緑の光線

「グリーン・フラッシュ(Green flash)とは、太陽が完全に沈む直前、または昇った直後に、緑色の光が一瞬強く輝いたようにまたたく、非常に稀な現象。緑閃光ともいわれる。地球の丸みに沿った大気によって、太陽光はプリズムによって曲げられるのと同じように屈折するが、大気の波長分散によって短い波長の光だけが届く条件で、大気のゆらぎによってまたたくものと考えられる。見られる確率が非常に小さいことから、グリーン・フラッシュを見たものが幸せになるという言い伝えがある」(Wikipediaより)。

緑の光線」というタイトルの映画がある。今年1月に亡くなったフランスの映画監督、エリック・ロメールの1986年の作品。主人公の女性は自分中心で空気の読めないわがまま女で、そのくせメソメソしてすぐ泣く。そういえば見ていてイライラするこんな女性、自分のまわりにもいたよな、どうにかならんものかと思っていると、最後に彼女は旅先で知り合った男性と一緒に緑の光線を見る。そのラストシーンで、彼女の寂寥感が癒されたようでほっとする、ロメール監督作品の中では一番好きな映画だ。

この映画を見てから、男鹿半島日本海に沈む太陽を、水平線に落ちる直前直後に目を凝らして見るようになった。もちろん、今に至るまで「緑の光線」には遭遇できていないのだが、ロメール映画の主人公のようにウジウジ、メソメソしたところがあるtoshibonなので、そのうち旅先で知り合った女性と一緒に見られる日がこないとも限らない。そしたら今より幸福になれるかな…(と、妄想世界に突入)。

(2010年11月記す)

屋久島に降る「浮雲」の雨

我が妻は山登り(&岩登り)が趣味で、いや趣味というよりは、いわゆる“山屋さん”という種族に近く、休日ともなればどこかの山に出かけている。そんな彼女が今、屋久島に赴いている。九州の最高峰・宮之浦岳(1936m)登山が目的なのだが、2日前のメールでは悪天候で飛行機が島に着陸できず、引き返して鹿児島から船で渡ったと知らせてきた。「屋久島へ船で渡る…」というメールの文字を見てすぐに連想したのは、成瀬巳喜男監督の『浮雲』(原作:林芙美子)という1955年(昭和30年)公開の映画。

腐れ縁の男女(森雅之高峰秀子)が最後に船に乗ってたどり着くのが屋久島で、小さなはしけで島に渡る場面に降る雨、南の島に似つかわしくない寒々とした雨がとにかく印象深い。屋久島のシーンはずっと雨がそぼ降っていて、そこで女は男にみとられながら病死する。だから私の屋久島のイメージは世界遺産でも、宮之浦岳でも、縄文杉でもなく、(小津安二郎の『東京物語』の映画的記憶が尾道という土地を支配しているように)『浮雲』の映画的記憶が支配する「雨の降る島」である。

実際、屋久島の年間降水量4358.7mmは全国の気象管署の中では第1位で、「ひと月に35日雨が降る」といわれるほど。南国とはいっても、海岸部は亜熱帯、島の大部分を占める山岳地帯は冷温帯気候という特異な環境で、宮之浦岳も1〜2月は本州の雪山と変わらない厳しさという。

ネットの天気概況で調べてみると屋久島はきょうも雨らしいので、果たして妻が縄文杉と対面できたか、宮之浦岳に登頂できたかどうかはわからない。昨日届いた妻からのメールには「地元の人も明日の天気は明日になってみなければわからないそうです」とあった。

※追記
筑摩書房から出ている『成瀬巳喜男の設計』〈中古智/蓮實重彦〉によれば、『浮雲』の屋久島のシーンは、実際には伊豆で撮影されたらしい。この映画には群馬県伊香保温泉の共同浴場が出てくる場面もあるが、これも伊豆の湯ヶ島温泉でロケをしたという。〈映画〉はそれ自体が虚構だが、その虚構はまた何重もの虚構で成り立っている。それが〈映画〉の最大の魅力なのかもしれない。

(2005年2月記す)

小川監督との一夜

1980年代の後半、今にして思えば小川伸介監督の遺作となった「1000年刻みの日時計」という映画の自主上映に向けて、秋田市で試写会が行われたことがあった。その際、小川監督とチーフ助監督の飯塚俊男さんも来秋し、上映終了後、当時ぼくが経営していた飲み屋に一緒に来てくれたのだった。上映会場からぼくの店に流れてきたのは、試写会の主催者だった書店主の友人と、秋田大学の映画研究会の学生が数人だけだったように記憶している。

映画が好きなぼくにとって、小川紳介は尊敬する映画監督のひとりであった。だからぼくと友人は、とにかくあの小川監督と会って話ができるということだけで興奮しているのに、映研の学生は「エッ、このオッサン、そんなにエライ監督なの?」といった風でポカンとしていた。彼らにしてみれば、三里塚闘争など赤ん坊のころの話だから無理もないことであったろう。ところが、実際に会って話をしてみた印象も、数々の記録映画から勝手に想像していたような闘う映画作家などという風貌や物言いとは無縁の、どこにでもいるおしゃべり好きなオッサンそのものなのである。ただ、普通のオッサンと違うところは、話の内容が徹頭徹尾映画のことばかり、ということだった。 

その時に話した内容を、今では断片的にしか思い出せないが、ロッセリーニのイタリアン・ネオリアリズモやゴダールのヌーベルバーグは当然としても、アメリカのハリウッド映画やルーカス、スピルバーグからカルト的な作品まで、とどまるところを知らなかった。小川監督が語る映画は全く観念的ではない。フィルム編集を、カット割りのリズムを、照明のあり方を、カメラワークを細密に論ずるのである。それを、まるで映画が好きで好きでたまらない子供のように語る。こんなにも映画が好きな人がいる! そのことにぼくはあっけにとられ、同時に大きな感動を覚えたのだった。

平成4年(1992)、55歳の働き盛りで小川監督が亡くなった時は、何よりも映画的な損失のはかりしれない大きさを思った。と同時に様々な雑誌に載った小川監督の追悼文には、次のように必ず故人が無類の映画好きであったことが書かれてあり、ぼくの店で映画論をとうとうとしゃべり続けたあの夜のことが思い出されてならなかった。

「これまでわたしは多くの映画監督と親しくしてきたが、小川紳介ほどの映画好きの人をほかに知らない。会えばひたすら映画のことをものすごい勢いでしゃべった」(山根貞男
「小川君とは岩波映画で一緒だった。話はあくまで映画である。小川君の語り口には一瀉千里の勢いがある。いかつい顔に似合わず美声だった」(黒木和男)
「初めて会って驚かされたのは、彼がいきなり、ロッセリーニの『イタリア旅行』の車の移動の話を始めたことである。それも、きわめて具体的な技術に関わる話だった。映画監督というものは、当然ながら映画が好きなものではあるが(といっても、中にはそうでない人もかなりいる)、それでも、自分が撮ったばかりの作品でないもののディテールを、いきなり話始める人というのは、滅多にいるののではない」(上野昂志)

小川監督はドキュメンタリー映画の作家としての枠組みで語られていたが、1980年代に作られた「ニッポン国・古屋敷村」、「1000年刻みの日時計」では、ドキュメンタリーとかフィクションとかの境界を超えて、全く新しい映画の領域に踏み込んでいた。そこでぼくは、劇映画を撮る予定はないのかとか、記録映画における虚と実のバランスとはなどと、随分ぶしつけな質問をしたことを覚えている。そんな生意気で失礼な質問にも、決して怒ることもはぐらかすこともなく真摯に丁寧に答えたくれたことも、ぼくを感激させた。後にも先にも、あの夜ほど自分の店の空間が好ましく思えたことはなかった。

(2001年記す)

Tokyo Twilight

ちょうど1カ月ほど前、東京の新名所、六本木ヒルズへ行った。クリスマス前ということで、街は華やぎ、ものすごい人出。行ったころがちょうど夕暮時。まさに「Tokyo Twilight」。でも、ここで見られるのは小津映画の「東京暮色(Tokyo Twilight)」とは別の惑星の黄昏。高層ビルの灯り、自動車の光のライン、瞬くネオンの中で、この六本木ヒルズをはじめ汐留(シオサイト)、品川グランドコモンズなど、東京は再開発でいつの間にか超高層ビルの乱立する都市と化していた。ただ、黒々とした暗闇が広がる場所−皇居、新宿御苑、代々木公園、青山墓地などが思いの外多いことに救われた。そして小さくて可愛いライトアップされた東京タワー。東京に来るたびに東京タワーが好きになる。

W・ヴェンダース小津安二郎へのオマージュ映画『東京画』(1985)には、東京タワーの展望室で同じドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークと会話をする場面があった。
ヘルツォークは言う。「地上に残っているイメージなんてほとんどない。ここ(東京タワー)から見渡しても視界は全部ふさがっている。この傷ついた風景の中からまだ何かを発見しなければならない。もうこの地上には昔のように映像に透明性を与えるものは見出しえない。かつて存在したものはもうない」
それに続けてヴェンダースは言う。「純粋な映像への希求はよくわかる。が、私のイメージはこの地上に、街の喧騒の中にある」

1980年代初めの東京タワーから眺めた東京の風景。たった20年前の風景がもうそこにはない。ヘルツォークヴェンダースが再びこの森タワーから東京を眺め、会話をするとしたら、『東京画』と同じことを言うだろうか。

先月12日に行われてた小津映画の国際シンポジウム(「OZU2003」)で、ノエル・シムソロというフランスの評論家が、「東京では深作映画で見たやくざや溝口映画の芸者、小津映画のような家族を見られると期待してきたが、実際はメトロポリスブレードランナーをごちゃ混ぜにしたような街だった。映画監督は本当の現実を撮りははしないことがよく分かった」と発言していた(12月21日付朝日新聞)。
日本人からみれば、40年前、50年前の映画を見て述べるセリフとはとても思えないが、めまぐるしく変貌する東京という都市は、西欧の知識人にとっては理解の範疇を越えているのかもしれない。

(2004年1月記す)

「恋恋風塵」の台湾

昨夜のBSで侯孝賢ホウ・シャオシェン)の『恋恋風塵』(1987)とアキ・カウリスマキの『カラマリ・ユニオン』(1985)が続けて放映された。小津安二郎映画特集に関連したラインアップなのだろう。2人とも自他ともに認める小津映画ファンだから。

『恋恋風塵』は日本に初めて紹介されたホウ・シャオシェンの映画だったと思う。公開は1989年で、この年は続けて公開された『童年往時』とともにキネマ旬報のベストテン入り、さらにこの後『悲情城市』がカンヌでグランプリをとり、ホウ・シャオシェンの名声が一気に高まった。

実際、このころの作品は固定カメラによる自然描写、人物造形がこれまで見たことのないような映画の時間と空間をフィルムに定着させていて、ほんとに素晴らしかった。ただ、近年の作品はほとんど見ていないのだが、あまり評判はよくないようだ。小津安二郎生誕100年を記念して日本で制作された『珈琲時光』も、あらすじを読むとなんだかあまり期待できないような…。

一昨年の無明舎出版の舎員旅行は台湾だった。私も旅行の一員に加えてもらえたので、これ幸いとばかり『恋恋風塵』と『悲情城市』のロケ地である九份(ジュウフェン)を訪れた。九份の廃墟になった映画館には『恋恋風塵』の看板がまだかかっていて、そこで撮った写真は私の大のお気に入りだ。

15年ぶりにTVで再見した『恋恋風塵』はやっぱりよかった。普通、何年もたって見直すと、忘れたり記憶違いしているシーンが必ずあり、印象も変化するものだが、初めてみた時とほとんど同じ質の感動を受けたことに驚いた。さらに、実際に映画の中の風景に身を置いてきたからだろうか、とても“懐かしい”映画となっていた。

今は地下駅となった台北駅、台湾国鉄宣蘭線、何度も出てくる基隆山、九份の石段、常緑樹の濃い緑。押しつけがましさのない画面から立ちのぼる台湾の風景、亜熱帯の空気。映画を見て、また台湾に行きたくなってしまったなあ。

ネットで検索してみると、ホウ・シャオシェンの映画を見て台湾に行ったという人が結構いる。中にはロケ地を探して訪ね歩き、映画のカットと同じアングルの写真を撮っている人がいて、ここまでマニアックに徹するとホント、敬服するしかない。

(2004年01月記す)

「The Hours」とアイルランド

アイルランド8日目の朝。フィッツィモンズ・ホテルを6時半に出て、ダブリン空港へ。レンタカーを返し、出国手続きを済ませたあと空港内のカフェでサンドウィッチの朝食をとり、ロンドン行きのBLMでアイルランドを飛び立つ。

ヒースロー空港は2度目ということもあって、スムースにターミナル1からターミナル3へ移動。13時発のヴァージン・アトランティック航空に乗る。機内はロンドン帰り(たぶん)の日本人で、ほぼ満席。隣の20代後半とおぼしき女性は、ワイン、ビールをごくごく飲んでいる。泌尿器系統に持病のある私は、トイレに何度も立つはめになるのが嫌なのでぐっとガマン。

座席のモニターの映画リストを見ると、最近封切られたアメリカ映画「ソラリス」(監督:S・ソダーバーグ)があった。英語版なのでセリフは全くわからないが、音楽と映像だけでこの映画全体を支配している静謐な哀しみだけは伝わってくる。タルコフスキーの「惑星ソラリス」とは比較できない別の映画。こちらのほうが原作により近いのでは。

行きの飛行機よりずっとリラックスしている自分に気がつく。これなら眠れそうだ。睡眠導入剤代わりに映画リストにあった「The Hours(邦題:めぐりあう時間たち)」をセットする。これも英語版。映像を見ることなく目をつぶったまま、フィリップ・グラスの映画音楽と一緒に言葉も音楽として聴く。

「The Hours」は無明舎出版秋田市)のHPで舎長の安倍甲さんが絶賛していたので、それならばと映画館に足を運んで観た映画。近年観た映画の中では最も心を動かされた。この映画を難解だという人がいるのが不思議だ。テーマは普遍的なもの=死で、一見、救いのない内容だが、裏をかえせば生(生きることの意味)を誠実に描いている実にわかりやすい映画だと思う。

フィリップ・グラスミニマル・ミュージック風映画音楽が頭の中でぐるぐる回る。回転と反復。これは何かに似てないか? そうだアイリッシュ・ミュージックのリールだ。そういえばアイルランドは円の国だったと思い至る。

ニューグレンジ古墳で見た先住民族の渦巻き模様、キャロウモア遺跡のストーン・サークル、ケルト人の輪廻転生の死生観、渦巻きと螺旋模様のケルティック・アート、円形の十字架(ハイクロス)、ラウンド・アバウト(円形交差点)、そしてぐるぐると回りながら踊るダンス…。古代から現代まで円のようにめぐり連なるThe Hours(=時の女神たち)が、あの国を導いている…。

(2003年8月記す)
※Toshibon'Blog「ミレイ展」http://toshibon28.exblog.jp/8637747/

小津の浮草=真夏の燗酒

小津安二郎の『浮草』(1959年)は、大映での唯一の作品ということで、厚田雄春ではなくて宮川一夫の撮影、主な出演者は小津組常連ではない大映の役者。それらのコラボレーションが(松竹の)小津調とは異なった雰囲気を発散して、フィルムが妙になまめかしく、いつもの小津映画にはない生きた人間の息づかいが感じられる。

冒頭の灯台と一升瓶(ビール瓶?)を並べるカットに度肝を抜かれ、滝のような雨にあっけにとられているうちに、物語はあっという間に終わりを迎える。黒沢清が言うように、「小津映画は速い」。

松竹のカラー作品より褪色が進んでいないせいか、暖色系の発色に特徴があるアグファカラーの色彩が、真夏の季節と京マチ子若尾文子の肉感的な肌を美しく見せている。そのせいか小津世界の住人である杉村春子でさえ他の作品と比べるとずっと色っぽい。登場人物たちは真夏でも燗つけて酒を飲む。体感温度の高い映画だ。

それにしても若尾文子を足蹴にする中村雁次郎の暴力描写にはまいった。売り出し中の大映若手看板女優若尾文子を足で蹴るなんて!(原節子には絶対そんなことはできないはず)。この映画を見て原節子の出演する小津映画は、小津の真の欲望を上手に隠している「えふりこぎ」映画かもしれないと一瞬思った。

昨日見た「東京の合唱」もよかった。
岡田時彦演ずるサラリーマンの長女が可愛いな、と思って調べたら、高峰秀子だった。高峰秀子は小津映画ではこれと「宗方姉妹」の2本しか出ていない。「宗方姉妹」では、彼女の個性が小津の型にはまった演技指導からはみ出てしまい、それが小津映画の中では妙な居心地の悪さを生んでいたように思う。「東京の合唱」のほうが、ずっといい(子役の素の演技だから当然か)。

小津映画に出てくる兄弟は、男の子2人の兄、弟がほとんどで(「生まれてはみたけれど」「東京物語」「麦秋」「お早う」など)、この映画のように女の子が出てくるのは珍しいので、特別印象に残った。

小津映画にお決まりの汽車・電車(この映画では路面電車)もしっかり登場するのでうれしくなった。なぜかこの映画を見ていて、アキ・カウリスマキの「浮き雲」を思い出した。路面電車のシーン、失業しての職探しと夫婦の絆、最後に食堂でハッピーエンドを迎えるところなど、似ていないだろうか。