プラチナデータ

プラチナデータ 東野圭吾

主演・嵐の二宮さんで来年映画が放映されると話題のプラチナデータを読んでみた。
最近内容が薄いように感じ敬遠していた東野さんだけれど、今回は興味が先行し買うことに。

あらすじとしては、

この本は間違いなく東野さんの作品だ。
でも、「秘密」「魔球」「白夜行」「天空の蜂」などの傑作を知ってしまった私からするとやはり70点。
よく他の人が言うけれど、彼の渾身の作品を読んだあと浸る余韻は半端ではなく、強烈な印象を残す。
今回はそれがなかった。
でも、いい作品だと断言できる。著者が何かに挑戦しているという意気込みを感じることができる作品だと思う。
新しい風が吹いてきている。

夜明けの街で

夜明けの街で  東野圭吾


不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。


 こんな文から始まるこの本は、不倫をテーマにした本だ。
さらにその主人公、渡部の不倫の相手秋葉(あきは)は15年前のある事件を背負っていた。時効が迫るその事件は、彼女の心に見えない傷跡を残し、さらには容疑者として疑われるはめに陥らせていた。
 その事件とは、秋葉の父の秘書であり愛人であった女性が、秋葉の家のセンターテーブルの上で、ナイフで刺され、殺されていたというものだった。
 不倫という地獄にも似た甘い時間の中で、主人公渡部はどんどん秋葉との逢瀬に惹かれていく。その中で事件と秋葉の関わりについて考えるようになり、真相を知りたいと思うようになる。

 秋葉という女性は、決して悪女のように妖艶な女ではなく、むしろさばさばとしていて、浮気するような男性とは絶対に付き合わない、と言つ放つ女性。さらに言うなら、憂さ晴らしにバッティングセンターに一人で行くような女性だ。つまり不倫相手という言葉から連想するようなタイプでは無いのだ。
 男もまじめで、不倫とは程遠いタイプ。そんな大多数をしめる「不倫するタイプではない」二人が不倫の恋に落ちるからこそ、読者の共感を得るし、面白い。

 さすが東野さん。というのが感想だ。不倫についても上辺だけでなく、まるで不倫したことがあるかのような心理描写、さらに家庭の描写でのめり込まされた。そしてもう一つの柱になっている事件についても抜けめないものがある。15年間黙っていた真実が、最後に明かされる。それは、どんでん返しと言ってもいい。私の予想は裏切られた。巧みな文章での誘導があったからこそだが、私は久しぶりに満足した。
 そういえば、今回映画化されるこの作品。
 よく言われるのが、原作を先に読むか、映画が先かだが、私は迷わず原作を先に読んでから映画を観ることをお勧めしたい。
 理由は、東野圭吾さんの本に限って言えば、その一文一文が最終章に向かってピラミッドのように積み上げられていき、最後のピースを効果的に埋めることに心血を注がれているような構成が多い。ゆえに、その最後の真実を知ったままでは半減以下しか楽しめないからだ。でも、映像は違う。真実を知ったままでも、いや知っているからこそすべての複線を映像から感じることができる。結末を知っているからこそ映像化がより楽しめるときもある。東野圭吾さんの作品の映像化ではそう思うことが度々あった。
 
 物語というのは、本当に面白い。
 実際に経験していないことも、まるで経験したかのような錯覚を覚えさせられる。今回はテーマが不倫だったが、自分が不倫したらどうなるかを想像するように仕向けられた気がした。この本の結末は言わないが、私はこの本を読んだ後も、読む前と変わらず不倫したいなどどは思わない。

三月は深き紅の淵を

三月は深き紅の淵を  恩田陸

この本は4章仕立てで、それぞれが独立した物語を紡ぎだしている。しかし、共通点があり、「三月は深き紅の淵を」という幻の本を巡る話だ。
その「三月は深き紅の淵を」という幻の本は、それぞれの章で作者も違う設定になっているが、とにかく不思議な魅力を持つ本ということは共通して紹介されている。

1章 待っている人々
2章 出雲夜想曲
3章 虹と雲と鳥と
4章 回転木馬

この4章の中で私がもっとも好きなのは1章の待っている人々だ。
この章は斬新でいてテンポがよく面白い。
ある会社で、一年に一度若手社員の中から一人が選ばれ、会長の別宅に2泊3日の招待を受ける。
主人公は、それに今年選ばれた男、鮫島巧一。
彼の物語だ。

会長の家には、金持ちの仲間たちがすでに宿泊しており、「三月は深き紅の淵を」、という自家出版された幻の本についての話を尽きることなくしている。この家のどこかにあるその本を探すことが彼への宿題。
この幻の本は、私家版を200部配布したのちに回収を試みているため、実際には70部ほどしか世に出回っていないといわれている。この本が配布された時の条件は3つ。

一つ、作者を明かさないこと
一つ、コピーをとらないこと
一つ、友人に貸す場合、その本を読ませていいのはたった一
   人だけ。それも貸すときは一晩だけ。

この癖のある金持ち仲間たちがまた愉快なキャラクターで、飽きない。
個人的に、この本の価値は第一章「待っている人々」に集約されている。次に第二章。
特に第4章は、まるでエッセイを見ているようで、しかもどうも尻切れとんぼの感がする。この本の勢いについては、竜頭蛇尾という言葉が似合う。

私の知る限り、女性の作家に多いタイプで、感情やその時の勢いで書かれている本は、中盤や終盤にかけて最初の雰囲気や世界観からズレが生じていることが多い。この本も4章仕立てにしてあるから、統一されていないと文句を言うのはお門違いなのかもしれないけど、本を通して読むからにはリズムが必要だと思う。

話が脱線してしまったが、最後に。
この本の1章「待っている人々」はいい作品だ。
起承転結があり、惹きこまれる力があった。

黒と茶の幻想

黒と茶の幻想 恩田陸

「美しい謎」という言葉に惹かれて購入。
もう10年前のことになるが。

当時から謎に惹かれてミステリー小説を購入していたので、この帯だけで迷わず購入した。
内容は、中年の男女4人が旅を通じて自分たちのまわりに存在する謎を安楽椅子探偵よろしく推理していこうというものだ。
この4人の関係は、同じ大学、おそらく偏差値の高い大学の仲間たち。
見目美しい金持ちのご子息毒舌男と、しょうゆ顔の物静かにみんなを観察するクールな男と、小柄で美人だがさばさばした性格で同期の中でいち早く管理職に抜擢された女、そしてかつてしょうゆ顔のクールな男と交際していた落ちついている女。
この4人が中年になった今、久しぶりにみんなで飲みに行き、そこで南の島に旅行に行こうという話になった。
その道中大学時代にあった問題や、自分でも理解できないトラウマ、近所の話、友人の死の真相、ある少女の話などを繰り広げ、考え、答えを導いていく。
その中でも私のお気に入りが、前半に出てくる最初の謎。
毒舌男は裕福な家庭だったが、家庭不和でよく親戚のおじいさん夫婦の家に逃げていた。そこで必ず毎朝起こる2回の地震の話が興味深い。
毎朝2つの漬物石を儀式のように庭に落とすおばあさん。
その真相は、、、結局本当のことはわからないのだけど導かれた推理にはぞっとさせられるが有得る内容が含まれていた。
たぶんそうなんだろう。と思わされた。
短い推理時間の中に4人の会話がたくみに配置され、推理も大の大人が真剣にそんなことを考える、なんていう面白さ。
しかも日常ではなくて、非日常とも言える大自然の中での推理ショー。
他にも、同性愛的なものがちらりちらりと見えていたが、重要なキーポイントになっていた。
読んで損は無い作品。
長編だが、4人の登場人物の名前の題名付で節が分かれ視点も変わるので、それを機にに休憩もできるから心配なく。
私は長編など時間があれば一気読みしたい派なのだが、今回は少しずつ読み進めることができた。

長編好きで、謎が好きな人には面白い作品になる。



故郷は、、、

故郷は遠きにありて思うもの。

今日ふと思い出したのがこの言葉だ。

この言葉の真意を学んだのは中学生の頃だった。
学んだときはショックを受けた。
自分で想像していたものと大きく違ったからだ。

何せ中学生の頃の話だから、うろ覚えで申し訳ないけど、簡略して言うとこんな話だ。

これを謡った人は、遠く離れたところから故郷のことをずっと考えていた。
あそこへ帰りたい、と。
しかし、実際故郷に戻ってきてから受ける故郷の冷たい仕打ちに、彼は打ちひしがれる。
ああ、故郷は遠くで思う方がいい。
実際に故郷に戻ってもいいことなんかなかった、という思いだったそうだ。


前置きが長くなったけど、今日飛行機のチケットをキャンセルした。
もともとこちらに残るつもりで来たため、帰りのチケットはキャンセルする予定だった。
でも、私の中で地震があったため日本に帰りたい気持ちが高まっていて、キャンセルすることを少しだけ躊躇していた。
もちろん、こちらですることは山積みで、帰れるわけもないのだけど。

下らないことで、少し落ち込んでいた今日。
家族や友人のもとへ帰りたい気持ちがある。
孤独を感じて、誰かと自国の言葉で話したい。
不自然な、流暢でない日本語でもなく、意味の分からない外国語でもなく。



でも、


現実には戻れない。




そう、私はここでこれからしなくてはならないことがあるから。
少し重荷に感じる、責任があるから。

帰れない。
帰りたいけど、帰れない。

そして、今日本に帰ったところで、私にできることは何もない。
帰っても現状が好転するわけでもない。
故郷は遠きにありて思うもの。

私は今その通りの現実を見ている。
離れているからこそ、考え、思うんだろう。
そして、帰っても良いことなんてないと思い込むしか私には術がない。

こちらで募金をするくらいしか、私にはできなかった。

家族の顔が、胸をよぎる。
会いたい。

3月4日、成田空港を出発した。

新しい生活が始まるのを不安に思っていたあのとき。
未来の駒を一つ進め、選択し、これからの選択肢をまた一つ狭めたと感じて少し後悔もしていたのに。

次の週に起こった地震
それを知ったのは、こちらの時間で朝の8時過ぎだった。

はじめは、家族の安否確認。
兄弟のことを話し、みんな無事だったことを知った。
そして次にしたのは友達へのメール。
東京の友人たちは、電車の運転停止のため家に帰れず会社に泊まったり、
親戚の家に泊まるため5時間も歩いたりしていた。
命は無事だったけど、こんな災害に遭遇したことがなかったから、みんな戸惑っていた。
「怖い。」
その言葉が、私をも不安にさせた。
その日から友達の家も幾度かの余震に会っていたようだ。
私も連日報道されるこちらのニュースを数日は齧りつくように見ていた。
でも、、
今はもう見れない。
被災した映像があまりにショックで。
日本に住んでいたとき、これほどまでの規模の天災を日本で見たことはなかったけれど、
幾度かひどい地震をテレビで見てきた。

そのときには感じなかったものを今感じている。
それは被害が最悪というだけでなく、自分が日本にいないということで感じる
•••罪悪感•••だろうか。

自分の中で、この災害を共有できない罪悪感がある。
自分だけ、何も共有していない。
だから友達への連絡も最初の安否確認以降できないでいる。
私のメールが負担にならないだろうか。
帰ってくる不安の声を、私が耐えられないということ。
私もカテゴライズできないこの不安が怖くてたまらない。

私自身、今まで何不自由なく生きてきて、今も毎日食事に食後のおやつまで準備してくれる家がある。
言葉の壁はあり、何にというわけでもないけど異文化での生活にストレスを感じることはあるけど、
それは消化の範囲内だ。
友人たち、そして直接被災していない家族たちの不安の声を聞くだけで、
私も言いようの無い不安に襲われる。

その気持ちを話せる人も今の場所にはいない。
もちろん、この会う人々に連日ニュースのことを話され、家族の心配をしてもらって、
お礼を言うけど、私はお礼を言えるほどの境遇にいない。
だって、日本に今現在住んでいないんだから。

だれかが言った。
今日本からこの国に行く飛行機のチケットは50万円もすると。
普段は安めのチケットで10万円なのに。
みんな逃げたがっていると言うのを聞いて、私はさらに落ち込んだ。
こちらのニュースでそう報道されたが、それらの真偽は確かめていない。
自分は今この国にいる。

その不安で時々押しつぶされそうになる。
それを忘れたくて、テレビを見なかったり、家族との電話でも地震の話題を避けたりしている。
苦しくなるから。