硝子のハンマー/貴志祐介

硝子のハンマー (角川文庫)

硝子のハンマー (角川文庫)

 
 今さら読みました。
 
 本作を読んでまず思い浮かんだのは次の2つの単語だった。
 「スペシャリスト」と「ゼネラリスト」。主人公の探偵コンビ、防犯コンサルタント・榎本と弁護士・青砥の二人がまさしくそのような一対に思えたからだ。というわけで、今回はこれをキーワードにして感想を書いてみようと思う。
 
 古くはポーの『モルグ街の殺人』で出てきたオーギュスト・デュパン、彼が一般的に名探偵なるもののハシリだと言っても過言ではない。彼は類まれなる推理力を持っていたわけだが、その能力がスペシャリストかゼネラリストかといえば、後者だと思うのだ。様々な書物から知識を吸収し、それらを駆使する彼は博覧強記であっても、何の特別な技能を持たない没落貴族にすぎない。
 
 その後しばらく現れた数多の名探偵たちも同様である。彼らはゼネラリスト的手法――多分野の情報を組み合わせ真相に迫る手法を用いて事件を解決していく。中には特殊な技能・知識を持った設定の探偵もいたが、それが無ければ真相が解らなかったという小説はほぼ皆無のように思える*1
 
 これは一つに、読者の好みの問題があるからだろう。例えば貴方がミステリー小説を「真相はこんなのじゃないかしら」と推察しながら読んでいて、さあいよいよ解決篇という段になって、かなり特殊な専門知識が無ければ解らないような真相の迫り方だったらどう感じますか?
 ミステリーをゲームと見なし、フェアを求めているある種の人々は「こんなのフェアじゃない!」と怒り出すかもしれない。始めから何も考えずに読んでいる人も「何じゃこりゃ」と首を傾げるかもしれない。いくらかは「へえ、そうなんだ」と納得する人もいるかもしれない。
 ただし、一世紀から半世紀ほど前は違っていたはず。真意はどうあれノックスの十戒なんてものが存在していたような時代なので、そのような小説が受け入れられたとは考えにくい。
 
 おそらく、当時の階級社会の影響もあるのだろうと思う。探偵が貴族の末裔だったり、やや階級を下げても医者や弁護士だったように、古典の世界においてはブルーカラー階級は探偵になりえなかった(ホワイトカラー階級ですら微妙な出演率)。そういった小説の作者も(クロフツなどの例外を除いて*2)皆ブルーカラー階級ではなかったし、読者も識字率が高まったとはいえやはりブルーカラー階級は少なかったのだろう。
 
 しかし、そんな風潮も時と共に風化した。作家にも読者にもブルーカラー階級が増えた。当然、作品内にも技術者の探偵や犯人も増えた。ミステリーのジャンルも随分と拡散した。それでも、いわゆる本格ミステリというジャンルだけは特殊な知識を必須とする解決を拒みつづけて今日に至る。
 
 ここで、ようやく『硝子のハンマー』の話に戻る。冒頭に書いたように本書はスペシャリスト・榎本とゼネラリスト・青砥のコンビが一つの事件に挑む物語だ。青砥が古典的な探偵の後継者であるのに対し、榎本は長らく追放されてきた異端の探偵である。各々のスキルによって導かれた推理が矢継ぎ早に開陳されていくスピーディーな展開は、探偵VS犯人という図式の他に、スペシャリスト探偵VSゼネラリスト探偵という図式も内包しており、読者は二重の享楽を得ることになる。
 
 私は正直、事件の犯人やトリックよりも、どちらの探偵の手法が優っているのかの方がずっと興味を覚えた。だってこれ、稀に見る異種探偵マッチですよ。興奮しないはずがありません。果たして本作はスペシャリスト探偵とゼネラリスト探偵のどちらに軍配をあげるのか。
 
 結論から言うと、この勝負の行方は貴志は棚上げした感がある。今回はネタバレしないのでぼかして書くが、犯人の用いたトリックはある種の物理的な知識が必要でありながらも、そこまで専門性を要さないレベルのものだったからだ。
 無論、これはエンタメとしては定石ではある。多くの読者がついてこれないようなトリックならば、本作はあまり評価されなかっただろうからだ。非難に値する瑕疵ではないどころか、貴志の確かなバランス感覚を賞賛するべきなのだろう。
 しかしながら、これだけ「スペシャリスト」を描ききった(第2部で出てくるある人物含む)のだから、少しもったいないというのも正直な話だ。
 
 というわけで、素直に傑作としたい感情と、一抹の寂しさを覚える感情。色々と考えることの多い作品だった。

*1:と、筆者がすぐに思いつく初期の探偵小説では例外が見当たらなかった。

*2:そういえば、貴志は『クロイドン〜』を好きな小説だと公言していてこの符号は面白いかも

イニシエーション・ラブ/乾くるみ

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

 
 何とも戦慄を禁じえない一文であった。といっても、作者の企みが全て明かされるラスト2行のことを言っているわけではない。私はその箇所よりも、物語中盤のとある一文にこの作品の強烈な個性を感じた。その一文があるかないかで、私にとって大きく評価が変わる一文である。
 
 当然、その一文を明かし、何故そこに興味を惹かれたかを記述するにはネタを明かさねばなるまい。というわけで、以下は恒例のネタばれ反転である。
 
本書のメイントリックとは、異なる時期に展開された(そしていくらかは重複した)恋愛を、地続きの時間軸に錯覚させようとする叙述トリックである。side-Aという章題の視点人物である夕樹と、side-Bという章題の視点人物辰也は、共に恋人の繭子から《たっくん》の愛称で呼ばれている。しかし、夕樹の視点からは辰也が、辰也の視点からは夕樹が排斥されそれぞれが繭子の(初めての)恋人は自分一人だと思い込んでいる。当然、視点を共にする読者もそのように思い込み、ラストに至って繭子が二股をかけていたことを知って繭子の魔性に驚くという構造になっている。
 
 しかし、本当にそれだけのことならば、本書は何も奇異な作品ではないだろう。古典の時代から数多描かれてきた女の魔性や叙述トリックの数々。何もこの作品だけがそれらを取り扱っているわけではないのだ。
 
 だが、以下の一文で筆者の感想は根底を覆された。
 
「ううん。二度目の相手もたっくん、三度目の相手もたっくん。これからずっと、死ぬまで相手はたっくん一人」(文春文庫版、P114)
 
 私はこの一文こそ、本作のキモの全てだと思う。この繭子の台詞は恐らく多くの読者が再読時に発見されたであろう、《拾われるべき伏線》である。夕樹/辰也の二人の《たっくん》をラップさせているということは再読した読者ならば容易に気が付くはずだ。
 
 この台詞は端的に言うと、本作を成立させている狂気である。思い出してほしい。夕樹という名前をかなり強引な変換で《たっくん》という愛称にした繭子。自動車免許や服装、一人称に至るまで夕樹を辰也そっくりにしたのも繭子。繭子はただ二股を掛けていたのではなく、《たっくん》の量産を企んだのである。
 夕貴という個人を消滅させ、素体となった辰也とも違う《たっくん》というイデアを淡々と作り上げる繭子は、永遠に《たっくん》という《繭》に閉じこもろうという反復性への強固な意思を感じさせる。美弥子が若い頃の仮初めの恋愛を大人への成長過程における儀式だと述べるシーンがあるが、その言に従うならば繭子は大人への成長過程を拒絶した人間であると言えよう。その証左に繭子が子供を堕胎したという事実は、彼女が大人への解りやすい過程を拒絶していると言い換えることもできる。
 
 人間の関係性を雛型通りに量産し続ける行為、生産とリセットの輪廻は『ドグラ・マグラ』の血統の証ではないだろうか。繭子はこの一点に置いて、ただの二股を掛けた性悪女という卑俗なだけの存在では断じてない。
 
 読者の前には夕樹と辰也の二人の《たっくん》しか提示されなかった。しかし、誰が断言できよう。夕樹の後に第三の《たっくん》が控えているかもしれない事実を。辰也の前に原初の《たっくん》が存在したかもしれない可能性を。そのような無限性をも示唆した狂気こそが、この作品最大の個性だと感じた。
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 というわけで、非常に快作でありました。

夏の魔法/北國浩二

夏の魔法 (ミステリ・フロンティア)

夏の魔法 (ミステリ・フロンティア)


 早老病という現実を背負わされ、余命幾許も無い児童文学作家の主人公。その短い人生の中、最も美しい想い出が眠る南の島で最期の夏を過ごそうとする。そこで偶然にも初恋の男性と再会してしまうのだが…。
 
 あらすじや帯、本作が《ミステリ・フロンティア》叢書の一冊である事実、作中に点在するあまりにも不自然な伏線*1等々で早々に着地は読めてしまう。しかし、それは決してこの作品を貶める理由にならず、むしろ作者の強固な筆力で「これでもか」と期待を裏切らない展開が望める。かつて小野不由美貫井徳郎『慟哭』を結末は容易に想像できるが、その着地過程を楽しむべき作品と評していたが、本書もその例に漏れない作品だと思う。常々思っていたがこれは体操やフィギュアスケートのようなもので、何が演じられるのかは事前にある程度告知されている上で、観客は実際の演技に只々息を呑むばかり。全て終わった後、そこに目新しい技や芸術的な表現があればそれは加点に値する。
 
 また西澤保彦なんかと比較すると解かりやすいと思うが、嫌な人物を読者に存分に嫌がらせるのを得意とする西澤に対し、さほど嫌らしくもない人物を主人公視点フィルターを通すと果ての無い嫉妬の対象に見せかけてしまう筆致は純粋に賞賛したい。タイトル「魔法」はこの読者にかけられたフィルターをも意味していると邪推したくなる出来である。
 
 また、本作のトリックについても触れておきたい。あまりにも唐突に、しかし予定調和的に本書終盤で用いられたあるトリックは、誰の目にも明らかに全体から浮いている。実際、私は描写を読んでもどのような事が行なわれたかビジュアル的に全くイメージを喚起されなかったし、作者の淡白すぎる筆に白々しさを存分に感じた。以上の感想はトリック中心主義の見地に立った場合、貶し言葉でしかない。しかし読了した今では、あそこはあのように描写されるべきだったとしか思えず、作者の英断に拍手を贈りたい。
 
 その理由は以下の通り(以下ネタバレ反転)。
かつて推理小説家を目指したこともある主人公は、トリックをいくつか考案するも、想像の中で殺人を犯すことに躊躇を覚えこれを放擲する。なぜなら主人公は病魔という辛い現実に直面しており、その逃げ道としての空想はユートピアでなければならなかったからだ。しかし、自らの正体を最愛の人に知られるという現実とそれを持たらす女に対し、主人公はその禁を破ってしまう。空想を侵そうとする現実を打ち砕く、空想の剣としてトリックは位置づけられているのだ。この時点では主人公は、現実は醜悪、空想は美しいという観念に支配されている。だが、主人公の美しい想い出を守るはずの魔法の剣は、いざ振るわれるとあまりにも血の通わない、ひたすら寒々しいだけの血塗れの剣であった。主人公の空想至上主義は、トリックが成功した瞬間に逆説的に崩壊してしまう。トリックが機械的なのも、誰にも見破れないほど偏執的なのも、全てこの残酷さ――心の拠り所にしていた空想が邪悪に染まり、主人公は逃げ場を無くしてしまう――を描くためだけに配置されていたことを読者は終章に至って知るのである。これを秀逸なトリックの使い方と言わずになんと言うだろう。
 
 毎度毎度の論調で非常に申し訳ないが、本作はミステリ的観点から見て稀有な成功例と言えよう。

*1:と、あのシーンやあの発言に対して筆者は思ったのだが。

人間の手がまだ触れない/ロバート・シェクリイ

人間の手がまだ触れない (ハヤカワ文庫SF)

人間の手がまだ触れない (ハヤカワ文庫SF)

 
 どうやら「SF不条理作家」と呼ばれているらしい*1が、その名に恥じぬ突拍子もない設定の話が13篇。基本的には冒頭から変な設定が明かされ(そしてそんなシチュエーションに対する大した説明もなされぬまま)、登場人物たちはトラブルに巻き込まれて翻弄されるというのが筋である。
 
 ところが、話の落としどころはどれも「理」に適った綺麗な着地が出揃う。設定の不条理さとは対照的ですらあり、ただ奇を衒い書き散らしているだけという印象は皆無。非常に理性的な作品集なのである。
 
 また、本書において人間と異形者(異星人や悪魔)というコントラストが頻繁に使われており、双方の「異なる価値観がぶつかることで感得される何か」というテーマが繰り返し用いられているのも特徴と言える。ときにはヒューマニズム(必ずしも人間だけのものではないが)を賛美し、ときには愚かさや暴力性をコミカルに描きつつ警鐘をならすことであらゆる営みの二面性を描写しているのである。表題作の文中に「かれらの肉はわれわれの毒」(P167)という台詞があるが、まさに暗示的である。
 
 ならば、収録作品中大多数の作品の非常に綺麗な落ち方は納得できよう。ある価値観に支配されるとき、それとは真逆の価値観が狼煙を上げるように立ち現れる。すなわち、本書の作品には不条理としか思えない状況にこそ理性は際立つという共通の姿勢が少なからずあるのだ。ならば、物語の最後には美醜を問わず人間のもう一つの断片が語られなければならない。それでいて決して説教臭くならないのも魅力の一つだったりする。
 
 あらすじや設定だけを追うと難解なようだが、実は上記のような解かりやすい構造を持つ上に、抑制的な筆致もあって非常に読みやすい。新装版は字も大きいことだし。というわけで帯の文句に偽りなし。誰しもが安心して楽しめるエンターテイメントに仕上がっている。

*1:解説参照。

密室殺人ゲーム王手飛車取り/歌野晶午

密室殺人ゲーム王手飛車取り (講談社ノベルス)

密室殺人ゲーム王手飛車取り (講談社ノベルス)

 
 以前にこんな推理小説の筋を考えたことがある。
 
 時は近未来、コンピューターによる堅牢なセキュリティが睨みを効かすある部屋で男が殺されているのが発見される。犯行当日の防犯カメラには部屋に入る不審者は映っておらず、縦横無尽に張り巡らされた赤外線センサーが反応した形跡もない。完全な密室状況下、犯人は殺人を見事になし終えたのであった。
 ところが、翌日には犯人は捕まってしまう。犯人は自らが考案した密室トリックには絶対の自信を抱いていたはずなのになぜ捕まってしまったのか。不思議がる犯人に警察は種明かしをした。
 「現場の密室内の空気をすべて検査にかけたら、あなたの体から発散された汗や唾液に含まれるDNAが発見された」。つまるところ、近未来の警察は科学があまりにも発達しすぎていたために、トリックなど解く必要が無かったのである。犯人が現場に少しでも存在していたことがあれば、その痕跡は全て見つけ出されてしまう。
 
 我ながら面白くもなんともない小説の筋なのだが、本書を読んでいてこの小説を何となく思い出してしまった。
 
 古来より本格ミステリにおける犯人は証拠を隠滅し、逮捕されないようにふるまってきた。しかし本書の犯人たちはわざと現場に証拠を残していき、捕まることを望んですらいるという通常の本格ミステリとは反対の概念に支配されている。この在りようを現代的な異常自己顕示欲と括ってしまうのは簡単であるが、実はそうでもないんじゃないかという問いかけが本書にはちらほらと見え隠れしているような気がしてならない。
 
 「インターネット」、「(殺人)ゲーム」といった本書の諸要素は確かに現実世界において生命の重さや倫理感をとぼしめているとしばしば非難の対象されるものだ。いわく「現実と虚構の区別がつかない」。いわく「ゲーム感覚で人を殺す」。いわく「生命の重みを知らない」。インターネット世代の殺人犯たちを、容易に想像がつくほど紋切り型の言葉でしか表してこなかったのが我々*1である。
 
 しかしはたして、彼ら殺人犯たちは本当に生命/死という枠組みを持たない人種なのだろうか。この疑問が本書を読んでいる間、ずっと頭に浮かんでいた。
 主人公たちは自らの犯した殺人の現場に、ありえないほどわざと痕跡を残していく。フェアなゲームを成立させるためという建前以上に、自分=犯人という明確な存在の提示が主たる理由であろう。本格ミステリにおける犯人の痕跡=捜査側にとってのヒントは「犯人が生きてこの場所に存在し、事をなした」という生命の手形。この手形を嬉々として生産し続ける犯人たちの生は逆に生々しすぎるほど克明ではないだろうか。なまじ被害者の生命を蔑ろにしすぎたために死の冷たいイメージだけが先行しがちであるが、犯罪を行っているときの犯人ほど生命に溢れた存在はないというのもまた真理ではないだろうか。つまり、被害者の生に焦点をあてるばかりが推理小説ならず、犯人の生々しい生に焦点をあてるのも推理小説であるという重大な示唆が本書ではなされているのである。そのために、被害者の属性は全て捨象されねばならず、被害者をランダムに選出する推理ゲームという極端な体裁が取られたのである。
 
 ときには現地に赴きアクティブに証拠を残す/集めるといったゲーム中の様々な駆け引き、感情的にすらなる推理の応酬、終わったあとの祝杯。首肯はしかねるが、彼らは実に楽しそうである。彼らが生命とは無縁な存在であるとは私は一読者として思わない。彼らは彼らの生命を謳歌している。ならば、ゲームを進めるうちに自らが生命に溢れていることに気づいてしまった主人公が、あの評判の悪いラストに向かっていってしまったのもむべなるかな。生命/死を自分たちは認識しているかどうかという踏絵は必然であったのだと思う。
 
 というわけで、本編の個々のクイズも楽しんだが(余談だが生首が一番アホで面白かった)、それ以外のところでも十分に楽しめました。笠井潔あたりはなんてコメントするのかしら。

*1:私はそうじゃないという人もいるかもしれませんが。

キングとジョーカー/ピーター・ディキンスン

キングとジョーカー (扶桑社ミステリー)

キングとジョーカー (扶桑社ミステリー)

 
 めでたく復刊。
 
 本書は闘いの物語だと思った。と書くと本格ミステリお決まりの「探偵VS犯人」という図式を喚起させてしまいそうだが(もちろん、それもあるのだが)、実はその図式を超えた次元でもう一つの闘いが行われている。それは本格ミステリが生まれた瞬間から現在に至るまで延々と続き、この先もずっと続く闘いだ。エルリック・サーガにおける法と混沌のように全ての本格ミステリはこの闘いに起因しているといっても過言ではないかもしれない。
 
 それは、「固有性」と「代替性」の闘いである。
 
 本格ミステリ創生において、この「固有性」と「代替性」は互いに違った方法でジャンルを導いてきた。犯人Xを固有な個人へと変換する行為や誰もが知っている「名」探偵は人間を固有たらしめようとする力が生んだものだし、逆に犯人が容疑者の海に巧妙に隠れる行為や人物入れ替えトリックなどは個人の代替性が生んだものだ。このようにこの二つは本格ミステリが発展する上で必ず基盤となってきた要素であり、それらはしばしば小説内世界を借りて攻めぎ合う。
 
 パラレルワールドの英国王家を舞台にした本格ミステリである本書も例に漏れない。
 謎のいたずら者「ジョーカー」とそれに翻弄される王家の人々。ジョーカーは王家の秘密を探ろうと、王家の人々はジョーカーの正体を探ろうと四苦八苦し、ついには殺人事件まで起きてしまう。
 注目しなければならないのは本書における主人公たち−−すなわちイギリス王家の人々はこの地上において最も固有性を約束された人間たちであるという事実だ。歴史によって、血統によって、国家権力によってその固有性を証明されてきた王家の面々と、その固有性に走った亀裂という図式は本格ミステリ史上最大のスケールといっても過言ではない。わざわざこの設定を持ってきたディキンスンの目論見通りと言ったところだろうか。
 
 本作における王家の人々やその慣習は(もっとも若く、固有性に自覚のない)主人公の王女ルイーズによってわずかな軋みを観察される。王と側近の不倫は女王の固有性を揺らがせるものであるし、王と外見がそっくりな警備員との影武者遊びは王の固有性を揺らがせてしまう。王族というフレームとそこに内包される家族というフレームが崩壊の兆しを読者の前に露わにし、王族=史上最強の固有性という幻想はあたかも崩れ去る寸前のようだ。そしてジョーカーが動く。現王族の最大のタブーを告発するジョーカー。そして続けざまに起こる殺人事件。かくして「固有性」と「代替性」の闘いが始まり、果たしてその結末や如何にというのが本書の最大の見所である。
 
 ちなみに本書のタイトル『キングとジョーカー』は明らかに両者を象徴している。トランプにおけるキングは(一部の例外を除き)最強のカード。ポーカーなどではクイーンやジャックとともに唯一固有の役をつくることができるカードだ。対するジョーカーは代替性の象徴たるカード。ありとあらゆるカードに成りすまし、ロイヤルを脅かす効果すら発揮することもあるカードだ。
 
 さて、以下は本書の核心に触れるネタバレになるので反転する。
犯人のアリバイを立証していたのがただの偶発的な人物入れ替えトリック(しかも作中でそっくりであることは何度も明示されている)だったという真相に肩透かしをくらった読者はいるだろうと思う。本格ミステリのファンならば最初に疑うだろう古典的トリックであるし、ファンでなくとも「王様と乞食」の童話から連想することはできるはずだ。古典的過ぎるがゆえに誰も疑わないという逆説的解釈も成り立つかもしれないが、どうしても古臭い印象は否めないのではないだろうか。
 しかし、上述の「固有性」と「代替性」の闘いという見地に立てば、そのような既視観などどうでもよく、このトリックは別の意味合いを持つ。
 王家によるリストラを契機に「固有性」が揺らいだジョーカーに対して、変装して使用人を誘惑することで「家族=一家の長という固有性」を持たせてやろうとしたキング。「固有性」と「代替性」のすれ違いが奇妙な状況を引き起こしてしまったのだ。このすれ違いこそが本作のミステリとしての妙味であり、これは冒頭から繰り返し語られてきたテーマによって味わいは倍化されている。
 死の間際までジョーカーが口にしていた「われわれ」という単語は「固有性」に憧れながらも敵に回った道化の悲しみを物語る。さらに皮肉なのはこの「われわれ」という単語が気に食わなくてジョーカーを殺害した犯人も、その後二人目のジョーカーとして「代替性」の海に身を投げてしまったということだ。これらの皮肉は本作にそこはかとない仄かな哀愁を持たせることに成功している。
 そして物語のラスト。語り手ルイーズにとっての王族という固有性はジョーカーたちに破壊されつくしたかのように見えた。王族であることに希望を見出せなくなったルイーズは父である王と話し合いを持つ。そこで出た結論は「自らが私生児であることを公示する」こと。王族のフレームが破壊されて、最後に家族のフレームが残った。家族の一員としてなら「固有性」を保てると悟るルイーズは自由となる。晴れやかな幕切れである。

  
 長々と筆を費やしてきたが、以上のことから『キングとジョーカー』は本格ミステリの一つの極北であり、小説としてのある程度の成功を治めている秀作と結論する。特に触れなかったが麻耶雄嵩『木製の王子』あたりと比較しても楽しいかもしれない。あちらも同テーマを別のアプローチで処理した傑作だからだ。

ミミズクとオリーブ/芦原すなお

ミミズクとオリーブ (創元推理文庫)

ミミズクとオリーブ (創元推理文庫)

 
 八王子に住む作家の「ぼく」、そしてその「妻」は慎ましく暮らしている。そこに友人の警察官・河田はたびたび遊びに来る。彼は警察でも手を持て余す難事件を話の種に聞かせてくれるが、それを聞いた「妻」はすぐに真相を言い当ててしまう。いわゆる安楽椅子探偵ものの連作短篇集である。
 
 なんとも不思議な読後感を伴った素晴らしい小説だと思った。味わい深く流れるような会話文や美味しそうな郷土料理の描写の数々といった、小説家としての確かな力量を存分に堪能できる。この作家、初読だが滅法小説が上手いのである。
 
 加えて、どことなく懐かしい感覚が全編に通底する。はて、この感覚は一体何だっただろう。と思案してようやくそれらしきものの正体に思い当たった。どうもこの小説、子供の時分に親しんだ「日本昔話」を読んだときの印象に通ずるものがあるのではないかと。
 
 もちろん、根拠はある。「ぼく」と「妻」という記述が持つ固有性の排除は昔話の「お爺さん」と「お婆さん」を思い起こさせるし、何よりこの「ぼく」と「妻」の結婚は異類婚姻譚(鶴の恩返しとか)と近似している箇所が多々あるんじゃないだろうか。
 
 例えば、集中の一篇「梅見月」。これは「ぼく」と「妻」の若かりし頃の出会いを描いた一篇だ。「妻」の父親は雷帝と恐れられる謹厳な教師。職にもつかない怠惰な学生である「ぼく」は一目ぼれした若き日の「妻」となんとか結ばれたいがこの親父さんに許可を貰うのはなかなか難しい。困り果てた「ぼく」に「妻」はたびたび有益なアドバイスを与え、ついには結婚を認めさせてしまう。
 
 このエピソードでわかるのは「妻」が万事に非凡な能力をもつ才女だということ、「ぼく」は常にその能力に助けられっぱなしだということだが、それ以上に二人の恋愛の描写は面白い。語り手でもある「僕」の悶々とした恋わずらいは延々と語られるが、一方の「妻」が「僕」をどう思っているのか、これはどうやら憎からず思ってくれているらしいというヴェールに覆われた程度にしか語られないのである。結婚の後も「ぼく」は「妻」を「ちょっと変わっている」と述懐するように、「ぼく」は「妻」の大いなる知性には到底考えが及びそうもない。この神格めいた「妻」の雰囲気は表題作「ミミズクとオリーブ」では知の女神アテナに例えられる。
 
 普通の男なら、この底の知れない「妻」と愛を交わすなど到底できないかもしれない。まるで何を考えているのかわからないのだから。しかし、この得体の知れない「妻」に負けず劣らず「ぼく」もキャラクターが立っていたりする。事件そっちのけでプリクラを撮ったり*1、警察の経費で旅行しようとしたりと大変すっとぼけた男だ。だいぶ俗世と無縁な変わり者なのである
 
 この「ぼく」にしてこの「妻」あり。かくして人と神は幸福な結婚生活を迎える。これがどうやらこの小説が持つどこか桃源郷的な心地よさの一因なのではないだろうかと思う。
 
 というわけで非常に楽しみました。日常生活描写と会話文のセンスだけで物語を読ませなければならない安楽椅子探偵ものにあって、リーダビリティーでは頂点を極めている作品。ただし唯一の瑕疵として、謎解きはさほど目新しいものがなくやや物足りない。よっぽどのトリック偏重主義者でもないかぎり万人に楽しめる傑作だと思う。
 

*1:『嫁洗い池』のエピソードだったと思う