読書会:「マスメディアとしての近代建築」

どーも筆無精です。結局久々の更新。


2009年10月7日の読書会レポをあげます。

参加者:片山、鈴木、藤井、松嶋、嶺野


今回は、各章の内容をまとめつつ、気になる項目をピックアップして話し合いをする、という方法で進めました。


アーカイブ
この本の前提条件となる部分である、
アドルフ・ロースコルビュジエアーカイブの対照的な扱い方の違いについての説明がなされる。

ロース:アーカイブを残さない。
コル:過剰にアーカイブをのこす。

後にこの差が各人がメディアをどのようにとらえて、処理したのかという違いにつながる。

加えて、近代化のなかで建築出版、展覧会、雑誌などのメディアがより力をもち建築の存在位置がより非物質的なものになっているという示唆がなされる。


【都市】
鉄道の普及と写真の普及の状況が重ね合わせて説明される。
鉄道の普及により場所が商品になり消費の対象になってしまう。結果、各都市は「場所性なき場所」となり地域性の意味でのローカリティがほぼ消滅する。
写真も同様に、建築の場所性を無視するものであって、建築を商品化してしまう。

この流れで、敷地はどこでもよくて、コンセプトをそのまま具現化して立ち上げるという近代的設計スタンスへ移行したことが認識される。

現代において、ローカリティへの回帰が叫ばれているがその理由というのが何なんでしょ?って疑問があがるが結論が出ないまま次章へ。


【写真】
コルと写真との関係性。
コルは写真をそのまま写真として使うのでなく、自分の理論やコンセプトを強めるためのツールとして使う。
たとえば、傾斜地にたつ建築において、その敷地を写真のフレーム外に押しやることによって建築をより自立したオブジェとして表現する。
さらに、写真にペン入れをして強調したい箇所を目立たせるなどの表現も行なわれる。

ここで現代との写真の扱われ方にギャプを認識する。
今、建築雑誌などに加工された写真が掲載されていたら問題になるわけだが、近代では加工写真が受け入れられている。
この理由に関しては、結論がでず。

ロースは写真を建築の可能性を破壊するものとして批判する。

ここで、コルとロースは写真を批判的にとらえるというスタンスは共通していることがわかる。
ただコルの方はロースより一歩踏み込んで写真を加工し利用している。


【広告】
コルのメディアの利用法について。
コルは自身の刊行する雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」で工業製品と建築を等価に扱う。
そうすることで、あたかも自身が設計した建築が工業生産品であり、消費者により身近なものであるというイメージを植え付けようとした。

このように、メディアを肯定的にとらえ、うまく利用するスタンスがわかる。

この章で面白かったのは、デュシャンの話。
大量生産オブジェに著名をほどこすことで、アーティスト個人の創造物でないにも関わらず、アート・マーケットで商品として受け入れられる。
この現状を見据えて、デュシャンは、もはや美術作品の質よりも著名の方が意味をもつことを語る。

【美術館】
メディアがより強大な力を持ち、美術館もメディアに取り込まれてしまう。展覧会はまさに巡回する広告となる。
コルはこれを利用し保守的な中産階級家庭まで市場を広げようとしたことが書かれる。


【室内】
ロースの住宅について。
ロースは住宅を閉じたものとして扱う。開口も採光をするためのものであり外部をみるためのもではない。
そして、住宅は視覚のほかに身体性により成り立つという観点から、ロースは写真が自身の設計した住宅を表現するためには不適切であることを説く。


【窓】
ロースと逆にコルは窓を外部をみるための機械として定義する。窓がレンズなら住宅は自然を向いたカメラである。
また「全作品集」における写真の使用例が紹介されるが、コンセプトの徹底された表現がなされている。
そして、先に設計をして条件が合うところに建築を置くというコルの設計観は時代を象徴するかのよう。


全体の大きな流れとして、コルビュジエとロースの対照的なアーカイブの扱い方が、すなわち近代化(メディア化)への対処の違いであることを示している。
ロースはメディアを批判的にとらえ、拒絶する。コルビュジエは、メディアを批判的にとらえた上で、利用する。
他の同時代人もロース同様メディアの扱い方に関してはあまり積極的ではなかったのかもしれない。
コルビュジエが他と頭一つ抜けている理由の一つがメディア戦略だこということが明らかになりました。



反省は、読書会が内容理解でほぼ終わってしまったこと。
これを読んだ先に何があるのか?って所まで行ければいいのだけれど。
知識のストックを増やす目的は果たされてることは有意義だと思います。

六本木ギャラリー巡り。

筆無精、久々の更新です。

今日は六本木を堪能してきました。


まず、森美術館


アイ・ウェイウェイ展」

第一印象は、表現の形態はモダン的なんだけど、思想はポストモダン的。
お茶の葉を圧縮して家型や立方体を形作る作品は印象的だった。
ほのかな香りが中国っぽい。ニオイのイメージが空間の質を変化させる、そんな展示。
中国の伝統的な技術を使った作品や、伝統のある家具やつぼを再構築して作りだす作品は、伝統技術が工業化され大量生産される時代で、その意味や価値を社会もしくは自らに問っているのだろうと感じた。



そして、面白かったのが小林明朗さんの映像作品。
シュールすぎる。
これはぜひ観てほしい。やってることぶっ飛んでます。
アイ・ウェイウェイ展より面白い。



次に、NEOREAL展。
お目当ては、平田晃久さんと松尾高弘さんの作品。


「animated knot」

クラゲが宙に舞っている。
深海のイメージ。特徴的な形のスクリーンに幻想的な情景が映し出されています。
会場に入った瞬間、身体が拡散して、空間に溶け込んでいってしまうような感覚。
あの感覚何だったんだろ。



アートにおいて、空間と映像の融合ってのはありそうな話だが、建築にも取り込めないかな?
有機的な曲線で構成された壁や床がスクリーンとなって、、、違うか。

特殊な形の壁や床、光が差し込む、そこを人が通り、影が出来る。
壁や床による効果で影が演出される。特に人の影である必要はないけど。
そして、その空間が、影のあり方で認識されるとすれば、今までの建築とは違った様相を生むんじゃないか。
建築における映像って光と影なのかしらと、ふと思ったので。。。


建築における光の操作はずっとまえからやられてるわけだから新しいことにはならないかな。



そして目から鱗だった作品が!


「_O_N_L_I_N_E_」

カメラで人の外形を読み取りリアルタイムでスクリーンに映し出す。
スクリーンに移された外形線はいろんな効果によって演出される。
うまく表現できないが実物観てくれた方がいいとおもう。
これはすごい可能性を感じました!
ダンスパフォーマンスとかが映像込みで表現されるようになるんじゃないかと。
これは、いろんなところで使える技術!
パフォーマーの皆さん必見。



今日はこの辺で、続きはまた。

藤村龍至スタジオ以後 vol.1

つい最近まで、藤村龍至さんの指導の元、住宅の設計をやっていました。
非常に貴重な体験ができたので、いろいろ整理するためにも、課題後、考えたことを載っけてみようかと。

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【超線形設計プロセスを実践して】
教育方法としての、超線形プロセスを実践できたことは、自分にとって非常に勉強になった。まず、土地のコンテクストを今までにない水準で読み込むことができたと思う。
模型の使い方もとても効果的で、前段階との差分を3Dとして、並べて比較できるメリットはすごいと思う。過去ログとして、模型を残して設計を進める、という方法に新しい可能性を感じた。しかし、一方で模型を一段階ずつ作ることは非常に時間がかかる。今回は小規模の住宅だったので、カバーしきれたが、もっと大きなスケールの建築を使うときは、一人では設計しきれないと感じた。
スピードが早いとのことだったが、実務の面では藤村先生が実際に証明しているが、教育の面では、比較対象がないためスピードがあるということをアピールしにくいように思う。同じ課題を、超線形プロセスを使った場合と、使わなかった場合、両方やって初めて、比較ができるのではないか。教育面でのスピードの速さの証明が今後の課題の一つではないかと考えている。


【検索過程と比較過程についての考察】
検索過程:設計条件というパラメータ(関数)を段階的に組み込んでいく過程。
比較過程:検索過程で込み込んだ(複数ある)パラメータにおける最適解を探す過程。
と解釈し、以下、検索過程と比較過程について考察する。
藤村先生のお話では、設計プロセスの前半が検索過程、後半が比較過程としっかり線引きがなされていたが、これに疑問を抱いた。もっと細かい段階に分けられるのではないか。「純粋検索過程」「検索比較過程」「純粋比較過程」に分かれるのべきではないかと考える。
まず、「付加する条件を決定する」までが「純粋検索過程」。模型にする時点で、「どこにどのような形で、検索過程により得た条件を具現化するか」という比較が行われている。つまり、模型に起こす時点で、比較過程の要素が加わる。また、条件が全て見いだされる前までは、「純粋検索過程」と「比較過程」が交互に行われている。それは、Building K の条件表から見ても明らかだといえる(条件の数が増えないままで模型がいくつか作られている状況が比較過程であると判断した)。よってこのフェーズを「検索比較過程」とよぶべきである。そして条件が全て見いだされたあとの、最適解を見いだすための作業が「純粋比較過程」である。このように細かく段階分けをすることで、検索過程なのに比較の要素が出現するという矛盾に混乱することもなくなる。

以上の観点から、我々の作業を振り返ってみる。
私たちがした、ほとんどの作業は与えられた条件内での比較行為であったといえる。本来ならボリューム、機能、構造、家具、開口、屋根というパラメータは、自らの検索過程によって見いだされなくては行けない条件であったが、それが既に提示されていたことにより検索過程に意識が行きにくかった。唯一、検索過程を行ったとすれば、「庭の有無」「テラスの有無」の2パターンくらいしかないだろう。ほとんどの案が必ずどこかに分類されてしまったのは、はじめに同様の条件が与えられていたことが大きな原因だと考える。平野君の「ちゅうしんのない家」が特異だったのは、上記の2条件の他に「各々の部屋ごとにボリュームを決定する」という条件を加えたことだ。これにより、独特の設計になっていった。「検索比較過程」における条件の決定により、その建築の形態が大きく変わることが分かる。この手法で作家性が生まれうるか、という問いに対しても、条件設定のオリジナリティがそのまま作家性となる、と答えることができると考える。
教育の場面では、建築の形態を大きく左右する検索過程を、もっと意識させるような操作が必要であると考える。

講評会後の討議を聞いて、「実務的超線形設計プロセス」と「教育的超線形設計プロセス」は別物であることが理解できた。
「実務的超線形設計プロセス」実務にしかありあえないパラメータ(例えば、施主の存在や法規的な拘束)を端折って、より簡略化され、論理化されたのが「教育的超線形設計プロセス」である。
しかし、出題日のレクチャーでは、Building K を例にあげて、「実務的超線形設計プロセス」が紹介されていた。これは後々混乱の種になったので、改善すべきだと思う。

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レポートをそのままコピペして載っけただけですw
んー、読み返してみると、上っ面をなめてるだけな気がしてきた。
関連した本とか読んでみて、また考えてみます。


では、そんな感じで。

講演会レポ:建築家 田根剛

首都大学で 建築家 田根剛さんの講演会がありました。

若いなーとは思ったんですけど、現在なんと29。凄まじいです。

略歴とかはこんな感じ、


田根剛(Dorell. Ghotmeh.Tane / Architects)

1979 年 東京生まれ
2001 年 シャルマス工科大学留学・スウェーデン
2002 年 北海道東海大学芸術工学部建築学科卒業
2003 年 デンマーク王立アカデミー 留学
  ヘニングラーセン、デビット・アジャイエを経て
2006年 ドレル・ゴットメ・田根/アーキテクツ パリに設立 共同主宰

主な受賞
2006 年 エストニア国立博物館・国際コンペティション・最優秀賞
2007−08 年 フランス文化庁新進建築家賞
2008 年 ミラノ建築家協会賞
2009 年 UIA国際コンペティション・House of Arts・佳作一等



講演会の内容としては、概ねが作品の紹介。
自身の建築観についても語っていただきました。

一番印象に残ったのは「建築家はデザイナーではない」という言葉。
建築家は形をかっこよくデザインすることだけで終わっちゃだめで、もっと社会的文脈を読み込んだ上で作品を作るべきだと。
社会的なメッセージ、社会的意義を持つ建築ってのを目指しているんだと解釈しました。


最初の紹介作品は、エストニア国立博物館
エストニアは、近年までドイツや旧ソ連の占領下にあって、ようやく完全な独立を成立させた国みたいです。
独立後、国の状勢が落ち着いてきたタイミングで国際コンペを開催。敷地はソ連軍基地の跡地が選定されていました。


その条件の元、彼らは跡地に残る滑走路をを利用する提案をしました。
滑走路と一つながりの博物館。エントランスから出口に向かい、10mの天井高を徐々に下げ最終的に滑走路とフラットにし、それとつながるものでした。
滑走路を「Memory Field」と名付け、毎年エストニアのストーリーを書いてゆくという提案も(記憶あいまい)


占領下にあったという過去の事実を消そうとするんじゃなくて、乗り越えて行く。今のエストニアには必要な精神だということが買われ、最優秀賞となりました。
アンチナショナルなものにナショナルな施設をぶつけるという、一見 攻撃的にも見えた提案も話を聞いて行くうちに納得、共感できるものでした。



長くなるので、はしょっちゃいますが、他の作品においても、「場所の記憶」という場所特有のものをテーマにして設計をしています。建築にしろ、記念碑にしろ。
日本ではあんま聞かない話ですよね。「記憶」ってキーワードを掲げて、建築作るってこと。ただ、僕が勉強不足なだけかもしれませんけどw
でも、記憶とか歴史みたいのも巻き込んで、建築を作るってのは、すごいしっくり来ました。

建築の存在意義みたいのをより長く担保させるのものの一つが、社会的意義を持つことなのかな。
モダンとかポストモダンってのは形態に偏りすぎてて、社会的だとか情緒的だとかの部分がごっそり抜け落ちてるきがする。いや、否定する気はないんだけど。
これは自分の勝手な解釈なんですが。デザインに情緒的、社会的、文化的、政治的、歴史的なものが加わったものが建築なんだと。見えるものと見えないものが作り出すものが建築だと思う。
ただ、かっこ良くデザインされてる建物があったとして、それはあくまで「建物」であって「建築」じゃない、、、
んー、まとまらないので、このことは今度書くとして。

脱線を修正。


日本でのプロジェクトは「Play 2 Play」というパフォーマンスの空間デザインをなさっていました。
四人の専門家たちがゼロからアイディアを出し合って、作品を作り上げて行くという挑戦的な試みでした。
専門家たちは以下の四人です。

振付:Noism07
空間:田根剛(DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS)
音楽:Ton That An
衣裳:三原康裕

田根さんが提案した舞台装置というのが鏡の三角柱。その鏡が特殊な鏡で、ある面は光を透過するんだけど、他方は透過しない。(あいまい)
その三角柱の配置の違いによってみごとに空間の性質や雰囲気を変えていました。
最後に、出来上がったパフォーマンスのダイジェストの映像を見せていただいたのですが、ほんとすごい。
想像もしない世界が広がってました。
化学変化ってやつですかね。生で見てみたいなぁ。


その後の質疑応答の時にも、日本は「場所としてのありかた」をもっと考えるべきだとおっしゃっていました。
東京は東京だから、雑多でよいのであって、他の地域は東京を真似した都市の作り方をすべきでない。

その地域の場所性だとかを重んじるべきだと。たぶん、そんなこと言ってました。あいまいですません。


講演会後、友人がぼそっと「藤村龍至と言ってることおなじやん」と。
なるほどその通りでした。この世代って、同じような問題意識を共有しているんですね。


これをうけて、我々の世代はどこへ向かうべきなんでしょうか。


と、無理矢理に締めたところでおしまい。

アウトプット始めました。

ども、アウトプット始めました。

建築と音楽がメインで考えたこととか、活動とか書こうと思ってます。

いつもの所を超えて、もっと深いところまで求めていきたい。

ってことで、気張っていきます!