凡ミス/タイトルつけ忘れ

http://d.hatena.ne.jp/toward-end/20091210
こちらの記事で、タイトルをつけわすれてたので、コメントできない事態になっておりました。
記事を修正すると、今あるはてブ等が見れなくなるので、新たにこの記事を立てました。
上記にコメントがある方は、こちらの記事にお寄せください。

男は檻にに感じる違和感

経緯

http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091208/p1
こちらのコメント欄の続き。
 
現状、様々な状況で、性的暴力的犯罪に、女性が自衛しなければならない自体が悲しいことであるが起きている。
これについて、「男は獣だから女性が用心しなきゃね」と男性が言っていたりする。
これは、悪質な責任逃れではある。
暴行の責任は加害者にあるし、被害者にはない。「獣だから責任はとれない」という暗黙の前提で、暴力の被害者となることの責任を、一方的に被害者側に押しつけているわけだ。
 
さて、そのような幻想を持っている人に「じゃぁ男が獣なら、獣は檻に入れないとね」という皮肉で返すことで、自己矛盾に気付いてもらおう、という説得があるのではないか、という話が出た。
 
個人的に、この「獣は檻に」という部分が、説得の言い回しとして、引っかかった。

違和感

なぜひっかかるのかを考えて思ったのだが、獣を檻に入れるのは、保健所なり警察といった公権力である。言い方を変えると「エライ人がなんとかしてくれる」という話ではある。*1
 
説得の目的として相手に自己矛盾について気付いてもらいたいわけで、(比喩的な意味で)獣を檻に入れるのは、相手自身でなくてはならない。
なので、そこで意図が伝わらなかったり「そうだね。実際、獣は檻に入れればいいと思うよ(俺は安全だけどな)」と言った認識が生まれやすくなる。
 
そこを踏まえると「男は獣であるというなら、獣であるおまえが自分を檻に入れるべきだ」とするのが理屈の上では正しいが、長くて比喩が混乱してるので、皮肉としてはインパクトが薄い。

どうするとよいか?

俺が感心した言い回しでは「自己責任で去勢しろ」というのがあった。感心したというか、心に刺さった。
  
なぜ刺さったかを考えて見るわけだが。
俺自身、「男は獣だよ」とか「あの時は、しかたがなかったんだ」「我を忘れてしまって」といった言い訳を使いたくなる時はある(リアルで女性にセクハラしたという話ではない。念のため)。
 
一般論として、「ついフラフラと」悪いことをしてしまうこと、それを「しかたない」と言って責任逃れしたい気持ちは、わりと誰にでもあるだろう。
ただ人間が自己管理をするといのは、あらゆる場面で鉄壁の意志力を発揮する、という話ではない。
寝坊しそうなら目覚ましを仕掛ける、モーニングコールをお願いする、等、できなそうならできなそうなりに対処すればいい。 
 
で、それをレイプ問題にするのであれば、「自己責任で去勢しろ」という話になる。自分がレイプしそうな可能性があるなら、そうならないよう対処するのが当然で、対処できないかも、と、思うんだったら、今すぐ自分で去勢しろというわけだ。女性は、それと比べものにならない被害を受けているのだから。

というわけで

説得される対象として自分を考えた時「獣は檻へ」よりも「自己責任で去勢しろ」のほうが、深く刺さるものを感じた。
感じ方は人それぞれなので、俺が説得されやすいから、他の人がどうだとは限らない。
 
また、上記は、あくまでも「相手目線で説得する場合」の話である。
言い方は悪いが、「バカにも分かるように伝えるにはどうすればいいか?」という話だ。
たとえば誰かが自分の苦しみを訴えてそれを放置、擁護するものへの批判として語る場合には、「もっと相手目線で語って」などという要求ほど暴力的なものはない。

*1:「獣は檻に」の文章に含まれる危険性について引っかかってる人は、結局、この「エライ人になんとかさせる」という前提の部分に引っかかってるのではないかと思う。「エライ人が」「しかるべき集団の」「人権を奪う」という印象が、どうしてもつくので

視点の偏りということ

ご指摘ごもっともなんですが、まあぼくは厳密な意味でのまんが批評をする能力は自分にはないし、やる気もないんですね。申し訳ないですが。
つまり視覚芸術としてのまんが・アニメ・映画を本格的に研究するのに必要な素養がないし、これからその修行を積むつもりもない、ということです。
その辺はきちんと映画研究やルードロジーの訓練を積んできた他の方にお任せしたい。


というわけでどうしても視点は物語的側面に偏ってしまうのです。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090630#c1249445127

稲葉氏のコメントより。
開き直るのもいいんだが、訓練が足らず、また偏っていることを自覚しているのなら、その分謙虚に発言すればよかろう。
稲葉氏のコメントを見る限り、彼の言いたいことは例えば下記のようなものだろう。

たとえばこんな感じ

旧作エヴァンゲリオンの閉塞した終わり方が必ずしも好きだったわけではないが、あの、予定調和的な終わり方を一切廃して破綻に向かった展開は、エヴァンゲリオンの評価としてあるべきだろう。
翻って新劇場版は、かつてファンフィクションで予想されたようなウェルメイドな展開に流れているようだ。エヴァの持っていた独自性という点ではパワーダウンしていると言えよう。


とはいえ、独自性を基準に批評、批判するのは的を外している部分もあるかもしれない。なぜならば、今やエヴァンゲリオンというのはパチンコからゲーム、フィギュアまで多くの業界を巻き込んだ、それ自体一個の産業であり、個人の才能一つに依存するものというよりは、無数のパワーバランスの中に成り立つものだからだ。
エヴァンゲリオンは、商業的な熱気と庵野監督個人の作家性、あるいはルサンチマン的なものの掘り下げを奇跡的に両立させていたが、それらはエヴァンゲリオンという作品が企画され作られ、公開された経緯と密接に絡み合う。
であるから、その奇跡を新劇場版に望むことは酷というか不当でもあろう。作られた目的、意味合いが違うのだから、批評の軸も変わってしかるべきだからだ。


ただ個人的にはウェルメイドであるならウェルメイドであるにせよ、物語においても視聴者の予想を裏切り、越えるものを作ってほしい。この先「どこかのファンフィクションで見たようなストーリー」を越えるものが出てくることを望む。

批評と挑発

例えばこう書けば、
「映画は絵だよ! その意味で(ほとんどの)同人誌とは比べものにならないよ!」という人も
「リメイクがウェルメイドで何が悪い!」という人も
「オリジナリティ至上主義は馬鹿馬鹿しい!」という人も
普通に納得するだろう。
評価の際に、客観的な判断と個人的な主観、評価軸とその根拠、それらに対する自分の立場と意見を、述べておくだけの話だ。


穏当な意見を、わざと挑発的に書く人がいる。意見の内容に自信がないのではないかと思う。


逆に言うと、言ってることは普通に解釈すればまともなのだから、なぜ、そこまでファンフィクションとの勝った負けたにこだわるのか。
オタクによくある、ダメな縄張り意識にしか見えない。

批評の価値

こんな批評はいやだ

前回の記事で、私は稲葉さんの、ヱヴァ破評を、以下のような点で嫌いであると表明した。


・動画と音を捨象する問題
アニメを批評するにあたって、動画や音に対する評価がなく、ストーリーの範囲のみに絞った批評を行っていること。
・テーマ至上主義
ストーリーの内容を、テーマの掘り下げのみで評価すること。
・独自性至上主義
テーマの掘り下げを評価するに当たって、他の作品とどちらが新しいかで評価するということ。


テーマの掘り下げの深さのオリジナリティのみの観点から評価するのは別に構わないんだが、それだけが全てであるようなエラソーな評論が嫌いだ。
ある作品があって評価基準は様々でありうる中に、その観点が最も重要と思うのであれば重要である根拠がほしいし、そうではなくて一つの観点に過ぎないと思うのなら、そのように書くべきだろう。

バカでもできる批評

上記のような批評を、なぜ、私が嫌いかというと、バカでもできる批評だからだ。言葉を替えるなら、批評者の勉強不足を正当化する態度だからだ。


作品を把握する時に、あらすじと、そのテーマに圧縮して把握するのは、一番、簡単なやり方だ。
それについて、新しいか古いかだけで比較・評価するのも、たいそう簡単だ。
どんなものでも十分に抽象化、記号化すれば、必ず何かに似ている。故に、何かと何かを比較して何かのパクりだとか、何かに劣るとかいうのは、あまりにも簡単だ。小学生の読書感想文くらいにフォーマット化できる。


そのフォーマットで、例えば、「月姫は、羊のうたのパクり」、「Fateは、クロノグランサーのパクり」、「新ヱヴァは、ファンフィクションの後追い」的な、クズ批評は、いくらでも量産できるが、そんなものに価値はあるのか?

ブクマレス

shinichiroinaba 批評というのはそういうものだし、批判することと楽しむことは矛盾しないですよ。ぼくは十分楽しみました。

前回の記事に対するブクマレスは以上のようなものだった。


「そういうもの」が、どこまでにかかっているのかわからないが、本当に、批評は、そういうものなの?
作品をテーマ性の掘り下げのみに捨象して、適当な作品と比較すりゃそれで終わりというくらいにお手軽なものなの?
もちろん、テーマ性の掘り下げと、その比較という観点から、深い批評が書けることは否定しないけど「Fateはクロノグランサーより後退」とか「ヱヴァはファンフィクションに負けそう」とか、その程度の「批判」は、単なるイチャモン以外の意味はないだろう。

私が嫌いな批評

破の評価

原作者のみなさんは二次創作に膝を屈したんですね、ってことですよ。
今更ハッピーエンドのエヴァなんか散々見飽きてるよ、遅いよ、ってことです。既存のハッピーエンドを文句なく凌駕してるわけでもないし。
あんたたちの売りはそういうキモさじゃなかったの? って。
差別化は大事。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090630/p1
コメント欄

なんだろう、この気持ち悪さは。


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の評価は色々ありうるし、旧作に比べてポジティブな展開をどう評価するかは人それぞれだろう。鬱展開あってのエヴァじゃん、という気持ちは、正直、同意できる部分もある。


なんだが、それはそれだけのことだ。つまり好き嫌いの問題だ。
それがなぜ「二次創作に膝を屈した」ことになるのだろうか?

批評家の傲慢

そういう結論が出てくるには、二つの前提がある。


1.エヴァンゲリオンの価値は、そのテーマの掘り下げである。
2.先行のテーマとかぶるものは価値がない。


アニメと同人誌などのファンフィクションの価値は、本来比較できないが、稲葉氏は、1のテーマの掘り下げという点で比較している。
そして、既に同人誌で描かれたハッピーエンドに比べて劣っているから「膝を屈している」というわけだ。


テーマ至上主義と、独自性至上主義。私が嫌いなタイプの批評だ。

アニメと同人誌

そもそもアニメという媒体と同人誌、ウェブSSという媒体では、前者はコストが大きく、後者はコストが小さい。


故に、独自性の強いテーマの掘り下げやら、批評的に価値のある新解釈やらをやるのなら、文章や漫画のほうが、劇場版アニメより作りやすい。


数ある同人誌の中の最高のものが、劇場版アニメより、テーマの掘り下げにおいて優れていたとして、それらの作者の方には敬意を抱くが、その上で別に驚くことではない。


それをして、「原作者は二次創作に膝を屈した」とか言うのは、なんというか勘違いだろう。
「今更ハッピーエンドのエヴァなんか散々見飽きてるよ、遅いよ」と得意げに稲葉氏は語るが、当たり前の話だが、新劇場版視聴者の中で『リィ、ナ、クルィネ』の読者は少数だろう。
要するに「俺はすごい同人誌を知ってるからエライ」というマニアの醜悪な居直りだ。

どうもこのままでは、巷にあふれまくったエヴァ二次創作との差別化のポイントが「美麗な映像と見事な演出」だけになってしまいそう。

「美麗な映像と見事な演出」について語る言葉を持たない、テーマの掘り下げについてしか語ることができない、アニメに無教養な自称批評家には、もう飽きた。
テーマ性や、独自性は評価軸の一つとして大切だ。だがそれは唯一の評価軸ではない。
アニメという豊穣な媒体に接して、そのうちの、物語のテーマという軸についてしか語れない貧しさというのは、もっと認識されるべきだと思う。
無論、批評の全てが映像や演出について語る必要はないし、全ての批評はそれぞれに偏ったものだろう。
であるなら、自分の持つ偏りを意識し、それに自覚的な評論こそが誠実な批評だろう。


人間は、自分勝手な理由で作品を好きになったり嫌いになったりするし、それはそれで全然構わないのだが、偏った好みを、安直な芸術論(テーマ掘り下げ至上主義、独自性至上主義)で押しつけられるのは、嫌いだ。

うお、ミス

下書き保存して寝かせるつもりが、投稿されてた。
記事にするんじゃなくて、稲葉さんへのコメント欄投稿にしようと思ったのだが……とりあえず記事はこのままに。

Fateについての二、三のこと

本を読むということ

 これに対して『Fate/stay night』の士郎の場合には、その辺りがあいまいである。そこでも私的な幸福と正義の追求との間の両立可能性は認められてはいるのだが、どちらかというとその捉え方は「トレードオフ」に強調点を置いたものである。私的な幸福をある程度は追求してもよいとしても、それはあくまでも正義の追求とは対立するものである、という側面において語られており、「ある程度私的に幸福でなければ、生身の人間には正義の追求はきつすぎる」という視点は明示されることはない。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090215/p1
うん、確かに、そうだ。明示はされていない。


ところで。


お話において、ある人間が、ある努力をして、失敗したとする。
それは、その作者が、そうした努力は間違っていると認めたことになるのだろうか。
あるいは、努力は正しいが、した人間や目的に問題がある、ということになるのだろうか。
あるいは、努力をしたにも関わらず失敗が起きるという無情さを言いたいのだろうか。
あるいは、否定でも悲劇でもなく、単に、「そういうものだ」ということを言いたいのだろうか。


もちろん、物語としての「定石」「手法」は厳として存在する。あるテーマを描きたいから、ある手法を使って、ある感情を強調する。故に、ある手法を使ったことから、あるテーマを作者の意図として推定できる。それについては、それなりに客観的に語ることができる。


とはいえ。


語りたいことが一意に定まっているのであれば、物語という手法を採ることもない。
一意に定まったテーマを共感づける手段として物語というメディアを選ぶ人もいるかもしれないが、多くの場合、「語りたいこと」は一意に定まっていない。どこかたゆたっている。あるいは、その揺らぎが、物語の「味」だとも言える。


お話、というのは、結局、コミュニケーションだ。
作者がいて、お話がいて、読者がいて、その関係にあって意味を持つ。
読者いてこその物語であり、客観的、一意な読解など存在しないし、する必要もない。


では、物語について述べるというのは何か?
客観的にプロットと手法を解析して、方向性を割り出し、確固とした「テーマ」を導出するのが良いのか?
それは何か違う気がする。
では逆に、感情の赴くままに、当人にしか意味のない、我田引水、自己陶酔な「感想」を述べればいいのか?
それもそれでおかしい気がする。


私の面白さと、あなたの面白さ(あるいはつまらなさ)は、違ってはいるけれど、つながってもいる。


だから、「客観」を名乗って、唯一の読解であるかのように押しつける必要はない。
さりとて、自分の読解を他人に伝える努力を怠ってはいけない。
なによりも、責任を意識することだ。
それは自分が、自分の人格と責任において、この読解を選ぶ、という意志だ。
つけくわえるなら、その事実……無数の読みが成立しうる中で、自分の読みを示すことが、自己の人格を表すということへの、畏れだろう。


とまぁ、前置きが長くなった。稲葉氏の読みが、ある意味、的確、明確すぎたので、自分の中の違和感を整理したところ、上記の文章となった。
感想、批評の意義としては稚拙で初歩的な話と思うが、自己の覚え書きとして記す。
もちろん稲葉氏が上記のような責任を意識されていないということではない(氏が評論家である以上、意識されているだろう)。

理想を抱いて溺れ死ね

というわけでtoward-endとしての読みを書こう。


思うに、Fateは、青年の物語だ。
青年の物語であるということは、完結していないということだ。
士郎しかり、凛しかり、無限の時間を生きるエミヤですら、青年だ。


彼らは悩み、決断を下すが、そのどれもが「最終」ではない。青年が生きる途中で下した決断だ。それらは今後変化しうるし、するだろう。


士郎という青年は、確かに、悪がなければ正義が成立しないと勘違いしている。個人の幸せと公の幸せを対立概念として偏った捉え方をしている。Fateという物語の中において、稲葉氏が指摘しているように、それらが両立する、むしろする必要がある、という視点は「明示」されない。それは変化の兆しを見せるが、兆しにとどまっている。


「明示」された時、それは大人の物語になる。
長谷川作品は少年の物語であるが、その少年達は、常識ある大人に支えられている。常識を持つ大人の背中を見て育った少年は、大人の常識に、少年の熱情を重ねて飛翔してゆく。長谷川作品は、本当に大好きで大好きなんだけど、さておいて。


Fateは、そうではない。
これは悩める青年と、魔術師なんぞやっている大人のなり損ないが、勘違いに勘違いを重ねて七転八倒する物語だ。
そこにおいて青年は、一時、何かを掴む。けれど、その「何か」は最終的なものではない。士郎が得た答えは、限定された状況の暫定的なものに過ぎず、本人でさえ、納得しきれていない。


──少なくとも、そのことは「明示」されていた、と、思うのだ。


物語の最後に至っても、士郎は達観した大人にはなっていない。勘違いを一杯残しており、これからも間違うだろう。
でも、青年期とは、そういうものではないだろうか。
ある世代の読者が共感しながら、自分に引きつけて、士郎の「先」を考えることに意味があるんじゃないか。二次創作の作者が、それぞれ独自のエンドを作ろうとするのは、作品の傷なのか成果なのか。


※逆に、マップスの二次創作を作ろうとして、テーマに対する反論から入るのは極めて難しいと思う。


このような不完全であることを許容して補助線を引く読みは、まぁ贔屓の引き倒しになりやすい。というか、多分、なってるだろうという自覚はある。


ある上で、私にとっては、このような読み方を選ぶ。

Fate/Zeroも面白いよ

*『Fate/stay night』における――作者の、とは言うまい、士郎を取り巻く大人たち(ことに切継と言峰)が口にする――非常に幼稚で浅薄で子供だましの正義論について付言する。そこでは、正義と幸福、公益と私益をいたずらに対立させられていることだけが問題なのではない。全般的にそこで語られているのはゼロサム的な世界観である。「正義の味方には倒すべき悪が必要だ」「誰かを利するには誰かを犠牲にせねばならない」等々。そうではなく、極力ゼロサム的な状況を作らないようにすることこそがずっと重要である。しかしそのことは作中でついには語られない。ただわずかな予感のみがある――士郎が料理上手であること。そして魔術においても「創る人」であること。

もし読まれていなかったらFate/Zeroも参照のこと。前回の聖杯戦争の顛末を描いたこの作品では、切嗣の、幼稚で浅薄で子供だましの正義論が最後に呼んだ悲喜劇は、徹底的だ。
「理想の王」を願うセイバーの、小気味よいほどの、こきおろされっぷりも必見。

こちらの作者は虚淵玄だが、Fate本編を大きく補完しているし、Hollow本編にFate/Zeroの設定が数多く丁寧に取り入れていることから、奈須きのことしてもZeroを本編の一部として認めている位置づけと思われる。

グランサーとFate

もう一人の自分との戦い

お話の作り方として、あるテーマを巡って、主人公と対立者が戦い合うという場合がある。
例えば、正義というテーマがあって、主人公と対立者(敵あるいはライバル)が、それぞれの善悪観を持ち、対立するわけだ。


通常、主人公と対立者が議論することで、テーマが展開されてゆく。そのためには、お互いの言い分は、対立していながらも、噛み合っている必要がある。
「命は大切だから人殺しはよくない」「命は大切だけど、少数を殺すことで、多くの人命を救えるとしたら?」、とかね。


結果、主人公と対立者は、議論が深まるほどに互いを共感する必然性がある。
逆に言うと、主人公と対立者は、性格的に、似ている必然性がある。


黄金パターンとしては、主人公は経験の少ない理想主義者で、対立者は昔は主人公に似た、理想気質だったのが、悲惨な事故、事件にあって、冷徹なリアリストとして生まれ変わったというものだ。


この主人公とよく似た対立者、という必然性を表すものに、古くからあるのは、父親が敵というもの。
ファンタジーなら、人間の心の闇だし、これが時間テーマ、並行世界テーマなら、「未来の/もう一人の主人公」というパターンとなる。

必然性の踏襲

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090215/p1

 グーグル様におすがりして調べてみても、ほとんど明示的な指摘がないのだが、『Fate/stay night』は長谷川裕一の作品、特に『クロノアイズ』『クロノアイズ・グランサー』のパクリ――というと失礼なのでオマージュとしてみることができる。(前後関係ははっきりしている。『グランサー』連載終了は2003年であり、『Fate/stay night』のリリースは2004年だ。)

長谷川裕一は大好きだし、グランサーも読んでいるが、二つの作品の類似は、単に、同じ必然性の踏襲に思える。


並行世界、時間旅行のあるストーリーで、ラスボス/ライバルが、絶望した未来の自分だった、という話は、誰でもいつか考えつく一般性のあるもので、グランサーがオリジナルではないだろう。
ぱっと思いつくだけで、ウラシマンとかね。

その他の必然性

 また主人公自身の性格も、少なくとも表面的には似通っている。士郎にせよタイキにせよ(そしてその他の長谷川ヒーローたちにせよ)、一面マッチョで、たとえ自分よりもはるかに強くあっても「女性は守ってあげるべきもの」と思い込んでいる。そのくせ普通の意味でのマチスモからは遠く、素直に自分より優れた能力を持つ女性のリーダーシップを受け入れ従う。そしていずれも「正義の味方」たらんとする熱血漢である。

 ここに上げられた性格は、完全に必然性である。


 まず正義というテーマが強い作品なら、正義の味方を目指す熱血漢であるのは必然だ。
 また、強い女性が登場して戦う世界観である限り、女性を受け入れる性格は、これも必然だ。
 なぜなら、女性が弱くて男が戦う世界観ならマチスモにも一定の説得力が出るが、強い女性がガンガン戦う世界観であるなら、マチスモは単に現実を見れない無神経なバカとなり共感できないからだ。
 一方、恋愛要素がある作品で、いかにヒロインが強いからといって、ヒロインを全然守ろうとしない主人公も無理がある。それでは、読者の共感を呼ばないし恋愛にならない。


 必然的に、ヒーロータイプの主人公は、女性を守ってあげる男気があるが、マチスモというほどじゃない熱血漢が主人公となる。
 必然性がある証左としては、このタイプの主人公がグランサー、Fate以外にも沢山あるということだ。戦闘少女がヒロインでいるタイプだと、ほとんどデフォではないだろうか。


 というわけで、両者の比較、批評は面白いと思うが、Fateがグランサーのパクりとか、また、「知らずに同じことをする方が恥ずかしい」というのは、ちょっと勇み足ではないかと思う。
 Atraxiaがビューティフルドリーマーのパクリというのも同じ。

物語とテーマ性

 さて、以上のように見るならば、『Fate/stay night』は物語としては、発想源としての『クロノアイズ』連作よりも後退していると言わざるを得ない。なぜそうなってしまったのか? はまた別の問題であるが。

 さて小学生が中学生に成長する話は、小学生が高校生に成長する話に比べて後退している、と、言ったら、笑い話だろう。
 では、あるテーマを、哲学的に、より深く突き詰めたことをもって、同テーマの別作品を「後退している」と主張するのは、どういう根拠があるのだろうか。


 全否定するわけじゃないんだけど、テーマ性を巡る議論で、よくテーマに関しては「つきつめてるほうがエラい」的な話が素朴に語られることには、ちょっと違和感がある。