【書籍紹介】福原啓郎『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晉政治社会史研究 (東洋史研究叢刊)

魏晋期における政治史及び社会史に関する論考。恐らく同氏の著書『西晋の武帝 司馬炎』(白帝社)で名前を知っている人も多いと思うが、基本的な方向性は同じである。但し本書は学術書である為、先行研究に対する言及や注釈が豊富である(それだけではないけども)。目次等に関しては三国志ニュースさんで言及されているので全体的な紹介や論評はお任せすることにして、特に興味を持った箇所だけ言及する。

まず本書の概略に関しては、序論と結語の部分を読み通せば分かるように構成されている。また、図解は基本的に少ないものの、石刻資料(第四章)や墓誌(第十一章)には比較的多く図面が載っている。第九章の『銭神論』や第十章の『釈時論』に関しても主要な逸文に関する原文と全訳を載せているので、後で参照するのに役立つ。

そして個人的にもっとも興味を持ったのが、第五章「八王の乱の本質」及び第六章「西晋代宗室諸王の特質」である。この箇所は西晋時代の八王の乱に関して、従来研究では宗室の諸王が自らの欲するままにクーデターを繰り返したと見られがちであるが、それに対して貴族制の観点から一定の方向性を見出そうとするものである。そして著者がそのキーワードとして摘出したのが「輿論」の存在である。著者は言及する(赤字は拙による)。

この府主と幕僚の関係を考察してみると、そもそも府主に辟召されて幕僚となっていた士大夫は、府主が自らに人心を繋ぎ留めるために辟召した人物、すなわち輿論の期待を担っている人物であり、逆に言うならば、輿論を導く立場にある人物であり、それ故に幕僚の府主に対する批判は、輿論の具体的な代弁である。
(p.174:第五章第二節 輿論について)

このように宗室諸王は開府することにより、軍府の属僚および管内の郡県の長官の任免権を掌握していたのである。ではすべて宗室諸王の恣意によるかといえばそうではなく何かに規制されている。その規制するものが士大夫の輿論であり、逆に言うならば輿論で支持された人物こそその軍府内の僚属となるのである。・・・(中略)・・・こうして府主である宗室諸王は辟召した士大夫(すなわち貴族)を通して具体的に輿論と結びつくのである。
(p.214:第六章第二節 宗室諸王と士大夫)

突きつめれば、宗室諸王と輿論の存在とその結合が詔敕の代替となったといえよう。そしてこうしたありかたこそ逆に詔敕などに現われた皇帝の権威を生ぜしむる由来を示唆するのではないか。・・・(中略)・・・つまり魏晋国家体制は図式的には軍隊と輿論の結合であり、その両者を結ぶ接点として皇帝が存在するのであり、皇帝の権威はその背景に両者により支えられており、そこから生じているのである。
(p.222:第六章第三節 宗室諸王の権威)

上述するように、皇帝の権威が軍権及び輿望を担う士大夫層の支持から構成されていると著者は結論づける。八王の乱の前半で矯詔によるクーデターが、後半で詔勅に因らない義起が可能であったのも軍権と士大夫層による支持があったからであり、これがなければ皇帝と雖も自由に権力が振る舞えなかったということである。

ただ個人的な贅沢を言えば、この輿論を構成する士大夫層が如何なるものであるかについてもう一歩踏み込んだ言及が欲しいように思えた。それは果たして川勝義雄六朝貴族制社会の研究』(岩波書店)で言及するような「郷論環節の重層構造」に由来するものなのか、それとも渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院)で言及するような文化価値によるものなのか、それともそれらとは別の見方によるものなのか。系譜的に川勝義雄氏の説をベースにしていると勝手に想像しているが、ひょっとすると私が見落としているだけかも知れない。

三国時代というよりは魏末〜西晋に掛けての言及が殆どであるから、三国時代末期に興味のある人は購入を検討しても良いのではないだろうか。

近況報告

色々と長く時間をあけていたが、その間に考えていたことを幾つかまとめて記す。

<サーバ用のパソコン新調の件>
パソコンを新調したいと考えていた。別に現行機でも何ら困るような性能ではないのだが、今までBTOパソコンばかりで実際に自作した経験がないのでやってみたいこと。最新パーツでなくてもサーバ程度の利用なら安価で済ませられる見込みのあること。こういった関係で一度ゼロから組み立てようと思い立ったのである。

そして今回の検討に置いては、もう一つやろうと考えたことがある。それは地デジ対応のパソコンにすること。地デジ化してからテレビを自宅で見ていないから、これを機に設置しようというものである。もっとも、1年間見ないで業務上も私生活も支障なかったのだから、このまま無くても問題なしともいえるが。

検討を進めた結果、サーバ目的ならLinux系OS及び1世代以上前のパーツ構成でも何ら問題ないことがわかったが、一方で地デジ目的を志向するとWindows系OSで最新パーツ(性格には地デジの規格適合品)にしないといけないことがわかった。結果的に費用は嵩む傾向に。

長く比較検討していると意欲が徐々に減るため、今は検討を中止している。今すぐ買わないとやばい、何が何でも欲しいという筋合いのものではなかったということだ。

タブレットBluetoothキーボード組み合わせの件>
タブレットを購入してもうすぐ1年が経過するが、通常のネット検索やSNS利用では特に不自由していない。むしろ私が購入したのがASUSのTransformer TF101であることから、今までのWindows系OSからの移行に違和感すら感じなかった。ここ1年間の経験を考慮する限り、外出先はタブレットで何も問題ないだろう。

しかし今の10.1型は持ち運ぶのには少々大きい。一回り小さい方が望ましいと考える。そのため、7型あたりが次回買い換えの候補に挙がる。お値段的にも手頃感があるし、ヘビーな使い方を想定しなければ7型でも十分だ。後は琴線に触れるような端末に出会えればいいのだが、電器量販店の店頭を見る限り、あまりパッとしない。そもそも私の利用する店のタブレットコーナーがこじんまりとし過ぎているのだが。

それに今度はキーボードの問題もある。今使用しているポメラのDM20が外付けキーボードとしても利用可能なら問題ないのだが、実際はQRコード読みとりを経由しないとダメだ。そして店頭で外付けキーボードを見るに、ポメラに勝るキーボードは無い(使い慣れているということもある)。最新型のDM100はAndroid端末ととにかく相性が悪く(iPhoneiPadとは相性が良い)、英語キーボードの認識からうまく変更できない。QRコード読みとりを使用するのであればDM20と何ら変わることはなく、あえて買い換えようとする必要性はなくなる。

結局、1年間かけて理想的な組み合わせは脳内にできあがっているのだが、購買意欲を沸き立たせるような実機が見つからないという実状だったりするのである。

<ミラーレス一眼レフカメラ
ミラーレス一眼レフを購入して4ヶ月。写真を撮ることは嫌いではないので、何か機会があるごとに写真撮影をしている。私の場合、特に飲食物と風景がメインになるのだが。

カメラに凝りだすとレンズ及び周辺機器に投じる金額が増える。私の場合はすでにカメラ本体と標準ズームレンズ、単焦点レンズ、望遠レンズの3つを購入している。殆どアウトレットでの入手なので定価に比べて幾らか安価なのだが、しかし全体的にはそれなりだ。

今後は脚立の購入が最有力になるだろうが、そのためには持ち歩くカバンを検討しなければならないし、バッグばかり増えても仕方ないし云々・・・という問題がある。しばらくは単焦点か標準ズームで撮影をすることになるだろう。

小池和夫『異体字の世界』(河出文庫)

先日、@yunishio殿と神田神保町を散策した際、小池和夫『異体字の世界』(河出文庫)という本を偶然にも見つけた。河出書房は東洋史や戦略論好きな私にとってさほど重要ではなく、新刊もチェックしないしコーナーにも立ち寄らない、そんな扱いだった。正直興味がわかないのである。ラインアップ的に。

で、神田神保町となると東洋史関係の書物を一堂に会しているため、そういった文庫でも個別に陽の目を見ることができる。それが本書である。

著者はDTP組版の研究者でJIS X 0213規格制定に関わった、漢字研究の第一人者でもある。そもそも異体字とは何か、そういった諸事情を細かく解説してくれる。

結論から言えば、現在のような常用漢字だとか第○水準漢字のような区分けができた理由は、江戸時代までの手書きから明治以降の活版印刷技術の普及、そして漢字を一般庶民に普及させるための標準化・簡便化である。この取り組みは明治初期から現在に至るまで脈々と続いており、GHQの陰謀とかそういうのは全く関係がない。また戸籍管理のためにかくも膨大な漢字を規格として定めている。逆に言えば、正字とか異体字とかの区別はそれ以上の意味がないのである。

こういう異体字とか略字とか正字とかの区別は、一つには康煕字典に定めているというところに求めうるが、実はこれも全てが正確なわけではなく、実用例がないのにむりやり正字にしてしまったり所々の誤りが見受けられる。

本書を読んで面白いのは、現在使われている新漢字というのは正字に対する略字や俗字に属するものが多く、決して現代になって新しく急造したものではないと言うこと。そして中国の簡体字についても事情は同じで、数多くの略字・俗字の中から採用した文字が偶然にも日本と異なっていただけにすぎない。どちらが正しいとか間違っているではない。両方とも昔から元々存在していて、それを国としての常用漢字として採用した文字が違っただけなのである。実は日本の旧漢字にも事情は全く同じである。旧漢字が正しいという理由はなにもない。

ともすると今受けている教育、又は昔の学校教育で習う漢字こそが正しいと錯覚しがちであるが、漢字の世界はそう一意的に決められるものではない。もし近世以前の古典の世界に浸るのであれば、これまで学校教育で習ってきた漢字に関する固定観念を捨てて接するようにしなければならないだろう。

無理に更新するのはよくないな、と思う。

差し当たって今年の1月3日頃よりBlogを開始し、今日に至るまで記事を連続投稿してきたがちょっとそれも限界だ。

ネタはなくもないのだが、気力が兎に角続かない。最近はつきあいでの飲み会が続くと、帰ってから漢籍を読もうとはあまり思わぬ。自らの意思で飲む場合はいいが、そうでない場合は話が別だ。飲み会が楽しくないわけではないが。

そんなわけで、ちょっと今日はネタが思いつかない。そして気力も尽きている中で無理矢理更新するのもアレだなーと思うので、連続更新に拘るのは止めようと思う。


もっとも一度そうしてしまうと、更新ペースが極度に落ちて月1回程度になってしまったりする。緊張の箍が外れてしまうと極端な結果になる。

さてどうしたものか。

諸葛亮の軍事能力に関する一般評価

差し当たって諸葛亮の軍事能力に関し、ネット上で色々と意見を拝見することがあるのだが、「正史で諸葛亮の軍事能力は高く評価されていない」とする意見がある。だが、果たして実態はどうなのか。今回は私自身があれこれ論じるのではなく(このBlogで唯の一度も何か論じたことはないような気もする)、実際に史学に携わっていた方がどのように述べるかを紹介する。史料の都合上、私の手元にある本だけで限定したい。

まず岡崎文夫氏は、

端的に考うるところをいうならば、陳寿の評するところ、もっとも精確であると思う。…まず軍政を治め、…いやしくも危険に渉る行動は勉めてこれをさけた。これ時に一場の戦闘に勝機を逸した点があったのであろう。彼の偉大な点は、むしろ失敗してのち、ただちに軍容を整うるに綽然たる余裕を存する点にある。
(『魏晋南北朝通史 内篇』(東洋文庫)p.55)

と述べ、諸葛亮の軍政能力は高く評価すれど、勝機を掴む点では評価がいまいちである。この本は元々昭和七年刊行であるから、当時からこのような諸葛亮評価があったのだろう。また宮崎市定氏も

…蜀という国は先主劉備からの預かり物であって、自分のものではない。したがって有利そうにみえても投機的な戦争に運命をかけるわけにはいかないのだ。…ところが戦争はもともと投機である。彼の正々堂々の軍も、先鋒の将、馬謖の失敗で全体が総崩れとなって、本国へ引き上げなければならなかった(二二八年)。そこで、孔明はもともと戦略家ではないのだ、応変の将略はその長ずるところにあらず、という批評が行われる。確かにその通りであったと思われる。
(『大唐帝国』(中公文庫)p.97)

と述べ、この書は元々昭和四三年に刊行された書籍の文庫版であるが、基本的には岡崎文夫氏と同様の見解である。一方、宮川尚志氏は次のように述べて諸葛亮を弁護する。

その幕下には遺憾ながら三軍を指揮するに足る知略縦横な高級指揮官が見出されなかった。魏延姜維らはむしろ一軍の司令官に堪えられるくらいであったろう。魏の張郃・呉の呂蒙の如き将才が蜀にあり、孔明を輔けたとしたならば、彼の中原北伐は意外な進展を見せたかも知れなかった。
(『諸葛孔明』(講談社学術文庫)p.234)

本書の文庫化前の初版本は昭和十五年だから、昔から史学の立場では諸葛亮の軍事能力に対する評価は賛否両論だったのであろうな、とは思う。ところがよく見ると、この両方の立場は共に陳寿の見解を土台にしている。まず前者は『三国志』蜀書・諸葛亮伝の最後に陳寿が評している

可謂識治之良才,管、蕭之亞匹矣。然連年動衆,未能成功,蓋應變將略,非其所長歟!

と述べているところであり、つまり政治を治めるにあっては管仲や蕭何に次ぐけれども、毎年軍事行動を起こしながらついぞ成功しなかったのは、応変将略を得意としなかったからだろうか、ということだ。一方で『諸葛氏集目録』を上梓する段階で陳寿は次のように述べる。

又自以為無身之日,則未有能蹈涉中原、抗衡上國者,是以用兵不戢,屢耀其武。然亮才,於治戎為長,奇謀為短,理民之幹,優於將略。而所與對敵,或值人傑,加衆寡不侔,攻守異體,故雖連年動衆,未能有克。昔蕭何薦韓信管仲舉王子城父,皆忖己之長,未能兼有故也。亮之器能政理,抑亦管、蕭之亞匹也,而時之名將無城父、韓信,故使功業陵遲,大義不及邪?蓋天命有歸,不可以智力爭也。

要するに管仲には王子城父という名将がいて、蕭何には韓信という名将がいたから功業を為したのである。しかし諸葛亮には城父や韓信に匹敵する人材がいないのに、管仲や蕭何に次ぐ才能である諸葛亮はどうして成功することができようか。そりゃ無茶ですよ、と述べているのである。先に挙げた宮川氏の述べるところは此処をそのままなぞらえているように思える。

では、皆が結局陳寿の評価の域を超えないのかといえば、必ずしもそうとは言えない。例えば満田剛氏はその著書の中で、諸葛亮の北伐の意図が隴右支配にあり、且つ魏側もその事態を一番懸念していたことに言及。また北伐のタイミングが偶然か否か災害が起こったタイミングで行われており、また魏も同時に兵糧確保が思ったほど容易ではなかったと指摘する。その上で諸葛亮の陣没の地でもある五丈原進出について以下のように述べる。

五丈原の戦いでの諸葛亮の狙いは“持久戦に持ち込んで魏の兵糧が尽きるのを待ち、五丈原の北を通る街道をおさえて隴右.涼州(シルク・ロード)をおさえながら長安を攻めること”だったと考えられる。…(中略)…この持久戦は諸葛亮にとって乾坤一擲を狙ったものであったとしても、決して博打のようなものではなく、勝利への“計算”をした上での戦略であると考えられる。
(『三国志―正史と小説の狭間―』(白帝社)p.252)

このような感じで、諸葛亮に対する評価は一方的に低い評価が為されているのかといえばそうでもなく、逆に諸葛亮の狙いは高く評価されてもいる。しかし読み手にとって一番重要なのは、確かに人がどのように諸葛亮を評価しているのか気にすることではなく、自らがどのように感じるか、史料を読んでその意見を確立させることにある。好き嫌いを語るだけならどうぞご自由に、という感じであるが、誰かを評価する為には自らその評価対象に対して強い関心を持って史料にあたらねばならぬ。先人達もそうしてきたし、これからもそうである。幸いにも『三國志』の日本語訳は図書館に行けば容易に閲覧可能だろうし、誤植も有るが原典はネット上で閲覧可能である。

そのように思う一方、私個人としては最近は史料とご無沙汰だなぁと思う。たまには諸葛亮伝でも読んでみることにしよう。