注目の小さいメディアⅡ

前回にひきつづき、注目の小さいメディアといえば
紀伊国屋書店のPR誌「scripta」
紀伊国屋書店には出版部もあるのです!)。



PR誌というと馴染みのない人も多いのかもしれないけれど、
書店のレジ周りでタダでゲットできるとあれば
フリーペーパーとほぼ同義ともいえるし、暇つぶしに読むと
意外に面白い連載が発見できたりという嬉しい出会いもある。
(ここでの連載がまとまって本になるということも多い)。


新潮社の「波」、朝日新聞出版の「一冊の本」、文藝春秋の「本の話」
講談社の「本」、幻冬舎の「ポンツーン」など各社それぞれのカラー
が感じられるPR誌の中でもいくつかお気に入りはあるもので、
たとえば東大出版会の「UP」などは山口晃の「すゞしろ日記」目当て
にもらったりしている(最近、羽鳥出版より単行本化されて嬉しい限り)。


そして「scripta」がお気に入りなのは、いったい次の号がいつ刊行される
のかわからないというその不定期刊行ぶり!、そして連載陣の質の高さゆえ。
名前は書き手として確立した人たちばかりで、これからを期待する
新人発掘媒体というわけではまるでないが、安定感がありつつ、
企画の立て方がきちんとつめられている感じがする。
だから単行本化されるときにも、ほとんど加筆修正する必要も
ないのではないかと思うほどだ。


で、レギュラーの連載陣は
斎藤美奈子森達也都築響一上野千鶴子などといったラインナップ。
中でも愛読しているのは斎藤美奈子の「中古典ノススメ」、
上野千鶴子「ニッポンのミソジニー」の2本。

「中古典のススメ」とは、古典にもまだなりきれておらず、かといって
新刊というわけでもない「中途半端に古いベストセラー」本の
書評エッセイで、その本がヒットした時代背景を分析しつつ
本の紹介がされるという、なかなかに面白い試み。


「ニッポンのミソジニー」とは、タイトル通り、日本の中での
ミソジニー(男の女性嫌悪)現象を日常から切り取って
上野さん流に分析を加えたやや柔らかいエッセイ。
文学も政治も事件にも目配りしつつ、女性を取り巻く現象
が綴られているわけですが、抑制がききつつ腑に落ちることも
しばしば。その面白さはまた言及することとして、hpでも
過去のものを読めるようなので、気になる方はチェックしてみてください。
http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-1.html

注目の小さいメディアⅠ

朝日を開いても企画のお粗末さと文章の下手さにがっかりし、
かといって日経も、おじさん臭さと経済中心の作りゆえ100パーセントは
満足できず、週刊誌をめくっても突っ込みの足りなさと
芸能記事中心の作りに嫌気がさす。となると、満足いくニュースやら
切り口のある記事にたどりつくためには海外メディアしかない!
ということになりがちな今日この頃。
なんだか満たされない思いにかられながらも、小さくても気骨ある
メディアと英語メディアを組み合わせればなんとかやっていける気も
している。メディアとの付き合い方としては今後、自分の気に入った
小さいものをカスタマイズしながら、いくつかを同時並行で読みつつ
というのがあるべき道なのかもしれない。



ということで、最近お気に入りの「小さいメディア」をいくつかご紹介。


まず1つは、偶然外苑前のリブロのレジ脇にて出会ったフリーペーパー
『kate paper』です。広告が入りまくりで、中はスカスカ、読むところは
まるでなしというフリーペーパー概念をくつがえす充実ぶりに驚き。
発行元は下北沢にある「kate coffee」というカフェのようで、
カフェ発のフリーペーパーなんて内容も軟派に違いないという予想も
裏切ってくれる。http://www.katecoffee.jp/index.kate_news09.html
私が手に取ったのは3号目で、冒頭から「雑誌の危機」というか、紙媒体
のあるべき場所、今後の未来予想図を探る特集を組んでいる
仲俣暁生の「1984論」もあり)。



中でも注目なのは、出版業界紙新文化」の編集長・石橋毅史のインタビュー。
http://www.shinbunka.co.jp/(「新文化」のHP)
話は取次ぎの抱える問題点やら、再販制度のあり方についてなど専門的なところへ及ぶが、出版界に蔓延している「全体主義vs個」についての考察は示唆的だ。
それは例えば、ベストセラー本ばかりを取り扱う書店が増える一方、
個性的な小型書店が街から姿を消していくということに象徴的だけど
google bookの話もまた全体主義の流れの1つと言えるだろう)、
そんな外側の話よりも前に、これは作り手にかかわるはなしなのだ。

茂木健一郎勝間和代村上春樹に席巻されて売れるものしか
売れない全体主義的状況の中で、そこに埋れている”個”をきちんと
読み手の手に届くように発掘することもしかりだし、
売れるものだけ劣化版コピーで作り続けない責任も作り手には求められている。
もっとも、出版社の意思決定にかかわる人がどれだけの良識を
持ち合わせているのかということと無縁ではないわけですが。



でも個人的には、世界全体で進みつつある全体主義の流れにストップを
かけようとするのはまさに表現行為に他ならないし、
メディアはそことタッグを組んでこそ実は未来があるのではないかと思う。
などと、つらつらと考えさせてくれるいい特集を組んでいる試みを評価したい。



それでもう1つは、各出版社のPR誌(今月はこんな本が出ますという宣伝
のために各版元が出しているもので、書店では無料で手に入ります)の
中で、いつも次の号を楽しみにしてやまない紀伊国屋書店
「scripta」。これについてはまた長くなりそうなので、次回へ!

北インドも美白!?

北インドでも美白熱が高まっているらしい。
肌が白い女性が美人だという価値観がいつのまにか勢力拡大し、
ステロイド剤をぬってでも白くする、間違った美白方法が問題に
なっているのだとか。


つくづく疑問なのは、どうして美しさの基準は
欧米基準に飲み込まれていくのだろうかということ。
黄色、紫、ピンク。原色が映える黒人に私は憧れもするし、
インドのサリーの色彩と装飾の豪華さも、あの肌の色だからこそ。
民族衣装はやはりその民族に合うものだなぁと羨ましく思っていたのに。



日本人女性が美白に走るのにも、脅威を感じたものだけど、
日本、韓国、中国だけでなくてインドにもその波が!
そういえば数年前にバリ島を訪れたときに、日傘をさす女性を
見かけた。現地の人の説明によれば、階級の高い女性たちは
肌を白く保つために早くから日焼けをさけるのだという話だった。
美白熱の高まりは、経済的豊かさと比例するのだろうか。
インドの経済的急成長ぶりと美白熱の高まりは関係あるのだろうか。


肌が白くなければいけない、
肌がきれいでなければいけない、
この価値観の広まりにストップがかからないものか。
むかし、DOVEが美の基準は多様だ!みたいな広告を出したときに
珍しいもんだ、へえと思ったものだけど、結局それっきりだった
と記憶している。


日本の化粧品メーカーとか、美容誌がアジアに美白絶対至上主義
とでもいうようなものを輸出している気がしてならない。
なにかいい対抗軸はないものだろうか。
 

インド熱がさめやらず そのⅢ

インド熱が持続してしまうもう1つの理由は、日本にいながらにして
インドカルチャーに触れられてしまうことだと思う。
手っ取り早いのはもちろん、カレー。
不思議なことに、誰もが言うようにインドで食べるカレーは
インドの空気とあいまって、スルスルと体にしみわたるようでおいしくて、
日本に帰ったら日本カレーが食べたくなるかと思いきや、体は
あのインドの気候(大気汚染はあんなにひどいのに)と
スパイシーなカレーを求めてしまう。
一食分のライスはこれでもかと思うほどの量だったけれど、
サラサラとしたお米だから、スープに近いカレーとあいまって
重くないのだ。かえって帰国後は、日本の粘度あるお米を重たく
感じてしまったほど。暑くて食欲がないと、サラサラした
お米が体にはありがたい。



そう思って東京を歩いてみれば、インドカレー屋は
一駅に一軒くらいの割合であるのではないかというほどだ。
この前千駄木を仕事で訪れたとき、空腹を覚えてお店を
探していたら、ダージリンhttp://www.1darjeeling.com/
という店を発見。誘われるままに中へ入り、インドカレー
食べてしまった。あとから考えればここは、東大のまん前にある
お店と同じ系列らしい。
麹町のアジャンタ、近所のナタラジもヘビーユースしそうだし、
早くもインド料理やにアンテナをはってしまいそうな予感だ。



それにしてもインドできわめて快適だったのは、食の嗜好を表明
するのに余計な苦労を伴わないということ。
べジ/ノンベジでメニューも分かれているし、「私はべジです」
って言うだけで「あなたはダイエッターなのね」とか
「健康に気を使っている人なのね」という含みを持った目で
見られることも、まして言葉で言われることもない。
日本はそういうところが不自由きわまりない。
人と食事をすると疲れたりするのはそういうのが原因だったりする。
だけどインドはストレスフリー!!
これは私にとって意外な発見だった。同調圧力がいかに働いて
いるのか、異文化に入るとまざまざとわかる。

インド熱がさめやらず そのⅡ

1日素敵なおもてなしを受けることになったインド人一家で、
お昼をいただき、食後の団欒ということでソファのある居間へと
移動した。テレビは液晶薄型で、テラスのようなベランダには
リクライニング型のビーチにあるような木製の椅子がおかれ、
食事がカレーであることをのぞけば、完全に欧米化された生活が
そこにはあった。


みんなでテレビを見ようといって合わせたチャンネルはCNN。
思えばヒンディー語の会話も夫婦の間では交わされるものの、
基本的にイギリス人の女性もひとり招かれていたこともあって、
親戚同士でもオーストラリア、インドと国籍が異なることから
必然的に共通語は英語なのだ。それは当たり前のことなのだろうけど、
私にはちょっとしたショックだった。


しかもニュースをめぐる会話が始まるにつれて、ますます私の
目は開かれることに。ちょうどCNNから流れてきたのは
パキスタン情勢をめぐるニュース。みなさんのディスカッションが
なにやら活発になる。でも、ヒートアップしていて、インドなまりも
あいまってなかなか聞き取れない。そうだ、インドの隣はパキスタン
であったという当たり前の事実にまた気づく。
さらに次のニュースはアフガニスタン情勢をめぐるもの。
イギリス人女性(彼女はNGOのボランティアでインドへ旅を
しにきていた)はすかさず、インド人がオバマアフガニスタン
政策をインド人はどう考えているのか、そもそもインド人は
オバマを支持するのかと問いかける。
ここでまたもや、議論が白熱!


インド人にとってパキスタンアフガニスタンのニュースは
日本の感覚で言えば、韓国・北朝鮮のニュースというところか。
でも、そうした地理的な距離に限らず、英語を操る人たちは
ニュースソースもまた共有していて、インド、イギリス、
オーストラリアと生活拠点は違えど、世界情勢の話題がお茶の間
にのぼることにショックを受けた。
日本語だけでニュースにアクセスしていれば、
日本語でのニュースソースに限られる。
そのこと自体は問題でないとしても、NHKにしたって主要新聞
にしたって、いかに海外情勢が報じられていないかということ、
日本人がどれだけドメスティックであるかということ(ちょうど
日本はノリピーのニュースまっさかり)をまざまざと突きつけられた思いだった。


そうして私は今、必死でヘラルドトリビューンを読む毎日。
ここでの気づきがまた予想以上のもので、そのことはまた余裕のある
ときに。とにかく、日本のメディア状況はあまりに内向きですね。

インド熱がさめやらず!そのⅠ

帰国から2週間あまり、私の中でインド熱はヒートアップするばかりだ
(もっぱら読書もインド関連)。


急成長著しいインドのIT都市バンガロールに入ってから、
休みを目いっぱい使っての1週間強の南インドの旅。

混沌としたカオスのインドというよりも、私が圧倒されたのは
街中にあふれるエネルギーと、インテリ階層・ディアスポラ
インドを支える現実だった。


街を歩けば、そこかしこに「Study,Work,Immigrate UK!」
「Let's toefl」「Let's MBA」という標識が下がっている。
studyとworkはわかるにしても、移民を積極的にすすめる広告って!
いったい移民をすることがどれだけ日常的で現実的なことなのか、
私はウームと考え込んだ。しかもUSAではなく、UK。インドが
イギリスの植民地であったことと無縁ではないのだろう。
植民地国に親近感をもつ現実というものも(インド人とイギリス人
心理的な距離の近さ)、私はのちのち知ることになった。


旅の始まりは、ヴァスコ・ダ・ガマが立ち寄ったという
香辛料で有名なコーチン(Cochin)。
街のそこかしこにコロニアルな雰囲気が残り、私が泊まった
ホームステイ形式の宿デライト・ホームステイの女主人も
クリスチャン。いわゆるインドとはまるで違うインドながら、
これもまた確かにインド。
人はゆったりと優しくて、ほっとできる空間なのだ。
宿から目と鼻の先にあるDall Rotiという、とにかくおいしい
食事どころにしばらく通いつめた私は、そこで一人の観光客に出会った。


聞けばオーストラリア育ちながら、彼の両親はインド人。
今は仕事の休みをとって1年間旅の途中で、インドを旅している
のだという。親戚はインド中にいるんだそうで、お互いの旅日程を
話していると、また数日後に二人ともバンガロールにいることがわかった。

すると、「ぼくはおじさんの家に滞在するんだけれど、
よかったらおじさんに連絡をしておくから、一緒にいかが?
バンガロールを案内するよ」と笑顔で誘ってくれる。
ガイドブックには旅先での怖い詐欺話がたくさん載っているが、
彼の仕事も含め、信頼できる人物だと判断した私は数日後に
バンガロールで彼と再会することになった。


数日後、滞在先のホテルに彼と彼のおじさんがホンダの車で
迎えにきてれくれる。しばらく車を走らせ、着いたのは
新興住宅街のきれいなマンション。

ドアを開けると、おじさんの奥さんが「Hi!」と笑顔で迎えて
くれた。その日はインド独立記念日の前日で、やはり国民の祝日
親戚が何人か集っている中にご招待していただいたのだ。
お手製のお昼は文句なしにおいしくて、ただただ感激だったのだけど、
中流階級のインド人の生活を目のあたりにしたことが何よりも
カルチャーショックだったし、旅のハイライトだったように思う。


(つづく)

新ゴーゴー・インド

新ゴーゴー・インド

 

上野千鶴子の指摘 家父長制と資本制

上野千鶴子の本が続々と出ている。
編者としてまとめている『戦後日本スタディーズ』(紀伊国屋書店
もそのうちのひとつだけれど、再読に値する二冊の本
『セクシイ・ギャルの大研究』(光文社カッパブックス
と『家父長制と資本制』(岩波書店刊)が岩波現代文庫から新刊で出た。

この2冊には、補論のような形で新たな書下ろしが加わっている。
『家父長制と資本制』で「自著改題」として書き下ろされている
その文章には重要な指摘がいくつもあって、私は何度か胸を打たれた。


その1つが「『家父長制と資本制』の妥協と葛藤について、
だれかによって続編が書かれなければならない」ということ。
本書は理論編と分析編の2つのパートから成り立っているが、
分析編の射程は90年代までしか含まれていない。
よって、それ以降の20年間についての考察がなされなければ
ならないという。多忙をきわめ、ケアの研究に力点が移っている
上野さんの手によっては、もはや続編は書かれることはないのだ。


続編が書かれなければならないと言うのには、理由がある。
すなわち、2000年代に入ってからのネオリベ革命による環境変化への危機感だ。
男女共同参画」という名ばかりの男女平等政策のもとに、
女性は競争のもとに投げ込まれ、選別される対象となった。
GDI(ジェンダーエンパワメント指数)、すなわち教育・経済・政治などの
分野への女性の参画程度の指数を上げることを目標とする
リベラル・フェミニズムが力を持つのが現状。
でも、上野さんは一貫して「女が男なみ」になることを求めてこなかった。
むしろ、過労を強いるような男性型の働き方を批判し、
女性型の働き方が男性にも広がるようなかたちを目指してきた。


上野さんは「自己決定する主体の間の競争と選別の原理に
参入していくことがフェミニズムのゴールではない、
という気持ちをわたしは強めるようになった」という。


今、勝間和代の本が売れ続け、女性の中にも彼女のようにならなければ
という強迫観念のようなものが少なからずあると思う。
仕事にも子育てにも、美容にもぬかりなく、という。
でも、彼女は男が作り出したビジネスの文法・構造にのっかるかたちで
成功したスーパーウーマンに他ならない。
少子化が叫ばれ、少子化を改善しなければと男たちが声を大にして
言うときに、彼女のようなやり方での仕事と子育ての両立が広まることへの
違和感は私も強く感じてきた。リベラルフェミニズム的な考え方がなし崩し的に
日本を覆い尽くす前に、今一度、フェミニズムを捉えなおし、男性の手による
文法をあらゆるところで書き換えなければ、本当の幸せはもたらされないと思う。
上野さんの指摘は、とても重い。