たぶん、ガンコ。

今週末はまったく予定がなく、好きなことをして時間が使えます。
なにげに久しぶり。


で、ちょっと仕事と会社と働き方について考えてます。


自分の場合は、編集に関わりたくて、転々と、3社目なんですが
会社の規模で行くとどんどん小さくなっている。
ひとつにはそれって、自分の仕事との関わり方に寄るところが大きいのかなと、
結果論だけど感じている。


結局、おそらく、いいも悪いも自分で引き受けたいというのがあって。


これまでのところでは、なんだかんだでチャレンジして失敗するくらいなら、失敗しないように励行することを優先するような組織だったように感じている。
まぁそれって当然のことといえば当然なんでしょうけど、(青二才を自由にさせるほど面倒なことないしね)やっぱそうなると裁量が少ないなぁって、ちょっと窮屈だったりもして。

その点では、小さな会社の方が一人でいくつもやらなきゃいけない分、裁量も大きくなりがち。


それを、自由という放置プレーというかは分からないけど。


でもまぁ、いくつかの会社に身を置いてみて、感じるのは
自分の名前で仕事してたいなぁということ。


会社の名刺がないと、そりゃあ、何も出来ないけど、
それをうまく活用して、結果を出したい…
というかその上で、出した結果で評価されたい、というか。
与えられたことをうまくやれたかやれないか、だけで評価されるのって、やっぱナットク感に劣るような気がする。


行き先は決めてもらって、行き方は決めさせてほしいというか。。



そういう意味では、とてもワガママな人間なんだろうなぁと思うよ。


だから、いつも気になるポイントは自分が上記の点をどう感じるかで、
会社にいるメンバーがいいか悪いかとか、会社のシステムがどうかとか、は
あんまり興味ないんだな。
(というか、周りの人にはことごとく恵まれて来たと言うのはあるけど)



そういう意味で、自分の色や思考を仕事を通じて表現できて
さらには会社にも還元できたりすると最高なんじゃないかと思うわけです。
おこがましいのだが。



なんだかんだで2ヶ月が経つ備忘録として。

あたらしいところではたらき始めて3週間

転職して3週間になります。
最初の数日はなんんもしてなくてもぐったりしていて、
帰って来て気付いたら昏睡で朝…で、
転職ってホント大変だーと思っていたのだけど、
うん、まぁ慣れてきたかな。
人間、適応するものですね。


しかし、仕事で結果を出さないとホントの意味で
馴染んだ感じはまったくしないので
毎日、焦燥感抱えながら、ひとまずやれることをやる、と。


最近、思うのはつらさとたのしさは矛盾しないなーというってこと。
ラソンと同じだ。
苦しみはオプショナル。
何も感じない安定しきった生活よりは
多少の苦しみとか感情の揺れがあった方が
たぶんいいと思う。


ザッカーバーグの言葉が響いていて、
http://techse7en.com/archives/3824847.html
自分をかえりみると、
ホント腰が重くて、充分に準備ができてからかかろう、とか
タイミングを見たりして…
そういうのってホントムダだ。
準備が整うの待ってたら人生いつも遅れて来た人間になってしまう。。


思考が先にあるんじゃなくて、
行動が先にある人間を標榜しよう。


行動が先にあれば、
それに追いつくために頭の回転数も上がっていくんだと思う。

最終出社日

現職でのさいごのお勤めの日を終えました。
午前中から総務で諸手続きを終え、本社の方々に挨拶。その後、所属するビルに戻り、挨拶回りを時間に追われつつ行いました。


昨日まで下版していたり通常の業務をこなしていたので、自分の中で「退職するんだ」という準備はまったくなかったのだけど、その日はとてもあっさりと、日常の一日と同じように訪れて、過ぎていきました。


前日・当日と飲んでくれた前・現部署の有志の方々。
おそらく仕事もたてこんでいるだろうし、体調不良の中、参加してくれた人もいて、
ほんとうにありがたいことです。


ホントにたいしたこともしていないどころか、迷惑ばかりかけていた自分のために、いろいろと手配してもらったり、コトバをかけてもらったりして、申し訳ない気持ちにさえなってしまう。とてもありがたいことです。


そして今日、各部署を回っていて、挨拶をしながら…

もうこの会社に出社することないんだなぁというまるでリアリティのない…
でもそんな現実に身体を徐々にならしていくようなそんな時間でした。


今の会社には6年と3ヶ月。
25歳のときから通わせてもらっていて。


今振り返っても、いっつも気持ちが先走っていたり、周りが見えてなかったりで、不器用に、周りに迷惑をかけてばかりの6年間だったなぁと我ながら思う。


やりたいことがありつつも、それをうまく形にでききれなかったり、会社の向いてる方向とフィックスできていなかったり。そんな前半。
そして地図の部署では、まったく違う仕事へのスタンスで、そのおかげで自分を捉え直すことができたし、まるで異なる雰囲気の部署の人たちと仕事を共にして、視野を拡げることもできた。


そうして。
あがいたり、押したり引いたりしているうちに、いつの間にやら仕事をこなすことを覚えてきたのがここ最近だった。


あまり青臭いことを言うとなんなんだと思われるから控えているのだけど…


でもまぁ言ってしまうと。


しごとのためにどんだけ努力できてるか、ということについてココ最近は自信を持てていなかった。その方向性や質はもちろん問われるべきだろうけど、それ以前にしっかりと努力できてる自分を認めることが出来てないって、なんだかなぁなぁで生きてるみたいですごくしっくりきてなかった。それって、「やってダメ」じゃなくて「やらないでダメ」と決めつけていることだから。なんだかそういうのって、すごくかっこ悪いなぁって、自分で思ってたりしていた。


転職の理由って、会社の環境や、人間関係や待遇や。きっといろいろある。だけど、自分の場合はあまり周りのことに原因を求めてない。(悪く言うと周りに興味がない?)
そうじゃなくて、今どんだけ精力をつぎ込めているかという「自分」が指標になっている気がする。
その点で考えると…与えられた仕事や部署の構成や日本経済や業界同行や…そういうことはきっと二の次で。
じぶんがどれだけ親身に取り組めるか、それが優先順位の高い指標なのです。


自分の原点は、10年前に心に留めた「本は世界を変える」という確信。


それだけをわりとしつこく執念深く心のどっかで思っていて、
だからこそ自分で本を作りたいと虎視眈々と、ときには現実逃避のように目論んでいたし…
それに向うために動きたいという想いは今でも変わっていない。


だから今の部署ですごくいろいろ教えてもらって、人間関係も(わりと?)良好で、待遇への爆発的な不満があるわけでもない、そんな現状を…それでも変えたいと思ってしまって。



多々リスクはあるんだけど、リスクをとらないと現状は変えられないので。


サッカーの岡田監督が言っているように、リスクをとることを楽しもうと思います。



今日一日、もったいないことしたかなーなんて後悔を感じさせるくらい、良い会社、素敵な環境だった。ここで働けたことは正直、とても幸せだったと今は思う。


まぁだからこそ、この先もがんばろうと思えるのです。


きっとこれまで過ごした6年間がそう思わせてくれるのです。

しごとの今後について

1月に転職をすることにしました。
残された時間、引継とかかりかけの業務をなんとかこなす日々です。
これで地図を作るのは最後か〜という感慨を味わう暇もなく、とにかく無事に商品を終わらせることだけ考えて、取り組んでいます。

  1. +

よく、なぜ辞めるのかについて質問を受けて、
自分でもしっかりとした答えがなくて、考えていた。
言い出せばいろいろあるのだろうけど。
やはり、環境を変えたい、ということが大きいのだと思う。


とにかく特出したスキルもなく、人としても平凡な自分がなにかに取り組んで
成果を上げようと思うと、やる気だったりモチベーションだったりということに
大きく左右される。
よくも悪くも、これがないと、きっと自分は周りには太刀打ちできないだろうな、という自覚もある。


だけどそれなのに、最近ちゃんと仕事に向き合えていない。


今の部署で3年で、周りの人に力を貸してもらえることが多くなったし、
それはすごく仕事がやりやすくなったとも言えることなんだけど
その「やりやすさ」に頼りきっている自分もいて。
ほかのことに気を取られすぎて、ちゃんと取り組むべきことに
意識を集中して、夢中になって取り組めていない。


仕事を「無難にこなすこと」と「効率よく運ぶこと」の境目が曖昧になり、
「やるべきこと」「やりたいこと」が自分でも具体化できなくなっている気がしていた。


ただ、これは甘えでもあって。
問題は、個人の意識の持っていき方というだけなので
自分をちゃんと律することが出来れば、何も会社を変えるなんてリスクをおわなくても
解決できることだってできるはずなのだ。


でも、最終的にはそうは思えなかった。


自分で自分のことはよく分かっていて、
環境を変えることが、自分が緊張感を取り戻す一番の近道で、
そして「緊張感」や「リスク」といったものが
自分の成長にはかかせないだろうな、と。


だから、リスクをとりたいとことが
もしかすると転職の大きな理由なのかも。


「ほかに良い条件があったから?」なんてことも聴かれるけど、
転職をしたことのある人なら、この考えも多少は理解してもらえる気がするのだけど。



まぁでも、もう32を過ぎて、落ち着きがないと言うのも我ながら考えものだし、
落ち着きたいなーと常々思っているので、まったく逆の行動になってしまっているわけで。


迷ったときは、難しい方へ。
そして、やらない後悔よりやった後悔。


それを信条にこれまで生きて来たわけだから。


せめて残りの日々、周りに迷惑をかけないよう
しっかりと過ごして、年末にもっとちゃんと考えよう。

未来の自分に対する責任

ぐだぐだと将来について考えることがあります。
毎日、そんなことばかりかんがえているわけではないのだけど、答えのないことについてうだうだ執着してしまうのは、これはもう性格。


そんな個人の人生だけど、当然ながら社会的な背景や、経済状況などもかんがみて、人生設計をするのが、まぁ戦略的なものの考え方なんだろうなぁとおぼろげにも思うのですが。
しかし、結局、未来なんて透視してもまったく予測がつかないことばっかりだ。


そもそもギリシアやらイタリアやらスペインやら、遠く自分と全く関係のない国が破綻しそうになっただけで我が身に降り掛かってくるような時代だ。
アメリカの会社がつぶれただけで(だけじゃないんだろうけどさ)経済が冷え込んだり、ゆえに給料が下がったりもする。


人生の先を読んで生きることが大切、と肝に銘じてはみるものの、大変な時代は続き(いつでも言われていることだろうけど)劇的に何かが改善されることも光明が射すこともない。


こんな人間だけども多少は保守的に、とらなくていいリスクはとらずに、致命的なミスもなく、生きては生きたいと思っている。けど、何があるか判らない世界の中で(とくに今年はそう思った)安泰な場所などはもうホントにないんだなぁと言うことが身にしみて感じさせられる。


これまでももちろん言葉では理解していたけど。


そんなときになにが人生のエンジンになるんだろう、って考え直してみると、やっぱり「好きなこと」なんだろうなということにいくつくわけです。


長く生きていると(まぁそれなりにアラサーだし)好きなことを周りに置いてもいるけれど、そうでもないものも時々交じっていて、それに気付いたとしても置きっぱなしにする。受け入れる術を身につけてもいるから苦痛ではない。だけど、もっと純化できるんじゃないかと。
断捨離が流行っているけど、その「思想」と共通するというか。



ジョブズは集中と選択で、やれるものを最低限に絞って、それ以外はばっさり切って、徹底的にリソースをつぎ込んだ。


意識的に捨てることもときには必要。


というか、捨てる、ということはたいして重要じゃなくて、「エンジン部分」の精度に対して常に神経を尖らせてないといかないんだろうな、ということ。


社会状況や関係性がどんなに変わっても、影響を受けない自分だけのモチベーションを持たないと先に進めないかもしれないなと。


いろんなことがあるけれど、一番たいせつなのはモチベーションじゃないですか。


それがあるか、ないか。仕事だけじゃなくて、すべてのことってそこに帰結するんじゃなかろうかと最近、おもうのです。


なんだかまとまらないけど、ひとまずそんな感じ。

大阪マラソンのこと

先週末に大阪マラソンの第一回大会を走ってきました。
フルです。


大学時代以来ほぼ10年ぶりのフルマラソン
あの時はもう二度と、二度と走るまいと心に誓ったものでしたが、人間の意思とは弱いもので、そんなつらさもすっかり忘れて、勢いで申込み。

さらにその勢いで5倍の倍率をくぐり抜けて、当選、というわけです。


ただ、すごく楽しみな大会でもあって。


やっぱり旅好きなだけあって、あまり知らない街を、
しかも普段なら走れない道を自分の足で走れるということはすごく価値のあることで。


前回の時のように前半飛ばしすぎてへばって、後半死にそうになる、なんてコトはきっとないわけで。


10年間で学んだことは自分の弱さを知ることと、
そのための対処療法。


歳をとるのはわるくないことです。










タイムは4時間27分で目標が5時間切りだったから自分としても納得。
でも人間とは欲深いもので、今度は4時間切ってみたい。
サブ4のためにはどうしたらいいんだ!?
なんて考え始めている。
物事に満足しないと言うのも自分の性癖なのかもしれない。


なんだかんだいって、走ることについてはずっと続けていることでもある。
ストイックではないにせよ、今も以前の家も走るルートは決まっていた。
結局、嫌いじゃないんだろうなぁ。


30kmを超えたあとに突然来る、あの理不尽な苦しみも
今回は4時間の大作ipodを持参していたので、苦しいながらも
楽しみながら乗り切れた。


しかも都市型マラソンのすばらしさともいうべき
沿道の応援。


大阪のノリの良さか、すっごく騒がしくて
それが40km、ほぼ途切れることなくて、
自分を応援してくれているかのような錯覚にすら陥らせてくれるほど。


応援する人がいて、される人がいて。
なんだか、すごくいいなと感じた。


途中で小雨だって降ってたっていうのに。


そんな、
自己啓発ソングと沿道の惜しみない応援。


途中でいろいろ考えてしまって、泣きながら走る場面もあり…
(いやー恥ずかしい。ほんと)
涙をこらえながら走るランナーって、どうよ。
(しかもたいした感動シーンでもないのに!)


そんなこんなですごく愉しかった。


きっとまた走りたいと思うようになると思う。


苦しいのが愉しいって、どうかしてるけど、
それもきっと性格なんだろうな。


人生でうまくいってるときなんておそらくなかったし、
もしうまくいってばかりいたって
そんなの怖くて、逆にびびってしまうような
そんな性格。


それと付き合いながら、
人生と重ね合わせながら
これからも走っていくと思うのです。



もう疲れただれかたすけてよ
そんな合図出したって
誰も観てない
ましてタイムを告げる笛はならねぇ
…なら息絶えるまで駆けてみよう」

ミシマ社

結局、ブログもちょいちょい更新していこうという気になってきている。


日常のささやかなことは、facebookで記述していればいいじゃないか、


という気もするのだけど、



あそこではどうにもソーシャルグラフに受けるネタをポストしたり、


ほんとうに長文かけて書きたいことは他にあるんだよなーということを脇に置いて書いたりしてしまうので。


自分のだらだらとした思考の垂れ流しみたいな文章は、気を遣わないブログに書くに限る、と思った次第。

**

最近、読んでいる本の「計画と無計画のあいだ」のこと。


じつは3,4年前だったか、山田ズーニーさんのポッドキャストを聴いて、
ミシマ社のコトを知った。


二人のやり取りに熱さを感じて、思わずメールをして、会いに行った。
ミシマ社の三島さんに。
といっても、なぜかそれは飲み会の席だった。


なぜか、他の出版社の出版記念?の飲みの席に、まったく関係のない身でありながら
交じってお酒を飲んでいた。(経緯は忘れてしまいました…)


実際にはご本人とお話しする機会もないまま、飲みの時間だけ過ごして、
そのまま立ち去ったのだけど、なんだろ、当時からすっごく風通しが良いというか、みんなこの場を楽しむ・仕事をめいっぱい楽しむ、そんな雰囲気に満ちあふれていたような気がする。


その意味では、ほぼ日の乗組員の方にも通じるような仕事を「楽しむ技術」というか。


でも、そういうスタイルが、
じつは実社会ではすごく難しいことだということは、
曲がりなりにも社会人を10年近くやっていると分かってくるものだ。


だけど、


本書の中でも、本(出版物)から「熱」がなくなってくることへの懸念、考察がたっぷり書かれている。前半のゆるい中身に油断していると、後半カウンターパンチを食らうようにクラクラさせられる。へたなビジネス書よりも自分の立ち位置を突き上げられる。


ぼくらが楽しめない理由の代わりに得ているもの、今のポジションでの安心や保証。
そのシステムさえも「虚構に過ぎない」と糾弾する。


結局、勝手に作り上げた「檻」なのだと。


あらためて指摘されると、まったくそうとしか思えない。



保守的な人間でもないのに、保守的なふりをして生きていくのはよくないよな、
と思わされた。


いや、いろんなことを考えさせられたのだけど、
おっきいところはその一点だったと思うのだ。



計画と無計画のあいだ---「自由が丘のほがらかな出版社」の話

計画と無計画のあいだ---「自由が丘のほがらかな出版社」の話