彼はイスラム嫌いじゃない。フランス嫌いなんだ。 〜『服従』 その2〜

前回紹介した『服従』について検索していたら、こんな記事をみつけたので抄訳します。

「フランスはウエルベックの『服従』をちゃんと理解しなかった」とアメリカのプレスは推測
(Telerama より。2015/10/22)

この火曜日にウエルベックの『服従』がアメリカで出版された。アメリカの批評家によれば、この「反イスラムというよりも反フランスの」小説がフランスで正しく理解されるまでには時間がかかるだろうと言う。

(中略)

形式やその内容によりも、アメリカのメディアはフランスにおけるこの小説の出版に対する反応に興味をひかれている。「賢い批評家たちがこの本に右翼的なプロパガンダを見出したことに私は驚いている」と、アメリカにおける『服従』の翻訳者でありParis Reviewの編集者である Lorin Steinは言う。「この話は明らかに喜劇であって、主な登場人物はみなバカで良心の咎めも感じない。この本は皮肉で一杯だ。これを戦いへの呼びかけと捉える読者は読み方が偏っていると私は思う。読者について心配し出したら、それはもう文学の終わりだ。」

(中略)

全員一致でアメリカのメディアはウエルベックが反イスラムであるという仮説を否定する。「イスラム主義は『服従』のテーマではない。それはヨーロッパに根強い不安、つまり伝統や権威に逆らってどこまでも自由を追求することが不可避的に大失敗に行き着くという不安を表現するための鍵にすぎない。」と The New York Review of Books のMark Lilla は書いている。「ウエルベックは怒ってなどいない、彼にはこうすべきという計画もないし、Eric Zemmour がやるようにフランスの自殺に責任のある裏切り者を指さして告発するようなこともしない。」New Yorker も同様に、フランスにおけるウエルベックに対するイスラム嫌いという毎度の告発を非難する。「それは正しくない。彼はイスラム嫌いじゃない。フランス嫌いなんだ。彼が描くイスラム政権は優しい。彼はイスラムとの同化主義者たちの優しさや頼りがいのある点を好ましく感じている。」

アメリカのプレスが描く像によれば、ウエルベックは皮肉で怒りのないノスタルジックな人間にすぎない。「風刺というものは、自分たちがいまそこに向かっている狂気と、すでに過ぎ去った、理性的だったと思われている過去との比較から成り立っている。だから Tom Eolfe のように、風刺作家はしばしば懐古趣味の人間なんだ。」とNew Yoker は指摘する。

同様に、フランスにおけるEric Zemmour とウエルベックの比較をしながら、このアメリカの雑誌は、フィガロの元記者(である Eric Zemmour)の「恐ろしい考え」(それはこれら二人の作家に共通するノスタルジーが生みだしたものだが)からウエルベックは無縁であると言っている。つまり、60年代のフランスでド・ゴール主義者が抱いた考えである。「それは、権威はしっかりとしており保護者的で、男は役割を持ち、女はもしそうしたければ家庭にとどまることを選択でき、映画のポスターが二枚あればそのうち一枚にはカトリーヌ・ドヌーブが出ていた時代だった。」The New York Review of Books のMark Lilla によれば、イスラム主義がこの本の主題であるとか、ウエルベックイスラムを恐れているなどと考えるのは間違っている。「彼は心から、フランスは残念ながら、そしてどうしようもなくそのアイデンティティーを失ったが、それは移民やグローバル化のせいではないと考えているようだ。ヨーロッパ人は歴史上の賭けに出た:人間は自由になればなるほど幸福になれる、という仮説への賭けだ。ウエルベックにとって、賭けは負けと出た。ヨーロッパはこうして漂流し、神の名で語る者に服従するという古い誘惑に負けるかもしれないと彼は考えているのだ。」
(以下略)

フランスの復興? 〜ウエルベック 服従〜

ウエルベックの『服従』を読み終えた。おもしろかった。舞台はフランスで、主人公は文学教授(19世紀末の耽美主義デカダンス小説家ユイスマンスの専門家)。イスラム主義者が大統領になり、イスラム教徒しか大学教授になれないことになる。主人公は解雇され、経済的にはなに不自由ない年金生活に入る。カトリック修道院を訪ねたりもするが、ユイスマンスのようにカトリシズムへの信仰を取り戻す気にもならない。結局、イスラム教に改宗した学長に説得されて、イスラム教徒となって教職に戻る決心をする。
こう簡単に粗筋を書くと「なにが問題なのか?」という気がするが、まずフランス人はフランス革命以来の政治から宗教を排除する仕組みをとても誇りにしていて、しかも、かつてはイスラム教の国をいくつも植民地にしていたことや、郊外に暮らす貧しい移民の問題からくるイスラム教徒に対する根深い偏見と蔑視があり、さらに歴史を遡れば、ヨーロッパのキリスト教徒と北アフリカやトルコのイスラム教徒は中世を通して戦い続けたライバルであったこともあって、国がそのトップからイスラム化するということほどフランス人の神経を逆撫でする設定はないのだ。
この小説の批評をネットで見ると、あくまで皮肉か反語としか捉えられていないようだ。つまり、先進的なフランスがなぜかイスラム教などという野蛮に屈するという最悪の事態をSF的に描いた反イスラム小説、という見方だ。だがそうなのだろうか?これはむしろ逆接ではないのだろうか?私には、焦点はイスラム教への批判よりも、むしろ主人公がよく利用する出来合いの(冷凍?)食品や売春婦、長続きしない恋愛生活に象徴されるような、現在のフランス人の日常生活の行き詰まり感、しばしば自殺の考えに立ち戻らざるをえないような先のなさ、不毛感、暗さに当てられているように感じた。小説の中で、ルディジェ(大学長)がイスラム教に改宗した理由として、ヨーロッパ文明の終焉への確信を挙げるのだが、この認識こそ、この小説の真のテーマではないだろうか。
いずれにせよ、予断なしに読めば、この小説がどうして反イスラムになるのか分からない。(一夫多妻制を茶化してはいるが。)一夫多妻制の進化論的正当化や「インテリジェント・デザイン」についても、そのままの形で、本気で信じられる人も少なくはないだろう。
むしろ、東洋の一傍観者という立場からすれば、軽いイスラム化(そのようなものが可能であるとしてだが)はフランスをより愛すべき国にしうるのではないかとすら感じられるのだ。 コルドバ!アンダルシア!
国民戦線とともに強面で虚勢を張り続けるよりも、むしろイスラム化したほうが、フランスにローマ帝国を凌ぐほどの可能性が開けるのではないか?……それがウエルベックによる冗談めかした、しかし半分は真面目な問いかけなのではないだろうか。
それはちょうど、日本が中国の完全な属国となり、あらゆるレベルの学校で中国共産党による思想教育を受け入れるときに開かれる、歴史上最大の東アジア大帝国の可能性に匹敵する。それは日本にとって言わば第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。
日本は何も後悔しないだろう……?

日本人による西遊記 〜円仁 唐代中国への旅〜 その5

故郷へ帰ろう
円仁は八四一年から百回以上に渡って帰国の許可を願い出るが入れられなかった。八四三年七月には円仁の弟子の一人、惟暁が病気で亡くなった。帰国の許可がようやく下りたのは八四五年五月、還俗と追放という形でのことだった。
中国の友人たちは集まって彼の荷造りを助け、あらゆる方面で援助を惜しまなかった。惟暁の葬列にも加わった還俗させられた一人の僧が、べん州(現在の開封)まで円仁たちに随行すると申し出た。円仁は「彼の気を使ってくれることがあまりにも大きかったのを見て、彼の願いを断り切れなかった」という。また別の僧は餞別に白檀の厨子と像を円仁に与え、寺役人たちは次のような挨拶を彼らに述べた。

……昔から今に至るまで、求法の人々は実際さまざまな困難を経験して参りました。我々は貴僧らがどうか穏やかであられることをお祈りいたします。このような困難に遭遇しなかったならば、貴僧らは故国にお帰りになる術もなかったでありましょう。我々は貴僧らが最初からの本望を遂げて聖教と共に貴国にお帰りになれるのをお喜び申し上げます。

五月十四日の朝早く、円仁たちは五年間来住み慣れたわが家であった寺院を立ち去った。
翌朝、後援者であった楊という高官にお別れの挨拶に立ち寄ったところ、彼は餞別にだん茶一連を暮れた。以前宮中の僧で、今は楊の家にかくまわれている人物からは「別れの挨拶に包まれた」悲しい手紙を受け取った。二人の別の還俗した著名な僧侶が円仁を訪れた。また、別の後援者であった李元佐は甥と共にやって来た。彼らは円仁たちに剃った頭を隠す毛氈でできた帽子を買って与えた。
その夜、円仁たちははるばる東を目指して長安の市から一歩を踏み出した。楊は人に托して手紙をもたらした。手紙には「貴僧の弟子である私は、貴僧の途中の州や県にいる私の旧知の官吏たちに宛てて、私自身の筆跡による五通の文書をしたためました。もし貴僧がこれらの手紙をもっていけば、彼らは貴僧を万事好都合にいくように助けるでしょう」と記されてあった。
寺にしばしば円仁を訪ねたことがあり、円仁が羊毛のシャツとズボンを絹布少々を与えたことのある、別の官吏が息子と共にやって来て、去り行く円仁たちに「絹二巻、茶二ポンド、だん茶一連、銅貨二連および途中の人物に宛てた二通の手紙」を贈り、円仁にも手紙を呈した。円仁たちの後援者の一商人は使いを送り、円仁たちに「絹一巻、ウール地一反および一千文」を贈った。
李と楊の使いの人物とは、なお円仁たちと別れるのを欲せず、市の二、三マイル東までついてきて、市外で最初に彼らが休息するところで共に一夜を過ごした。ここで李は円仁に惜しげもなく緞子十巻、馥郁たる白檀の一片、像が入った白檀の厨子二基、香盒一合、五つにとがった銀の金剛杵一箇、後に日本皇室の御物となった銀文字で書かれた金剛経一巻、柔らかいスリッパ一足および銅貨二連を餞別として与えた。李はまた円仁の衣と袈裟を所望し、「それらを家に持ち帰り、余生長く香をたき供物を捧げたい」と願って、それらを受け取った。李の送別の辞は特に感興が深かった。

貴僧の弟子は、はるか遠くから仏法を求めてこられた貴僧にお目にかかることができ、数年間、貴僧を供養することができたのは、生涯にとっての大いなる幸せでありました。しかし、私の心は満足できず、貴僧と永久にお別れすることを望みません。貴僧は統治者によって、今この苦しみに遭われ、貴僧の故国にお帰りになります。貴僧の弟子はおそらく再びこの世では貴僧にお目にかかることはできないであろうと思います。しかし、きっと将来、諸仏の浄土において、私が今日そうであるように、再び貴僧の弟子となるでありましょう。貴僧が仏果を成就されたとき、どうか貴僧の弟子を忘れないでください。

こうして円仁たちはその道中多くの中国人、朝鮮人たちに助けられ、山東までを移動した。しかし追放とは矛盾する別の勅令のために円仁たちは山東に留め置かれることになった。そして地方でも仏教寺院が破壊され、その財産を没収され、僧たちが還俗させられるを見た。
八四六年三月、武帝が死んだ。その後を継いだ武帝の叔父、宣宗はほとんどただちに甥の仕事を止めた。五月には大赦が行なわれ、弾圧は終わった。
円仁たちは再び山東の赤山朝鮮人社会の親切な頭目の張詠に食料や宿泊のやっかいになったばかりではなく、帰航にあたっても彼らの援助を求めた。人に預けた荷物の処理や、帰航のための船の手配に一年以上待たされてから、円仁たちはようやく八四七年の九月二日、真東に向けて航海を始めた。朝鮮の船は小型だが丈夫で、しかもその航海技術は日本人遣唐使たちが往路で見せたあの悲劇的な技術に比べてはるかに勝っていた。円仁たちは朝鮮半島の沿岸を伝い進み、十日には九州の西北岸沖の島に、そして十七日には博多湾に到着した。こうして円仁の長いたびは終わり、円仁の日記もまた唐突に終わっている。

日本人による西遊記 〜円仁 唐代中国への旅〜 その4

長安

このころ円仁は修業への情熱に取りつかれていたに違いない。早くも八月には長安に入り、各方面への挨拶が済むと、円仁はたたちに彼が学ぼうとするそれぞれの題目について、一流の権威の名前の推薦を受けた。そして四人の教師の下で教えを受けた。
彼はまず元政のもとで金剛界の研究を始める手はずを整えた。

円仁は勉強を始めるに際し、灌頂を含むさまざまな儀式を受けた。元政のもとで三ヵ月半の業を卒えたとき、また一連の儀式を受けた。この中には、”法をを伝えるものとなる洗礼”(伝法灌頂)が含まれた。この儀式は水に浸かるのではなく、円仁の頭の上に五つの水瓶から水を注いだのである。それはおそらくこの研究のコースを終えたお祝いの儀式であり、円仁は、同日、当初かの偉大な玄奘によって建立された当時市内の東南部にあった高い塔に昇ったのである。今日では”大きな野生の鵞鳥の塔”(大雁塔)として知られ、極端にさびれ、往時の面影を失った西安の城壁の外、南約二マイルのところに建っている。

この塔は六五二年に建設され、このときすでに建立から二百年近くがたっていた。今でも最上階まで登ることができる。
円仁はさらに胎蔵界を義真について学び、法全からもそれについて教えを受けた。法月からはサンスクリット語の文法を学んだ。こうして二年間で円仁はその正式な学課のすべてを学び終えた。
それから数ヵ月後の八四二年十月、仏教に対する実質的な弾圧の始まりを告げる最初の勅命が下った。
(つづく)

日本人による西遊記 〜円仁 唐代中国への旅〜 その3

五台山
円仁が五台山を巡礼したのは840年の四月から七月の間であった。円仁はまず竹林寺に滞在した。そこで円仁の二人の弟子は具足戒を受けて一人前の僧となった。大華厳寺ではまだ日本にない天台の書物を書き写した。
さらに円仁は五台山の五つの峯をまわり、その洞窟や塔や輪転蔵について、それらの場所にまつわる数々の伝説や不思議について書いた。

この地域の自然の美しさについて、円仁は特に峯々の坂道や頂を覆う高山植物の美しい花々に強く印象づけられた。それらは「錦のように一面に花ざかりで」、馥郁とした香りが「人々の着物に薫じた」。

中台の水たまりのある頂の模様を円仁は次のように描写している。

……峯中に水は地から湧き出て、柔らかい草が一インチほどの長さに伸びていて、一面に厚く地面を覆っている。その上を歩めば草は寝るが、足を持ち上げれば再び起き上がる。歩むごとに〔足が〕水に湿り、氷のように冷たい。ここかしこに小さな穴があり、水が溢れている。峯中には砂と石があり、数えきれないほどの石のパゴダがあちこちに散在している。きれいな柔らかい草が苔の間に生えている。地面は湿っているこれども、ぬかるみにはならない。というのは、苔や柔らかい草の根が一面にはびこっているから、旅人たちの靴や足が泥まみれにならないのである。

また東台の頂から遠からぬところに聖なる洞窟があって、水がぽとぽとと落ち、真っ暗だった。彼はこの山頂から見た嵐の様子を記述している。

……夕暮れ直前に、空には急に雲が広がり、白い雲がかたまりになって東の方に向かって谷底にたなびいた。たちまち赤く、たちまし白く、それらは上に渦巻いた。雷がごろごろと高く鳴った。大騒ぎは深く谷底でなされていたが、我々は高い峯から低く頭をたれてそれを見下ろしていたに過ぎないのである。

この〔文殊の〕聖なる場所にひとたび入ると、きわめていやしい人影を見ても軽蔑の念を起こさず、驢馬に会っても、それが文殊菩薩の化現であるかも知れないと懸念する。目の前にあるすべてのものが文殊菩薩の仮の姿であるという思いにかられる。聖地はおのずからそこを訪れた人たちに尊敬の念を起こさしめるのである。

やがて円仁たちは唐の都、長安に向けて旅立った。
(つづく)

日本人による西遊記 〜円仁 唐代中国への旅〜 その2

友人たち

大使たち総勢二百七十人からなる遣唐使節の本体は十二月三日、長安に到着した。円仁は揚州で天台山へ行く許可を待っていたが、いつまでたっても許可は得られなかった。やがて大使たちは長安から帰ってきて、帰国に向けて移動を始めたが、円仁はたとえ公の許可が得られなくても唐にとどまることを決心する。

彼は山東半島の突端に位置する赤山院という僧院にとどまり、日本へと向かう船団と分かれた。するとまもなく近くの県庁から訊問の文章を携えた官吏が到着した。

県庁は青寧郷に告げる
我々は竇文至のグループの頭から約三人の日本人が日本船から置き去りにされたという報告を受けた。この事件のいきさつを伝える文章はこれをグループの頭から受け、それには船は今月十五日に出立し、置き去りにされた三人は赤山朝鮮僧院に発見されたと記されている。この報告は以上のとおりである。
件の人物について我々の調査を推し進めるに当たっては、彼らが船から置き去りにされたとき、村の保安要員とグループの頭はすぐその日に我々にそのことを告げるべきであった。何故に十五日も経過してから我々に告げたのか?さらに、我々は逃亡者の姓も名前も知らされていないのである。彼らがどのような荷物を所持するのか、どのような衣装を着ているのかも不明である。また、僧院行政官および赤山僧院の監督の僧侶たちが、そこに外国人をかくまっているということを調べたかどうかについて貴下の情報はなんら提示していない。部落の長老たちは、ここにおいて事件を調査するよう要請される。この命令書が貴下に到着した日、ただちに事態を詳細に報告せよ。万一、貴下の調査に辻褄の合わぬ点があったり、虚偽の申告があったならば、貴下は召集され責任を問われるであろう。もしも調査に関する貴下の具体的報告が時間の制限を無視することがあったり、調査が不十分であったならば、該調査者は最も重く罰せられるであろう。

この訊問は直接円仁たち一行に宛てられたものではなかったが、円仁は自ら弁明の手紙を書き、僧院に託した。これを始まりに円仁は中国の各地方、各部署の役人たちと行政手続きのための膨大な文章を交わし、五台山へ、さらには長安への通行証を手に入れる。そのときに役に立ったのが、円仁が日記に書き写したそれらの役所からの文章と、それに対する自分からの返答、あるいは請願書だった。そして、その時代にはありふれていたであろうこうした行政文章のフォーマットは、中国の正史に書かれるような内容ではないため、後の歴史研究家にとっても貴重な資料となったのである。
山東半島で円仁たちを大いに助けたのはそこにすむ朝鮮人たちだった。赤山僧院は朝鮮人の僧たちによって運営されていて、円仁を最初かくまった。また、その後県庁との折衝を助けたのは張詠(チャング ヨング)というこの地方の朝鮮人の長であった。

おそらく彼を通して円仁は最初の場所に上陸してとどまることができたのであり、また張の助けによって日本人たちは去っていった遣唐使節団からの逃亡者としてではなく、その地方の公認の外国人居住者であるという、より一層安全な外装を施されて、政府当事者に近づくことができたのである。

円仁はいったいどんな人だったのだろうか。思春期をとうに過ぎた円仁は当然ながら自らの性格について日記にくどくどと書くことはなかった。しかし日記は円仁その人についても多くを教えてくれる。まず彼はとても順応性の高い人だったらしい。唐の行政官僚組織を相手に、抜け目なく、しかし物怖じしたり卑屈になることもなく、堂々と渡り合って目的を達成している。
さらに、彼は旅に必要な金銭を行政機関からの給付や人々からの布施をやりくりしてまかなっていかねばならなかった。もちろん、帰国する遣唐使の本体と分かれるときに円仁は大使から滞在資金を受け取っている。また、その後も日本の朝廷は何度か円仁たちに資金を送ろうとしたが、これはうまくいかなかった。しかも彼の支出は日本の朝廷から支給された額よりはるかに大きかった。自分と二人の弟子たちの生活費の他に、長安で仏教の指導をうけた教師への授業料、弟子たちのための座具や袈裟の仕立て料、それに両部曼荼羅を写させる料金などが日記には記されている。

いずれにもせよ、円仁にとって最大の支出はこれらの絵画等によって構成され、彼の心に重くのしかかっていたことは確かであるということができる。彼が王恵と値段の交渉をしているとき、二度ほどこれらの価格を支払うに足る十分な資金をパトロンたちが贈ってくれた夢を見た。そして、彼の師、義真の在俗の弟子が金剛界曼荼羅のために絹四十六フィートを与えたとき、彼は義真に礼状を書いて「感謝に感極まった」といっている。

彼は長安でも地方でも、パトロンや支持者、支援者を得ることができた。これはもちろん、仏教にたいする尊敬が社会の中に息づいていて僧である円仁を助けたということもあるだろうが、それだけではないように思う。やはり彼のしっかりとしたコミュニケーションの能力、手紙などから読み取れる率直な態度、あるいはその他の想像してみるしかない人間としての魅力が、多くの支援者の心を捉えたのだと思う。
また、長旅を生き抜いた円仁は体も丈夫であったに違いない。遣唐使として同時に海を渡った副使の代理は渡海後に死亡し、二人いた円仁の弟子のうちの一人もまた長安で亡くなっている。
国宝になっている一乗寺の円仁像を見ると、丸顔で、眉毛が太く、ふくよかな顔つきに画かれている。
しかし、円仁もときには日記の中で辛辣な批判をしている。唐代中国の官用旅行者は、正当な通行証を持っていれば、道中無料で糧食、宿泊、運送の便を支給されることを期待できた。旅のはじめ、まだ山東を旅行しているころ、円仁は地方の長官の発行する通行証を持参していたということと、その僧という立場から、旅館では無料のもてなしを受けることを期待していて、それが裏切られたときには激しく怒りをぶつけている。
「我々の(旅館の)主人は荒々しく不愉快な人物で礼儀をわきまえなかった。我々は主人に野菜、醤油、酢、塩を求めたが、何一つ得られなかった。ついに、我々は、茶一ポンドを払って醤油と野菜を買い求めたが、食するのに十分ではなかった」「彼は極端にケチケチしていて、我々に一つまみの塩も一匙の醤油も酢も、無料では恵んでくれなかった」「彼は貪欲で客人を泊めて料金を取り立てた」「我々の主人は大層ケチで野菜の一つまみすら何回も要求しなければ、我々にそれを供してくれなかった」などなど。反対に「我々の主人はきわめて鄭重で我々の正午の食事のために惜しまず野菜を〔提供して〕くれた」というときは、彼らは喜んで迎えられ、無料で接待されたらしい。
仏教弾圧が始まり、円仁たちが追放されて長安から東へと旅行しつつあったときは、円仁は「都からの我々の文章は我々のための途中の支給についてはなんら触れることがないので、我々自身の旅の食糧を持参しなければならなかった」と説明している。また、円仁はべん河を下るためのボートも自費で傭わなければならなかった。円仁は書いている。「べん州からの川岸の人々は心が邪悪でよくない。彼らが飲むべん河の水のように、速くそして濁っている」どうも特に金銭を要求されるときに激しくぐちっているようにも見えるが、外国人の、しかも金銭の持ち合わせもそうはなく、その場その場の人々の好意だけを頼りに生き延びていかねばならない身としては、出費を見ることは心細いことだったろう。自分や弟子たちも含めて身の安全をはかり、あるいは経典や曼荼羅などを日本まで持って帰らなくてはならない責任の重圧下ではなおさらである。僧に対しては一般人も官吏も親切な人が多かっただけに、そうでない人に対しては敵意が湧いたのだろう。
興味深いのは円仁の禅僧に対する感想である。とある町で遭遇した禅僧の一団について円仁は「極端に心が気ままな人種」と描写している。これは大華厳寺の僧であった志遠の次のような描写と好対照をなしている。「彼は施しを受けず、日に一度しか食事しない。彼の戒律の実践は浄らかで高貴である。彼はただの一度も昼夜六時の礼拝と懺悔を欠かしたことがない」
(つづく)

日本人による西遊記 〜円仁 唐代中国への旅〜 その1

エドウィン O. ライシャワー著『円仁 唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究』を読んだのでその内容をまとめてみます。

航海は風(と神)まかせ
円仁は日本天台宗を開いた最澄の弟子で、838年に最期の遣唐使の一員として唐に渡った。渡航は第一回(836年)第二回(9837年)、第三回(838年)と三回も試みられ、三回目でようやく唐にたどり着くことができた。

当時の極東の航海技術は陸の見える沿岸を跳び跳びに航海するには十分だったが、日本から直接中国へ渡るのには不足だった。羅針盤はまだ使われておらず、風が順風になるまでは港で待機するのでとても時間がかかった。そして、途中で風向きが変われば、まるで水に浮く木の葉のようにいとも簡単に岸へと吹き返された。

しかも、どうやら当時の日本人は航海に必要な最低限の気象知識すら持っていなかったらしい。通常八月の中旬から十月にかけてやってくる台風を避けようとしていない。

第一回目の渡航の試みでは、四隻からなる船団が出発したのは太陽暦で8月17日だった。

彼らの出発の報せが大宰府から朝廷に達したちょうどその日、第二番目の急使が第一船と第四船が同時に九州西北岸に吹き戻された報せをもたらした。二、三日経って馬を乗り継いだ別の使いが大宰府から都に到着し、第二船も九州の西北の突端に漂着したという悲しい報せを伝えた。さらに続いて、第三船から十六人が、”筏として組み合わされた板”の上に乗っかって、日本と朝鮮の間の海峡にある対馬に打ち上げられたという悲報がもたらされた。続いて、九人が筏に乗って九州西北岸に漂着したと伝えられてきた。最後に、難破した船体そのものが対馬に打ち上げられ、たった三人しか甲板には認められなかったというニュースが入った。

しかし昔の人は我慢強い。こんなことではめげなかった。
早くも836年の秋には船の修理が始められ、あくる年早々から、斎日、歌会など、すべての出発に向けた儀式が再び始まった。太平良(おおのひらら)と名づけられた使節団の第一船は従五位下に叙せられた。
しかし。

使節団は先年よりも早く都を出立したが、またもや彼らは九州出発を遅らせてしまった。七月二十二日、太陽暦に直すと八三七年八月二十六日に、都に悲報が到着した。
というのは、九州の西北の突端を出航した三隻の船のうち、第一船と第四船が九州の北に位置する壱岐島に流され、第二船は五島列島の岸に困難の末やっと辿り着いたという知らせが届いたのである。船団は再び航海を続けるのは困難なほどの損害を受けたので、豊前守に修復が命ぜられ、筑前権守と判官長岑高名の二人がその補佐役に任ぜられた。かくて、中国に渡る第二回目の試みも、第一回と同様、悲しくもほとんど水泡に帰した。

しかし昔の人は我慢強い。こんなことではめげなかった。
聖徳太子の遣隋使から数えてももう二世紀も経ってるのに、もうちょっとどうにかならんかったんやろうかというのは、嵐というのはただ単に統計学的な気象現象であると知っていて、かつトヨタの改善やら最適化やらといった考え方が生活の隅々にまで入り込んでいる現代人だからおもいつく感想なのであって、この時代には神はまさに生きていて、人間はその圧倒的な力でなにかと邪魔をしてくる神々をなんとかなだめすかして自分の望みを通していくしかなかったのである。

二回ともこのような不幸の憂き目をみたので、日本人は当然、神々が彼らに反対しているにちがいないと考えた。そこで彼らは第三回目の渡中の企てのための準備に当たって精神的な努力を二倍に強化した。これまで、皇室は古来の神道の神々にのみ頼っていた。今回はさらに加えて、より一層国際的な力を持った仏教の神々や経典に目を向けたのである。
八三八年春、詔書が発せられ、遣唐使の不幸を引いて、しかし「信は必ず応えられる」という確信が表明された。詔書は、九州の九つの州にそれぞれ二十五歳以上の仏門に投じ経典に通暁し非の打ちどころのない立派な人物を一人ずつ選んで、使節団が中国から無事に帰るまで、仏天に供物を捧げ、宗教的儀式を執行するよう命じた。この九人は九州の四つの最大の神社に配属されることになったが、彼らは各州に一世紀ばかり前に作られた公の仏教寺院(国分寺のこと)や神社に付属して建てられた仏教施設において彼らの礼拝を執り行ったのである。

828年夏、三隻からなる船団は三度目の出航をした。第一船と第四船は今回は早く出航した。円仁は第一船に乗っていたが、彼らが日本の最西端の島影を最後に認めたのは七月十八日だった。第二船は副使の小野篁(おののたかむら)が仮病を使って出発拒否をしたため出発が遅れた。副使は罰を受け、結局中国ではなく人の手によって隠岐の島に流され。

海上のはじめの二晩は二隻の船は互いに烽火(のろし)をあげて確認し合った。それはあたかも、”夜の空の星”のようであったという。しかし、第三日の夜明けまでには、第四船はもはや視界から消えていた。風は東南に変わっていた。しかし、これはなお、順風であった。第一日が暮れると、大使は観音菩薩を画き、円仁と同僚の円載は経を読み祈った。渡海途上、日本人たちは海に浮かぶ竹や葦、行ったり来たり飛び交う鳥のたぐい、さらに海水の色の変化にまで異常な注意を払った。そして、これらの現象から、いくらかでも、彼らがいまどこにいるかということを読み取ろうとしたのである。
第三日、水は淡い緑に変わり、第五日目には白みがかった緑となり、そして翌日から黄色い泥の色となった。彼らは、これが有名な揚子江から出た水であろうと推測した。

こうして、ようやく円仁たちは中国の地に足を踏み入れた。