Summer Exhibition 2007@ Royal Academy

ブログ久しぶりに更新しました。
ブログの名前変更でも分かる通り、今後はなるべくこちらを自身の研究よりに。ミクシィを日常性生活よりで利用することにします。

先週の金曜日にロイヤルアカデミーのSummer Exhibition 2007に足を運んでみました。プラクティカルなミュージアム研究者としては、ます夜間開館が10時までってのが素晴らしいなと。相方と9時から展覧会に足を運んで閉館と同時に退館。その後Green Park迄歩いてバーで1時間ばかし飲んでから帰宅しました。僕にとっては、これだからミュージアムに行くのが楽しいんですよね。

とそれだけではなくて、興味深かった点が幾つかあったわけです。
?展示室10部屋ほどのなかに1200点ほどの作品を設置していたのですが、その展示法がいわゆる19世紀サロン展の展示形式をベースにしていたこと。
?そのうちの1000点以上の作品が即売されていたことで、決定的に「所有する」という視点で展覧会を経験したこと。

?に関しては、StaniszewskiのThe Power of Display何かを読むと分かるんですけど、いわゆるホワイトキューブに作品の間の間隔を充分にとって目線の高さに作品を設置するというスタイルは、明らかに20世紀半ばから定着しているわけです。但し、日本で僕の世代にとっては、あまりにこのモダンなスタイルがある身体的な経験として固着してしまっているがために、いざサロンスタイルの壁全面貼れるだけ貼ったれ的な展示スタイルを見ると、非常に新鮮に感じてしまう。
ホワイトキューブスタイルの流行は、一般的にいって来館者の疲労を防ぐという意味でも採用されていったのでしょうが、ある一定の展示空間さえ維持されれば疲労も少ないということが実体験として分かりました。

?に関しては、?との関連でいうと、あれだけ多くの作品、そして一般ギャラリーではなく美術館という空間で「買う」という目的を持って作品を鑑賞することがいかに楽しいかということを改めて体験できたのは収穫でした。つまり、ミュージアム来館経験の一つの柱として、「所有する」というのは明らかに決定的です。そして、この「所有する」という側面において、ミュージアムというメディアとミュージアムにインストールされていくメディアの接点を描くことができるのではという着眼を得ました。所有すること、ヴィジュアルイメージとして所有すること、そしてスクリーンメディアの変化この三点は決して切り離して論じない方がよいし、これもミュージアムを積極的に解体していく一つの方策だとは言えると思うのです。

以上備忘録兼ね。

メディア論における「動き」についてのノート

 エッセイを書いていて頭に浮かんだので。初めて指導教官のDavid Morleyと話をしたときに、ミュージアムをある種のテキストとして分析したらどうだというようなことを言われた。そこで、僕はフーパグリーンヒルを引きながら、いわゆるメインストリームの記号論では、出来上がった展示に組みこまれた例えばeurocentrismのようなイデオロギーを暴露することはできるかもしれないが、展示の意味がどのように生成していくのかを捉えることはできないのではという不安を吐露したわけです。というのも、

都市=テクストを論者の恣意的な『読み』に委ねられた記号体系として扱うことにより、(1)意味作用の主体への問い、すなわち都市をいきることでそれをひとまとまりのテクストへと織り上げていく人々の相互媒介的な諸主体を囲繞し、布置し、組織している場のトポロジカルな編成への問いを欠落させてしまう。つまり都市=テクストの読者となる人々の感受性や想像力、あるいはそのまなざしが置かれる位置は問題にされず、『テクストとしての都市』は、それ自体の意味論的な磁場がもつ物質的な厚みを覆い隠されたまま、一方では、様々な疑似科学的な言語のレトリカルな『読み』に委ねられた素材として、他方では、それ自体で完結し、一切の自由な読解の可能性を閉ざす自律的な記号体系として、われわれの前にたち現れることになるのである。 [吉見、1987: p9]

 この部分の「都市」を「ミュージアム」と入れ替えると僕の持っている懸念とほとんど一致するわけです。ただ、改めてStuart HallやMichael de Certeauを読んでいて思うのは、ある空間をある種のテキストと見立ているのは間違いないんだけれども、それはその都市や、ミュージアムが実体的にリニアーであるとか、一定の意味を持ってしまうとかそういうところに重点があるわけではない。特に発話行為論などを背景にしながら、意味の生成と解読の不安定性そしてそれがベースを置く、行為としての都市であるとかミュージアムに関心の所在があるわけですよね。

 ゆえに、特に80年代以降のメディア研究者は、このダイナミズムとしての「読む」という行為を、Hallであれば「encoding/decoding」、de Certeauであれば「戦略/戦術」、吉見さんであれば「ドラマトゥルギー」というような言葉で、何とかその固定化から逃れさせようとしているようにも見えるわけです。じゃあ、そのなかでどれが僕にとっては会うのか、もちろんミュージアムという空間での意味生成の分析のための武器としてですが。

これで後で読んでも備忘録になるかな?

 ひき肉デー

久しぶりに更新してみる。

昨日はなぜか麻婆茄子が食べたくて豚のひき肉を購入した。昼に麻婆茄子、夜に肉団子を作ってみた。それでもひき肉が余ったので、ただ軽い塩コショウと胡麻油でひき肉を炒め、最後にトウバンジャン、テンメンジャン、酒少々と鷹の爪を足し、そぼろを作ってみる。三品とも文句無くおいしかった。そぼろは、イタリア人のフラットメイトに「ラグー」と言われた(笑)。

ethics, photography, ethnography

なんか、この三つの単語って少しずつ発音が似ている。昨日もエスノグラフィーの授業の続き、レクチャーはゲストスピーカーでした。

セミナーの序盤の議論は、エスノグラフィーにおける倫理の問題。これは、社会調査に関わる人は誰もが経験するし、これ自体についての議論の蓄積もある程度あると思うので、改めて言うことでもないのかもしれないが。今回は、写真、つまりヴィジュアルによって都市のエスノグラフィーを行うという話だったんですよね。

ゆえに、インタビュー以上に写真をとっていいのかの許可を得るということが大事だという話とともに、一方で写真を撮ることそれ自体が了解されたインフォーマントの情報をどう解釈するかという問題は残ってしまう。とりわけ、テープレコーダーよりもカメラというのは、<調査者、被調査者>の間の垂直な関係性を顕在化してしまうから。

ただ、これって実は必ずしも倫理の問題とだけは言えなくて、許可をとるかとらないかというのは実はethicsだけではなくてetiquetteの文脈にも載っているわけで、この両者は分けて考える必要がある。もう一つの授業で少し面白いと思っていたのは、携帯電話やiPodなど携帯メディアの氾濫は実は、私たちの公共圏における倫理ではなく礼儀の問題を提示するようになったと。少し礼儀作法のようなものを、きちっとメディアの問題として概念化してみたいなと思ったわけです。

その後、せんせの話を聞きながら思っていたのは、エスノグラフィーの持つ詩的、美的な側面。つまり、社会科学の記述としては、過剰に美しすぎる嫌いがあるという点をどう考えるかですが。この側面のために、エスノグラフィーにはある種のアマチュアリズム、もしくは職人芸的なものというのがまとわりついてしまう。但し、全ての社会調査法は、社会をある一面に縮減するという機能を持っているわけです。つまり、質問紙なら統計的な形に社会の輪郭を整地するということです。だとしたら、エスノグラフィーの詩的美しさが調査の記述としての客観性を欠くというような批判は多分あたりませんねえ。というのも、エスノグラフィーが詩的なのではなく、エスノグラフィーに社会そのものの持つ本質的な美的側面、詩的な側面が縮減されざる負えないと考える方が僕には自然だからです。し、この視点のほうが、社会科学のなかでいかにアートなるものを記述するかという可能性に関して示唆的ですしね。

なんか何書いてるか分からなくなってきたので、やめる。今週、久しぶりに相棒と喧嘩した。

on ethnography

先週の金曜にエスノグラフィーについての簡単なコメントを要求され授業で発表した。エスノグラフィーは、ものすごく端折れば、まあ文化人類学のフィールドワークだと言えないことはないのだが、まあ御大のクリフォード・ギャーツの言葉を引用しておこう。

実際にエスノグラファーが直面しているのは−彼自身がより自動的なルーティンによるデータ収集を追及している(もちろんそれも必要なのだが)場合を除けば−複雑な概念構造の多様性なのであある。それらの多くは、互いに重なり合い結び合わされており、一見それは奇妙で、不規則で、曖昧である。そしてエスノグラファーはそれらをまずは把握し、そして描写するために何らかの工夫を凝らさなければならないのである。[Geertz : 1973, p10](拙訳)

だということです。ギャーツの力点は、文化人類学に限らず社会科学全体における、ある研究対象を事実として客観的に記述することができるというある種の潜在意識に対する批判だと言える。この『文化の翻訳』(邦訳なんだったけ?)で、インフォーマントの聞き取り自体が彼/彼女の記憶の再構成という「解釈」であり、、そしてそれを聞き取るエスのグラファーのフィールドノートも「解釈」である。そして、さらにはそれを論文として構築する作業も「解釈」なのであると。つまり、決してニヒリズムにおちいる必要はないが、もしも私たちが「文化」を記述することができるとすれば、それは確固たる物質文化として存在するというよりは、解釈の重層性のなかに存在するのだと「解釈」することができる。それは、彼の文化のコンセプトに顕著に現れていると言えるのではないだろうか。

私が支持する「文化」の概念とは…(中略)…本質的に記号論的なものだ。マックス・ウェーバーのように、人間は自身がそこから生じた意味の網の目に漂う動物だと考えるとすれば、私は文化とはそれらの網の目のことだと考えるし、またその分析とは故に、法則を探求する実験科学ではなく、意味を探求する解釈学的な科学だと考える。[Geertz :ibid, p5](摂訳)

というように、ある意味で反物質文化的なスタンスを取るのですね。ただ、少し自分の中で整理がつかないのは、「文化とは記号論的なものだ」というセンテンスと「故に文化とは解釈の中で理解される必要がある」というような主張は即つながっているのだろうかと。例えば、日本での佐藤郁哉さんの作品などは、解釈学的であるとは言えるけれども、彼は文化を記号論的な体系として捕らえているのでしょうか?もう一つは、ある文化的な事象を「テキスト」として読むことと、「記号」として読むことはかなり違うものな気がするんですが。少し考えてみないといけないなと。

一応、ミュージアムをメディアとして構想していくに際して、エスノグラフィーは鍵概念の一つなもので。もう少し考えてみようと思います。

 深まる関係

今日は、午前中に家事を少しこなしてから相棒とランチをとる。一月リサーチのために国に帰ると言われて、思いの他へこむ。しばし無言で、フォー(もどき)をすする。

その後大学の英語コースに出る。うちの学科は特に女の子が多いせいか、10人ぐらいのクラスで男は僕だけ。めんどくさいよなあそういうの。とはいえ、プリセッショナルから数えるともう半年も一緒にいるせいか、友達とも打ち解けてきたなと。授業後、勉強しようと思っていたのだが、お茶に時間をとられ終了。

こんなんでいいのか俺?

 今日も何もなく

過ぎていきました。

午前中にScreen Culturesの授業に出る。最初の一月はスクリーンとエスノグラフィーの関係性について論じていた。メイロウィッツの"no sense of place"ではなく、"non-place"という概念は、デジタルテクノロジーによって偏在するスクリーンによって得る私たちの相対的に新しい場所との関係性らしいです。

午後は、セントラルに出て帰国用のチケット買ったり、ジャーナルをロンドン大学の中央図書館で探したり、日本の古本屋行ったり。帰りにジャパンセンターに寄ったところ、弁当が半額になった。全然知らなかったので週に1回ぐらいは利用しようかと。

その後帰宅して、論文を二本読み就寝。