"easy said but less often done"

本業の日曜日。
寒気も相まって冬に逆戻りしたかのような生憎の雨。
午後になっても止むことはなかった。
他チームを地元水域にお迎えしての選抜対策。2000mという距離への対応。
午前中は、低レートでのアップに続いて、ラダー的なメニュー。片道2000mをQ毎に、SR22/24/26/28のラウンドとSR24/26/28/30のラウンド。どこでレンジが短くなり、尺が潰れるか、を観察。合計約14km。
午後は、女子2Xとの併漕。4kmのアップに続いて、SR2枚分のハンディキャップで2000mを2発。1発目は10秒差、2発目は15秒差でスタート。その後、単独で、レースシミュレーション。スタ付き5本+10本+10本からSR28にセトルダウン、ミドルでスプリント10本の後、またSR28にセトルダウン、ラストQで少しずつ上げていきレースペースでフィニッシュ。合計約16km。
保護者に迎えに来てもらい撤収。

さて、
anfieldroadさんの企画に乗って、英語教師になるあたりまでの英語学習歴のまとめを書きましたが、その後のことも少しだけ書いておきましょう。学習歴というよりは、職歴を振り返るようなものになるかもしれません。
大学の恩師のW先生に、

  • 君はね、自分で英語が出来ると思っているでしょ。そういう人には入門期の指導なんて出来やしないんだよ!

と怒られるたびに、

  • わかりました、だったら (中学じゃなく) 高校へ行きます。

と答えていたから、というのは本当に多分にあって、高校で教壇に立とうと決めていました。学部卒で直ぐに専任の都立高校教諭として職を得たことで、何が変わったかというと、「本を買えるようになった」ということが最も大きかったと思います。とにかく本を買っては読んでいました。学生時代に一番興味があったのが、PerkinsやCoatesなどの書いていた「法助動詞」で、教職についてからも、意味論と語用論関係を追っかけ続けていました。この頃は、英語学関連の書籍に給料の多くが消えていったような感じです。当時はまだ大学の近くで一人暮らしでしたから、大学の図書館、そしてトレセンもよく利用していました。
初任校は下町ののんびりした雰囲気の学校で、着任当時は「めざせ国公立大!」とか、「英語は世界をつなぐツール、国際化時代を生きるためにも英語を!」などというバナーとも無関係。共通一次や入試問題の分析なども教科として全く行っていませんでした。最初の2年間くらいは、理論と現実のギャップというか、自分の頭の中と自分に出来る実作とのギャップを受け止めきれずに、いつも辞めよう、と思って学校に行き、先輩教員に飲みの席で窘められ、思い直してまた学校へ行く、それでも満たされず、時間を見つけては本を買い、そして本の中に逃げ込むという「頭でっかちな」日々が続いていました。当時、某FM局での深夜枠で斬新な新番組を作ることになり、その企画段階の会議に参加したりしていました。異動してきたY先生との出会いがなければ、この時、本当に辞めていたかもしれません。Y先生のおかげで、自分のやりたいことを実現することの難しさととことん向き合うことが出来、英語教師としての本当の意味でのスタートを切れたように思います。
当時の私の英語学習は、「読むこと」が中心でした。ケリー・伊藤に影響され、US News & World ReportとUSA Todayを読むというルーティーンワークに加えて、句動詞や前置詞句などを自分のものにするために、自分が読んだものの中から用例を収拾して整理し、緑のカバーのLOBコーパスを二分冊にまとめた頻度一覧に照らし合わせて、使用頻度や共起制限を踏まえた上で、自前のハンドブックを作るというのが中心でした。
80年代後半でまだ、インターネット環境はありませんでしたので、音源は、TVの二カ国語放送の英語音声、FEN (現AFN) などの放送、『時事英語研究』 (研究社) などの雑誌の別売りカセットテープ、あとは映画またはレンタルビデオくらいでした。学年を一緒に組んだY先生はお昼休みに、Japan Timesを読みながらヘッドホンでFENを聴き、職場の机の上に、Foreign Affairsが置いてあるような人でしたから、いつも刺激を受けていました。辞書に関しても、各種英英辞典、中でもWorld Book Dictionary を常に引いて簡潔明快な定義、用例を駆使されていて、私もよく使わせてもらっていました。新しもの好きな私が何か仕入れてくるたびに、その書籍や教材、辞書に関して簡単なコメントをくれたのを覚えています。Y先生は、ご自分でそれらをほぼ全て通過していたわけです。
その後、英語に特化したクラスを設置することになり、Y先生が「先進県」「先進校」としてチェックしていた県や学校へと視察に行きました。中でも、神戸市立葺合高等学校に行ったことが大きな刺激となりました。その後、英語科の加配が増え、ALTやJETも含めて大所帯となってからも、Y先生がグランドデザインを決め、若手を中心に動くという流れで事が進んでいきました。Y先生の人脈で、米大使館に勤務する方々の御婦人をALTとして契約することができ、米国では大学で心理学を教えていた方をはじめ、教養ある英語ネイティブと授業を作る機会に恵まれたことが自分にとっては大きな意味を持ちました。JETは2期2名、それぞれ英・米からの若者と過ごしました。英国人の若者は大学を出たばかりのシャイで押しの弱い人でしたが、一緒にやっていたTTの授業を『英語教師事典』 (アルク) で取り上げらてもらったりして、自信を深めてもらいました。この取材もY先生のご配慮でした。彼の任期が終わり、新しくJETとして迎えた若い米国人は日本や日本人への偏見も強く、よく職員室で私と口喧嘩していました。私とライティングでTTを組んでいた年配のALTの女性が見かねて、よく彼を諭してくれたものです。担当するコマのほとんどがTTでしたから、ALTやJETと長時間に渡って打ち合わせをし、教案を作り上げたり、ライティングのシラバスを一緒に作り上げたりするのが「日常」となっていました。当時は、そのくらいしか、自分から英語を使うということはなかったように思います。
Y先生も当時の同僚も、今では都立の伝統的進学校へと異動してしまいましたが、この時の同僚に励まされ、ライバル心を持ちながらも「生徒に英語力をつける」ということに本気で向かい合えたことは大きな財産になっています。
それでもまだ、恩師のW先生に顔向けできるような状況ではなかったので、語研を避け、主にELEC同友会へ顔を出していました。まだ、同友会と協議会が完全分離する前で、研究会も神保町のELECの建物の中にある研修室で行われていたと思います。私はよく図書室で古い本を読ませてもらっていました。研究大会など先輩のビデオも当時は気軽に借りることができたので、繰り返し見ていました。
他にも、British Council主催のセミナーや、今では開催されなくなってしまいましたが「研究社」が主催の英語教育の研究会なども東京では頻繁に開かれていたので、よく足を運び、指導力以上に、自分の英語をもっと磨かなければと思っていた時に、高校用学習英和・和英辞書の編集のお手伝いを依頼され、引き受けました。高校用の教科書の全てに目を通し、共通一次試験の本試験・追試験全てに目を通し、当該語の用例を比較。用例のカード作りから始まって、特集頁の執筆と、今に至るまで続いています。この後、同じ出版社の教科書の指導書の執筆をすることになりました。この時の教科書の編集者の方がよく英語を読まれている方で、自分に圧倒的に足りない「文学」というものを意識して英語を読むようになっていきました。
全英連のテスト部に入ったのと、某社で検定教科書を書くようになったのとどちらが先かは今でははっきり覚えていませんが、どちらも20代の最後の頃だったと思います。教科書はオーラルとライティングという、どちらも自分で「書き下ろ」さなければならないものであったことで随分と鍛えられたように思います。
このようにして、20代の終わりから30代にかけて、辞書、教科書の指導書、全国的規模の英語のテスト、オーラルとライティングの教科書の執筆といった「英語教育」にまつわる materials writer としていろいろなものを読み、聴き、話した上で、自分の原稿を書き、それに編集側の英語ネイティブの朱が入る、という繰り返しをすることになりました。何か疑問があれば、まずはとことん調べるという姿勢はこの頃に自分のものになったように思います。教科書の執筆では、緑川先生や小林先生、酒井先生、中本先生など卓越した英語力の持ち主に追いつけとばかりに必死でしたが、この経験が自分自身の英語力の伸張に寄与したことは間違いありません。
この頃、自分の発表をELEC同友会で行った時に、学生を連れて見に来ていたのが、当時外語大にいたRichard Smithでした。懇親会後に意気投合し、朝まで飲み明かし、「現場の若手教師と教職志望の学生・院生を繋ぐtop-downではない、reflectiveな研究会を立ち上げよう」ということで、外語大のサークルとして、NEW (西ヶ原英語教育ワークショップ) の設立が決まりました。このNEWでのリチャードとの数年間が私の英語観や英語教師観に大きな影響を与えています。リチャードの研究室を頻繁に訪れるようになり、英語教育関連の最新の論文を読むようになりました。当時の私は、「日本のLeni Damを目指そう」などと本気でしたね。

その後、新設校となる二校目へと異動というか、飛ばされました。本業で現在へと繋がるG大のコーチを引き受けたのもこの頃です。朝は5時から大学生の指導をしてから出勤。週末は土日と終日指導。大会の後は学生と一緒に打ち上げで明け方まで飲んで、2時間くらい仮眠をとって、翌月曜日から出勤、などという日々が5年間続いたことになります。一度だけ扁桃腺が腫れ高熱が出て休暇を取りましたが、授業に穴を空けたり、職場に迷惑を掛けたりせずに、大学でのコーチングをするということを心掛けていました。
ライティングに特化した講座を一から作り上げるために、多くの先行研究を精査し、国内の実践例を集める中で、いろいろな方との交流が生まれていきました。
当時の同僚はみな英語指導に定評のある人ばかりで、それぞれが特徴ある講座を設置し、成果をあげていました。昨年の夏にELEC協議会で講師をした時に、この当時の同僚でもあったK先生が受講してくれたのですが、嬉しい再会でした。昨年10月の山口県英語教育フォーラムでお招きした柳瀬和明先生もその時の同僚の一人です。
ライティングの講座はTTで行うと決めていましたので、優秀なALTの存在は不可欠でした。
大学でも教鞭を執り、TOEICのアイテムライターも務めていた米国人男性、フリーランスのライターとして種々の雑誌で活躍していた米国人女性という二人の方と数年間組んで授業を作っていく中で、自分の英語力、ライティング力、添削力も鍛えられました。「ライティング」の講座に関しては定期試験を廃し、ポートフォリオとカンファレンスという実験を出来たのも、チームで取り組めたからこそでした。
10年以上たった今でも、この当時のシラバスは優れたものだったと思っています。学校説明会で高校に中学校3年生を招いて模擬授業をする時には、リチャードにお願いして、私とTTをしてもらったのも今では懐かしいです。
こうして、初任当初の「頭でっかち」で、書籍に逃げ込みがちだった英語との接し方が、「人」を中心とした英語の使い方へと変わっていったように思います。そうそう、この頃、5年間付き合っていた女性と結婚しました。現在の妻です。
30代の終わりに、「東京の教育21」という研究開発委員のリーダーを引き受け、当時の新課程だった「オーラルコミュニケーションII」のシラバス、指導法を世に問う仕事を最後に私学へと移りました。この時の指導助言者が上智大の吉田研作先生でした。都立高校関係者だけではなく、私立中高の先生にも声を掛け、満員御礼となった最後のプレゼンも、ようやく冷静に振り返ることができるようになりました。時は偉大です。
私立女子校勤め時代は、それまでにやっていたことを封印せざるを得ない時期であったと同時に、それまでTTという授業形態にいかに甘えていたかを痛感した時期でもありました。語彙・語法・コロケーションなどを徹底的に見直し、自分の中の英語の物差しを確立することに力を注いでいました。といっても、特別な教材をやっていたわけではありません。受験対策の読解演習の講座も担当していましたので、テキストにある全ての文章を自分の手書きでノートに書いていくという教材研究をしていました。筆者の思考のプロセスを追体験する、なぜ、ここではこの語句、表現なのか、なぜ、この具体例を必要としたのか、と考えながら書き写していき、続きは自分ならどう書くかを考え、そして原文を読み、言葉を読む、疑問があれば、英英辞典や類義語辞典の定義を各種比較検討というような、まどろっこしいことをずっと続けていました。これは今でこそ、手書きを端折ることがありますが、教材研究としてはずっと続けています。
最後の1年で「ライティング」らしいこともできるようになったのは、偏に生徒の頑張りです。ただ、定期考査毎に、ミニエッセイ300枚を採点するのは大変でした。自宅のリビングの床一面に答案用紙が拡がる光景は脳裏に鮮明に焼き付いています。同窓だったK先生と同僚となり、英語教育に関して、言葉に関して語ることの出来る相手がいたことが救いでした。
その後、故あって、本業を中心とした生き方を求め、別の私学で非常勤となりました。
本を買えない時代が結果として3年続きましたので、家にある音源を片っ端から、シャドウイングしていました。吉祥寺の駅から学校まで徒歩で約20分。往復40分。結構大きめのヘッドフォンをつけ、「何人たりとも邪魔する事なかれ」というオーラを放ちながら、毎日テクテクブツブツ。ときどきルートを変えながらも、欠かさず続けていました。最後の頃は、podcastを利用することで、英、米、加、豪、南アと音源のバリエーションが増え、自分のリスニング力、語彙力もかなり安定してきたように思いました。
この非常勤時代は、肩書きを取っ払って、自分という人間に何が出来るのか、ということと、とことん向き合えた3年間でもあり、企画の段階から加わっていたZ会の『Treasure』もBook 5の執筆の頃には非常勤となっていました。ベネッセの東大特講リスニングの執筆、GTEC Writing Trainingの監修は非常勤となってから始まったもので、それに加えて、『パラグラフ・ライティング指導入門』(大修館書店) を共著で進めることになり、自分としては英語教育に関して、一定の節目をつけられたかな、という思いもありました。
この2004-2006年度の非常勤時代にこのブログを書き始めて現在へと至ります。日々どのように英語と接していたかは過去ログのあちこちに顔を覗かせていることと思います。授業実践ではいいことも悪いことも含め、かなりあけっぴろげにブログに書いていますが、非常勤講師としての実践記録としてお読み頂くとまた違ったものが見えてくるかもしれません。

本日のBGM: Real Emotional Trash (Stephen Malkmus & the Jicks)