東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『朝からの家メモ』

その家は四方を建物に囲まれてあり、
朝方、日が出てから午前10時頃までは東側に向いているリビングの窓から日が射してくるが、それ以降、南中に向かい、西の空に沈むまでは、構造上、日が入ってこなかった。


その家の主、雄一にとって朝方に入ってくる日差しは、もう少しだけ寝たいと思う気持ちを妨げるばかりの厄介なものでしかなかったが、妻、麻子にとっては決して迷惑なものではなかった。かつて麻子は雄一に言った。


『朝、家の中に日差しが差し込んできて、家中が明るくなると、始まるんだなぁって気持ちになる。何が始まるって、それは言葉にすると、1日の始まりとかになるんだろうけど、なんか、それだけじゃなくて、もっと、こう、いろいろあったことが1回リセットされて、なんにもないところからもう一度始まる、みたいな、そんな感じになれる』


そう言われたものの、雄一にはその言葉の意味がいまいちつかめなかったが、その言葉の後に続いて、朝、日差しが出てる間にやっつける(と、妻、麻子は言うのでその言葉に倣うが)洗濯が本当に気持ちが良いのだ、という言葉は理解できた。


2人には子供がいなかった。
子供はいなかったが、ジルという名の猫がいた。
最初、麻子が猫を飼いたいと提案した時、動物を飼うことの難しさを懸念した雄一はその申し入れを頑なに拒んだが、一度言い出すと意外と頑固な麻子に押されて、飼う事を決めた。
飼い始めたら、すぐに、雄一は猫が好きになった。


その猫にジルと名付けたのは麻子だった。
なぜ、ジルなのか、と、雄一は麻子に聞いたことがあったが、とくに何か深い意味があるわけではないと、その時の麻子は答えただけだった。
とにかく、2人と1匹はそれなりに楽しい日々をその家で過ごしていた。


ある朝。それはやけに日差しの明るい朝だった。
ジルがその家から姿を消した。
妻、麻子が洗濯物を外に干していたとき、開けていた窓から出てしまったらしい。
らしい、という言い方しか出来ないのは、当の麻子も誰もそのタイミングでジルが外に出たのを見たわけではなかったからで、洗濯物を干し終えて、しばらくした後、ふと気が付いた時にはすでにジルの姿は家になく、朝食時には雄一も麻子も確かにジルの姿をみとめていたので、いなくなったタイミングを考えるとどうやら洗濯物を干していたその時間しかないだろうという結論に至ったからだ。


その日、朝はまぶしいくらいの日差しが照りつけたが、昼をまわったあたりになって急に雲が出てきて、突如、天の底が抜けた様な大雨が降り出した。
それは後から聞いた話だったが、その雨の中を麻子は傘もささずにジルを探し続けていたのだという。


ジルは帰ってこなかった。
数日経っても、帰ってこなかった。
もちろん、2人は家の周辺を捜し歩いたし、目撃者がいるかもしれないと近隣に住む人たちに声をかけたりもした。
それでもジルは見つからず、さらに数日が過ぎても、ジルはまだ帰ってこなかった。


ジルがいなくなって、二人の生活に変化があったのかといえば、はっきりとした変化はなかった。
朝起きて、雄一は仕事に行き、麻子は家事をする。夜になって雄一が帰って来て、夕食を食べ、眠りにつく。それまでと変わらない生活がそこにはあった。ただ、そこにいたはずのジルの姿はない。


唯一、眼に見える変化があった。
妻、麻子は、ジルが姿を消した日から日記を付け始めたのだ。


それは、ジルを探す為につけている日記なのだろうか。雄一が何を書いているのかと尋ねても、麻子の返事はいつも曖昧だった。
麻子は、黙々と日記を書き続けた。
ジルがいない生活が続く。


雄一は思った。麻子は、ジルが帰ってくる迄、この日記を書くのを止めないのだろうか。


その家は朝から日差しが入ってくる。
日に照らされた室内は、どこか白っぽく、キラキラと輝いているようにも見える。
ただ、やはり雄一にとっては、朝から日差しがはいりすぎて、なんだかまぶしすぎるように思えるのだった。


姿を消した猫。そして1組の夫婦の話。


その部屋で2人は暮らした。


『朝からの家』