『「学校に行きたくない」と子供が言ったときに親ができること』石井志昂

 

不登校という問題は教員であれば、何か意見があるはずだ。私は「学校に来ることが全てではないが、社会状況は改善されているとは言いつつも、やはり学校に行かないという選択肢を取るのにはとてもパワーがいる。だから、学校という制度は重要な選択の一つとはしながら、基本的には生徒の休みたいという気持ちを尊重してあげる。」と考えている。

 

この本は保護者向けに書かれていて、教員へのアドバイスが書かれているわけではない。しかし、生徒を近くから見ている大人の一人であると教師も考えられるのだから、支援するという意味では読む価値がとてもあった。

 

著者が何度も何度も繰り返し読者に伝えているのは、「子供が学校に行きたくないと言ったら、とにかくグチャグチャ言わずに休ませてください」、ということ。要は子供は疲れているから休みたいと言っているわけで、それを「今日だけ頑張ろう」などとは言わずに休ませることがベストな選択だと言っている。

 

保護者も教員もまず思いがちなことは「サボりぐせをつけたくない」「辛いことから逃げるのは良くない」「一回休むと次に行きにくくなる」ということだ。でも経験上言えることは、学校に行きたくない、と訴える生徒たちの多くは自分が学校に行けなくなっている原因を「これだ!」とは言わない。自分でもよくわからないから言えないのかもしれない。原因を自分でもわかっていないのだから、それは何かから逃げているわけでも、サボっているわけでもないのだ。ただ、休みが続くと次に行きにくくなる、これは真実だと思う。人間誰だって一度慣れた環境から抜け出すには気力がいるのだ。

 

そうは行っても、この本に書かれていて気付かされたのは、不登校になってしまった生徒に、不登校期間に最も辛かった経験はと聞くと「無理やり学校に行っていた時期」と応えるとのこと。それは言葉を変えれば、子供を無理やり学校へ行かせても、その期間というのは、その生徒を学校というものからさらに足を遠ざける原因になってしまうリスクがあるのだ。

 

だとすれば、まずは休ませて、でも学校という外界と生徒とを結ぶ選択肢を伝えつつ、少し落ち着いて話をしていくという時間が必要なのだろう。

 

教員をしていると、学校になんとか来させよう、と焦ってしまう。でも学校は重要ではあるけれど、選択肢の一つ。まずはしっかり休ませることが必要なのだ。でも、それで終わりでは教員である前にその生徒に関わる大人としての仕事を忘れているとも言える。その子は雑談する相手を求めているかもしれない。学校という選択肢しか生きて行くすべがない思い込んでいるかもしれない。大人として関わることがある。

 

 

賢い子はスマホで何をしているのか 石戸奈々子

 

 

個人個人が持つ端末が教育に与える影響は甚大である。生徒を見ていて(いや身近にいる人を見ていて)、まず感じるのはトラブルシューティングの力がないと端末は使いこなせない。トライアンドエラーの精神を持てるか、感覚的に端末をなだめながら使えるか。これも問題解決能力。端末のご機嫌が取れないとだめ。
 
上記のことはまあ、いいとして、大事なのはこの本で書いてあるように、これからの時代、
 
暗記の価値が落ちる時代
 
であること。授業を組み立てるのにもこの視点は大事。語学で暗記しない、というのは矛盾ですらあるが、もし記憶という要素を削ぎ落とすなら何が残るか? 何も残らないのではないか? 表現力、文章力、論理を磨くと言う授業。それは残るかもしれない。でも、もはやそれは英語の授業で行う必要はない。
 
自分が言うのもなんだが、全員に受けさせる英語の授業というものは存続の危機であろう。
 
ただ一つ思うのは今の体育や技術や美術のような科目のように英語を扱うのはどうだろう。もちろん入試科目でも全員必須とはしない。音楽などと同じだ。
 
AI技術が発展し、翻訳がリアルタイムで可能になれば語彙も文法もない。でもだからといって、言葉を知ることには一定の価値が必ずやある。だとすれば、入試で扱うべきものではなく、学校という場が提供する経験に一つでいいのではないか。
 
仮にそうなれば、授業では何を行うべきか。読むだけ、喋るだけ、なんてことは経験にならない。言語に関わるあらゆることを扱うことになる。そしてもっと言えば、英語だけを学習するなんて変だ。ドイツ語でもタガログ語でもなんでもいい。選べたらどんなに楽しいか。
 
なんてことを考えさせてくれた本でした。

『 AI vs. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子

 

 だいぶん遅れたがやっと読んだ。とても読みやすい本で1日で読み終える。

面白い点は多々あったが、自分の職業、そして興味のある分野ということに引き付けてると、それは、AIに負けないための大きな要素に、読解における推論の力が取り上げられている点だ。新井紀子は推論を

文の構造を理解した上で、生活体験や常識、様々な知識を総動員して文章の意味を理解する力

と定義している。彼女が言う「教科書が読めない」というのは、多くの子供が推論などの前に、照応や係り受けを理解する力がないということなのだが、自分としては推論を行う力がAIにはなかなか持てない力であるという事実が興味深かった。

英語授業で言えば、様々な生徒がいるので、照応もしっかりと確認しながら、推論まで持っていき、そのような「回路」をしっかり開いておく事が大事と再確認。言い方を変えれば、推論などにばかり気を取られていると照応も満足に行えない生徒の力を伸ばしきれない。やはりそこは照応の確認も行いつつ、発問の難度にはグラデーションをかけていくしかない。

『変動する大学入試』伊藤実歩子

 

変動する大学入試—資格か選抜かヨーロッパと日本

変動する大学入試—資格か選抜かヨーロッパと日本

 

 

昨年度末の共通テストで、記述試験が見送られた。その議論ではこの本にも書かれているようにいわゆる公平性が話題の中心になった。採点官の質の問題、採点者間評価の差の問題。それから、時間に大きく関わる問題だ。短時間でかなりの量の採点をこなすのは大変ということだ。
 
この本では欧米の大学入試制度が詳細に述べられている。欧米は基本的に高校の最後に受ける試験はバカロレアも含めて日本が行うような「選抜」試験ではなく、「資格」試験であるということだ。その資格さえあれば大学を選んで入ることができる。その欧米の資格試験では面接もあり、論文もあり、公平性の担保は難しいという観点でいくと、なかなかに厳しいテストになる。それでもテストはそういうものだということで、問題を抱えながらも長い歴史の中で行われている。
 
日本は公平性の問題で採点が難しそうな記述問題を出していないかというと、そうでもない。大学の個別試験では、私立も含めかなりの大学で記述の問題は出題されている。その問題は非常に配点も高いが社会的な問題にならない。つまり誰がどのように、公平性を意識して採点しているのかという問題はあまり取り沙汰されない。英語の試験で言えば、エッセイを課す大学は多くあるが、模範解答もないし、採点基準も明らかでない大学が多い。そこに公平性はあるのだろうか。共通試験批判では「人生が決まるテストなのに」なんてこともあったが、だったらかなり前から大学入試における記述試験の採点はブラックボックスである。
 
そこから何がわかるかというと、共通試験で問題となったのは、二次試験出願までの自己採点ができないということに尽きる。記述はどのように採点されるか分からないので、予備校が行う(これも問題笑)リサーチの意味がかなりなくなるにだ。もしも、現在のように自己採点できるということになれば、それほど大きい問題にならずに済んだ気がする。簡単に言えば、共通テストにおける記述試験に向けられた批判は本質的ではないのだ。要は自己採点できるかどうかということに尽きる。
 
記述の試験は個別試験でしっかりと行われている。共通テストで行う必要はない。
 
むしろ、考えるべきはこの本で取り上げられているように、学校での評価をどのように入試に取り入れるか、一発勝負入試の是非、世帯収入と学歴の関係だろう。欧米の入試制度はもちろん問題も抱えているが、この辺りについては日本が学ぶ事は多い。

『英語独習法』今井むつみ

 

英語独習法 (岩波新書)

英語独習法 (岩波新書)

 

 話題の本。アウトプットに時間を割く前に、まずは語彙を身につけよ、さらに言うなら、語彙を学習する際は、その単語の使用頻度、共起する単語を正確に理解しながら覚えていくべき、という主張の本。instinct, intuitionやfind, realize, recognizeなどの類義語は使用領域を意識して覚えよとのアドバイスもある。他にもスピーキングを鍛える前に「オフライン」のライティングを、や、リスニングの上達には、語彙とその聞き取ろうとする話題に関するスキーマを充実させる必要あり、などのアドバイスも。自分としては目新しいところはないが、世にある所謂「英語本」の中では至極良心的で科学的な本である。

英文法の正しい知識

昨日、所属する学会の例会で英語学、英文法を如何にして現場の教育に活かすかという内容の講演を聞いた。英語教師が日々説明している文法構造や用語を、言語学的検知から見直してみるというもの。

 

仮定法現在の用法、moodの説明、日本語文法と英語の文法用語の齟齬などたくさんのお話が出てきて、非常に面白かった。

 

会場内からの質問で、どこまで教師は深く理解しながら文法を教えなければいけないのか?という疑問が出ていた。

 

本当に深くまで理解しないと教えられないということはないし、実際に講演者の方も教え方の便宜上、言語学的観点から少し間違いがあっても、生徒が理解しやすければ仕方ない、との意見も出されていたように思う。

 

基本的に教師は「嘘」をついてはいけないはずだ。だとすれば、最低でも文法になんらかのコメントしながら授業を進めるのであれば、真実を伝えたい。江川泰一郎、安藤貞雄、安井稔など安定感のある文法書に目を通してから説明するくらいの責任感は欲しいところ。

 

要は正しい知識持った上でを授業のスタイルに合わせて、そして生徒のレベルに合わせて取捨選択していくことが必要なのだろう。嘘をついちゃだめだ。

 

完璧に正しい知識をがっちり授業したい教員もいるが、それは時代にそぐわない(全員に教える必要は全くない)。一方、文法を軽んじる向きも最近はあるが、それなりに英語が使えるようになるためには文法を一通り明示的に示される機会が必要であるというのが僕の持論である。(教えればわかると言うものでもないし、教わらないからわからないというものでもない)。

 

web上にも「嘘」は垂れ流しだ。今、「仮定法現在」をネットで調べていると、この歌で仮定方現在が使われている!と。いや、この用法は仮定法過去だからね。。。(If "Happy Ever After" did exist, I would still be holding you like this.の部分)

 


PAYPHONE Maroon 5 Feat (lyrics)

『リテリングを活用した英語指導』佐々木啓成

 

 読了。4技能を意識して授業をすると、やはりスピーキングをどうするかという問題にぶつかる。評価も難しいし、タスク作りも難しい。高校生を面白がらせるのも難しい。この本を読んで、何か新しい知見は見いだせなかったが、スピーキングという観点から言うと教科書を中心に授業を進めるのなら、retellは一つの到達点にはなるだろう。

ただ、retellの目的が「話させる」ことなら、他に話させる方法はあるだろうし、もっと容易に行う方法もある。チャットで話題を変えつつ、少し考える時間を与えれば少し難しい話題でもいけそうだ。絵の描写などを行えば、もっとreal-lifeな英語にも慣れ親しむことができそうだ。

一方、retellの目的が読んだものの内容の整理であるとか、パラフレーズ力、要約力ということであれば、「話す」要素を入れることで話はややこしくなることもある。これらの力を増強し、確認するなら書く、という活動を通して、そして時には母語を介した方法で行う方が深い理解を得られる場合もあるのは明確だ。

高校生、特に勤務校の生徒たちは、ものの理解がいいので、読む作業ではかなり難易度の高いものまで扱うことができる(内容、語彙という観点で)。一方で話す、書くということになるとその読む力との乖離が酷くなってしまうのだが、なかなかうまく自分の言いたいことを表現できない。

そうであるならば、コミュ英という統合型の授業で教科書中心にしてしまうと、4技能をバランスよく行うことを意識しすぎるあまり、それぞれの技能について適正なレベルの設定が困難になるということが問題になるのではないか。

使ってる教科書が簡単すぎると、プロダクト活動できないから教科書のレベルを落とすべきと言う議論もあるが(自分も以前はかなり強くそう思っていた)、実はインプット、特に読む時は生徒たちの知的レベルのあったものではないと、読む必然性が削がれてしまうのではないか。それぞれの技能でレベルの調整をして帯の活動で4 skillsを扱うほうがbetterではないか。

そんなことを考えさせられる読書になった。