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◆継続は力なれ 伊波虎英
「短歌人」の誌面にはじめて自分の歌が掲載されたのが二〇〇四
年の一月号。それから十四年、筆名を変更したり(二〇〇四年六月
号から)、表記を旧仮名遣いに改めたり(二〇〇五年二月号から)
ということもありながら、一度も欠詠することはなかった。郵便事
故がなければ、今月号で一六八冊もの「短歌人」(七三九号から九
〇六号)に自分の歌が載ることとなる。
あらためて振り返ってみると、すごいことだなと思うし、今まで
よく続けて来られたなと我ながら感心する。以前は、駄作で誌面を
汚すなら、欠詠するほうがよっぽどましだというように考えたこと
もあった。もし一度でも欠詠していたら、自らに都合の良い言い訳
を繰り返しながらずるずると欠詠を重ね、遂には退会していたにち
がいない。そうなれば間違いなく短歌そのものからも離れていたこ
とだろう。欠詠せずにいたことで、毎月の締切に追われなければ生ま
れて来なかった歌が数多くあるのだ。そういう意味で、僕にとって
「短歌人」は歌の生まれる場所だと言える。
とは言うものの、はたして「継続は力」という具合に身になって
いるのか? ただ惰性で続けてきただけに過ぎないんじゃないか?
と、最近の作歌状況から暗澹とした思いになってしまうのも事実だ。
実は、今回と同じ「歌の生まれる場所」というテーマで書いた二〇
一三年七月号の三角点(「シフォンケーキと万年筆」)でも同じよ
うな思いを吐露していて、全然、進歩がなくて本当に情けない……。
なんだか、自分が短歌を続けているかぎりは、この先、何年経と
うと、ずっと同じように悩み、苦しみながら歌を詠んでいるような
気がする。なので、「短歌人」という場を離れてしまったら、短歌
そのものからも離れてしまうことになってしまうぞ、と自分を脅し
ながら、とにかく「歌の生まれる場所」から離れることのないよう、
毎月毎月、詠い続けていくしかないのだろう。「継続は力なれ」と
念じつつ。
不発弾のような歌しか出来ぬ夜は歌との無縁を装っておく
足立尚彦『でろんでろ』