『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所、1969年)第三章「未知に挑む」の「文字のサイコロ」の項に、今年100周年を迎えた写真植字機の最初の文字盤は「活字の清刷をそのまま湿板法でガラスに複写したもの」だったが実用に耐えず、次に「便宜的にその頃一般的に使われていた築地書体の十二ポイント活字の清刷りを青写真で四倍の大きさに拡大し、墨入れして字母 をつくった」ものが試され、最終的に「茂吉は写真植字独自の文字を自分でつくることにした」と書かれています(103-104頁)。
ウェブ年表によると(https://archive.sha-ken.co.jp/history/ )、昭和5 1930 年の「仮作明朝体 」完成を経て昭和8 1933 年「石井中明朝MM-A-OKS」が出来上がっています。
少なくとも仮名の書風に関していわゆる築地体後期五号仮名を受け継ぐものと言われる「石井中明朝 オールドスタイル小がな MM-A-OKS」 の、直接的なルーツと見られる築地12ポイント明朝について、現在判っていることを整理しておきます。
築地12ポイント明朝活字のはじまり
『印刷世界』9巻6号(大正4 1915 年6月)に掲載された野村宗十郎 「日本に於けるポイントシステム」中の「日露戦史は一新元」(後に大正元年 版『新聞総覧』〈日本電報通信社、大正4年 〉に転載)には次の記述があります(『新聞総覧』56頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/426 ) 。
明治四十四年に至つて、參謀本部に於いて日露戦史を印刷されることになつたが、從來の同種類書の如くこれを四號活字で印刷するとすれば大變な紙數になるので、中ばの適當活字はあるまいかとの相談を受けたので自分は十二ポイント活字を御奬めしたら當局でも大に喜ばれて之を採用された。
この時期に類書がいくつも刊行されていますが、野村が言うのは参謀本部 編『明治卅七八年日露戦史』(偕行社、第1巻:明治45 1912 年)のことになります。奥付の印刷所の欄を見ると、以後の続巻も含めて東京印刷、博文館印刷所、東京築地活版製造所、東京國文社、凸版印刷 、東洋印刷、小林又七 印刷所、そして秀英舎の名が併記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/774347/1/530 ) 。
東北大学 附属図書館蔵の第一巻、第二巻、第三巻を館内で計測したところ、紙の伸縮の影響が若干見られましたが、すべて本文は12ptの模様でした。第二巻を借覧することとし冒頭を詳細に調べてみたところ、「明治三十七八年」という角書や頭注式の見出しが10.5pt活字、「日露戦史」が21pt、「第二巻」「第六篇満州 軍主力ノ北進」が16pt、「第十八章一般ノ状況」が14ptまたは旧四号、「付図第一第二参照」が8pt、そして本文が12ptという具合になっていました。
参謀本部 編『明治卅七八年日露戦史』第二巻冒頭(東北大学 附属図書館蔵)『明治卅七八年日露戦史』に使われている10.5pt活字は従来の五号活字のボディ寸法を調整したもの、21ptは二号活字、16ptは三号活字、8pt活字は六号活字を各々同様に調整したもののようです。12ptは全く新しく彫刻されたものになります。
『印刷世界』4巻4号(明治45 1912 年4月)「活字改良の必要とポイント式新活字」中の「ポイント式活字の大さの標準を如何に定むべきか」という項で野村は「築地活版では昨年來十二ポイント式新活字を鑄造して、既に一組完成して參謀本部編纂の日露戦史の印刷には全部此の新活字を用ゐる筈で、參謀本部でも非常の賞賛を博して目下印刷中である」と記しており(167頁)、また同誌8巻5号(大正3 1914 年5月)の「九ポイント活字の説明」で野村は「一昨年參謀本部に於て日露戦史の出版せらるゝに際し相談を受けたるを以て當時外國のパイカ に當る十二ポイント製作中なるを告げ且其印刷見本を提供したるに印刷上美麗にして紙數を減じ讀者に取り有益なりとのことにて完成を促され十箇月にして之を完成して印刷したるに大に稱讃を博し」と記していますから(16頁)、1912年が築地12ポイント明朝活字実用化の年と考えて良いでしょう。
東京築地活版製造所は『活字と機械』という名称の総合見本を度々発行していて*1 、昭和期に発行されたものでは12ポイント活字が「風は只空行く音や枯柳」という1行見本になっています。
推定昭和8年 版『活字と機械』より16ポイントから9ポイントの見本 大正3 1914 年に発行された『活字と機械』(印刷図書館蔵Za328)では1頁分が12ポイント明朝活字の紹介にあてられ、次のような見本が掲載されていました。
1914年版『活字と機械』より12ポイントの見本(印刷図書館蔵)
ひらがなを含む築地12ポイント明朝活字の用例――緒方正清『日本産科学史 』の再発見
10年ほど前に、東北大学 附属図書館医学分館が所蔵している1913年から17年発行の資料2232件――当時のデータベース登録数――を悉皆調査し、築地活版が印刷した資料69点を見つけ出していました。
調査の目標としては築地活版の五号明朝のモデルチェンジの時期を明らかにしようとするもので、「築地体後期五号仮名」に続く「(仮称)復興五号」として「大正・昭和期の築地系本文活字書体」(『タイポグラフィ 学会誌08』2015年 http://www.robundo.com/book-cosmique/society-typography/society-typography08.html )という研究ノートに取りまとめています。
この時の調査で見つけた、呉建『心臓病診断及治療学』(南山堂書店、大正4 1915 年)の序文*2 が、ひらがなを含む築地12ポイント明朝活字の最初期の実用例になります(漢字カタカナ交じりの築地12ポイント明朝としては宮入慶之助『衛生学』〈南山堂書店、大正2 1913 年〉序文*3 が更に早い用例です)。
呉建『心臓病診断及治療学』序文(国会図書館 デジタルコレクションより) 本文が築地12ポイント明朝活字漢字ひらがな交じりという稀有な実用例として緒方正清『日本産科学史 』(緒方正清、大正8 1919 年、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/934502/1/37 )が2014年時点では請求記号「WQ11/5」として東北大学 附属図書館医学分館に蔵されていたのですが、ここ10年ほどの間に除籍されてしまったのか、2024年4月現在では医学分館内に見当たらず、また全学OPAC でも探し出せなくなってしまいました。
今般、「日本の古本屋」を経て緒方『日本産科学史 』を入手できたので、活字のサイズ感が分かりやすい見開きを掲げておきます。
緒方正清『日本産科学史 』本文8-9頁 本文が12pt、字下げされている引用文が10.5pt、節見出し「太古の臍斷術」が旧四号または14pt、その横が9pt、頭注と柱が8ptとなっており、またいわゆる「後期五号仮名」と「12ポイント仮名」が非常によく似た書風であることも見て取れるかと思います。
共同印刷 が刷った中村不折 『法帖書論集』は築地12ポイント明朝活字か
国会図書館 デジタルコレクションで送信サービス閲覧可能資料となっている不折『法帖書論集 第9』は昭和101935 年7月印刷発行となっていて(https://dl.ndl.go.jp/pid/1217294/1/75 ) 、家蔵再版本の初版表記「昭和8年 12月」とは異なっているのですが(下図)、内容は基本的に同じもののようなので、築地活版が本文を12ポイント明朝漢字ひらがな交じりで印刷した緒方『日本産科学史 』と、共同印刷 が本文を12ポイント明朝漢字ひらがな交じりで印刷した不折『法帖書論集』から幾つか仮名文字を拾い出して比較表を作ってみます。
不折『法帖書論集 第9』家蔵再版本の奥付 平仮名全文字種の比較を行うのが理想的ではあるのですが、ここでは伝統的な書体比較用文字種である「のにしながれ」を含む18文字を比べてみることにしましょう。
緒方『日本産科学史 』(T8築地活版)と不折『法帖書論集』(S14共同印刷 )の平仮名比較表 「よるすな」は印刷コンディション等の違いと見ていいでしょう。「にしの」の角度が違って見えるのは採字条件の設定ミスかと思われます。「だ」の字の「こ」の部分の違いと「と」の字の全体的な違いは、種字の違いに由来するものと思われます。
基本的には「中村不折 『法帖書論集』は築地12ポイント明朝活字で印刷されている」と言っていいように思いますが、「だ」と「と」の違いが築地活版の改刻による「オリジナル12ポイント」(大正8年 )と「マイナーチェンジ版12ポイント」(昭和10年 または14年)に相当するような違いであるのか、「築地活版オリジナル」と「共同印刷 バージョン」の違いであるのか、現時点では何とも言えません。
従来は両者が同じ書風の活字であるものと大雑把に考えていたのですが、今回改めてじっくり比較してみたことで、若干の違いがあるようだと判りました。
石井中明朝(オールドスタイル小がな)MM-A-OKSと築地12ポイント明朝の比較
せっかくなので、写研公式サイトの「石井中明朝 オールドスタイル小がな MM-A-OKS」 書体見本と、緒方『日本産科学史 』の築地12ポイント明朝を比べてみましょう。
まずは「永東国書調風愛機あなふのアタユシ」を緒方『日本産科学史 』から採字していきます。
緒方『日本産科学史 』の築地12ポイント明朝から見本16字を採字 次に、角度と寄り引きを調整します。文字の拡大縮小は行いません。
緒方『日本産科学史 』から採字した16字の角度と寄り引きを調整 最後に、角度と寄り引きを調整した築地12ポイント明朝と石井中明朝(オールドスタイル小がな)MM-A-OKSを重ね合わせてみます。
角度と寄り引きを調整した築地12ポイント明朝と石井中明朝MM-A-OKSの重ね合わせ こうして重ね合わせてみると、従来から指摘されていた「あ」のように全体的に大きく変えたものがあるだけでなく、「永」の第一筆の点の位置を調整したようなもの、おそらく新旧字体 の違いに伴う微調整であろう「国」「調」、新旧字体 変更に合わせてサイズ感も調整したらしき「機」、サイズ感を調整したものかと思われる「な」「タ」、「几」の左払いが調整された「風」といった変更点が読み取れます。
とはいえ、基本的に漢字・ひらがな・カタカナの群としてのサイズ感や、文字の骨組みという「活字書体全体」として見た場合には微調整の範囲にとどまっているように思います。
『石井茂吉と写真植字機』が「急いだためと、外部の数人に頼んだための注意の周到さが足りなかったこともあって、字体の不揃い、文字の大きさ、線の太さの不揃いが目立った」と記していた失敗を挽回するため、「築地書体の十二ポイント活字の清刷りを青写真で四倍の大きさに拡大し、墨入れ」する作業を石井が一人で実行することで統一感のある書体に仕立て直した――というのが実際のところでしょう。群としてのサイズ感や、「東」や「愛」だけでなく全体的な「重心」や「ふところ」がこれほど一致するというのは、なぞって書いたということ以外に説明がつかないように思います。
以下2024年5月4日18時50分追記:
記事のタイトルを「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字」から「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字と写研の石井中明朝MM-A-OKS」に改めました。
今回の記事は元々、10年前に発見した〈築地活版が12ポイント明朝活字を用いて漢字ひらがな交りの本文テキストを印刷した(!!!)緒方正清『日本産科学史 』〉を適価で入手できたことをきっかけに、以前から手元にあった中村不折 『法帖書論集』の12ポイント明朝活字と比べてみようというのが執筆動機でした。
記事中で比較用に拾い出した平仮名18字は、すぐに見つかりました。
ほんとうは、そこで記事を締めるつもりだったのです。なので、元々予定していた記事タイトルが「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字」。
――だったのですが。追加の平仮名2文字と、「國書風」の3文字が、本文の最初の10頁目までに出現していることに気がついていたことから、ついうっかり、写研公式サイトに掲げられている書体見本の文字を揃えることができちゃったら面白さ倍増だよね、と思ってしまったのです。
本文11頁以降を眺めていきます。「東」が16頁にありました。「調」が18頁にありました。
50頁ほど進んだところで、これは無理ゲーなんじゃなかろうかという気持ちになってきました。ゴールデンウイークを潰す覚悟で続けても、終わらないんじゃないの……
秀英12ポイント明朝活字 の仮名を拾い出してみた『中村汀女 ・星野立子 互選句集』はB6判・軽装だったため繰り返し頁をめくるのが全く苦にならず、素材の良さも相まって目視でも「ひらがなは濁音・半濁音を除いてコンプリートできる状態(!)だった」わけですが、『日本産科学史 』はB5判・丸背(ホローバック)クロス装・本文だけでも1810頁という鈍器本です。気軽に目視通読を繰り返すような相手ではありません。
寝貯めしようと思っていたのに日付が変わってしまってから諦めて眠りについたところ、頭の中に呼びかける声(cv伊藤沙莉 )が聞こえてきます。
「はて」
「国会図書館 デジタルコレクション2022年12月アップデート時の全文検索 機能は1文字単位での検索だって有効なはずだから、試しにキーワードを「永」とかにして検索してみたらいいんじゃないの?」
日の出前に寝床から這い出てPCを起動します。序文の四号活字の用例だったり、引用文の五号活字だったり、注釈だったりする検索結果も混ざっていますが、目視ベースより遥かに効率よくアタリをつけることができます。
「永」は58頁にありました。「愛」は747頁(!)(やっぱり愛が無くちゃね)。「機」は54頁。「ア」と「シ」が76頁。「タ」が77頁。「ユ」が125頁。
というわけでMM-A-OKS書体見本との比較に必要な16文字をコンプリートすることが出来ました。久しぶりに踊らせてください。
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