『その可能性はすでに考えた』井上真偽


事件当時、少女は小さな村で生活をしていました。住民は31人の大人と、少女と、高校生くらいの少年だけです。あわせて33人全員が「仕事」を割り当てあれ、家畜を飼って、ほぼ自給自足の暮らしをしていました。
この村である日、少女以外の32人が殺害される「事件」が起こります。気絶していた少女が目を覚ましたときには、そこには少年の生首が転がっていました。それから十年以上経って、少女は探偵事務所にやってきます。「私、人を殺したかもしれないんです」と。

31人の大人は全員、外から鍵のかかった広間の中で死んでいました。
鍵をかけたのは、広間から少女を連れ出した少年です。
少年に抱きかかえられて逃げているうちに少女は意識を失ってしまい、
次に目を覚ましたときには、首を切断された少年と目があってーーー。

「少年を殺すことが可能だったのは、私以外に考えられない」のです。

しかし、ここでひとつの問題が発生します。

「でも、それもおかしいんです。少年の首を切断した凶器は、わたしには動かすことができない」のです。

凶器と断定されたのは村が家畜用に所有していた「ギロチン」で、たとえば本体から刃だけを取り外したとしても、到底少女の力で持ち上げることのできる重さではないというのです。

不可能犯罪、です。

つぶさに話を聞いた探偵はこれを「奇蹟」だと結論づけます。
ここが本作の肝です。

ある事情から「奇蹟」を信じる探偵は「人知の及ぶあらゆる可能性をすべて否定できれば、奇蹟である」と言えるはずで、検証した結果、本事件において考え得る可能性はすべて否定できた、と言うのです。
それに対して奇蹟を信じない者たちが、探偵が見落としているであろう「可能性」を順番に提示していき、その提示された可能性をまた探偵が否定して、、という構図で本作は進みます。

興味を持った人は是非、探偵がまだ考えていない可能性を、探してみてください。

めちゃくちゃおもしろかったです。


『メルカトルと美袋のための殺人』麻耶雄嵩


本格ミステリファンにとっては有名な探偵だそうです。

メルカトル鮎。めるかとるあゆ。

そして事件の語り手は、メルの友人である美袋三条。みなぎさんじょう。

「美袋」の読み方をなかなか覚えられなくて、文中に出てくるたびに前に戻って確認したりと苦労したけれど、パソコンで「みなぎ」と打ったら一発変換できるのには驚きました。そうですか。。。

七つの事件を扱った短編集です。
★仲間とともに訪れた別荘で、美袋は突如、ある女性を愛するのですが、その女性が殺人を犯し自らも死んでしまいます。
★ペンションに来ていた大学生5人の内、ひとりが他殺体として発見されます。その顔に雑な化粧が施されていたのはなぜか。
依頼人から「自分の命を守ってほしい」と頼まれたメルは、話を聞いてその場ですぐ断ります。しかし依頼人もまたあっさりと引き下がってしまう。わざわざ遠くから訪ねてきたのに、なぜ?
★過去に土砂崩れで百人以上の女子中学生が亡くなった際、ひとりだけ遺体が発見されなかった少女にまつわる事件。
★メルが暇つぶしに書いたミステリー小説の犯人当てに、美袋がチャレンジする作品。
★美袋が襲われ、連れ去られ、さらには殺人の容疑をかけられます。
★シベリア急行の列車内で起きた射殺事件。乗客には全員アリバイがあって。

どの事件もメルの推理は冴えわたっています。頭をかきむしったり、虫眼鏡を取り出したり、パイプの煙をくゆらせたり、深い思考のトンネルをくぐったり、ということはなく、現れて、検分して、あなたが犯人です、と言い置いて去っていく。というスタイルです。ミスもしません。

けれどかっこいいと思えないのは、彼がタキシード姿にシルクハットを被った少々場違いな格好をしているからだけではなくて、善性が欠如しているからでしょう。奇抜なキャラクター設定の一部なのだとしても、なにもご遺体にそんな狼藉働かなくても、とは思いました。作者のこだわりなのかしら。どうなんでしょ。

美袋の読み方さえ覚えられれば、移動中の車内に最適な1冊かと思います。


『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン


もしもわたしが映画を撮るのだとして(たぶん撮らない)、コインランドリーでの一幕があったなら、洗濯が終わるのを待つ登場人物の手には必ずこの本を持たせたい。と思った小説でした。


24の小さな短編。どの話も「助け」を必要としているように見えるけれど、それはわたしが外側にいるからで、内側から見えるのは「ただの出来事」なのでしょう。外側にいる者が感じる憤りや、恐怖、悲しさ、寂しさ、あるいは朗らかさや、優しさといった感情は、「ただの出来事」の強さを前にして、無意味でした。何も思わなくていい、寄り添わなくていい、ただあなたの目の前には今この物語がある、そういう小説でした。


ところで、いくつかの短編に”祖父”が登場します。小説に限らず、物語の中で”おじいちゃん”というのは何かしら「救い」の存在になることが多いように思うのですが、本作の祖父は野卑でした。そして腕のいい歯科医でもありました。野卑で腕のいい歯科医なんてあまり想像したくもないし、全短編の中でも特にエキセントリックな人物だったのですが、なぜかわたしにはこの祖父がいちばん現実的で、目を背けたい存在でした。

『現代日本政治史』大井赤亥

安保法制で何をもめていたのか未だによくわかっていない、くらいの政治知識量の人が読んだ感想文です。


本書の目的のひとつは、現代日本における「政治の対立軸を明確にすること」とあって、過去の日本政治がどういう対立をしてきたかを時代を追って順々に紐解いているので、なるほど、あれがこうなったからそれがああなったのね、が積み重なって行って「なんで今、こうなっているのか」が、よくわかります。


1990年までは保守(自民党)vs革新(社会党)の、強くはっきりとした対立軸が存在していたのが、1990年以降に革新の側が一方的に衰退してしまった。そして、それに代わる新たな対立軸も生まれなかったため、すべての政党が「保守」の範疇に収まって現在まで離合集散を繰り返している、というのがわたしの理解できたおおざっぱな流れです。


なるほどそうなのかぁ、ふむふむと納得しながら、はて。ところで、どうして政治の対立軸を明確にすることが必要なのだ?

対立は避けられないのだとして、もっと言えば、権力の抑止力としての対抗勢力は必要なのだとして、だからと言って、何と何がどう対立しているかの、その軸を、わざわざ研究して明確にする必要なんてある?


という疑問とともに読み進めました。


そして本書を読み終えた今、おぼろげながら自分なりに出した答えは、対立軸を明確にすることは、世論の形成に大きな役割を果たすのではないか、ということです。


わたしが本書から特に強く受け止めたのは、普段の生活の中では政治や政治家に対して不満や批判の声しか聞かないけれど、でも、これまでも政治は「世論の求めに応じてきた」のであって、その逆ではない。政治は国民のことをまるで考えていないという捉え方は、わたしの「印象」に過ぎないのだと。


政治は、世論が求めれば応じる。応じざるを得ない。


そして、その世論が形成される過程において、対抗勢力が「何と、どう対立しているのか」が明確であることは重要だろうと思えたのです。


著者の意図とは違うかもしれないけれど。


で、本書を読み終えた読者なら、本題とするべき問いは、さて、わたしは政治に何を求めるのか、ということだろうと思うのですが、その答えは見つからずにひとり混迷をきわめております。何を求めるかなぁ。難しい。いちばんは真面目にやってくれ、ということなんだけど。


過去の自分の考えを顧みるとともに、今の自分の位置を探る機会にもなりました。



ところで。

本書に大日本帝国の植民地支配について、安倍晋三が「子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という談話を発表したことが紹介されているのだけど、自分が謝罪して終わらせるという意志表明ではなくて、「謝罪の必要などありません」と言ってるだけなの、なんて恥ずかしい大人なんだろ。この人が総理大臣だったの、つくづく情けない。

『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』島田荘司


とても楽しい小説でした。

作家・島田荘司の読書家ぶりが伝わってくるような作品でした。


読んだ本の少なさを数えると、わたしが読書家を名乗ることはできませんが、おそらく多くの読書家がそうであるように、わたしもシャーロック・ホームズは好きですし、夏目漱石も敬愛しています。

「物語」に人生を励まされてきた人で、ホームズと漱石を好きじゃない人っているかな、とふと思う、それくらいの人物たちですよね。


とある未亡人が、生き別れた弟と念願の再会を果たします。彼女は弟を自邸へ招き入れて一緒に暮らし始めますが、弟は恐ろしい呪いにかけられていると言って、食事もまともにとりません。そしてある日、まるで本当に呪い殺されたかのように、一夜にしてミイラと化してしまう、というミステリー。

この謎にホームズと漱石が挑みます。おっと、ワトソン君の名前を省いてはいけませんね。


倫敦(ロンドン)のベイカー街が、シャーロック・ホームズへの偏愛と夏目漱石への敬意とで満たされて、終幕までにそれらは船に積み込まれ、気づけば最終行で読者はその船に乗せられています。


きれいにまとまったぁーうひょーい、と読み終えたときに思いましたので、後ろから読む癖のある人はご注意ください。先に読んじゃうと、船に乗せてもらえないかも。


『人間腸詰』夢野久作

人間腸詰、って。。やめましょうやめましょう、想像せずに読みましょう。想像せずに読めば案外スラリと楽しめます。


全8編の短編集。


登場人物も場所も繋がりのないそれぞれ別の話で、下手なたとえをすると、クアラルンプールとサンパウロくらい違う(つまりはどれくらい違うのかがわたしにもわかっていない)けれど、「一冊の本を読んでいる」という感覚が途切れない短編集です。


童話のような素朴さもあれば、ホラー映画のような血なまぐささも、落語のような滑らかな語り口も、ホームコメディーのような陽気さもあるのに、夢野久作の筆にかかると、どれもまるで一幅の掛け軸のようにその存在感は静かに放たれます。


この掛け軸があるから、クアラルンプールだろうとサンパウロだろうと、同じ部屋の中だと思うのでしょう。


タイトルも怖いけど、読み進めてもずっと同じ部屋から出られないの、なんだかそれがいちばん怖かった。

『一の悲劇』法月綸太郎

小学一年生の男の子が誘拐されます。しかし犯人が身代金を要求したのは、別の家族でーー。


身代金を要求された家族と、我が子が誘拐された家族。


物語の語り手は身代金を要求された側の父親で、この人物が身代金の受け渡し役を引き受けます。彼には「犯人から指示を受けたから」だけでなく、自ら危険を冒してでも誘拐された子供を助けたい別の理由がありました。


自分の子供が誘拐されて、別の人間に身代金の引渡しを頼むしかない立場の人と、別の家族の子供のために、身代金の引渡しを成功させなければならない重責を負った立場の人と、想像すると息苦しくて、はやく犯人を突き止めたくて、物語の前半は浅い呼吸で読んでいたように思います。


そういう緊張感は、本格ミステリーのなせる技ですよね。楽しい。


早い段階で「犯人」に気がつく読者も多いかもしれませんが、いや、はずれたかな、と最後まで確信できず、ハラハラする内容になっております。