スウェーデンの平等社会の秘密―スウェーデンはなぜ男女平等先進国に

榊原裕美

誰かが転んでいるのを見て、そそっかしい人だと思うか、道が転びやすいのでは?と思うか、国によってどちらを選ぶ人が多いか実験したら、日本では断然そそっかしいと思う人が多いそうです。
どんな問題も本人のせいにするのは簡単ですが、それでは何もことが進まない。「情けは人のためならず」という言葉が日本にあります。人が困っているのを助けたり、良かれと思っていろいろしたことが結局自分に戻ってくる。例えば、傘を貸してあげたら、ちょうど雨が降って困っていたときにそれを返してくれたとか。そんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか?
 スウェーデンで生活して、この国の国民は、平等という理念に大きなメリットがあると知っているのではないかと思われてなりませんでした。単に社会的に崇高な理念だというだけでなく、それは、個人にとっても大いにメリットがあるという合理的な精神が背後にあるようなのです。
環境問題でも、日本だったら、キャンペーンで、エコロジーやリサイクルに敏感になるように意識啓発をします。スウェーデンでは、デポジットで、缶やビンは返せばお金が自動的に入るしくみが入っています。お金になるので道には缶もビンもひとつも落ちていません。利他的に行動するように人の意識を変えるより、利己的な動機でもリサイクルができればよいし、町がきれいになればよいという合理的な精神がそこにあるように思われます。
 環境問題に限らず、最も合理的なだれでも実行できる仕組みがその結果が効果をもたらしていることをスウェーデン研究の中で常に痛感します。意識の高い立派な人たちでなくても、利己的な人間でも、困ったときも心配することなく、あくせくしなくても知らずに助け合って社会を作っている。私たちは、そんな、どの国でも可能かもしれない知恵や可能性を彼らの社会の仕組みからたくさん引き出すことができるのではないでしょうか。

スウェーデンの男女平等の背景
スウェーデンは男女平等が進んだ国として有名です。女性閣僚の数も世界で一番多く(22人中10人で45.5%)、国会議員もほぼ半分(47.3%)です。日本は今回の選挙で少し女性比率が増えましたがまだまだ足元にも及びません。女性の労働力率は、80%、つまりほとんどの女性が、子どものいる女性も同様に働いていて自立しています。男女の賃金格差の少なさも世界有数で、パートを含めても男性の約80%です。働いてもなかなか自立できないほかの国の女性の状況と違って、なぜそうなれているのでしょうか。 たしかに女性たちの運動がさかんなのも事実ですが、そもそも平等にしやすい社会の仕組みがあるのだと思います。ここでその仕組みについて考えてみたいと思います。

 ?スウェーデンの政治の仕組み
スウェーデンは、1920年世界で初めて社会主義政党が議会で政権をとった国となりました。そののち32年に再度社会民主党が就いて以来、長く政権与党でした。このことは、スウェーデン社会が平等であることと大きく関係します。
選挙制度は、すべて比例代表で、個人を選出するということがありません。首相はもとより、各自治体の首長でも、個人を選ぶ選挙はされずに、最も得票の多かった党の代表が市長など首長になります。それぞれ主張が鮮明な各政党の得票がほぼそのまま議席になるので、選挙は国民の投票行動、すなわち政治的傾向をきれいに反映します。このグラフは、新聞に載った2006年総選挙時、前回と比較して、現在の各政党の支持率とそれを反映した議席数です。 

    保守党 中央党  自由党 キリスト教民主党 社民党 左党 環境党
    97議席 29議席  28議席 24議席  130議席  22議席 19議席
     右派中道ブロック 178議席  社会民主ブロック171議席 合計349議席

現在7政党の、右派中道ブロックと社民ブロックで、それぞれ連立を組んで政権を担当します。1932年以降、1976-1982年、1991-1994年と現在(2006年以降)の計3回、政権交代が起こり、右派中道政権が与党になりました。
4年に1度、9月の第3日曜日に一斉に行われる総選挙の年に、選挙小屋と呼ばれる人通りの多いところに構えた小さな事務所で政策をアピールしたり議論をしたりするのは有名ですが、政治は身近で、投票率もかつては90%、現在も80%です。投票しない人は怠け者だと軽蔑され、投票日は家族そろって正装して投票に出かけます。
現在では、右派中道ブロックの政党でも、社民ブロックと同様に男女比はほぼ半々です。どの政党も、リストの半分くらいを女性にしないと、女性の有権者から支持を得られません。

?平等主義の労働組合の存在感
スウェーデンの大きな特徴は、他の北欧諸国と同様、労働組合の組織率が大変高いことです。そして、社民党労働組合は関係が深いです。
1930年代から70年代初めまで、スウェーデンで政府は、高い組織率(約八割)を誇るブルーカラー中心のスウェーデン労働組合LOと社民党が共同経営していたといってもいいような状況が続きました。よくスウェーデンモデルとして挙げられるのが、LOが提起した「連帯的賃金政策」です。これはLOの専属エコノミスト、ヨスタ・レーンとルドルフ・メイドナーが考案したといわれ、レーン・メイドナー・モデルといわれます。

(この図は、宮本太郎氏の「福祉国家という戦略」(法律文化社)から引用し加工されたものです。)
賃金水準は通常、職種や企業の利潤率に応じて多寡が生じます。労働組合経営者団体の全国団体間で中央集権的な賃金交渉が行われ、企業間や業種間での賃金格差を縮小するのが「連帯的賃金政策」です。これは、大企業であろうと中小企業であろうと同じ仕事をしている人は同じ賃金、つまり「同一労働同一賃金」です。なかんずく、職種が違ってもはなはだしくは賃金格差ができないような「同一価値労働同一賃金」(同じ価値の労働は同じ仕事ではなかったとしても同じ賃金)も実現できることになります。つまり、
? 発展的な産業や高収益の企業では、利益が増えるに従って、通常賃金も高くなるのが自然ですが、連帯賃金によって、平等が図られます。企業の利益が上がるに伴って、人件費が高騰し物価を押し上げるインフレを引き起こすことへの調整が図られます。
? もともとの賃金水準がこの線より低い、すなわち利益率が低い産業や企業では、平等な賃金にすると人件費が高くなります。人件費コストを調整して利益を上げることが不可能なので、経営努力によって発展するか、労働生産性が低い産業として淘汰されることになり、健全な経営の産業や企業だけが生き残ります。
? 斜陽産業や、経営の良くない企業の破綻によって、その職種の人々は失業することもありますが、失業者は手厚い政策で守られます。労働者の技能を育成・再訓練し、生産性の高い成長産業に送り込むための「積極的労働市場政策」を政府は実施します。このように、労働力移動の流動性を高めることによって、企業は健全な優良企業が適切に育ち、労働者は低い労働条件に苦しめられることなく、生活を保障され、安定した職業生活を続けられます。

この「連帯的賃金政策」の、スウェーデンでの実際の機能については議論のあるところです。しかし、同一価値労働同一賃金という崇高な労働者の理想を実現する政策が、組織率の高い労働組合運動の中で追求され、ひとつのビジョンとして人びとの規範となっていたとはいえます。平等な賃金を目指した労働組合提案の「連帯賃金政策」は、雇用の安定を損なわずに流動性を高めていく「積極的労働市場政策」をはじめとする政府のさまざまな政策とタイアップした雇用政策、社会政策、そして経済政策でもあったのです。

?政府の役割
平等を求めた「連帯的賃金政策」は、生産性の低い産業の淘汰を通じて国内経済全体の生産性を高度化し、国際競争力を高める効果も生んでいます。
これは法人である会社にとっては、人件費は固定されるので優れた経営手腕が必要となり、自然人である人間は労働者としては常に安定して働き続けられるような仕組みといえます。
かつての日本型雇用慣行のように賃金が勤続年数で年功的に上がることはありません。同じ仕事では何年してもそれほど変わらない給料ですが、高校・大学の教育費は無料、住宅手当や児童手当が税金の再配分で政府から支給されるので、ライフステージに応じて賃金が上がる必要はないのです。企業のかわりに政府が、国民の生活の保障をします。国民がどんなライフスタイルを選ぼうと政府に生活を保障されているといえます。
社会人になった後も簡単に大学に入り直せるし、無料の教育があって、転職やキャリアアップが容易になるような政策とも組み合わされます。政府にしてみれば、労使がともにインフレ抑制に協力したり、企業の淘汰を促すことになるので経済政策が容易になります。
80年代欧米の多くの国が高失業率に苦しんだ時代、スウェーデンだけは、高水準の就業率にもかかわらず、1970年から1990年にかけて失業率が3.5%を越えることありませんでした。
1985年、相対的に高賃金の自動車と他の製造業の賃金格差は、アメリカで40%あるのに対して、スウェーデンではわずかに4%でした。つまり、自動車産業のような高い生産力を持った産業分野では賃金コストが比較的低くなったのです。平等を追求することに企業がそれほど抵抗しなかったのは、収益の高い大企業にとっては賃金が抑制されることになるからです。
政府が間接賃金を用意し、企業へもメリットを配分しながら、労働組合の推進力で平等をめざしていくのがスウェーデンの戦後のあり方だったといえます。
翻って日本を考えてみると、春闘も、各会社で交渉があり、各企業ごとで賃上げをして、規模の大きい会社から順に決まっていき中小へと波及します。これは、各企業職種ごとの支払い能力によって格差があることを最初から是認した賃金交渉です。好景気のときは上げ潮に乗って、末端まで賃上げが行き届きますが、不況になると、機能しなくなってしまいます。企業に忠実な正社員の高賃金維持のために、不安定で低賃金の非正規労働者を多く雇用することになります。多くの労働組合は非正規雇用の人たちの低労働条件に無関心です。また、政府のセーフティネットが欠落しているので企業が雇用を縮小すると、多くの人たちは貧困に陥ってしまいます。自分の入った企業によって自分の生活は決まってしまうので、その企業から落ちないように必死になります。これまで高かった法人税を他の先進国並みにと安くしたら、上がった収益を今までのように従業員に分配して節税することがなくなります。もともと少ない所得税さえも払える雇用労働者が減って、税収は減少、政府はますます何もできなくなり借金がかさみます。かなり効率が悪いやり方に思えます。

スウェーデンの平等と平和主義
スウェーデンは中立政策によって第二次世界大戦に参戦していない特異な国です。これは平和主義の文脈で語られることが多いのですが、実はもっと深い意味があるように思われます。第二次大戦は、総力戦・総動員体制とも呼ばれ、国民全員が動員される戦争でした。当時どの国においても、争議が頻発し階級対立が先鋭化する国内問題を抱えていました。戦争は、外に敵を作ることで、同じ国民であるという名の下に、出自や資産の多寡よりも国家への貢献で栄誉が得られるチャンスを与えて、身分や格差に束縛された人々を平等にする幻想をつくります。国内の階級の利害の対立を、1つの国家としてまとまることで緩和したい、つまり、国同士で権益を争うことで、ナショナリズムを鼓舞し、国内の階級融和を図ったといえます。
スウェーデンが、第2次大戦でどの国とも戦わなかったということは、そして、1932年以来、社民党政権の下で統治が行われたことは、単なる中立や平和主義以上の意味があります。すなわち大戦前の大恐慌を経て各国で激化していた階級対立や大失業を、国家総動員体制下での戦争による平等化ではなく、社民党政権の政策努力による平等化で乗り越えたという、他国にない歴史を背負っていることを意味しているのです。組織労働者が大失業時代に低賃金労働に代替された苦い思い出やその超克の歴史は、日本やその他の国のように終戦という大きな事件によって記憶を消されることなく、類のない強い平等志向、労働者視点は、戦後も継承され、過酷な国際社会の怒涛の中、小国が生き抜くためのリアルな戦術は、継続され維持されてきたのです。
例えば、保守政権の時つくられた「失業委員会」は、大量失業時代に安い労働力の供給源として機能し、政権を得た社民党とLOにとってその解体は悲願とも言うべきものでした。低賃金労働の容認は労働条件の下降を生むと、1939年までかかって粘り強く解体していきました。また1933年、成立したばかりの社民党政権が、ともに連立を組んでいた農民党(現中央党)に、争議を頻発させ高騰する建設産業の高賃金を解決しないと連立を抜けると迫られ、LOが介入して全産業労働者の170%だった建設労働者の賃金を130%まで削減したことがありました。こうした経験は、1951年に提案された「高賃金より平等な安定的な賃金を」というレーン・メイドナー・モデルの路線と地続きに見えます。
すでに大恐慌後の厳しい雇用状況の中で「男女が同じ賃金なら男性の方を雇用主は雇うだろう」という理由から保守的な男性が男女平等を要求するといったことが起こっていましたが、平等を求める裏面にそういった本音があったと言うのは興味深いことです。

こうした背景の中で、スウェーデンの女性の社会進出は、産業構造の変化や女性運動の興隆という世界的な流れと同調しながらも、独自の方法で達成されていきます。

女性の社会進出
中立政策によって二度の大戦に巻き込まれなかったスウェーデンは、50年代にすでに合理化を成し遂げ、生産過程の単純化と規格化を進めたため、非熟練の労働力の需要が増大していました。合理化で男性よりも安い女性の労働力が用いられるのは戦間期に証明済みでした。
朝鮮戦争の好景気の影響を受け賃金が高騰した1950年代、財界の合理化推進者は「女性の労働力は安いので、高い男性を減らし、単純作業をする大量の女性を雇うべき」と薦め、ストの代用労働者として女性労働者が登場し、男女差別が問題になりました。
1960年代に、それまで製造業で一般的だった女性賃金の別立て慣行による男女別の賃金が廃止され、また、LOの民間セクターの現場労働者だけでなく、公的セクターや民間セクターの事務職の労働者も、中央集権的な労使交渉がされるようになりました。
1960年代はじめ、高度成長の労働力不足が既婚女性を製造業に引き出したものの、60年代後半から70年代前半の間に、オイルショックと後発国の追い上げによって国際市場のシェアを失っていった輸出関連製造業セクターの雇用環境は厳しくなりました。加えて連帯賃金と小企業への累進課税のため、民間の雇用の伸びははかばかしくなかったのです。同じころ、女性運動グループはLOや社民党に圧力を加え完全雇用と平等に取り組ませ始めました。70年代から80年代にかけて、地方自治体では、福祉サービスの充実のためのパートタイム労働の直接雇用を生み出しました。
結果として積極的労働市場政策的に、女性を製造業から、公共セクターで生み出された保育や介護といったサービス部門へと移していくことになりました。社会福祉サービスの拡大は、民間から押し出された女性たちだけでなく、主婦から新しく労働に参入する女性にとっても働き口となったのです。雇用制限をしていた民間セクターでは、男性は女性たちと仕事を直接奪い合うことなく、また「連帯的賃金政策」のおかげで、男性の置き換えの低賃金労働者になって労働市場を歪めることもなく女性は労働市場に統合されました。こうして女性の労働参加は1990年までに約83%までに達しました。また、賃金格差や低賃金、セクター間の賃金の格差が改善され、女性の実質賃金は男性より高く上昇しました。こうして男性稼ぎ主モデルから共働きモデルへの転換は、慢性的な労働力の不足と、平等への要求で進められたのです。スウェーデンの女性の社会参加は、それ以前からあった平等志向の社会の仕組みに大いに助けられているといえます。そして先の業種間の平等とともに、男女間の平等が図られたことは、スウェーデンの経済に良い影響を与えました。

資料 LO andra halvseklet 1998 のデータより作成。

資料 “wage and salaries of women and men” 1986 Statistics Sweden のデータより作成
公的セクターにおける女性のケアワーク現業正規雇用は、労働組合の組織率を上げると同時に、育児や介護などのケアワークの社会化も実現させました。既婚女性を正規労働市場に引き出し、平等な賃金により、男性の賃金を世帯賃金としないですみ、輸出産業の人件費コストを下げ国際競争力が増したのです。公的セクターの女性の雇用がさしずめ公的補助金のような形で作用したといえます。



現在、スウェーデン最大のブルーカラー(現場労働者)労働組合の全国組織LOの委員長は、1952年生まれの准看護師、ヴァニヤ・ルンドビー=ヴェディンで、現在LOの加盟労組の中で最大、かつ女性比率が高い組合で、公務員組合の出身です。
一般的に男性中心的であるといわれることの多い労働組合ですが、いまや世界を又にかけて国際的に活躍するLOの委員長が、公務セクターの現業の女性であることは、スウェーデンの国のありようを象徴しているように思います。雇用の現場で声を上げる女性たちは、当然政治的にも発言力を増し、女性の政治参加が進みました。


スウェーデンは、男性の働き方に女性を近づけるのではなく、女性と男性、両方ともが私生活を大切にしながら、自分の人生を選べるような働き方を作ってきたといえます。そうした平等の追求が、経営コストや経済政策的なメリットにもなり、さらに安心して子どもが生める社会をも形成できたので、先進国の中では出生率も高いです。しかし、公共部門のケアワーク現業に職種に集中させたことが、相対的な低賃金のまま女性職種が特定されるという性別職務分離ともなって、男女平等の視点からは大きな問題になっています。


70年代の日本のように、男性の雇用確保のために女性を家庭に戻してしまったのは、平等だけでなく、社会にとっても大変残念なことだったのではないでしょうか。女性は、家庭の中での権力だけを手に入れて、雇用は、低賃金のパートか、疲弊したキャリアウーマンになるかの選択肢に限定されてしまい、大きな社会参加のうねりをもてなかったし、男性並みのキャリアウーマンか、家計補助のパートか、と労働市場が統合されないで二極分化し、そのことが今日の日本の雇用の分断を生み格差のみならず貧困をもたらしています。さらに男性の稼得能力を過大評価せねばならず、男女間の不平等のみならず、企業が正社員を抱えることの負担も増やすことになったのではないでしょうか。
男女とものブルーカラー中心の労働組合によってホワイトカラーとの格差が簡単に進まないシステムが機能し、雇用の不安定化や低賃金化に常に気を配り、公的セクターを活用することによって、男女間の雇用・賃金配分が調整されてきたスウェーデンは、平等をすすめただけではなく、産業の違いや経済の中の産業構造の変化から来る仕事の二極分化傾向による社会の分裂分断状況を回避した優れた経済政策だったといえます。今から思えば、戦後の復興から高度経済成長を経た製造業が中心の工業社会が成熟し、脱工業化社会、ポスト工業経済を迎えた現代社会にとって、その平等志向の社会システムは最も適合したものでもあったのです。

ポスト工業経済対応型システム
製造業での雇用の縮小とサービスセクターの雇用の拡大による構造変化は、ポスト工業経済と呼ばれる現象と同じ構造です。不況期も活用して、スウェーデンでは、積極的にポスト工業化を推進しながら早くから対応してきたとも見えます。
1979年から1993年の間にOECD諸国は平均22%の割合で製造業の雇用を失いました。国によっては、製造業全体の3分の1から2分の1の雇用が失われたところもあり、これだけの規模での雇用の減少は、戦後の脱農業化に匹敵するするといわれていますが、今日ほとんどの実質的な雇用増加はサービス産業で起きています。問題は、人相手のサービス業では、それほどの生産性があがらない低技能の仕事であるということ。また製造業も、技術革新により、高度な創造的な仕事と極めて単純な労働とに分化しました。
こうした状況の中で、職種横断的な平等賃金をめざす「連帯的賃金政策」は、かつて高度成長期の技術革新の中では、人件費の高騰を原因とする失業やインフレを抑える政策として機能しましたが、現在は、製造業の二極分化とサービス業の増加により、業種別におのずと生じる賃金水準の低下を抑制する機能を果たしています。サービスセクターは公的セクターとして、賃金水準を底上げしながらも、相対的に高い賃金コストは、経営的な合理化を進めて、労働生産性をあげることにつながって機能しているといえます。
多くの国で、雇用か平等かの、つまり、低賃金で保障のされない雇用を広げて失業率を減らすか(アメリカ型)、高度成長期の製造業を前提にした典型労働者の労働条件の保障を平等にする代わりに、高失業を受け入れるか(大陸ヨーロッパ型)の二者択一の中での、第3の道でもあったのです。

外国人も同じ賃金―平等か排除か
また、外国人も同様に、スウェーデン人と全く同じ労働協約、同一賃金で雇用されてきました。2004年に起きたラヴァル社事件は、EUのグローバルな規範と衝突するスウェーデンの国内規範を象徴する事例でした。東欧ラトビアの企業ラヴァル社が、スウェーデン国内の小学校の建設現場でラトビア人をスウェーデン労働協約より安く働かせたということでスウェーデンの建設労組が何ヶ月もストを打ったのです。小学校側は発注を取り消し、ラヴァル社は撤退、スウェーデンにある子会社は倒産しました。ラヴァル社は組合に損害賠償を求めてEUに提訴、EUは、「スウェーデン人と同等に扱うのは差別取り扱いだ」という奇妙なラヴァル社の主張を認めました。興味深いのはスウェーデンの財界もEU決定に不満だったことです。もし安い賃金で外国人を働かせることが可能になれば、スウェーデンの会社は不利になるからです。外国人にとって、スウェーデン人と同じ条件で採用されることは大きな壁になり、平等に扱うことは実はスウェーデン人にとって有利だ、というEUの決定は、スウェーデン全体にとって受け入れがたいものでした。

平等はお得??!!
つまり平等は長期的に見ると、いろいろな意味で、面白いように割に合うのです。逆に割りに合わない平等は実現しない、といえるのかもしれません。

? 企業間、職種間の平等賃金は、企業や産業の新陳代謝自然淘汰をうながす。効率や経営能力のない悪い企業を永らえさせない。
? また、高収益の企業の賃金の高騰を避け、インフレ抑制になった。
? 産業構造の変化によって二極分化し、低賃金労働の蔓延か高い賃金レベルによって高失業率を維持するかの二者択一に陥って、いずれの国においても拡大している社会不安の問題から免れる。
? 政府による社会保障は、企業の負担を軽くし、企業の状況に労働者が左右されない。
? 女性に平等な賃金を払えば、男性の賃金の上昇を減らすことができる。
? 女性が公的セクターに集中し、相対的に安定した賃金を得ているおかげで、民間の国際部門は、男性の労働力を安く使えて国際競争力がつく。
? 雇用が女性化し、福祉国家の現物サービス拡張でケアワークが社会されることによって、出生率をあげることができる。
? 女性の安定雇用を増やせば税収が伸び、年金の拠出の担い手が増える。女性が平均して男性の給与の75%を稼ぎ、女性の就労率が、50%から75%に上昇すると、国民所得はおよそ15%上昇し、平均課税率を30%とすると、国家の税収は10%ないし12%増加するといわれている。
? 労働組合は女性雇用の組織化によって人数減少中の男性中心の製造業の労働組合員を補って組織率を維持できる。
? 政府は税金を払う人のために動く。法人税は28%で、先進国の中では低いレベル。所得税が高いといわれているスウェーデンでは、徴税能力にみあう労働条件の良い雇用をすべての人に保障することが政府の基本である。

平等は理念として美しいだけでなく、効率がよく、みんなが得をすることに驚かされます。スウェーデンのことを研究するほど、この国は、いわゆる近代に入って資本主義が起こった後、爆発的に増えた労働者、つまり働く普通の人、という存在、そこから出発している国なのだと痛感します。もともと能力にめぐまれた人も、起業家も発明家も、アルフレッド・ノーベルをはじめたくさんいるのですが、偉い人を作ること以上に、ふつうの「労働者」がよりよく生きられる国にしようと思っていると強く感じるのです。有名なニルスの冒険というお話でも最初ニルスは親も手を焼く悪い子でした。小人の罰で小さくされ、鳥の仲間たちと一緒に行動するうちに立派な少年になります。人間は、最初からヒーローがいるのではなく、他の人たちと関係を作っていくことで、どんな子どもも良い存在になれるという信仰に近いものがあるのではないかと思えます。精神的な訓示や道徳教育は必要ないのです。人と人が協力し合っていける仕組みの大切さを、広い国土に少ない人数で孤立しがちな風土だからこそ、また、もともと独立独歩の個人主義的な気質だからこそ、強く感じているように思えます。
社会のありようを考えるとき、道はそそっかしい人でも転ばないような配慮があった方がいいし、雨が降ったとき思いもかけず傘を返してもらえたら、みんなが助かる、そんな風に考えてみては、とスウェーデンはささやいてくれている気がします。


##プロフィール
さかきばら・ひろみ/1960年生まれ。生協において労働組合結成、九〇年代初頭、育児時短の制度制定と実践を経て二〇〇四年スウェーデンに国費留学。現在、横浜国立大学大学院博士課程在籍。

<参考文献>
G.エスピン=アンデルセン2000年「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店 翻訳:渡辺雅男・渡辺景子(原著刊行1999年)
Gustafsson、 Bo  Post-industrial society : proceedings of an international symposium held in Uppsala from 22 to 25 March 1977 to mark the occasion of the 500th anniversary of Uppsala University,  1979 Croom  Helm Ltd (1977年3月22日から25日までウプサラ大学500年記念で行われたシンポジウムの収録)
Mosesdottier, Lilja, 2001, The interplay between gender, market, and state in Swedem, Germany, and United States, Ashgate  Publishing Limited.
Svensson, L, 1995, Closing the gender gap,  Ekonomisk-historisk föreningen

猿田正機 2003年『福祉国家スウェーデンの労使関係』ミネルヴァ書房
丸山恵也 2002年 『ボルボの研究』柘植書房新社
宮本太郎 1999年『福祉国家という戦略』 法律文化社
明美 1997年「スウェーデンにおける産業別賃金交渉体制の形成と女性賃金問題」『経済論叢』第160巻第1号 京都大学経済学会 
榊原裕美 2007年「労働組合による男女平等と経済発展 スウェーデンモデルをめぐる一考察」, 女性労働研究51号 青木書店 

2003年 生活クラブ生活協同組合運動の実践と展望

生活クラブ生活協同組合運動の実践と展望
ワーカーズコレクティブの試みの20年後の検証―
横浜国立大学環境情報学府博士過程前期2年 榊原裕美

この論文は、生活クラブ生協の運動の興隆と日本が性別分業社会として戦後社会があったことの関係性を照射し、批判的に捕らえ返すという視点で、ジェンダー格差の激しさの裏返しとしての生協運動から脱して、21世紀型ジェンダー公正な循環型社会へ担い手となる生活クラブ生協運動の展望をワーカーズ・コレクティブに見出だすための論証である。
 そのために、ワーカーズ・コレクティブの草創期である1980年代の社会的背景として、主にフェミニズムをめぐる、あるいはフェミニズムの視点での時代状況を描く中で、その到達点と限界をあげたい。20年を経た現在のワーカーズ・コレクティブの実例を見る中で、現時点からの可能性や課題を考察したいと思う。その際、筆者が、生活クラブ生協の職員として生きた期間がこのテーマと重なり、この論証自身が自分自身の人生の格闘とも交差するという手法の特異さが、この論文の一つの大きな特徴である。

第1章 ワーカーズ・コレクティブの草創期
はじめに     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1.生活クラブ生協の80年代    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
2.女性の時代としての80年代 
1)エコロジー運動の中のフェミニズム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
2)主婦モデルとは何か―専業主婦モデルから兼業主婦モデルへ ・・・・・・・・15
3) 兼業主婦モデルへの適合としてのワーカーズ・コレクティブ  ・・・・・・・23
4)社縁社会から総撤退論の検証  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
5)職員のワーカーズ・コレクティブ化の可能性    ・・・・・・・・・・・・35

第2章 ワーカーズ・コレクティブの現在
1.成功するワーカーズ・コレクティブの事例
 1)配送ワーカーズ・コレクティブ 轍 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
 2)あみ 住まいの相談室      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
 3)託児室すくすく        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
 4)福祉ワーカーズ・コレクティブ「想」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
 5)印刷ワーカーズ・コレクティブパピエ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・81

2.ワーカーズ・コレクティブの課題と可能性・・・・・・・・・・・・・・・・・・92

はじめに―

生活クラブ生協についての研究としては早稲田大学佐藤慶幸氏の、3部の研究書1)がある。この中で私の所属した生活クラブ生協神奈川について、詳細な調査を元にした丹念な考察がされている。
 生活クラブ生協の活動を現代社会における新しいアソシエーションのあり方として注目し、その実践を詳述した労作だが、特に90年代に刊行されたものでは、フェミニズム的な視点からの問題提起に少なからぬ紙幅を割いている。
 例えば95年の共著では、
生活クラブ生協を創り上げた人たちが社会運動の拡大対象として選んだのは、『昼間は家にいないサラリーマン化が進んでいる中で、全日制市民である主婦こそ、地域社会の主役である』と考えたからであるという。だが社会運動を組織するオーガナイザーの視点からみると、彼らは運動を地域社会に根付かせるために、地域社会の中で大部分を過ごす主婦たちを運動の担い手として調達したとみることができる。つまり生活クラブ生協では、運動体の主要な構成要素が性別役割分業システムによって供給されている。」(?P319「女性職員から見た専従労働と生協運動」 今井千恵 )

 さらに97年の著書の中で佐藤氏はあまりにも端的に以下を命題として出した。

「主婦たちの生協運動は、産業社会の発展を支えてきた性別役割分業システムを前提にして行われてきた。」(?P219)

生活クラブ生協は主婦達を全日制市民とよぶ。生活クラブ生協創始者たちは,女性たちの目覚めを異口同音にたたえる。「最初主婦達は,生活クラブ生協の加入用紙に夫の名前を書こうとするが、ここには自分の名前を書くのだといわれ、はじめて自分の名前を書く人が多かった。しかし、そのことで女性たちは○○の妻や△△ちゃんのお母さんじゃなくて名前のある一人の人格としての自分を自覚するようになる。そして彼女達は水を得た魚のように活動を始める」云々。
 これは女性が主体性を獲得する運動として生活クラブ生協運動があったこと、つまり女性解放運動でもあったことの証左になるエピソードだろうか。夫の存在が家庭から消え、家族の「生活部分」の全面担当者としての妻の立場の主体性の確立という意味、つまりは、これは男女の性別分業・生活分離が進んだことの一現象に過ぎないのではないか。たしかに、主婦たちの「市民としての主体性」は発揮された。しかしそれは「人権」ではなく「妻の“座権”」の強化でしかなかったと思えてならない。
男性が戦地に出かけ「主体的に」銃後をになった戦時中のある種「主体的な」婦人運動と重なる、と見るのは、あまりにうがちすぎであろうか。
次のエピソードもまた、その主体性に留保をつける。

 「どうして自然を壊すのかしら。自然を守る活動をもっとすべきだと思う」と言う生協組合員に、「もし夫の会社がその自然破壊に関与していても活動する?」と聞いたら「しない」と即座に返事が返ってきた。

夫の家族賃金に依拠している限り本当のオルタナティブは実現しないのではないか。なぜなら,一人の男性労働者に家族分払い、それが年々上昇するという年功序列の生活給賃金の仕組みは高度成長期にしか成り立たない制度であるからだ。大量生産大量消費が続くことが,命や自然を守る主婦の運動の前提になっているとするならば、大きな矛盾を抱えていることになる。
 そして幸か不幸か時代は今や経済成長しなくなって久しい。そして年功序列賃金も、終身雇用も、従来のままではいられなくなっている。また企業は、その世界に誇った社内結束が、無残なまでにほころび始め、昨今の詐称事件などで、自滅の道を歩んでいる。
生活クラブ生協では、自らを高度経済成長の鬼っ子と称している。が、実は戦後ジェンダー社会の申し子だったのではないか。
 この論文はそれがどのように申し子であったかを明らかにするとともに、それを超える可能性を見つけるものとして書かれた。
 その理由は何よりも私自身がそれを乗り越えようと思い、15年間子持ち女性職員として生活クラブ生協に関わったことによる。しかし、女性労働者と主婦の関係は微妙なものであると指摘せずにいられない。
総評の女性運動を研究者する滋賀大学の山田和代氏は、総評運動のなかの「総評婦人対策部」と「総評主婦の会」の二つの女性組織についてその賃金問題の向き合い方の微妙さを描き出した2)。彼女は、「主婦の会」が最初は夫の低賃金を問題にしていた(それは婦人部のILO100号条約批准運動にみる男女同一労働同一賃金格差是正と微妙な齟齬があるはずの構造にある)のが、主婦たちが内職やパートに出るようになって、労働者としての自らの利益を要求・主張するに至ったことによって、二つの女性組織が共通の認識基盤に立脚する可能性がもたらされたという点に大きな意味を見出している。主婦と働く女性の分断を超えていく“契機”をそこに見ているのである。もちろんそれは“契機”に過ぎず、主婦の内職やパートは新たな「主婦モデル」の拡大にすぎないという捕らえ方もできる。その側面の分析は大変に重要である。そして実際この論文の前段でその検証をしている。しかし私はここでは山田氏の希望的観測に習いたいと思う。
 この論文では、生活クラブ生協の中で掲げられた、働くことをテーマにしたワーカーズ・コレクティブの位置付けと実践を取り上げてみた。その際よく言われる、ワーカーズ・コレクティブの、産業社会に対抗的な地域の有用生産を組織化する労働と言う側面はあえて自明のこととして明示を避けた。ジェンダー補完的である限り、真に産業社会に対抗できているとはいえない、としてここではジェンダーの視点にあえてこだわった。実際20年目を迎えたワーカーズ・コレクティブの聞き取り調査を通じてその試みが結実しつつあることを実感した。生活クラブ生協が始めたワーカーズ・コレクティブ運動の限界点、到達点を明らかにする中で、私はワーカーズ・コレクティブに性別役割分業とそれに基づくシステムを変えていく可能性を見ていきたいと思う。

それが、高度成長の鬼っ子である、と、産業社会への対抗実践と自ら自認しながら、その実ジェンダー社会の申し子として「主婦モデル」を通して産業社会に寄生していた実態を、中から変えていける契機としての生活クラブ生協の新たな展望である。そしてそれは、世界大の変動によって、日本のこれまでのシステムが激変し始めているグローバリゼーションの時代―世界的規模での「労働力の女性化」3)にあらわれるような―に新しい意味を持ち始めるはずであると思う。
 

第1章ワーカーズ・コレクティブの草創期
1.生活クラブ生協の80年代
68年に東京で、71年に神奈川で設立、現在15都道府県、組合員25万人の生活クラブ生協は、1980年代に大きな転機を迎えた。

日本が未曾有の高度経済発展を経た70年代、公害問題の激化が、あまりにも短期間に達成された高度成長の暗部としてクローズアップされた。水俣病四日市ゼンソク、イタイイタイ病をはじめ各都市の大気汚染問題や騒音問題、水質汚染の問題など経済大国と同時に公害大国の名も冠するようになった。それまで手放しで礼賛された経済成長への疑問が大きくなった。住民の生命や生活を省みない経済利益の追求により、甚大な被害が現れ、当事者の告発がメディアや司法にととりあげられ企業は社会的な批判を浴びた。
 冷戦体制下のアメリカの経済パートナーとしての位置づけによるさまざまな経済的政治的配慮、国家官僚主導の産業振興策など日本国内の政治経済の仕組み、滅私奉公的な集団的忠誠心の戦争から経済へ誘導、終身雇用・年功序列企業別組合という協調的な労使関係、それらが総合されてつくられる極端な企業中心社会の恩恵を、人々は享受するとともにその歪みをもたらしたものを目にしないわけに行かなくなった。
各地の公害を告発する水俣などの住民運動は、地域に密着し、現代の社会構造自身を鋭く問うラジカルなエコロジー思想を生みだしていった。
同時に食べ物への不満も高まった。生産の側の都合でいれられる食品添加物や農薬、不自然な加工などのない、安心安全な食べ物を求める消費者運動が各地に起ってきた。
生活クラブ生協は、経済効率を優先した生産により生命が脅かされている現代社会の中で、生命を守る食べ物をいかに手に入れるか、の問題に対して、生産者と消費者を直接につなげる事業を具体化して応え、その事業は広く都市を中心とした地域に広がり始めてい  た。「生き方を変えよう」「加害者になるのはやめよう」というキャッチフレーズで生活を見直すことから社会の変革をめざしてきた生活クラブ生協だが、80年代に入ってからさらに発展目覚しく、「共同購入から全生活へ」と様々な分野に活動が広がっていき世間の耳目を集めた。
生活クラブ生協神奈川では、1984年に初めて“オルタナティブ”という言葉を「もうひとつの」「代替・対案」「今までのようでない」という意味で使いはじめた。そしてオルタナティブを具体化するための新しいテーマとして、「デポー」「代理人」「ワーカーズ・コレクティブ」が提案された。
それまでは、生活クラブ生協では「三角錐体」という名で「(組合員の)拡大」「利用(結集)」「資金」の三点セットが言われてきた。それは生活クラブ生協の事業を軌道に乗せるための必要不可欠のものであった。つまり、安心・安全な食べ物を開発するためには、それを食べる多くの組合員が必要であり、組合員を拡大していくことが重要である。また共同購入の結集力を上げ、生産者に注文をつけて開発した“消費材”(食べ物を交換価値ではなく使用価値で捉えようと商品と呼ばずに独自にこう呼ぶ)を作りつづけ改善していくための「利用結集」が必要である。そして経営を安定させ、新たな地域の準備支部支部にして2)、配達するセンターの新設など事業を拡大する資金のために、毎月一人1000円ずつの出資の増資(利用高に応じた割戻し額が加算され脱退時に返還)が重要だったのだ。
しかし、新しく出された「新三角錐体」は、生活クラブ生協の「事業」というより、「運動」理念をさらに広げていくための、新しいテーマだった。
まず1つめの「デポー」とはフランス語で「荷捌き所」といい、これまで煩雑な班共同購入1本にこだわってきた生活クラブ生協が、さらに仲間を広げるために(組合員を拡大するために)大きな班の荷捌き所としての「店舗」を作ったのである。班共同購入の間口を広げるための新しい試みだった。
 生活クラブ生協の班別予約共同購入は大変に面倒なものであった。1ヶ月に1度4週分を頼むのだが5.6人から多い班では10人以上の班員の注文を当番がまとめて、班注文をし、毎週曜日ごとに来る購入品を班員で受け取り、分け、それぞれが持って帰る。その金額を一人ずつ計算して、班長が集め、職員に渡すという形をずっととっていたのである。牛乳や卵や計画購入品がそれぞればらばらに来るので、その受け取りに週何度も出なければならなかった。こうした班単位の共同作業によって、品物の品質にくらべ品物は安価に手に入ったのであるが、またこうした購入方法のため、生産者に対して発言権をもてたのでもあるが、組合員の負担は相当のものであった。また、各支部から支部委員や消費委員、広報委員などを選出し、彼女たちは1000人単位の支部をまとめるための仕事を役員として果たした。支部委員は、さらに共同購入を充実させるために、組合員の拡大をした。消費委員は豚肉部会や野菜部会などに別れて、毎月の班から上がってくる注文を集約し、生産者との約束が守れるように、注文調節をした。またそれ以外にも社会運動委員会などの自主的な活動もあった。これらの仕事は、PTAの役員と同じように無償で、交通費など経費だけは支給された。支部委員長などの役付きになるとその忙しさは相当なものであった。
この物流と組織運営システムのため、在宅する者しか加わることができなかった。が、70年代から80年代半ばまで当初は、このように面倒でも家族に安心でおいしいものを食べさせるために、あるいは自主的に運営してみんなで思いを実現するためにはあえて手間をいとわない女性たちが多かったのである。しかし、さすがに有職主婦が増え(後述第1章2 3))組合員の不満も増えたことから、店舗式のスタイルを82年から始める事になった。そもそも班という単位は、職員の手間を省くといったコスト的な理由から行われたのだが、しだいに、班をコミュニケーションの基本として、話し合いや活動が行われるようになり、それが生活クラブ生協の活動の基本になったので、班というものに組合員民主主義の最小単位というような大きな意味が付加されてきたし、また既存の、スーパー化する店舗型の巨大生協とは違うという自負も込められていたので、デポーを作るときには、基本をはずした邪道だと批判して脱退する組合員もあった。とまれ、店舗型のデポーは、面倒だという評判の生活クラブ生協の垣根を低くして、さらに地域に組合員を広げようというものであった。東京では、少し遅れて個人班という個人への配送購入方式が試行されるようになる。1987年には班の共同購入も、OCRというコンピューターの読み取りシステムを導入することになり、また配達を合理化することで、班の負担は相当軽減された。またデポーは、その後別生協として独立して2002年再度同じ生協として統合されるという経過をとっている。
さて、新三角垂体の2つめの「ワーカーズ・コレクティブ」であるが、その創設の立役者の横田克巳氏は以下のように定義する。

「誰かに雇われて働くのではなく、働くもの自身が出資し、自らの技術や技能を自らが組織して働く自主管理共同体的な運営をする事業体である。生産者協同組合と呼ばれる時もある。大きな資本を持たないものでも、資金を持ち寄り、協同し、自主管理していくことで、納得のいく働き方の可能性を開くことができるし、今日の企業社会、没個性的な働き方とは質のちがう働き方を、作り出していくことをめざしている。特に都市化によるサービス産業の肥大化が避けられない状況下で、生活技術を駆使して、その労働能力を地域で交換し合うことは、産業資本によるサービスの組織化に対して不買となり、オルタナティブとなる。」3)

実態的にはデポーの店舗運営のための業務を組合員に委託するために始まった。しかし、85年に神奈川の本部がオルタナティブ生活館として新設されると、そこでの様々な活動をするグループをワーカーズ・コレクティブとして立ち上げた(第2章1.3))
3つめの「代理人」とは、現在は神奈川では言葉としては使われないが、政治を「生活者」のものへと変えるための「生活者」のメッセンジャーとして議会活動を通して“政治的代理人”になってもらう議員のことを言う。84年に「神奈川ネットワーク運動」というローカルパーティ(地域政党)をつくるにいたる。現在神奈川県下に県議4人、各市議42人である(全て女性)。神奈川以外の東京や千葉でもローカルパーティーを持ち議員をそれぞれ抱える。

こうした3つのテーマを掲げて、80年代に入って生活クラブ生協は、これまで作ってきた「事業」に体現される「理念」をさらに運動として広げようと、地域を「つくり」「かえる」ことで、社会ヘアピールをしていったのである。

「この産業社会は“男”がシンボルであり、それに対するオルタナティブの場は“地域社会”、そのシンボルは“女”であるか(ママ)に見ることができよう。」4)

と、当時の生活クラブ生協神奈川理事長横田克巳氏は言う。それは、ほとんどの組合員が女性であるというこの組織5)にも、また80年代という時代にも合ったイメージだった。6)
こうしたイメージを共有する80年代という時代を見てみたいと思う。


2.女性の時代としての80年代 
1) エコロジー運動の中のフェミニズム

「80年代は、女の時代と喧伝されながら幕を開けた。日本で初の女性大使、一部上場企業の取締役、国鉄の駅長などの誕生がマスコミを賑わして、各界で活躍する女性の“淑女録”が刊行された。・・・略・・・新しいタイプの女性誌が相次いで創刊された。
また、80年は国際婦人の10年の中間年。日本で最初の女性大使・高橋展子さんがデンマークで開催された世界大会で、日本政府を代表して婦人差別撤廃条約に署名したことも、その条約の内容と相まって、女たちに新しい時代の到来を予感させた。」1)

80年代は環境問題がエコロジーとしてクローズアップされるとともに、一方で「女の時代」と呼ばれるほど、「女性が活躍した」時代でもあった。引用した状況は、国連婦人の10年(1975年から1985年)の間のさまざまな運動が功を奏したと結果というべきであろう2)。しかしこのとき第1期女性解放運動(女権拡張とも言うべき、男女同権を求める運動)はすでに、70年代のウーマンリブ運動――第2期女性解放運動をすでに経てきていた。
早くからウーマンリブに触れ、「性の政治学」などアメリカのウーマンリブの成果を日本に紹介してきた藤枝澪子氏は、「リブ運動は?期女性解放運動の開幕を告げるものであった」とし、それはまず「産業社会=男性優位社会が女性に付与する『負』の価値を負のままに直視し、そこから逆に二極分化の抑圧の構造の醜さを照らし出した」とする。そしてさらに、「意識変革(コンシャスネス・レイジング)という方法を通じて、つくられた女らしさの自己意識を洗い出すことにより、それまでタブー視されていた性を含めた、丸ごとの女としての主体の確立を求めた」。第3に、「『女のスペース』を各地に開き、『魔女コンサート』を組織するなど『表現』と交流の場を自らの手でつくりだし、女の文化活動に新たな地平をひらいた」と定義した。3)
ウーマンリブの特徴を次の3つとしたい。すなわち男性の置かれた中核的な主流の位置から周辺に負として置かれた女性の位置を逆手にとって「女で何が悪い、男の方こそが諸悪の根源ではないか」と価値観をひっくりかえしてみせたこと、そして「女」というものを名づけられたものではなく自ら獲得するものとして主語で語り始め、セクシュアリティを含めて追求したこと、そしてその運動表現が、男性のスタイルと違ったユニークなものであったことの3つである。
1980年代、生活クラブ生協だけでなく、自然食の共同購入やお店、各地での原子力発電の反対運動や、石垣島の白保の海を守る運動や神奈川県逗子市の池子の弾薬庫跡地の米軍住宅建設反対運動などをはじめとする自然保護の運動が高まり、その中で女性たちが主体的に活動していた。
女性たちの運動は、戦後民主主義の大きな成果として、50年代に始まった原水爆禁止運動から母親大会へと平和運動消費者運動住民運動として力強く地道な運動として続いてきた。これは「女性たちの運動」ではあったが「女性運動(フェミニズム)」ではなかった。男性社会を問題視するのではなく、命を生みはぐくむ「女性性」の「発露」による、命を脅かすものへの「母として」の、あてがわれた女性役割からの抵抗であり、運動であり、今の状況に対して批判をもったものではなかった。4)しかし、80年代にはそれが、70年代リブの洗礼を受けて変わった(別の形のものが登場した)といえる。
 ことに1986年のチェルノブイリ原発事故は、世界中に大きなショックをもたらした。ソ連(当時)一国の原発事故が世界中に放射線汚染を波及させる恐怖を見せつけたのだ。「チェルノブイリは女たちを変えた」と言われるように、世界各地で運動と議論を巻き起こした。日本も例外ではない。四方原発の出力調整試験反対運動を始めとして反原発運動に立ち上がった女性たちは「ニューウェーブ」と呼ばれた。
 その運動のスタイルは、日本だけでなく、他国においても、これまでにないユニークなものであったが、それは80年代初めのヨーロッパを中心とした反核運動の中で現れてきていたものである。ヨーロッパ各地で、核兵器の配備予定地では平和キャンプが自発的に発生した。ことにグリーナムコモンの平和キャンプの女性たちは、「男たちは昔、戦争に行くために家庭を見捨てた。いまは女たちが平和を守って闘うために家庭を見捨てるときだと思う」 5)「ここにきた当初、女たちは自分のことを何も主張できずに押し黙っていた。ここにいるうちに少しずつ話し始め、自分の言葉で話せるようになった。ここでの女たちの成長ぶりは、驚くほどだった」「あたしは、女たちの持つやさしさやこまやかさが大好きだ。大地を削り、木を踏み倒す基地は暴力的で男社会そのものだ。そいつに対して、女は、自分たちの持つ優しさや細やかさと非暴力で闘っていくんだ」と語る6)。と、それはリブを通ったフェミニズムだった。そのスタイルもこれまでの男性主導の運動とは異なっていた。男性たちのリーダーシップを拒否して自分たちの生活や精神を丸抱えにした、さまざまな工夫を凝らした個性的なやり方であった。歌ったり手をつないだり、キャンプの鉄条網に自分たちの好きなものをくくりつけたり。現在国際法の中でも認められる非暴力直接行動である。また、当時の西ドイツの緑の党をはじめとして、環境問題や男女平等を掲げる政党も出現していた。7)
 日本の反原発運動の中でも、女性たちは「ゲンパツは男社会の終着駅」という言い方をした。また、「女たち自身が変わり、男たちの運動を変えていけるかどうかにかかっている。女たちこそが<非暴力直接行動>の担い手となって、どれだけ新しい運動の分野を作り出すことができるかである」と規定して、今までとまるっきり違う運動の様式を作り出した。機動隊の前にのり出して、歌を歌いながらピケをはり、とたんにくるりと後ろ向きになって、『ゲンパツなくてもエジャナイカ』の音頭でおどりだす・・・女たちはそれぞれの表現で編み出された運動の中でのびのびと自分を解放した8)。
「男、この暴力的なるもの!これこそが原発を生み出したのではないか、と思う。」9)

これらは核社会の生命や環境への脅威を、男性社会の暴力性のアナロジーとして捉えたリブを経たフェミニズムの表出であると思われる。エコロジー運動の中には70年代初頭に起こったウーマンリブが表現とともに確実に受け継がれていたといえるのではないか。
各地域で元気いっぱいに跳ねまわる女性達のこうした華々しい80年代後半の活動の広がりは、「新しい女性たちの社会運動」として取り上げられた。運動の中から運動者として政治を変えるため、女性議員たちも生まれた10)。
もちろんその中には、母親が多く含まれていた。チェルノブイリ事故以後母乳や牛乳が放射能汚染されてることが明らかになると母親の中にパニックを生んだ(かくいう私もチェルノブイリのとき8ヶ月の子どもを牛乳から遠ざけるのに奔走した)からだ。特に昼間動ける主婦たちは、活動を担っていった。
しだいに一部の反原発運動の論調――例えば「まだ、まにあうのなら」(甘庶珠恵子著 1987地湧社)に含まれるような「母性主義」の傾向11)や、また、放射線の影響によって障害児が生まれる恐怖をあおる言い方が、フェミニストや障害者の間に、論争を引き起こすようになる。12)

一方「活動専業主婦」と言う言葉が出たのは85年頃である。芝実生子氏の問題提起を受け、金井淑子氏はこの言葉に、これまでの主婦運動の枠を破った大胆な草の根からの社会参加・社会変革へ向けて家庭もちの女性たちが動き出したという時代の現象を感じとった。しかし、女性たちの運動を、新しい「主婦」の運動として特徴づけていったこと、はその意図と別に問題を矮小化させてしまった面があるとはいえないだろうか。

編集部「マスコミの取材なんかも、母親、主婦というとワッと来ますね。」
石塚友子「例えば集会に100人いて、そのうちお母さんというのが半分か60%だとしても、『お母さんたちが集まった』とマスコミがまとめる。どうしてなのかというところが問題ですよね。今の日本の中での女たちの地位がいまだにね、やっぱり母親としてというのが女の地位を代表しているというか、象徴しているというかね。女がやっているというより、お母さんがやっているとみんな安心するんでしょうね」13)

実際は次のような動きもあった。
水沢靖子「反原発の女の人のグループで、『原発に反対する母の会』というような名前のグループがね、実際にいろいろやってるうちに、『母親だけ』とか『母親だから』の会はおかしいんじゃないか(笑)、ということになって、『女たちの会』に名前を変えたという話を聞いたんですけどね。そういう動きがどんどん広がってきたら面白いなって思います。」

エコロジーの運動を「女がやっているというより、お母さんがやっているとみんな安心するんでしょうね」というのは重要な指摘だと思う。誰より安心したのは男性たちであろう14)。
こうして安心したがる心根の延長線上に80年代はポストモダンという言説の中で、それに悪乗りする男流言説家たちがいたのではないか。イリイチ言説はその悪乗りの最たるものであり、いっせいにフェミニストの集中砲火を浴びた15)。彼女たちが総力を挙げて批判したのは、エコロジーや脱近代の名のもとに性差を拡大し役割分業を反産業社会的なものとして全面肯定していく、日本の論調(主に男性たちによる)とそれに絡めとられてしまう女性たちにむけてであったと思われる。エコフェミ論争とは、実在したエコロジーフェミニズムに対してのものではなく16)、反近代が性差固定へとスリップする危うさを持った、日本的思想状況に対してのフェミニズム側の総反撃だったのではないかと思われてならない。そうしたものとして総括し直す必要があるのではないだろうか。
 そしてフェミニスト総力戦の観のあるイリイチ批判とともに、フェミニズム側がエコロジー運動への距離をとり始めた。
小倉千加子氏の発言に見られるように、夫との関係を見つめないでいいから環境問題をやる17)、といった明確にフェミニズムと一線を画する主婦たち、というイメージを、80年代出現してきたフェミニズムの論壇をつくる側は規定しはじめ、エコロジーフェミニズム運動を切り離す傾向を生んだ。小倉氏はさらに「フェミニズム以外の運動に関心はない」と述べ、女性解放運動をシングルイシュー化する傾向を強めた18)が、こうした傾向は、現場の運動的なものをフェミニズムと分離することによって、現場をフェミニズム化することから遠ざけたのではないか。逆に現場は、役割分業肯定派の主婦と男性たちに仲良く占有されてしまったように見える。フェミニズムの「分離主義」(シングルイシュー化)が、80年代初頭に現れたリブの継承としてのエコロジー運動、の内実を見えなくさせてしまい、やすやすと役割分業派に引き渡してしまったのではないかと私には思える。

金井淑子氏は、こうしたエコロジーを巡る地域の運動(その中にはもちろん生活クラブ生協運動も含む)の実態を従来の女性運動とは違う、が、またリブやフェミニズムとも異なるものを嗅ぎ取って、「生活(スタイル)のオルタナティブ」を、精力的に広げて女性の力を見せつけたけれども、その運動はリブが目指した「(性役割に拘束された)関係性のオルタナティブ」を避けている、と指摘する。

フェミニズムの運動という観点から言えば、母親運動や消費者運動というのは、性別役割分業というようなものをある意味で前提にした上で、関係性はそのままにしておく。だから、母親運動や消費者運動は、女性問題をということではないのであって、母親の立場において、子どもの問題や地域の問題を取り上げていくという運動であったわけです。
・・関係性のオルタナティブということは、自らの生活のしかた、生き方、つまり関係のとり方、自分自身の性自認や身体のあり方、といったことをトータルに自主管理できるような主体形成ということを含んでいるのです。もっと言えば自己権力の思想を培 う実践といってよいかもしれません。こういう視点を欠落させたままの生活オルタナティブというのは、先ほども言いましたような、悪く言えば、自分の生活を自分で守ることがエコ・ファシズムといわれるようなところまで反転してしまわないとも限らない、そういう危なっかしさをかんじざるを得ないのです。・・・・現在、地域で活動している女性たちを『地域活動専業主婦』というふうにネーミングして、労働自立論とは違った、女たちの自立の第三の道という位置付けをして・・・かなり思い入れや肩入れをしてきたのですが、地域活動専業主婦の問題意識もまだ生活オルタナティブな運動からその先へと、意識の壁を突き破れていないのではないか。自分のつれあいとの関係とか、自分の子どもとの関係を変えていきながらでなければ、本来やれないはずなんですが。
  しかし、そこはあまりシビアには問題にしないようです。そういう動き方というのはやはりおかしいのではないか。・・・」19)
    
 80年代に起こったエコフェミ論争については、残念だがここでは深く立ち入らず、別稿に譲りたいと思う。しかし、エコフェミ論争の一方の主体はどこにもいないという奇妙な状況に対して以下の清水和子氏の指摘(85年)は示唆に富む。
「・・・今、エコ・フェミを名乗る人々は、<神話的ジェンダー>のフィクションに逃げ込むことなどせず、自然―労働の豊かな社会的価値生産をはばみ、商品価値一元化の制度の中で、蝕まれてゆく生活の屈折した叫びを、体制に投じかけるべきなのです。産業主義近代批判という以上、女性をフルタイム、パートに分断し、前者の人々からは、家庭人としての時間を、後者からは人並みの生活を成立させる自立力を奪いつつ成立している、日本の資本主義構造の欺瞞性を撃つところまでゆきつくのがほんとうでしょう。エコ・フェミも全体性を獲得しようとするなら、下部構造へのしんけんな批判を深めてゆくことだと思います。」20)

実際の欧米の運動の中で理論化されたエコ・フェミニズムは、当時こうした問題意識を共有していた21)。当時日本で訳出されていなかった不運を思う。22)
ドイツ語圏のエコフェミニスト、マリア・ミースやヴェールホフらは、世界システムの中で女性が置かれた位置を分析し、正規労働が溶解していることを、継続的蓄積論で説明し(「主婦化」という概念を使う)、また、その世界システムへ対抗策として「サブシステンス」(生存維持)というイリイチも使っていた概念を、ジェンダーの固定化に掬い取られることなく理論化している23)。しかし、清水氏が指摘するような、下部構造の問題、環境の問題、そしてさらに関係性の問題がひとつながりになっていなかった状況が、日本の80年代であった。                       
かろうじて金井淑子氏が、フェミニズムのめざす政治の課題を「関係性のオルタナティブ」「生活のオルタナティブ」「経済のオルタナティブ」(フェミニズムエコロジー、ポスト・マルクス主義)の三立をめざすものとして大きくくくった形で同様のことを提起した。24)が、それは90年代まで待たねばならなかった。
またその後も残念ながら日本のエコフェミニズム(あるかどうかも怪しいが)の中では、こうした生産的な理論構築が個々にはあるものの統合的にされないまま、エコロジー運動と結合せず、今に至っているという感が大きい。

エコロジー運動が、「生産男と家事女」のカップルで語られる産業社会の結果を引き受けたに過ぎず、それを解体するのではなく、むしろ「主婦モデル」を固定化する方向へ水路づける危険性を独自に持っていたことは確かである。しかし、実態は、エコロジー運動の中のイデオロギー以上に、当時の社会の時代状況の強固な誘導イデオロギーがあったことを次に立証したいと思う。
 「主婦モデル」が適応と変化を経ながらどう強化されてきたかを清水氏の言う0「下部構造への真剣な批判」としてみていきたいと思う。「女(=主婦)の時代」は兼業主婦モデルの開花期でもあったのだから。久場嬉子氏は、のちにこうした女性たちのことをその構造から“被扶養主婦市民”と呼んだ。

2)主婦モデルとは何か―専業主婦モデルから兼業主婦モデルへ 
戦後初の婦選運動念願の第1回の普通選挙の女性立候補者数・当選者数は、その後50年を経てもその記録を塗り替えることはなかった。男女同権の第1期フェミニズムは実際は実現してなかった。男女平等は、役割分業(主婦モデルの普及)の中で空洞化させられたのだ。いや、それは女性が自ら選んだ道であり、主婦という生き方が女性に合った洋服だったから、こういう現状になっているのだという人があるだろうか。
女性たちは専業主婦を選んだのだろうか。そういえるためには主婦と同じだけ他の選択肢があって初めて選んだといえるが、実際そういうことが実現していたことはこれまであったのだろうか。
そうでない選択=仕事をしつづけるという選択が多くの女性にとってはないに同然であったからではないだろうか。

かつて職場には、当然のように若年定年制や結婚退職制度があり、85年の均等法までそれらを禁じる法律はなかった。
1977年調査では 性差別定年、結婚・妊娠・出産退職制度のあるのは18600企業もあった。1)
1953年 東宝映画 女性のみ25歳定年制
1964年 地方公務員の女子若年定年制は36県1114市町村
1966年 住友セメント結婚退職制違憲判決     
1979年 日産自動車女性定年5才差違憲判決
多くの若年定年制を闘う裁判が行われて80年代にはようやく差別的な定年制がなくなった。それまで学校を出て就職した女性は、25歳や30歳で自動的にやめなければならない状況にあったのである。79年になっても女性の定年の格差がありつづけた。
たとい定年差別がなくとも働きつづけることは簡単ではない。
先日勝利解決を見た芝信用金庫の昇格差別裁判で原告女性は、「人事異動のときが一番いや。年下の男性がどんどん上がる。私に仕事を教えられた人があがり教えた私は置いてきぼり。今度は私が彼から命令される側になる」と語る。提訴してから10年以上かかっての解決であった。
2002年12月16日に大阪高裁で和解が成立した住友生命のミセス差別裁判では、育児時間取得中に自分の机が壁に向かって置かれ、1日の仕事は10分ほどで終わるコピー取りだけ、の仕事差別が6年続いたという。妊娠中に階段を上り下りさせる仕事をわざとさせる、また既婚女性は、最低の査定をつけられ、同期同学歴の未婚の女性は61人中50人が役付なのに、既婚女性は32人中改姓をしていない2人だけなど、の差別がずっと続いていた。
これらの裁判事例は全く特殊な事例だろうか。
住友電工での男女別採用・性別役割分業に基づく労務管理を違法としての提訴は2000年大阪地裁において全面敗訴になった。1966年(昭和41年)当時高卒男子は「全社採用」であったのに女子は全て「事業所採用」とされ、その後の扱いも女子には昇進機会が与えられないなど異なった待遇であったことを違法とする訴えに対して、「昭和40年代(1965年から1974年)ころは、未だ、男子は経済的に家庭を支え、女子は結婚して家庭に入り、家事育児に専念するという役割分業意識が強かったこと、女性が企業雇用されて労働に従事する場合でも、働くのは結婚または出産までと考えて短期間で退職する傾向があったこと、このような役割分担意識や女子の勤続年数の短さなど、さらには女子に深夜労働などの制限があることや出産に伴う休暇の可能性」ことを根拠に、当時の男女別採用は違法ではない、とした。とりあえず昭和40年代には、社会全体がそうであったことを裁判所は根拠として認めている。女性が“選んだ”から社会慣行がそうであったのか、会社や社会がそれを当然とした構造をつくっていたから女性は他の選択ができなかったのか――。

以下男性の賃金を100%とした場合の女性の賃金の比率である。2)
1909年(明治42年)53.2%
1923年(大正12年)44.5%
1926年(昭和元年)46.9%
1934年(昭和9年)32.3%
1944年(昭和19年)40.3%
労働省賃金調査課「男女賃金格差の一検討」『労働統計調査月報』7巻4号。1955年)
1950年(昭和25年)46.5%
1960年(昭和35年)42.8%
1978年(昭和53年)56.2%)
とずっと6割以下という時代が明治以来長く続いてきた。また、勤続年数が延びるほど男女の賃金の格差が露骨になった。
1992年に訴えを起こし2000年に和解した日立製作所武蔵工場では、9人の勤続25年から31年の女性労働者たちの年収は男性と120万から310万も差がついていた。
1994年に提訴した昭和シェル石油を定年退職した野崎光枝さんは、1950年に20歳で入社し、60才定年時の賃金は20代男性と同じだった。現在年金を受給しているがそこにも賃金格差は反映され、差別は定年のあとも続いている。3)
こうした状況下で働き続ける意志をどれだけ多くの女性がもてるであろうか。(しかも男性の家事労働時間は、妻が働いていようがいまいが世界的に見ても低い。)
大沢真理氏は日本の性別賃金格差がいわゆる「先進主要国」の中で、最大級であることのは日本の労使で作った年齢別生活費保障型賃金が、「妻子を養う」男性の生活費に見合う賃金が設定され、女性は決してそのカーブに乗ることはないからであると論証している4)。
一人で家族分もらえる男性に比べ、女性は年齢が高くなるほど格差が開き上昇が減っていく。労働者といえば男性を指し、大黒柱としてのしくみ=ブレッドウィナ―モデルの中で、女性は常に扶養され再生産労働に従事するものと位置付けられ、女性労働者は周辺化された存在である。これが「主婦モデル」である。

しかし、「終身」雇用制とも呼ばれた男性の長期継続的雇用も年功賃金も、高度成長あってこその制度だった。日本的雇用システムは、高度成長の神話が崩れたときに危機を迎える。1973年の石油危機は、日本型雇用制度にとっての根源的試練だった。
経済成長の躓きとして2度にわたる石油ショックを迎えた70年代、日本は世界の中で巧みに舵を切った。つまり減量経営とコスト削減、ME(マイクロエレクトロニクス)情報技術を経済活動のあらゆる分野に導入し自動化・効率化を進めながら設備投資を軽薄短小化し、製品市場と投資行動に競争原理をより強化する方向に向かうことになった。つまりよりコスト削減を進め、雇用を流動化することでのりきろうとした。その一つの大きな方策が、従来の「主婦モデル」を「専業主婦モデル」から「兼業主婦モデル」へと移行させたことである。主婦の家計補助的な「パート」という雇用機会が拡大され、パートの労働力が、生産のフレキシビリティのための大切な要素となったのだ。時代はもうすでに「専業主婦モデル」に基づく家族賃金を押し上げるだけの高度経済成長を許さない状況を迎えたのだ5)。
 しかし、このモデルの移行は、樋口恵子氏が「新・性別役割分業」と呼ぶように、これまでの主婦モデルの枠を壊しはしなかった。いままで、再生産労働(家庭内労働)の中で男性労働者を支え、働く女性への過酷さの構造を支えてきた主婦は、今度は労働の場で、低賃金で働くことによって、生活を背負う女性たちの労働条件の沈め石になった。減量経営による男性の賃金抑制を下支えするべく、家庭内においてはあくまで家計補助的な副次的収入源であり、職場構造的には、正規労働の周辺としてその労働は常に不安定で、臨時的なものであった。
また、社会保障においても79年自由民主党「日本型福祉社会」では「家庭基盤の充実と企業の安定と成長、ひいては経済の安定と成長を維持することである」と打ち出された。実際導入されたのは雇用者の扶養家族である妻は、保険料を直接徴収されない「三号被保険者」になれることになった。そしてその年金の収入源は、夫ではなく全体からまかなわれるので、専業主婦を養う男性から差別されている女性労働者は彼の妻の分の年金まで負担している構造になっている。また配偶者特別控除も導入され、パートの拡大を促進した6)。
こうして兼業主婦優遇策が強化された。男性型の電算型生活給、つまり家族賃金制度も、年金制度も税制度も、家計補助的に働く兼業主婦には有利に、正規労働者として働きつづける女性には不利になっている。

専業主婦モデルが崩れたにもかかわらず、男女の格差が実際縮まらない。それは80年代の女の時代になっても基本的には変わらなかった。

  85年、男女雇用均等法は、女性差別撤廃条約に批准するため、という国際的な外圧により鳴り物入りで制定された。
しかし現実は、女性が働くのに厳しい状況を増したとさえいえる。均等法が導入されるや、一般職と総合職のコース別人事制度が適用され、骨抜きになった。
 野村證券では、87年コース別が導入され、これまで男性に適用してきた賃金表と女性の賃金表を名前だけ総合職・一般職と変えたと言う。そして男性が全員総合職女性は全員一般職に配置されたという。また総合職に配属された女性たちも、専業主婦がいてこそ成り立つ男性と同じ過酷な労働条件の中で、短い勤続年数で辞めていった人も多かった。
男女雇用均等法制定時にはたくさんの女性たちがこの均等法の反対に集まった。全国から大変な盛り上がりを見せ、徹夜の審議や国会膨張に連日女性たちがおしよせた。男性並に働かせようとする均等法には反対、男性も女性と同じにゆったりと働ける労働条件こそがほしい。一部のエリート女性だけが過労死する権利を得られるという均等法には日本の女性運動は反対だったのである。しかし、女性差別撤廃条約に批准するための外圧で、政府は罰則規定のない、保護を減少させる均等法を通したのだった(その後改正)。その敗北感はことのほか大きく、その後に次々とせまる法案にも、コース別人事制度というすり替えにも何も対処できなかったのが実態である7)。均等法と同時に労働者派遣法も施行され、92年にはいわゆるパート労働法が制定され、女性差別撤廃条約や均等法の理念と裏腹に、女性を男性と同じ正規労働者として使うのではなく、一握りの正規労働者と、膨大な非正規労働者へと二極分解させる異なる雇用形態の拡大への道筋が作られた。 
以下は「女の時代」とよばれた80年代の日本での男女賃金格差の国際比較である。

     フランス 西ドイツ オーストラリア   日本   デンマーク オランダ 
1980年 79.2%   72.4%     86.0%   53.8%   84.5%    78.2%
1988年 81.8%   73.6%     87.9%   50.7%   82.1%    76.8%
ILO 世界労働報告 1992年)

「専業主婦モデル」が崩れ、均等法が制定されても、男女の格差が実際縮まっていない。「主婦の扶養」を理由に、この男性のみを基準とした家族賃金は「生活給」として正当化され男女格差は縮まらない。昭和シェル石油では、男性は年功で上昇するのに女性は、どんなに技能習得につとめても、40年間ほとんど変わらなかった。会社側は女性であるからではなく、職能給制度での結果であるという。裁判では、「女性には能力がないということですか」との中野麻美弁護士の追及に対しそうだと証言したという。均等法で性を理由にした差別が禁止されると、以来増えたのは、一般職だから、派遣だから、パートだから、能力がないからという女性であることを理由とした直接差別ではない形の間接差別である。他の理由をつけても結果が特定のカテゴリーの人たち―例えば女性、外国人、被差別部落の人たちなど―への差別になっている場合それを間接差別という。
結婚しようがしまいが、女性の賃金は低く、女性が主婦になればその分扶養責任を負う男性の賃金は上がるシステムである。つまり一人でふたり分働くのが労働者の基準であるから、女性がどんなに頑張っても無理なのである(ましてや家事育児の二重労働でどうやって男性並みに働けるであろうか)。主婦モデルシステムはどうしても男女平等の賃金にはならない。せめて主婦になって夫の24時間就労体制を支えない、家族賃金をささえないことが、男女平等の賃金のために必要であろう。「主婦である」ということは、こうした差別賃金を許す側にいるということでもある。
そしてまたもう一方のコスト削減策として、企業の中では従業員への締め付けが非常な強さを持って労働者を縛り付け始めたのである8)。東芝府中工場で原発反対のビラを撒いて村八分にあい、神経症になり提訴する、上野仁裁判にみるように、企業は従業員の信条や言論の自由も奪うほどにハードな管理が進む。80年八王子の沖電気を解雇になって以来今も門前で歌いつづける田中哲朗氏が叙述するように9)、ビラをとることもできないような雰囲気が職場内にできていく。
家族賃金をもらう男性自身が果たしていい目を見ているかは大変におぼつかない。『人としての良心』までを封殺して、「奉公」しなければならない男性も抑圧の中にある。
こうしたいびつな、日本の企業風土は、厳しい時期からバブルを経ても、基本的に変わらず、会社中心主義を支え、個人の良心を摩滅させることによって、企業体自身を腐蝕させ、昨今の不祥事を起こしているように思われてならない。

 「女」の時代ともてはやされた80年代は実は働く女性たちにとっても、また男性にとっても過酷な状況を作り上げた時代でもあった。家事育児の全面負担の二重労働と職場の性差別の両方に打ちひしがれる働く女性達、企業に搾り取られて疲弊する男性たちをしりめに、(正規)雇用労働の中のしんどさから逃れられている主婦達の運動はあだ花のように咲き乱れたのだ。10)
それは労働現場の過酷さをむしろ促進したとも言えるのではなかろうか。疲れ果てた男性の再生産労働要因として、企業戦士の銃後を守って見送ったのである。そうやって働ける主婦付男性が職場の基準になって、「総合職」の女性はシバ漬けのCMのように、くたくたになって体を壊していったのだ。まさに女性にも過労死する選択権が開かれたのである。
扶養される主婦たちの年金を働く女性たちまでもが負担するこの均等法と同年の85年に成立した第3号被保険者のしくみは、全く“均等法時代”の新しい「主婦モデル」の構造として象徴的である。
90年代ようやくパートの均等待遇をうたう運動が広がっていく。日本のパートは勤務時間が長いのが特徴であると竹中氏11)は述べるが、(フルタイム・パートという言語矛盾の言い方が通用している)本来フルタイムで働くべき女性たちの仕事をパートとして引き下げている切実な問題と、現実的には、その多くは、主婦モデルを基礎にした生活賃金の低成長時代の適応への補完なのだ。ゆえに本人たちの労働者性が薄い。もちろんラジカルで地道なパート運動は続いている12)が当該の活動家が本当に少ないのが、関わってきた実感である。家庭責任が妻一人に負わされ、労働組合がパートの組織化に冷淡なのがそうした傾向を生んでいるのであろうとおもわれる。
労働省の諮問を受けた「女子パートタイム労働対策に関する研究会」の座長でもあった高梨氏は調査からパートを以下のように描く13)。
「今日、パート、アルバイト、派遣社員等で働きたいという女性の増加は、生活窮乏化や貧乏を理由とするのではなく、『豊かな社会』に到達した経済社会で、労働を通じて生き甲斐を追求する、女性の社会参加運動という側面を強くもっているといえる。」

日本型パートは労働への女性の参画と言うよりも、主婦的状況のガス抜きの側面の方が強いのではないだろうか。以下の金井氏の指摘とも対応する。

「この点で、アメリカのウーマン・リブ運動を登場させた『専業主婦のアイデンティティ・クライシス』は、日本では運動化し政治過程を作ることにはなっていません。女性の側の主体的覚醒よりも、女性を再労働化し、社会化する外側からの力の方が先行し、女性の中で主婦規範への疑問や揺らぎがたとえ生じても、パートや社会参加、カルチャー講座といった、外側から用意されたさまざまな場面がそのエネルギーを吸収していったと見ることができます。『主婦である』ことと批判的に向き合うことが、女性自身の中で主体的になされていない日本の女性運動の、『主婦フェミニズム』と批判される所以も、一つにはここに起因するといってよいでしょう。」14)

90年代にはいっていよいよ日本は経済停滞期に入る。世界はグローバリゼーションを迎える。80年代から進められた新自由主義的な経済手法は、90年にはいって、バブルと経済危機を短いサイクルで繰り返しながら、巨大な富が金融によって蓄積される。こうした経済のグローバル化の中で国際競争が激化し、雇用はますます流動化する。
94年日経連は「新・日本的経営」を打ち出した。その中で、雇用システムを、長期蓄積能力活用型、高度専門能力活用型、雇用柔軟型の3グループに複線化するとした。一握りのエリート正規雇用ジェネラリストとスペシャリストを残して、多くを雇用柔軟型(非正規雇用型)にしていこうという路線である。こうしてパート問題は女性だけの問題ではなくなり、パートがこれから男性や正規雇用労働者にまで蚕食して一般化していく方向が定められ、今現在も進行中である。ミースたちのいう「主婦化」の状況は、性別を問わず進行していく。パート化した既婚女性と、フリーター化した若者、そしてブレッドウィナ―(大黒柱)たる男性労働者の失業と、正規雇用の減少が日常化して、目の前に総パート(不安定雇用)時代が見えてきている。「兼業主婦モデル」は「全員主婦モデル」に、そして2000年代は“被扶養主婦市民”の扶養の主体が喪失して、既婚女性のみならずみんなが“活動専業主婦(夫)”にならざるをえない事態を迎えるつつあるのかもしれない。

3)兼業主婦モデルへの適合としてのワーカーズ・コレクティブ
「この産業社会は“男”がシンボルであり、それに対するオルタナティブの場は“地域社会”、そのシンボルは“女”である」という80年代のジェンダー化の中で、横田氏は時代が「専業主婦モデル」から「兼業主婦モデル」へと転換したことを直感的に把握して以下のように述べ、新たな運動への主婦「調達」手法を生み出す。

生活クラブ生協が、生活クラブ生協とは別の組織体であるワーカーズ・コレクティブを生み出そうとした背景には、一つには、主婦の社会参加への関心が増大し、また、夫の給与が伸び悩んでいく中で、資本がこれを主婦のパート労働として、次々に吸収していったこと、第二には、行政改革の中で福祉切り捨てが進行し、この間隙をぬって、資本による生活技術・文化を一つひとつはぎとるサービス産業化が急速に進行しつつあったこと、第三には、生活クラブ生協の有償、無償の労働をめぐって“働く”ということについての論議が繰り返され、組合員の経済的自立への憧憬は大きいにもかかわらず、生活協同組合は直接的にはその手段とはなりにくい――などの状況があった」2)

 1982年、生活クラブ生協神奈川において日本ではじめてのワーカーズ・コレクティブにんじんが設立された。(もちろん生産者協同組合としては、長い前史もあるし多様な形態がある3)。しかしここでは、主に主婦たちを担い手にした生協運動と関連した起業をワーカーズ・コレクティブと狭く定義して進めたい。)
実は、にんじんの設立時は中小企業協同組合法の中にあった「企業組合」の法人認可をしようとしていたのに、その一週間前になって認可が下りなくて「企業組合」の名前が使えなくなり、急遽当時アメリカの西海岸で盛んになっていたワーカーズ・コレクティブと名づけることになった、と初代のにんじんの理事長宇津木朋子氏はこの名前の由来を語っている。4)
 人を二つ書いてにんじんと読む日本で最初のワーカーズ・コレクティブにんじんはその設立趣意書において「働くことの復権」を誇り高く掲げた。
「今、私たちが住み、暮らす社会は科学・技術の進歩と生産的労働によって物質的には飛躍的な発展を遂げています。しかし、その過程にあって分業と管理システムによる労働ロボット化が進行し、働くことの目的を見失わせています。産業化社会における雇用・被雇用の賃金労働は自己を物象化するだけでなく、労働の主体を曖昧にし、賃金労働以外の働くことの価値を歪曲化し、労働の差別化を促し、かつ固定化するに及んでいます。」
と現在の産業社会を批判し、
「働くことの実現は新しい自己の発見であり、他者を促し自己を革新し、活動空間を広げ、すむ人の英知で生活を豊富化し、自ずと充実した人生を演出しあう人々が、自由に群れ集う姿をイメージとします。」5)
とめざすべき姿を描き出している。
にんじんは先にあげたデポーという新しい事業形態の店舗業務をになう「主婦」の働き方として、登場した。また同時にセンター業務(注文の集計・ピッキング)等単純労働もワーカーズ・コレクティブの業務として委託された。実際は周辺労働的な業務委託ではあったので、理念の壮大さに比べ実態は少々不釣合いなものだったのではないかとも思えるが、先に引用した高梨氏の描くパート像とはぴったりと重なる(第1章2 2))。
 ワーカーズ・コレクティブの言葉は偶然の採用ではあるが、87年にはアメリカへの視察に行き、アメリカでのワーカーズ・コレクティブの状況の生き生きしたありさまを持ち帰ってくる6)。その後企業組合の法人格を取れるようにはなったのだが、むしろワーカーズ・コレクティブの名前の方を、アメリカ西海岸のカウンターカルチャーオルタナティブとしてのイメージをも含めて新しい女性たちの働き方のモデルとして積極的に使用し、定着させた。
 ワーカーズ・コレクティブは、アンペイド・ワークに良くも悪くもささえられてきた班システムの多様化をめぐって、専業主婦の減少への両面作戦ともいえるべき対応であった。一方では、有職主婦希望者の求職先として労働の場と言う新しい切り口を作り、他方有職主婦への便宜を狙って、新しい生活クラブ生協共同購入の方式を広げる間口を作ったのだ。
 最初は委託業務で始まるのだが、そのころの主婦の起業ブームともあいまって、独立した事業体としてもいくつか出発した。その手始めに各センターにポポロという食堂が作られた。また、85年に本部としてオルタナティブ生活館が建設されるのだが、その中でいくつも事業をになうワーカーズ・コレクティブを立ち上げる(第2章1.3)参照)。また、地域の福祉作りでグループたすけあいを横浜に作るのを皮切りに各地で助け合いワーカーズ・コレクティブを作り始める。(第2章1.4)これは当初からワーカーズ・コレクティブと位置付けてなかったため、のちにワーカーズ・コレクティブとして発展するものとそうでないものと分化する)
こうしてワーカーズ・コレクティブは90年代には業務委託型と、福祉型と事業型の3種類に分類できるようになる。
それぞれ形態やシステムがかなり異なっている。業務委託については、生活クラブ生協側の変化によって対応が変わる。現在にんじんはなく、お弁当やさんが「ミズ・キャロット」として名前の名残を残しているのと、デポーは各デポーで好きな名前を付けてワークシステムで運営するようになっている。また、90年ごろ、編集や、印刷などをはじめ、翻訳や、ビデオ編集など生活クラブ生協の周辺的業種において新しい仕事起こしとして生活クラブ生協の音頭で事業化し始める。その後基幹業務でのワーカーズ・コレクティブ化が進み、生活クラブ生協のセンターの配達と業務が、配達のキャリー、事務局業務のjam、に代替されるようになり、ある種のアウトソーシングが進んだ。
当時の3分類のワーカーズ・コレクティブのどれもが大きな限界を持っていた。
つまり1つめの業務委託型では生活クラブ生協の業務を代替するタイプで、ほぼ世間のパートの時給を元に委託料が換算された。いわゆるパート的労働になりがちであった(世間的パート以下の労働条件の場合も散見された)。2つめの事業型では、レストランやリサイクルショップや教室、編集プロダクションなどの独立した事業であるが、これも営業や経営力が足らずに、多くは主婦の趣味、のような状況になりがちであった。3つめの福祉型たすけあい系の福祉ワーカーズ・コレクティブは有償(あるいは無償)ボランティアに他ならなかった。
 
  「人間のトータルな生き方で言えば、一人の個人の生き方の中で、男も女も、家事も仕事も地域の社会活動も位置づけられていくことが望ましいのであって、地域活動専業主婦の存在も、その意味であくまでも一つの過渡期のありようとして位置づけておく必要はあるであろう。とくにそれは、今は、地域での女性のボランティア的エネルギーを福祉や介護の地域活力に誘導する動きが活発化している折、それらの動きは、再生産の社会化という問題を、シャドーワーク労働にパートより劣悪な条件でペイすることによって有償化し、結局のところ日本型在宅福祉・安上り福祉の肩代わりを女性に分業させる、福祉政策を通しての“新性別役割分業”の再生産に組していきそうな気配が大いに気になるところである。」7)

金井氏の懸念は全くもっともな状況であった。


4)社縁社会から総撤退論の検証 
 こうした中で、銃後史研究家加納実紀代氏が、「社縁社会から総撤退を!」という提起を行い、(新地平1985年11月号)議論を呼んだ。1)
 つまり、男性並みに企業に尽くしてのキャリア・ウーマンになることはもちろん、パートで低賃金で単純労働をすることも、女性が生きやすくなることではない。むしろそこからみんなで引き上げて、女性をうまく利用している、今の社会を困らせる方が効果がある。そして女性は家庭に入るのではなく、ほんとうの使用価値を求めて、有用な生産を地域で紡ぎだそう、という提案だったのである。その中には生活クラブ生協のワーカーズ・コレクティブの始まったばかりの実践も例として含まれていた。
この提起は現場から遊離し始めたように見えるフェミニズム業界と、少しも前進のない労働現場での女性の惨状と、それとうってかわって元気な地域の主婦たちの状況が反映していたと思われる。賃労働の場からの女性の撤退を呼びかける文章は、載った媒体のせいもあるかもしれないが、多くの批判が寄せられた。2)加納氏への反論は、なぜ女性が撤退なのか、シングルの女性との分断ではないか、役割分業の肯定である、など、むしろ女性の闘う課題は「性別役割分業解体」と「労働の場での闘い」の二重戦略を提起し、ことごとく、撤退せずに踏みとどまる路線であって、彼女の呼びかけに賛意を示し応えたものはほ                                   んどなかった。
一部に家庭擁護論主婦賛美論だと誤解を生んだが3)、加納氏は、70年代を通じて自分がパートとして関わった労働現場でのさまざまの体験をもとに、労働の持つ意味の思索を重ね、どうしたら女性が今の状況から「自律」できるのかの方策を考えつづけた4)。
私は加納氏に認識論としてはほぼ賛成だったが、当時のワーカーズ・コレクティブは、経済的自立など望むべくもなく、前述したような現状で、とても選択に値すると思えなかった。生活クラブ生協でそうであるように、新役割分業モデルを破壊するより、むしろ維持することに回るという意味では、銃後を支えるのと変わらないと思えた。
生活クラブ生協に子持ち女として働いていていた私には、女性が撤退することは、さらに社縁社会を男性的な効率社会にしていく道を作るとしか思えなかった。子持ち女の働き方をむしろ社縁社会の標準にすることで社縁社会自身を変えることが男性も変えることだと思っていた。女だからこそ、原発を作る会社で反原発を言える自由を確保できるように、労働者が市民になるために闘わなければと思った。労働を非人間的なまま夫や他の人に押し付けて全日制市民なんて、間違っている。
私の中には、「武器から社会的有用生産へ」の運動を展開したイギリス ルーカス・エアロベース社の自主管理生産が、労働運動のビジョンとして鮮明にあった。そういう形で生産点への参加を切望していた私が、その途上で予定外に子持ちになったときに、母であることを受け入れながらその思いを遂げるには、妻子を養う男にはできないこと、子持ち女だからこそできること、が、社縁社会を変えるために、あるのではないか、それ以外にない、と思って自分の場所を定めたのだ。

「ワーキング・マザーが子どもの人権を最大限尊重しながら働き続けるには、社会の方が変わってくれなければならない。そしてそれは、母親のみならず、他の女性労働者、ひいては競争原理の中で自分を仕事に埋没させている男の労働者にとって、“生きやすい状況”をつくることになる、と私は信じる。
子どもができたんだから、仕事はやめて、生協活動をやりながら子育て楽しんで、手が離れたら地域でワーカーズ・コレクティブをつくって自分の条件に合わせて仕事をはじめたっていいじゃない、という生き方に対して、フルタイムの労働者を選ぶことで、あえて“ノー”をいった私は、この選択からしかできない社会変革を自分の課題にしたつもりなのである。」5)

また、横田氏の提案した生活クラブ生協型「M字型雇用」について
「そもそも出産を機に男女とも退職、なんて時代の逆行である。子どもを持った人間を家庭や地域に追い出したら、職場はどんどん効率主義になっていく(職能給導入のための答申としては、そういう意味でふさわしいのかもしれないが)。ここでいう『地域協同社会』とは、三つのカード(労働・地域・家庭)を時に応じて都合よく切り分けて、効率よく世渡りすることではなく、この3つを常に一人の人間の中に混在させ、ぶざまにぶつかりながら社会を丸くしていくことから生まれるのが本当ではないかと思うのである。」
と批判した。
経済的自立はしっかり手に入れつつ、効率主義、能力主義に荷担しないように、生産性の足を引っ張って、居直ることで変えようという不良在庫戦略だった。
そして子持ち女の社縁社会参入のための以下の方針を出す。
?家庭内の性別役割分担を崩すきっかけを作る
?働きすぎの日本の労働状況を変える原動力とする
?職場の共同性を高める契機になる
?母親の目で仕事を組み替える

そのために社縁社会から踏みとどまるべきとした。その私の論文に対しての言及は私の知る限り2例である。6)

「協同組合とフェミニズムとの間にある問題には、次の三つの側面がある。ひとつには、運動主体の組合員女性の『主婦意識』の問題、第2としては、職員と組合員、職員と組織理事の家計における男性主導や組織原理上の問題、さらに第3には、この中で働く女性職員の女性労働者という立場での職場問題。どの問題のレベルをとっても、『運動体』であるがゆえに、『寝た子を起こすな』的にタブー視されてきた問題である。しかし環境生協(引用者:間違いだと思われる)や福祉生協さらにワーカーズといった形で多様化を遂げ政治の場に代理人を送り出すNET運動の母体にまで発展している『生活クラブ生協』が、タブーをタブーのままにしておくことはできるはずがない。その意味で、協同組合運動の中での『主婦論争』の再燃、あえて『寝た子を起こす』取り組みが必要であろう。さらに『ワーキング・マザー』として中で働く女性職員が抱える問題、これは特に経済合理性の追求とは違う理念をひきずるがゆえに問題化しづらい性格のものであったが、あえて矛盾を問題化し、運動の中にそれを位置づけていく必要がある。後者の問題については、榊原裕美『ワーキング・マザーから見た生活クラブ生協』(出典略)7)に、運動体と労働者、とりわけ働く母親にとっての職場としての矛盾をフェミニズムの視点で洗い出した鋭い問題提起がなされている。その意味で協同組合運動は女性にとっては、この『協同組合運動のフェミニズム問題』とも言うべき問題とどこまでかっちり向き合うことができるかに、「主婦の生協」からの脱皮と、新しい経済社会システムへのオルタナティブ運動たりうるかの否かの、分かれ道がかかっている。」8)

  「また、ワーキング・マザーの専従職員は、女性職員が仕事を続ける体制が整っていないことを次のように指摘している。『かつて職員研修のとき、子どもを実家に預けずにつれていって、助け合いのワーカーズ・コレクティブの人に頼んで、みてもらったことがあった。部屋は用意してもらったものの、1日5000円以上かかる保育料の申し出には、冷たいノー。2日で1万円の負担に耐えられず1日で帰ってしまったけれど、そんな交渉の後ろの研修室では、学者がワーカーズ・コレクティブで地域に保育の助け合いのしくみをつくり利用することの重要性を力説していた。そこで働く女にとっては、皮肉でしかないことに気づいいて欲しい』9)女性職員が男性職員と同じようにフルタイムで働きつづけることは、たとえば課長といった役職に女性が男性と同様に就くための前提であるが、そのためには、乳幼児を抱えた職員が生活クラブ生協を離職しないで働きつづけられる体制作りが不可欠であろう。」10)

この最後の部分はあまり的を得ていない指摘であった。と言うのも、子育て後にM字型で生活クラブ生協に「再就職」した女性職員の中には多く出世して、課長はもちろん部長や専務にもなっていたのだ。生活クラブ生協自身がまだ20年くらいの短い社歴しかなく、また子育て中に生活クラブ生協の熱心な活動家組合員であったことは、キャリアにプラスされるからであった。反対に子どもを持ちながら育児時短をして働きつづけた女性はほとんど出世しなかった。それは最初から半人前の烙印を押されてしまうからではないかと思う。出世のための戦略というより労働の権限の拡大という意味で、この問題は結局女性の勤続年数を長くする問題と大きく関わることになる。
さて私の作戦はうまくいったであろうか。90年代は比較的うまく行って、その中間報告とも言うべき報告「生きること働くこと暮らすこと」を書いている。11)
また、女のユニオンかながわの講座で呼んで議論した加納氏も、総撤退論から総参入論12)を唱えてくれた。

簡単にどんなことをしたのかを挙げてみよう。
? 家庭内の性別役割分担を崩すきっかけを作る。
夫への家事育児分担。夫の勤務時間が9時5時ではないので、送り迎えをさせた。私がユニオンの会議で遅いときは(仕事で遅いことは起こりえない)、早く帰らせて食事を作らせた。たまに本人に職場の会議が入って出席できずに不義理をすることもあったらしい。女にはしょっちゅうあることだから、当然と思った。それで降格になってもやむをえない。女には普通のことだ。それでも夫のいるときしか外に出られなかった。だから責任者になって自分の都合で日程を入れられる立場にないと活動できなかった。夫は自分が子どもの犠牲になるのは厭わないが、私が子どもを犠牲にするのは許さなかったので夫のいないとき妹に頼んで遅く帰ってきて(これは仕事がらみ)殴られたことがある。家事をしぶしぶやる生活クラブ生協嫌いの夫に半分しか家事をしないことを決めてる私が、消費材を使って自然食でやれとは要望できなかったし。独身のときの方がエコロジストだった。結局夫との関係において家父長制は全然崩れなかったと思う。
? 働きすぎの日本の労働状況を変える原動力とする
今の主婦付き男を標準にした職場で「子どもも仕事も」は、超人的スーパーウーマンしかできない。普通の女が体を壊さずに両立するためには、なんとしても労働時間の短縮しかありえない。結局女性がとることになる育児休暇じゃ、性別役割分業をつくるだけだと思って、男女ともの育児時間短縮制度は、労働組合の結成時からの要求だった。規定労働時間の2時間の短縮が、子どもが小学校に上がるまで可能になった。しかもその働いてない時間が1時間の場合は9割、2時間の場合は8割、支給されるので、賃金カットは2万円弱であった。(それ以外の違いは社会保障等にも全くなし。私は育児時短中にチーフに昇進した)
? 職場の共同性を高める契機になる
こうしたことを、一人でやるには、出世するかうまく策略する以外は無理だが、普通の労働者が誰でもできるために88年第2子産休明けに労働組合を作った。春闘の時にバッジをつけたが、この行動は自分にとって新鮮だった。賃金は恩恵ではなく自分たちで勝ち取るものだと自覚できた。ただ結果として組合は少数派で孤立を余儀なくされ、共同性はむしろ破壊された。労働組合自身が女性差別的だったので3年程で辞め長くいなかったのにずっと要注意人物であった。
? 母親の目で仕事を組み替えること
入ってすぐにチェルノブイリ事故。授乳していた私は、青くなり、野菜は極力食べないようにし、保育園では牛乳を飲ませないようにお願いした。生活クラブ生協の牛乳を取るのもやめた。でも牛乳も野菜も仕事としては供給していて、職場で危ないのでは?おかしいのでは?とおずおず言ったけど取り合われなかった。牛乳の配送してくる太陽食販の人に「放射能汚染大丈夫ですか?」と聞いたら、「仕事で運んでるだけだから」という答にショック。金もらえば毒でも運ぶのか。そういう仕事の仕方だけはしたくない、と思ったがそういう私も、自分は取らない牛乳の供給を止めるべきだと公式に提案することはできず。早速苦しい状態に。やっぱり労働組合が必要だ。一人じゃ提案できない、経営から独立して、そういう問題を話せる場所が欲しいと痛感した。
入職1年目のときデポーの経営が思わしくないので、何かいいアイディアはないか、と会議で言われ、フェアトレードのコーヒーを扱っては?と言ったら、まだ一般的でない時代で、そういうのは自分たちでやれ。うまく行ったら生活クラブ生協でやると言われてびっくりした。逗子の問題もそうだと言う。他でやってうまく行きそうなのをみてそれを取り上げて最初からやってたように振舞うのが生活クラブ生協式だと分かった。その後マレーシアの三菱化成の現地工場の放射線廃棄物に被爆したブキメラの子どもたちの支援のため14)の無農薬のフェアトレードコーヒーを地球の木でも扱ってもらって、私の部署でも扱っていたら、契約以外の仕事をしたといって始末書を書かされてしまった。生活クラブ生協で取り組む学習机には熱帯材を使ったものはやめよう、と新人研修で提案したら、そのうち国産ヒノキのものが入った。私は10年以上住宅部門の担当だったが、熱帯林を使わない家作りをめざそうと「MOK森を考える神奈川の会」という市民運動を作って、ネットの代理人を通じて、公共事業に熱帯材を使わない仕様をつくるように申し入れたり、反農薬東京グループという市民運動グループで、「住宅が体をむしばむ」というシックハウスを警告する本を作ったりした。ワーカーズ・コレクティブもつくろうとした。(第2章1.2))

 私は自分の書いたとおりに変えていく志だけはなくさないで、居続けてありとあらゆる事をした。
労働組合も作ったし、女性だけのユニオンにも入ったし、有志で学習会をしたり、フェミニズムの講座をした。育児時短制度も導入させた。仕事の中身を変えようと、環境市民運動にも積極的に関わった。
私は、自然エネルギーや、南の国の森林問題や、日本での林業問題、化学物質問題など市民運動を盛り上げて、世論や行政を変えていき、問題解決型生産として生活クラブ生協の事業を売り出すという市民運動と協同組合による連携プレーを考えていた。実際市民グループがシロアリの駆除剤の有害性を行政に訴えて、住宅金融公庫の仕様を変える成果をあげ、生活クラブ生協では、農薬でない植物性のシロアリ駆除剤を具体的に事業として普及させるということがあった。労働時間中に厚生省に市民グループと交渉に行くとか、こうした関係をきちんと事業としてつくりたいと思った。
熱帯林破壊問題に市民運動として取り組み世論を高め、生活クラブ生協が熱帯材を使わない住宅作りを売り出す、シックハウス問題を市民グループと広く訴え,規制を作り、実際的な自然派住宅の提案を生活クラブ生協でする。運動を利用した事業、市民運動にとっては、問題提起だけで、結局企業の「地球にやさしい」をはじめとする差別化戦略に寄与してしまう苦い回路ではなく、その告発すべき構造を生産点の視点から見るラジカルな視点を獲得することができるし、また生活クラブ生協にとっても良心性のイメージにのみ安住しないで、市民グループとの交流や連携を通して現実的な事業の質を市民の具体的要求に合わせて高めていき、生産の中身を具体的に変えていける。また身銭を切ってやっている市民運動の成果を掠め取るような真似をしないでちゃんと市民運動の発展に貢献できる。こういう相互作用的な回路を実践しようとした。それこそが運動と事業の両立ではないか。
のちに自然派住宅も、太陽光発電も、国産材住宅も生活クラブ生協の目玉にはなった。私の提起は何年かして、結果としては現実になった。が、私には貢献感をもたらさなかった。実現したころは世間的にあたりまえになっていて、生活クラブ生協の内発的な運動の結果ではなく、時代に合わせた結果にすぎなかったから。私はすでにその部署にはいなくて、そうするための誰も知らない苦労を一人でしただけで、成果からは疎外され、すでに世間より半周遅れになってる状況を苦い悔しい思いで見なくてはならなかった。子ども背負ってあちこち行ってやってきた結果がこれでは、苦しすぎると思った。掠め取られた市民運動だと思えばよくある話だし、生活クラブ生協にいると他の企業にいるよりも市民運動がやりやすい、などと考えれば悪くないことかもしれないが、私とすれば、もともとフルタイムの仕事以外に余分に趣味で市民運動がやれるほど優雅な身分じゃないし、母親として労働の場にいることを原点にして、生産の場のあり方を変えることこそが私のここにいる意味だった(シンシア・エンローに習えば「職場の非軍事化)である)。そうじゃなきゃ辞めて生協組合員のようにラジカルに地域活動をした方がましだと常に思っていた15)。私にしてみるとこれは成功では全くなく、やっぱり生産点の体質は何も変わらないという皮肉な、挫折を見せつける結果でしかなかった。
また、労働条件を変えることもできはした。確かに生活クラブ生協の育児時短制度は画期的で、小学校前の子どもがいる男女ともに、内実5時間労働に短縮する選択肢ができたこと、またその制度が、短縮して働いていない時間分も払わせる(時給の8割から9割)と言う意味では、育児というアンペイド・ワークを支払わせた歴史的なものとさえいえるかもしれない。そしてまたこれは、ますの氏が唱えた4時間労働論への一つの実現でもあるはずである。今では子どもを産んだあとも多くの女性たちが働きつづけている。
しかし私が辞めたほぼ同時期に同年代の女性が5人も辞めた。みな幼児が育って小学生になったころの女性たちだった。そのうちの一人の後輩が言った。
「子どもが小さい時には夢中でとにかく毎日大変で働きつづけられたが、小学校に上がって、少し余裕が出てくると、こんな仕事をずっといていくのかなあ、て思いはじめて、意味が見出せなくなった。」
これには私も全く同感であった。社縁社会の不良在庫として、参入したつもりであったが、これは失敗であったと思う。この不良在庫路線は、どんなにつまらなくてもいつづけるという路線なので16)、そもそも私の最初の戦略「母親の目で仕事を組替える」こととは矛盾するのであった。実際は子どもがいるからこそ、有意義な労働がしたいのである。お金のために無意味な賃労働するより母親業の方がずっと有意義に思えてしまうので、独身OLのように淡々と続けることが困難だ。母親労働者(特に共稼ぎでさしあたり経済的に困窮いていない場合は特に)はいつも心のどこかで、育児と仕事をはかりにかけて揺れている。ましてやわたしのように犠牲を払って賃労働に意味付与しようとした結果がこれで、それを毎日見せつけられてはなおのことだ。
 彼女以外では2人が人間関係で辞め、1人は福祉の資格をとるのを理由に辞めた。実際センター業務の女性にも配達業務が入ってきそうな情勢で、40過ぎの彼女たちにはあまり展望のない職場になりそうだったのも大きいと思われる。私と同じように、労働の裁量権が「半人前扱い」であったのと、また将来の自分の姿がそこに見えなかったせいではないかと推測する。女性が働きつづけるには、育児時短だけではだめなのだ。(もちろん育児時短を取らずに辞める女性もいる。またなかには自分一人だけ早く帰るのがどうしても嫌で辞めた人もあった。職場の理解はあっても本人が完璧主義者だと両立しないようだ)子どもが小学校前まで拘束6時間労働に短縮されても、結局それがあけるまでの勤続年数を6年延ばすだけなのだ。そのあとの女性の能力を活用するビジョンが全くないのでみな辞めてしまう。単に子育ての時間確保では女性の勤続は進まない難しい問題がある17)。
私は6時間労働の強みを生かして女性ユニオンでパートの運動もした。パートの労働相談にのったり、国会に行ったり、労働省交渉にもしばしば行った。パート集会も開催した。そこでも正規労働者のパートタイム化をことあるごとに唱えたものの、ほとんど支持を得ることはなく、もちろん後に続く人もなかった。恵まれた正規労働者、としか思われなかった。生協組合員からも、私たちのただ働きでいい労働条件なんて、と言う反応だ18

スウェーデン・メイド論争

経済政策とフェミニズム
スウェーデン・メイド論争にみる分岐
榊原裕美(横浜国大大学院博士課程後期)


メイド論争とは
メイド論争は、1993年7月 エコノミスト、アン-マリ・ポルソン(Ann-Marie Pålsson 2002年から穏健党国会議員)が、家事サービスへの税の控除の制度についての提案したことに端を発して、大きな反発が起こり、さまざまな媒体でされた一連の議論のことである。女性の家事負担を減らすために、家事サービスを購入した費用について税金を控除(還付)しようという政策提案だったが、即座にそれはメイドを復活させることなのかという反論がおき、「メイド論争」と呼ばれるようになった。

アン-マリ・ポルソンの主張では、この控除制度導入の利点は以下あげられる。

1.効率性の観点―専門家によりまとめることにより家事が効率化される。
2.雇用創出の観点−新しい家事産業という新規雇用を創出することにより、失業率が低下する
3.平等の観点―女性が家事の負担なしに働けることによって、男性並みに平等に仕事ができる条件ができる。
4.正義の観点―きちんとした産業にすることから家事労働労働者の立場が守られる。
5.モラルの観点―これまでいわゆる闇労働として、脱税の多い労働となっていた慣行を改善できる。
6.公共セクターの削減からの利点―個人的な解決をすることで、公共セクターの予算削減からの利点がある

この提案によって引き起こされたメイド論争に関するおもだった論評をここにあげてみよう。

1993年7月 アンマリ・ポルソンが、家事サービスへの税の控除の制度について提案。大きな反発が起こる。 
1994年   「論争:それで、二重の労働をしている女性はいくらの時給がもらえるのか?」
日刊工業新聞(Dagens Industri)
1994年    アン−マリ・ポルソン「家事労働の市場はあるか」
      リトヴァ・ゴー「女中から社会の家政婦へ」
初期福祉国家における女性の場シンポ
1995年 「論争:移民に家の掃除をさせろ!」(Dagens Nyheter)
 「女性とキャリア」SAF(スウェーデン経営者総同盟)刊行物2号、7号
「メイドの何が間違っているのか」「持つべきか持たざるべきか−メイドをめぐるフェミニストたち」フェミニスト文化雑誌Bang 2号
1996年 「移民、家政婦、新しい労働市場政府刊行物(SOU) 
1997年  「育児サービス―女性の解放?」女性の科学誌
     「家族に潜む権力 スウェーデンの平等社会の理想と現実(邦訳:青木書店)」
政府刊行物SOU
1998年   レニー・フランギュール「職業婦人か夫の召使か?
戦間期スウェーデンの既婚女性の職業の権利に関する闘い」ルンド大学
     「女性の権力調査からの考察 合理的な生活と平等なスウェーデンという神話」
     「メイドに控除、男手には課税?サービスセクターの税制と雇用創出」
経済論争7号 国民経済協会
1999年  リサ・エーベルグ社会民主主義のジレンマ 女中問題からメイド論争へ」
     『女性対女性 シスターフッドの困難について』シンポより
2000年  スヴェン−オケ・リンドグレン「経済犯罪:妨害された社会問題」ルンド大学
2002年  エリノア・プラツェル「文化的交流か安い労働力か?スウェーデンのホストファミリー」ルンド大学
2003年  エリノア・プラツェル「ジェンダー契約と社会の多様化 キャリア志向家族の家事サービスの需要について」ルンド大学
2004年  エリノア・プラツェル 「存在しない法律を探る―スウェーデンの家事サービスを例に」
2005年 「メイドの解決は、男を家事から解放する」(DN )
2006年  アンナ・ガバナス「口にできないもの:メイド論争のスウェーデンにおける平等、“スウェーデン的なるもの”、そして民間の家事サービス」政府刊行物
      エリノア・プラツェル「私的な解決から、公的な責任へ、そして再度戻る
 スウェーデンの新しい家事サービス」(Gender & History
2007年 マヤ・セデルベルグ「State of the Art 理論的展望とスウェーデンの論争」FIIP
エリノア・プラツェル「誰が家事労働を担うのか?ライフスタイルの維持における家事サービスの機能と中産階級ジェンダー分業」
     エリノア・プラツェル「『国民の家』から「キャリア世帯」へ」

10年以上にわたるこうした議論の中、2006年の政権交代によりこの家事サービスの控除制度は、2007年7月1日に施行されることになった。2008年3月5日に申請が締め切られたが、約4万件の申請があったという 。2008年3月18日付のDN(Dagens Nyheterスウェーデンの有力日刊紙)には、この控除がビジネスをゆがませるとの見出しで控除を活用して従業員の賃金をカットする企業の思惑を紹介、Sweden Radioでは偽装申請が多いことなど報道されているが 、実際の政策の評価についてはもう少し時間がかかるであろう。ここでは、90年代からのメイド論争が投げかけているものについて考察してみたい。

メイド論争とスウェーデン社会の階級意識
この制度は実はすでに他の北欧のデンマークフィンランドでは導入されている。しかし、スウェーデンにおいては、多くの人を巻き込む論争となった。
エスピン・アンデルセンを編者とする各国の労働市場規制緩和についての比較研究で、この政策についてのデンマークスウェーデンの違いがこう述べられている。

清掃や在宅ケアなどの対家庭サービス業で雇用創出を促進することに関しては、スウェーデンデンマークの政治的支持は大いに異なっている。デンマークはこのような雇用のための補助金制度を設けたが、スウェーデンではこの種の雇用政策について非常に長い検討時間が費やされることになった。この問題はある程度まで社会民主党を分裂させることになった。左派はこのような計画には反対していたからである。同党の右派と非社会主義政党はこの計画を強く支持し、彼らの反対者を消極的過ぎると非難した。実際、議論はこの種の計画で失業を減らすことは可能かという問題についてだけでなく、イデオロギー的な要素を含んでいた。対家庭サービスへの助成計画に対する反対者たちは、ここから創出される雇用の社会的地位は、たとえば「メイド的な仕事」のそれであろうとしばしば述べている 。

デンマークにおいては、「ホームサービス制度」が1994年試験的に始まり、97年に法律化された が、社民党の提案によるものだった。しかしスウェーデンでは最初に提案された1993年の7月から2ヵ月後、スウェーデンの政府の政権が右派のブルジョアブロック政権に交代した。今回またこの政策が実際法律として成立した昨年2007年7月も、その前年2006年9月の総選挙で政権交代があった 。こうした政治背景を反映しての論争だったのだ。

7月の成立に先立って、LO(スウェーデン労働組合)は、2007年4月18日のLOニュース において、この減税提案を批判した。LOの批判には、この10年の論争が反映されている。

「平等―それは富裕層が買って手に入れるものなのか」

 家事サービスの減税が現在政府から提案されている。この減税によって大きい利益を得る世帯とは、今すでにかなりの家事サービスを購入している世帯であり、現在、社会から経済的援助を必要としている家族ではない。・・・・
 政府提案によると、減税の上限は、一人につき、年5万クローナ(約80万円)で、世帯では年10万クローナ(約160万円)になる。もし家事への経済的援助を必要としているなら、20万クローナ(320万円)の家事サービスの購入―この合計は、世帯で雇用された者一人が、1時間90クローナ(1440円)で、少なくとも週に23時間働くのと見合う額だ―は問題にならない。この
種の出費ができる世帯は、経済的な援助を必要とすることはない。
今すでにある家事サービスの消費にする減税は、約10億クローナ(160億円)にもなるであろうが、それは普通の世帯からの富裕な世帯への贅沢すぎる贈り物としか思えない。・・・
政府は、この減税は女性にとって好意的で、平等に対する努力の一手段だと擁護する。しかし、平等は、富裕な家庭内でのLO(現場労働者)の女性たちの仕事に政府が助成すれば促進されるというようなものではない。個々の生活の範囲内で個人にとっては好都合かもしれない、が、男らしさ女らしさの伝統的な見方がより深く根付くことになる。そして平等は、ひとにぎりの富裕な家庭だけが購入できるものになってしまうだろう。
 この提案が雇用を生み出すという主張もあるが、実施したフィンランドデンマークでの調査では、わずかばかり闇労働を減らすだけで、効果は不十分だと判明している。
 
政権から下りた今も第1党である社民党の母体で、80%の組織率を誇るブルーカラー労働組合LOでは「ジェンダーと階級」をメインテーマに掲げている。
環境保護の観点からも、EUレベルでの考え方と、スウェーデンではかなり異なっている。EUがサポートする「持続的なホームサービスプロジェクト」では、「持続的な家事サービス」を生活の質にボーナスをもたらすとして評価している。製品を基本とした消費から、各家にサービスを分配すれば、費用の節約になるし、市民の生活の質を高めることになって、エコロジー的な効率性を高めると賛同する 。それに対して、スウェーデンの連立のブロック政治の中では、どちらかといえば右派と左派の中間にあるとされる、環境党は、「家事サービスの減税の提案も、特定の産業の雇用主の負担を少なくすることも、明らかに富裕階級の消費モデルを目指す方向である。」と、この政策に反対である 。
現在、新自由主義的な思想と政策が、まるで前世紀に時間を逆戻りさせようとするかのような格差拡大の反動性を持ちながら世界を席巻している。20世紀の二つの大戦の内含するナショナリズムに基づく総動員体制が、階級融和の役割を担い、戦後期その融和を自明のものとして、70年代までに稀有な平等な社会をもたらしたが、大戦にさえぎられた歴史観の中で私たちは、大戦の持つ総動員のシステム以前、各国で見られた階級対立、社会主義運動への流れをもはや継承していないようにみえる。戦後の否定が、先祖帰り的な様相を示しているのは、こうした歴史の忘却によるものが大きいのではないか。
強固な中立政策により戦争に巻き込まれなかったスウェーデンにおいては、20世紀のはじめの大恐慌や、世界の社会主義潮流の中で初の議会による社会主義政党が政権をとった国として、階級問題が、現在まで継続していることにより、メイド論争が引き起こされる背景があるのではないだろうか。そして、このスウェーデン人の歴史観は、私たちの今いる新自由主義的なグローバリゼーションを見定めるために重要なものではないかと思われる。
プラツェルは、こうした歴史貫通性の中で、1930年代と、1960年代から70年代、そして1990年代から2000年代に分けて、家事労働について個人的な解決から、政治的・社会的な解決を経て、再度個人的な解決に戻っている変遷を指摘している 。
社会学者であり、女性運動活動家およびノーベル平和賞受賞者でもあるアルヴァ・ミュルダールがかつて、家事労働者を平等の解決策のひとつとしてあげた が、こうした自己解決の残滓をもっていたミュルダールの時代の後、1930年的な意味での国内経済格差を活用する形での家事労働者は、どの「先進国」でも激減した。代わって、「家事の合理化」が進み、家電製品の普及などを始めとして、家事を重労働で汚い仕事から解放した。家電製品の新規市場の拡大は、製造業の発展へとつながり、工業社会型の経済発展を支えることにもなった。家事労働の合理化とタイアップした生産の技術革新による消費と生産の発展として、高度経済成長という資本主義の伸張に寄与することとなった。その後50年から60年の女性の社会進出を経て、スウェーデンは、公的な解決を図り始めた。
スカンジナビアフェミニズムの国家論は、女性がプライベートな依存からパブリックな依存に動いたとよく主張される。・・・スウェーデンデンマークのような国では女性たちは公務員や、社会サービスの消費者として国家に頼る。一方アメリカやイギリスでは、庇護を受ける者として頼るのである。
スウェーデンでは、女性の多くは、労働組合と関係の深い社民党を支持してきた。したがって、スウェーデンでは、組織化されたシステムを通して労働者グループとして扱われる利益を得ることで、女性の平等戦略が遂行された。が、英米などの他の国では、平等戦略は女性たちが個人として扱われるシステムを通して主に遂行されたのだ。

しかしそれが、80年代から変わり始め、90年代に再び自己解決の方向に向かい始めている。
こうしてグローバルなレベルでの階級再生産の回帰、女女間格差としてのジェンダーのさらに深化した再編成が起こっている。そこでは男性の家事責任を不問にすることで、ジェンダー的な秩序を変えずに女性の中での階層を再生産する30年代的な状況へ立ち戻っているともいえるし、今日的な英米的私的解決の方向に影響されているとも言えるであろう。

 E-アンデルセンによれば、伝統的な性別分業家族と男性世帯主の家族賃金保障を重視した高
度成長時代の福祉国家は過去のものである。90年代以降の「ポスト工業経済」の下では、・・・女性雇用の増大が進んでいく。それにともない有償と無償労働との矛盾が、つまり家族の「ケア」のための時間的制約が深刻化していく。しかしそのような経済的、社会的変動こそが多種多様なサービス受容を作り出し、新しい雇用機会を生み出していく。E-アンデルセンによれば、このように家族や世帯内での「ケア」の不足は多様な社会的ケア・サービスによって補完される。ケア・サービスの供給に政府が不可欠な役割を果たしつつ、しかし福祉サービスの生産が、適切に国家、市場、家族に配分される新しい「福祉レジーム」を展望しているといえよう。

と久場が引用するように、E・アンデルセンのいう製造業に代わるポスト工業社会の中心的な産業であるサービス産業の「ケア」が、家事サービスに反発するスウェーデンにおいても、受容したデンマークにおいても、何によって補完されるか、すなわちここでいうこの新しい「福祉レジーム」の選択は多くの国の政策にゆだねられている。
メイド論争がスウェーデンで起こったのは、これまでのスウェーデンが選択的にとってきた、不平等を解消する集団的なあり方を転換するイデオロギー的内容が、家事サービスの控除制度という政策の中にあるからであろう。この論争によってスウェーデンの既存フェミニズムや女性政策、また、他の国の受容過程と異なるコンテキストの存在が可視化されるが、普遍的な今日的な左派と右派の経済政策のせめぎあいの象徴的な現出として、今日のグローバリゼーションを含む経済の方向性の問題点を、きわだたせるものとしてあるのではないだろうか。
右派政権になっても、さらに女性の国会議員を増やし、内閣も約半分が女性であるスウェーデンの女性の社会進出としてのフェミニズムは左右のどちらに振れても変わらないように見えはする、しかし、その政策にはあきらかな左右の分岐が見られるといえるのではないか。

社民主義的な女性解放とマルクス主義フェミニズムの超克
 プラツェルが先に述べた公的な責任においての女性の家事労働の保障は、スウェーデンでどのように行なわれていったのか。

中立政策によって二度の大戦に巻き込まれなかったスウェーデンは50年代にすでに、合理化を成し遂げ、生産過程の単純化と規格化を進めたため、非熟練の労働力の需要が増大した。合理化で、男性よりも安い女性の労働力が意図的に代用される事は戦間期に証明済みで財界の合理化推進者は「女性の労働力は安いので、高い男性を減らし、単純作業をする大量の女性を雇うべき」と薦めた 。

こうして戦後、朝鮮戦争の好景気の影響を受け、賃金が高騰した1950年代、ストの代用労働者として女性労働者が登場し、男女差別が問題になったのであるが、スウェーデンでは男性の労働条件を低くする女性労働の参入を、例えば70年代の日本のように、家庭を家庭に戻すことで解決するのではなく、女性を組織労働者にすることによって回避してきた。
スウェーデン、ドイツ、アメリカのジェンダー、市場、国家の相互作用」の論文の中でモーセスドティエルが明快に以下のように記述している。

1960年代はじめ、高度成長の労働力不足が、既婚女性を製造業に引き出した。しかし、60年後半から70年前半の間に、オイルショックと後発国の追い上げによって国際市場のシェアを失っていった輸出関連製造業セクターの雇用機会は厳しくなった。連帯賃金と小企業への累進課税も民間の雇用の伸びを妨害した。男性が民間セクターで働き続ける一方で、政府は積極的労働市場政策によって、女性を製造業の熟練労働から公共セクターで生み出されたサービスセクターへと移した。1960年に、女性グループはLOや社民党に圧力を加え完全雇用と平等に取り組ませた。LOや社民党は女性を賃労働に参加させ、福祉サービスの充実のためにパートタイム労働を活用し、女性を労働市場にひきつけた。70年代から80年代にかけて、地方自治体では女性の直接雇用を生み出した。1960年代に製造業で一般的だった女性賃金の別立て慣行による男女別の賃金を廃止し、賃金格差や低賃金、セクター間の賃金の格差が改善され、女性の実質賃金は男性より多く上昇した。大量生産産業での雇用の伸びの縮小とサービスセクターの雇用の拡大による構造変化によって、公共セクターではより平等な賃金が実現した。社会福祉サービスの拡大は、民間の整理解雇で仕事がなくなった女性だけでなく、新しく労働に参入する女性にとっても雇用機会となった。雇用制限をしていた民間セクターの男性は女性たちと仕事を直接奪い合うことなく、また連帯賃金政策のおかげで男性の置き換えの低賃金労働者になって労働市場を歪めることもなく女性は統合された。女性の労働参加は1990年までに約83%までに達した。男性稼ぎ主モデルから共働きモデルへの転換は、永続的な労働力の不足と、平等への要求で進められたのだ 。

オイルショックを経ても、スウェーデンの状況は、他の先進国とは全く異なり、主婦化という形で男性の雇用を守った正反対の形の日本と同様に、低い失業率のまま良好な経済を保った。

 オイルショック以降の世界的な不況により、ヨーロッパのほとんどの国で失業率が上昇し、その後の長期間の景気回復のなかでも不況前の水準には戻らなかった。しかしスウェーデンでは高水準の就業率にもかかわらず、1970年から1990年にかけて失業率が3.5%を越えることはなかった。この高い雇用率の理由のひとつには、ほぼ全労働者で組織されている労働組合の強力な存在があった。そして、この労働組合は平等主義的路線を採用し、これが女性労働者や未熟練労働者の広範な組織化を実現した。組合はこうした路線から、いわゆる連帯賃金政策を推進し、産業別、企業別の賃金格差を縮小してきた。1985年、相対的に高賃金の自動車と他の製造業の賃金格差は、アメリカが40%あるのに対して、スウェーデンではわずかに4%に過ぎなかった。こうしたスウェーデンの賃金政策は、自動車産業のような高い生産力を持った産業分野においては賃金コストが比較的低くなるという結果をもたらした。

スウェーデン国産車の製造に成功したのは1929年、製造業の後発国がゆえに、産業間の賃金格差が比較的少なかった。また連帯賃金政策をLOが戦後打ち出す背景には、産業労働者の170%という高賃金であった建設労働者の賃金が、LOの介入で130%に圧縮され、国民生活を脅かす建設労働者の賃金の高騰が調整された と言うような強い平等志向が歴史的に存在していた。公的なセクターの大きいスウェーデンモデルは、ケアワークの社会化によって雇用の女性化を進めサービスを供給する高福祉を実現するとともに、自治体自身が最大の雇用主でもあることであった。
現在の80%にちかい女性の労働力率は、60年代から80年代にかけての労働組合への女性の組織化や連帯賃金政策を含む平等志向の労働運動に拠るところが大変大きい。組織率80%を超える労働組合国家でもあるスウェーデンでは、男女のブルーカラー中心の労働組合によって雇用の不安定化や低賃金化やホワイトカラーとの格差が簡単に進まないシステムが機能し、それを公的セクターによって男女間において調整してきた。主婦を正規労働市場に引き出し、平等な賃金により、家族賃金を成立させない状況を作ったが、それによって、輸出産業の人件費コストを下げ国際競争力が増し、公的セクターの女性の雇用がさしずめ公的補助金のような形で作用した 。
こうしたスウェーデンの雇用・賃金・経済政策は、ハートマンやミースの批判する資本主義的家父長制の家族賃金と主婦化へのオルタナティブを示している。

大多数の成人男性が受け取る家族賃金が意味することは、他の者、つまり若年者や女性そして社会的地位の低い男性の低賃金を男性が受け入れ、かつそうなるように共謀したということである。女性、子ども、そしてより地位の低い男性の低賃金は、労働市場における職業上の隔離により強化され、さらに学校や訓練機関、家族などの補助的機関によっても、労働組合や経営者層によっても維持される。

主婦化とは、団体交渉の力を欠いた「不自由な労働者」として「自由な」賃金の稼ぎ手の男性労働者に結びつけられている。女性が「最適労働力」であるのは、彼女たちが今日普遍的に「労働者」ではなく、「主婦」であると定義されているからである。つまり女性の労働は使用価値においても商品価値においても明確ではなく、「自由な賃労働」としては現れず、「所得創出活動」と定義され、したがって男性労働者利もはるかに低い価格で取引されるということである。

「メイド論争」を継続して研究している社会学者エリノア・プラツェルが述べるように、他の先進国のように、極端な待遇の違う女性の非正規労働市場を作らない社会システムを模索していたといえる。

私は、この制度が二級労働市場を作り出すことになるのではないかということを議論したい。一般に家庭内サービスはそして特に家事サービスは、社会における分業における、特に、ジェンダーと階級の分業における影響の変化の関係において分析される。
アンペイドであろうがペイドであろうが、そうじは伝統的に女性によって行われてきたし、家事サービスによってこの伝統が変わらないことは明らかだし、むしろ強化されるのだ。・・・
・・・スカンジナビアの国々では、「平等規範」の存在は、家の中に雇った人を入れることを「禁じ」てきた。高い税金と比較的高い所得がこの規範を継続させてきた。

つまりスウェーデンの平等戦略は、アンペイドワークを担う女性が賃労働に参入し、家庭内労働のうち、育児や介護などケアワークは公的セクターによって社会化し、家事についてはアンペイドワークの時間を労働現場に保証させ(労働時間の短縮)、同時に男性を家事労働に参入させようとしてきたことにある。平等な賃金と所得の半分という高い税負担が家事労働の商品化を妨げ、その税金によって格安にケアワークを社会化することで、家庭内労働の軽減を図るシステムを形成してきたのである。
 しかしスウェーデンといえども下記のいうような例外的な社会であるとはいえまい。

  もし、女性労働の周辺化が起こらなかったという資本制社会が一例でもあれば、資本制構造に外在する特質として女性の周辺化を考慮するにやぶさかではない。(中略)資本制経済は女性の周辺化を必要とすると主張する際、女性の周辺化が起こらない資本制は論理的に認められない、と言っているのではない。・・・女性が二次的労働力として機能する家父長制的資本制が、唯一歴史的に可能な形態であるということである。

スウェーデンでは性別職業分離が大きく、また公的なセクターでの女性の偏在は有名だ。しかしそのゆがみは、民間から「積極的労働市場政策」で70年代の不況期に家庭ではなく公的セクターに女性を移動し、組織労働者として票田化した80年代のスウェーデンの政策の結果にすぎない。。そして、どの国よりも少ないとはいえ男性との賃金格差が存在し、女性の伝統的な職業に基づいた職業編成がされている以上、スウェーデンのケースがこの歴史的に可能な形態からの例外とはいえないであろう。

「男女平等」と家事労働者調達のグローバル化
1980年代より新自由主義の台頭とグローバル化により国際的な分業が拡大したが、ポスト工業化に伴い、多くの国で男女平等法、雇用機会均等法が制定され、女性の雇用率の割合も格段に進んだが、一方で現在同時に国際的な経済格差を活用した、国境を越境しての家事労働者の調達が進んでいる。ここ10数年の間に実際世界の移住労働者の女性割合は増加し、2000年で約半数が女性であり(国連「開発と女性の役割世界調査報告2004」)、増加する女性家事労働者をめぐる問題も頻発している。
より貧しい国からの家事労働者(女性)を(時に不法に)雇って、家事労働を肩代わりさせているのは、アメリカや香港やシンガポールなどで珍しいことではない。加えてスペインのように、これまで女性の労働力率の低かった女性の雇用労働力率の急成長が後発的な(40%未満)地域では、強固な男性稼ぎ手モデルが形作られ、フルタイムの労働が多く、働く母の家事労働・ケアワークの依存先は実母か南米などから来るスペイン語の話せる移民のメイドとなっている。 家事労働支援の公的な制度整備をすすめることをせず、女性の移民労働者を調達することで家事労働をまかない女性の進出が図られた結果、女性の平等な労働参加のためにグローバル経済の中で他国の女性の労働力移動―すなわちジェンダー役割の強化と再編―を引き起こし、移出国側の共同体の破壊という悲劇を引き起こしている .。逆に言えばこうした現象は「先進国の女性の平等が進むためには不可避」なのではなく、家事労働支援の公的な制度整備をすすめない政策をとった結果として起こっている、といえるのではないだろうか。
伊豫谷が、「グローバリゼーションと移民」の中で「男性中心の社会の経済メカニズムを維持したまま、女性の社会進出を促した場合、家庭内労働に対する需要を増大させるのは不可避である 」と、述べているが、家庭内の不払い労働時間を女性に課した形の賃労働を基準として、これまでにその不払い労働をになってきた女性をその賃労働の場に引き出せば、このような現象が生まれることは自明である。
周知の通り、家事労働がどう扱われるべきか、誰によって担われるべきか、は古くからフェミニズムにおいては大きな論点であったが、現在では、女性問題のみならず、世界的な規模での分業再編にかかわる大きな問題である。
伊豫谷はさらに次のように指摘する。

マーティンは・・・外国人労働者に依存する産業構造の是非はアメリカ人がどのような経済を欲するかによるのであり、不法移民が浸透していった職種は、低賃金であることによって作り出された「人為的職種」が多いという。ここで彼が例としてあげたのは家屋の清掃業である。時給2ドルであれば、同職種は急速に拡大し、1000万人の外国人労働の流入を引き起こすことになる。しかし、時給5ドルであればこれまでと同様に自分で清掃を行なうであろう 。

スウェーデンで右派政権の提案するこの家事サービス控除とは、5ドルの時給の仕事に3ドルを税金で還付して家事サービスの仕事を2ドルにして増やそう、と同様の提案だといえる。
賃金格差の大きいアメリカで、多くの不法移民を安く使って、女性が家事労働を回避し、男性並みの労働に参加できることで男女平等を達成させる方向とも、同じく公的なサービスが不十分な日本で、移民の代わりに主婦率が高く家族賃金システムによって低賃金が維持される主婦たちがワーカーズ・コレクティブやNPOをつくって、ケアワークを代替する方向とも異なるやり方を選択してきたスウェーデンにとって、この方向は、家事労働者の海外移動(移民の女性化)や、労働の二重化や周辺化の問題と実は密接に関係し、現在の格差を生む新自由主義的な趨勢と大きく関係することになる転換と捕らえられても不思議ではない。
スウェーデンでは、移民による周辺化が他の国ほどに起こらないひとつの要因は、近年あったラトビアの企業の事件 に見るように平等主義的に同一労働同一賃金が貫徹され、外国人に対してもスウェーデン人と全く同じ労働協約で働かせるように厳格に労働組合が守らせてきたからだ。
しかし、この事件もまた、EUの法廷で、同情ストの禁止や、外国の企業には同じ協約を結ぶ必要がないなどの判決が出て、スウェーデン集団主義的な社会システムが危機に立たされている。

フェミニズム理論の分岐点
スウェーデンフェミニズム理解の多くは、1.リベラルフェミニズム2・ラディカルフェミニズム3.社会主義ラディカルフェミニズムマルクス主義フェミニズム)と言う整理で、家父長制と資本制の一元論、二元論 といったものだが、そうではないフェミニズムの整理もスウェーデンの中にあるようだ。
簡単に紹介すると以下のような形で、ラディカルフェミニズム社会主義フェミニズムなどを女性が周辺化する立場理論としてまとめ、構築主義を脱本質主義として整理している
1. フェミニズム経験主義―リベラルフェミニズムから発生。ジェンダーを問題にしない。男女とも平等。女性の研究を付け加える。差別や構造の存在を通して男性の従属性を説明する
2.立場理論―ジェンダーの視点において本質主義者、ただ男女を違うものと見る。いくつか異なる伝統があるとして以下をまとめる。
・ スタンドポイントフェミニズムマルクス主義理論)
・ 社会フェミニズム理論(USA)
・ ラディカルフェミニズム
精神分析フェミニズムラカン、フランス)
   女性の従属を女性と女性の考え方や振舞い方が周辺化されるためだと説明
3. 構築主義理論―ジェンダーにおいて本質主義を採らない。男女は、ジェンダー特有の性格を持つ(社会的な特徴)。しかし、性は現実には構築され、学習される。女性の従属は男性性や女性性の構築によってあるいはジェンダー化プロセスによって説明する。

これは、右派政権下で基金によって設立された大学のフェミニズムの講義でされたパワーポイントの内容であるが、さらに、右派政権の拠って立つフェミニズムがどういうものかを追求してい区必要があるが、プラツェルの以下の規範の変化の指摘は家事サービスの控除制度に見るフェミニズムがどのような社会ビジョンを志向しているか理解しやすい。

自分でやろうという規範や、社会階層間の平等というかつての戦後期のスウェーデンでは重要だったものが、今や時代遅れだと少なくとも「キャリア志向の共稼ぎ家庭」においてはみなされている。
・・インタビューからもうひとつ面白い発見は、家事労働者の雇い主が主張する時間の圧力という理由は、実際深刻な問題になりえる。雇うことで雇用主の平等な時間が増えるようには見えず、かわりに仕事のキャリアにもっと時間を投入する機会になってしまうのだ。彼らはたいてい、家事労働者を雇うと、以前よりも長く職場にいるようになる。・・・・
大企業は、最も価値ある従業員に家事サービスを福利厚生として申し出る。従業員が、家事のくびきから解放されれば、通常の仕事にもっと努力を投入できるようになり、そのお返しに長時間労働を要求することが、雇用主にとっては多分より簡単になるだろう。

これは、「働きすぎのアメリカ人」への道、ともいえるかもしれない。同じ論文でプラツェルは、デンマークのように社民党政権のときに提案され、労働組合の規制などを含めて法律化されるように提案されればこのようにイデオロギー化しなかったかもしれないと述べている。
こうした転換への分岐として激しく論争されたと理解されるメイド論争から、労働者階層のイニシアチブによって集団的に解決しようとする世界的には特異な集団的な方法による不平等の解決方法がとられてきたスウェーデンの女性解放への方向性が、今現在グローバル化の中で、自己責任的な個人的解決によって、男女差別を解消しようとする英米的な趨勢の現代のトレンドに挑戦されているさなかであることを見ることができよう。それは大きな分岐点であるといえるが、必ずしも危機かどうかは定かではない。
90年代に導入されたニュー・パブリック・マネジメント(NPM)の事例は、スウェーデンモデルの意外な強固さを示しているからだ。91年の政権交代で、イギリスのサッチャーが主唱した、サービスの公営独占を変えるものとして、市場化テストのようなかたちの民営への選択権の拡大を唱えて導入されたNPMによって、一部協同組合方式などの民間セクターの参入があったが、大きくは公的サービスの効率化につながり、行政サービスへの信頼感が高まり、公的サービスが交代することはなかったという。同一労働同一賃金で産別で賃金が厳格に決まるスウェーデンでは、人件費の削減目的の日本などで言われる民営化が不可能であることによる結果である。このようにシステムとして新自由主義への抵抗力を備えるスウェーデン社会であるが、今後右派の政策がどのようにスウェーデン社会を変えていくか、あるいはこのNPMの事例に見るように変えないでむしろ右派的な政策をスウェーデン的に活用してさらにスウェーデンモデルを強化していくかを注視していきたい。

研究ノート 

研究ノート

ポスト工業化社会における平等という競争力
 ―スウェーデンの社会経済政策としての男女賃金格差是正プロセス

賃金のジェンダー構造と格差社会マルクス主義フェミニズム分析が提起したもの

労働力の女性化が言われて久しい。
60年代後半から70年代の女性解放運動ウーマンリブのうねりの中で、女性抑圧の構造を探ろうと活発な議論がフェミニストたちによって繰り広げられた。家事労働という労働の領域が「発見」され、その後、工場法や、男性の労働組合運動によって女性たちを保護の下に家庭へと退却させ、女性は主婦と規定され、私領域へと囲い込まれたこととその物質的な基盤として、男性稼ぎ手モデルとしての家族賃金のイデオロギーを見出した。

「大多数の成人男性が受け取る家族賃金が意味することは、他の者、つまり若年者や女性そして社会的地位の低い男性の低賃金を男性が受け入れ、かつそうなるように共謀したということである。女性、子ども、そしてより地位の低い男性の低賃金は、労働市場における職業上の隔離により強化され、さらに学校や訓練機関、家族などの補助的機関によっても、労働組合や経営者層によっても維持される。」(サージェント、1991)
(ハイジ・ハートマン「マルクス主義フェミニズムの不幸な結婚」1981)

多くの国において女性は、製造業における科学技術の進歩にともない大量に発生した単純労働力として、またサービス小売業においてはその主力として、急激にパートタイムの雇用によって労働力を引き出された。マルクス主義フェミニストは、こうした産業構造の中で、性別職務分離とパートタイムの働き方について注意を喚起し、このパートタイムの働き方を労働時間短縮の戦略としての女性の労働力参加として積極的に、位置づけようとした(ビーチ、1993、竹中・久場、1994)。
ドイツのフェミニスト、マリア・ミースは、ローザ・ルクセンブルグの蓄積論を援用し、資本主義は常に労働力と資源を拡大するために、とりわけ市場を拡大するために、「非資本主義的な環境と層」−さまざまなカテゴリーの植民地、とくに女性、他民族、自然への搾取を必要としていたことを明らかにした。「プロレタリアの反フェミニズム」によって、労働者階級の社会主義者たちは主婦化とともに家族賃金のイデオロギーを形成した(ミース、1997:161)。
ミースらは企業の多国籍化に伴う第三世界における性分業と新国際分業による蓄積の拡大により周辺化と二極化がグローバル化するとともに、先進国内部に進行していくことを指摘していた 。
主婦は、団体交渉の力を欠いた「不自由な労働者」として「自由な」賃金の稼ぎ手の男性労働者に結びつけられている。女性が「最適労働力」であるのは、普遍的な「労働者」ではなく、「主婦」と定義されているから。つまり女性の労働は使用価値、商品価値のいずれにも明確ではなく、「自由な賃労働」としては現れず、「所得創出活動」と定義され、男性労働者よりもはるかに低い価格で取引される。(ミース、1997:175)
日本では、パートタイム労働は、家族賃金と積極的に関連付けられ、低賃金を固定する制度化へと向かった。70年代からの雇用の女性差別化の歪んだ現象であるパート化は、男女雇用機会均等法により男女差別が雇用区分差別に取って代わることで改善されるよりむしろ普及した。均等法と同時に制定された労働者派遣事業法、特別配偶者控除制度や第3号被保険者制度によって男性の家族賃金の納税額の控除の男性家族賃金依存、低賃金層への停滞インセンティブがもたらされた結果、自発的に賃金の低賃金化、雇用の非保障化を女性が選ぶような社会情勢が作られた。パートの労働運動は結局、ビーチが期待したような、女性によって選ばれた短時間賃労働の基幹化にはならなかった。
戦後の世界的な高度経済成長、製造業の科学技術の長足の進歩による労働生産性の飛躍的な伸びが、家族賃金を可能にしたが、こうした家父長制的な賃金制度は高度経済成長の終焉や資本主義の産業構造の変化によって終わりを告げている。
85年の均等法制定後、正規労働者でいながらの短時間化のオプション―労働者としての身分保障はそのままに男女ともの生活に合わせての働き方の柔軟性を求め組合を作って実現してきた私にとって、男性ジェンダーの家族賃金が崩壊する資本の現況は、平等賃金の実現へのチャンスともなるはずであった。
しかし、事実は男性稼ぎ主モデルに所得も社会保障も依存していたがゆえの不安定・低賃金就労のジェンダー化された賃金構造の存在が、依存していた家族賃金の崩壊とともに露骨な貧困として現象し始め、二極化が進むことになった。ここにいたって、ようやく、しかしごくささやかにしか、ジェンダーを越えての低賃金労働の蔓延という事態の深化に対して歯止めをかけることができないでいるのだ。
日本の社会にもともと規模別や雇用形態別の格差が内在していたとはいえ、21世紀に入って男性の家族賃金が崩壊する一方、非正規雇用・低賃金のままのパートタイム労働が大規模に拡大・普遍化することで露呈した格差社会は想像を上回っている。この10年間で、450万人正規労働者が減り、600万人非正規労働者が増えたといわれる。実際正社員の割合は92年の78.3%から2005年には67,7%と1割以上減っている。派遣やパート・アルバイトが男性を含むあらゆる階層に広がって、フリーターの低賃金が深刻な社会問題になった。2002年には、高卒の新卒の男子の28.3%、女子の38.6%が、パートタイマーという事態になった(厚生労働省「雇用動向調査」)。その後若者のフリーター、ワーキングプアー問題が焦点化している。2006年には貧困率アメリカに次いで2位になった日本の総中流化社会の崩壊は、男性稼ぎ主賃金である家族賃金の崩壊と同時に起こっている不安定就労の拡大によるものが大きい。

社会民主主義ジームは有効か

日本に数年先立ち、スウェーデンでも有期雇用のパートタイム労働が急激に増えた。94年・95年の高校卒業者の就労者のうち、1998年3月に週最低35時間以下のパートタイムの仕事に従事する者は、男子は3割、女子は5割であったという(篠田編、2001:227)。90年代の初めにあった経済危機によって、これまでオイルショックのときでさえ、増えなかった失業率が急激に増加、有期の非典型的な雇用形態の若い女性のブルーカラー労働者の数が伸びている最近の傾向が明らかにされた。91年に保守政権への政権交代によって70年代の労働者保護の法律が一度廃止されて以来、特に若い女性たちに臨時雇用が倍増し有期雇用の雇用形態は11以上、525000人が、不安定な有期雇用で、LOの懸案事項になった。その多くは、フルタイムに再度戻れない(LOのURL2005.12.6)。
だが、90年に起こった大恐慌以来の経済危機は、適切で迅速な処理により94年には回復したと同時に、日本のような格差は生まれず、相変わらずジニ係数貧困率は低いままである。スウェーデンでは、パートタイマー労働による女性の職場の進出は図られながらも二極化にならず、また格差の拡大にもつながっていないのは、週17時間以上ならフルタイム労働者と同等の処遇を得られ、すべての雇用者は労働時間に関係なく傷病手当、年金、有給休暇などを取得できる。パートとの賃金格差の水準も92.3%という均等待遇であるためだ。労働組合の組織率が、現在も80%であるスウェーデン労働組合LOの提案であるスウェーデンモデルとして有名な連帯賃金制度が、性別のみならず企業規模を問わない同一労働同一賃金の平等志向が、労働者に格差を作らないのだ。
LOは短期のパートタイム労働は短期の就労は失業と同様、とパート失業タイマー(under employment)として懸念してきたが、労使対立の中2006年5月がフルタイム正規雇用を雇用の標準形態とする法案を社民党政権下で成立させた。有期雇用は誠実な使用者と雇用者の希望による場合に限定し、雇用者の雇用期間の合計が、5年以内で14ヶ月となれば、終身雇用が義務付けられる。妊娠・育児休暇中の保護も与えられた。
同国でも近年増えている派遣労働 も同様だ。ストックホルム共同通信の記事は次のように人材派遣会社事務所長、ヤッシ・ヤルビ氏の話を伝える。
派遣社員を入れるときには労組の承認が必要。この国では同じ仕事に二つの賃金を認めることはあり得ません。」
2005年11月、人口900万人のスウェーデンで183万人 (うち女性839.115人)を組織するスウェーデン最大のスウェーデン労働組合総連合LOの委員長ヴアニヤ・ルンドビー‐ヴェディン氏 が「グローバルな連帯」と題するスピーチを行った。スウェーデンが、「グローバリゼーション」とうまくやってこられたのは、明らかに、経済の再構築によって影響を被る個人に配慮する労働市場政策や普遍的な社会福祉システムがこの国にあるということと関わっている。高い組織率の労働組合が、労働者に発言権を与え、集団的協定を広く適用して、労働市場での良好な統制や流動性を保障しているからだと語った。 (表1)。
エスピン・アンデルセンが、福祉国家の類型として、北欧の社会民主主義ジーム、アングロサクソン自由主義ジーム、欧州大陸の保守主義ジームとして3つの福祉資本主義に分類されたことは広く知られている(エスピン・アンデルセン、2001)。アンデルセンが、社会民主主義ジームと名づけた福祉国家群が、グローバル化したポスト工業化社会において、適応力を持っているのである。この産業構造の変化とともに、労働力の女性化が起こったのであれば、女性労働をいかに活用するかが実は経済政策として問われていたのである。ポスト工業化を迎えた福祉国家の指針として「脱商品化」と、「脱家族化」とは、その経済政策の経済合理性の指針でもあったといえるのではないか。
男女平等を含めた平等へのあくなき追求力の「経済的メリット」とは何であろうか。
LOは、雇用保障こそが生産性だと言う。雇用保障は労働zp者にも使用者にとってもよく働けることを意味する。安定した仕事を経験すれば、率先して働き、自分の仕事に努力も払い関心も持つようになる。保障とは生産性のことだ。それこそが発展や成長や未来への信頼を生み出し、スウェーデンの福祉にとって利益になる。
使用者支配から独立した労働力を「脱商品化」するための労働者イニシアティブの雇用保障と、女性をその範疇に入れる「脱家族化」が、どのように社会経済政策といえるのだろうのか。

平等の推進力機能としての労働組合

日本とほぼ同時期の1860年代に近代産業革命を発生させ、40年ほどで電力・石油による第2次産業革命にバイパスし、急速に発達したスウェーデンでは、豊かな森林資源による火力または豊富な水資源による水力発電により、各地に産業が分散し、極端な都市化をまぬかれた旧中間階級を温存し、地域社会を温存できたという(高須,1972:127-130)。
工業化とともに、社会主義思想が生まれ、1889年スウェーデン社会民主労働党が結成され、また、1898年ブルーカラー労働者の全国組織LO(Landsorganisationen i Sverige スウェーデン労働組合連合)が結成された。1902年には使用者側の連合体、SAF(Svenska arbetsgivareförningen スウェーデン使用者連盟)が創設され、労働組合と使用者団体の組織が形成されたが、1920年代にすでに合理化によって労働生産性を40%上げたが、続いて起こる30年代の大恐慌により失業は20%を越えた。
ナポレオン戦争以来約190年間戦争をしていないスウェーデンは戦争によって経済の活況と、国内の階級対立をそらせた日本とはことなり、熱狂的なナショナリズムで、国民を統合することなく、国内問題労使関係の対立を政治が解決することを迫られていた。労働側も経営側も、それに対して中央集権的な交渉を積み重ねることで答を出そうとした。
中立を守った戦間期1920年代に、普通選挙権を獲得し、世界初の議会による短期社民党政権を経験し、その後1932年、長期社民党政権がはじまり、その後社民党単独政権は1976年まで続くことになる。
当時、産業間においての賃金の格差が大きく、低賃金層が組合離れを起こしていたし、SAFも、当時比較的低賃金であった輸出産業を基準にすべきと主張した。
低賃金労働者に対する措置を組合の協約の中に確保しようとする連帯賃金は、26年LO大会で金属労組からの低賃金底上げのために提案されたが、当時産業労働者の170%であった建設労働者の賃金が、LOの介入で130%に圧縮され、建設労働者の賃金の高騰が調整されたという形成期を経た(宮本、1999:59)。連帯賃金政策は、当初より高賃金の産業の賃金抑制策、低賃金産業の底上げとして機能したのだ。
当時スウェーデンでは失業保険の導入が遅れて、失業委員会の失業対策事業が通常の正規労働者の協約賃金より安く労働をしたため、労働者たちの労働条件を脅かしていた。社民党政権は農民同盟との「赤緑同盟」によって、失業委員会の解体と、労働組合基金に政府の補助を加えて労働組合自らが管理するゲント方式による失業保険制度(1934年)の先鞭を付けた(宮本,1999:57・戸原、1984)。スウェーデンが今に至るまで80%を越す労働組合の高組織率を維持しているのは、労働組合が政府の助成を受けて失業保険を運営しているゲント方式のためとも言われている。労働組合は、失業保険の労働組合による管理権を得、協約以下の水準の賃金で二重化(周辺化)することを防ぎ、労働協約の実際的効率を高め、高組織率の維持を獲得した。LOをパートナーに、社民党政権はケインズなきケインズ政策といわれ、大規模な公共事業を展開し完全雇用を達成した(メイドナー、1994:148訳注3))。
スウェーデンには、ナショナルセンターは他に二つ大卒者以外のホワイトカラーのTCO(約120万人)大卒者のホワイトカラーSACO(約50万人)があるが、それぞれ約7割の組合組織率である。日本の企業別と違い、管理職と現場職の組合が独立している。
スウェーデンモデルの中心をなすレーン・メイドナーモデル同一労働同一賃金の連帯的賃金政策、積極的労働市場政策が60年にかけて形成された。
 修正ケインズ主義とも呼びうるスウェーデンの政策は、有効需要を作り出すのではなく、積極的労働市場政策という、雇用の流動性を高めるための再訓練のみならず教育制度にまでかかわる政策である。生産性の低いセクターが高い賃金コストによって衰退しても、そこから排出された労働力を生産性の高いセクターに送り込む、こうして連帯賃金がなりたつので、技術革新と労働運動は親和性が高く、また、企業は寡占になりやすい。
企業規模にかかわらず同一労働同一賃金を原則とする連帯的賃金政策では中小企業の労働者は、低賃金を避けられるが、労働生産性以上の賃金を課せられた企業は存続の危機を迎える。企業があからさまに経営の競争によって「商品化」される一方、経営の悪化と労働条件がリンクせず、失業の恐怖も緩和され、企業に拘束されることがない労働者の労働力は「脱商品化」される。そのメリットは大きく、そのマネージメントの原資たる所得の半分の高負担の税金もさほど大きな抵抗にあわない。企業から自立した自由時間の獲得と生活保障は、政治活動を保障し、高い納税の再配分に対しての意見表明としての投票行動は、80%から90%以上の高投票率の自主投票の完全代表比例制の選挙によって、国民の政治選択は高い合意が図られている。普遍的福祉政策によって、無料の官民教育、医療サービスや子ども老人の世話などの提供が福祉国家として行われているが、それらを具体的に担うのは女性の労働者たちである。スウェーデンの公共セクターは、30%を占め、政府は最大の雇用主であり、その雇用は福祉国家の基盤ともなっている(Ohlsson,1997)。公共部門の女性雇用の拡大は、女性の平等な待遇による経済的自立とともにそのサービスの供給者でもある。女性の国民は雇用を得られ、政府にとって納税者を得られ、組合にとって労働組合員を得られ、社民党は、支持層を増やすことにもなる。完全雇用と政治システムと福祉国家づくりが女性を媒介にぴったりリンクしている。

女性の賃労働への統合と賃金格差是正プロセス

失業が再び増大し始めた1931年のLO大会の動議に、公共部門における既婚女性の雇用を禁止する立法の要求があった。理由は、女性は結婚によって経済的保障を獲得するので、彼女より働く「必要の大きい者」の職務を奪うのは反市民的な行為であるというのだ。執行部の勧告で動議は退けられたが、夫婦の同時雇用に反対し続ける組合や既婚女性を先行解雇する慣習を批判する女性代議員からの提起は無視した。当時、不況期の使用者の賃金切り下げのために、男性を解雇して、代わりにより低賃金の女性をその職務につけ、労働裁判所も、使用者側の解雇の自由を理由に違法ではないとした状況の中で、男女平等へのラジカルな要求として以外の男女同一賃金要求の立場があった。男女に同じ賃金を払わねばならないなら、使用者は男性を選ぶだろうと期待する「仕事をめぐる競争から男性を保護する政策の一部として」同一賃金を要求した保守的な男性の立場だった。当時は女性組合員は10%程度であった。
しかし、LOはしだいに女性労働者へ目を向けざるをえなくなった。すでに男性ブルーカラーの組織率が飽和状態の中、1944年に結成されるホワイトカラーの組合TCOが、1920年来の産業合理化によって新たな下級ホワイトカラー層もしくは各種サービス労働者が増えることで女性組合員獲得の競争がもたらされた。連帯賃金政策は、労働運動だけでなく不変的な社会保障やサービスなど社会政策と少子化対策が結びつき、経済学者のミュルダール夫妻の家族賃金批判、女性の妊娠子育てに配慮した社会政策へとつながり、女性を統合する方向に発展していった(北、1997)。
戦後、朝鮮戦争の好景気の影響を受け、賃金が高騰した1950年代、ストの代用労働者として女性労働者が登場するまで、男女差別は大きな問題にならなかった(Swensson,1995:63)。中立政策によって2度の大戦に巻き込まれなかったスウェーデンは50年代にすでに、合理化を成し遂げ、生産過程の単純化と規格化を進めたため、非熟練の労働力の需要が増大し、続いて賃金の圧縮が起こった。合理化で、賃金の高い男性よりも安い女性の労働力を意図的に代用される事は戦間期に証明済みであった。財界の合理化推進者は「女性の労働力は安いので、高い男性を減らし、単純作業をする大量の女性を雇うべき」と薦めた(Swensson,1995:66)が、39年に公務員の男女別立て賃金が廃止され、44年から各組合に、女性の賃上げを男性より高く設定するように勧告した(北、1997)LOは、男女の同一労働同一賃金で対抗した。
 1960年代はじめ、高度成長の労働力不足が、既婚女性を製造業に引き出した。しかし、60年後半から70年前半の間に、オイルショックと後発国の追い上げによって国際市場のシェアを失っていった輸出関連製造業セクターの雇用機会は厳しくなった。賃下げの代わりに政府は積極的労働市場政策によって、競争力のない工場や労働力をより活力のあるセクターに移動するため補助金を出した。男性が民間セクターで働き続ける一方、女性は製造業の熟練労働から、公共セクターで生み出されたサービスセクターへと移った。連帯賃金と小企業への累進課税が民間の雇用の伸びを妨害していた。
1960年に、女性グループはLOや社民党に圧力を加え完全雇用と平等に取り組ませた。LOや社民党は女性を賃労働に参加させるのにさまざまな方法をとった。福祉サービスの充実のためにパートタイム労働を活用し、女性を労働市場にひきつけた。70年代から80年代にかけて、地方自治体で女性の直接雇用を生み出した。
1960年代当時まで製造業で一般的だった女性賃金の別立て慣行による男女別の賃金が廃止された。賃金格差や低賃金やセクター間の賃金の格差が改善され、女性の実質賃金は男性より多く上がった。大量生産産業での雇用の伸びの縮小とサービスセクターの雇用の拡大による構造変化は、公共セクターのより平等な賃金の実現となった。
社会福祉サービスの拡大は、整理解雇のおかげで工業セクターの仕事がなくなった女性だけでなく、労働市場に入ろうとする女性にとっても雇用機会となった。男性は、雇用の制限していた民間セクターに雇用を得、女性たちは男性と仕事を直接競争しあわずに、また連帯賃金政策によって男性の置き換えの低賃金労働とならずに、労働市場をゆがめないで女性を統合した。女性の労働参加は1990年までに約83%までに達した。共働きモデルへの転換は、永続的な労働力の不足と、平等への要求で進められたのだ。(Mosesdottier, 2001: 171-178)
女性の組合員が増え(図2)、女性比率も60年代は22%だったが、2000年には46%になった。組合組織率も男性の組織率83%に対して女性の組織率87%である。現在、ブルーカラー公務員の女性の多い労働組合が、合理化の進む製造業を抜いて最大である。減っていく男性ブルーカラー労働者を女性の雇用を増やすことで労働組合は埋め合わせたともいえる。
70年代後半の毎年10%を超える、インフレの時代、労働組合は実質賃金が抑止政策され実際的に賃下げになった(図3)。それによって、男女格差が縮まったともいえる。
あるいは、輸出関連産業の人件費コストを抑える必要があるときに、公共セクターの女性の雇用によって、労働者家族の所得を増やしたともいえる。女性の公共セクターでの雇用の拡大と賃金の上昇により、男性のインフレの中目減りする世帯所得への税金からの「補助金的役割」を果たしたともいえる。
実際1970年では、国別製造業男子の一時間当たり収入は、アメリカ3.88ドル、スウェーデン2.68ドル、西ドイツ1.56ドル、イギリス1.52ドル、フランス0.83ドルと、スウェーデンの賃金は国際比較では高かった(高須、1972:138)のだが、2002年の統計では、スウェーデンの人件費コストは、各国の間で比較しても安くなっている(表2)。スウェーデンの賃金は安くても、妻の所得がはいると1.8倍になるので、必ずしも世帯の貧しさを示してはいない。
企業の雇用者の社会保障拠出金は大きいが、企業規模と連動するし、勤労者の税金負担に比べ、法人税は28%と国際的にも大変低いレベルなのである。
また、通貨(クローナ)を76年、77年と3%ずつ3回切り下げ、また82年にも16%の切り下げを行なっている。
実際昨年の自治体の賃上げ妥結では、工業部門の労働組合は、輸出産業の競争力を維持するとともに、公務部門の低賃金女性労働者に配慮して、賃上げの要求水準を抑制した。2004年は3年連続でとりわけ地方政府の公務部門の賃上げが民間部門の賃上げを上回り、地方政府職員の賃上げが4.4%であったのに対し、工業部門の賃上げは最低水準の3%であった。(労働政策研究・研修機構URL2005.5)
輸出主導型の男性の多い民間組合が、公共部門の現場女性労働者の底上げのために自分たちの賃上げを自粛する連帯行動は、女性職場の公共部門の妻と、私企業の夫というスウェーデンで典型のブルーカラー同士のカップルが、世帯賃金をあげるインセンティブを考えると納得できる。国際貿易の割合が40%と大きいスウェーデンにおいては(日本は10%)、民間部門の競争力は個別企業の問題というより国民的問題である。女性の雇用の拡大を、民間企業が負担する男性労働者の家族賃金のコストを、政府が肩代わりする国際競争力増進のための公共事業・補助金と考えれば国家的通商政策でもある。日本の公共事業の「男性」への直接雇用配分と対照して、「女性型」雇用を拡大する公共事業、男女平等志向賃金政策は、スウェーデン国家の蓄積、競争力の源泉でもある。
  世界一平等だといわれるスウェーデンの男女賃金だが、スウェーデンのセグリゲーション(性別職業分離)はかねてから問題になっている。特に公共セクターへの女性への集中が、特徴的である(表3)。
しかしこれは、意図した結果でもあるのだ。民間と公共部門の性別分離は、スウェーデンの大きな特徴であるが、マクロ的に見ると、民間の国際競争分野での男性労働者の雇用を守り、人件費コストを下げるため、公共部門での雇用と賃金拡大は、政府の補助金的な役割を負っているとも見える。

これからのスウェーデン−右派の左傾化の意図するもの

2006年9月17日の総選挙で、12年続いた社民党政権が僅差で破れ、政権交代になった。勝利した保守党(Moderaterna)を中心にこれまでの社会民主主義ブロックの三党連立から、中道右派ブロックの四党連立へ)。勝利した保守党は、41歳の若い党首がキャッチフレーズを多用し、これまでの路線を離脱し、“労働者にやさしい”保守党を強調し、都市部の社民支持層をひきつけた。保守党の左傾化によって、実は、社会民主主義の勝利なのだという論調も現れたが、警戒を要する。
前回91年から96年の間、右派中道政権では「新しいパブリックセクターマネージメント」という。80年代の新自由主義の登場によって右派から主張された民営化を含む公共セクターに市場原理を入れる手法が、利用者の選択の幅を広げるシステムとして歓迎され、公的な福祉・教育・医療の供給体が多様化された。が、民営化に雪崩打つことにはならなかった。強い労働組合によって官民の労働条件の格差はほとんどないので民営化によってコストは下がらない、むしろ競争のコストがかかるので、よい業者と長期契約するほうがいいということになり、民営のよい点がとりいれられ、公共セクターサービスは、瓦解することなくむしろ効率化が図られた。右派への政権交代で、悪化せず社民党政権では取りえない政策の幅が広げられるのも、スウェーデンモデルとしての労働組合機能が健全であることから来る効果だ。しかしそれは労働組合の社会の保障のシステムによるもので、最近、若者の労働組合離れが進み、組織率が落下気味の労働組合にとって今回の政権交代はそれほど楽観できない。
選挙前の5月に通過したフルタイム雇用を標準とし、パートタイム雇用を規制する法律は政権交代によって廃止される。審議中から右派中道ブロックの中央党は小企業の便宜のため26歳以下の若い人から、雇用保障をなくすというフランスのCPEと同様の提案をしており、失業率の削減を、不安定就労によってまかなう路線への転換が懸念される。また公約どおり失業保険給付水準は従前の所得の80パーセントから70パーセント、300日以上の長期失業者は65パーセントに引き下げられる。失業保険の保険料が約月4800円を引き上げられ、失業保険料や労働組合の組合費を今後は控除不可にするという公約を新政権は、早々に実行すると発表。組合費の税控除も除外される(労働政策研究・研修機構URL2006.11)。低賃金の労働者にとって、失業保険の保険料の100%自己負担や労働組合費は重い負担になる。全ての労働組合は反対。11月16日にはTCOが、12月14日にLOが大規模な反対デモを呼びかけている(TCOのURL、LOのURL11月13日)。
スウェーデン労働組合にとって、失業対策は大変重要なものである。労働市場と呼ぶのはまさに需給のバランスを取り、交渉によって価格決定をする場所であるからだろう。労働市場においては、労働組合がイニシアティブをとって労働者総体に有利な価格交渉を積み上げ、結果的には賃金抑制策として働くほどの、社会全体での効率化を優先した「全体最適」によって非常に効率的な国家の運営を可能にしたのだ。労働力の「脱商品化」のためには、失業者が社会保障をもらって失業できることは労働力の需給の調節のために実は重要なことであるのだ。
その組織率を支える失業保険への優遇措置を奪われ、失業者が半失業者なることを推進する政策によって、失業者が低賃金労働者となり、それによって起こる協約の実効性が発揮できなくなる事態は労組自治で行われてきた賃金決定システムに基づくスウェーデンモデルを揺るがすものになる。ヨーロッパで唱えられ始めているフレキシブル(柔軟)でセキュリティ(保障)のある働き方フレセキュリティflexecurityが、女性を「脱家庭化」させ、労働力を「脱商品化」する。
強力な労働組合社会によって周到に作られてきたスウェーデンモデルの基礎が突き崩され「平等という競争力」が瓦解し、ミースらの言う「第三世界」が押し寄せてくるきっかけになるのではないかとの懸念が杞憂であれば幸いだが、スウェーデンから目が離せない。

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【参考URL】
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フェミニスト経済学からみたスウェーデンモデルの可能性

                     榊原裕美(横浜国立大学博士課程後期在籍)

世界ランキングから見たスウェーデンの「文武両道」

2005年のEUの技術革新力のスコアボードにおいて、スウェーデンは第1位になった。欧州委員会が発表したEU25カ国プラス日本米国スイスなど33カ国の技術革新スコアボードでは、トップから順に、スウェーデン、スイス、フィンランド、日本、デンマーク、ドイツ、オーストリア、ベルギー、オランダと続いた。競争相手であるアメリカと日本に勝てる国は北欧である、とEUを始めとして北欧の国際競争力が注目されている(ニューズウィーク2006年1月25日号)。
世界経済フォーラムは、1971年に欧州経営者フォーラムとしてスイスを拠点に出発しダボスで会議が行われていたため通称ダボス会議と呼ばれ、企業グローバリゼーションの主要な世界的アジェンダを打ち出す主導的提案者にまで成長している私的な組織である。世界の巨大企業約1000社の代表ら、および選ばれた政治家・ジャーナリスト・学者のみが参加できる欧州・米国の企業家が支配的な排他的な会議である。このグループの行う会議に反発した人々が集う「世界社会フォーラム」は、2000年から、ブラジルのポルト・アレグレを皮切りに、数万のグローバリゼーションに反対する人々であふれるようになった。
その世界経済フォーラムが2005年の国際競争力の調査のランキングを報告したが、皮肉にも、北欧が10位の中にすべて入った(1位がフィンランド、2位アメリカ、3位スウェーデン、4位デンマーク、5位台湾、6位シンガポール、7位アイスランド、8位スイス、9位ノルウェー、10位オーストリア。日本は財政赤字などを理由として12位)。
同様に世界経済フォーラムが、同年の2005年5月に発表した男女平等社会のランキングでは、スウェーデンが1位、北欧諸国がそのあと並んだ。日本は38位だった(2005年5月17日共同通信)。北欧は、平等を重んじ、所得格差が少なく、普遍的な社会保障が行き届き、男女の平等では世界で有数のレベルである。ジニ係数で最も低いのはデンマークついでスウェーデンである。貧困率も最も低いレベルにある。
平等へのあくなき追求力それ自身が活力、革新力といえるのかもしれない。しかし、ここでは、競争力とは何かは問わない。本来的に競争力が人々の幸せを意味する価値観をとる必要はないからだ。しかし、グローバリゼーションを危惧する人々が「世界経済フォーラム」に対抗して「世界社会フォーラム」を何万人規模で開催するような新自由主義的な経済政策を推進する団体でもある「世界経済フォーラム」のような団体の国際競争力ランキングで、「野放図な競争を規制する平等な国」を高位にランクせざるを得なかったことに注目したい。平等か、競争か、のような二者択一によって常に発展のためには弱者が出ることをやむなしとする考え方も、フェミニズムがこうした競争への女性の参画をすすめ競争を激化させるものという誤解も正しくない。
現在、日本のジニ係数は「先進国」の下から6番目、貧困率は15%、アメリカ、アイルランドについで第3位という社会になっている日本において、平等な社会は競争力や活力を減退させるという考え方が年々大きくなっているように見える。格差のある社会=競争力がある、ない社会=競争力のないという前提は疑う余地なく、世界的に進むグローバリゼーションの新自由主義的な政策の流行によって、競争力や経済活性化や能力の発揮のために格差拡大が容認されるような言説が普通に受け止められているようにみえる昨今である。平等の価値が急落する日本においては、男女平等は美しい理念であるだけではなく、「経済的メリット」を呼び寄せることができるメカニズムもあることをスウェーデンを例に挙げて考察を試みたいと思う。
ところで日本の貧困化の問題の要因は、この10年間で、450万人正規労働者が減り、600万人非正規労働者が増えたといわれるそのことにある。フリーターの低賃金が大きな問題になっているが、女性問題に取り組んできた者には、70年代からの雇用の女性化の歪んだ現象であるパート化がこれまで放置容認されたため、とうとう大規模に拡大・普遍化したように見える。
マリア・ミースはヨーロッパの歴史の中で植民地化と、主婦化が、ほぼ同様な流れの中で起こったという自説を展開している(ミース、1997:156-167)。彼女は、ローザ・ルクセンブルクの理論を援用して、拡大を続ける成長モデルを支えるために近代社会が、さまざまなカテゴリーの植民地、とくに女性、他民族、自然を必要としていたことを明らかにした。そして「プロレタリアの反フェミニズム」と呼ばれる家族賃金のイデオロギーが、主婦化とともにできあがる。そして主婦として、労働現場に引き出されるのは第三世界の農民と同様、プロレタリア的な家族賃金ではなく、家計補助としての低賃金である。日本型とも言えるほど、いまだに強固にM字型を守っている日本においては、こうした主婦化としてのパート、そしてそれの拡大としての、若者の低賃金労働者化が国内貧困化とともに起こっているように見える。
しかし、そもそも労働者が一人しか働いていないのに、家族分の給与を払う男性賃金は資本制にとって原理的には利潤に反する。賃労働の中でどれだけ不払い部分を増やすかが、利潤の源泉なのであるから、これこそが二元論に立ったときに言う「家父長制と資本制との妥協」と言えるべき現象だと思われる。継続的蓄積の世界システムに加えて設備投資による飛躍的な労働生産性があってこそ、の「奇跡」であるが、そうした第2次産業は、いまや国際移動して、エスピン・アンデルセンのいうポスト工業化を迎えるいわゆる「先進国」ではもはやトレンドではない。こうした意味で言えば、スウェーデン型の「男性賃金の女性化」と、企業でなく国家による再生産費用の分担が、資本主義の発展段階にかなう、と逆に見ることができるのではないだろうか。こうした見方をすれば、男女の賃金格差の少ないスウェーデンの競争力と、そしてまた格差の拡大とともに日本経済が衰退する理由がわかるのではないだろうか。スウェーデン・モデルをフェミニスト経済学の視点からどのように評価すべきか、ジェンダー平等をあるべき理想としてではなく、経済合理性として立ててみたい。

グローバリゼーションと労働者の権利の両立

2005年11月24日、「働こう―仕事と貧困削減の間の連関」と言うストックホルムで行われたセミナーで、人口900万人のスウェーデンで183万人 (うち女性839.115人)を組織するスウェーデン最大のスウェーデン労働組合総連合LOの委員長ヴアニヤ・ルンドビー‐ヴェディン氏が「グローバルな連帯」と題するスピーチを行った。そこで彼女は、WTO世界銀行など、独裁下での強制労働や児童労働を許す国際機関を非難し、各国の輸出加工区での過酷な状況を批判し、グローバリゼーションのネガティブな面を指摘した。
LOのURLにおいて、以下のニュースが伝えられている。

スウェーデンは、世界経済フォーラムの各国の競争力の測定で、もっとも高い国となったが、昨年のILOの「よりよい世界のための経済安全保障」1)と言う世界の労働を測定した研究でも一位だった。
 スウェーデンが、「グローバリゼーション」とうまくやってこれたのは、明らかに、経済の再構築によって影響を被る個人に配慮する労働市場政策や普遍的な社会福祉システムが私たちにあるということと関わっている。
 労働組合の高い組織率は、この経過において労働者に発言権を与え、集団的協定の広い適用を通して、労働市場での良好な統制や流動性を保障する。
 しかし、グローバル化によるネガティブな影響として、有期の非典型的な雇用形態の急速な増加というスウェーデンでの最近の傾向が最近のLOの研究で明らかになり、特に臨時の仕事を強制される若い女性のブルーカラー労働者の数の伸びが懸念される。さらに、パートタイムで働いている女性組合員の多くは、フルタイムに再度戻れない。グローバルな文脈では、女性が差別され、世界労働市場(輸出加工区と比較せよ)において過剰に搾取されているのはよく見られることである。
 彼女はILO事務局長ソマヴィア氏の提唱するディーセント・ワーク(尊厳ある仕事)と言う概念を賞賛し、ディーセントワークがなぜ女性に完全な正当な権利を与えるのが大切なのかを示しているとした(LOのURL2005.12.6)。
労働権の保障や労働組合が、グローバリゼーションに対して有効であるとの発言だが、実際スウェーデンでは近年このようなことがあった。
東欧ラトビアの企業が、ストックホルム近郊の小学校の建設現場の発注を受けたが、ラトビア人をスウェーデン労働協約より安く働かせたと言うことでスウェーデンの建設労組が何ヶ月もストを打った。会社側が労働裁判所やEUに、外国企業への「差別取り扱い」でありこうした連帯行動は不当だと訴えたが、結局小学校側が進まない工事に発注を取り消し、ラトビア企業は撤退、スウェーデン側企業は倒産した(労働政策研究・研修機構URL、2006.1)。労働大臣が、この事件を受けて公共事業は、労働協約を破る企業には発注しない法律を作るように提案し(労働政策研究・研修機構URL、2005.6)、またLOは、早速昨年10 月ラトビア労働組合と、賃金のダンピングを防ぐ協定を調印した(LOのURL,2005.10)。
国内での社会的規制が働かずに、交換レートの安い国との交流が進めば賃金は下方への競争になる。労働組合の組織率が80%を超えるスウェーデンでは、賃金に関する法律は最賃法さえないが、強大な労働組合の団体交渉力によって社会的規制がこのように機能している。
また、スウェーデンにおいては、パートタイマーはこれまで正規雇用で時間が短いだけであった(国際交流基金編、1999:74)。1990年代の初めの通貨危機、また91年に保守政権になって70年代の労働者擁護の法律が一度廃止されて以来、特に若い女性たちをターゲットに臨時雇用が倍増し有期雇用の雇用形態は11以上になり、525000人が、不安定な有期雇用が多いとされる。こうした有期雇用では、賃貸契約や電話回線契約、銀行のローンも難しくあるいはできなくさえなってしまう、と、LOの懸案事項になってきた。今年3月「雇用の保証の強化に関する法制委員会」の労使が鋭く対立する法案が、提案された。これは正規雇用を雇用の標準形態とする法案 だ。
 政府は、誠実な雇用主と雇用者の希望によってのみしか有期雇用にできないと言う規則をつくり、こうした複雑な状況をなくすよう提案する。被雇用者の雇用期間の合計が、5年以内で14ヶ月となれば、終身雇用にしなければならないとされ、その上、この法案は妊娠および育児休暇中のものにおいても保護が与えられるとする。
 雇用保障は雇用主にも雇用者にとってもよく働けることを意味する。安定した仕事を経験すれば、率先して働き、自分の仕事に努力も払い関心も持つようになる。保障と言うのはつまり生産性ということだ。それこそが発展や成長や未来への信頼を生み出し、スウェーデンの福祉にとって利益になる。この法案は、さらに将来において、子どもか仕事か選択をしないですむようになるともしている。
 URLでは26歳以下の若い人から、雇用保障をなくすというフランス張りの保守派政党の不条理な法案とこの政府の法案は、鋭く対照的だと述べ、今年の9月の総選挙に向けて社民党をアピールする大切な法案となっている。使用者は、正規雇用の必要がないことを証明できる場合には、労働力の7分の1に関しては、パートタイムの労働契約を締結することができるが、労働組合は、パートタイムの雇用契約について、情報提供をする。紛争が起こったら使用者には自らの主張を立証する責任があり、特定の職業に関する労働協約が存在する場合、法律の適用除外が認められる。
70年代、正規労働者の高賃金(家族賃金)を守るために主婦化の再編として既婚女性から広がったパートの雇用形態差別に対して30年余り組合・行政ともに放置・容認し、拡大を許している日本とは大きく異なり、決然と経営者側の反対を押し切って制限をかけようとする労働組合と政府であるが、スウェーデンではなぜこのようなことが可能なのか。そしてまたパート化も企業戦士化もしないで石油ショック以後、他のヨーロッパのように高失業率に悩むことなく、どうやって完全雇用を90年代まで維持できたのか。外国人労働においても、スウェーデンでは、賃金の多重化、周辺化を大変警戒しているようにみえる。スウェーデンモデルの大きな特徴は、基本的に二重基準を許さなかったことではないか。ILOの1944年のフィラデルフィア宣言の「労働は商品ではない」ことを貫徹しながら「一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である」という一説を自らの利益擁護の目的で身を持って実践しているといえる。

労働組合の高い組織率と同一労働同一賃金

 LO委員長ヴアニヤ氏は、看護職出身の1952年生まれの女性で「LOの労働組合員はフェミニストでなければならない」と、就任演説した。現在ブルーカラー労働組合であるLOの約半分は女性で、最大の支部は女性が大部分のSKAF(地方自治体職員労働組合66万人)である。政権を長く取ってきた社民党と密接な関係であるが、現在に至るまで組織率85%を維持する。スウェーデンには、ナショナルセンターは他に二つ大卒者以外のホワイトカラーのTCO(約120万人)大卒者のホワイトカラーSACO(約50万人)があるが、それぞれ、やはり7割の組合の組織率である。日本の企業別と違い、管理職と現場職の組合が独立しているのは大きな特色だろう。
 労働組合の高組織率の理由は、労働組合が歴史的に密接な関係を持つ失業保険協会(共済組織)が失業保険を運営しているためとも言われている。9割以上政府が助成する就労人口の9割の組織率の任意制で、ベルギーの都市の名前にちなんでゲント方式といわれる。
ナポレオン戦争以来約190年間戦争をしていないスウェーデンは中立を守った戦間期1920年代に、普通選挙権を獲得し、世界初の議会による短期社民党政権を経験し、その後1932年、長期社民党政権がはじまるや、ケインズなきケインズ政策といわれ農民党との赤緑同盟といわれる協力関係のもと、大規模な公共事業を展開し完全雇用を達成したとされる(メイドナー、1994:148訳注3))。
戦後、好景気、労働力不足の中では失業より、インフレが大きな問題となった。社民党政府は、完全雇用と価格の安定の解決のために労働組合に自粛を呼びかけたが、所得政策的な手段では、完全雇用とインフレ抑制の解決策にはなりえないと、抑制的な経済政策と積極的労働市場政策を結合した新しい経済政策を提唱した。
どのような企業規模にあっても、同一労働同一賃金を原則とする連帯的賃金政策においては中小企業の被雇用者は、低賃金を避けることができるが、労働生産性以上の賃金を課せられた企業は存続の危機を迎える。企業が淘汰されることは、より効率性のいい経営が生き残ることになり(つまりは競争力のある企業だけが存在する)好ましいが、労働者は失業の危機を迎えることになろう。だが政府の普遍的福祉政策において生活を保障し、積極的労働市場政策によって、労働者の再雇用に責任を持つことで、労働者は失業による生活破綻の危機から逃れることができる。そして、無料の再訓練の機会を得て、自分にあった仕事を探すことができる。
 修正ケインズ主義とも呼びうるスウェーデンの政策は、有効需要を作り出すのではなく、積極的労働市場政策という、雇用の流動性を高める再訓練のみならず教育制度にまでかかわる政策である。国家財政の7%、GDPの3%という突出した額を労働市場政策に振り向ける。
 平等のために普遍的福祉政策を取り、教育はすべて無料、医療サービスや子ども老人の世話などの提供が行われている。その結果、スウェーデンの公共セクターは、30%を占め、政府は最大の雇用主であり、その雇用は福祉国家の基盤ともなっている。
 利潤率の低いセクターが高い賃金コストによって衰退しても、そこから排出された労働力を利潤の高いセクターに送り込むことができて初めて連帯賃金の目的が達せられるので、技術革新と労働運動は親和性が高く、また、企業間の勝敗決定が厳しく寡占になりやすい。スウェーデンは早くから、国有化の方針は手放したが、私企業を限定して社会化する手法をとってきたため、企業の市場は寡占の傾向があり、中小企業が少ない。酒の販売や、薬局など、1社独占の業種もある。また、90年代に入ってから、民営化が導入されたとはいえ、公共セクターの独占が多いのが特徴であり、それが零細企業を保護する日本と異なり、規模のちがう事業体でも、企業の採算性を配慮することなく同一賃金を追求しやすかったともいえよう。
 どんな事業体で働こうと企業に賃金をダンピングされることもなく、また経営の悪化と労働条件がリンクしないいし、失業の恐怖も緩和され、企業に拘束されることがないこのような大きなメリットを実感するので、その原資である所得の半分の高負担の税金も大きな抵抗にあわない。また、企業から自立できる時間の獲得と生活保障は、高い納税の再配分に対しての意見表明という意味での政治活動の自由も保障する。80%から90%以上の高投票率の自主投票による完全代表比例制で、国民の政治選択は高い合意が図られる。

二重構造をつくらない構造

そもそもスウェーデンは日本とほぼ同時期の1860年代に近代産業革命を発生させ、40年ほどで電力・石油による第2次産業革命にバイパスし、急速に発達し、豊かな森林資源による火力または豊富な水資源による水力発電により、各地に産業が分散し、極端な都市化をまぬかれたスウェーデンは、旧中間階級を温存し、地域社会を温存できたという(高須,1972:127-130)。
1920年代にすでに合理化によって労働生産性を40%上げたが、続いて起こる30年代の大恐慌により失業は20%を越えた。戦争によって経済の活況と、国内の階級対立をそらせた日本とはことなり、熱狂的なナショナリズムで、国民を統合することなく、国内問題として政治が解決することを迫られていた。
当時スウェーデンでは失業保険の導入が遅れており、失業対策事業が通常の正規労働者の協約賃金より安く労働をしたため、労働者たちの労働条件を脅かしていた。
エスピン・アンデルセンの指摘でも有名な農民同盟との「赤緑同盟」は、激しい闘争の末勝ち取った賃金のダンピングを招きかねない失業対策を事業を牛耳る失業委員会の解体(1948年に積極的労働市場政策の主役たる労働市場庁になる)、労働組合基金に政府の補助を加えて労働組合自らが管理するゲント制による失業保険制度(1934年)の先鞭を付けた。(宮本,1999:57)
 この二つは大変重要なポイントである。スウェーデンでは手痛い大量失業の経験から1932年長期社民党政権が生まれるのだが、賃金が協約以下の水準になることによって二重化(周辺化)し、協約を無化されることを防ぐために、労働者より失業者に安い賃金で働かせる失業委員会の解体と、労働協約の実際的効率を高める組合の高組織率の維持を可能にする失業保険の労働組合による管理権を1930年代に得たのは大変重要なことだった。
 次にこうした「周辺化」への懸念が生まれるのは、朝鮮戦争の好景気の影響も受け、賃金が高騰した1950年代である。ストの代用労働者として女性労働者が登場するまで、男女差別が大きな問題になることはなかった(Swensson,1995:63)。2度の大戦に巻き込まれなかった中立政策をとったスウェーデンは50年代にすでに、合理化を成し遂げ、生産過程の単純化と規格化を進めたため、非熟練の労働力の需要が増大して続いて賃金の圧縮がおこるのだ。合理化の過程が、賃金の高い男性よりも安い女性の労働力の意図的な代用を含む事は戦間期に証明済みであった。財界の合理化推進者は「女性の労働力は安いので、高い男性を少しにして、単純作業をする大量の女性を雇うべき」と薦めた(Swensson,1995:66)という。
“このような薦めに従って”女性労働者への露骨な二重化を許した国もあったが、スウェーデンでは、少なくとも労働条件においてはそうではなかった(国際交流基金編、1999年)。スウェーデンでは、1960年代に当時まで製造業で一般的だった女性賃金の別立て慣行による男女別の賃金を廃止した(宮本,1999:184)。(日本においては67年ILO同一価値労働同一賃金の条約の批准がなされたが男女別賃金は80年代以後も継続した。)スウェーデンでは現在、ブルーカラー公務員の労働組合が、合理化の進む製造業を抜いて最大のものになっている。組合員の女性比率も60年代は22%だったが、2000年には46%になった。組合組織率も2000年で、男性の組織率83%に対して女性の組織率87%である。
かつては60%近い組織率の時代もあった日本のように、もし女性を労働組合から疎外していたとしていたら、現在のような高組織率は維持されていないはずで、このように女性を正規の雇用労働に引き出したことは、現在のスウェーデンにとってきわめて重要だったことが想像できよう。

第2波フェミニズムの受容

高い労働組合の組織率を持つ国のフェミニズム、特に第2波フェミニズムの受容のあり方がスウェーデンモデルをいかなるものにしたかを概観してみよう。
 1968年の学園闘争から端を発した第2波フェミニズムは、スウェーデンにおいても強烈だった。既存の男性のやり方を真似しない大胆なパフォーマンスを繰り広げた「グループ8」という女性グループは、資本主義と家父長制の両方を批判し、男性を排除した。ポルノ・ショップ攻撃やポルノ広告破壊などもやってのけ、「泣く子も黙る」恐ろしい女たちとされ、当時はヒステリーの非現実家といわれた。教職者や政府の高級官僚のメンバーもいたという。が、しかし、その非現実的な彼女たちが70年に要求としてあげた、パートタイマーの法的擁護、保育施設の拡張などは、その後ほとんど実現してしまっている。
 この当時の様子をいきいきと描いて伝えてくれる塚口氏は、既成公的機関も資本主義の手先としてきた当初からの活動家が、「平等オンブズマンの講演を聞いたが、私たちが60年代から70年代にした主張と同じことを言っていた」と複雑な表情を浮かべたというエピソードを紹介している(塚口,1988:139)。ウーマンリブ運動の表現も反応も、遠く離れていても、世界同時的であることに驚かされ日本でのリブを髣髴とさせるが、そのあとの受容のあり方は各国によって多様である。
 70年代の男女平等のための「労働省の男女平等委員会」の出した報告書78年(リジェストローム他、1987、邦題「スウェーデン/女性解放の光と影」勁草書房)では、以下のように述べられている。
 現在のブルジョア家族は、現代社会に対して正反対の価値を持ち労働生活や社会の非人間性を埋め合わせ、階級間の反目を緩和させている。前産業化時代の家族では、妻の仕事は高く評価されたのに、産業化時代になって、女性は男性に依存するようになった、かつての女性の働きを忘れてはならない。
 現代社会では、女性と男性の文化には異なる価値体系があり、労働の分化が組織的に女と男を無理やり異なる状況に押し込めて以来、価値観の一方だけが発展してきた。男性の価値体系が支配的になって打ち捨てられてしまった女性の文化、それを、平等の名の下につくり変えてしまうことは、女性の自尊心や連帯感をうち捨てることになる。
 女性の職場の振る舞いに違和感があるのは女性の価値体系が否定されるためだ。「女性の親交能力や感情的分析能力ははけ口を見出せない。知的で社会的なことに関心を持っている女性の感情は抑えられている。本質的な欲求を拒否されると女性は苛立ち、失望状態に陥る」。女性は男性のような自信がないことに悩み、魂は植民地化されていると指摘する。
 男社会の官僚制や技術主義が切り捨ててきたものすべてをこれまで女性は請け負ってきた。女性たちが未開の自分の社会的潜在能力に気づき、女性たちの「集団の力」があれば、男性社会が考慮しなかった価値を発展できる。女性が集団として解放されれば、女性の誰もがもっている共有の価値や、男性とは違う生活体験を政策へととりこむことが可能になる。男性と女性の価値体系と二分された社会を打ち破り、両方の価値体系を両方に全域的に広げることこそが平等の目標である。女性解放とは女性を「一人の人間(man)」に成りすます以上のものなのだ。
 専門化/分化は多面性と全人生を踏みにじる暴力であり、性役割はこうした暴力である。平等とは、家族と仕事の組み合わせの問題だけでなく幸福の問題でもある。財産の所有ではなく、行動の自由を増す資源を得ること。平等が最終的に目指すのは「分割不可能な全人間」を作ることである。それは私的役割を公的なものと統合し、再生産の役割を生産におけるものと統合することだから、役割の変化は女性だけでなく男性も完全に巻き込むことになる。個人という面から平等の目標は、多面性そして全人性なのだ―――。
 この中にはいまだに新鮮な、女性性への肯定感が見られる。また、女性の参加を現在のシステム全体への変革を内含していると見る。
 スウェーデンはこうした形でリブの運動を受容し、1980年性差別禁止法の制定につながり、さまざまな制度が生まれた。70年代は女性たちの運動だけでなく、社会全体に左傾化の強力な動きがあり、雇用保障法、共同決定法など、これまで労使自治が原則であったスウェーデンの立法による労働者の権利の拡充が図られた。その片鱗の見当たらない国もあるが、スウェーデンでは大きな遺産を残した。

反資本主義モデルとしてのスウェーデンモデルの皮肉

昨年12月なくなったLOのエコノミスト、R.メイドナーはスウェーデンモデルの創設者として名高いが、1992年カナダ・ヨーク大学で行った講演で、このモデルの革新性を、「完全雇用を経済的な安定と結びつけ、そして失業とインフレと不公正な賃金格差を同時に克服しようという考え方」にあったといい、平等の実現に優先順位をおいた。(メイドナー、1994)。メイドナーは、スウェーデンモデルを作り出した労働運動が、スウェーデン福祉国家の発展を導いたという。
女性の労働力率を上げるのに民間の合理化によるプル要因だけに頼らず、公共部門の女性雇用の拡大による女性の平等な待遇による経済的自立は、積極的な政策として行われ、福祉国家の基礎をなしている。スウェーデン国民は福祉の利用者としての恩恵を受けるだけではない。供給者=雇用機会としての恩恵をも受けている。女性の就労への便宜にもなる介護や保育の担い手として8割9割が女性を占める公共セクターのブルーカラー職は、「家事労働の社会化」として、主婦たちの就職ステップを容易にした。スウェーデンの最大の雇用主は政府であり、1/3の雇用を占めるようになったが、スウェーデン国民にとって(特に女性)は雇用を得られ、政府にとって納税者を得られ、組合にとって労働組合員を得られ、社民党にとっては、支持層を増やすことにもなる。完全雇用と政治システムと福祉国家づくりがぴったりリンクしている。
メイドナーは、先の94年の講演で「資本主義的生産が完全に達成することができない目標を設定し、その実現に向けた政策手段を展開している」という意味において「反資本主義モデルとしてのスウェーデンモデル」である、と述べている。が、実は皮肉なことに、資本家側においても、この「反資本主義モデル」は十分な見返りのあるモデルでもあったのである。
 「・・・労働組合は連帯的賃金政策を進めて政府のインフレ抑止策を支援する。これに対して政府は、連帯的賃金政策の『犠牲者たち』に対して、新たな職業獲得の機会を保障してこれに報いる。このような契約に両者は合意したわけである」というが、スウェーデンではこうした労働者の犠牲を伴わない企業の淘汰により、優良企業が生き残ることになった。
国際市場での競争に勝てる大企業においては、連帯的賃金政策はむしろ人件費の抑制になるのである。(メイドナーはこれを重く見て、国際的大企業による過剰利潤を労働組合の企業所有へつなげようと、労働者基金を提案したが、幾多の政治的紆余曲折を経ながら、この講演の同年、保守政権に廃止された。)たとえば実際この連帯賃金は、26年のLO大会で金属労組からの低賃金底上げのために提案されたのであるが、当時産業労働者の170%であった建設労働者の賃金が、LOの介入で130%に圧縮され、建設労働者の賃金の高騰が調整されたという形成期を経て、41年にLOの公式路線となった過去の経過からも、実は賃金抑制策、調整策として機能した(宮本、1999:59)。
企業の雇用者の社会保障拠出金は大きいが、企業規模と連動するし、勤労者の税金負担が約50%(自治体によって異なる)であるのに比べ、法人税は28%と国際的にも大変低いレベルなのである。
70年代の毎年10%を超える、インフレの時代、労働組合は賃金の抑止政策を耐えた。そのときに劇的に伸びたのは女性の労働力率と、賃金格差の是正である。この推進力は前述した女性運動の高まりがあったのは確実であるが、見方を変えると、女性の賃金の拡大により、男性のインフレの中目減りする世帯所得への「補助金的役割」を果たしたともいえる。
昨年の自治体の賃上げ妥結では、工業部門の労働組合は、輸出産業の競争力を維持するとともに、公務部門の低賃金女性労働者に配慮して、賃上げの要求水準を抑制した。2004年は3年連続でとりわけ地方政府の公務部門の賃上げが民間部門の賃上げを上回り、地方政府職員の賃上げが4.4%であったのに対し、工業部門の賃上げは最低水準の3%であった。(労働政策研究・研修機構URL2005.5)
輸出主導型の男性の多い民間組合が、公共部門の現場女性労働者の底上げのために自分たちの賃上げを自粛するこの「奇妙なほど友愛に満ちた行動」は、公共部門の妻と、私企業の夫というスウェーデンで典型のブルーカラー同士のカップルが、世帯賃金をあげるインセンティブを考えると納得できる。国際貿易の割合が40%と大きいスウェーデンにおいては(日本は10%)、民間部門のコストは企業というより国民的問題である。民間と公共部門の性別分離は、スウェーデンの大きな特徴であるが、マクロ的に見ると、民間の国際競争分野での男性労働者の人件費コストを下げるための補助金的な役割を負っているとも見える。女性の雇用の拡大を、民間企業が負担する男性労働者の家族賃金のコストを、政府が肩代わりする国際競争力増進のための公共事業・補助金と考えれば国家的通商政策なのである。日本の公共事業が「男性型」であるのを痛感するが、こうした「女性型」公共事業、男女平等志向賃金政策は、スウェーデン国家の蓄積、競争力の源泉でもあるのである。

1)ILO(国際労働機関)の「Economic Security for a Better World(より良い世界のための経済安全保障)」とは、世界90カ国以上について経済安全保障指数(ESI)―十分な雇用機会の保障、一方的な解雇等からの保護など仕事に関わる7つの指数をベースに測定される。指数ランキングの上位はスウェーデンフィンランドノルウェーといった北欧諸国が占めた(日本の順位は18位)。


【参考文献】
アドラー=カールソン, 1967(訳・丸尾直美・永山泰彦)G.『機能的社会主義 中道経済への道』、ダイヤモンド現代選書。
伊田広行、1999、「スウェーデンの男女平等―その歴史、制度、課題(1)(2)」『大阪経大論集、第50巻第1号』、1999年7月、『同第50巻第2号』、1999年7月。
エスピン-アンデルセン,G、2001、(訳・岡沢憲芙・宮本太郎)『福祉資本主義の3つの世界』、ミネルヴァ書房
――――――、2000、『ポスト工業経済の社会的基礎:市場・福祉国家・家族の政治経済学』桜井書店。
均等待遇アクション21、2005、「EUからの風 進化し続ける男女均等政策」。
国際交流基金編、1999、『女性のパートタイム労働―日本とヨーロッパの現状』、新水社
猿田正機、2003、『福祉国家スウェーデンの労使関係』ミネルヴァ書房
高須裕三、1972、「スウェーデン労働組合―その組織・現状・動向―」『政策学会年報 第17集 70年代の労働者状態社会』、御茶の水書房
塚口レングランド淑子、1988、『女たちのスウェーデン勁草書房 
ニューズウィーク、2006、1月25日号、阪急コミュニケーションズ
深澤和子、2003、『福祉国家ジェンダーポリティックス』東信堂
丸尾直美他編、1999、『先進諸国の社会保障5 スウェーデン東京大学出版会
ミース,マリア、1997、『国際分業と女性』(日本経済評論社
メイドナー,R、1994、(訳・宮本太郎)「スウェーデンモデル:概念・経験・射程」『立命館法学、1994年1月号』
宮本太郎、1999、『福祉国家という戦略』法律文化社
ヨハンソン、A.L、1994、(訳・篠田武司)「スウェーデンモデル―その歴史と未来」『立命館産業社会論集第30巻第2号、1994年9月』
リジェストローム他、1987、(訳・槙村久子)「女性解放の光と影」、勁草書房(原著1978)
Edling, J , (1992),Labour cost and social protection: an in ternational comparison,LO
――――, (1998), The anatomy of labour cost, LO
Swenson,P ,(1989), Fair Share : Unions, Pay, and Politics in Sweden and West Germany, Adamantine Press Limted.
Svensson, L, (1995), Closing the gender gap, Ekonomisk-historisk föreningen

【参考URL】
労働政策研究・研修機構URL
http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2006_3/sweden_02.htm
LOのURL
http://www.lo.se/home/lo/home.nsf/unidView/3A9B48422B896CF7C1256E4B00435784  

ホテルルワンダその後

はてなはほとんど書いていないのだが、そろそろこっちに書くようにしよう。

この間(1月18日)はホテルルワンダについてかなり辛口の意見を書いたが、そのあとニューズウィークを読んで監督の話を知ったら、なかなかな人で、あのようにひねくれた感想はあたっていないのではないかと思ったのであった。あの作品自身はとてもすばらしい映画であることは事実だし、それをつくろうとした監督の志も高い。

映画のあとに買ったパンフレットの影響が大きかったようだ。あのようにひねくれてみたくなるようなつくりだった。でも介入すべきかどうかはやっぱりよくわからないな。ましになったかどうかもわからない。結局は他国は利害があるから介入するのだし、利害があれば現地の人ではなく、介入する側に都合がよい方向になる。国連でさえ・・・。

人の善意というのはどうやって担保されるもんだろうなあ。ルワンダ人の彼でさえ、自分の家族が関係なければ関わりたくなかったんだから、「先進国」の人たちが何の利害もなく危険なことに関わりたいわけがないとも思う。

仲のよかった隣人が連れ去られても知らぬふりをしたルワンダ人の主人公に、私たちが責められるのかどうかはわからないけど、でも、監督は少なくとも「先進国」の人間として、その冷淡を告発してはいる。

でもアメリカのような介入は誰も望まないし、そうならない介入ってホントにありえるのかな。アメリカのもっとも良質な部分に占領された日本でさえ、啓蒙されきらなかったのだ。

ともあれ。

個人的なことを言えば、論文がかけてうれしい。次の日記に掲載しよう。長いけど。