「きみはいい子」

数年前、アラブ世界で同時多発的に発生した民主化運動、所謂「アラブの春」に対して、当時「イスラームにはイスラーム民主化がある、し、そうしなければ本当の意味での民主化は成立しない」といった旨の論評が見られました。私もこれには全く同意します。イスラーム世界が民主化という名の「西洋化」をしようとしたところで歪みが生じる。内なるシステムからの民主化をしなければ、西洋の超克、というか旧世界の超克は成し得ないのではないかと。
これ、じつはアジア諸国にも当てはまることですよね。勿論、日本にも当てはまる。そう。全然余裕でアジア的な統治機構である日本にもあてはまるのです。日本はその自覚が希薄な分、他の国より事態は深刻かもしれません、が、とにかく、日本も自国がアジアであるという自覚を持ち、「アジアとしての民主化」をしなければダメだと思うわけです。アジアにおける統治システムの根っこを見据え、それをブラッシュアップしなければホントの民主化なんてあり得ないのではないでしょうか。
では、その根っこにあるのは何か。それは私は「家父長制」ではないかと思うのです。そして、それをベースにして新たな社会を構築していかなければならないのではないかと思うのです。「え……家父長制をベースにって……大丈夫……??」と思われそうですが、いやいや違うんです。まあ最後まで聞いて下さい。

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といいつつ、少し話を変えます。
2013年に刊行された「謎の独立国家ソマリランド」という本があります。この本は、作者がソマリアという、無法地帯的なイメージを持つ国へと出向き、彼の地で実際に見て触れてきたことを綴ったルポルタージュなのですが、これが滅法面白い。といっても「ソマリアって飯が食えんくなったから海賊やってるような国でしょ!そりゃヤバいでしょ!」的な意味での面白さではない。詳細は省きますが、この本、ソマリア北部に位置するソマリランドの社会システムを調べあげてて、そのシステムが最高に面白いのです。それはどのようなものかというと――ソマリランドは「氏族社会」と「その中での掟」という、聞くだに保守感漂うシステムをベースにして、日本など到底及ばないレベルの素晴らしい民主主義システムを確立しているのです。つまり、ソマリランドは、伝統を踏まえた上で、その向こう側へと辿り着いている。いうなれば「アフリカとしての民主化を成し遂げているわけです。

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で。ここでようやく「きみはいい子」の話です。

一人暮らしのおばあちゃんの具合が悪くなったり、新人教師である高良健吾さんが受け持つ小4のクラスが大変なことになったり、尾野真千子さんが子供を虐待したりします。


この映画、とにかく登場人物たちの実在感が尋常じゃありません。私、呉美保監督の前作である「そこのみにて光り輝く」は、世間の評価の高さに反してそこまでハマらなかった。前作では、貧困というかなんというかの描写が、丁寧ではあるものの非常に表面的なものに見えた。しかし、この映画は非常にしっかりとした「軸」があり、その上で丁寧な描写を積み重ねている為、滅茶苦茶面白かったです。


では、この映画の軸は何かというと――「父親の不在」が軸になっているのです。


子供を虐待しちゃう尾野真千子さんの家の旦那はタイに長期出張へ行ってて全く姿をみせない。自閉症の少年は両親いるかもしれないけど劇中に登場するのはお母さんだけ。学校にクレームの電話をかけてくるのもお母さんですし、週末子守してるのも当然お母さん。色んな家庭が登場するのにも関わらず、父親は全く出てこないのです。唯一かな、高良健吾さんの受け持つクラスの生徒、神田さんの家だけはお父さんが登場するのですが、こいつがもう、とてもとても父親なんて呼べない、「こいつ」呼ばわり必至の見事すぎる最低最悪のDQNだったりします。ほんと徹底した父親の不在っぷり。
じゃあ、監督は父親なんて必要ないと思っているのでしょうか?それは違います。ここからは逆算的な話になるのですが、先に挙げたどの家庭もが、誰かが(誰もが)大変つらい思いをしている、そして、どの家庭にも父親がいない、つまり、父親の不在から父親の必要性を訴えているように思えるのです。


ちなみに、この映画、どこの家庭においても最後まで血縁上の父親は登場しません。
ではどうなるのか。皆不幸なままなのか。


そうではない。この映画は彼彼女たちをそのまま放置しません。本来の家族像では父親がいたであろうポジションに「全くのアカの他人」が収まり、そして、それによって彼女たちは救われていくのです。つまり、父親の役割を担うのは父親である必要はないわけです。父親の役割は、近所の人であったり、ママ友であったり、教師が担えばいい。そして、変な言い方になりますが、ある家族の父親が、自分んち以外の公共の場所で父親の役割を担ってもいいわけです。もっと視点を高くすると、この映画は「社会」が父親の不在を埋めてはどうかと提案しているように思うのです。


今、我々が頭に浮かべる「家父長制」なんてクソです。それは旧来の日本の保守的な父親が1mmもあてにならんクズだからです。自分ではなにも出来ん、しかし、力だけは持ってるモラハラクズ野郎です。しかし、我々はそのクズを乗り越えねばなりません。システムそのものを変えようとするのは一先ず置いといて、とりあえずは、全くあてにならんくせに高いポジションに居座ってる人を引き摺り下ろし、我々で互助的にその役割を担っていく。家族と向き合い、家族を守り先導する、理想的な家父長制の父親の役目を担っていく。繰り返しになりますが、それを担うのは実際の父親である必要はない。誰でもいいじゃないですか。女性でも老人でも同性愛者でも未熟でも誰でもいいじゃないですか。その家族にとって適任な誰かが父親になればいいじゃないですか。私はこの映画をみてそんなことを思いました。そして、その先に「アジアとしての民主化」があるんじゃないかなあと思いました。つって、あまりに言ってると父親の責任の放棄を意味してるように聞こえるな。そうじゃなくって、どうしようもない父親を崇め奉る必要なんてないんだから、そんなヤツは無視して、皆で頑張ろうよ!もちろん男も含めて!というわけです。


といっても、これはじつに困難なことです。実際、この映画のラストに関わるお話は明確な解決策を提示してはいない。むしろ、それに伴う「痛み」を感じずにはおれなかったりします。しかし――
ここからは舞台挨拶での高良健吾さんの言葉を借りたいと思います。


「最後に、僕が演じる先生は、訪問先の家のドアを二回ノックします。じつは脚本では一回だけでした。でも、監督が二回にしましょうと言った。正直、一回でもいいんじゃないかなあと思ったけど、出来上がったものを観ると二回で良かったと思いました。昔の彼なら一回ドアをノックし、返事がなかったら、その段階で帰っていたと思います。そこを二回ノックしたのは彼の成長なんだと思います」

「抱きしめることも大事ですが、その前に向き合うことも大事だと思います」


ほんと頑張りましょうよ。

「コングレス未来学会議」

ネタバレ、とかいう以前に、何も知らずに新鮮な状態で観るのがよいと思います。


この作品の原作者って「ソラリス」を書いた人なんだ。なんだなんだ。そう言われたら全く同じ話じゃないか。観てる間は「ソラリス」のことは全く頭に浮かばなかったのだが。いや、浮かんだかもしれない。記憶なんてそんなもんだ。じつにあやふや。そう。浮かんだかもしれない。しかし、「ソラリスのようだ」という感覚がフィックスされることはなかった。なぜなら、決定的に同じなのは或る一点においてのみだからだ。或る一点。或る一点。或る一点のみ。或る一点は全く同じなのに、その意味するところは僕にとっては全く違う意味を持っていて、だから、フィックスされることは無かっ――いや。書いていると分からなくなってきた。やはり、同じなのかもしれない。いや、やはり、違うかもしれない。


他の作品のことは色々頭に浮かんでは消えていった。「マトリックス」とか。ありきたりだけど。あ。だからキアヌリーブスの名前が出てくるのか。しかし、マトリックスと似ているのは非常に表層的な部分であって、いや、そうでもないかもしれない。いや、やはり違うような気がする。何を選択するのか。君は何を選択するのか。君は何を知ろうとするのか。知らずに囚われたままでいたほうがいいんじゃないのか。

もし、知らずにいれるなら、むしろそれは大変幸せなことなんじゃないのか?
だって、知ったところでどうなるっていうんだ?


そこは理想の自分でいられる夢の世界かもしれない。「かもしれない」じゃない。理想の自分でいられるんだ。偽りの世界だけど。他者からみればヒロエニムス・ボス的などこかイビツな世界だけど。でも。だからといって、目覚めた現実の世界は調和を保っているのか?そここそイビツな世界なんじゃないのか?「夢」を捨てて向き合い続ける価値がある世界なのか?というか、今、自分が、みている現実が、ほんとうにげんじつなのか?太ももにナイフをぶっ刺してみたら?いたい?そりゃあ痛いだろう?でも、その痛み、それさえ現実のものじゃないかもしれないんだ。むしろ、そのほうがイイかもしれないけど。

向き合うことは苛酷。でも、もしかしたら、その苛酷さも現実のものじゃないかもしれない。何が現実で何が非現実なのか。とりあえず、たしかなのは、そんなことを考えている自分は在るっぽいということだけだ。
じゃあ、そこから何をどう選択するのが良いんだろう。何が何で何が何か。
知ったところでどうなるっていうんだ?


一番頭に浮かんだのは「かぐや姫の物語」だった。「かぐや姫の物語」は全く同じなんじゃないかな。共通するのは絶望。深い深い絶望。いや、これは「深さ」じゃないんだ。「深ささえない」ことが絶望なんだ。「絶望」ですらないかもしれない。そう、適切な言葉がないんだ。実存に対する八方ふさがり感。もう止めたほうがいいよ、こういう話。

クリストファーノーラン監督の「インセンティプション」ではちっとも描き切れていなかった「limbo」がここにはある。2次元と3次元が織り交ぜられることによって、現実世界が溶け出してしまう。手を伸ばしてもなにもさわれないし、足は宙に浮かんでいる。それは覚悟していた。しかし、時間感覚さえ溶かされてしまうとは思わなかった。君の生きた過去20年の記憶、それは、昨晩、君が眠っているときの僅か10秒の間にみた夢かもしれない。逆に、君は20年生きているのにも関わらず、そのことをたった10秒分だけしか記憶していないのかもしれない。

僕は「ソラリス」における主人公の選択はフィクションの肯定だと思っている。哀しい話。とても哀しい話だけど腑には落ちる。だって、人は、本を読み、映画館をみ、そして、忘れる。「コングレス未来学会議」も全く同じ話だ。とても哀しい。でも。なにか次元が違う。いや。分かっている。ホントは分かってる。マトリックスソラリスと違うところは分かってる。でも、かぐや姫の物語とは一緒なんだ。永遠に続くってことは永遠に続かないってことなんだよ。

「海街diary」

三姉妹がお父さんの後妻の一人娘さんを引き取ります。だから四姉妹の話ですね。


原作は読んでいません。


とにかく「女優さんってスゲーな…… !」と衝撃を受けました。だってさ、この映画、綾瀬はるかさんと長澤まさみさんと夏帆さんの3名が、血の繋がった姉妹役としてキャスティングされているのですが、ワタクシ、これまで「この3人似てるなあ」なんて思ったこと一度もないのにも関わらず、映画の中ではホンットに姉妹感があるわけです。つかさ、率直に似てるわけ。「ベースは同じでより派手かどうかってだけの違いなんだなあ」とか「うわあ笑った顔そっくりだなあ」とかなりまくり。あと長女と次女の乳のデカさよ!!ってこれ、元々似ているというかお互い寄せていってるわけでしょう?スゲーすよねホント。そこに加えて、彼女らの母親役である大竹しのぶさんが絡んでくるとまた似方の深みが増したりするからヤバくって。「次女と三女のこういうところって母ちゃんと全く同じやないか!ホンットそっくり!!」となる。加えて加えて大叔母である樹木希林さんさえも「やっぱこの人も彼女らの血縁だな……めっちゃ似てるわ……」となる。なんなんですか女優さんって。ヤバすぎます。つかさ、綾瀬さんも長澤さんも夏帆さんも大竹さんも、相当有名なわけですから、この作品外での雰囲気や立ち居振る舞いを知ってるわけじゃないですか。ようは先入観あるわけ。にもかかわらず、それを凌駕する寄せ方をして姉妹感や親子感出してるのってホント尋常じゃないと思うのです。


と、まあこんなカンジで姉妹感作り上げてて最高なのですが、加えて各キャラの掘り下げも見事で悶絶します。ややもすれば、ステレオタイプな印象受ける設定だとは思うのです、が、しかし、完成度があまりにも高すぎる為、全くヤダ味を感じません。皆さんホント見事すぎる長女感・次女感・三女感がある。
しっかり者だが少し隙がある長女ってのは綾瀬さんにピッタリ。続いて、長澤さんはどうかというと、W浅野感漂う見た目のチャラさとエロ込みのガサツさで、貫禄を感じるレベルの「ザ・次女」感を構築されている。そして夏帆さん。夏帆さんです。いやあ皆さん最高なのですが、とくに、とくに夏帆さんが最高でした。夏帆さん劇場でした。夏帆さんは設定段階での優位性もあると思うのですが、完全に末っ子性がハネててヤバい。彼女、外食ん時何を食べるか全然決めらんないし、小さい時のおもらし話をふられてもつねに「へへへ。そうだっけ。へへへへ」ってカンジで聞いてる娘さんなのですが、細部の描写がスゴくて、喪服着たらなんかダラッとしてるし、持ってるカバンはプラプラさせてるしと、実在感がスゲーのです。最高。最高すぎます。ホントに最高すぎます。1000回ぐらい最高って言いたいぐらい最高です。

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さて。「海街diary」って、じつにタイトルに忠実な作品でして、つまり、映画の構成がすげーダイアリー感あったりします。具体的にいうと、日常における小さなヤマ場を―日記的に―15分区切りで見せてくカンジの構成になっている。で、です。少し話が逸れるのですが、ワタクシ、この作品を見てて、途中ふと気になったことがあって、それは何かといいますと、登場人物がガラケー使ってんのがちょう気になったのです。なんでなんだろ?スマートフォンだと彼女らが住んでる家と絵的に合わないからなのかな?なんて思いながら見てたのですが、そのナゾは(というほどのものではないですが)終盤に明かされます*1。ワタクシ、先ほどこの作品は日記的な構成になっていると書いたのですが、つまり、この映画って「現在」から「過去の日記を読んでる」カンジになるわけです。この視点が入るとヤバい。
ワタクシ、映画やマンガを観る時、勝手に脳内で設定を補完して楽しむことがあるんですけど、それはどういう風にするかというと、例えばこの作品ですと、自分を28歳になった広瀬すずさんだと思い込んで観るわけ。いよいよこの街で過ごすのもあと一週間か。大学に入学してからだから、もう10年になるんだ。早いなあ。そんなことを思いながら荷物の整理をしていると、その中に、中学生の頃に書いてた日記があるのに気づいた。あ、これそういえば鎌倉から引っ越す時一緒に持ってきたんだ。寂しくなったら読もうと思って。鎌倉の家にはいつも誰かが居たから、しばらく一人暮らしの夜に慣れなくって、何度も読み返したなあ。でも、前期が終わる頃には大学生活にも慣れて、それであっという間に卒業して社会人になって。あんなに大事にしてた日記なのにすっかり忘れちゃって。そう。この日記、初めてお姉ちゃん達と会った時から書き始めたんだ。懐かしいな。お父さんのお葬式の日、お姉ちゃん達が声かけてくれて。山に上って。皆でしらす丼食べて。梅酒つくって。桜見て。花火見て。そういえばしばらく帰ってないな――――みたいな。なんかこういうことばっか書いてるような気もしますが好きなんだから勘弁して下さい。
でもマジで終盤でオフィシャルから妄想の許可を与えてもらったようなカンジ*2してるので、もう一度最初っから遠慮することなくこのような脳内設定カマして観てみたいと思います。冒頭から泣くと思います。つか、初見の段階で泣いてるんだけど。

*1:このお話の時代設定が明示されるのって終盤にしかないと思ったのですがそこまでで描かれてるのかな?

*2:与えていない。

「チャッピー」

なんて可愛い映画なんだ!!!!


ネタバレはしてますかね。具体的に何が起こるかは書いてないけど。


人工知能を植え付けられたイリーガル警官ロボ・チャッピー、そして、彼を育てることになるDQNカップルのニンジャとヨーランディ、加えて、彼らと行動をともにするアメリカ――これら主要メンバーの皆さん、超絶に可愛いです。そう、なんだか蔑ろにされそうなカンジがするのでここは強調しておきたい。アメリカもちょう可愛いです。忘れないでいて下さい、アメリカの可愛さを。というか、彼がバランサーとして存在していることによって、あいつらの可愛さ5割増しになっていると思います。ほんっとこのDQNチーム、たまりません。つって、他の登場人物等も抜群に可愛いのですが。近頃すっかりヤなカンジの鹿賀丈史系ババアキャラが板につきまくりのシガニーウィーバーの可愛さ。DQNのアジトを双眼鏡で覗くヒュージャックマンの可愛いさ。そして、ヒュージャックマンの作ったロボ!あんなただただデカいだけのバカマシそりゃあ失笑もんやで失笑もん的可愛さ。そして何よりもオープニングの可愛さ。なんと「第9地区」と全く同じ!最高!監督の潔さが可愛すぎます。ワタクシ、冗談抜きでブロムカンプ監督は今後ずっとこの手法で映画をつくっていって欲しいなあと思ったのです――


――オープニング、ニュース番組かドキュメンタリー番組か、なんかそういう類の番組で専門家がコメントしてるシーンで始まるねん。で、「まさかこのプロジェクトがこんなことになるとは……」みたいなこと言うねん。で、「18ヶ月前」というテロップとともに、ヨハネスブルグのスラム街の空撮が入るねん。そこまでは全部一緒。で、そこからは作品によって軸になるキャラは違ってくるねん。「第9地区」やったらエビ型宇宙人やん?で、今回は人工知能を持ったロボットやん?次は悪魔とかええんちゃう?次の次は子供のサイズのまま老人になった超能力者とか?とにかく、そんなカンジで、ヨハネスブルグを舞台にして、普通の人の心を持った異形の者たちのお話をシリーズ化してって欲しいなあ――と。


まあそんなこんなで。
この映画、人間の愛おしさとか愚かさが軸になってて、だから、公開前に話題になったゴアシーンカット問題に関しては、「他の作品ならいざ知らず、この内容なら、沢山の人にみてもらう為にカットするのは全然イイかも。というか、ソニーもあらかじめ監督にそういう風な説明してたら多くの人は納得したかもしれんよなあ。しょうもない誤魔化しするからあかんのやろ。でも、まあまあまあまあ」ってカンジでした。つか、正味な話、「不自然なカットっぷりもちょっと可愛かったよな」となるぐらい、ほぼほぼ全編可愛さにヤられて観ていたのですが、そのせいでしょうか、ワタクシ、終盤の展開に心底驚愕したのでした。え!?こんなことになるの!?と。意図的かどうかわかりませんが、そこまでの「ヒューマニズム」が煙幕効果出しててホントに驚愕。

どういうことかというと、この映画、「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」との問いに対して「いや……普通の羊の夢をみますけど」と返答してるというか、いや、逆か、逆だな、逆パターンで「人間が見てるのも電気羊なんですけど……」と言ってるような気がします。そう。逆なんだよ、逆。手塚治虫先生がいうところの「ロボットだって人間だ!」の逆でさ、「人間だって電気信号だ!」ってカンジなんだと思う。でも、そこからもう半周して「電気信号だって人間だ!」なんだよ。何を言ってるか分からないかもしれませんがそういうことじゃないでしょうか。違うか。分からん。
しかし、終盤のちょい手前までは普通に「人間とはどういう文化を持つものか」みたいな話だったのに、いきなり急ハンドルを切って、「人間の意識とは何か」という深い深い深い深いところにいく。スゲーよね、このスライド感。素晴らしいです。マクガフィンがワチャワチャしてたり、終盤は「え?もっと別の解決策ないっけ?」感あったり、つか、ヨーランディもなんだかんだいって強奪いくんだ(笑)ということもあったりして隙はありまくるんですけど、勢いがイイカンジで作用して不思議と全然オッケーでしたね。


可愛さ恐るべし。

「インヒアレント・ヴァイス」

インヒアレント・ヴァイスを観た。のだが――果たして俺はこの映画を「観た」といっていいのだろうか?なぜなら、俺は上映時間の大半をウトウトまどろみながら過ごしたからだ。どんな内容だったのかを思い出そうとしたら、ビッグフットがアイスをチュパチュパ食ってるところばかりが頭に浮かんでくる。勘弁して欲しい。それにしても、睡魔と闘いながら過ごした時間が終わりを迎えた時の爽快感、あれは一体なんなんだ。勘弁して欲しい。しかし、その爽快感は一瞬のもの。眠気はすぐに蘇り、どころか以降半日ずっと続いて、家に帰ると速攻ベッドに潜り込む始末。結果、普段じゃありえない時間に目覚めて今現在の時刻は午前4時ってわけだ。
インヒアレント・ヴァイスはつまらなかったのかって?そんなことはない。相当面白かった。のだろう。仮定になってしまうのは仕方ない。なぜなら随分長い間まどろんでいたのだから。トートロジー?いや違う。これはエントロピーの一環だ。


映画館で「マグノリア」を観た時、いまいちノリ切れず、しかし、随分時間が経ってからDVDで観直してみたら、その面白さに圧倒された。だから、俺は全く心配していない。たった一度の観賞で「面白くない」と断言するのは不遜すぎるし、大体、「マグノリア」になぜノリ切れなかったのか、またはなぜ面白さに圧倒されたのか、その理由は未だによく分からず、そもそもそのことに関してそれ以来深く考えてもいない、じつに程度の低い俺のような人間が、ああだこうだとやかく言う資格なんて、ない。それに俺は「面白かったと思っている」と言っているじゃないか


さっきまで俺は夢をみていた。パートナーと一緒に歩いている夢。クラブで遊んだ帰りなのだろうか。朝方、バスから降りて、ひと気のない街を二人歩いている。どうやら彼女のアパートへ向かっているようだ。歩道の隅には、業者がまだ回収していないゴミ袋の山と、少しの雪が残っている。「何か甘いものを食べたいなあ」という話になり、コンビニと八百屋が合体したようなお店に寄って、ロールケーキ型のアイスクリームとヤマザキイチゴスペシャルを買って帰る。どっちも表面の生地がパサパサしている。場面が変わり、彼女はカメラに背を向け一人でシャワーを浴びている。あぐらをかいて頭を洗っている。クローズアップ。モノローグがはじまる。彼女は「選ばなかった選択」について語っている。なぜ一人でシャワーを浴びているかについては語らない。ただ、別の選択の可能性があったことについて語っている。夢の中の彼女のあり得なかった選択肢は今まさにここに、在る。


俺は同じ本を何度も読むことは滅多にない。しかし、インヒアレント・ヴァイスは2度読み、そして、これから何度も読みたいと思っている。PTA監督はピンチョンの世界観を忠実に再現していると思う。素晴らしいと思う。ただ、俺が読みながら頭に浮かべていた映像とは違っていたという話だ。俺がみていた映像はもっとトリップしていた。酩酊状態とシラフ状態の境界線がマーブル模様で入り混じっていた(インヒアレント・ヴァイスにシラフの時間なんてあるのかって?確かに不適切だ。だから言いなおそう。「パラノイア寸前の強烈にグルーヴィな酩酊状態」と「ちょっと“一巻き”ひっかけた程度のグルーヴィな酩酊状態」の2種類に)。トリップといってもプッシャーに生殺与奪の権利を握られた奴隷のような男がたどるみすぼらしい旅じゃない。インヒアレント・ヴァイスはロサンゼルスの醸し出すヴァイブスの力で、大体いつも思わず笑ってしまうバカバカしさに溢れている。だからといって、ただただバカバカしいだけではなく、その裏側にある切なさや不条理さがチラチラ見え隠れし、そして、それらの要素はバカバカしさとの対比で深い色を成し、加えて、時にはそれら全ての要素が明確に割り切ることが出来ずに塊で迫ってくることもある。エロいのか笑えるのか痛々しいのか切ないのか怖いのかなんなのか分からない感覚。まさしくエントロピー


おいおい。こんなにクローズアップが印象に残るものになっているとは。これは全くの予想外――


俺の脳みそは恐竜なみの超低価格の超低スペックモデルだ。その為、すこぶる記憶力が悪い。今朝食べたもの、それどころかさっき食べたものさえ記憶に残らない。そのせいで得することもあれば損することもあるのだが、じゃあこの度の強烈な忘れっぷりはどうだったんだろう。なにせ、映画を観終わっても尚忘れていたのだから。まさか、夢を経由して思い出すなんて。


何のことかって?


スポーテッロは大きな尻尾が邪魔な時代遅れのヒッピーだってことだ。

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

思いっきりなネタバレはしてないけど、どうしても触れたいところはあるので、そこはちょっと色を変えつつ触れてるのでご注意下さい。

かつてスーパーヒーロー役で一世を風靡した主人公(現在は没落中)がブロードウェイ進出を目指します。


はあ?またサブタイトルつけてんのかよ。もういいよ、こういう過剰に説明的なヤツ。バカにされてる感しかしねーし。え?何?これ元々あるんだ、じゃあイイ。OK、OK、問題なし。全っ然問題ないわ。そう言われたら品あるよな、このタイトル。「あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」。イケてる。ちょうイケてるよ。「あるいは」ってところも、「(   )」でくくってるところもオシャレ。まあちょっとスイーツなカンジあるけどさ。「予期せぬ奇跡」ってさ、なんつーか季節外れの雪が降ってくるカンジあんだよ。キラキラーつって。よく分かんねーけど。ん。ああ。OK、OK、じゃあちょっと観てくるわ――



……おいおい、ヒドいよな、このサブタイトル。いや、違うよ。イイ意味でだよ。そうきたか!と笑っちゃったよ。ヒドくて最高。まさかなー。いやまさかだわー。「あるいは〜」つって、これ褒めてるようで基本褒めてねーと思うし。ブラックジョークすぎるし。いやしかしさ、パラノイアのおじさんが意図せずしてヒーロー的なことになっちゃうのって、ちょっとスコセッシぽいよな。タクシードライバーとかキングオブコメディとかそんなカンジ。劇中、意図的に名前出してんのかな。たまたまかな。ま、それはいいか。とりあえず、俺、マイケルキートンが劇中で舞台化しようとしてるレイモンド・カーヴァーの短編小説、『愛について語るときに我々の語ること』を先に読んでたんだよ。でもさ、このサブタイトルじゃん?だから、愛に対してスイーツな味付けされてんのかなあ?とちょっと思ってたんだよ。だから、余計に「ヒドくて最高!」ってなったかもしんねーわ。でもさ、まんまなんだよな、カーヴァーの短編のまんま。カーヴァーの短編とこの映画の語る「愛」は、対象が違うだけで本質的には全く一緒なんだよ。ようするにさ、カーヴァーは対「人」への愛の有り様について書いてるわけじゃん。一方、この映画は「演じることへの愛」について語ってるわけ。「誰かや、それどころか、自分を不幸にしてしまうかもしんないけど、止めることの出来ない狂気を帯びた純粋な愛」ってのは一緒なんだよ。あ。ちょっとごめん。すぐ戻ってくるから。ちょっと待っててごめんごめん――



あーごめんごめん。どこまで話したっけ。まあいいか。じつはさ、俺、この映画、基本的には「釘付け!」ってカンジじゃなかったんだよ。とくにさ、1カット推してっけど、カット割ってるとこ丸分かりだしさ、例えば、登場人物が階段の踊り場にいって背を向けるたびに「勘弁してくんねーかな」ってなってさ。結構ノイズだったんだよ。いや、ラストは結構アガったんだよ。ラストちゅうか、あの辺からよ、あの辺、「あるいは〜」のとこから。そんなカンジだからさ、トータルでは弱いかな?と思った。でも、アカデミー作品賞受賞したわけじゃん?これがスゲーなと思ってさ。いやこれさ、アカデミーの是非つーことじゃねーんだよ。つまりさ、これはもう実世界における受賞まで込みで作品てカンジなんだよ。結局さ、1カットつってアレでしょ?演劇に対する憧れでしょ?でもそれに関してはさっき言った通り成功してないと思うんだよ。でもさ、頑張ってやったんだよ。そして、自分らで自分らに賞を上げたんだよ。このさ、なんつーかハリウッドからブロードウェイに対する「俺らもマジでやってんだよ!!!」アピールつーか、でも、なんか追いつけてない感ってのがさ、面白いなーとなったんだよ。皮肉だよなーつって。だから、ふと、よぎりもしたんだよ。もし、実世界においてこの作品がアカデミーにかすりもしなかった場合はどう感じたんだろう?っての。それはさ、はっきり言って俺は大好きだなーってなった。でもさ、アカデミー作品賞取れなかった時の魅力ってのは、結局、受賞したところからの逆算的なものでしかないから、やっぱ受賞してるって結末が最高なんだと思うわ。ハリウッドのセルフボースト感みたいなのもさ、なんかイイじゃん。でもやっぱ批評的なんだよ。「つまんなさ」があるおかげで。「つまんなさ」があるおかげでアカデミー賞に対して批評的になってんだよ。しかし、ここまでメタメタしてるとズルさあるよな。「つまんなさ」にさえ意味づけ出来るんだから。でも、そういうの俺は好きなんだよ。観終わってから何度も何度もシガシガ噛み続けてて味わってるカンジっていうのかな――

「アメリカン・スナイパー」は反戦映画なのか

映画評論家の町山智浩さんが、『この映画、どうみても戦争を賛美しているような内容じゃないのに、アメリカでは「イラク戦争でめっちゃ人を殺した男を英雄的に描いてて良い/悪い」みたいな論争になってて不思議』みたいな話されてて、まあ実際、イーストウッド監督自身も「イラク戦争に反対!」という発言されているようなのでアレなんですが、厳密にいうと、この映画の中心にあるのは「イラク戦争に反対!」では無く「国家によるイラク戦争に反対!」ということだと思います。もう少し言うと「戦争という蛮行への怒り云々」ではなく「個人の意思を利用する国家への怒り」だと思います。
なぜそう思うのかというと、そう描かれているからなのですが、じゃあ何故そう描かれているかというと、それはイーストウッドリバタリアンだからです。リバタリアン、すなわち自由原理主義者。「国家は個人の生き方に介入すべきではない」という考え方です。


じゃあ軍隊というものをどう考えているの?
『そんなもん奴隷制度の一種じゃ!ええわけないやろが!』
そんなこといって敵が攻めてきたらどうするのですか?
『そん時は自分を守る為に自分で武器を取ったらええやろが!』
といったカンジ。


つまり、イーストウッドは究極的には「戦闘」そのものは否定しないはずです。だから、もし主人公の戦いが、国家の意思の介在しない、あくまでも一個人による純粋な(?)自衛の為の戦いだったとしたら、監督は主人公を「良心の呵責なくテロリストたちを殺しまくる人物」として描いていたかもしれません。まあそんなことはないでしょうが。しかし、とりあえず、この作品はそうなってはいない。主人公は自分の行いに疑問を持っている。「国家」の意思と「個」の意思に乖離があり、そこに悲劇性が生じている。それは戦争の是非とは別の話です。


ちなみに、この作品、イラク人テロリストたちを問答無用の極悪人集団かのように表現してて、そこには「自衛の戦闘の正統性」の残滓とでもいうべきものが悪い意味で存在しているように感じ、この辺も賛否が分かれることの原因になっているように思うのですが、これ、例えば、極悪テロリスト集団に雇われている凄腕シリア人スナイパーの造詣をもっと深みのあるものにしていれば、今この作品を取り巻くどこか横滑りした論争を避けることが出来たのではないかなあと思ったりもします。
劇中、派兵のたびにネイビーシールズ達の前に立ちはだかる元オリンピックメダリストの凄腕スナイパー。彼はその出自からして極悪テロリスト集団とは一線を画するポジションに居ますが、そのキャラ設定にもうちょい味付けをし、例えば、彼を――他人の土地に入り込み、圧倒的兵力で現地の人々ををなぎ倒す悪鬼の如き「侵略者」であるネイビーシールズに対して「自衛」の為に立ち向かう「カウボーイ」的な男――として描いていれば、同じ「戦闘行為」というカテゴリーの中でのそれぞれの置かれている立場の違いが見え、監督の意図がより明確になっていたんじゃないかなあと思うのです。
そもそも、イーストウッドは「グラントリノ」において「アメリカの良心を仮託するのは別に純アメリカ人である必要はない」と描いているわけですから、この作品においても、そこまでいっちゃっても良かったんじゃないでしょうか。いやまあでも無理かな無理ですね。それはちょっと別次元のような気がするし、そうするとまた別の論争が発生しそうだし。


まあとにかくです、何度も書きますが、この映画の肝は反戦云々ではないと思います。反戦は内在しているけど肝ではない。主人公の精神が疲弊していったのは何故か。それは国家のせいです。自己犠牲的な自由と正義を愛する心を利用し搾取する国家こそが悪なのです。


この搾取の問題は、別にアメリカに限った話ではありません。イスラム世界でも、そして日本でも同じだと思います。自己目的化した国家という概念、と、そのシステムに乗っかる輩というものはホントにロクなもんじゃない。

ちなみに「システムに乗っかる輩」ってのは為政者だけを指すものではありません。それを支持する保守的思想を持つ人間たちを指すのみでもありません。もっともっと広域な話、つまり、この映画に関していうなら、世間の雰囲気が『これは反戦の話です!』となった時、その言葉をただただ鵜呑みにして同意してしまうような批評性の欠落した方々も共犯だと思うのです。さらにいえば、『一概に反戦がテーマともいえんくないですか?』つったら『そんなわけはない。そもそも「反戦」は正しい考え方だ。その正しい考え方に同意しないなんてさてはお前※※だな』なんて言ったりする。これはじつに危うい。危うすぎる。いやだからこの作品、別に「反戦」の映画ではなくはないんだけど、もう少し考える余地のある作品だし、そこを自分の言葉で論理的に考えることが大事なのではないでしょうか。そうはしない彼彼女らの唱える「反戦」は容易に反転するもののようにしかみえません。だって旗の振りようでどうとでもなびくんだもん。自分でモノゴト考えてないんだから。中身ないんだから。ただ何かに依存しているだけなんだから。『同意しないなんてお前※※だな』の『※※』はどんな言葉でもいいんだから
その無根拠さと、ままそこから派生しがちな1mmの謙虚さも持ち合わせいない無遠慮な圧力のかけっぷりというのが、イーストウッドが批判する「ロクでもないシステム」を生み出しているんじゃないですか??