飯嶋和一『黄金旅風』ISBN:4093861323

飯嶋和一はとにかく寡作な作家として私の中では位置づけられていて、同じくやっぱり寡作であるように思える奥泉光と比べても、ずっと寡作である。これだけ寡作だと、果たして小説家を主たる収入源としてやっていけてるのか読者として端で見ていて不安になることがある。もしかして副業があって生計が成り立っているのかもしれないけれども、それにしても寡作。デビュー15年目にしてようやく5冊目の本。

で、その寡作の人が「これを書くために小説家になった」などといっている『始祖鳥記』ISBN:4093860459 を書いた後 4 年経っても新刊を出さないとなると、やはり読者としてはもはや作家はやめてしまったのではないという気持ちになってしまう。そうか、やめてしまったのか、と半ばあきらめかかっていたところでの新刊である。

と、ここまでひいておいて申し訳ないが、まだ読んでいない。しかも新刊がでたことを人づてに聞いている。おまけに、朝日新聞にレビューが載っていたようなので、以下参照。
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=5393

『汝ふたたび故郷に帰れず』ISBN:4094033122 や『始祖鳥記』ISBN:4094033114 も文庫化していた。汝ふたたびのレビューの中でもとりわけ目を引いたのが以下のもの。
http://www.aguni.com/hon/back/kiu/18.html
ロマンを書く作家、男の夢を書く作家、のようにして語られることの多い飯嶋和一だけれども、たぶんそうではないと私は思う。その魅力は細部への書き込みであるとする上の書評には強く共感する。もちろん物語があまりに紋切り型すぎるのは否めないのだけれども、紋切り方の物語をこれだけうまく描ければ、もはやそれだけのものではない、そういうものが飯嶋和一の小説にはあると思う。

なんだか嬉しくって本を目の前にして、読めない。という訳で感想文はまたそのうち。

四方田犬彦『回避と拘泥』ISBN:4651700624

「はじめて日本語を褒められた日」という題名で文章を書くことができた人間がこれまで存在したとしたら、それはいったい誰であっただろうと想像してみる。それは一六六九年のシャクシャインの戦いの後に日本への帰順を強いられたアイヌの酋長の若い息子だろうか。今世紀の初めに日本語で教育を受けた、台湾の女学生だろうか。あるいは一九四八年の済州島の大虐殺を機に祖国を逃れて日本に密入国した韓国人の青年だろうか。そしてそれは、近い将来に日本に在住する外国人が執筆するであろうエッセイの題名となることだろう。あえてこの題名をアイロニーとして我が身に引き受けることで見えてくるものを、わたしはこれから思考していきたいと思う。日本人の内側にとどまりながらも、あたかも日本人でないかのような視座を保ちつつ、生起するいっさいを批評すること。日本語をさながら外国人のように書きながら思考すること。こうした作業を通してわたしが回避に成功し、拘泥に陥ってしまうものが何であるかを篤実に見定めていくことから、わたしは日本という問題に改めて向き直ってみたいと考えている。

高校生のころに橋本治に傾倒して、思わず家出をしてしまったりした人が世の中には多いのだということを最近になって知った。私は四方田犬彦には傾倒したのだけれども、不幸にも幸いにも大学生になってからのことだったので、さすがにパン屋さんで卵を割ったりはしなかったのでした。私はこの文章の最後の部分がとっても好きで、日本という問題ではなくても、それは注意しなければいけないことだと思ったのでした。

もちろん日本で生活していれば、日本語を褒められるなどという状況を想定するのはむつかしい。本書には筆者が本当に日本語を褒められた経験が二つ書いてあって、一つは韓国で在日韓国人から(韓国人と間違えられて)。もう一つはコロンビア大学に、当時皇太子妃だった皇后がお忍びでやって来たときに、二世と間違えられて褒められた。というものらしい。

はじめて読んだときの感動が過ぎた後に理解したことは、回避するというのには二つの意味があるということ。それは、意志によっては変えがたいもの(性別とか過去とか)以外の属性は持たないように気をつける。というものと、あえて、ある種のグループに飛び込むことをして、とらわれてみたのち、それでもなおかつその集団の中で、ある種の連帯感や熱狂のなかに身を投じつつも、個人的には回避することを実践する、というもの。もちろん、生きてゆく上で前者をつらぬくのは難しいし、そもそも、上で語られている「回避」はそちらではないので、話の主眼は後者に絞られるべきなのだろう。たとえば、学校や、人の集まりやそのグループの持つ連帯感のようなものがどうしても生じる。その渦中にありつつ、その連帯感めいたものを意識(相対化)し、かつ、必要に応じて場の勢い(熱狂)に流されない、というのが「回避」というものの意味なのではないかと思う。

「外国語のように日本語を使う」というのは、よく使われてるいい方(id:Ririka:20031118)だけれども、たいていは文意をくみがたいことが多い。でも、上の意味で使っているのならわかる。しかしながらそういう使われ方をしているのは少ないような気がしていて、また、そうであっても、それは、突き詰めて考えると「文体に気をつける。言葉の使い方に気をつかう」という次元の話といったい何が違うのかわからない。どちらにしろ、たいした話ではないと思う。

上で引用したのは、本書の『はじめて日本語を褒められた日』というエッセイの終わりの部分。1994 年に書かれたもの。

海野十三『赤道南下』ISBN:412204233X

青葉型巡洋艦衣笠


うんのじゅうざ、とよむ。なんだか、本を集めている人の間ではしられているようだけれども、戦前戦後すぐくらいに冒険小説や探偵小説を書いていた。新青年系と、私の中では勝手に認知されているけれども、実際は違うのかもしれない。で、その人の昭和17年ごろの海軍に記者として従軍した従軍記事。乗っているのは巡洋艦青葉。

山田風太郎の日記などを読んでいると昭和17年ごろというのは本土での食糧事情がそんなに悪いとは思われないのだけれども(その後に比べて)、すでに不平不満は募っているらしく、それをにおわせるような描写が出てくる。「前線で兵隊さんがこんなに頑張っているのだから、銃後を預かる僕たちもがんばろー」というような本。戦後書かれた暗い、不平不満に満ちた文章は割と読んだことがあるけれども、こういう、戦中に書かれた従軍記録というのを読むのは実は初めてかもしれない。戦争中にどうゆう物を推奨して読まされていたか、というような雰囲気が伺われる。しかし、そういうふうに書かれているものであっても、戦艦の設計がそこに居住するものに配慮されていなかったり、精神論があまりにも跋扈しすぎているというのはとってもよく理解できる。そういう意味で、興味深い。

奥泉光『ノヴァーリスの引用 *1 』ISBN:4087475816

ノヴァーリスの引用


はずかしながらノヴァーリスとかに、青春の一時期傾倒したりしていないのだった。物理的に薄いけれども中身も割と薄い。著者の自作解説 *1 には「物語が語られるのではなくて、語ることそのものが、物語を創生していく機微を描いたもの」とあり、その通りに酒場での4人の男のはなす内容に従って、ミステリーからホラーへ物語はさまざまなジャンルを推移する。がしかし。

語られてる内容そのものがさして取り立てないものならば、まさに形式で勝負するしかなくて、形式で勝負しているにしては今一つ、短いこともあってインパクトが足りない。おなじ系統でゆうならば『葦と百合』 ISBN:408747044X の方がインパクトはあるし、ジャンル間の推移という点だけならば、そちらの方が成功している。それに、語ることそのものが云々の、「機微」が描けているとは思えない。もっとその、「機微」の部分をアピールしてもよいのではなかろーか。

というわけで、なんとなしに拍子抜け。『バナールな現象』ISBN:408747447X の方がよっぽど面白い。

佐藤亜紀 『バルタザールの遍歴』 ISBN:4167647028

tokunai2003-10-25


カスパール、メルヒオール、バルタザール。その一族直系の男子の名前は、東方からベツレヘムに訪れた学者の名前からとられる。名付けられた体はメルヒオール。しかし、体内には二つのゴーストが宿っていた。それが単純に、二重人格とかではないというところがこの物語のまず、目を引くところではある。ハプスブルクの流れを汲む貴族。しかし、共産主義が台頭し、ドイツにはヒトラーが現れる頃の、である。物語は、ひたすらに、転落してゆくその人々の独白(あるいはかけあい)によってなされる。

物語として、デカダン、というよりは、ほんとに転落してゆく貴族を描いていて、確かに面白いのだろうけれども、どこか、勝手にやってろ感が強く残る読後。それはなにか、主人公が己の生に対してどこまでも投げやり(そしてそれは、おぼっちゃまらしさによって補強される)であるところに、あるのかもしれない。みていて腹立たしいほどに、没落してゆく貴族を描けるのはすごいのかもしれないけれども、何か意味があるのか分からない。思い出したのは『シェルタリング・スカイ』。しかし、比するとこの物語は、全く、ただのなにもない、物語のようにみえる。それとも何か読み落としでもあるんだろうか。

ものすごくどうでも良いけれど、聖書を眺めてみたところ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのいずれの福音書にも東方からの学者の名前などのっていなくて、しかも、マタイでは学者になってるけれども、ルカでは、羊飼いが訪れたことになっていて、じゃあ、一体誰がその人々の名前を付けたのだというのは結構、疑問。あるいはどういう人たちの間に流布しているものなのか。日曜学校ではそういうお話があるんだろうか。はたまた福音書以外のところにはきちんと名前が出てるのか。
ハプスブルク家の末裔なら多分カトリックだろうしなあ。一介の「歴史好き」の立場を超えて書かれている小説であるのは確かで、多分意味がある、というか、出典がある話であるはずで、誰か知っている人がいたら教えてほしー。

森鴎外 『うたかたの記』『文づかひ』 ISBN:4480029214

tokunai2003-10-20


苦労しつつ読み終わる。古文の助動詞は、覚えているようでいて忘れている。いけない。というか、この程度でそういう発言が出てくるのも又いけない。『文づかひ』は、あきらかに『舞姫』とセットで読まれるべきで、それはとってもあからさまなので、高校の国語の教科書に『舞姫』だけをのせるのは片手落ち。日本はいつまでたっても普請中、との声が聞こえてくるようだ。『うたかたの記』は、前後ニ作の対比のあからさまさからすると少し異質。で、もう少し勉強しないとよく分からない。と、ただ普通の感想を書くのってとっても芸がないような気がしてくる。

森鴎外 『舞姫』 ISBN:4480029214

舞姫』は、その他の作品とえらい文体の異なるドイツ三部作『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の中の一作。・・・・。し、知らなかった。この恥ずかしさは、Macintosh がりんごの一種であることを知らなかった恥ずかしさにも通じるかも。ドイツ三部作を書いた後二十年は、小説は書かなかったらしい鴎外。全編を流れるのは「よそ行きの服を着こんでしまった」緊張感。で、つかれる。これを、青春小説として片付ける見方は圧倒的に間違っている。