日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

隷書活字で知られた活版製造所文昌堂の『花形見本』とその周辺

日本で最初の隷書活字製造販売元として知られる活版製造所文昌堂が発行した、花形を主題とした活字見本帳である『花形見本』が、印刷図書館に蔵されています(Za359 https://mba-web.co.jp/opac/prj/details.php?id=7686)。表紙のコピーが手元にあったことを完全に失念していた文昌堂『花形見本』を久々に見返したところ思いもよらぬ意匠のものだったため、文昌堂の概要をまとめ、併せて刊記のない『花形見本』の発行年を推定してみます。

活版製造所文昌堂『花形見本』表紙(印刷図書館蔵)
活版製造所文昌堂『花形見本』文字活字の広告(印刷図書館蔵)

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫「仮名字形一覧」の「活字見本帳一覧」https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/jikei/data_katsuji/に見える表紙と比べていただくと、文昌堂『花形見本』が飛び抜けてグラフィカルな仕立てになっていることに驚かれることと思います。

何と言っても、いま『近代出版研究』第3号(皓星社、2024.4 https://www.libro-koseisha.co.jp/publishing/9784774408200/)で話題の「パブリッシャーズ・マーク」と同様の意匠で掲げられた文昌堂の図柄!

『京橋の印刷史』と『本邦活版開拓者の苦心』に見える文昌堂

文昌堂の足跡を記す数少ない資料が、この2点になります。

牧治三郎『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会、1972年)*1の第1章中に「早期の活字製造業者」として「京橋地区の築地活版製造所と弘道軒を除いた活字鋳造業者の早期功労者として、本町三丁目書肆瑞穂屋清水卯三郎、銀座四丁目博聞社長尾景弼、南佐柄木町の文昌堂松藤善勝のほか秀英舎の製文堂の四業者を除外するわけにいかない。」とあり(20頁)、「松藤善勝の文昌堂活字製造所」という半頁のまとめが記されています(23頁)。全文を引いておきましょう。

 明治十六年四月創業の京橋南佐柄木町一番地文昌堂は松藤善勝(幼名常吉)その他の共同出資で始めた活字店であった。
 文昌堂は最初の隷書活字製造販売店で、松藤は長崎製鉄所活版伝習所で本木昌造とともに、ガンブルから電胎母型の製造と活字鋳造法の指導を受けた一人で勧工寮活版所十三等出仕から紙幣寮(後の印刷局)鋳造課長に出世し、退官後、活字販売を始めた経歴の持主。のちに文昌堂を他へ譲り、新富町で松藤善勝堂として再発足したが、松藤が有名になったのは、明治三十三年十月、都新聞のためにマリノーニ輪転印刷機胴から割出した九ポ七五の都式活字創製である*2。一時は、東京築地活版製造所の九ポ及十ポ活字と対抗、万朝報の扁平活字と三ツ巴になって、新聞界を風靡した。
 松藤は、この外に連柱活字を考案するなど京橋区に於ける活字鋳造者として歴史上、書きもらすわけにはいかない。

『京橋の印刷史』が記す松藤の略歴は、幼名や「十三等出仕」という記載などから遠山景澄編『京浜実業家名鑑』(京浜実業新報社、明治40年〈1907〉507頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/779587/1/282)に依拠して記されたものと想像され、この底本が紙幣寮での役職を「鑄字課長」と正しく記しているところ――明治36年の『印刷局沿革録』では明治9年10月のこととして「鑄字課長松藤善勝活字組立ニ要スル輕量ナル大小各種ノ込物ヲ鑄造スルコトヲ工夫セリ」と記載――を、『大正人名辞典』(東洋新報社、第4版:大正7年)の木戸善輔の項に「松藤氏は」「十一年鋳造課長に進み」とあることから(49頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11557513/1/1116)一部調整して書かれたのでしょう*3

津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、1934年)の「江川次之進氏」の項には「尚ほ二十九年(明治:引用者注)には、隷書活字の創製者たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鑄造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年に設立したもの)を買収した」と記されています(180頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/109)。

新聞広告に見る文昌堂――明治16年〈1883〉から明治20年まで

2012年に記した「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」に掲げた新聞広告から、この時期の文昌堂の活動を辿ってみましょう。

M16/04/07時事新報の文昌堂広告

明治16年4月7日付『時事新報』掲載広告に「昨夏以來母型長(年か)製造罷在候處此節整頓致候ニ付本月十五日ヲ以テ前期之諸品(發か)賣致候」とあることから、文昌堂は明治15年夏から母型製造を始め、明治16年4月15日に明朝四号活字・明朝五号活字の販売を開始したようだと判ります。この広告から、私は文昌堂創業期に関する『京橋の印刷史』の記述は誤りだと思っています。文昌堂が「明治13年に設立」かどうかは未詳ですが、『京浜実業家名鑑』は松藤の動向について明治「十五年七月同局を辭し民間に下り活字製作所を設く」と記しています。

M18/05/16時事新報の文昌堂広告
M20/12/12時事新報の文昌堂広告

明治18年5月16日付『時事新報』掲載「活字幷附属諸品以廉價販賣」広告や、同20年12月12日付「活版印刷機械/蒸汽器械ダライ並シカル盤」広告では、まだ隷書活字について触れられていません。

新聞広告に見る文昌堂――明治21年〈1888〉以降

先ほどの「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」と、これに続く「江川行書活字と久永其頴書の名刺(付文昌堂)」に掲げた新聞広告から、明治21年以降の活動を辿ってみましょう。

M21/05/14時事新報の活版製造所文昌堂広告

活版製造所文昌堂名義で明治21年5月14日付『時事新報』に掲載された「活字広告」で、はじめて明朝二号サイズと明朝五号サイズの隷書活字が使われました。宣伝文句に「隷書活字」に類する語句は見えませんが、私が知る範囲ではこれが最初の隷書活字広告になります。

M23/10/26時事新報の活版製造所文昌堂広告

活版製造所文昌堂名義で明治23年10月26日付『時事新報』に掲載された「活版発売広告」では、見出しと本文のすべてに隷書活字が使われています。本文に曰く「各位益御清福奉賀候陳𛂥弊堂義従來活版其他附属器機類製造営業罷在候處今般品位〓〓代價之義一層勉強御用相勤申候間何卒舊𛂇倍𛁈陸續御注文之程奉願上候也」。

M26/11/10東京朝日新聞の文昌堂広告

明治26年11月10日付『東京朝日新聞』に掲載された「活版広告」の本文には「弊堂儀從來活版製造仕候處各位の御愛顧を以て日増繁昌仕千萬難有奉存候猶一層地金等精撰し諸事入念非常之廉價を以て御用相務可申候且舊來より餘程字面も面目を改め候間舊𛂌倍し多少𛂌不拘御注文之程偏𛂌奉願候」とあります。

屋号あるいは商号として、松藤は単に「文昌堂」または「活版製造所文昌堂」と名乗っており、『京橋の印刷史』が見出しに記す「文昌堂活字製造所」は不適と思われます。

活版製造所文昌堂『花形見本』の推定刊行年

まず注目したいのは、『花形見本』から掲載した2枚目の画像。名刺を模した隷書活字見本の中に「電話番號千貮百〇四番」と書かれているのが見えます。新聞広告を振り返ると明治23年『時事新報』「活版発売広告」までの間には電話番号の記載が無く、電話番号が掲載されるのは明治26年11月10日付『東京朝日新聞』「活版広告」からになっています。

また、その東朝「活版広告」に記された広告文は、『花形見本』の広告文(下記)と非常によく似た内容でした。

各位益御清榮奉恭賀候降而弊堂儀從來活版製造仕候處各位ノ御愛顧ヲ以テ日増繁昌仕千萬難有仕合ニ奉存候猶一層地金等ヲ精撰シ諸事入念非常之廉價ヲ以テ御用相務可申候且字面モ𦾔來ヨリ餘程面目ヲ改メ申候間𦾔ニ倍シ多少ニ不拘續々御注文之程偏ニ奉願候敬白

その後の広告類の状況等を見る限り、文昌堂が江川活版製造所の江川次之進に買収されたのは明治29年のことと考えて良いだろうと思われますので、『花形見本』が発行されたのは広く見て明治24年から29年の間、狭く見れば明治26年秋だったのではないかと思います。

新聞や書籍で小見出しに使われた隷書活字

『中外物価新報』は明治22年〈1889〉に『中外商業新報』へと改題しているのですが、2007年の記事「明治十年代後半の楷書活字と明朝活字の攻防」に記した通り、改題から間もなく「官報」欄や「雑報」欄等を示す小見出しに文昌堂の隷書活字を使うようになっています。

明治22年11月15日付『中外商業新報』1面(部分、復刻版より)

又間精華堂『受験応用新編数理問答』巻末に掲載されている、吉野寛述『改正日本民法問答講義』(精玉館、明治31年)の広告文に「書キ方ハ俗ニ解リ易ク逐條手ヲ以テ導ク如ク口授スルニ異ナラズ且ツ各條目ハ一種字體ノ變リタル隷書活字ト爲シタリ以テ其注意ノ周到ナルヲ知ル可シ」とありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826307/1/109。吉野『改正日本民法問答講義』の本文を見ると、確かに「第n條」の文字が隷書活字になっており、現在の角ゴシック体を用いたような見出し効果が得られていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/791356/1/13。そうした効果を自覚的に用いていることを記した同時代文書を見つけることがなかなか出来ていなかったのですが、国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによる全文検索機能によって今回、吉野『改正日本民法問答講義』中の広告文を拾い出すことができました。

文昌堂の隷書活字は「伝統書体の活字化」という側面ももちろん持っているのですが、少なくとも明治時代の実用例としては、明朝活字という本文基本活字に対抗する強調文字のための活字書体という面が大きく働いたように見受けられます。

強調文字のための活字として、隷書活字(や江川行書)に少し遅れて明治20年代半ばに築地活版製の和文ゴシック体活字が登場してくるのですが(「和文ゴシック体創出の研究/ゴシック体史研究の最前線」https://uakira.hateblo.jp/entry/20110317、過渡期の現象として、見出し活字に隷書と角ゴシックを混用するものなどが見られました。

例えば下図チャーレス・スミス著『小代数学(スミス氏) 上』(加藤鎮吉ほか、明治26年)章扉では、「上巻」「第壹編」が二号隷書活字、「定義」「代数學」が四号ゴシックで刷られています(1頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/827972/1/3)。

チャーレス・スミス著『小代数学(スミス氏) 上』章扉

伝統書体として生き続けた隷書活字

和文ゴシック体活字が生まれ育っていったことで単なる強調文字としての役割を求められることが減り、明治末頃から改めて伝統書体としての位置づけを得ていった文昌堂創製の隷書活字は、江川行書の仮名活字との組み合わせで、現在にまで生き延びることとなりました。

下図は、昭和38年に発行された日本活字工業株式会社『NTF活字書体』に収録された隷書活字の見本になります。

昭和38年『NTF活字書体』より隷書活字見本


*1:『京橋の印刷史』は2024年4月20日現在、国会図書館デジタルコレクションで「図書館・個人送信限定」扱いで閲覧可能資料となっています。「あとがき」と刊記から、団体著作ではなく牧治三郎個人の著作と思われます。同日時点でNDL典拠情報に生没年の情報が欠けていますが(https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00409466)、『印刷界』228号(1972.11)に掲載された「『京橋の印刷史』の編・著者牧治三郎さん(スポットライト)」には「明治33年生」と記されています。

*2:都式活字の大きさについて、一般に9ポ七五説が流布していますが、私は各種資料の実測値から九ポ半だと考えています。詳しくは「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」https://uakira.hateblo.jp/entry/20170520

*3:『世界之日本』(二六新報社、大正10年)の「木戸善輔氏」の項(274頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/946122/1/359では、松藤の役職が正しく「鑄字課長」となっています。)

印刷博物館ライブラリーのデータベースに登録されている『写研』について『QT』や『QT写研』が別名登録されて欲しい

近代出版研究 第3号』(皓星社、2024.4 https://www.libro-koseisha.co.jp/publishing/9784774408200/)冒頭の座談会「「書物雑誌」と雑誌の「書物特集」」のうち、本来は2023年の第2号に掲載予定だったという分を読了。

創刊号の「明治期に活躍した出版社の近代性とは何か」に続いて、研究所員のお三方の濃さに圧倒されっぱなしで、〈雑誌の「書物特集」〉の「周辺」に含まれる話題として「印刷業関係の書物雑誌も」という項が立てられていてスゲーなと思ったことでした。

自分自身のため、「前田年昭さんに訊いた」として言及されていた「印刷業関係の書物雑誌」をリストアップしつつ、備忘録を追記しておきたいと思います。

* * * * *

  • 『図書設計』(日本図書設計家協会、1986~)〈――は、「本のガハ」だけを扱っているわけではないように思われる協会報、ですよね?〉

朝日堂活版製造所の朝日印ピンマークと㊹ピンマークが同じ面に刻印された初号フェイス42ptボディ活字

過日、大阪朝日堂活版製造所が鋳造した初号丸ゴシックフェイスで42ptボディの活字を入手しました。「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」と同じ計り方で、縦3か所の平均が14.780mm(42.059pt)、横3か所の平均が14.743mm(41.956pt)。

青山進行堂のピンマーク入り初号丸ゴシックフェイス・推定築地初号ボディの漢数字「三」4本および青山進行堂のピンマーク入り初号丸ゴシックフェイス・推定42ptボディの漢数字「三」1本の計5本と同時に使われていたらしき活字セットの一部だったものです(青山進行堂が鋳造したの初号フェイス活字の実測寸法については「初号フェイスの大阪青山進行堂製初号ボディ活字・42ptボディ活字・15mmボディ活字」https://uakira.hateblo.jp/entry/2024/04/07/232401

大阪朝日堂活版製造所製ピンマーク入り初号フェイス活字(斜め方向)
大阪朝日堂活版製造所製ピンマーク入り初号フェイス活字(ピンマーク正面方向)

朝日堂活版製造所とその商標

大阪市東成区にあった大西貞三の朝日堂活版製造所。『日本商工録 昭和8年度』によると創業明治40年で、「活字製造並ニ各種印刷材料」を手がけていたようです(『日本商工録 昭和8年度』での屋号は「朝日堂」https://dl.ndl.go.jp/pid/1034250/1/17。『大日本帝国商工信用録 昭和7年阪神版』では創業大正10年となっていますからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1030370/1/218、大西貞三が活字商売を始めたのが明治40年で何らかの形態で法人化したのが大正10年ということになるのでしょうか。

大日本帝国商工信用録 昭和7年阪神版』には、朝日をイメージしたシンプルな商標が掲載されています。

大日本帝国商工信用録 昭和7年阪神版』掲載商標

昭和14年7月26日付『官報』で昭和14年3月24日付での設立が公告された京阪神活字製造工業組合は、理事に青山督太郎、森川健市、岡本萬三、岩橋宗次郎、満田利一が名を連ねており、監事として田村由松と大西貞三の名がありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2960260/1/42。4か月後の7月19日に理事と監事に改選があり、理事は森川健一、岩橋宗次郎、満田利一、岡本悦蔵、寺島福蔵、法兼磯吉の6名、監事が大西貞三、今井彦兵衛の2名となっています(10月12日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2960327/1/33。森川健市「活版製造業のいまむかし(後半)」(『月刊印刷時報』 370号〈1975・3〉)に上げられている「昭和14年西日本活字工業組合員名簿」によると大阪市内の活字製造所が22軒、京都市3軒、兵庫県12件(うち神戸市8件)となっておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434833/1/60、また『名古屋印刷史』が記す昭和12年全国活字業者第一回大会の各地代表の中にも大西の名が見えていますからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/192、朝日堂は中堅あるいは大手と言ってよい存在だったのでしょう。

『関西模範産業大鑑 昭和10年版』を見ると朝日堂活版製造所の商標は上半分に下弦の旭日、下半分が所主である「大西」という図になっているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1232775/1/128、『全国印刷材料業者総攬』に掲載された大きく鮮明な図版だと「大西」の「大」の字に配している立体が実は活字を模していて、「下弦の旭日」がピンマーク風にあしらわれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/23

左(白黒)『関西模範産業大鑑 昭和10年版』掲載商標/右(赤)『全国印刷材料業者総攬』掲載商標、国会図書館デジタルコレクションより

この『全国印刷材料業者総攬』掲載広告では活字を模したイラストも示されているのですが、残念ながら(秀英舎製文堂の「S」マークなどどは違って)ピンマークの記載はなく、単なる平面として処理されています。

『全国印刷材料業者総攬』掲載朝日堂活版製造所広告(国会図書館デジタルコレクションより)

㊹というピンマークについて

2023年1月21日に開催された印刷博物館のオンラインイベント「活字のブランド PIN MARK」の内容が、『印刷博物館ニュース vol.85』の特集2として記録されていますhttps://www.printing-museum.org/etc/pnews/08501.php。PDF版の図1に並べられているピンマーク入り活字の2段目に2つのマークが刻印された活字が見え、文字面側に製造元を示す「SB Co」(Stephenson and Blake社)のマーク、そして足側に活字サイズを示す「㊽」(48 american point)のマークがあると判ります。

日本で鋳造された活字で、このように製造元マークと活字サイズマークの2つが刻印された例が他にあったのかどうか、今は判りません。手元にある初号活字では、ピンマーク類未紹介のものも含め、この1本だけになります。

ところで、実測で42ptボディであるこの初号丸ゴシック活字に、なぜ「㊹」という44ptボディであることを示すようなピンマークが刻印されているのでしょうか。

明治31年10月14日付『官報』第4589号で告示された明治31年文部省告示第61号で「檢定出願ノ教科書圖書ノ文字印刷等ニ關シテハ明治三十二年四月一日以後左ノ標準ニ從フヘシ」として、検定教科書の活字サイズと文字組が定められましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2947878/1/1。活字サイズについては、次のように定められています。

尋常小学校第一學年前半期用ノモノ 凡明朝活字初號(四十四ポイント)ノ大サ以上
尋常小学校第一學年後半期用ノモノ 同    一號(二十八ポイント)ノ大サ以上
尋常小学校第二學年以上用ノモノ 同    二號(二十二ポイント)ノ大サ以上
師範學校尋常中學校用ノモノ 同    四號(十四ポイント)ノ大サ以上

師範学校尋常中學校教科書用圖書中ニ用フル註解例題參照若クハ之ニ類スルモノハ凡明朝活字五號(十一ポイント)ヲ用フルコトヲ得

板倉雅宣『号数活字サイズの謎』(朗文堂、2004)は、明治19年(1886:アメリカン・ポイント・システムの発表)と昭和7年(1932:築地活版による「活字規格に就て一言申し上げます」の発表)を和文活字のボディ・サイズに関する転換点とし、この間の半世紀ほどの期間を、上記明治31年文部省告示第61号に見られるような少なくとも建前上は「初号活字=44pt」とされる時期であると見ています。

大阪朝日堂のこの「㊹」活字も、大阪でポイント活字が本格的に使われていくようになりつつあった明治44年(「20世紀初頭の大阪活版印刷所で日本とイギリスの印刷史が交錯していた話」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/04/30/113632から昭和7年頃までの間に鋳造されたもの、ということになるでしょうか。

「明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マーク」を出版者軸と印刷者軸で読み直してみる

明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マークと活版(電気銅版)見本

神保町のオタさんから『近代出版研究 第3号』(皓星社、2024.4 https://www.libro-koseisha.co.jp/publishing/9784774408200/)をご恵贈いただきました。改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

以前twitterにて、顕道書院と積善館のパブリッシャーズマークが同じ鳳凰の絵柄であることについて、リボンを咥えた鷲の絵柄をアメリカの印刷会社がカタログに載せているような、共通の祖型があるのではないかという話をお返ししていました。

――というわけで、早速「明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マークに関する一考察」を拝読しました。例の鳳凰の絵柄を共有しているのが2社ではなく金刺芳流堂を加えた3社だったことが明らかにされるなど、2019年の「戦前期における裏表紙に刷られた出版社ロゴマークの美学」「裏表紙の社章から見た金港堂と博文館」以降、深く静かに掘り下げられていたのですね。

ちなみに、「共通の祖型」があり得たこととして念頭にあったのは、東京築地活版製造所『活版見本』(明治36年)にて電気銅版(ELECTRO-BLOCKS)として掲載されている、様々なコスチュームの人物がBillboardを掲げている図柄でした。電気銅版No.5111(ターバンを巻いた人物 https://dl.ndl.go.jp/pid/854017/1/202)が、明治22年4月25日付『時事新報』掲載自社広告に使われただけでなく、同年8月2日付『時事新報』で「中立社開業」広告に使われたという事例です。こういう濃い図柄が汎用のひながたとして使われ得たのです。

明治22年4月25日付『時事新報』東京築地活版製造所広告(復刻版より)
明治22年8月2日付『時事新報』中立社開業広告(復刻版より)

出版者軸と印刷者軸でパブリッシャーズ・マークを整理

読了後、これはやっぱり出版者軸と印刷者軸の2元で整理してみたら更に面白くなるんじゃないかと直感し、「例の鳳凰」に関係する印刷者の周囲を掘り拡げてみました。何と言っても、従来は「出版者(発行者)」しかキーワードに指定できなかった国立国会図書館デジタルコレクションの検索が、2022年12月アップデート時の全文検索機能によって大幅に強化され、かつて夢に見ることしかできなかった「印刷者名」でキーワード検索できるようになりましたからね!

以下に掲げるマークはすべて国立国会図書館デジタルコレクションのものを「100%」表示したスクリーンショットを元画像として「はてなフォトライフ」に登録し、この記事中では幅200px表示としたものです。マーク画像のリンクを辿ると、フォトライフでの元画像表示になります。

スマホ版サイトとして閲覧いただく場合に以下のマーク画像が表示されないようです。恐れ入りますがPC版サイトとしてご覧くださいますよう、お願いいたします。






顕道書院のパブリッシャーズ・マーク
顕道書院(オーナメント)

顕道書院(蓮囲み)

顕道書院(鳳凰)

顕道書院(オーナメント十字)

顕道書院(桜と何かの模様)





積善館のパブリッシャーズ・マーク
積善館(オーナメント)

積善館(鳳凰)

積善館(見返り孔雀)

積善館(見返り孔雀小型)


金刺芳流堂のパブリッシャーズ・マーク
金刺芳流堂(鳳凰)





偉業館(岡本偉業館)のパブリッシャーズ・マーク
偉業館(鶴リボン)

偉業館(鶴のみ)

偉業館(花に鳥〈名無し〉)

偉業館(蜻蛉)




大阪交盛館(武田交盛館)のパブリッシャーズ・マーク
交盛館(蜻蛉)

交盛館(花に鳥・名入り)

交盛館(印判風)

矢野松吉



開成舎のパブリッシャーズ・マーク
開成舎(花に鳥・名無し)

開成舎(花に鳥・名入り)





浜本明昇堂のパブリッシャーズ・マーク
明昇堂(鶴)

明昇堂(ライオン)

明昇堂(ライオン違い)

明昇堂(簡略版ライオン)


学友館のパブリッシャーズ・マーク
学友館


大阪島之内同盟館のパブリッシャーズ・マーク
同盟館

もし活字見本帖の類にパブリッシャーズ・マークと共通する電気銅版を見つけることがあれば、改めてご報告申し上げたいと思います。



2024年4月14日追記:

偉業館が発行した近藤延之助著『実地活用明治新用文』(https://dl.ndl.go.jp/pid/866533/1/124)と、交盛館が発行した木村定良編『掌中類題草野集 増訂 (歌学全集 ; 第8編)』(https://dl.ndl.go.jp/pid/873535/1/114)ほか、更に開成舎が発行した片桐猪三郎編『山内公武功伝』(https://dl.ndl.go.jp/pid/782134/1/59)や片桐仲雄編『土藩大定目』(https://dl.ndl.go.jp/pid/787028/1/81)ほかに共通する「リースに鳥」のマークですが、よく似た形状のものが秀英舎製文堂『活版見本帖』(明治36年)に掲載されていることに気がつきました(https://archive.org/details/seibundo1903specimen/page/n201/mode/2up)。

秀英舎製文堂『活版見本帖』電気銅版図形43番

また、交盛館発行で一覧表に掲載しなかった河合寿造著『日用料理の仕方』(https://dl.ndl.go.jp/pid/849124/1/82)の「玉飾り」も、よく似た形状のものが秀英舎製文堂『活版見本帖』(明治36年)に掲載されていることに気がつきました(https://archive.org/details/seibundo1903specimen/page/n203/mode/2up)。

左:河合『日用料理の仕方』の交盛館マーク/右:秀英舎製文堂『活版見本帖』電気銅版図形43番

どちらかが相手を模倣したものなのか、双方に共通する別の祖型があったものなのか、知りたいところです。

築地初号フェイスの東京築地活版製造所製初号ボディ活字・42ptボディ活字と15mmボディ規格による錯乱の跡

2023年12月の関西蚤の市で貴重なピンマーク入り活字を入手された書体賛歌さん(https://twitter.com/typeface_anthem/status/1730789514292101371)から、先日「盛功合資会社または合資会社盛功社活版製造部のものではないかと思われる「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り初号明朝活字について」に記したものとは別に、東京築地活版製造所製と思われる活字をお譲りいただいていました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

今回は、そのうちの東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り活字に関する覚書です。

東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面方向)
東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り初号活字(斜め方向)

書体賛歌さんからお譲りいただいた「一」「○」「◆」の3本を含めて合計16本となった東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り初号フェイス活字のボディサイズは変なところに外れ値らしきものが存在するため、「初号フェイスの大阪青山進行堂製初号ボディ活字・42ptボディ活字・15mmボディ活字」という補助線なしには扱いにくい、そういう資料群となっています。

まずは、「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」の時と同じように測定値の一覧表を示しておきます。

文字 縦平均 横平均 ポイント換算縦 ポイント換算横
14.819mm 14.832mm 42.172pt 42.209pt
14.853mm 14.973mm 42.267pt 42.609pt
14.758mm 14.779mm 41.998pt 42.057pt
14.784mm 14.831mm 42.072pt 42.205pt
14.739mm 14.758mm 41.944pt 41.997pt
14.735mm 14.715mm 41.933pt 41.875pt
14.769mm 14.768mm 42.029pt 42.025pt
14.824mm 14.833mm 42.186pt 42.211pt
14.808mm 14.783mm 42.139pt 42.068pt
14.860mm 14.827mm 42.289pt 42.193pt
14.770mm 14.768mm 42.031pt 42.027pt
14.910mm 14.811mm 42.429pt 42.148pt
14.802mm 14.827mm 42.123pt 42.195pt
14.824mm 14.859mm 42.186pt 42.285pt
14.776mm 14.767mm 42.048pt 42.022pt
14.865mm 14.826mm 42.303pt 42.191pt

青山進行堂と同様に分布図を作成すると、外れ値の度外れ具合が分かります。

東京築地活版製造所が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布

参考に、青山進行堂の分布と築地活版の分布を重ね合わせた分布図も作成しました。

東京築地活版製造所と大阪青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布

「外れ値」と見做した活字の度外れ具合は非常に大きいのですが、その一方で、青山進行堂と比べてサンプル数が少ないからという理由だけか、本来の築地活版で許容される寸法の誤差(公差)が小さかったと見るべきか、築地初号ボディと42ptボディの寸法の分布は、比較的狭い範囲に収まっているように見受けられます。

さて、ここからは妄想に域になるのかもしれないのですが。

築地活版の「宮」は縦方向が「築地初号ボディ」の上限よりの寸法で、横方向が「15mmボディ」の許容範囲になっているようです。また「健」は縦方向が「築地初号ボディ」の上限を超えているものの「15mmボディ」までには至らない寸法で、横方向が「築地初号ボディ」の中央値よりやや小さい寸法になっているようです。

関東大震災で物的にも人的にも大きな損害を受けた東京築地活版製造所では、製品のQCに関するノウハウが十分に継承されない状態のまま経営陣が新しい活字規格(ミリメートルボディ)を打ち出したことによって現場レベルでの混乱の度合いが増し、良質な製品を製造する工場としての再起を図れなかったことから解散を選ばざるをえなかったのではないか。

――そんなことを想像させられる計測結果でした。

初号フェイスの大阪青山進行堂製初号ボディ活字・42ptボディ活字・15mmボディ活字

「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」(日本デザイン学会『デザイン学研究特集号』30巻2号〈通巻108号〉所収)に記した通り、青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字ボディの大きさは、手元にあるものを観察した限りでは、築地系の初号ボディ(概ね42.2アメリカン・ポイント≒14.82mm角)、42アメリカン・ポイント(14.759mm角)、15mm角の3種類となるようです。

ちなみに以前「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」に記した「雪形」活字は、「謹賀年」の3本が築地初号ボディで「新」が42ptボディであると判断しています。

その後、大阪青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字が少し増えて手元にあるものが150本余りとなったので、改めて活字サイズの分布図を作成してみました。

活字サイズは「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」に記した通り、縦方向を3か所計測の平均値、横方向も3か所計測の平均値を採ったものです。

青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布

築地初号ボディも42ptボディも縦方向のばらつきは小さく、横方向のばらつきが大きくなっています。外れ値となっているように見える「エ」は縦方向が築地初号ボディ・横方向があやまって42ptボディの下限近くになってしまったもので、同じく「河」は縦方向が42ptボディで横方向が築地初号ボディの上限値近くになったものなのではないかと思われます。

縦方向が15mmボディの許容範囲かと思われる「導」は横方向が15mmボディの下限をおそらく下回って築地初号ボディの上限値近くになっており、「三」「院」は縦方向が築地初号ボディの上限を超えつつも15mmボディの下限に満たないサイズなのではないかと思うのですが、資機材の不足などの時代背景の影響でそのまま流通してしまったのではないかと想像しています。

縦方向と横方向の実際の許容範囲(寸法の公差)がどれくらいであったのかは判りません。



以下2024年4月8日追記:

昨日の記事では15mmボディも含めた分布図のみとしたので、築地初号ボディの下限付近と42ptボディの上限付近がわかりにくくなってしまいました。築地初号ボディと42ptボディのみの分布図を新たに作成したので、追記しておきます。

青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布(築地初号ボディと42ptボディのみ)

秀英舎・製文堂が鋳造した活字のピンマーク

大日本印刷の前身のひとつである秀英舎の名を刻んだ「東京秀英舎」ピンマーク入り活字と、秀英舎の初期の活字製造販売部門であった製文堂の名を刻んだ「東京製文堂」ピンマーク入り活字を入手し大きさと重さを計測してみた話を2023年3月に記していたわけですが(「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/03/21/225239、その際にとても残念に思っていたのが、本と活字館がオープンし「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」が公開されたのと入れ替わりに、秀英体に関係する話題が発信・記録されていた秀英体サイト(旧:https://www.dnp.co.jp/shueitai/)がひっそりと消え去ってしまったことでした。

実はついさっきまで気づいていなかったのですが、2023年11月27日付で、「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」のコンテンツとして「リニューアル前の秀英体サイト」(https://archives.ichigaya-letterpress.jp/contents/shueitai/)が追加・公開されていたのですね!!!

リニューアル前の秀英体サイトで43回も続いていた不定期連載「秀英体のコネタ」の第12回「ピンマーク!ピンマーク!」(https://archives.ichigaya-letterpress.jp/contents/shueitai/koneta/koneta_050927.html)に、秀英舎・製文堂に関係する、「東京製文堂」を除くおそらく全ての形態のピンマークが見えていてとてもありがたいので、[archive.org]ではなく公式サイトで再び閲覧・言及できるようになった喜びを記しておきたいと思います。

ほんとうにありがとうございます。

というわけで「リニューアル前の秀英体サイト」が運営されていた時点で私が気づいていなかったことを2点ほどメモ。

1. 「生に丸」印のピンマーク

秀英体のコネタ」の第12回「ピンマーク!ピンマーク!」https://archives.ichigaya-letterpress.jp/contents/shueitai/koneta/koneta_050927.html冒頭に掲げられている「生に丸」印の解説文に「ひとつは秀英舎の社章、社名の反切から誕生した「生に丸」印です。」と記されています。

この「生に丸」印の社章あるいは商標について、明治40年版『株式会社秀英舎沿革誌』には特に何も記されていませんがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/853985大正11年版『株式会社秀英舎沿革誌』には「社名及商標ノ由来」というコラムがあり「商標ノ字ハ秀英ノ反切ニシテ創業發起人保田久成ノ起案ニ係ル」と書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970714/1/3昭和2年の『株式会社秀英舎創業五十年誌』では保田と並ぶ「創業發起者ノ一人」であった「大内青巒カ嘗テ識ストコロノ一文」として「抑モ此擧元來明教社ノ業務ト其經濟ヲ異ニシ予等四人ノ共同經營ニ過キサルヲ以テ別ニ舎名ヲ按シテ秀英舎ト稱シ又秀英ノ反切ナル生ノ字ヲ以テ記號ト爲シタルカ如キハ皆保田君ノ發案ニ係ル所ナリ」と記していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1464094/1/26

「反切」というのは康煕字典正字通など古い漢字辞典において漢字の読みを示すものだったそうで、例えば内閣文庫本『正字通』では「秀」の反切が「息救」とありますがhttps://www.digital.archives.go.jp/img/4051513 の47/87コマ)、これは「秀」の「シュウ」という読みを①「息」の読みの子音(S)と②「救」(YU)の読みの母音で示す、というもの。

「生」(SEI)という字が①「秀(S)」+②「英(EI)」で示されるという関係なので、「生の字は秀+英を反切とする」という表現になるものと思っていいのかと思うのですが、どのような言い回しが適切なのか、よく分かりません。

商標として登録されたのが明治10年代末のうちなのか、20年代ということになるのか、そのあたりも全く分かりません。また、「大内青巒カ嘗テ識ストコロノ一文」のオリジナルも探し出すことが出来ていません。いつか見つけておきたいと思っています。

2. 丸にサンセリフ体で「S」の意匠

明治37年(1904)1月の『印刷雑誌』14巻1号掲載の広告で活字を立体的なイラストとして示したものhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499065/1/20がおそらく初出で、14巻5号(]https://dl.ndl.go.jp/pid/1499069/1/18])以降少なくとも明治42年(1909)まで、活字を真横から見た図柄として表現している広告に「サンセリフのS」マークが示されているようです。