私の英語学習歴

過去ログでも何回か言及している内容ですが、今回のanfieldroadさんの企画 (http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20110301/p1)に乗ってまとめてみました。
基本的に以下の過去ログの再編集に加筆したものです。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20101120
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050307
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050308
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050309
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050310
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050311
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20050313

私は中学校1年生で英語の勉強を始めました。それから今に至るまで、塾とか予備校とか専門学校などで英語を学んだ経験は全くありません。さらには、短期長期を問わず、留学やいわゆるホームステイで英語を学んだり研修を受けたりしたこともありません。過去ログとも重複しますが、以下徒然なるままに。

中学校1年生の1学期中間テストの英語は大文字小文字の書き方や基本単語だけが問われていたためか満点でした。しかしながら、その後はさっぱり。ずっと底辺を推移していました。その一因が、授業中、差し棒で机を叩いてリズムをとる「等時性」の強調。私が中学生の時の英語の先生は留学経験豊富らしく、自然に教室で英語を使っていたように記憶しています (何と言っていたのかは中1、中2のころは分かりませんでした) が、中1の1学期中間考査の後くらいで、やっと文らしいものが出てくると、指し棒で机を叩いてリズムをとりながら音読練習をさせていたようです。当時の私には、この差し棒の音で等時性を強要されるのがたまらなく不快でした。それ以来、担当が変わっても、中3の2学期末くらいまで英語の授業が嫌で授業で何をやっていたかはほとんど記憶にありません。幸い、他教科の成績はみなそれなりに良かったので落ちこぼれという評価にはなっていなかったようです。
転機が訪れたのは、中3の秋〜冬。TVで放送されていた海外ドラマ『チャーリーズ・エンジェル』の2ndシーズン。当然二カ国語放送など入らない田舎ですから、日本語による吹き替えです。『600万ドルの男』リー・メージャースと結婚した初代エンジェルのファラー・フォーセットが番組を退いた後釜として、「妹」という触れ込みで登場した金髪の女優シェリル・ラッドさんに一目惚れしたわけです。ファンレターを書けるくらいの英語力をつけようと思い、一念発起して当時の英語の担任に「英語の手紙の書き方」の相談に行ったのに、まともに対応してもらえず、憤慨して2年生のときの担当だったエルビス・コステロ似のY先生に泣きついたところ、嫌な顔一つせず「お前もやっと英語に興味を持ってくれたか。これに載ってるから」と貸してくれたのが、『英語ニューハンドブック』 (研究社) 。手紙の書き方以外にも、いろんな情報がそれこそ満載で読んでいて、「英語ができるようになるといいなあ」と何となく思ってしまいました。返却時にもいろいろな話をして「英語の勉強をするなら、こういう本じゃなくてNHKのラジオ講座を聴きなさい」という薦めで、東後勝明先生の『NHKラジオ英語会話』テキストを書店で購入。実は、この講座選択は完全な私の勘違いで、Y先生は『続・基礎英語』(講師は安田一郎先生かな?)を意図していたのに、私は『NHK』『ラジオ』というだけで、この一般社会人用のラジオ講座を聴いてしまったわけです。
はじめはソノシート(ぺなぺなのレコードみたいなのです)を使いましたが、音が良くないので、朝テープに録音しながら、テキストと格闘。音読。学校から帰ってきたら、テープを聴いてテキストの復習。寝る前はテープをながしながらテキストを見ずにリピート。これを約1ヶ月、来る日も来る日も地道に続けたところ、ある日突然、教科書、教師の説明も含め、授業中の英語が全てわかりました。この衝撃は今でも覚えています。
東後勝明先生からは、「英音法」も含めて、当然のことながら大きな影響を受けたのですが、テキストの後半には中尾清秋先生の連載もあり、ただ単に「話せる」ということだけではない、英語の奥深さを感じていたように思います。

『英語がわかる』、と気をよくして、その後で高校入試の勉強へ移行。書店で、公立高校入試向けの、中学校3年間の文法事項や重要表現が一冊にまとまっている大判で書き込み式の参考書兼問題集をまず1冊購入。左ページの解説を見ながら、右ページに解答を書き込んでいき、その後、音読筆写。1週間で一通り終わらせました。同じような文法項目別の問題集を今度は数冊まとめて買ってきて、同じ文法項目を一気に片づけ、有名私立高校や国立高校の問題を収録している問題集で力試し。熟語が弱いと思って、書店で選んだのが『試験に出る英熟語』(森一郎著)。大学入試用の熟語集ですが、これは『試験に出る英単語』とは違って、テスト形式になっているので、中3の私にも楽しんで取り組むことができました。
英語の「勉強」の再スタートを、教科書を暗唱するとか、中学入門期用の学参や問題集を使って英語の基礎からコツコツとやり直しという感じではなく、いきなり『ラジオ英語会話』という社会人というか大人向けの英語の世界に飛び込んだと言えるでしょうか。ラジオ講座とはいえ、「それ」に触れてから、基礎の積み直しに戻ったのが今思えば最適解だったのかもしれません。
私立高校入試も終わり、Y先生のところにお礼にいって、「英字新聞っていうのを読んでみたいんですが」と切り出したところ、「毎日出るやつは読み切れないから、週刊の新聞がいいよ。いろいろあるけどStudent Times っていうのが一番いい勉強になるんじゃないかな。XX書店に行ってみたら?」とのアドバイスを受け、早速、XX書店へ。店頭を見て回るがそれらしきものはなく、レジ近くのスタンドみたいなところに、割引はがきがあったので、1年間定期購読。学生は半額以下でした。
しばらくして、第一回目の新聞到着。新聞というにはあまりに小さく、新聞紙ではない、薄くツヤツヤの紙で表紙はカラー。「これが英字新聞か?!」
なんと、Student Timesと思って定期購読したのはTIMEだったのです。
この後、毎週のように郵便受けにはTIMEが届くことになったのですが、当然、高校入試を突破した程度の英語力では太刀打ちできません。あみだした苦肉の策が、「読者のお便り(=Letters)」の欄の活用です。
まず、Lettersに目を通す。ここは記事に比べてそんなに難しい英語では書いていないので、面白そうな手紙を見つけたら、そのバックナンバーを探す。そして、その記事に戻って辞書を片手に英語を読む。長短の差はあれども、最低、週に1つはまとまった記事が読めたという実感 (今思えば錯覚です) が残るわけです。さらに、自分の好きなスポーツ、音楽、映画の記事は、今のようにインターネットの即時性のない時代ですから、新鮮な話題が満載でしたから、それぞれ、1,2ページなのでがんばって読むことにしていました。結局の所、政治とか経済とか「堅い」話題・テーマはあまり読んでいなかったように思います。それでも、これを2年くらい続けているうちに、記事の型、パターンが何となく飲み込めてきて、辞書を引かなくてもわかる部分が増えてきました。部活や生徒会活動、バイトの合間にやるわけですから、根を詰め過ぎずに、情報収集と割り切るのと、自分の興味関心のあるものに限定していたことが長続きした要因だと思われます。高3の2学期から大学入試に向けて本格的に勉強をはじめたときに、入試問題をそれほど難しく思わなかったという点でも、自分に合っていた学習方法だったのでしょう。入試勉強の合間にもTIMEは読み続け、面白そうな表現はタイプライターでレポート用紙に写していきました。この読み方はその後、大学2年くらいまで続けていました。大学入学で上京し、卒業、教師として就職と引っ越しを重ねるうちに、当時タイプした用例集はどこかにいってしまってもうほとんど残っていないので少し淋しい気がしますが、この当時の経験が教師として生徒に課す「表現ノート」の原形と言えると思います。

洋楽に興味を持ちだしたのは中学時代。今は楽器店を営んでいる2歳違いの兄の影響。音楽をやっていたというか、ミュージシャンを目指していたというか、ポール・マッカートニー、財津和男命のような兄の聴かないような音楽を求めて、ニッチな領域へ、ということでジャクソン・ ブラウンやダン・フォーゲルバーグなどのSSWからパンク・ニューウェーブまで物色している中で、エルビス・コステロの歌詞の世界に取り憑かれ、楽曲以上に、歌詞を重視して洋楽を聴くようになりました。深夜放送のオールナイトニッポンで第二部のパーソナリティを務めていた瀬戸龍介の番組は洋楽のヒット曲がよくかかるのと、時々ライブやプロモーションで来日したミュージシャンがゲストとして招かれ、瀬戸氏が英語でインタビューをするというコーナーがあり、当時「ライブ」でのインタビューは珍しかったので、楽しみに聴き、録音していました。
その後、松本道弘氏の唱える「英語道」に嵌って、書籍を買い漁り、TV英語会話のインタビューものもよく見ていました。松本氏がホストを務めていたシリーズは直に終わってしまったように記憶していますが、小林ひろみ先生が出ていたシリーズとの、前後関係の記憶がちょっとはっきりしません。その 後、教員になってから、小林先生と教科書の著者としてご一緒することになろうとは思いもしませんでした。当時はビデオデッキなど持つ余裕のない家庭状況でしたから、繰り返し聞けるようにとイヤフォンジャックからカセットデッキの外部入力端子に繋いで録音したものでした。
高校に進んでからは、松本道弘責任編集というコピーに惹かれ、背伸びしてグロビュー社の英語雑誌『ビジネスビュー』を定期購読したり、T書店で『時事英語研究』などを時々買っては読んでいました。洋雑誌は札幌に行った時にまとめて買ってくる感じで、月刊誌のPlayboy (洋書) のコラムというかエッセイがただエロティックなだけでなく、意外に文章としてのクオリティが高かったのに驚いたのを今でも覚えています。そこから、 National Lampoonなどへと食指を伸ばしましたが、消化不良に終わりました。無駄打ちも随分しています。
高校の合格祝いに、「リンガフォン」とソニーのLL対応ポータブルカセットデッキを買ってもらったのですが、「リンガフォン」は全く続けられませんでした。デッキを遊ばせておくと、兄が耳コピのために借りていってしまうので、FEN(現AFN)の定時ニュースを集めたものをディクテーションしていました。高1の冬休みくらいから。当時の教科担当M先生にまずテープをお借りして、コピー。ひたすらディクテーションと音読。このソニーのLL対応カセットデッキは再生速度可変機能付きだったので、まずは、普通に聴いていてよくわからないところを遅くしてみたのだが、『モゴモゴ』と低い声でもったりしたリズムとなってしまい、かえってわからなくなったので、スピード を上げ、130%のスピードにして速い再生をしたものを、兄のラジカセにダビングし、自分のソニーのデッキで、さらに130%にして(169%のスピード ということ)聴くことにしました。今のように、ピッチ(音程)まではコントロールできないので、ほとんど甲高い声で早口でまくし立てる感じ。その『キュルキュルッ!キュキュ、キュー』などというリズムの波を捕まえては、もとのスピードに戻して(30%早回ししてダビングしたものを30%遅くすると、もとのノーマルなスピードになるわけです)確認。この方法は、自分で見つけたこともあり、面白く続けられました。
1本のニュースを何回も繰り返し、もう書けないというところまで書き取ったら、M先生のところにテキストを見せてもらいに行きます。あまりの出来なさ加減に幻滅することも多かったのですが、そのうち、キュルキュルのリズムが自分の中に生まれてきて、ノーマルで聴いているときに、頭の中には更に速いスピードで音が走っているような『錯覚』が生じて、ノーマルの音声が『ゆっくり、はっきり』と聞こえはじめました。そこからは、学習は加速していき、音の連結・変化、トピックに関する語彙(結局これが決め手でしたね)などを詰めていくことでどんどん理解が深まり、聞き取りの力が伸びていったように思います。最後のほうになると、 M先生も面倒くさくなったのか、テキストごと貸してくれて、1冊終えることが出来ました。酷使したカセットデッキは計2回修理に。(この後、FENのラジオ放送そのものにチャレンジしようとしたが、AM放送は北海道の田舎では日中はノイズばかり。仕方なく、短波でキャッチできるよう、アンテナを自宅に設置して聴いていたというのが後日談。)

高1の冬に『百万人の英語』の英単語を絵で表すコンクールのような企画で入賞した副賞で、三省堂の『コンサイス英英』が当たり、使い始めることにしたのはいいのですが、英英辞典をどう使うか、余り具体的なイメージが湧かなかったので、高2になる時に、
• 英語の授業では、日本語を使わずに、全て自分の手持ちの英語でノートを取る。
という無茶なことを自分自身に課していました。意気込みは結構でも、手持ちの英語で捌ききれるわけもなく、もう少し定義も分かりやすく、用例も充実しているもの、としてLDOCEの初版を買ったのだったと思います。これが、うまいこと嵌りました。
高3の時の文化祭では、ブロックの壁新聞の企画も担当していました。「世界と地続きになる」、というのはこの頃からなんとなく目指していたのでしょう。本当は全て英語で書きたかったのですが、大見出しのインパクトのあるところだけ、 “Criminal” (とんでもない!) という語を使いたくて、記事を書いたのを覚えています。

読解力の強化としては、TIMEの好きなところだけを読み続けていたというのが何らかの役に立っていたというのは勿論ですが、教材では、高校3年の夏休みに買ったThe Reading Skills Test: Barron's How to Prepare for the High School Equivalency Examination (GED) (1980年刊) と、倉谷直臣 『誰も教えてくれなかった英文解釈のテクニック』 (朝日イブニングニュース、1981年) に負うところが大きいと思います。
このThe Reading Skills Testは当時のGEDの中の、国語(つまり英語)の読解力の試験対策に作られたものです。試験は、日本のセンター試験(その前身の共通一次試験)と同じく多肢選択、いわゆるマークシート式で出題分野・項目は以下の通り。
• Practical Reading 15%(求人・求職、広告文など現実の生活に密着した題材)
• General Reading 35%(新聞、雑誌の記事、評論文、論説文、社会科や理科の教科内容なども含む題材)
• Prose Literature 35% (エッセイ、小説・物語)
• Poetry 10%(いわゆる詩)
• Drama 5%(戯曲)
特徴的なのは、多肢選択の選択肢が5つあること。
The title that most accurately represents this passage would be
1. How a Bill Becomes a Law
2. Key Committees in Congress
3. Problems of the Committees System
4. Congressional Committees
5. Congressional Committees --- Center of Work and Power
などという主題に関わる設問や語義に関わる設問など 200-300words程度の英文に5から6題の設問がついています。
設問は主として、
• Knowledge and comprehension questions
• Inference questions (Inference questions はさらに Meaning(文脈から語義を類推する) Cause or result(因果関係)に分かれている。)
• Application questions
• Evaluation questions
という英語の主立った論理パターンに沿っています。
このようなテキストを高校3年の8月、9月、10月と進めてきて、劇的に読解力が向上しました。受験英語とはほとんど無縁だったので、9月最初の代ゼミや河合塾の全国模試では偏差値が70台をうろうろしていましたが、11月の代ゼミ慶応大模試、上智大模試では両方とも英語は全国1位でした。当時は、TOEFLの存在そのものを知らなかったので、英語力の目標として、『アメリカ人の同じ18歳ってどのくらい英語が読めるものなんだろう?』という素朴な疑問から、このGED対策書を見つけてきたのですが、これが良かったのでしょう。誰に強要されたわけでなく、自ら、米国人が高校卒業時に L1で求められる最低線の力を目指すということが、L2離乳食教材からの脱皮に効果があったように思います。適切な教材を、適切なタイミングでこなすことが大切であるという格好のサンプルとなるのではないでしょうか。
『誰も教えてくれなかった…』の方は、受験に特化したものではなかったのですが、一番、受験対策になったように思います。夏休みの最後に札幌で受けた、駿台の「東大実戦」では日本語で解答する部分の解説に納得がいかなかったのですが、それは自分の力が足りないのであって、「訳出」に求められるのはまず精緻な英語の読解力なのだ、ということをこの本で教えて貰いました。20年以上も経って、著者の倉谷先生から、このブログにコメントを戴いた時は本当に嬉しかったです。
雑誌『翻訳の世界』を読むようになったのもこの後。飛田茂雄先生の回が好きでした。懸賞課題も毎回応募していましたが、出来はサッパリでした。でも、今の私の英語力を下支えしてくれていると思います。高校3年の夏以降は『工業英語』というテクニカルライティングの雑誌も買って時々投稿していて、一度投書欄に載ったのをM先生が見つけて、職員室に呼び出された時は、「職員室に呼び出されるなんて、何かまずいことやったのかな?」と思いきや、「よくこんな雑誌読んでるなぁ。」と感心されたのでした。僭越ながら、私の方が、「M先生って、文学とか時事だけじゃなくて、こういうのも読んでいるんだ」と尊敬したものでした。今思い返すと、英語力と教授力とのバランス感覚の良い先生でした。とりわけ、高3の時には英作文の添削を個人的にお願いしていました。今でこそ、ライティングを専門分野といっている私ですが、高校時代「英作文」 の参考書や問題集はやったことがありません。自分で読んだ英文から用例を抜き出す作業は続け、それ以外に英作文としてやっていたのが、日本語の雑誌や新聞などに出ている、自分の好きなスポーツ選手、芸能人、歌手、作家のインタビューを切り抜いて、レポート用紙の上に貼り、その下のスペースに英文に訳して先生のところに持って行く、というもの。市販教材の和文英訳に対しては、「自分で感じたり、考えたりしたことじゃない言葉を英語に直して喋ったり書いたりする必然性は希薄だ」と思っていたので、「この話題、内容は今の自分にとってリアルなものなんだよね」っていうものを英語に直していったわけです。
多くの場合は語彙の選択や、文構造のミスを添削してもらい、時には、丁寧にスピーチレベルやポライトネスの観点でコメントをつけて貰いました。何度か、「これは全く英語の論理に合っていない」と、全て書き直しを命じられ、憤慨しつつも、悪戦苦闘して再提出し、合格点をもらえたときの達成感は懐かしく思い出されます。
その中で、『一つの文の中に、くだけた話し言葉と、堅い書き言葉が混交しているのですわりが悪い』という指摘があり、新たな課題を突きつけられた気がして書店で選んできたのが、小西友七著『アメリカ英語の語法』(1981年、研究社刊)。高3の2学期の終わり頃です。当時で2600円は大きな出費でしたが、休み時間なども食い入るように読んでいました。大学の2年くらいまで、本当に何度も読み返しました。繰り返しに耐えうるだけの、看板に偽り無しの内容であっただけでなく、自分の、英語表現や語法に対する姿勢に大きな影響を与えてくれた本でもあります。今でも、時折取り出して、ぱらぱら眺めてみるにつけ、自分がどのようなものに強い関心を持っていたか、初心を確かめるような思いです。その他に、英作文関連でやっていたことは、松本道弘氏の編んだ『日米口語辞典』や最所フミさんの辞書を机に広げて、当時『週刊少年マガジン』連載中の『1、2の三四郎』 (小林まこと) の台詞の英訳をずっと続けていました。

高3の2学期以降、受験勉強を本格的に始めてからは、市販されている問題集を片っ端から解いていきました。40冊くらいにはなったと思います。高校卒業時には、大きな袋に入れ、「後輩で使う者がいたら」、といってM先生に渡して来ました。その時、ちょうど指導要領の改訂で、教科書が変わる頃で、M先生から、「これが新入生が使う教科書。どう思う?」と読まされ、「ずいぶんと簡単になりますね」と答えたのを覚えています。
大学はいろいろあって現役で東京外国語大学に入学。アルバイトをしないと生活していけませんでしたが、ボート三昧で、時間がとにかくないので家庭教師と小さな予備校の講師をしていました。卒業の前に、1年くらい海外を遊学してくる先輩・同期もいたように思いますが、奨学金と授業料免除で通っていた私に、そんな経済的余裕もなく、ほとんど対策をすることなしに4年次でITP TOEFLを受けただけで終わりました。607点だったと記憶しています。その後、教師になってから高2、高3のTOEFL講座や法政大学のエクステンションで大学生にTOEFL対策をすることになろうとは思ってもいませんでした。
教職一本でしたが本当に何の準備もせず、民間の就活もなしで都立の採用試験を受け合格。高校の教諭として英語教師の第一歩を踏み出しました。紆余曲折しながら現在へと続いています。とりあえず、教師となるまでのあたりを中心にまとめてみました。教師になって以降の「英語学習・英語修業」は日を改めて。

本日のBGM: 風来坊 (森高千里)