手伸べ返し 6

自動車は、自分が如何ほどの人間であるかを人に知らしめるに打ってつけであるとわたしは考えて居ります。わたしの愛すべきジーノがあんななのも、父が一生を掛けたところでハリヤーに届かずまるで宝石の如く大衆車を磨き上げるのにも、きちんと理由があるのです。男はハリヤーを愛して止みませんでした。ハリヤーを愛していた? いや違う、男が愛していたものとは。
「またアイスのチョコを落としてる」
わたしはクランキーチョコのアイスクリームを食べて居ました。わたくしはチョコとアイスを好物として居りました。チョコとアイスの複合体ともなれば食べないわけに行きましょうか、行きません。しかし不注意で、チョコレートが棒から落ちて居るのです。ごめんごめんと謝り、わたしは食べ逃した部分を拾い上げました。
「この前も落としていた。ぜんぶ拭いた」
ギア近くの小物入れを指差し、もう一度言います。拭かれているのでチョコの溶け跡は見当たりません。
「ほんと? ごめんね」
「ここにもあった。ぜんぶ俺が」
「ごめんなさい」
「この粘着部分にも付いていたけど、それはもう捨てたけど付いていた」
詫び入りました。
「俺のハリヤーが」
黙って聞きました。(つづく・・)

手延べ返し 5

 ある休日、男は三重県にあるナガシマスパーランドに行きたいと言い出しました。遊園地に中規模なアウトレットモールが併設され、この度さらにショッピングセンターが大きくなったのだと言います。それでふたりは遠出しようと車を走らせ、伊勢湾岸道路に乗りました。自動車専用道路は愛知県から三重へと続き、伊勢湾を跨ぐ橋は別名トリトン、灰色の海と黒い工場が橋の下に広がります。トリトンは地面よりずいぶん高い場所に架けられていますから、下に広がる工場地帯はジオラマの如く点点とした風景です。あすこに見えるタービン、今作り途中でしょう、わたしが働いているところです。デトロイトの方がもっと壮大だよと、男は景色について言語り始めました。愛知から三重に行くための道は県道が二本あり、どちらの道も日夜トラックで埋め尽くされ滞り人をやきもきさせますが、その点トリトンは道路の料金が高値のため利用者が少なく、道路は直線ばかり、それに付けて広がるいっとうの海と工場地帯ですから、運転手の気分は次第に乗って来るのが常であります。道は我がもの。隣で運転している男もずいぶん気を良くし、随分なスピードで車を走らせました。そのまま気持ち良くさせて置けば好いものを、と、一台のカローラが車線をずれて男の目の前に起こり立ったのです。先に広がる開けた視界に暗幕を下ろされ、案の定男はむとし、「俺のハリヤーに勝とうなんて」と、挑まれたと思ったのでしょうか、男は口をつむり右足に力を入れました。低いエンジン音が大きく轟き、すると一瞬体は宙に浮いて、車は速まりました。「カローラ如きが」そう言い放つと、男はたちまちに車線を変更し必死の形相で白いカローラを猛追して居ります。目にする景色がみるみる変化致して居ります。そうしていくばくも経たぬうちに、男の車はカローラを捉えるのでありました。切って落とされたデッド・ヒートは呆気なく終わってしまった。カローラは段々に後ろで小さくなって行きます。男はしてやったりの顔で「やっぱり俺のハリヤーの方が早い」と、勝利に酔いしれました。確かにハリヤーは立派なように思えました。ハリヤーはハリヤーでもすべてが最上級のカスタマイズなのだという話を、わたしは浴びるほど聞いていました。なるほどわたくしが所用して居ります事故三昧くたくたミラジーノからすれば、ひとつとっても十とっても金目の感じがして、行き届いております。黒光りする車体は高価なカブトムシの胴のように思えなくも無いが、ワックスのせいでしょうか。ワックスも高級であると言っていたのを記憶して居ります。
「俺のハリヤーが・・・」
男は未だくくくとほくそ笑んでいます。こうして、不測の事態も思惑通りにことは済んだのです。わたしはまんねん白いカローラに乗り続ける、父の小さな背中を想っていました。もう間もなく三重に着きます。(つづく・・)

手延べ返し 4

 とかく男は見栄っ張りでした。見栄っ張りとはたいがいケチのことを言います。会社の女の子と飲みに行けば全部その男が払うので、部下の女衆は流石太っ腹と無邪気に喜び、男は一緒に飲んでいた払いの悪い同僚の男性を揶揄して居ました。厄介なのは、男にやぶさかの自覚がないことでしす。付き合い出して間もなく、わたしはルイ・ヴィトンの黒革の財布を持たされました。未ださほど使われていない様子でぜんたいに艶があり、ロゴの型がそこらじゅうに押されています。この財布にお互い月々1万5000円ずつ入れて、それで一ヶ月のデート代としてやりくりしようと言うのが男の考えでした。それでわたしはいっさいをこの財布から賄いました。たまにご馳走してもらうと、奢ってやった奢ってやったと勝利の感に心奪わせ鬼の首を取ったようにわたしを攻撃するので、非常に面倒でした。ある日、わたしは家で飯を拵えるのがいやになり、すがきやに連れて行けと言いました。すがきやは名古屋発祥のラーメン店で、この地方のスーパーに入れば、ところどころ店舗を構えて居ります。値段は安く、いったい何で出汁を取って居るのか分からない白いスープが癖になり、時折無性に食べたくなる不思議なラーメンなのでした。小さい頃わたしは家が貧しかったもんですから、当時これは大変なご馳走で、今となっても思いは変わりません。男もすがきやは好物だったようで意見が一致快諾し、近くにある場末のスーパーに立ち寄りました。錆びれたスーパーでありましたが鮮度が好く手頃なものばかりなので人の出入りは多く、すがきやも繁盛して居りました。厨房から白い湯気が立ち込め、早々とカウンターにラーメンややソフトクリーム、コーヒーゼリーが並べられます。注文しようとレジの前で例の財布をわたしが出したとき、男は知った女の顔を目にするのでした。女はわたしくらいの年の頃で、髪の色の明るい、目の周りを黒く際立たせる化粧をした、細そりとした女性の人でした。女は先ずわたしの方を見ていて、それから一緒に居た男に視線を遣り、その男が知り合いだと気付くと、逃げるように消え去りました。その人は鬱病で会社を休んでいるさよちゃんと言う子で、休業中のため職場の人に会いたくなかったのでしょう、決まりが悪くて飛び去ったのです。そして決まりを悪くしたのはさよちゃんだけではないのでした。男が体裁悪く恥ずかしそうにして居ります。
「会社の人にこんなスーパーのしかもすがきやに居るところを見られるなんて」
「会社ではすがきやを食べるイメージではないの?」わたしが訊ねると、
「そんなもの食べたこともないと思って居るはずだ」一生の不覚と嘆いて居ります。わたしが、
「「しかも割り勘と来たもんだから」
と付け加えますと、たちまちに気を悪くし
「もうアイス、奢ってやらん」
そんな、と思いました。わたしはアイスを好物として居りました。(つづく・・)

手延べ返し 3

 男は今まで女に振られたことはありませんでしたし、告白した経験もないとむかしを振り返ります。「だから君に告白したのは、俺にとってすごく意味のあることなんだ」それはわたしに取って意味を持たぬことでした。この男は、わたしに躓いたのだと思います。まわりの女の子といかにも違う風であったから、この珍妙な女子に関心が動き知らずのうちに好意へと変化を起こしてしまった、それは事故に近かものだと女は振り返る。「今も4人の女の子に告白されて居るのだ」すごいのねと、返すと、「でもみんな断ったんだよ。彼女が居るからって」そしてそれは如何にもお前にとって意義深いことなんだよと求められている気持が圧し掛かり、しかしやはりわたしにとって変化のないことだと思うのでした。男の会社には若い女性の事務員が多く居りました。数人を部下に従え、理路整然とした的確な指示、女性という立場を弁えた良識ある態度、意地の悪い上司の愚痴も心を持って聞いてやるので若い女性からの人望はたいそう厚いと言うことで、もうここまで来ると果たして真実を言っているのかわたしには存ぜぬところであります。違う話をしてみないか。
「ボーナス100万もらった」
ボーナスが出た日、男はわたしに言いました。他の人より多いのだと言います。評価点の換算で同期よりもずっと多い金額であるそうで、わたしは生まれてこの方ボーナスをもらったことがないので、舌打ちしました。
「湯水の如くお金を使って居るよ」
何万もするジーンズを買ったと見せてくれますが、趣味が合わず難解でした。高そうな時計をしばしば見せられます。香水について何とか言っています。高価なもの、はでやかなものを好むあたりはいかにも名古屋人らしく、でかいひろいわかりやすいものが好きなのははたまたアメリカ人のようでした。わたしは、大味の映画を見ているようだと、後に男のことを振り返って居ます。とかく男は衣装持ちで、中でもハンカチと靴下は数多く所有して居りました。ハンカチと靴下の銘柄は決まってバーバリー、ラルフローレン、カルバンクラインの何れかでした。会社の女性というのはさりげないお洒落に目が行くもので、ふとハンカチを取り出したときに見えるワンポイント、椅子に腰掛けたときパンツの裾が上がって見え隠れする馬や騎士やアルファベットを決して見逃さないというのが男の持論でありました。仕事ができる上に服装にも気の遣える男なのねと感心することを目論んで、その話は寒心に堪えなかった。違う話をしてみないか。わたしは百貨店の靴下売り場で楽しそうにブランド品をより分ける男を見て、生きる違いを思いました。「このハンカチなんかどう思う?」この男とどう渡り合えばよいのか。先を案じますが、他に好いところもあるだろうと、わたしは心に言いました。日曜の夜ともなると男は一週間分のハンカチに丁寧にアイロンを当て、折り目正しくぴっしりと四つ折りします。男の部屋で手持ち無沙汰なので、アイロンを掛けましょうかと伺うと断られました。わたしは取り行いが雑駁として好い加減なので、信用されて居らんのです。仕方なく靴下を畳みますが、男の畳む方法とは違うと言うことで、すべて直されました。明日はどのハンカチと靴下で俺を演出しようか。そんな男はゲイナーを愛読して居ります。(つづく・・)

手延べ返し 2

 男は愛知県の豊田市というところでひとり暮らしをして居りました。ベランダに出ると目の前には田んぼが広がり、夕べになれば蛙がよく鳴いていたのを覚えています。わたしの自宅も古墳にほど近い片田舎ですが、家のまわりの田んぼはとうの昔に埋め立てられ、そう言えば何時の頃から蛙は鳴いて居ません。男は豊田に住む男らしくトヨタ系の企業に務め、会社と自分の仕事について揚々と誇りを持って暮らして居りました。付き合って毎晩のように電話をくれますが、たいていは仕事が多忙で参って仕舞うといった具合の話です。忙しさは彼のステータスでありました。男は県内にある大学を卒業したのち今居る会社の人事部に配属され、まもなく社労士の資格を取ります。士業の知識は仕事に活かされ、職場には彼しかできぬ仕事があるらしく、また上手いことやるもんだから、若くして管理職の立場を任されました。毎夜日を跨いで仕事をして居ります。その当時会社では大がかりな合併事業が行われて居て、将来に向かって人事に関する新しいガイドラインを作るとか何とかで特に忙しいのでした。彼は言います「会社に自分しかできない仕事などない」俺が居ないと回って行かないと言う奴は、単なる奢りであるとする。ひとつ正しさがありますが、しかし彼のレゾンデートル、社会的意義はどこにあるのですか。発言は君子でありたいとする彼の願望から起こるものであり、彼自身の行動は全く異なことでありました。自分が居なくては会社は非常に困るとすることで、生きる理由を掴みましたこの男は。週の殆どをそれに割き周囲の信頼と期待を背負ったとすれば、人間はたいていそうなるのと思います。彼は忙しいという幸福のため息を洩らし、嘆息の後には常に自己にかかる存在意義の再確認と啓発と奮起がありました。「忙しくて仕方がない他の人は仕事ができない回らないそのため幹部にいちもく置かれて居る」。ジレンマとともに生き、真理を突く矛盾を人ははらみます。際限なく続く課題と向上心、努力の結果得られる達成の悦びは、彼の人生に確固不動のサイクルとして組み込まれました。忙しいさなか司法書士の勉学を始めるそうです。成果成果成果。分かり易い勲章が欲しい。悦びを獲得するに伴う苦しみ、ストレス、疲労感が己の存在を顕示し人々の感心を誘います。男の一生を持ってなされるランニング・ハイ。止まれないキャピタリズム。わたしは限り無く長い助走のごとく人生ですから、ランニング・ハイを横目に見て、遠く星にいるような気がしました。男はわたしに就いて「今まで会った女の子と違う感じがする」と言います。わたしもそうです。(つづく・・)

手延べ返し 1

 去年のいま時分はわたしにも彼氏が居りました。その人は六つばかり年上の人で、ある冬の日、わたしに付き合って見ないかと言うのでした。わたしの家から歩いて二分のところにある、三ツ屋という喫茶店での話です。三ツ屋は近所の人が憩いの場としてひとときを過ごす、自家製のケーキとパスタが美味しいと評判のお店でございました。もとはしがない古ぼけた喫茶店でしたが、あるとき地域密着型の店舗として大いなる発展を遂げ、鉄の灰かむりのような町には小ぎれいでしたから、市はこの店に街並み景観賞を遣りました。名古屋という土地柄もあって、週末の朝にもなればモーニング目当てで駐車場は溢れかえり店の中は引っ切り無し、栄えました。モーニングに行くことはめったありませんが、わたしも手元に幾らかお金があると、そこでアンチョビーときのこのパスタをお願いします。その日もそれでした。職場の中国人が殺し殺される因果めいた傷も癒え、大人しく発電所のOLと決め込んだ頃の話であるから、ひかくてき収入は安定しやすやすとパスタなんかも食べられたわけです。ほんらい外食は殆どしませんで家でとるにたらぬものを拵える毎日ですので、外で食べる機会があればなかなか口に入れたことのない味のするもの、舌を中毒させふたたび食べたいと思う感覚、家で作れぬてまひまかかったものを頂きたいと考えて居ります。作る食べるなら家ですれば好いことですから、食べた思ったとする経験の対価にお金を落としたら働いた甲斐もございましょう。濃厚な白いクリームは青くさいチーズのためもったりと、よく利いた大蒜の香りが食欲をあおってひとくちふたくち我先に行かん心持ちにさせます。料理に水気が無く味がしつこいので早いうちに飽きてきますが、しかしこの味は家で作れんのです。アンチョビーの缶詰めは、少量の割に値段が高いので、わたし買えません。我が家で生クリームのとろみとイワシの塩味が出会い、絡み、ともに踊ることはなく、それでわたしは決まってこれを頼むのです。君とだったら上手く行く気がすると男は言いました。俺と居れば絶対にしあわせになると。わたしは泥のようなパスタを無心に掴んでいたので、いったん箸を休め紙のふきんを一枚取って口を拭い、少し考えさせてとしおらしく言いました。すぐに答えはでないわ、わかったと男が肯くのを見ると、ふたたび箸を手にとり食べ戻りました。わたしと付き合いたいと? 交じり絡みダンスを? そのときわたしの心は決まっていなかったと言います。それより、今書いていてさえ食べたい。男は好かれんがため女にご馳走しました。礼を言い店を出て男から離れ、翌日わたしは交通事故にあいました。(つづく・・)

パパンの電話

 週のはじめの仕事が終わった。楠雅は電話を取った。楠雅は父。母の勤め先の元同僚の、清水さんからの電話であった。清水のおばさんは母に代わってくださいと父に頼んだ。それで父は受話器を電話機のそばに置いて、叫び声で「電話の長い人から電話」と母を呼ぶのであった。露子はあわてた。母の名は露子。彼女の夫の声は家じゅうに響き渡り、また向こう岸に居る彼女の友人にも届いたに違いなかった。露子はあわてた、が、客人に改まって謝るのも具合が悪いので、止むを得ず平静を装った。電話はすぐさま切られた。今までに無く用件のみで済まされた。父は母に背を向けテレビに向かって、ちょうど時間は東京フレンドパークⅡであったから、大声を上げて興奮し出した。月曜日の晩、その夫婦はふたり揃ってテレビにあれこれ騒ぐのを楽しみとして居た。然し父は今日我が風変わりな行動のためひとり切りである。関口宏は笛を吹いた、清水さんは事故に遭った。
「好かん人」
電話を置いて、女は夫をにらんだ。夫が耳を貸さず妻を無視するので、行き場のない妻は娘の名を呼び子供に言って聞かせた。「お父さんいやらしいんやで。いま清水さんから電話掛かって来て、保留もしんと電話下に置いただけで、「電話の長い人から電話」って呼ぶんやで。そんなん清水さんに聞こえるやろ、清水さんもすぐ電話切ってしまったわ、ほんまにいやらしいわ」
わたしは終始そばで見ていたので、言われずともことの次第をわかって居た。部屋がひとつしかない。
「ほんまに我が身さえ良かったらいいんやから。ほんまに怪しからん人や」
露子の気は沈まぬようであった。
「清水さんもな、電話長いもんやから、そやさかいに電話取りたくなかったん。森さんも清水さんの電話はほんまに長いって、もういやや言うとった。清水さんも清水さんやわ。清水さんの娘さんうちの会社入るのわたしに口聞いてほしいなんて。自分で頼んだらええねん。そんで娘さん会社入ったらわたしが教えなあかんねん。娘さんは働くの2ヶ月の約束って言うとったけど、今やってるところのパート休んでうちの会社くるわけやろ、そのまま居座るつもりなんや。今の働いとるとこ嫌なんやろか? そりゃ嫌やろ。それにうちの会社ボーナスがええから入るつもりんなんやで。そんで暇になったら首切られるのはわたしや。歳取っとるから。会社はパートに容赦ないからな。もういらーんってそんでおしまいや。もう61やし、ええねん、若い人が入ったらええねん。そやけどまたわたしがナイフの使い方おしえたらなあかんやろ。もうわたし無理よ、新原さんお願いねって新原さんに頼んだったわ、そやけど結局わたしが教えるんやろ、もううっとおしてかなわんて。そやけどお父さんはほんまに好かん人やわ」
わたしは黙って聞いて時折肯いた。この話もまた、この数日幾度となく繰り返さたことだった。目新しい情報がひとつもない。清水さんの娘さんが母の会社に勤め続けて母の首が切られれば、父も今の勤めを辞めて、両親は里に帰るだろう。そうしたら私はひとりでこちらに住むこととなる。ひとりになれば、わたしはいよいよ名古屋に居る意味をなくしてしまった。なくしたとき、わたしは何処へ行くのだろうか。我が身の生計は成り立つのか。生活する張り合いを持つのか。間もなく来るかも知れぬ出来事に少々の不安がよぎったが、すべては仕方の無いことだった。わたしは抜け出して湯船に浸かりたいと思った。そして出来れば、そこは静かなのが望ましい。かしましい女の話が止まらないので、
「お父さんは気違いだから、仕方ないよ」
と言うと、
「ほんまにそうやで、気違いで…」
止まぬ。やかましい。父が悪いのは明白なので、父は決まりを悪くして居る様子であった。かと言って母のけんけんな態度が長らく続くので、怒鳴り返すことは無いにしろそのかわり間じゅうテレビにエールを送り続けた。いったいその様子の必死であること。我が身の中傷を掻き消さんかのような、盛大なる声援が、母の向こうで鳴り響いた。ホンジャマカは応援されて居る。
「野々村はほんまに駄目やな」
父はまんまん得意気に言った。野々村のダーツはたわしを当ててしまった。スタジオに落胆の空気が流れる。俺ならやってやるのに、という過信が男を輝かせ、遠くから聞こえる女の遠吠えをさらに後ろのものとした。狭い古びたアパートの一室、部屋はひとつであったが相容れぬ心情が広々とそこらを行き来した。男は誰も得とせぬことをやってのけるのをきわめて得意とした。策略も悪意もなく、あるのは変わりやすい心と頭の悪さであった。可哀想なお母さん、可哀想な清水さん、可哀想な野々村真。お隣の川尻さん、うるさくありませんか、すみませんです。ひとえに、父さんは得体の知れぬ中年女に母を取られる思いがして、ふいにさみしくなりいやことを言ってしまったのだ。残念で不器用な父は何時も遣りようを間違えるから、馬鹿で可哀想だ。ヒューズが飛ぶ、電源が落ちる、されど父は平和に暮らした。母はこの不憫な男を愛し何時も横に居た。夫ももちろん然りであった。それでわたしは、今のところも真っ直ぐ育って居るのです。