量子力学と教育

シュレディンガーの猫」を知っているでしょうか。放射線を感知すると毒ガスを発生させる装置の入った箱に猫と放射性物質を入れる。放射性物質は1時間で半減期を向かえるが、それがいつやってくるか分からない。1時間後、箱の中の猫は生きているのか死んでいるのかという思考実験。
これは量子力学が広がり始めた頃、シュレディンガー量子力学をマクロの状態、つまり現実の生活に照らし合わせて、それがいかに変なのかということを指摘したものです。なぜなら量子力学が示す量子の世界を現実に表すなら、答えは状態の重なり、つまり箱の中の猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている状態になっていると説明されることになるからです。シュレディンガー量子力学のおかしな点をマクロで表し、それを否定したのです。

「えっ?猫は死んでいるか、生きているかどっちかでしょ?」
「見ることで結果が変わる???」
「死んでる猫と生きてる猫が重なり合っている状態ってなに???」

ところがミクロの世界ではこんなことを起こっているのです。盛んに研究されている量子コンピュータはこの重ね合わせを利用し、2進法では数万年もかかるような計算も量子コンピュータでは1秒かからずに計算できるといいます。それは量子ビットに0と1の重ね合わせの状態が存在することになるからです。重ね合わせの量子ビットが増えるほど計算スピードは上がるのです。(ただ現状では安定して重ね合わせの状態にならず、まともな量子コンピュータは存在していません)

また、量子力学では「観測者効果」というものも存在し、観測することで結果が変化するというものです。観測することが結果を変化させるということはすでに証明されています。量子力学で有名な二重スリットを通り抜けた干渉波でさえ、人の意識で分布に偏りができることが分かっています。

なぜこんな話?と思われるかもしれませんが、教育というか人間そのものも実はこうした量子の世界のような振る舞いをするように思えます。マクロ=総論と考えると、教育全体で考えれば誰もが正しいと思うようなことも、実際の具体=ミクロの世界に落とし込むと、その正しさが成り立たないものです。子ども姿も観測者バイアス(観測する人の思い込み)で都合よく解釈されるという問題があるのですが、観測者=教師そのものの意識(それは言葉に出さなくても考えているだけで)が子どもの行動に影響を与えているのではないかと思うのです。

特別支援教育 その2

しばらく続きを書いていませんでした。第2弾。

◯閉じ込められる子ども
特別支援教育は「その子どもの特性に合った教育を特別に行う」ためのものです。知的な問題で授業についていけない子ども、情緒の問題で教室環境にうまく適応できない子どもについて、通常学級を離れ、落ち着いた少人数教育の中で授業を行うというものです。しかし、現状の多くの学校ではその子どもの特性に合わせた教育を行うためのものではなく、通常学級から引き離すことが大きな目的になっているように思えます。特別支援学校ではない通常の公立学校では、本来ならば交流の時間を基盤とし、どうしても個別に指導しなければならないことを特別支援教室の中で行うべきです。ところが、多くの子どもは1日の殆どの時間を特別支援教室の中で過ごします。
これは以前書いたように、小学校では低学年から「学力がとてつもなく低い」「クラスの中で周りの子どもとのトラブルが絶えない」などの理由から教室から離れた子どもだからです。授業についてこられない、周りの子とトラブルを起こす子どもととらえられているのですから、例え交流しても「お客さん扱い」になっていきます。日程の調整も特別支援の先生が通常学級の先生にお伺いを立てるというような、謙った関係になってしまうのが一般的です。特別支援の教師はこうした「気を使った交流」にとても疲れてしまうものです。
ですから、特別支援の子どもは学校内でトラブルなく、そして誰にも迷惑をかけないで生活することが一番の目標になっていくのです。公立学校における特別支援の子どもは「閉じ込められていく」のです。そもそも「交流」という言葉自体が、特別支援の子どもの状況(立場)を表しているのだと思います。

子どものトラブルには首を突っ込まない

何度か書いたけどもう一度。
僕は1年生であろうとも子どものトラブルには余程のことがない限り組を突っ込みません。(余程というのは怪我をして医療機関にかかるなどすぐに保護者に連絡しなければならないようなことね)
どうしているかというと「そんなの自分たちで解決して」と話し合うことを促します。これは1学期1年生を担任してできたことですから、幼児でもできることですね。少なくとも年中くらいならできるんじゃないかしら。
基本的に教師は子どものトラブルに首を突っ込まないようがいい。どうしてかというと、首を突っ込んだ結果、本当の意味で解決しないばかりか、下手すると子どもは「先生はちゃんと話を聞いてくれなくて◯◯ちゃんの言い分ばかり聞いて叱られた」と、そんなことを言うわけです。子どもは相手が悪いと思っているわけですから、自分の不満がすっきりしない限り、本当の意味で解決していないのです。教師がどんなに大岡裁きをしたつもりでも、実は解決などしていないのです。
解決するというのは、相手の言い分も受け入れるということです。ですから話し合いが必要なのです。僕は当事者が「納得した」というまで話し合わせます。話し合うことは2点「なぜそうなったのか」「これからどうするか」です。こうしたことをすれば全てトラブルがなくなるわけではありませんが、どんどんクラスのトラブルは減っていきます。
なぜそうなるのでしょう?相手と対話することで、相手から見た自分を知ることになります。これがメタ認知の力を高めることになり、多少の問題が起こってもそれを柔らかく受け止めることができるようになるからなのではないかと僕は見ています。

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その1

僕は小学校の学力を押し下げている最大の原因は何かと言われたら「単元テスト」だと僕は答えます。
例えば国語のテスト
「・・・風がどうどうふきました・・・」
Q風はどうふきましたか?
A「どうどうふきました」
このレベルの問いは1年生だけではなく、6年生の国語のテストでも同じレベルなのです。つまり国語でその物語を深く学ぼうと学ばないだろうとテストには何にも反映されません。また上記のような問題は文脈を読み取ることなしに応えられるようになっているわけです。
また、理科のテストでは
Q春の木のようすを2つ選んで丸をつけましょう
A アとエ
4つの選択肢から2つ選ぶわけですから、デタラメにやっても確立は1/2となるわけです。理科の多くの設問はこうした確立1/2の問題で組み上がっています。つまり、4年生の理科を1年生がやっても、答え方が分かっていたらば内容なんて家計なく平均50点とれるということです。
全ての教材会社のテストを見並べても、似たようなもので差は殆どありません。なぜ教材会社はこのようなどうしようもないテストを作ってしまい、そして我々小学校教師はこんな質の低い単元テストを使ってしまうのでしょうか。(続く

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その2

小学校のタブー(この問題は多くの教師が口をつぐんでいるのだけど)に切り込みます。
この問題には教師側の問題、そして教材会社側の問題と2つの側面があります。まずは教師側の問題点から。
教師はテストで多くの子どもが高得点を取らせることを最大の目標としています。学級の中で0点や20点、30点が連発することを特に嫌います。ですから、普通にやれば1/3の子どもが100点をとれることをよしとします。平均点は「誰がやっても」85点程度になるようにしたいわけです。ここで「誰がやっても」というのがとても大事で「授業の良し悪しに影響されない」こと、つまり授業のそのものに影響を受けないものこそが良いテストなわけです。ですから以前、授業に入る前に国語のテストを受けさせたことがあります。結果は平均点が85点。これまでと何も変わりありませんでした。
また、教師によって丸つけが容易であることも大切です。6年生のテストでも先に述べたようなテストですから、子どもの内容をよく読みとる必要がありません。画像認識のレベルで採点ができるわけです。小学校教師は、学級担任制ですから、4教科もあると学期ごとに30枚以上のテストを採点することになります。40人学級だと1200枚ものテストを(これは中学校の1200枚とはわけが違います)裁かなければならないのです。そうなると丸つけ作業は膨大になりますから、簡単な方がいいのです。
「風はどうどうとふきました」
Q「風はどうふきましたか?」
A「どうどう(とふきました)」
こんな問題が出てくるのも「丸のつけやすさ」という理由も含まれるのです。
このように教師自らが実は授業の質などどうでもいいと実は考えているわけです。「そんなことはない!」そう否定する人もいらっしゃると思いますが、もし本当に授業の質を本当に大事にする人であれば、教材会社の単元テストなんてほとんど参考にせず、成績に反映していないはずです。
実際に1学期は1年生の担任をしながら、初任者の理科の授業も担当していたのですが、忙しくて授業の質が低かったにも関わらず、逆にテストの成績はよいわけです。なぜ授業の質が低いほどテストの成績は上がるのか、その意味を考えてみてください。

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その3

もう一つの側面、教材会社から見てみます。教材会社は「売れる」ことが正義です。教師のニーズを汲み取り、それはそれは丁寧に、そして分かりやすく、効率よく(例えば算数の図形採点用の透明シートなど)作成しています。まさに痒いところ全てに手が届くような。ですから、教材会社は子どもの学力をどう伸ばすか、どう学力を測るべきかいう視点はなく、あくまで採用する教師サイドのニーズに答えることこそが正義なのです。ですから各教材会社の取り柄は内容なのではなく「キャラクター」勝負になってしまっているのです。ぶっちゃけていうならば、どこの教材会社のテストを採用してもほとんど内容は同じなのです。ですから「おまけ(答案やプレテスト)」に力を入れることになるわけです。
また、これからの学習に応じたテストを作成できる人材もいないのだと思います。では、今のテストに変えてどんなテストを作成すれば良いか、そのビジョンを描ける人材はそうはいません。さらに、もし授業の内容に合わせ、子どもの学力を正確に図ろうとするテストを作れたとしてどうなるでしょうか? 恐らく全く売れないことでしょうね。「そんなめんどくさいテストなんて使いたくない」これが教師の本音ですから。教材会社もそれが分かっているから、何十年もテストの内容が変わらないままなのです。

小学校の学習のレベルを押し下げている原因とは? その4(最終)

この話は教師も、教材会社もとても耳が痛い問題だと思います。でも、日本が経済的に成熟した今、これからの日本は社会的精神的な成熟を迎えていかなければなりません。こんなテストをやっても何一つ子どもの成長には役立たないと思うのが僕の考えです。
僕はテストの平均点は50点位でよいのではないかと考えます。それは決して発展的な問題を出すというのではなく、「丁寧な良質の問題」を多くするということです。例えば算数では、線分図に書き表すとか、問題文の内容を表す図をかくとか。国語であるなら、登場人物の心の揺れ動きを読み取るような設問です。
そしてテストは成績を付けるためのものではなく、分からないことをあぶり出し、再度学び直すためのものであるべきです。ですから「分からなかったこと」を楽しむ子どもに育てていくのが正解です。いちいちテストが良かったとか悪かったとか、平均何点とか、そんなのどうでもいいことです。分からなかったら分かるように学び直せばいいのですから。
こうした子どもの学びに合わせたテストを作っても今は全く売れません。でもこうしたテストを求めるようになるくらい、教師自身が学力を上げることが大事なのです。
ちなみに僕が担任時代は、この単元テストは全て「知識理解」だけの成績としていました。だってカリマネの技術があるので、成績なんていくらでもつけられるわけです。そして成績は学校で僕が圧倒的に厳しいのです。だって「ちゃんとつけている」からね。