男性差別、日本人差別、そしてオタク差別

差別の定義という話になると泥沼にはまるのは目に見えているとはいえ、一般的に差別が行われているとこういう事象が起きるという目安は確実にある。差別は特定の社会集団に対してなされ、被差別者集団は社会的経済的に不利な状況に置かれる。これは広く見られる差別の判断材料であろう。


集団が不利な状況に置かれるわけだから、統計的調査によって特定集団が社会的経済的に不利な状況にあることは可視化されやすい。まずもっとも統計的にわかりやすいのは経済的指標であろう。財産・所得・賃金などの統計を参照すれば、日本においても世界においても、被差別集団が不利な状況に置かれていることは明白である。


社会的な状況もある程度は統計的な数値に落とし込める。例えば、指導的な地位にある者の性比や出身民族の比率が母集団における比率と大きく異なっている場合などは統計的に可視化されやすいだろう*1。こうした指標においても、被差別集団が不利な状況にあるのは明白なようである。特に、性比がだいたい1対1であることを考慮すれば、社会的な性差別の状況は誰の目にも明らかなはずであろう。


他にもいろいろな指標は考えられるが、もう一点だけ具体的なものをあげておくと、犯罪統計も差別の実態を表す。犯罪は一般に弱者を狙って行われるものであり、被差別者は社会的構造的な弱者であるからだ。暴力や虐待の被害者となりやすいのは誰かという問題である。この観点では、子供・女性・老人・障害者・LGBTなどが被差別集団にあたるだろう。

ここで注意を喚起せねばならないのだが、偏見やステレオタイプと差別をいっしょにしてはならない。例えば社会的なバッシングは必ずしも差別とはいえない。連日マスコミに財務官僚が叩かれているからといって、財務官僚が社会的経済的に不利な地位に追いやられているわけではない。そんなわけない。


マンガ的戯画化されて笑いものにされているからといって差別されているわけではない。ぐりぐり眼鏡のガリ勉くん、脳みそ筋肉スポーツマン、女ったらしイケメン野郎などは典型的に戯画化されているわけだが、学業優秀な者もスポーツが得意な者も容姿端麗な者も、社会的経済的に不利な状況にあるわけではない。そんなわけねえだろ。


ネットやマスコミで叩かれている、あるいは笑い者にされている、それだけでは差別されているとはいえない端的な例を上記に示した。ちょっと叩かれたり笑われたりすると「差別だ」と言い出すお馬鹿さんが少なからずいることにはうんざり。ただし、社会的経済的に不利な状況に置かれているという「実態」がある場合は、社会的に叩かれることや笑い者にされることは非常に深刻であることはもちろんである。

根拠に基づき、実証的に、あるいは科学的に考えることの重要さはいまさらいうまでもない。差別も社会的な事象である以上、それは統計的に現れるはずであるし、現に古典的な差別は統計的な数値に具現化している。ここを押さえない差別論は主観的な印象ではなかろうか?


さてここで質問である。
特に、男性差別、日本人差別、オタク差別を主張する方々に質問である。
男性・日本人・オタクが日本社会において社会的経済的に不利な状況に置かれているという統計的な調査ってあるの?
あったら教えて!
その存在を知らないから否定しているのではない。知らないから教えてと言っている。

先程の質問であるが、男性差別と日本人差別については、質問というより反語である。
社会的経済的に女性が不利な状況に置かれているということはどんな統計を見ても明々白々だ。また、日本国内で圧倒的多数の日本人が不利な状況にあるという統計的根拠もない。このあたりは明確に否定できる。男性差別にも日本人差別にも少なくとも統計的な実態はないどころか統計に見られる実態と逆の主張である。


オタク差別については、根拠重視の観点からは保留である*2。上述した犯罪被害者になりやすさということにおいて、いわゆるオタク狩りというものが先進国でけっこう一般的に見られたという話をどっかで読んだw 犯罪統計にはそんな項目はなさそうだから実証は難しいだろうが、暴行や強盗の裁判記録を丁寧に拾っていけば何か分かるかもしれない。
キモオタという言葉があるが、キモの部分、つまり容姿差別というのは統計調査や社会心理学調査で何度も取り上げられ実証されているようだ。しかしオタの部分、すなわち純然たるオタ趣味が理由で社会的経済的に不利な状況になるというのは、そうした話をきいたことはあるのだが、いわゆる噂の域をでない。実名を出した体験談があっても、個別のケースでしかないものは集団が不利に扱われたという根拠としては弱い。就職などに関わるオタク差別があるのなら、裁判にでもなっていると思うのだがどうなのだろう。左翼活動で就職・配置転換などが不利になったという事例は、統計にこそ現れないとしても裁判沙汰になって記録に残っているものは多く、憲法や労働法の教科書に載っているものまである。左翼が社会的経済的に不利な状況にあったというわけで、客観的に確認できる体験談であるとはいえよう*3


だからそういう統計があったら教えてほしい。オタク差別の存在を確信する社会学系の学生諸君はいっちょ卒論のテーマにでもしてみたらどうだろうか? 不利な状況にあれば必ず統計に現れるはずである。差別の存在を実証するのは被差別者ではなく学問の責務なのだ。


ただし、現時点で否定はしないがオタク差別があるという前提に乗ることはできない。オタクに対する偏見があることも戯画化がなされていることも知っているが、それはすなわち差別を意味しない。差別があるというのなら、社会的経済的に不利な状況にあることの客観的な根拠を知りたい。あるいはせめて複数例の裁判記録を。

昨今のネットにおける「きれいな差別ときたない差別」とか、いわゆるポリコレの話にも関連があると考えて書き飛ばしてみた。
そもそも男性差別や日本人差別というのは、実態のある性差別や民族差別を無化するために小学生が思いついたレベルのでっちあげといえよう。オタク差別は前二者とはだいぶ違うとは思うのだが、オタク差別を主張している者が前二者を主張する者と重なっている事例を観察しているし、また、オタク差別を主張する者が実態のある他の差別を軽視する発言をする例も観察されるので気になっている。もちろんこれは個人的な観察の域をでない。
差別問題に限らず大切なのは「実態のある〇〇と実態のない〇〇」であることは最後に確認しておく。

追記

id:death_yasude
どちらかというと被差別者が犯罪に手を染めることのほうが多いし加害性を強調されやすい。問題のある集団だからを排除の根拠にしやすいから


メリケンの犯罪統計(例えばwww.clair.or.jp/j/forum/pub/docs/380.pdf)を見ればわかるが、殺人・傷害・強姦などの対人犯罪は同人種内で行われることが多い。例えば殺人の動機は「カッとして」がどこの国でもだいたい一番多いわけで、当然ながら被害者は同じ境遇の者となる。
つまり黒人に犯罪被害者が多いということと加害者が多いということは一致することとなる*4


また、ご指摘の点は人種差別・民族差別については確かにあてはまるのだが、性差別についてはあてはまらない。どこの国の犯罪統計でも、女性が加害者となる事例が過半数を占める例はないと思う。日本においてはだいたい20%くらいかな。
そういうわけで、被差別者に犯罪加害者が多いというよりは、被差別者に犯罪被害者が多いというほうが適切であろうと考え、そうした記述になった。

*1:アファーマティブアクションはこうした状況の是正を狙ったものである。うまくいっているかどうかは定かではないが

*2:オタクに対する偏見については、個人的には新規に勃興したメディアへの叩きなのではないかと思っている。昔は小説を読むと馬鹿になるとか嫁に行けないとかいわれて叩かれたようで、それとゲームやアニメ叩きは同型なのではなかろうか

*3:ちなみに大学紛争などで運動を取り締まる側にまわった運動部や応援団などの学生の就職は非常によかったという「体験談」は多いようだw

*4:財産犯については被害者は「持っている者」となるからメリケンでは白人が多くなるわけだが

上っ面への誠実で差別主義者が笑う

承前 https://anond.hatelabo.jp/20180225105423

前回エントリの追加エントリをあげる。

1.増田結論部への逐語的応答


「そんなに差別と認めさせたいなんて、増田は何が目的なの?」


同じロジックで不当な差別をさせないため。
「犯罪率が高い集団の成員をまとめて排除するのは差別じゃない」という論理は、たとえば歴史的に差別されてきた結果として犯罪に手を染めることが他の地域の人よりも多くなってしまった地域の人を差別することにつながる。「私企業なんだから別に勝手に『女性専用』を設定していいだろ」という理屈は、私企業が「日本人専用」や「○○人お断り」をすることを許容してしまう。「これは差別ではない、区別だ!」という言い方は、女性が不利益を受けたときに「でもこれは区別だから」で済ませる余地を与えてしまう。
それらは不当な差別だ。でも、不当な差別と現今の環境下では許容せざるを得ない差別は、外形上区別できない。だったら、変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕うべきじゃない。それは前者をも免罪してしまう。


引用は増田記事の結論部全文。
逐語的に応答してみる。


「「犯罪率が高い集団の成員をまとめて排除するのは差別じゃない」という論理は、たとえば歴史的に差別されてきた結果として犯罪に手を染めることが他の地域の人よりも多くなってしまった地域の人を差別することにつながる。」
ここは問題ない。
付け加えると、こうした偏見に適正な犯罪統計が根拠とされることすらほとんどなく、ネットの伝聞や広まった捏造データが添えられることがほとんどである。もちろん増田がいっているのは、適切な統計があってもそれは差別だということだ。


「「私企業なんだから別に勝手に『女性専用』を設定していいだろ」という理屈は、私企業が「日本人専用」や「○○人お断り」をすることを許容してしまう。」
問題あり。
この理路では、例えば飲食店が顧客獲得のために「お子様ドリンクバー半額女子会プラン(追記:論旨を明確にするために差し替え)」などを設定して宣伝することも差別になる。経営戦略上、企業が特定顧客を優遇することは原則的に差別になってしまう。


「「これは差別ではない、区別だ!」という言い方は、女性が不利益を受けたときに「でもこれは区別だから」で済ませる余地を与えてしまう。」
問題あり。
この理路では、憲法学における「合理的な区別」も、あらゆる年齢制限も差別になってしまう。


「それらは不当な差別だ。でも、不当な差別と現今の環境下では許容せざるを得ない差別は、外形上区別できない。」
おおいに問題あり。
ここで増田は個別事例を丁寧に検討することをスポイルすると宣言しているのと同様である。外形的に区別できないから同じ基準を適用、というのは、個別の状況はおかまいなしに「人を殺したら死刑」というハムラビ法典の世界である。乱暴この上ない議論だ。
私企業における不適切な特定顧客優遇措置は個別に問題にすればよいと僕は思う。裁判における「合理的な区別」についても、個別例を検討して批判すべきだろう。年齢制限はおおむね正当であろうが、やはりおかしなものがあったら是正すればよい。差別問題において個々の事例を検討せずに生産性のある(つまり、増田が目的とする差別を少しでも減らす)ことに資する議論なり活動なりができるわけがない。



「だったら、変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕うべきじゃない。それは前者をも免罪してしまう。」
つづいておおいに問題あり。
個別の状況を検討することが増田においては「変な理屈」になってしまい、外形上の類似性・連続性のみをとりだして一般化し、さらにそれを敷衍して「前者を免罪」との結論をだしているわけで、これは言葉遊びである。


以上、増田の議論の結論部に逐語的に応答した。
増田の議論の動機が善良なものであることを僕は疑っていないが、善良であるがゆえに性急さを求め、個別検討をスポイルして乱暴な一般化に陥っているといえよう。
そしてそれゆえに実にわかりやすく、結果として広く流布したのであろう。

2.増田の言論の効果

では増田のいうように「女性専用車両は差別」であると周知されるとどうなるだろうか?
増田の目的としては「同じロジックで不当な差別をさせないため。」とあるが、これは達成されずにむしろ意図と逆の結果におわるだろう。増田が表面的でわかりやすい論理的整合性に固執して、運動論を考慮していないからである。
差別を漸減させることを目的とするのであれば、その方法論・運動論を考えなければならない。


女性専用車両は差別」と周知された場合、「女性専用車両をなくすように性犯罪を撲滅しよう」とはならず「女性専用車両そのものが差別だからなくそう」という運動に正当性が与えられることになる。
なぜか?
差別という語は不当性を含意している。否定的意味を内包している。国語辞典に書いてあるから不当を含意しているのではなく、不当を含意しているから辞典の記述もそうなっているのである。そこからいささか飛躍して、「◯◯は差別だ」という言明は「◯◯は直接的に排除すべきものである」というかなり乱暴な含意すらもつ。現にネット上では「差別というのは気に食わないものを排除するマジックワード」のごとき言説にあふれている。これらの言説の多くは誤解に満ちたものであろうが、運動論を考慮した場合は無視してはならない。


「わざわざ乗り込んで反対運動やってる連中は頭おかしいんじゃねーのと思う。周りを威圧するとか、クズすぎでしょ」と女性専用車両にのりこんで反対するものを増田は述べているが、「女性専用車両は差別だ」と周知された場合に笑うのは彼らである。


自衛隊暴力装置」発言が炎上したときは、「自衛隊の振るう力とヤクザの振るう力に根源的な違いはなく、また暴力装置であると指摘することは自衛隊員での侮辱ではなく、暴力装置と認めた上でどう統制するかが重要」というのが良識派の意見ってことになってたよね……? その見解を支持するリベラル派としては、何で同じ理屈が認められないのか本当に理解に苦しむ。


僕のブコメに応答した部分であるが、増田が運動論を考慮していないことがここでもわかる。「自衛隊暴力装置なんてけしからん」とふきあがったのは自民党の国会議員センセイであり、彼らに対しては「あんた政治のプロでしょ? 法学・政治学上は軍隊や警察は暴力装置なんですよ、勉強してくださいね」といえば本来は済むはず(いや、まあ実際は済まなかったんですけどね・・・。政治における反知性主義の蔓延をよくあらわす話だ)。
しかし、自衛隊に関連してなんらかの運動をしようとするならば「暴力装置」などという子どもや自民党のセンセイにはわからない言葉は使わないほうがよい。子どもより馬鹿な大人だらけなのである。


また、逐語的応答で示したとおり、増田の理路では差別とされる対象がいっきに拡大する。形式だけを考慮して個別事例の検討をスポイルするのだから際限なく広がりえる。どこもかしこも差別にあふれる。差別が遍在することによって反差別は蒸発する。
ここでも笑うのは差別主義者となろう。

3.他の難点

増田はある事象が差別かどうか判断するのに形式的な連続性のみを見ていることは述べたとおり。差別は歴史的・文化的・社会的・構造的なものでもある。「「犯罪率が高い集団の成員をまとめて排除するのは差別じゃない」という論理は、たとえば歴史的に差別されてきた結果として犯罪に手を染めることが他の地域の人よりも多くなってしまった地域の人を差別することにつながる」と増田は発言しており、一見すると増田は歴史的な視点を確保しているかにみえるが、実は増田の議論はこの視点が決定的に抜けているどころか忌避すらしていることを示そう。


id:shin2rou
アファーマティブアクションは差別ではないでしょう。どうしてそこのこだわるのかマジ意味不明。


アファーマティヴ・アクションはマイノリティを大学入学や昇進などの審査において「優遇」するという施策なんで、女性専用車両はアファーマティヴ・アクションだから差別じゃないって言ってるひとたちは「女性専用車両は、女性を優遇する車両である」と主張しているってことになるけど、本当にそれでいいんですかね。
ところでもちろんアファーマティヴ・アクションもやりようによっては違法な差別になりえるわけだが。カリフォルニア大学評議会対バッキ事件(Regents of the University of California v. Bakke)では、アファーマティヴ・アクションのせいで入学できなかったと訴えた白人学生が勝訴して入学してる。アファーマティヴ・アクションだから差別ではない、って、お前アファーマティヴ・アクションって言いたいだけやろ。


アファーマティブアクションについて突っ込んだブコメへの増田の対応。
まずアファーマティブアクションの目的は「優遇」ではなく差別の是正。もっといえば実質的平等の確保。詳細は( macska dot org » 世界一単純なアファーマティブアクションの解説 )を参照のこと。つまり差別への対抗的措置であって、女性専用車両とその意味では同型なものだ。形式上の同一性に執着するくせにここではこれかい? おかしいよ、増田。
また、「アファーマティヴ・アクションもやりようによっては違法な差別になりえる」と言っているが、もちろん適正に行えば差別に当たらないということは確定している。で、ここで重大なのは、増田の理路に従えば適正なアファーマティブアクションも差別になってしまうことなのである。
総体として増田はまあまあ誠実に対応しようとしていると思うが、ここの急所の部分に対しては完全にごまかしになっちゃってるね。他の部分が台無しのレベル。


実はここも、個別事例の検討をスポイルするという増田の致命的な欠陥の当然の帰結となる。形式上の同一性だけで差別かどうか判断するというのだから、歴史的・文化的・社会的な要因を考慮することはありえなくなり、アファーマティブアクションをちゃんと評価することができずに逃げちゃうわけだ。
こんな差別論は何の役にもたたんだろ。

4.結論

女性専用車両を差別と認めるべき」という増田の主張には妥当性がない。
外形上の類似性にのみ固執し、個別事例の検討をスポイルするという致命的な欠陥が議論のすべてに影響している。
理論的には極めて表層的な増田の議論が周知された場合、差別が遍在化して結果的に反差別運動が消滅し、差別や犯罪への対抗措置への反発が正当化されることとなろう。
増田は性急すぎるんだよ。キツイ言い方をすれば、誠実さが上っ面にだけ向けられてしまい、無意味どころか有害な言葉遊びになってしまっている。


つまりは


上記記事も結局のところ、女性専用車両の設置を一般的な用法における差別にあたるとは認識しておらず、女性専用車両を設けることは差別でないとする者との間にさしたる差はないのではないだろうか。見解にさして相違もないのに、一般的でない語用を行いその語用自体をめぐって争うというのは、ばかばかしいことだ。私があまり実りのある話題でもないと思う所以である。


「差別ではあるよね」で合意できない理由 - U.G.R.R.


ということに結局なるのである。


僕からの愚直な対案をもってひとまず批判を終えるとしよう。
「第三者がなんらかの事例を差別と指摘するなら、当該事例を丁寧に検討し、許容できないような不当な人権侵害に対して行うべきである。無論、当事者の訴えを軽視しないこと」
当該事例の丁寧な検討については、差別をどう判断するか - U.G.R.R. などが参考になろう。

5.蛇足でブコメに応答

前エントリの再追記で応答しないとかいったけど、気が変わったので、僕への反論や指摘をしたブコメに応答する。
なお、crowserpent氏およびtick2tack氏からの指摘については前回エントリ再追記で全面降伏応答済みである。
本当に蛇足なのでコールされた人以外読まなくてよい。

id:Caterpoker
別に辞書と違う言葉の定義を使っても、その文章が非論理的というわけではない。(というかそもそも辞書は言葉の意味を定義せんとするものでない)

辞書と違う意味で言葉を使ったら、通じなくても当然です。増田の意図からするとそれはまずいわけで、目的との整合性がとれていませんね。それは非論理的です。
また、僕は語の一般的な用法を確認するために辞書を使っています。

id:sbedit1234
不当な差別がある以上、正当な差別も有ろう。差別という単語に何か妙な〜例えばそれは無条件に悪い事であるとか〜思い込みがあるのだろうか。

差別が否定的意味を内包しているから辞書にそのような記述があるのだということをまず理解してから人前で発言をされたらいかがでしょうか? 率直に申し上げて馬鹿の見本ですが、このような馬鹿の見本に現段階で5つも☆がついていることが眩しいです。


id:junmk2
特定民族への差別が不当で男性への差別が正当と論じる事は不可能だろう。あんた出来るの?

そんなことは誰もいっていません。特定民族への差別はダメな差別で女性専用車両は許容すべき差別だというのは増田がいっています。僕は、差別というのはそもそも不当なものだとは広く含意されていて辞書にもあると例示しました。これに☆が4つついているのにも驚きです。

id:sumomo-kun
増田よりずっと頭悪そうな文しか書けないんだなぁと、思いました。 学問的訓練って大事だよね。 こういうときにお里が知れる。

はい。恥ずかしながら学問的素養が不足しているので、増田の議論に決定的に瑕疵があるのはすぐにわかってもどこがどうおかしいのかを文章化するのに少し時間がかかってしまいました。ところで、学問的に訓練されていると増田のあの乱暴きわまるロジックを擁護できるというのであれば、非学非才の身としては実に勉強になりますので何らかの形で提示していただけませんでしょうか?
自分から煽っておいて、まさかできないってことはないですよね? それともそういう「お里」ですか?

id:fuktommy
ただの言葉遊びじゃないか。現今の環境下では許容せざるを得ないが、本来は不当な扱いだから差別と言ってんだろ。

記事に示したとおり、言葉遊びをはじめたのは増田です。


id:songe
「差別は反対だ。何が差別かは俺が決める」という態度はちょっと…

今回のびっくり大賞がこれですね。
国語辞典に書いてある記述は僕が決めたものではありませんw。何度も何度も書いていますが、一般に含意されている語義を辞典確認しているわけです。それがなぜ「俺が決める」になるのか、どのような理路がそこにあるのか、いくら考えてもわかりません。
しかもこのブクマに現時点で14人が☆をつけていらっしゃいます。このコメントをしたsonge氏、および☆をつけた方々には後学のために説明いただきたいと思います。
ウェブ上で不特定多数に向けて文章を公開する以上、馬鹿なことを言えば馬鹿にされるのは当然のことだともちろん僕は理解しています。しかし根拠のない罵倒や誤読の上での中傷をする、あるいはその尻馬にのっかって説明を求められてもできないというのは、中傷を行った論者の信用を著しく毀損するものであることも承知しています。
☆をつけた方々は中傷にのっかって自分では説明できないような低劣な論者ではないことを期待しています。ああ、メモしてませんから黙ってそっと☆を消してもいいですよ♪

id:fujifavoric
この文章をもって元増田を非論理的だと断じられる自信はすごいなと思いました/ちょっとこの話題自己の無謬性を信じてやまない人たちが多すぎる

そうですね、「自己の無謬性を信じてやまない人たちが」いろいろあぶり出されているのはわかります。

id:dagama
辞書の定義によると差別じゃないぞドヤって言われてもふーんお前の中ではそうなんだねー戦争しかないなってなるよね

これもすごい! あなたがどこの星の住人なのか存じませんが、「お前の中ではそうなんだねー戦争」を回避するために人は辞書をひくものですよ、地球という星では。これにも☆が4つついてやがる・・・

id:otoan52
上の定義の「特に」の意味の取り方を間違っている。下の定義では「特定の人々の不利益・不平等」が合理的な判断として「正当性をもつ」場合を除外できない。

id:mamiske
辞書の「特に」は「狭義には」の意味なので、そこから先がなくても広義では成り立っている。

お二人は同じ指摘をされているのでいっしょにさせていただきました。
僕の「語義矛盾」という言い方も誤解を招くものでしたが、辞書の参照は一般的に流通している語義の確認として使っています。これだけでお二人には十分かと思います。


id:lylyco
「不当な面もあるが現時点で最適解であることは認める。ただし不当性を認めない思考には懸念を覚える」という繊細な話に「語義矛盾だ。不当なものは認められない。(社会/私/あなたが)認める以上不当ではない」と。

増田の議論は繊細どころか乱暴きわまるものであることは本エントリで示しました。

id:altar
増田の主張だと「価値中立な差別的取扱」の概念に「差別」の語が使われているだけで、それを語義矛盾としたところで増田の主張自体に対する反論としては意味がない。

「価値中立的な差別的取扱い」の概念に「差別」という強い否定的ニュアンスを含意する言葉を使うことが、価値中立性を損なってしまう。それが大きな問題だということです。「〜使われてるだけ」で済ませてよい話ではないのです。

id:nt46
増田は女性専用車両の正当性(あるいは不当性)についての合意は求めておらず、差別か否かについての合意を求めているんでね。性別による制限は「不当」だが「合理性」が凌駕するという「主張」からはおかしくない。
つまり「不当性」も「合理性」も併存する状況にあって、増田にとって「合理性」が上回っているから「正当な差別」と言っただけのこと。どこぞのお馬鹿さんは"子供にわかりやすい"から片方をないことにしたが。

今回一番まともな反論。整合性のある論拠を示されれば、馬鹿呼ばわりはまったく問題ないし気にもなりませぬ。うれしいくらいですね。
まず、nt46氏は正当性と合理性の語の使いかたがおかしいがこれは僕のせい。先日エントリの再追記を確認してください。あと、ご指摘の内容についてはnt46のいう「合理性」も増田の議論にはないことは示しました。「子どもにわかりやすい」となぜ書いたかもわかるようになってます。


あと、名前は出さないけど増田の意図や人格に対して何らかの疑義をもった人たちにいいたいけど、ここでも書いたとおり僕は増田の善意を疑っていません。真面目なやつだと思って好意的にみてます、ほんとです。言っていることはダメだと思いますけどね。

「正当な差別」? なにそれ?(再追記あり)


承前

上記の増田は非論理的であると考えるが、ブコメをみるとやけにもちあげる意見が多く、苦笑いしている。簡単にだが、増田の非論理性を説明しておく。


増田は結論部で以下のように発言している。


「これは差別ではない、区別だ!」という言い方は、女性が不利益を受けたときに「でもこれは区別だから」で済ませる余地を与えてしまう。
それらは不当な差別だ。でも、不当な差別と正当な(というよりも、現今の環境下では許容せざるを得ない)差別は外形上区別できない。


増田は女性専用車両は「正当な(というよりも、現今の環境下では許容せざるを得ない)差別」であると考えているようだ。ところがこの論理が日本語としておかしいのである。
国語辞典を参照してみよう。

差別
[名](スル)1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の差別を明らかにする」

2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって差別しない」「人種差別」

デジタル大辞泉



( 名 ) スル
1 ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。 「いづれを択ぶとも、さしたる−なし/十和田湖 桂月」
2 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること
大辞林 第三版


いずれもこの文脈では(2)の意味であるが、ここでポイントとなるのは「不当に」「偏見や先入観などをもとに」という意味が「差別」という言葉に内包されていることだ。「偏見や先入観」も不当なものといえるので、(2)の意味で使われる「差別」という言葉はその語義に「不当性」という意味を抱えているということである。
ここで、「差別」という言葉を大辞泉にならって「不当に低く取り扱うこと」と言い換えてみると、「不当な差別と正当な(というよりも、現今の環境下では許容せざるを得ない)差別」という言い方自体がおかしなものになることは明らかであろう。「正当な「不当に低く取り扱うこと」」ってなんだよ? おかしいだろ?


検索すると、この「正当な差別」という語義矛盾まるだしの言い方が結構はびこっているようである。推測であるが、「不当な差別」という「頭痛が痛い・馬から落ちて落馬した」のごとき言い方がまず蔓延し、そこから「正当な差別」という非論理的な言い方ができてきたのではなかろうか?
(追記:英語のdiscriminationには不当性という意味合いが内包されていないようである。例えば、プログレッシブ英和中辞典によると、a man of discrimination で「違いのわかる男」みたいな意味になるようだ。したがって、不当性を明らかにしたいときには、unjustなどの形容詞をつける必要がありそう。unjust discriminationをそのまま訳すと「不当な差別」となる。「不当な差別」というおかしな言い方が日本語に定着したのはこのあたりも一因かもしれぬ)


「差別」という言葉には不当性という意味が内包されているので、憲法や労働法などにおいて差別は禁じられている。女性専用車両は裁判においても違法性を棄却されており、これは単純に言えば「不当じゃないから差別じゃないよ」ということである。
増田の議論はかえって混乱を招くだけではあるまいか?


以下、増田が僕のブコメに応答しているので再応答

tikani_nemuru_M 増田も結論部で「不当な差別」と「許容せざるを得ない差別」を分けている。ならば、前者を「差別」後者を「差別ではない」と言ったほうがシンプルで、子供にも説明しやすいだろう。よって増田の主張は不適当。

でも、それだとその2つが連続的な、同質な行為だということが理解できなくならない? 私は、子供に「男性の痴漢が多いから男性の入れない女性専用車両がある。これは差別ではない」と、「○○人の犯罪者が多いからといって○○人を排斥しようとするのは、不当な差別だ」ってどう違うの? って聞かれたら答えに詰まると思う。だってどっちも、一握りの犯罪者をもとにある集団を推し量る、っていう同じ行為じゃない。だったら、どちらも差別と認めた上で、差別を漸減させていくために何が必要かって話にした方がいいんじゃないの?
それに、2つを別々の言葉で扱うことは、片方を「あって当然で、解消しなくていいものだ」と捉えることにもなる。そうじゃない。痴漢が撲滅され、女性が何の不安も感じずに電車に乗る日が来るなら、女性専用車両なんて必要ない。それはあくまで、日常的な性暴力の脅威に対抗するために、やむを得ず認められている差別にすぎないんだ。それは差別と認識されるべきだ。いつかその存在が正当化されなくなる日が、目標にされるべきだ。私はそう思う。


女性専用車両と特定民族の排斥は形式的には地続きの面はある。しかし、増田もよく理解しているように、両者には正当なものか不当なものかという違いがある。僕たちが目指すべきなのは「不当なことを減らす」ことである。差別という言葉に不当性という意味が内包されているのだから、差別=不当な取り扱いを減らす・なくす、でいいんだよ。
性差別をなくしていくことで女性専用車両という措置・配慮が不要になればよいという増田の方向性には強く賛同する。



(再追記でブコメに応答)


id:crowserpent
女性専用車両の是非自体とは別の問題として、「一定の合理性があれば差別でない」という理路はダメだと思う。「合理性」と「正当性」を区別せずに扱うのはおかしい。/参照:http://macska.org/article/184


これは応答の必要がある。おっしゃるとおりです。
憲法学における「合理的な区別」の議論が頭にあったので、合理性という言葉をつかってしまいました。いちおう、言い訳をしておくと、憲法学における合理性というのは経済的な合理性ではなく、憲法的諸価値を実現するための合目的的な合理性ということになります。しかしそもそも僕は一般的な語法・語感の点から増田を批判しているので、憲法学におけるタームを持ち出すのは不適当でした。



あと、追記の間違いを指摘していただきありがとう>id:tick2tack
正当性と合理性まわりでやらかしてしまいました♪


他は特に応答の必要はなさそう。
増田は許容できるものと許容できないものの2つを措定しているので、それをどう呼ぶかはいわば神学論争あるいは言葉遊びであり、言葉遊びをしかけたのは増田のほう。憲法まわりなどで差別を禁じる条文が周知されている以上、よほどのメリットがなければ増田の語法を採用するのは混乱を招くだけ。
というか、女性専用車両が差別ということになったら、「女性専用車両反対運動」を正当化するという効果がでてきてしまうわけよね。本来の増田の理路であれば、結果的に女性専用車両がいらなくなる状態を目指すべきということになるはずが、性犯罪に対抗するためのやむを得ない措置そのものに反対することを正当化してしまうという大きなデメリットまである。だから、必要悪だろうがなんだろうが、許容できるものであれば差別と呼ぶべきでないという話である。
よって言葉遊びとして対処するのが適当なので国語辞典で語義矛盾を指摘すれば十分だろう。

コンビニエロ本問題を考える(結

承前

コンビニ各社が参加しているセーフティステーション活動が毎年リポートを出している。これを見ると、エロ本の取扱店舗の件数がわかるので参照してみよう。
ちなみに、この文でいう「エロ本」とは主に自慰行為のお供として制作され、そのような目的で購買され使用されると一般に認知されている雑誌のことで、コンビニで「成人向け雑誌」と言われているものを指す。

H26リポート 母数50329店
成人向け雑誌取扱をしない店舗 4521店=9%
ゾーニングしている店舗    45507店=90.4%
ゾーニングしていない店舗    301店=0.6%


H25リポート 母数46271店
成人向け雑誌取扱をしない店舗 3995店=8.6%
ゾーニングしている店舗    42035店=90.8%
ゾーニングしていない店舗    241店=0.5%


※H24リポート以前は「店舗に有害図書指定の案内があった場合の対応」に関する件数報告なので比較できない


上記の通り、H25からH26にかけては、成人向け雑誌を取り扱う店舗数は増えているが割合としては微減となっている。
みなさまご存知のように、ミニストップ全店でエロ本の取扱をやめることが決定している。さらに、店舗コンセプト・ブランディングとしてエロ本の取扱をしないという方針のチェーンは他にもあるようだ*1
エロ雑誌を取り扱うコンビニ店舗数は今年から来年にかけて大きく落ち込むことになる。ただ、他のコンビニがこうした流れに追随するかどうかは単純な話ではない。

例えば、セブンイレブンは立地条件を20以上のセグメント化していて、それぞれの立地条件において商品ラインを微妙に替えているようである。ぶっちゃけ、中高年男性が多く立ち寄る立地では、エロ本は収益源として有力なのだろう。
特に中高年において、コンビニの利用比率は男性のほうが多い。料理や買い物には一定のスキルが必要であり、女性は一般に男性よりこのスキルが高いので、食料品の買い物はスーパーマーケットなどでおこない、自分で調理する傾向がある。中高年男性は日用品も食料もなんでもコンビニですませようとするようだ、エロも含めて*2
ここで、既存の中高年男性顧客を大切にするか、高齢化して買い物も調理も面倒になってきた女性層などを新規に開拓するかでコンビニの戦略は変わってくる。その戦略が典型的にあらわれるのがエロ本ということになるのだろう。


推測だが、ミニストップ(と親会社のイオン)やエロ本撤去を決めた他のチェーンは、過密出店をするセブンイレブンあたりに比べてターゲットとなる顧客層の構成が単純なのだろう。最大手ではないがゆえに顧客を絞りにかかっているということでもある。セブンあたりでのエロ本撤退は、一定の立地における収益の悪化を意味するだろうから、そう簡単に雪崩をうってコンビニがエロ本から撤退するというのは考えにくいように現時点では思われる。

とはいえ、気になることはある。コンビニの慢性的な人手不足との関連だ。
コンビニエロ本問題はとかく客側と店側の視点でしか語られていないが、従業員、特にバイト従業員にとって職場でエロ本を取り扱う意味というのは無視してよいことではない。エロ本を取り扱う店舗では、従業員が陳列や検品などの管理をしなければならないのだが、これ、嫌な人は嫌なんじゃね?
また、セーフティステーション活動リポートによると、エロ本を扱う店舗では未成年者がエロ本を買いにきてトラブルになるということもあるようで、大声で恫喝したり、果ては暴力を振るう事例まであるようだ。そこまでなくても、エロ本で誘発される従業員へのセクハラも想定できるわけで、エロ本を取扱う店舗では女性バイトが入りたがらない、ということはあってもおかしくないのでは? 今まではコンビニには当たり前にエロ本があったわけだが、それが当たり前でなくなると、職場環境としてエロ本の有無が選別条件になるかもしれない。これは経営に深刻な影響を与える可能性がある。
この辺の動きが出てきたら、コンビニ業界でいっきにエロ本撤退もありえる。


また、コンビニには高校生バイトが入っている。高校生にエロ本の管理をやらせるのはだいぶ問題だし、高校生バイトにエロ本を触らせなくても「エロ本の置いてある高校生の職場」ってのはどうなんでしょう? さらに言えば、セーフティステーション活動において、コンビニ各社は小・中学生の職場体験を行なっているが、まさかエロ本おいてある店舗でやってるわけじゃないよなあ、と心配である。

さて、ミニストップの一件においては、「実質的に千葉市という自治体、つまりお上からの押し付けなのではないか」という反応が見られる。もっともな反応ではある。
しかし、ここで考えなくてはならないのは、前回述べたこと、つまりコンビニは公共セクターに食い込み、多数の自治体と包括的な業務提携を行い、自らを社会インフラと宣言しているというところだ。実際に、千葉市はイオンおよびセブンイレブンと包括提携協定を結んでいるのだ。自治体が社会インフラを自任する業務提携先の企業に要請したということと、お上が民間に押し付けをしたということはだいぶ異なる。提携先への要請とは、つまりパートナーへの要請なのである。


しかも、要請されていたのは撤去ではない、エロ雑誌の表紙へのカバーかけ。つまり一種のゾーニングだったのである。

そもそもコンビニに要求されるエロ本のゾーニングの要求というのは「見たくない人あるいは子どもに表紙を見せるな」にほぼ集約される。この「見たくない人あるいは子ども」というのはエロ本の中身を確認しない人たちなわけで、「コンビニエロ本はすでにゾーニング済みでソフトなものしか入ってませんよ」と反論してもなんの意味もない。中身の問題ではないからだ。
理論上も実務上も「中身」の問題ではない、中身つまり表現は自由だ、というのがゾーニングの肝である。言い方を変えれば「中身」を問題にするのが表現規制なのである。前者を支持し後者を否定することについては「序」で述べたとおりだ。
問題は表紙だ。あの「カッコつけてるけど女はホントはやられたくてウズウズしてるの無茶苦茶にしてあっはーん♥」という吹き出しがついてそうな表紙とアオリ文句が問題なのだ。表紙さえ隠せば「見たくない人あるいは子ども」には見えなくなる。ならばフィルム包装などで隠せば良いし、あるいは表紙が「〜あっは〜ん♥」なものでなくなればよい。購買カードや番号などでレジで指定する方法もある。



http://www.akaneshinsha.co.jp/item/10742/ より


というわけで、コミックLO最新号の表紙を貼りつけた。中身は結構えぐいロリコン系のエロ漫画誌のようであるが*3、何度も繰り返すように中身は問題ではない。この雑誌では基本的にエロ系の表紙やエロ煽り文句を使わないようである。コミックLOはコンビニ流通しているエロ本ではないようだが、むしろこれこそコンビニの棚においても大丈夫な商品なんじゃなかろうか?


成人向け雑誌として明らかな棚の区分があり、テープ止めで立ち読みできないようになっており、未成年には売らないということであれば、表紙さえおとなしければ、あるいは表紙さえ隠せば問題はないことになるはずなのだ。わたせせいぞう(古いかw)の表紙イラストを使って外国人もののエロ本とか、いっそ葛飾北斎の絵を表紙に使って触手モノとか、考えようによってはクールジャパンやんけ。オリンピックで来日した外国人も大喜びだ!
これは現実的に可能なゾーニングの方法論のひとつであると思う。少なくともゾーニング論者にとっては説得力のある回答である。


ああ、そういえば、「コンビニエロ本は縦置きにして背表紙だけ見せればいいやん」と主張している方は昔からいましたよね。これがいちばん簡単な表紙対策とはいえるかw

6

「序」で、内容規制や発禁などについては表現の自由で対抗できても、ゾーニングには対抗できないことを論じた。ゾーニングは表現したい人と見たくない人が共存できるほぼ唯一の方法であるから、ゾーニングが要求されているときに「表現の自由」を持ち出すのは悪手といってよい。
ところがこのコンビニエロ本問題では(この問題でも、といったほうが正確かもしれないがw)この悪手が連発されているようだ。ネットでの反応はもちろんのこと、堺市でのエロ本フィルム包装条例に対する日本雑誌協会の反応を見ても、選択の自由を振りかざすばかりで見たくない人のことを考えていない*4


ゾーニングの最大の問題点とは、コストがかかることである。表現の自由に関する議論がおきるたびに「ゾーニングの徹底」が言われ、そして実現してこなかった。理想的なゾーニングというのは困難でも、もうちょっと適切なゾーニングがなされれば問題はぐっと減ると言われてきたのに実現してこなかった。ゾーニングにはコストがかかるからだ。
千葉市は提携先企業であるイオンとセブンイレブンゾーニングを要請した。セブンイレブンは拒否し、ミニストップ(イオン)は受け入れた?
違う! ミニストップゾーニングを拒否したのだ。ゾーニングを拒否して撤去という実はお手軽な代替手段を選択したのである。結果は正反対にみえて、セブンイレブンミニストップもどちらも自らの経済合理性に従ってゾーニングを拒絶したという意味では同様の選択をしたのだ。


そしてコンビニエロ本は野放しか撤去かの不毛な二択を「当面は」強いられることになった。無策と撤去の二択しかないのであれば、見たくないもの・子どもへの配慮を重視するものは撤去を支持するしかない。いくつかのアンケートでは、撤去を支持する声の方が確実に大きい。二択を前提にすればこうなるのは必然である。
エロ本はさらに衰退するだろう。時代の趨勢もあるが、ゾーニングのコストを負わずにただ自由を念仏のように唱える擁護側の無策無能と傲慢によっても衰退するだろう。紙媒体のエロ本に長らくお世話になった身としては寂漠たる心持ちである。

表現の自由にはコストが必要である、というと嫌な気分になる人がいる。
「ああ、表現の自由は人を傷つけることもある、っていうアレね。自分が傷つけられる被害者にならない人がよく言うアレね。弱い人たちだけに「コスト」を払わせて自分は何も負担しないっていうアレね。」
表現の自由は人を傷つけることもありえるというのは一面の真理ではあるが、この言もまた一面の真理である。


ゾーニングのコストは表現の自由のコストであると僕は考えている。少しでも適切なゾーニングのデザインと運営のコストを誰かが負担しなければならないし、コミックLOの表紙はそうした試みのひとつであると考えられるだろう。本来ならば雑誌協会とかペンクラブあたりをはじめとする、表現の自由を主張する中間団体がコンビニと協力してあたらなければならない問題なのだろうと思う。もちろん、表現の自由を主張し、謳歌する者ひとりひとりにつきつけられた問題でもある。当たり前だが僕の問題でもある、だからこうして書いている。

コンビニエロ本問題とは、エロが避けられずに持つ攻撃性というか非公然性の問題であり、それでも内容規制や検閲・発禁とはそぐわないよという問題であり、したがってゾーニングが要請される問題であり、コンビニのビジネスモデルは新しい公共といいえることとの問題であり、ゾーニングのコストを誰がどのように負担するかを問いかけた問題なのではないかとおもう。
ああ、あと、エロ本にはホントにお世話になってきたよなあ、という問題でもあった、少なくとも僕にとっては。


とりあえずここまでとする。
言い足りないことはいくつかあるので、気が向いたらつけたすかもしれない。

*1:ネット上の「お客様問合せ」で質問してわかったのだが、これはあくまで個人向けの回答なので公開しないことを要請されたので名は伏せる

*2:ネットが苦手な方はもちろん扱える方にとっても、エロ系アングラというのはネットでも危険地帯のひとつであり、架空請求だの過剰請求だのバナーの山だのが面倒この上なく、「やっぱり安心して楽しめるのはエロ本かレンタルエロビデオですよね」という年季の入った紳士諸君も多かろう。気持ちはよくわかる

*3:いろいろと面白いことをやっている雑誌のようであるが未読。娘を育てているとロリ系(というかロリ系コンテンツを消費する自分)に嫌悪を感じてしまって見ないようにしている。「あんどろトリオ」を眺めてチンコをたてるガキだったくせに、我ながら真面目にパパをやっているもんだと驚きだw

*4:ただし、堺市の主張もゾーニングを正面から主張したものでもないようで、そのうえ性表現が性犯罪の原因だとか寝ぼけたことを抜かしているらしいけれど

コンビニエロ本問題を考える(続

承前

公共と公権力は異なる。公共性の主張を公権力の押し付けと混同する誤解は後を絶たず、とりわけ自由主義を主張する一部の人たちにこの混同が甚だしい印象がある。しかし、本来の公共性は公権力から私的自治を守るための盾となるものである。公共性の歴史的な経緯を簡単に追うところから始めよう。


歴史的には公共空間というのはカフェ、コーヒーハウスから起こってきたというのはよく知られている。基本的には私的領域にありながら、不特定多数の人が出入りし、種々の議論を行い、公的領域と私的領域の中間領域として公権力と対峙しうる言論空間が発達してきた。これが近代における公共というもののおこりである。
多様な市民が参加する言論空間をそのおこりとした公共においては、身分や階級などを考慮せず、公正公平に扱うことが求められる。普通選挙制というのは、こうした意味での公共性が公権力に浸透していったことの一例であろう。行政や立法などの政治的な意思決定においても、公共性の要求する公正公平の原則が求められるようになり、自由民主主義政体として結実し、それが公権力の原理ともなって憲法にも明記されたわけだ。無論、表現の自由をはじめとした数々の自由権もこうしたものである。


公共性を公権力が典型的に担っている現代社会に生きる僕たちはとかく誤解しがちなのであるが、公共性というものは公権力から押し付けられたものではないし、ましてや自由の敵対物ではない。不特定多数が出入りする私的領域から公権力に突きつけられ、公認の原理として認められたものなのである。自由・平等・博愛をはじめとした自由民主主義の諸原理は、公共性を母体とする兄弟姉妹であるといえる*1


したがって、利便性よりも理念がまず求められるのが公共なのである。私的領域においても不特定多数が出入りするのなら、考慮されなければならないのが公共なのである。公共空間においては特定の属性を持つ人に高いコストを負わせることは妥当ではない。例えば公共空間においてバリアフリーが進められるべきのはそういう理由である。
理想的には、人種や民族はもちろんのこと、趣味嗜好・思想信条・セクシュアリティジェンダーなどにおいて中立であること、ニュートラルであることが求められる。ま、あくまで理想であって現実にはなかなか難しいのであるが、目指す方向はそちらであるわけだ。


以上のような理由で、前回論じたエロの攻撃性という論点を抜きにしても、公共空間でのエロの提示は認めがたい。
また、公共性というものをなるべくオーソドックスにまとめてみたが、これはリンクした青識氏の公共の捉え方、公共という語の用法についての包括的な反論にも結果的になっていると考える。

さて、次の問題は、コンビニにどれくらいの公共性があるかということである。
不特定多数が出入りする場所には原則的に公共性が発生し、現代社会ではもっとも公共性が強く求められる空間は役所や学校などである。少人数が出入りする居酒屋やスナックから自治体や政府の議会まで、公共性はその「濃度」を増していく。


コンビニと同様の小売業が担っている公共性、規模というのは同等の店舗面積や売上高の店舗が満たすべき基準、立地は都市計画等との関連性において同様の施設に要請されるものを満たしていればよいだろう、ということです。


https://twitter.com/dokuninjin_blue/status/924576232179503105


コンビニは同程度の規模の他の小売業(本屋とか八百屋とかだろう)と同程度の公共性しか有さないと青識氏は主張しているが、そのあたりを検討してみよう。
ただ、公共性というものを定義することは難しい。
ニセ科学批判に携わっていたものとして、定義や線引きの泥沼にはまることは特に警戒するところだ。科学的かどうかは単純に0か1かで割り切れるものではなく、グレーな領域がある。科学を特徴づける判断指標はいろいろあるが、その中のひとつひとつが決定的な意味をもつわけでもない。例えば、反証可能性の有無は決定的ではないが、他の指標と組み合わせていわばチェックシートのように「濃淡」を判断することはできよう。決定的な定義はなくとも、有力な指標は複数あるということだ。
コンビニの公共性を考えるにあたっても、こうした判断のありかたを採用したい。「これが公共性だ」という決定的な要素はなくとも、公共的であると認められる要素を多く持っていれば、総体としてコンビニは公共的な空間であると言えると考える。では主だったところを個別に確認していこう。

  • 24時間営業と治安維持への協力

24時間で小売業を営むというのは、犯罪発生率の高い場所では危険なことである。24時間営業というのは、治安のよさという公的な資源を存分に活用した営業形態であるといえよう。関連して、コンビニはセーフティステーション活動(SS活動 http://ss.jfa-fc.or.jp/article/article_1.html )の拠点ともなっている。SS活動は警察庁からの要請として始まったようだ。これは治安維持に多くを依存するコンビニ側としては警察庁からの要請を断りにくいこともあるだろうが、治安維持そのものがコンビニの営業の前提であることを考慮すれば、コンビニ側にも大きなメリットがあると考えられる。

  • ATMの設置、税金・公共料金支払いの納付など

前述の治安のよさ、警察との協力といった安心感を前提として24時間使用できる店内ATMの設置が可能となる。このATMでの手数料はコンビニ関連産業のドル箱のひとつで、例えばセブン銀行の収益の93%は提携金融機関からの手数料だとのこと。また、公共料金や税の納付も可能となっている。金融機関の出張所にちかい機能がある。
公共料金や税の支払いというのも、なにも自治体などからコンビニに押し付けられたものではない。コンビニ店内というのはマーケティング理論や心理学などの知見を総動員した衝動買い発生装置であり、公共料金手数料は少額であったとしても「ついで買い」が発生することが見込まれる。
マーケティング理論には「おとり商品(ロスリーダー)」というものがあり、それ自体で大きな利益は見込めなくとも集客効果のある商品を扱うというのは、経営上合理的な行為である。また、この「おとり商品」は店舗のイメージ形成にも資するそうだ。「おとり商品」として公共料金や税金の納付を捉えると、1)非常に広範な集客が見込め 2)安心堅実な店舗イメージを形成し 3)しかも在庫を置く必要がなく棚も専有しない という実に理想的なものになるのではないか?
また、とにかく店舗への出入りが多くなることで、さらなる集客や治安維持にも貢献することにもなる。コンビニ経営のキー戦略のひとつといえるだろう。

税金の納付だけでなく、戸籍や納税証明などの交付がコンビニでできる自治体もいくつかある。また、食料品・日用品などをコンビニでストックできることから、コンビニと防災協定を結ぶ自治体も増えている。防災協定を結ぶことで、災害時にコンビニの流通車両が指定許可車両になるなど、コンビニ側としてもメリットは大。緊急時に優先的に商売ができるわけだ。また、この災害時の協定が発展して、地域特産品の販売促進なども含む包括提携協定を結ぶコンビニと自治体も増えているようで、香川県など県単位での協定まである。

  • 宅配便というインフラの取り扱い

ヤマト運輸が始めた個人消費者相手の運送業は、社会インフラといいえるまでに成長した。20世紀後半に日本でおこった最大の成長をしているビジネスとして、携帯電話・ネット関連・コンビニ・宅配便が挙げられるだろうが、いずれも高度なインフラを前提としつつ自らもインフラとなり、さらにこうした新興インフラが相互に依存して成長しているわけだ。
この新興インフラである宅配便の最大の窓口はコンビニである。相互依存で非常に合理的な流通網を形成しているようでもあるし、コンビニとしては前記の「おとり商品」の役割も果たす。

  • 社会インフラとしての自任

各項目でも触れていることであるが、上記の公共性に関連したことは警察や自治体に一方的に押し付けられたものではなく、コンビニのビジネスとしても重要な役割をもっていることを理解しておく必要がある。
これらの特徴は、治安の良さや流通網の整備、情報網の発達などのインフラ整備を前提とし、また自らもインフラ化していくことで安定的な収益をとるビジネスモデルをコンビニが採用しているということを意味するだろう。新しいインフラを立ち上げることができれば、大規模かつ安定性の高いビジネスの継続が可能となる。実際に、日本フランチャイズチェーン協会は2009年に「社会インフラとしてのコンビニエンスストア宣言」というものを出している。


コンビニエンスストア業界は、今や売上高7兆9,000億円、店舗数4万2,000店を超え、関連する工場や物流会社を含め 130 万人を超える雇用を創出するなど、その経済的規模、社会的責任の大きさにおいて、流通・小売産業の中でも重要な位置づけを占めております。同報告書においては、コンビニエンスストア業界が社会的責任に対応する上での4つの課題として、1.環境  2.安全・安心  3.地域経済活性化  4.消費者の利便性向上、を掲げ、また、課題に取組むための 3 つの視点として、1.本部・加盟店間での持続的な発展のための関係構築  2.コンビニ各社の競争と業界としての協働  3.行政との役割分担・連携、を指摘しております。


http://www.jfa-fc.or.jp/misc/static/pdf/090528.pdf

  • 子どもの立ち寄れる空間

こうした多方面におけるインフラ化の結果として、例えば子どもの立寄りなどの敷居も低くなっている。欧州やメリケンにも飲み物や雑誌などの多品目を扱う雑貨屋のようなものはあるようだが、子どもが気軽に立ち寄る空間ではないようだ。セーフティステーション活動の拠点として、子どもや女性の駆け込み場所となっている。子どもがコンビニに立ち寄ることは禁止されているどころか、状況次第では公的に推奨されているということになる。これも日本型コンビニの特徴といえようし、子どもの立寄りが推奨されているということは、その空間の公共性が「濃い」ことの指標ともいえる。

  • まとめると

治安、流通網、情報網などの社会インフラに多くを依存し、また自らもインフラであることを宣言しているコンビニという業態。もちろん、インフラというのは公共性の典型である。警察や自治体といった公的な機関との協力・提携を行い、金融機関の機能を持ち、犯罪防止の駆け込み場所となっているコンビニという業態。8年前の時点で売上8兆円にせまり、店舗数は4万をこえ、130万人以上の雇用を創出し、社会的責任を自任し、行政との役割分担を指向する巨大なフランチャイズというコンビニという業態。このコンビニが同じような規模の他の小売と同じ公共性しかないという主張は問題外である。コンビニは公共性に依存し、公共性を収益源とし、また自らも公共性を担っていく新興インフラビジネスモデルの典型といえる。

前回はいわゆる「公然わいせつ」と「わいせつ物頒布」とを切り分け、公共の場におけるエロ提示の攻撃性を述べつつ、わいせつ物頒布の非犯罪化を主張し、同時にゾーニングの意義を再確認した。特に「見たくない人の権利・青少年保護」が言われているときに求められているのはゾーニングであることは強調したい。
今回は公共性というものを歴史的に確認し、次に青識氏の主張を批判的に検討しつつコンビニのビジネスモデルは公共性が色濃いものであり、いわば「新しい公共」といいえることを論じた。コンビニがこれだけ公共セクターに食い込み、多くの自治体と包括業務提携を結んでいるということは、自治体とコンビニは単なるお上と民間企業の関係ということはできない。両者は関係のふかい提携相手同士であるということはコンビニエロ本問題を考える上で重要な前提であるが、この前提がほとんど共有されていないように感じる。
次回は、コンビニにおけるエロ本の現状と今後について述べることとする。(さらにつづく)

参考書籍:

「公共性の構造転換」ユルゲン・ハーバーマス
「公共圏という名の社会空間」花田達朗
「公共空間としてのコンビニ」鷲巣力
「コーヒー・ハウス」小林章夫
公共圏について知りたい方は、上記にあげたうちでは「公共圏という名の社会空間」がおすすめであるが、ざっくりと知りたい向きは花田達朗氏の講演録がウェブ上に公開されているので一読を。以下にリンク。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/hanada/hanadap1/hanadap1.htm

*1:憲法に明記されている「公共の福祉」は以上のような歴史的観点から理解されるべきと思う

コンビニエロ本問題を考える(序

30年も前になるか、知人が変わった裏ビデオを好んで集めていて、何度か見せてもらったことがある。自らの欲望のまま撮影したのか、一般的なエロなる感覚を誤解していたのか、怪作と言うか実験映像としか思えないような作品がけっこうあった。例えば、納豆を何百パックもぶちまけた風呂桶で、ボディ・ペインティングを施した男女がいろいろな運動をしている映像を見ても、性欲で凝り固まった20代前半のプレハブちんこ(=すぐ立つ)をもってしてもぴくりともしなかった。「エロって何なんですかにゃー?」と考えさせられるばかりである。


そうした「実験映像」の中でも特に印象に残っている作品がある。
公共交通機関である電車のなか(多分、山の手線)、白昼堂々と事に及んでしまうという内容の作品である。
このビデオ作品の冒頭で、出演女優、製作者たちが制作意図を以下のように語っていた。
「よき社会人ヅラをしていても、人間というのは性欲ぱっつんぱっつんの獣である。それを暴きたかった。電車のなかでいいかんじにセックスをして、いっしょにやろうと声をかければ、良識ぶったサラリーマンもOLも主婦も学生も、みんななだれ込んで大乱交大会になるはずだ。人間の欲望を暴いた映像をとるのだ!」


アングラ文化におけるエロと反体制の親和性というものは確かにあったようで、当時はそうしたものの残滓がこうした界隈で棲息していたということはあったろう。論評は控えるが、彼らは確かに身体をはっていた。ある種の表現の極限ではあった、はた迷惑この上ないが。


さて、ところでこの映像のコンセプトであった、人間の欲望を暴くというのは実際にどうなったのか?
乗客はおびえていた。白昼の電車でいきなり事に及びはじめた男女を見て、おびえていた。(画面には未成年の乗客は映っていなかった。さすがに未成年のいる車両は避けたのかもしれぬ)
目を背ける、見なかったことにする、隣の車両に逃げる、新聞を取り出しバリヤーにする・・・。「いっしょにやろうよ」と声をかけられたサラリーマンのひきつった顔・・・。良識ぶった連中が仮面をかなぐりすてて乱交になる、なんてことにはなるわけがない。彼らはおびえていたのだ。そりゃそうだろう、エロビデオを好んで見ていた僕だって怖かったし、色物裏ビデオ鑑賞という馬鹿趣味を謳歌していた友人も「こりゃ俺も逃げるわ」と言っていた。声をかけられて顔がひきつっていたサラリーマンは、自宅ではエロ文化を享受していたかもしれない。でも彼は脅えていた。エロが好きだとか嫌いだとか、良識ぶっているとか、そういうこととあの脅えた感じは関係ない。

ここで重要なのは、公共の場での性的な露出というものは周囲を脅えさせる、つまり攻撃的な意味合いを持ち得るということ。
白昼の電車内でおっぱじめてしまうというのは極端な例ではあるけれど、性的なモノが公然と提示されることが攻撃的な意味合いを持つということを実に明瞭に示すことのできる例でもある。
もちろんこうした性的な露出によるダメージは人によって異なるっていうことははっきりしている。そして、性的な露出に対して抵抗力の強い人が、弱い人たちのその「弱さ」を軽く見ることがよろしくないってこともはっきりしているだろう。その「弱さ」を揶揄したり嘲ったりするなんてことは問題外だ。また、公共の場において弱いものを弱いからと言って排除するのもありえない。

ところで、日本では刑法175条で猥褻表現の頒布が禁じられている。イギリスの小説家D.H.ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」という小説を翻訳した伊藤整と版元がわいせつ物頒布に問われたいわゆる「チャタレー事件」が有名。最高裁判決文などについてはこちらを参照のこと。
憲法21条の表現の自由について争われたこの裁判であるが、この最高裁判決文のなかに「性行為の非公然性の原則」なるいかめしい法理が使われている。


人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。


要するに、人前で性器を出したり性行為をしたりする文化はないよってことらしく、まあ僕の知る限りでもそれはそうなんだろう。真っ昼間の電車の中で「公然と」事に及んだのに巻き込まれた人たちの表情は羞恥というより脅えであったと思うけれどw。
「性行為の非公然」というのは本当に人類普遍かどうかはともかく、広くあてはまる道理だというのはあのビデオを見て、公然とされた性行為の攻撃性を認識した身としては実によくわかる。

ただし、「性行為非公然の原則」が正しいのはよいとして、だからわいせつ物頒布を親方日の丸が罰してよいかというと話は別になる。先ほどリンクしたチャタレー事件判決文には、最高裁での反対意見も収録されている。裁判官真野毅*1の反対意見を確認してみよう。


いうところの「性行為の非公然性」とは、性行為を公然と実行しないというだけの意義を有するに過ぎないものである。「性行為の非公然性の原則」というといかにもいかめしく聞えるが、その中味はただこれだけのことである。
中略
多数意見が前提として説いている「性行為の非公然性の原則」とは、すでに触れたように性行為を公然と実行しないというだけの意義に過ぎないから、性行為の非公然性の原則に反するとは、性行為を公然と実行するということに帰着する。(本訳書はもとより生き物ではないから、公然であろうと秘密であろうと、訳書そのものが性行為を実行することはありえないことである。)


お説ごもっとも。
公然と性器をだしたり性行為をしたりすることと、性行為を言語的に描写した文章を発表し頒布することには相当の距離があることは間違いない。
もっとも、「性行為の非公然の原則」とやらが「性行為を公然と実行すること」のみに限定されるのはいささか問題があるとは思う。例えば、路上で性行為の映像や画像や音声を垂れ流したりというのはこの原則に抵触するというのも疑いなかろう。とはいえ、仮にエロ写真を路上で「頒布」したとしても、それはエロ写真を路上で公開することとはだいぶ異なる。エロ写真を路上で展示したうえで売買していたら「性行為の非公然の原則」に抵触するだろうが、写真が人目にふれずに売り買いされていたとしたら、この原則に触れるとは思えぬ。誰も攻撃されていない。
「性行為の非公然の原則」が正しくとも、その理屈でエロ商品の頒布を禁ずることには無理があろう。「性行為の非公然の原則」で刑法175条を擁護することに妥当性はないと考えられる。無論、検閲の理由にもならない。


「性行為の非公然の原則」で禁じることができるのは、いわゆる公然わいせつ(刑法174条)のほうであろう。
この公然わいせつ罪というのは、売買春や麻薬と同じく被害者なき犯罪 - Wikipediaとされているようだが、例えば露出症の行動(典型的にはオッサンが若い娘さんに下半身を御開帳しちゃったりするやつですね)には明らかに被害者がおり、露出行動の際には相手の困惑や驚愕を見て楽しむということも多いようで、明らかに攻撃的な動機があろう。公共の場におけるエロには攻撃性があり、耐性が特になさそうな層に対してその攻撃性を振りかざすのが露出症の行動の典型なわけだ。

さて中間まとめといこう。

  • 公共の場における性的なものの提示は攻撃性をもちうる
  • よって、他者危害の禁止という観点からも「性行為の非公然の原則」は支持できる
  • ただし、「性行為の非公然の原則」から導けるのは、公共の場における性行為や映像・画像などの提示を禁ずることまで
  • わいせつ物の頒布を禁ずることや検閲などは、「性行為の非公然の原則」からは導けない


ぶっちゃけ、
「エロの発禁とか事前検閲とかモザイクやぼかしかけとか、そういうのはいっさいやらなくて良い。政府はそんなくだらない規制すんな。でも公共の場におけるエロ提示は攻撃的だからやめてくれ」
ということである。

さて、先ほど「「性行為の非公然の原則」から導けるのは、公共の場における性行為や映像・画像などの提示を禁ずることまで」と書いた。表現された中身に対しては、「エロの発禁とか事前検閲とかモザイクかけとか、そういうのはいっさいやらなくて良い」とも書いた。
中身は好きにしてよいが置く場所を考えろということであり、これは要するにゾーニングの理路である。
「性行為の非公然の原則」ってのは、ゾーニングで対処できるし、ゾーニングで対処するべきであって内容規制に踏み込むべきではないものであろう。


表現規制ってのは必ずバカしかやらないんですよ。ゾーニング表現規制」という意見をみかけたことがある。
レーティング(年齢規制)もゾーニングの一種であるから、ゾーニングの完全撤廃というのは何でも幼児に見せていいということになる。要するにあらゆる表現、つまりハードコアポルノはもちろんのこと、人間を拷問して生きたまま解体する映像(もちろん、作り物である前提。「ギニーピッグ」あたりが有名)を幼児に見せてよいという主張ということになる*2


子どもに過激なエロ映像や残酷映像を見せることはどうみても虐待にあたる。見たくない人に見せるのもいい迷惑である。
わいせつ物頒布を禁じた刑法175条を支持できる根拠として、青少年の保護と見たくない人の権利というものくらいしかないんじゃないかというのが法学においても有力説らしく、でも青少年保護と見たくない人の権利ってのはゾーニングで十分保障できるから、やっぱり刑法175条って違憲だよね、発禁なんて必要ないじゃん、という説も根強いらしい。
僕が調べた限りでも、法学的にもゾーニングで対処するのがよさそうだ。


残酷表現とか公共の場におけるエロとか、どうしても攻撃性を持つ表現というものはあり、そこから子どもや見たくない人の権利を守り、かつ表現の自由を尊重するとしたらゾーニングしかないというのは、もうさんざん言われてきたことだ。
しかしこれを言いかえれば、子どもの保護とか見たくない人の権利が問題になっているとき、それは内容規制を意味するのではなくゾーニングが要求されているということなのである。エロを発禁にしろとか撲滅せよなどということではない。表現の内容を規制することには反対、多様な表現があってほしい、だからこそゾーニングで子どもや見たくない人に対処してね、見たくない人には見ない権利があるからね、という当り前なお話なわけだ。
ゾーニングが問題になっているとき、「表現の自由」を唱えても対抗できないのである。


もちろん、コンビニエロ本問題はゾーニングが要求されている問題である。

予告

さて、以上はコンビニエロ本問題を考えるための準備である。
公共の場におけるエロの提示は攻撃性を持ちえ、子どもや見たくない人の保護が要求されること。そしてその要求は内容規制を意味するのではなく、ゾーニングの要求であることを前提として、公共性の再検討とコンビニの現状を確認してみたい。(つづく)

*1:この真野毅という裁判官は、尊属殺人が他の殺人と比べて重罪にあたるのは違憲であるという判断を最初にくだしたさいこうさいはんじのひとり。このとき真野は少数意見であったが、のちに尊属殺人重罪が違憲であるというのは最高裁でも確定する。一貫してリベラルなスタンスであったようだ

*2:表現規制ってのは必ずバカしかやらないんですよ」の人にツィッターで「子どもにギニーピッグ見せてええの?」と尋ねたが、何度聞いても彼は答えることができず、しかしそれでも自説を決して撤回しないのであった。はてサの情けで名はとりあえず伏せるがツイッターでフォロワー10万以上の方であったw

表現の自由と人権の関係


実に基本的な一般論をざっくりと
ここでは日本国憲法に即して述べているが、自由民主主義について一般的にあてはまることであろうとは思う。


承前
丹羽良徳がギャラリーにデリヘル呼ぼうとして怒られたことについての反応 - Togetter


2016年1月30日にギャラリーに呼ばれたげいまきまきさんのツイート - Togetter



後者のまとめのコメント欄において、僕は以下の発言をした


表現の自由」がなぜ重視されるかというと、それは人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだからだ、という基本中の基本を理解せずに、「表現の自由」をふりまわす愚か者の多さよ・・・


すると以下のリプライが僕宛にあった。


@online_checker
違います。#表現の自由 は一度毀損されると、民主制の過程はで回復困難な人権であるため。#まなざし村 村民は、憲法の基本書を読みましょう(「88の提案」が思考実験である事も忘れるべきではない)。


https://twitter.com/online_checker/status/694427617852727296


その後のやりとりによると、どうやらonline_checker氏は「京都大学法学部卒で佐藤本使い」を自称されているようである。
ちょうどよいので、憲法における人権と表現の自由の根本的な関係について、憲法学の基本書を参照しつつ*1ざっくりとまとめてみたい。
僕の議論の妥当性については、氏を含めた読者諸賢の批判を喜んでお受けしよう。


まず、「表現の自由がなぜ重視されるか」についてであるが
・人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだから←地下猫
・一度毀損されると、民主制の過程はで回復困難な人権であるため←online_checker氏


なのだが、氏の議論では、なぜ他の諸権利や諸自由よりも表現の自由が重視されるかの理由としては不十分なものである。
例えば、私の眼前にある灰皿の中の吸い殻の配置は、毀損されやすく回復も困難であるが何の価値もない。毀損されやすく回復が困難であること自体は、特定の自由が他の自由より重視される理由にはなりにくく、また他の自由が頑健なものであるとの論証もされていないし、毀損されやすい自由など他にも多くあろう。




では、「人権を守るためにもっとも有効なもののひとつだから、表現の自由が重視される」の論証にはいろう。
手許にあるのは1999年第一刷発行の芦部憲法である。2016年現在の憲法学との違いについては、専門家でないのでご容赦されたいが、基本的な論点なので大きな違いはないと思う。

憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治的理念に基いて制定された憲法であり、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。(P5 憲法の意味 より)


近代憲法は、何よりもまず、自由の基礎法である。それは、自由の法秩序であり、自由主義の所産である。
(中略)
しかし、この組織規範・授権規範は憲法の中核をなすものではない。それは、より基本的な規範、すなわち自由の規範である人権規範に奉仕*2するものとして存在している。
このような自由の観念は自然権の思想に基づく。この自然権を実定化した人権規定は、憲法の中核を構成する「根本規範」であり、この根本規範を支える核心的価値が人間の人格不可侵の原則(個人の尊厳の原理)である。(P10 憲法規範の特質 より)


憲法最高法規であるのは、その内容が、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心として構成されているからである。(P12 憲法規範の特質 より)


総論の部分から何箇所か引用した。
憲法の目的が権利と自由を守ること・人権規範に「奉仕」することにあり、人権規定こそが憲法の中核をなす根本原理であり、人間の権利と自由(すなわち人権)を保障する規範を中心に構成されていることは一目瞭然であろう。


総論で特に強調された原理原則を前提とし、他の部分に敷衍するのはどのような学問においても当然であろう。 したがって僕の前提はきわめて平明なものである。
・特定の自由がより重視されているとすれば、それはその自由が人権規範により「奉仕」するものでなければならない




表現の自由」には2つの側面がある。
1つは「俺が俺の言いたいことを言う権利」であって、これ自体が人間の本質的な欲求のひとつではあろうし、この権利はそのまま「個人の尊厳」「人権」の重要な部分を構成する私権であると思う。
もう1つは、民意の形成に必要不可欠なことであり、自由民主主義政体の運用において必須の権利であり自由であるということで、公的な性格がここにはある。


ただ、じゃあなんで自由民主主義政体が大切なのかというと、自由民主主義の政府は「人権規範に奉仕する」と憲法によって宣言しているからなのだ。
僕たちを不当に逮捕拘束したり、財産を奪ったり、暴力をふるったり、つまりそういう人権侵害をしない、そういうことをさせないと宣言している政府だから僕たちにとって価値があるのである。
そして僕たちの人権を守ると宣言している政府にとって、表現の自由が生命線となるわけだ。


なるほど確かに表現の自由は「人権を守るためにもっとも有効なもののひとつ」であり、だからこそ重要な権利といえよう。
表現の自由がない社会は、国家権力による国民の弾圧がしばしば行われ、それは人権侵害の最悪の形態であることが多い。ある国の国民にとって最悪の抑圧者は、しばしばその国の公権力なのだ。表現の自由は、人権規範におおきく奉仕するものであるがゆえに、重要なものであるということは間違いのないところだろう。


さて、こちらからはざっとこんなところである。
僕のとった立場は、憲法における根本的な理念を焦点化し、たえずそこにもどって諸権利や諸自由を考察するべきだというものである。これが憲法を読む際に要求される態度であると考える。
また、自由民主主義を考える際には、憲法学の議論の蓄積を参照することは必須であると確信している。



蛇足1
表現の自由」が人権規範に奉仕するから重視されることは述べたが、その「表現の自由」が他者の人権を毀損するという面倒な話については、この文の目的でないので稿を改める。ただ、「表現の自由」が人権の上位にある特権というわけではないことだけは前提としてよい。



蛇足2
online_checker氏の発言からは「地下猫=まなざし村村民」と氏はみなしているようだが、まなざし村とやらはどういうもので、僕のどの発言がそれに該当しているかご教授いただけぬものであろうか?
自分の発言の意味がわかっているのなら可能であろう。気に食わない相手を見たら自分でも理解できないレッテル貼りをするよくある能なしではあるまいと思いたいが、あまり期待もしていない。

*1:憲法学の基本書の引用については、「京都大学法学部卒で佐藤本使い」のonline_checker氏が後出しで要求してきた。もちろん喜んで乗ろう!

*2:原文で「奉仕」の部分を傍点にて強調