食生活改善の一歩::サルサタコライスの自炊記

2月中旬から食生活が荒れており(風邪引いて寝込んでるのに食欲は落ちないので、UberEatsでマクドナルドなどを頼んでいた)、体重増加はしょうがないとして(そうか?)さすがにあちこちよくない感じになりつつあるので、一人で晩ごはんを食べる際に自炊にチャレンジすることにした。なぜ一人かというと、夫に作って食べさせるものではあまり実験性を持たせたくないからである。一人の場合は雑に失敗したら潔く捨てて別のものを食べるなりなんなりできるわけで、うまくできたものは共通の食事に導入してみようと思う。

その第一弾として(そうです3月からスタートしたのです)、サルサタコライスを作ってみた。レシピは以下より。

簡単レシピに属するものとはいえ、一人分をうまいこと作るのは難しく、材料の使い切りの観点から玉ねぎが指定の12倍になったりトマトが2倍になったり、きゅうりがどうしても見つからなくてピーマンで代用したりと、なんだかちょっと違う料理になったかもしれないが、市販のサルサソースを使うことなくなんとかそれらしきものになった。くだんの理由から写真はなし(サルサ部分が山になってしまい、非常に見栄えが悪い)。

当初の目的の1つである「野菜をなるべく食べる」もそれなりにクリアできたと思う。私はどうしても生野菜が苦手で、野菜の摂取を出来合いのお惣菜に頼ることが多く、塩分過多になりがちなのだが、結果としてトマトと玉ねぎとピーマン(本当はきゅうり)がメインになったのでよかった。

改善点としては、もう少し材料の切り方を丁寧にすること(一人で食べると思うと雑になる)、材料を指定の分量通りに近づけること(せめて6倍くらいでおさめたい)、ごはんは自分で炊くこと(時間の兼ね合いでレトルトごはんにした)、かな。とはいえ初回で買い物に行って帰ってきて材料を切って調理して食べるまでに1時間10分でなんとかなったので、まあ自分にしてはよくできた方だと思う。

入院していた頃を思い出して野菜を摂ることを心がけていきたい。病院食の野菜料理のレパートリーはすごかった。

発想の練習:要素が対照的な言葉からの画像生成

せっかくChatGPT 4に課金しているので、毎日ちょっとずつ何かしらやりとりをするようにしていて、最終的に画像を生成するところまでがワンセットになりつつある。これは「要素が対照的な言葉の組み合わせ」を何回か出してもらって、そのうちの「鉄とりんご」から生成してもらった画像。自分ではできない発想をしてくれるのでいい練習になる。

新しく欲しいレンズが見つかってしまい、社のSlackチャンネルで物欲の後押しをしてもらった。3/1になったらポチるか……。

X(旧Twitter)で以下のようなポスト(tweet)を見かけて面白かった。

自分が生まれる前には明らかにインターネットがなかったから、似たような体験がなかなか思いつかないんだけど、生まれる前の映画や映像や写真を見てもあんまりこうはならない。なんだったら「よくぞ取っておいたなぁ」という気持ちになるし、美術館や博物館や図書館が生まれた頃からあるので(質はともかく)、似た体験をしないまま終わりそう。ゲームなら想像は付くかもしれない。スーパーマリオ初代とかドラクエIとか。

スマホだとAIタイトルアシストが使えない

のだった。本文書いてアプリにコピペして……などもできるけど簡易版で。

技術広報や採用広報の人たちが集まる会に参加してみた。むかーしちょっとだけ(職歴で相対的に見ると本当にちょっとだけになってしまって残念)広報をやったのと、YAPC::Hiroshima 2024のスタッフをやったのとで、アイデンティティがごちゃ混ぜになり、何の立場で私は今ここにいるんだっけ、というのがよくわからなくなったりもした。

登壇した人や、今日見聞きしたエンジニアの人の話(これは別件)を体感して、みんなちゃんとしてるなぁ、私もちゃんとしないとなぁ、と思ったところで気づいた。残酷だけど、私はもうこの人生1周目では手遅れなのだ。ちゃんとしようとして長年生きてきたけどもう無理なのだ。職場や職業は変わるかもしれないけど、「ちゃんとした人になりたい」という昔からの夢は夢のままで終わるだろう。これはしょうがない、あきらめたまえ、という気持ちが湧いた。

よく「欠点も丸ごと自分なのだから丸ごと愛さないと、認めないと」みたいなこと言うじゃないですか。あれは「愛する」っていう動詞がクソデカだから「私には当てはまらん!」と反発したくなってしまうのだけど、「欠点は直らないからあきらめろ」だったらわかるわ。めっちゃわかるわ。そりゃ長いこと人生1周目に取り組んでいるので、そこそこ「普通の人」に擬態する術はわかっているけど、本質的な部分はどうしたって変わらなくて、私は「ちゃんとできない人類」の方なんだよなと自覚して生きろよ、というのが「丸ごと愛せよ」の言いたいことなんだろう、というのがなんとなく腑に落ちた。

めちゃくちゃだめな人という意味じゃないのです。ちゃんとしてない。ちゃんとする素地がない。まあ真面目ではある方だと思うけど。

何が言いたいかというと自己嫌悪とかではなくて、なんかすごい人ってちゃんとしてるよなー、というざっくりとした気づきがあったという日だった、という覚え書き。「という」が連発で悪文だ。

プレッシャーと睡眠失敗

昨夜は睡眠に失敗し、今朝は起床に失敗したので、家で仕事をしていた。そのため写真はなし。代わりにAIに画像を作ってもらった。

日曜日の夜は、だいたい「ちゃんと朝起きられるだろうか」というプレッシャーとの戦いで、正直に言えば今年に入ってからはかなり苦戦している*1。いやー困った。月曜夜以降の平日の戦いよりプレッシャーが厳しく、そのプレッシャーがストレスになり、睡眠の質を保つのに影響しているのはわかってはいるのだが……。

YAPC::Hiroshimaの振り返りMTGがあった。コミュニティの運営とか運用とかって難しすぎるし、それをきちんと回していく中心の人々(なんと表現すればいいのか)は本当に素晴らしい。課題も問題もいいところも何もかもたくさんあるけど、ひとまず飛び込んでみてよかった、と思えてよかった。

今日は早く寝て睡眠失敗しないようにしたいんだけど、既にこう思っている時点でプレッシャーなわけで、完全に鶏が先か卵が先か状態である。

*1:ファクトに基づく。フルフレックスでよかったことというと「睡眠に失敗してもリカバリーが効く」ところだろうか……。

創作(←このタイトルはAIが考えてくれました)

ものすごく中途半端な朝に目が覚めてしまったので、二度寝すると悪夢を見そうだなと思い、そのまま起きて確定申告の準備をする。最高気温が4℃だとかで、めちゃくちゃに寒い。区役所で書類を1つ頼む必要があり、バスで移動。めちゃくちゃに空気が冷たい。

会場には想像以上の人が来ており、多少恨めしい気持ちにはなったものの、今日思い立ってよかったなと思った。3月に入ったらもっと人が集まって時間がかかっていただろう。3月にはいくつかイベントの予定が入っているので、今のうちに済ませておけば多少気持ちにゆとりもできるかもしれない。

岡田准一さんがTwitter(X)を始めて、懐かしい校舎の屋上の話などをしていたので、買いあぐねていたラストライブのBlu-Rayディスク(初回版B)を購入し、さらにCanvaの参考書も買ってしまった。

前日に届いたChatGPTを含む生成系AIの本もある。

ついでに昨日はミッフィーさんの耐熱ガラス容器付きInRedも買ってしまった……。

Canvaをしばし触り、もし文学フリマ東京の抽選に通ったら普通にCanvaで表紙を作ればいいんじゃん……?となった。前回はあまりにも準備がなさすぎてパワポで作ったのだった。ついでに表紙の画像はAIに考えてもらえばよい。

ということで、試しに「真夏に悪い夢を見る」というタイトルのZINEの表紙画像を考えてみてもらった。DALL-Eと何回かやりとりして出てきたのが以下の画像。

なんだか……すごく壮大です……。

ただ、私の想像をはるかに超える(それはそう)方向性で考えてくれるので、本当に作ってもらえばよさそう。新刊を作るかどうかは、完全に文学フリマ東京の抽選結果によるけど。

「散歩哲学」(ハヤカワ新書)を買った


昨年の入院・退院後、散歩をしようと思っていた。動き回らないと術後の大腸が癒着するおそれがあるのでよく動きましょう、なんていう話もあった。退院から社会復帰の間に、いろいろな街を散歩して、なんなら動画を撮って、ブログの記事に書こうと思っていた。

が、いろいろなところで書いた通り、猛暑で8月は外に出られず、その直後の9月初頭に妹の入院という出来事が起きて、思い描いていた散歩プランは棚上げどころか雲散霧消した。

そしてさらにさまざまな出来事を経て、ふとプライベートが落ち着いた瞬間、「もう一度散歩にチャレンジしてもいいのではないか?」と思った。

もう術後の経過は関係ない(物理的に忙しく立ち動いていたので)。どちらかというと、退院後いっとき減少傾向にあった体重が微増ペースに乗ってしまったことの方が大きい。良い方向にも悪い方向にもストレスがかかると甘いものがめちゃくちゃに美味しく感じられて、単なる刺激としてお菓子を食べることが増えた。寒いので動くのがおっくうになり、身体を動かさなくなった。当然体重は増える。

体重が増えるくらいは自意識の問題なのでなんとでもなるが(そうか?)、具体的に身体を動かさない結果、足や膝が痛くなってきた。加齢による膝の痛みというと「体重の重さ」「関節痛」を思い描いていたけど、筋肉痛っぽい要素の方が強い。動けば痛くなくなるし、家の中でも長いこと動かずにいると「おっと」という感じで痛みが来る。

運動としての散歩にきちんと向き合おうという気持ちがじりじりこみ上げてきた。私にはリマインダーがしつこく来ると無視してしまうという悪習慣があって(Duolingoとはそれがきっかけで決別しっぱなしになっている)、なにがしかのツールを使ってリマインドすると余計に動かなくなる。非常によくない。そこで「良い感じの写真を撮れるまで歩き回る」方がまだましかなという気がしてきた。

ぐだぐだとこのようなことを考えていた時に、タイトルの「散歩哲学 よく歩き、よく考える」(島田雅彦著)の紹介文がXかどこかで流れてきた。プロローグの一部を書き抜いたものだったが、おしゃれで面白かったので、Amazonでさくっとポチった。今日到着したのでプロローグ部分を読んだら、紹介文そのままの部分が載っていて、面白く読み始めている。

普段の行動様式に「徘徊する」「ほっつき歩く」「ぶらつく」というものがあまりなく、目的地を設定してそこまでまっすぐ行きたいことが多い私に、どこまで散歩が定着するのか。「散歩哲学」を読み読み、徘徊の楽しさやそこから受ける刺激を享受できるのか。

写真は今日散歩した公園にて。

英語、そんなに嫌いじゃなかった

夫は仕事に行ってなんとか帰ってきた。

唐突ですが私は小学生の一時期とても英語が好きでした。

英語の教材のセールスのお姉さんがなぜか家に上がって母親と話していた時(どんな状況?)、横で小学生向けの英語の本を読んで「すごいね!」とほめられてうれしかったことを覚えています。その後に幼なじみのおばさん(血縁の方)が英語教室をやっているところに、その幼なじみともう一人と3人で通って、簡単な英会話を習っていました。3人は幼なじみ同士ではあったけど特にめっちゃ仲が良いわけでもなくて、今思えば母親同士の仲が良かったからなんだろうな~と大人の事情を察するのですが、まあ当時はなんとなく通っていました。

その先生は旦那さん(IBMだった)の都合で渡米してしまい、「英語で手紙を書いてね!」と言われたのですが、英語で表現したいことが全く思いつかず、手紙を書かないまま縁遠くなってしまいました。今もそうだけど英語で表現したいことってあんまりないのだった……。

それが挫折体験かというと全くそんなことはなく、そこで覚えた英語のスペルをアドバンテージとして存分に生かし、中学生になった私は最初の中間テストで一人だけ英語で満点を取ります。そちらの方が今思えば完全に失敗でした。私は英単語を覚えるのはとても得意だったのですが、英文法が好きなわけではなかったのです。「英語が得意な人ジャンル」に入れられてしまった私は中学2年生になって「ア・テスト」という神奈川県の一時期限定の謎テストで、英語に苦しむことになりますが、まあその辺の話は何度も書いた。

何を書きたかったかというと、英語の原体験として「まあ割と好きな方だった」というのをふと思い出したのです。今でこそ英語の記事をブックマークして回るだけの人になってはいますが、なんかふとそのエピソードと、英語教室からの帰り道の夕景を一緒に思い出しました。なんだ私英語そんなにいやじゃないんじゃん。Duolingoを基礎の基礎からやり直しているのですが割と基礎の基礎は好きだった。