量は,長さのみであるか,長さと同時に幅をもつか,長さ・幅そして深さをもつかだからである.

連続量が,長さのみをもつ一次元の対象(すなわち線),長さと幅をもつ二次元の対象(すなわち面),長さ・幅・深さをもつ三次元の対象(すなわち立体)のいずれかで尽くされることが述べられている.

Neque, aliam dimensionem habere potest res ulla quanta, ut recte demonstravit Ptolemeus in libello de Analemmate, opera Federici Commandini Vrbinatis nuper in pristinam dignitatem restituto, necnon, ut ait Simplicius, in libello de Dimensione, qui quidem, quod sciam, adhuc nondum est excusus.

また事物はある量について別の次元を持つことはできない,プトレマイオスがアナレンマに関する本で正しく証明したように,またウルビノのフェデリコ・コマンディーノの作品が最近以前の威厳を取り戻したように,そしてシンプリキオスが,次元に関する本で,断言したように,それは確かに,私が知る限り,これまでのところまだ作り出されていない.

上より,したがって,四次元以上の幾何学的対象はない,ということが説明されている.クラヴィウスの説明は,数学的な証明にはまったくなっていないが,プトレマイオスやコマンディーノ,シンプリキオスらの先行的研究に依存して,ないし彼らの権威を借りて説明している.

Itaque, quod in quantitate continua, sive magnitudine existit, intelligiturque sine omni parte, ita ut neque longum, neque latum, neque profundum esse cogitetur, (ut nimirum excludamus animam rationalem, Nunc vel Instans temporis, & unitatem, quæ etiam partes non habent) id appellatur ab Euclide, & à Geometris punctum.

したがって,連続的な量,あるいは大きさにおいて,すべての部分がないものと理解されて存在するものは,すなわち,長さも,幅も,深さもないものとして考えられたものは,(もちろん,同じく部分を持たない理性的な魂,時間の「今」または「瞬間」,および一[単位]をわれわれは除外するためにも)エウクレイデスおよび幾何学者たちから,点と呼ばれる.

点とは「連続量,あるいは大きさにおいて」部分を持たないものである,という説明を繰り返して強調し,他の部分を持たない「魂」や「今」ないし「瞬間」,「一」を排除している.幾何学は,連続量したがって大きさに関する学であり,エウクレイデスはあえて説明していないのかもしれないが,クラヴィウスは誤解を招かないように説明を尽くしているのだろう.

Huius exemplum in rebus materialibus reperiri nullum potest, nisi velis, extremitatem alicuius acus acutißima, similitudinem puncti exprimere; quod quidem omni ex parte verum non est, quoniam ea extremitas dividi potest, & secari infinite, punctum verò individuum prorsus debet existimari.

最も細い針の先端のように,何か点に類似するものを表現したい場合を除いて,物質的なものではこのような[点の]例は見つけられない.実際,このことはすべての部分に当てはまるわけではない.その[最も細い針の]先端は,無限に分割したり切断したりできるのであるから,真の点は完全に不可分であるとみなされねばならない.
物理的な点は見出せないことを指摘しているが,これは原子論も復興された近世ではとりわけ重要なところである.デカルトおよびデカルト派,そしてライプニッツであれば,最も細い針の先端とはいえ,それは物理的なものであるから,拡がり(延長)をもち,したがって無限分割可能性を免れない.クラヴィウスは,「真の点は完全に不可分であるとみなされねばならない」として,点を「不可分者」に位置付けている.クラヴィウスは,ライプニッツのように,部分を持たないことから,不可分性を論理的に演繹しているわけではない.しかし,不可分者の概念に訴えることは,Dechalesに言わせれば,ゼノンのパラドクスの問題を想起させ,懐疑的になるざるをえないところである.他方で,クラヴィウスは,「真の点」は不可分でなければならないとしており,不可分性は点概念の不可欠の要件としてある.

Denique in magnitudine id concipi debet esse punctum, quod in numero unitas, quodque in tempore instans. Sunt enim & hæc concipienda individua.

要するに,大きさにおいては点が考えられねばならず,数においては単位(一),また時間においては瞬間が考えられねばならない.なぜなら,これらは不可分者(individua)と考えられるべきものだからである.

数における単位としての「一」や,時間における「瞬間」と同様に,大きさにおいて出発点となる不可分者として,「点」が考えられねばならないとしている.先の説明と合わせると,原理から問題(命題・定理)へという数学者の流儀,したがって,単純なものから複雑なものへという総合の方法の一環として,連続量における不可分者として点が最初に措定されねばならない,という理解が,クラヴィウスにはあるように思われる.

 

 

 

 

 

第11回 国際ライプニッツ会議@ハノーファー参加報告

7月31日〜8月4日にかけて,第11回目を迎える国際ライプニッツ会議に参加した.コロナ禍で延期となり,7年ぶりの開催である.

7月29日土曜早朝出発.富山きときと空港から羽田へ.乗り継ぎ時間が短いのが心配だったが,羽田ではミュンヘン行きの飛行機に無事搭乗.しかしすでに20分遅れでの出発で,ミュンヘンハノーファーへ行く飛行機で懸念していた接続トラブル.ミュンヘンに一泊せざるをえず,現地入りが1日遅れて,日曜夜にハノーファー入りした.ミュンヘン空港のサービスセンターで,長蛇の列を4時間待ったが解決せず,翌朝再び2時間ほど並んで,その日の午後の飛行機に換えてもらったが,その飛行機もまた天候不良か急遽キャンセルになった.ラチがあかないので,電車で行くことにした.ここでもサービスセンターで列に並ぶ.ミュンヘンからハノーファーまで電車で6時間,長い道のりだったが,それなりに車窓を楽しむことができた.

夜7時ごろにハノーファー入り.とりあえず無事に到着して,ようやく安心できた.ハノーファーでは富山よりも気温が10度以上低く,日中は23度,夜は13度くらいで,ウィンドブレーカーを着てちょうどよいくらいであった.3度目なので,多少の土地勘はあり,ホテルまでは歩いて15分程度,モバイルWiFiが便利だが,Google Mapを頼らずともそれほど迷わずに着くことができた.わりと新しくできたホテルなので清潔で,場所も公園前なのでとても静か.国際会議が開催されるハノーファー大学の校舎へのアクセスも徒歩10分以内と良い.どこでもそうだがWiFiのつながりが悪い以外は不満はなかった.毎日,丁寧にタオルとシーツを替えて,掃除もしてくれていた.

月曜日午前に行われた開会式では,その期間に亡くなられたライプニッツ研究者が追悼された.面識のある研究者もいたので,だいぶしんみりとした開始であった.初日は招待公演があり,とりわけクノープロッホの発表は,今回も圧巻だった.前回,私が聞いた発表は,フランス語で発表されラテン語原文を即興で訳すものだったが,今回は英語で発表されラテン語原文を即興で訳していた.なお,氏はドイツ人である.日本ライプニッツ協会の前会長の酒井先生も堪能なドイツ語で「24命題」についての精緻なご発表をされた.流暢なドイツ語で質疑応答もされていた.かくありたいものである.

会議では,個人発表とは別に,各国のライプニッツ協会のセッションが行われ,日本も2つのセッションを執り行った.フランスが最も多く,5つものセッションを開催したようである.北米アメリカ協会からのものはなかったようで,関係がうまくいっていないのか,心配になるが,9月に大会が予定されているので,そのせいもあるのかもしれない.ただ,毎回,北米からの参加者が限られているように思われる.

また,これは例年通りであるが,個人発表もテーマでくくられてセッションが行われ,専門や関心を同じくする参加者が集まりやすいように配慮されていた.私は,日本のセッションや,自身の研究と関連する数学と哲学の関係のセッションや,新しく出版された動力学のライプニッツの著作にかんするセッションに参加した.印象に残ったのは,初日のアルノー・ペルティエの発表で,私の研究関心にもかかわってくる内容だった.実際に対面で当人の発表を聴くことで,きちんと著作や論文を読みたいと思うので,良い機会だった.

私は,最終日の金曜日に行われる,Kraft(力)のセッションでの研究発表となった.最終日ということもあり,直前まで発表の準備に追われて,他の方の研究発表を十分に消化できなかったが,私個人の発表は,質疑も多く出て,充実した発表を行うことができた(発表スライドはこちら).

写真は現日本ライプニッツ協会会長・稲岡氏撮影.

昼食時や会議の合間に,各国のライプニッツ研究者と情報交換をする機会にも恵まれた.とりわけ,Richard Arthurや,David Rabouin,Vincezo De Risi,Siegmund Probst,そしてTzuchien Thoらと久しぶりに再開し,研究や近況について語ることができたことは,今後の研究を進める上でも重要な出来事だったように思う.

日本ではまだ前学期の授業を残しており,会議の期間に予定されていた授業の補講をしなければならなかったため,日程に余裕がなく,会議最終日の翌日土曜日に予定されていたハルツ山見学ツアーには参加できなかったのが残念である.大きな学会がヴァカンスに入った後すぐに予定される場合が多いので,休暇期間もなるべく国際的な基準に合わせてほしいものである.

ちなみに,帰りの飛行機でもチケットが勝手にキャンセルされているなどトラブルがあったが,同じ便で座席をとることができた.ルフトハンザは大規模な合理化と効率化を行ったが,どうも人員をカットしすぎたようで,こうした問題が起きやすくなっているようである.乗り継ぎはなるべく避けて,大都市からは電車で行くようにしたい(それでもストや遅れなどトラブルは日本よりも多そうだが).

途中,飛行機のトラブルなどもあったが,ここまで多くの助けや協力を得て,国際ライプニッツ会議に参加し,無事帰国できたことに感謝する.

(そのうち思い出しては,加筆していく予定)

ルヌーヴィエ(1877)「量の無限についてのノート」(翻訳)

本日発売の『数学セミナー』2023年6月号に,「実数と連続体を哲学する──数学基礎論争の一前史としてのルヌーヴィエの有限主義」と題して寄稿しました.

 
上記原稿の著者最終稿は,以下からDLできます(2023/7/7追記).
 
記事でも触れましたが,ルヌーヴィエは,1877年5月10日付の『哲学的批判』誌上に,「量の無限についてのノート」と題する論稿を寄せています.
Charles Renouvier, Note sur l'infini de quantité, La Critique Philosophique, le 10 mai 1877.
記事の作成途上で,このノートを翻訳しましたので,ついでにここに載せておきます.まだ少し訳語を迷っていたり,文意がとれていないような箇所もありますが,おいおい確定できればと思います.以下,翻訳です.
 
シャルル・ルヌーヴィエ
「量の無限についてのノート」(1877)
 
定義
 
1.与えられたもの(chose donnée)とは,それと同じ本性,あるいは異なる本性をもつ他のものから識別可能な任意のもので,その存在が,あるいは空間において,あるいは時間において,あるいは単に思考において定義可能なものを言う.
 与えられた集合(collection)あるいは多(multitude)とは,与えられたもののある集合ないし多である.
 
2.現実無限あるいは現実態にある無限とは,任意の所与[=与えられたもの]の集合で,異なる諸部分ないし諸要素が,それらの数的な集積(assemblage numérique)において考えられた場合,ある特定の数 に対応しないもの──その が何であろうと,またそれがどの大きさに到達しようと──を言う.
 現実無限に対して,可能者の無限とは,無際限と呼ばれているもののことである.
 
3.もし,例えば1,2,3などの抽象的な数の系列が問題であれば,私はそれを単に無際限ではなく,現実無限と呼ぶ.それは,実効的な数え上げの行為が,仮説によって,限界がないと知性によって把握される場合,この系列はこの知性のうちに,ある特定の数 に対応しない──それがどんなに大きな であっても──項の集まりとして,全体が一挙に表現されるであろうという前提に立つからである*1
 
命題
 
1.具体的に(in concreto)与えられた集合とは,常に次のようなものである.すなわち,知性の法則──それがなければ感性の行使もいかなる経験も不可能な──に従って,その集合の諸対象を,1, 2, 3, など,という仕方で,識別し,数え上げ(nombrer),集積することができるものである.そして,それは,数え上げ(numération)が終わらねばならないか,あるいは実効的には終わりえないものである.
 
2.数え上げが終わりえない(interminable)という仮定においては,識別された具体者の系列と,1, 2, 3という抽象数の系列とのあいだで,並行関係を確立できる.というのも,これらの抽象者は,これらの具体者に必然的に一対一に(chacun à chacun)対応するからである.また,これらの抽象者の系列は無際限で,これらの具体者の多が延長する限り遠くに行き,尽きることはありえないからである*2
 
3.先の命題から次のことが帰結するであろう.すなわち,もし抽象者の系列の現実無限の仮説がそれ自体矛盾した仮説であることが証明できる場合,同じ根拠によって,具体者の系列の現実無限の仮説はそれ自体矛盾した仮説であるということが証明されるであろう.実際,具体者の無限は,抽象者の無限が並行的なしかたで現実的にならない限り,現実的にはなりえない.もし前者[具体者の現実無限な系列]が,後者[抽象者の現実無限な系列]なしに成立したならば,また二つの列が,絶えず(一対一に)対応した後でも,一緒に終えることにならなかったならば,抽象者の系列は,全体において[原状・元の状態へと](ad integrum)与えられ得ず,他方を越えて延伸していき,したがって具体者の系列は,ある数 n に対応するであろうが,これは定義2に反する.
 
4.抽象者の系列の現実無限性という仮説は,それ自体において矛盾したものである.この無限数の不可能性は,ときおり表現されるように,いくつかの方法で証明されうる.ここでは極めて単純なものを紹介しよう.
 もし抽象者の系列:1,2,3,などが現実無限であるならば,それは実際に,それが絶対的に含む項と同じ数の偶数項を含む.なぜなら,それらの項の各々は,それが何であろうと,倍にすることができ,その倍[にされた数]は,すべての数の系列に必ず存在する偶数だからである.しかし,偶数の他に,この数列は奇数も等数かつ無限に含んでいる.したがって,この数列は,それが含んでいる以上の項を無限に多く含むことになるが,これは名辞矛盾(une contradiction in terminis)*3である.
 
5.与えられたもの(定義. 1)のすべての集合または多の現実無限は,抽象数の系列の現実無限の境遇に従わなければならず,不合理に陥ることなしには仮定されえない.したがって,そこから,空間において,時間において,あるいはそれらを理念的に仮定し増殖させる思考において互いに区別されうるいかなる存在者や現象も,たとえそれらを数え上げる手段が我々に欠けているとしても,それらの全体がそれ自体で数的に確定されていると仮定されることなしには,与えられていると仮定することはできないことになる.
 それゆえ,宇宙の異なる[判明な]現象の過ぎ去った系列には始まりがあったのであって,さもなければ,実行[実現]されたそれらの実際の総和は現実無限となってしまうであろう.また,それら[現象]の実効的な延長[広がり]と拡散は,それらを空間において考察しようと時間において考察しようと,存在しかつ異なる[判明な]ものとして考えることができるすべてのものが,それらの結合によって,単位として,ある確定した数を形成するように常になっているのである.
                                 ルヌーヴィエ

*1:現実的な数的無限を,もはやこれ以上増加することができないほど大きな数として特徴付けてしまうような誤解には,注意しなければならない.そこに,質の無限または完全性の概念を量の無限へと無反省に拡張したことから生まれた,想像または混雑した観念があるからである.実際,数的無限について考察した数学者たちは,この無限が,すべての有限数と同様に,単位の漸進的加増によって,無限や無限小が複数の階層を持つことの考察へと彼らを導いた,ということを認めた(そうでなければ,どうしてできたのだろう).数的無限の真の定義は,それを与えられた数として,したがって増加しうる数であると想定するのと同時に,すべての割り当て可能な数よりも大きい数であると想定することである.この二重の観点を維持するのが不可能であることに,明らかにしなければならない矛盾がある.

*2:抽象数の系列は無際限である.この命題は,形式的な証明を持つ.その証明は,任意の進数(numération)の体系において,与えられうる.2進数の体系をとってみよう.任意の書かれた数は,0(ゼロ)か1(単位)で終わる.前者の場合,最後の0を1で置き換えると,先の数より1だけ大きい数を得るだろう.後者の場合,最後の1を0で置き換え,この体系における加法に従って,左の列に1を移せ.さすれば,書くためにさらなる数字を使うことなく,再び先の数より1だけ大きい数を得るだろう.それゆえ,すべての与えられた数は,1(単位分)だけ増やすことができるが,この証明は一般的なものである.従って,数の系列は終わりえない.同様にまた,数は,無際限[不確定]なものとして,純粋な可能者(possible)でしかない.従って,それらが全て与えられているという想定には矛盾がある.この無際限の可能性の概念は,無限の観念のうちに実在的に存在するものであることに,今一度注目しよう.これまでそうしてきたように,「精神は数え上げのうちに限られている,事物はそうではないであろうのに対して」,と言ってはならない.反対に,事物は確かに限られており,精神がその前に立っているのであり,無限論者の考察に対して濫用されているのである.

*3:[訳註]名辞矛盾(contradictio in terminis)とは,「丸い四角」や「液体の氷」など,対立する語義によって引き起こされる言葉上の矛盾を指す.

ライプニッツ「より深遠な起源に由来する機械論の原理」(1702.5)の翻訳・訳解

久しぶりのブログ更新.

先日,日本ライプニッツ協会第11回大会にて,「延長とは何か?──連続体の本性と起源をめぐるライプニッツの考察──」と題して,研究発表をしてきました.

実は,初めて世に出した論文の中で,連続体の迷宮に対する積極的な回答が,力の概念にあると述べ,ライプニッツが形相的な原理を要請した理由を,彼の数学的自然学の基礎をめぐる力の形而上学の展開において考察することが今後の課題である,としたものの,最近までこの課題に取り掛かれていませんでした(池田真治,「ライプニッツの無限論と「連続体の迷宮」」,『哲学論叢』第31号,2004, p.47-48).

自身のこれまでの怠惰と,困難な課題に対する気概のなさを恥じるばかりですが,先の発表は,初心に帰って(?),その研究の再開としてあります.

研究熱が冷めないうちに,そのとき資料として付した,ライプニッツの1702年の論稿,「より深遠な起源に由来する機械論の原理」の翻訳を公開することにしました.以下より,ダウンロードできます.

池田 真治 (Shinji Ikeda) - 資料公開 - researchmap

ライプニッツデカルト哲学に対する反論を,主に物体の本性に関する考え方の違いを中心に,彼自身の動力学とその形而上学の発展との関連で簡潔にまとめたものです.とりわけ,ライプニッツデカルト派の物体則延長の学説を批判し,それに対して自身は物体のうちに自然生得的に植え付けられている動力学的な基礎を主張しています.その意味で,ライプニッツにおける物体や延長・連続性の概念と,力の概念との関係を伺う上でも,本稿は重要なテキストです.

まだ暫定版なので,訳語や訳解の検討を含め,この後もう少し修正すると思います.

今後の研究ですが,ライプニッツと「連続体の迷宮」に関する自身の研究を,アップデートしつつ,なんとかまとめられればと考えています.博論の書籍化ができていないので,それを目指したいものです.

後は,「連続体の迷宮」に関わるライプニッツのテキストや,普遍数学関連のテキストを翻訳していき,いずれどこかから,ライプニッツの数学論・自然哲学論集というかたちで,あるいは別のかたちでもいいので,何か出せればと思っています.

日本数理哲学史年表(不完全版)

日本数理哲学史年表(不完全版)

 

甚だ不完全なものだが、参考まで。戦前・戦後の京都学派を中心に。

追記していく可能性あり。他に付け加えるものがいろいろあると思われるので、ご教示いただければ幸い。

 

※ 翻訳は青字

 

1925 田辺元  『数理哲学研究』岩波書店

1926 戸坂潤  「幾何学と空間」『思想』

1928 戸坂潤  「空間概念の分析」『思想』

1928 カツシレル『カントと近代の数学』(下村寅太郎 訳)哲学論叢:岩波書店

1928 コーヘン 『プラトンイデア論と数学』(高田三郎 訳)哲学論叢:岩波書店

1931 白石早出雄「現代数理哲学問題」『哲学講座第7巻』所収(150pp)誠文堂

1933 三宅剛一 『哲学と数学との交渉』(『岩波講座哲学:哲学と諸科学との交渉』シリーズの一巻)岩波書店

1933 フッセール『算術の哲学』(寺田弥吉 訳)モナス

1937 兒山敬一 『数理哲学』モナス

1938 ポアンカレ『科学と仮説』(河野伊三郎 訳)岩波文庫

1940 三宅剛一 『学の形成と自然的世界』弘文堂書房[みすず書房より1973年に再刊]

1942 ラッセル 『数理哲学序説』(平野智治 訳)弘文堂書房.[1954年,岩波文庫で再版;1966年,『数理哲学入門』として『世界の大思想 ラッセル』の巻に中村秀吉 訳で所収]

1943 ピエール・ブートルー『数学思想史』(河野伊三郎 訳)岩波書店

1944 下村寅太郎『無限論の形成と構造』弘文堂書房[みすず書房より1979年に再版]

1944 末綱怒一 『数学と数学史』弘文堂書房

1946 近藤洋逸 『幾何学思想史』伊藤書店(改訂版『新幾何学思想史』1966年)

1946 兒山敬一 『数学の哲学』武蔵野出版社

1946 ホワイトヘッド『数学入門』(河野伊三郎 訳)文求堂書店[1983年,大出晃 訳で『ホワイトヘッド著作集 第2巻』として出版]

1947 近藤洋逸 『数学思想史序説』三一書房

1947 三宅剛一 『数理哲学思想史』弘文堂

1947 末綱恕一 『数理と論理』弘文堂

1948 三田博雄 『数学史の方法論:数学の哲学のために』三一書房

1951 白石早出雄『数と連続の哲学』共立全書

1952 末綱恕一 『数学の基礎』岩波書店

1954 田辺元  『数理の歴史主義展開──数学基礎論覚書』筑摩書房

1957 伊東俊太郎「数理哲学の課題について」『科学基礎論研究』Vol. 3, No. 3, 5-11

1959 ワイル  『数学と自然科学の哲学』(菅原正夫,下村寅太郎,森繁雄 共訳)岩波書店

1961 永井博  『数理の存在論的基礎』創文社

1961 デデキント『数について──連続性と数の本質』(河野伊三郎 訳)岩波文庫

1963 マルティン『数理哲学の歴史』(斎藤義一 訳)理想社

1976 ヴェドベリ『プラトンの数理哲学』(山川偉也 訳)法律文化社

1976 サボー  『数学のあけぼの ギリシアの数学と哲学の源流を探る』(伊東俊太郎、中村幸四郎、村田全 共訳)東京図書

1977 沢口昭聿 『連続体の数理哲学』東海大学出版会

ジュラ・クリーマ「本性─普遍の問題」メモ

ジュラ・クリーマ「本性─普遍の問題」(『中世の哲学─ケンブリッジ・コンパニオン』、京都大学学術出版会、2012、pp. 279-298)

 

中世の哲学―ケンブリッジ・コンパニオン

中世の哲学―ケンブリッジ・コンパニオン

 

 

二回目だと思うが、あまりちゃんと覚えておらず、読み直し。ざっと読んだ場合でも、印象に残ったことだけでもいいので、ちゃんとメモをとるべき。研究ノートや研究メモは見返さない場合が多いので、差し障りのないところはブログに出していってもいいかもしれない。

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アリストテレスによれば、学問の目標は、事物の本性(natura)の定義である。そこで哲学的に不可避な問いとして、そもそも本性とは何であるのか、という問いが生じた。

 

すなわち、本性は個々の事物の上に(あるいはうちに)実在するものなのか、それとも心的な構成物であり、事物を理解するときその理解のうちに存在するにすぎないものなのか。後者だとしたら、それはどのような基礎にもとづいて構成されるのか。

 

これが中世における普遍の問題である。

 

ボエティウスは普遍の問題を類と種の実在性に関する問題として提示した。ポルフュリオスの『イサゴーゲー』によれば、普遍は類と種や固有性、種差、付帯性の五つがある。

 

普遍にかんしては、すでにボエティウス以前に異なる立場があった。

 

プラトンイデア論:類や種などの普遍は心や物体から独立離存して存在する

アリストテレス:類や種という普遍は、可感的事物に内在している

アウグスティヌス:普遍的本性は神の知性のうちに存在する

 

アヴィセンナは、普遍に重要な区別を設ける。

すなわち、(1)普遍的本性の絶対的(他から切り離した)考察と、(2)本性が存在の場所であるさまざまな基体のうちに内在するかぎりで当の本性に当てはまることがらとの区別である。

普遍、たとえば馬性は、可感的事物のうちにも魂のうちにも内在せず、馬性の定義に付帯するものだとした。馬性それ自体は馬性だけからなる。

 

トマスは『存在者と本質について』で、アヴィセンナの区別を解説している。

 

(1)本性の絶対的考察は、固有の概念内容に即して考察される。この場合、本性について真であるのは、つまり、本性を主語にして当のものを述語として帰属させた場合に言明が真となるのは、その本性であるかぎりの本性に当てはまるものだけである。本性に当てはまらないものが帰属された場合には偽になる。

 

(2)本性の[基体内在的]考察は、特定の個体のうちで本性がもつような存在に即して考察される。

(2)の基体内在的に考察された本性は、二種類の存在をもつ。すなわち、

(2-i)個物における存在と、(2-ii)魂における存在である。

どちらの存在に即しても、本性にはその基体に応じた付帯性が随伴する。

 

トマスは「絶対的に考察された人間の本性は、あらゆる存在から抽象されているけれども、どのような存在も排除しないのだ、というのは明らかである」とする。

 

トマスはこのように『存在者と本質について』では、本性が存在から切り離して考察されうるというだけでなく、同じ本性が異なる諸事物のうちに存在しうるとまで述べている。

ただし、ここでの「同じ」はその個別的存在者のもつ数的一性ではありえない。なぜなら、本性の絶対的考察では、本性が「存在」から抽象がされているからである。スコラではこれを、「数的一性よりも弱い一性」と呼ぶ。現代的には、「同じタイプ」という意味でのタイプ同一性である。

 

トマスによれば、本性の絶対的考察では、心の外のさまざまな個物における存在から抽象するだけでなく、心のうちの存在からも抽象する。

 

心が本性をそれぞれ事物における個体化の条件から抽象して考察する場合にのみ、本性は共通なものとして認識されうる。

 

しかし、本性はもう心のうちにもう存在をもってしまっているのでは。

本性が心のうちにある場合にのみ抽象されたものでありそれゆえ普遍でもあるのに、本性が心のうちの存在から抽象されるとトマスが言っているのは、いったいどのような意味でなのか。

 

クリーマは、それ自体としてのその本性について言えることと、特定の条件下でのみその本性について言えることを区別するよう注意すべきだとする。

 

トマスの立場:普遍は心のうちにのみ存在するとする。

ただし、本性が個々の心のうちに存在するかぎりで普遍であるということと、固有の意味で普遍と言われるのは心のうちの存在としてのみであるということを区別する。[わかりづらい]

 

「抽象された普遍」には2つの含意がある。

すなわち、(イ)事物の本性それ自体と、(ロ)抽象あるいは普遍という規定である。認識されること・抽象されること・普遍であるという規定(ロ)は、ある事物の本性に付帯するものであり、その本性それ自体(イ)は、あくまで個々の事物のうちに存在する。

他方で、認識されること・抽象されること・普遍であるという規定(ロ)は知性のうちに存在する。

たとえば、認識ないし抽象された人間性は、あくまで個々の特定の人間のうちに存在するが、個体的条件なしでその人間性が把握されるということは、──つまりこれは人間性が抽象されるということであり、普遍性の概念はこのことに随伴するが──知性によって知覚されたことで人間性に付帯する。

 

クリーマ「したがって、普遍的な本性、つまり異なる個物について述語づけられるような本性は絶対的に考察された共通本性それ自体なのであるが、「複数の個物について述語づけられるような」ということ[つまり「普遍的な」という限定]がそのような本性に当てはまるのは、絶対的考察に即してではなくて、抽象する知性によって把握されているかぎりでのみである。つまり、そのような本性が精神の概念であるかぎりでのみである。」

 

このような概念枠は、「古い道」(via antiqua)と言われ、そこではさらに、心のうちの存在に即して本性に付帯する特性と、心の外の存在に即して本性に付帯する特性との間の区別がされていく。

 

これに対して、オッカムは「新しい道」(via moderna)という新しい概念枠を開拓していく。オッカムによれば、「古い道」を推し進めると、「xはP性のゆえにPである」というタイプの無限な命題が算出される。こうして言葉の数だけ存在者の数が増やされるが、これはオッカムにとって誤謬であり、真理から遠ざけるものにほかならない。

 

オッカムの立場:普遍が存在するのは心のうちのみであり、心の外の存在者はどれもみな個物である。そして、存在するものは心の外の個物と心のみである。心のうちに、あるいは世界のうちに内在するような共通本性や本質など最初から存在しない。

 

したがって、オッカムにとって、「本質が個物のうちに存在するのはどのようにしてなのか」という問いは、擬似問題にすぎない。

絶対的に考察されうる本質などはそもそもありはしない。

 

クリーマ「オッカムの計画のかなめは、われわれが単純な[非複合的な]普遍的概念を形成するプロセスにある。というのもわれわれの概念体系の全体を実在にしっかりと結びつけるのは、このような概念だからである。」

 

オッカムは、この単純な普遍的概念を形成するプロセスから、心的言語mental languageを構成する主要な語(項、名辞;terminus)が生まれるとする。

 

心的言語とは、あらゆる人間にとってなんらかのしかたで同じであって、慣習的に定められた書き言葉や話し言葉がそれに従属するような言語のことである。

 

たとえば「人間」という心的言語は、自然本性的(非規約的)に、可能的なものも含めた、人間個体全員を表示する。第一に、この語の形成は、それが表示する個体群の小さなサンプルの直接経験からである。また第二に、その後によって直接表示されるような単一の人間本性というようなものは存在しない。

抽象の問題の神学的文脈について──八木雄二『神を哲学した中世』(新潮社、2012)第5章メモ

たまたま大学図書館にILLで借りた本の返却と購入図書の受け取りに寄った際、研究課題である「抽象と概念形成の問題」の参考になりそうだったので借りてきた。前から気になってはいたが、もっと早くに買っておいたら良かったかもしれない。

 

ただいくつか不満もあり、選書だからか、脚注がなく、参照箇所がわからず典拠が辿れないところが多かった。また、現代的にはコレコレと述べている箇所が、かなり単純化された立場ないし見解に限定されており、考察の余地が大いにあるものに映った。

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第5章「中世神学のベールを剥ぐ」メモ

 

「抽象」は現代でも、認識ないし認知に関して頻繁に使用される用語であるが、抽象という言葉の意味は、古代中世と近代以降とではまったく異なる。

 

抽象という言葉のもつ意味が変化したのは、中世末期に登場した「唯名論」によってである。唯名論では一般に、普遍は実在ではなく、ただの名前に過ぎないとされる。しかし、中世半ばまでは、普遍は単なる名前ではなく実在であるという「実在論」の立場が主流派であった。それというのも、普遍論争という哲学的議論には、神が普遍として実在するのでなければならないという神学的文脈があったからである。そこでは、神は、究極の普遍であり、究極の抽象存在である。そして、存在や一などの最上級の超越的範疇を含めて、普遍は、感覚的個別者からの知性の抽象を介して知性的に認識できるものとされた。

 

このように、知性に独自の作用によって感覚では捉えられない客観的実在の本質ないし本性が把握されるとするところに、中世スコラの形而上学が成り立つ。(私見ではこのことは、デカルトでも同様に継承される。)そこでは、普遍は、心に抱かれた概念の名前ではなく、それに対応するものが心の外に見えないしかたで実在する、そういう一種の「もの」であると考えられた。

 

しかしこの見方は近代になって、観念的と見なされ否定されるようになる。また、中世においては、普遍を、万有引力のように客観的な関数的関係として成り立つ普遍法則として理解するような素地はなく、「もの」として実在すると理解した。