日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

2024年4月より国書データベースで『有喜世新聞』を全号デジタル画像公開してくださってありがとうございます!(明治14年秋神崎正誼は平野富二を訴えたか?)

東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫、原資料部)のウェブサイトに掲載されている、2024年4月10日付の最新情報「【おしらせ】国書データベースで明治新聞雑誌文庫資料(2023年5月公開 125点、2024年4月公開『有喜世新聞』、『大阪新聞』)が画像公開」https://www.meiji.j.u-tokyo.ac.jp/n_20240410.htmlによると、「2024年4月に公開となりました『有喜世新聞』は、当文庫所蔵分に加え、欠号、虫損箇所などを本学総合図書館所蔵資料から補い、創刊号から全号欠号なく公開となります。」という実にありがたい内容となっています。

2020年1月29日に公開された古谷昌二氏のブログ「平野富二とその周辺」の記事「国内外の博覧会と活字・印刷機出品(その2)」で言及されている、明治14年11月26日付『有喜世新聞』に掲載されたという弘道軒神崎正誼と(築地活版製造所)「平野富二との間でひと悶着」の記事、これを実見するには明治新聞雑誌文庫に郵便複写依頼をするのがいいか念のため前後の日付も確認した方がいいかもしれないので現地で閲覧させていただくべきかと迷いつつ実行できずにいたのですが。

何と先方からこちらに(全世界に)歩み寄ってきてくださいました!!!

東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫,一般デジタル,Z2-4-3の、DIG-TOKY-03776(有喜世新聞1151-1175号 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100456452/)に含まれている、明治14年11月26日付『有喜世新聞』2面(デジタル49コマ https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100456452/49?ln=jaのダウンロード画像から当該記事部分(上・中段)を切り出して掲出しておきます。

東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵、明治14年11月26日付『有喜世新聞』2面より上・中段

この噂話のあと、神崎正誼は実際に平野富二を訴えたりしたんでしょうか。

明治15年4月7日付の日記に田中千弥が記した〈「築地活版平野富二」と「弘道軒神崎正誼」との間に生じた「葛藤」について「公裁」が仰がれ、上野景範と松田道之が小室樵山へ仲裁を依頼した結果(小室の代理人となった斎藤謙二の働きもあって)両社は和解した〉というような話(「平野富二と神崎正誼の葛藤を小室樵山が仲裁?」https://uakira.hateblo.jp/entry/20160216)との辻褄はどのような具合になっているのでしょうか。

夏目漱石『鶉籠 虞美人草』(縮刷版合本、春陽堂)は初版以降いつまで本文が「都式六号活字」で刷られていたのか製版者情報はいつまで掲載されていたか知りたい話

2018年11月、人生初コズフィッシュ訪問の際――今のところ再訪はできていないのですが――、祖父江慎さんが複本でお持ちだった夏目漱石『鶉籠 虞美人草』(縮刷版合本、春陽堂)95版を頂戴しました。大正141925年6月25日発行で、清水康次「単行本書誌」(『定本漱石全集 第27巻 別冊下』〈岩波書店、令和2年、https://www.iwanami.co.jp/book/b492587.html〉)に記された最後の版になります。

chihariro氏のブログ「紙の海にぞ溺るる」の記事「夏目漱石『鶉籠 虞美人草』」によると、この清水康次「単行本書誌」に基づく「書誌の上では最後の版」である95版に発行日違いのものがあり、更に後の版をお持ちの方もおいでであるということですが、今回のテーマは初期の版に用いられた本文活字のこと。

漱石『鶉籠 虞美人草』初期の版の本文活字を「都式六号活字」と断ずる所以

コズフィッシュ訪問時、大正21913年12月10日発行の『鶉籠 虞美人草』初版本も見せていただき、更に行長の計測もさせていただきました。清水康次「単行本書誌」によると「本文7ポイント、パラルビ」という仕様とされていますが、実測した行長は52字詰で130mm強。つまり本文活字サイズは計算上7.1pt強という具合に見えます。7.0pt活字52字であれば行長が128mmに収まっていなければ不自然。

実は当日気づいていなかった大事なことが2つありました。1つは、これが「都式六号活字」つまり私が9.5ptであると考えている「都式活字(新聞の本文用サイズ)」の4分の3である大きさの活字であろうという可能性。これは訪問の2日後になってから気がついて一人で驚き、また納得したものでした。

縮刷合本『鶉籠 虞美人草』初版は本文が「都式活字=9.5pt」の3/4である7.125pt(都式六号活字)で、ルビは9.5ptの1/2である4.75pt(都式七号活字)だ――と考えれば、本文活字サイズ7.125pt×1行52文字≒130.2mmですから、実測値に矛盾がありません。基本活字である9.5pt相当の都式活字と同ルビ活字は明治351902年1月に『都新聞』紙上で使用が開始され、また明治381905年10月の紙面から「都式六号活字」の使用が開始されています。

当時も頭の片隅では気がついていたつもりだったのに明確に意識できていなかったもうひとつの大事なことは、大正2年の時点では少なくとも東京築地活版製造所が7ポイント活字の開発にまで至っていなかったということです。2017年の「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」に記したように大正2年の段階では新聞の本文活字サイズは9ポイントよりも小さいサイズになっておらず、大正3年に築地活版が発行した総合見本帖『活字と機械』に掲載されているのは初号から七号までの号数活字と四号活字の縦横半分サイズである新七号活字、そしてポイント系では基本の活字として36、28、24、20、18、16、14、12、10、9、8、6pt活字、ルビ用の仮名活字として8、6、5、4.5、4pt活字のみとなっています。

この時期に和文ポイント活字の開発・販売で最も先行していたのは築地活版でしたから、そもそも7pt活字は選択肢として挙がらない存在だったのです。

近代文学の資料となる書誌事項という場では活字サイズのおよその目安として「7ポイント活字」としても大勢に影響はないと思いますが、活字史家type historianの立場からは「都式六号活字」であると記しておきます。

漱石『鶉籠 虞美人草』奥付の製版者情報はいつまで掲載されていたか

2018年11月6日付の吹囀tweet添付画像に示されているようにhttps://twitter.com/uakira2/status/1473620822917283845、初版本の奥付には「印刷者 川崎活版所 川崎佐吉」「製版所 松藤善勝堂」と記されていました。

清水康次「単行本書誌」では「印刷所」情報としてまとめて「松藤善勝堂整版・川崎活版所印刷」と注記されているのですが、大正31914年6月5日発行の第8版でも同様の記載があったようで、大正71918年6月30日発行の第40版では「川崎印刷所」単独表記となっているようです。

都式活字の開発者である松藤善勝堂の名が奥付に掲載されるのは、この第8版までだったのでしょうか、あるいはもっと後の版まで続いていたでしょうか。漱石『鶉籠 虞美人草』をお持ちの方、あるいはお近くの図書館で参照可能という方、奥付の情報をお教えいただければ幸いです。

ちなみに、本文に都式六号活字を用いている家蔵の第22版(大正51916年12月20日発行)では松藤の名が消え去っています。

漱石『鶉籠 虞美人草』第22版奥付
漱石『鶉籠 虞美人草』第22版「坊っちやん」冒頭(本文都式六号活字)

漱石『鶉籠 虞美人草』の本文活字はいつまで「都式六号活字」だったか

清水康次「単行本書誌」では大正101921年2月20日発行の第62版(印刷者「川安印刷所」)や大正11年10月15日発行の第66版(印刷者同)までは初版と同じ活字を本文に用いていたようで、後版のちはんの目印が付されている大正131924年6月3日発行の第88版以降で「活字は8ポイントと少し大きくなり、字数行数も変わ」り、「一部誤植が正されている箇所がある」状態だと書かれています。

祖父江さんから頂戴した95版は冒頭に記した通り大正141925年6月25日発行のもので、印刷者は「単行本書誌」記載の通り日東印刷。

漱石『鶉籠 虞美人草』第95版奥付
漱石『鶉籠 虞美人草』第95版「坊っちやん」冒頭(本文秀英前期六号活字)

本文を見ると、活字サイズが正確には「8ポイント活字」よりも少し小さい「秀英六号」活字であり、また少なくとも仮名の書風は大正3年見本帖以前の(仮称)「秀英前期六号」の活字が使われているようです。

「都式六号活字」が本文に使われていたのは、第87版までだったのでしょうか、あるいはもっと前の版で「都式六号活字」から「秀英前期六号活字」に切り替わっていたのでしょうか。漱石『鶉籠 虞美人草』をお持ちの方、あるいはお近くの図書館で参照可能という方、ご教示いただければ幸いです。

秀英舎製文堂の六号仮名の変遷

秀英舎の六号明朝活字の仮名書風の変遷――現時点までに分かっている範囲では全部で三段階だったと思われる――を辿れる資料がすべてウェブ資源化されたので、備忘のため記しておきます。

築地六号型(明治19年築地活版「新製見本」型)

まだ少なくとも仮名の書風について「秀英舎の六号」とは言えない時期の六号活字。推定明治29年発行の秀英舎鋳造部製文堂『活字類見本 未完成』(横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵)に掲載されています。小宮山博史文庫仮名字形一覧にて閲覧可能https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/jikei/data_katsuji/001018940/

秀英舎鋳造部製文堂『活字類見本 未完成』(横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵)掲載六号活字見本

秀英前期六号

上記「築地六号型」を基本に、「と」「か」「し」などを独自のものに置き換えたもの。現時点では、便宜上「秀英前期六号」と呼ぶことにしたいと考えています。明治36年発行の秀英舎製文堂『活版見本帖』に掲載されているもの。Internet Archiveで閲覧可能(https://archive.org/details/seibundo1903specimen/page/n331/mode/2up)。「築地六号型」からの切り替わりの時期は判っていません。

秀英舎製文堂『活版見本帖』掲載六号活字見本

秀英後期六号

上記「秀英前期六号」に色濃く残る築地六号の書風を脱し、全面的に秀英舎書風へと改めたもの。現時点では、便宜上「秀英後期六号」と呼ぶことにしておきたいと考えます。従来は、これのみを「秀英六号」と称するべきと思っていました。「秀英前期六号」からの切り替わりの時期は判っていません。大正3年発行の秀英舎製文堂『活版見本帖』に掲載されているもので、大日本印刷株式会社/市谷の杜 本と活字館「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」で閲覧可能https://archives.ichigaya-letterpress.jp/library/items/196c01948e81?target=eyJpZCI6Imh0dHBzOi8vYXJjaGl2ZXMuaWNoaWdheWEtbGV0dGVycHJlc3MuanAvYXBpL3ByZXNlbnRhdGlvbi8zLzE5NmMwMTk0OGU4MS9jYW52YXMvMTAjeHl3aD0yMDM4LDEzNjAsMTM1OSwxMzU5IiwidHlwZSI6IkNhbnZhcyIsInBhcnRPZiI6W3siaWQiOiJodHRwczovL2FyY2hpdmVzLmljaGlnYXlhLWxldHRlcnByZXNzLmpwL2FwaS9wcmVzZW50YXRpb24vMy8xOTZjMDE5NDhlODEvbWFuaWZlc3QuanNvbiIsInR5cGUiOiJNYW5pZmVzdCJ9XX0

秀英舎製文堂『活版見本帖』(大日本印刷株式会社/市谷の杜 本と活字館「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」蔵)掲載六号活字見本

秀英六号活字の大きさ

これまで「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」などあちこちに記してきた通り「秀英五号」活字の大きさは3.65-3.67mm程度(10.4pt程度)だったものと考えているのですが、「秀英六号」活字の大きさも「秀英五号」の4分の3程度、つまり7.8pt程度の大きさだったものと考えています。

8.0ptよりも小さかったことは確かですが、実際に7.75ptから7.85pt程度の範囲のどのあたりが定格サイズだったのか、まだ十分に検討出来ていません。

函館毎日新聞と鹿児島新聞はいつごろ築地9ポイント明朝を本文活字に採用したか

引き続き、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する、築地活版の初期ポイント活字の話です。

先日「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」に記した通り、東京築地活版製造所第4代社長の野村宗十郎は、『印刷世界』9巻6号(大正41915年6月)に掲載された「日本に於けるポイントシステム」(後に大正元年版『新聞総覧』〈日本電報通信社、大正4年〉に転載)の「先に新聞に採用」と題する項において、次のように記しています(『新聞総覧』54-55頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/425)。

其後中央新聞の大岡力氏が弊社に來られて、九ポイント活字を見、之れだけで新聞を作らう、さうしたら新聞も美しく記事も豐富になるだらうといふので、採用される亊になつて九ポイント活字を七八千種製造して供給した。これは新聞紙に用ひられた嚆矢で其後函館毎日、大阪毎日、鹿兒島新聞其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた。

函館毎日新聞の状況

小野寺一郎『函館案内 増補2版』(函館工業館、明治35年)で「同社は傍ら活版石版製本の業を兼ね其精巧麗美鮮明なるは是れ又東京以北に於て〓〓するものなしと聞く盛なる哉」と書かれている函館毎日新聞(104頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/763064/1/155明治42年版『新聞名鑑 2版』で本文活字が「ポイント式」であると書かれている数少ない新聞の1つではあるものの(110頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/65、それがどのようなポイント活字であるのかが明確ではありません。

国会図書館が所蔵しているマイクロフィルムの書誌情報に「欠番多し」と書かれている通りhttps://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000089727?temporal=1905&page=1#ndl明治381905年は2月から4月のマイクロ資料がありますが、明治39年と40年が無く、41年も12月のみ。これ以降は細かい欠号があるのかもしれませんが、まるっきり抜ける年・月は無いようです。北海道立北方図書館のマイクロフィルムも同様。

遠隔複写で得た紙焼きは、次のような紙面構成でした。

  • 明治38年4月1日付の紙面は1行19字詰・1頁7段組で従来の五号活字を使用。
  • 明治411908年12月29日付の紙面は1行19字詰・1頁8段組で築地9ポイント明朝活字を使用。明治43年6月1日付、同年12月1日付の紙面も同様。更に明治44年3月1日付、6月1日付、9月1日付、12月1日付の紙面も同様。

――というわけで、函館毎日新聞による築地9ポイント活字の採用が明治38年4月1日から41年12月1日までの間のいつだったのかは判りませんでしたが、おそらく初採用から明治44年末までの間、他の活字に浮気することなく築地9ポイントを使い続けたものと思われました。

鹿児島新聞の状況

南日本新聞社『南日本新聞百年志』(1981年)77頁には「明治三十八年一月から、それまでの六段組みを七段組みに改めた鹿新は、次の段階として東京の有力紙が新しく開発した新式活字への移行を計画した。当時の全国の新聞は例外なく五号活字を主力に使い、多数の人名や商況などには六号の小活字を当てていた。そこへ「都新聞」、「報知新聞」などが、五号と六号の中間位に当たる九ポイント新活字を作り出した。鮮明な字体と、従前の一ページを四分の三ほどの字数で足りる経済性から各社も注目し始めていた。鹿新は三十九年六月からこの新活字を導入したが、それによって同じ六ページでも従来の八ページ分の記事が提供できるようになった。」と書かれています(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12278019/1/60

都新聞や報知新聞が採用していた「都式活字」(巷説9.75pt、内田説9.5pt)のことと中央新聞などが最初に採用した築地9ポイント活字のことを混同しているように見える書きぶりが気になるので、こちらも国会図書館マイクロフィルムを遠隔複写してみました。

  • 明治391906年4月1日付の紙面は1行19字詰・1頁7段組で従来の五号活字を使用。5月1日付、5月31日付も同様。
  • 明治391906年6月1日付の紙面も1行19字詰・1頁7段組で従来の五号活字を使用。7月1日付、8月1日付も同様。

鹿児島県立図書館では、デジタル資源化された鹿児島新聞(明治15年2月~昭和17年2月)を館内閲覧できるそうですhttps://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/p38680

どなたか、鹿新の紙面が1行19字詰・1頁7段組から1行19字詰・1頁8段組(本文9ポイント活字の可能性大)または1行18字詰・1頁8段組(本文9.5ポイント活字の可能性大)に切り替わる時期が実際にはいつ頃だったのか、お教えいただければ幸いです。

東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字と写研の石井中明朝MM-A-OKS

『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所、1969年)第三章「未知に挑む」の「文字のサイコロ」の項に、今年100周年を迎えた写真植字機の最初の文字盤は「活字の清刷をそのまま湿板法でガラスに複写したもの」だったが実用に耐えず、次に「便宜的にその頃一般的に使われていた築地書体の十二ポイント活字の清刷りを青写真で四倍の大きさに拡大し、墨入れして字母をつくった」ものが試され、最終的に「茂吉は写真植字独自の文字を自分でつくることにした」と書かれています(103-104頁)。

ウェブ年表によると(https://archive.sha-ken.co.jp/history/)、昭和51930年の「仮作明朝体」完成を経て昭和81933年「石井中明朝MM-A-OKS」が出来上がっています。

少なくとも仮名の書風に関していわゆる築地体後期五号仮名を受け継ぐものと言われる「石井中明朝 オールドスタイル小がな MM-A-OKS」の、直接的なルーツと見られる築地12ポイント明朝について、現在判っていることを整理しておきます。

築地12ポイント明朝活字のはじまり

『印刷世界』9巻6号(大正41915年6月)に掲載された野村宗十郎「日本に於けるポイントシステム」中の「日露戦史は一新元」(後に大正元年版『新聞総覧』〈日本電報通信社、大正4年〉に転載)には次の記述があります(『新聞総覧』56頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/426

明治四十四年に至つて、參謀本部に於いて日露戦史を印刷されることになつたが、從來の同種類書の如くこれを四號活字で印刷するとすれば大變な紙數になるので、中ばの適當活字はあるまいかとの相談を受けたので自分は十二ポイント活字を御奬めしたら當局でも大に喜ばれて之を採用された。

この時期に類書がいくつも刊行されていますが、野村が言うのは参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』(偕行社、第1巻:明治451912年)のことになります。奥付の印刷所の欄を見ると、以後の続巻も含めて東京印刷、博文館印刷所、東京築地活版製造所、東京國文社、凸版印刷、東洋印刷、小林又七印刷所、そして秀英舎の名が併記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/774347/1/530

東北大学附属図書館蔵の第一巻、第二巻、第三巻を館内で計測したところ、紙の伸縮の影響が若干見られましたが、すべて本文は12ptの模様でした。第二巻を借覧することとし冒頭を詳細に調べてみたところ、「明治三十七八年」という角書や頭注式の見出しが10.5pt活字、「日露戦史」が21pt、「第二巻」「第六篇満州軍主力ノ北進」が16pt、「第十八章一般ノ状況」が14ptまたは旧四号、「付図第一第二参照」が8pt、そして本文が12ptという具合になっていました。

参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』第二巻冒頭(東北大学附属図書館蔵)

『明治卅七八年日露戦史』に使われている10.5pt活字は従来の五号活字のボディ寸法を調整したもの、21ptは二号活字、16ptは三号活字、8pt活字は六号活字を各々同様に調整したもののようです。12ptは全く新しく彫刻されたものになります。

『印刷世界』4巻4号(明治451912年4月)「活字改良の必要とポイント式新活字」中の「ポイント式活字の大さの標準を如何に定むべきか」という項で野村は「築地活版では昨年來十二ポイント式新活字を鑄造して、既に一組完成して參謀本部編纂の日露戦史の印刷には全部此の新活字を用ゐる筈で、參謀本部でも非常の賞賛を博して目下印刷中である」と記しており(167頁)、また同誌8巻5号(大正31914年5月)の「九ポイント活字の説明」で野村は「一昨年參謀本部に於て日露戦史の出版せらるゝに際し相談を受けたるを以て當時外國のパイカに當る十二ポイント製作中なるを告げ且其印刷見本を提供したるに印刷上美麗にして紙數を減じ讀者に取り有益なりとのことにて完成を促され十箇月にして之を完成して印刷したるに大に稱讃を博し」と記していますから(16頁)、1912年が築地12ポイント明朝活字実用化の年と考えて良いでしょう。

東京築地活版製造所は『活字と機械』という名称の総合見本を度々発行していて*1、昭和期に発行されたものでは12ポイント活字が「風は只空行く音や枯柳」という1行見本になっています。

推定昭和8年版『活字と機械』より16ポイントから9ポイントの見本

大正31914年に発行された『活字と機械』(印刷図書館蔵Za328)では1頁分が12ポイント明朝活字の紹介にあてられ、次のような見本が掲載されていました。

1914年版『活字と機械』より12ポイントの見本(印刷図書館蔵)

ひらがなを含む築地12ポイント明朝活字の用例――緒方正清『日本産科学史』の再発見

10年ほど前に、東北大学附属図書館医学分館が所蔵している1913年から17年発行の資料2232件――当時のデータベース登録数――を悉皆調査し、築地活版が印刷した資料69点を見つけ出していました。

調査の目標としては築地活版の五号明朝のモデルチェンジの時期を明らかにしようとするもので、「築地体後期五号仮名」に続く「(仮称)復興五号」として「大正・昭和期の築地系本文活字書体」(『タイポグラフィ学会誌08』2015年 http://www.robundo.com/book-cosmique/society-typography/society-typography08.html)という研究ノートに取りまとめています。

この時の調査で見つけた、呉建『心臓病診断及治療学』(南山堂書店、大正41915年)の序文*2が、ひらがなを含む築地12ポイント明朝活字の最初期の実用例になります(漢字カタカナ交じりの築地12ポイント明朝としては宮入慶之助『衛生学』〈南山堂書店、大正21913年〉序文*3が更に早い用例です)。

呉建『心臓病診断及治療学』序文(国会図書館デジタルコレクションより)

本文が築地12ポイント明朝活字漢字ひらがな交じりという稀有な実用例として緒方正清『日本産科学史』(緒方正清、大正81919年、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/934502/1/37)が2014年時点では請求記号「WQ11/5」として東北大学附属図書館医学分館に蔵されていたのですが、ここ10年ほどの間に除籍されてしまったのか、2024年4月現在では医学分館内に見当たらず、また全学OPACでも探し出せなくなってしまいました。

今般、「日本の古本屋」を経て緒方『日本産科学史』を入手できたので、活字のサイズ感が分かりやすい見開きを掲げておきます。

緒方正清『日本産科学史』本文8-9頁

本文が12pt、字下げされている引用文が10.5pt、節見出し「太古の臍斷術」が旧四号または14pt、その横が9pt、頭注と柱が8ptとなっており、またいわゆる「後期五号仮名」と「12ポイント仮名」が非常によく似た書風であることも見て取れるかと思います。

共同印刷が刷った中村不折『法帖書論集』は築地12ポイント明朝活字か

国会図書館デジタルコレクションで送信サービス閲覧可能資料となっている不折『法帖書論集 第9』は昭和101935年7月印刷発行となっていてhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1217294/1/75、家蔵再版本の初版表記「昭和8年12月」とは異なっているのですが(下図)、内容は基本的に同じもののようなので、築地活版が本文を12ポイント明朝漢字ひらがな交じりで印刷した緒方『日本産科学史』と、共同印刷が本文を12ポイント明朝漢字ひらがな交じりで印刷した不折『法帖書論集』から幾つか仮名文字を拾い出して比較表を作ってみます。

不折『法帖書論集 第9』家蔵再版本の奥付

平仮名全文字種の比較を行うのが理想的ではあるのですが、ここでは伝統的な書体比較用文字種である「のにしながれ」を含む18文字を比べてみることにしましょう。

緒方『日本産科学史』(T8築地活版)と不折『法帖書論集』(S14共同印刷)の平仮名比較表

「よるすな」は印刷コンディション等の違いと見ていいでしょう。「にしの」の角度が違って見えるのは採字条件の設定ミスかと思われます。「だ」の字の「こ」の部分の違いと「と」の字の全体的な違いは、種字の違いに由来するものと思われます。

基本的には「中村不折『法帖書論集』は築地12ポイント明朝活字で印刷されている」と言っていいように思いますが、「だ」と「と」の違いが築地活版の改刻による「オリジナル12ポイント」(大正8年)と「マイナーチェンジ版12ポイント」(昭和10年または14年)に相当するような違いであるのか、「築地活版オリジナル」と「共同印刷バージョン」の違いであるのか、現時点では何とも言えません。

従来は両者が同じ書風の活字であるものと大雑把に考えていたのですが、今回改めてじっくり比較してみたことで、若干の違いがあるようだと判りました。

石井中明朝(オールドスタイル小がな)MM-A-OKSと築地12ポイント明朝の比較

せっかくなので、写研公式サイトの「石井中明朝 オールドスタイル小がな MM-A-OKS」書体見本と、緒方『日本産科学史』の築地12ポイント明朝を比べてみましょう。

まずは「永東国書調風愛機あなふのアタユシ」を緒方『日本産科学史』から採字していきます。

緒方『日本産科学史』の築地12ポイント明朝から見本16字を採字

次に、角度と寄り引きを調整します。文字の拡大縮小は行いません。

緒方『日本産科学史』から採字した16字の角度と寄り引きを調整

最後に、角度と寄り引きを調整した築地12ポイント明朝と石井中明朝(オールドスタイル小がな)MM-A-OKSを重ね合わせてみます。

角度と寄り引きを調整した築地12ポイント明朝と石井中明朝MM-A-OKSの重ね合わせ

こうして重ね合わせてみると、従来から指摘されていた「あ」のように全体的に大きく変えたものがあるだけでなく、「永」の第一筆の点の位置を調整したようなもの、おそらく新旧字体の違いに伴う微調整であろう「国」「調」、新旧字体変更に合わせてサイズ感も調整したらしき「機」、サイズ感を調整したものかと思われる「な」「タ」、「几」の左払いが調整された「風」といった変更点が読み取れます。

とはいえ、基本的に漢字・ひらがな・カタカナの群としてのサイズ感や、文字の骨組みという「活字書体全体」として見た場合には微調整の範囲にとどまっているように思います。

『石井茂吉と写真植字機』が「急いだためと、外部の数人に頼んだための注意の周到さが足りなかったこともあって、字体の不揃い、文字の大きさ、線の太さの不揃いが目立った」と記していた失敗を挽回するため、「築地書体の十二ポイント活字の清刷りを青写真で四倍の大きさに拡大し、墨入れ」する作業を石井が一人で実行することで統一感のある書体に仕立て直した――というのが実際のところでしょう。群としてのサイズ感や、「東」や「愛」だけでなく全体的な「重心」や「ふところ」がこれほど一致するというのは、なぞって書いたということ以外に説明がつかないように思います。



以下2024年5月4日18時50分追記:
記事のタイトルを「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字」から「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字と写研の石井中明朝MM-A-OKS」に改めました。

今回の記事は元々、10年前に発見した〈築地活版が12ポイント明朝活字を用いて漢字ひらがな交りの本文テキストを印刷した(!!!)緒方正清『日本産科学史』〉を適価で入手できたことをきっかけに、以前から手元にあった中村不折『法帖書論集』の12ポイント明朝活字と比べてみようというのが執筆動機でした。

記事中で比較用に拾い出した平仮名18字は、すぐに見つかりました。

ほんとうは、そこで記事を締めるつもりだったのです。なので、元々予定していた記事タイトルが「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字」。

――だったのですが。追加の平仮名2文字と、「國書風」の3文字が、本文の最初の10頁目までに出現していることに気がついていたことから、ついうっかり、写研公式サイトに掲げられている書体見本の文字を揃えることができちゃったら面白さ倍増だよね、と思ってしまったのです。

本文11頁以降を眺めていきます。「東」が16頁にありました。「調」が18頁にありました。

50頁ほど進んだところで、これは無理ゲーなんじゃなかろうかという気持ちになってきました。ゴールデンウイークを潰す覚悟で続けても、終わらないんじゃないの……

秀英12ポイント明朝活字の仮名を拾い出してみた『中村汀女星野立子 互選句集』はB6判・軽装だったため繰り返し頁をめくるのが全く苦にならず、素材の良さも相まって目視でも「ひらがなは濁音・半濁音を除いてコンプリートできる状態(!)だった」わけですが、『日本産科学史』はB5判・丸背(ホローバック)クロス装・本文だけでも1810頁という鈍器本です。気軽に目視通読を繰り返すような相手ではありません。

寝貯めしようと思っていたのに日付が変わってしまってから諦めて眠りについたところ、頭の中に呼びかける声(cv伊藤沙莉)が聞こえてきます。

「はて」

国会図書館デジタルコレクション2022年12月アップデート時の全文検索機能は1文字単位での検索だって有効なはずだから、試しにキーワードを「永」とかにして検索してみたらいいんじゃないの?」

日の出前に寝床から這い出てPCを起動します。序文の四号活字の用例だったり、引用文の五号活字だったり、注釈だったりする検索結果も混ざっていますが、目視ベースより遥かに効率よくアタリをつけることができます。

「永」は58頁にありました。「愛」は747頁(!)(やっぱり愛が無くちゃね)。「機」は54頁。「ア」と「シ」が76頁。「タ」が77頁。「ユ」が125頁。

というわけでMM-A-OKS書体見本との比較に必要な16文字をコンプリートすることが出来ました。久しぶりに踊らせてください。

NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー

*1:板倉雅宣『活版印刷発達史』(印刷朝暘会、2006)巻末の「東京築地活版製造所 関連資料一覧」によると、『活字と機械』は、印刷図書館所蔵の大正3年版〈Za328〉、昭和6年版〈Za353〉、昭和10年版〈Za357〉、そして桑山書体デザイン室KD文庫所蔵の昭和13年版が記載されています(所蔵の状況は2024年現在のもの。昭和10年版は横浜市歴史博物館小宮山博史文庫にも所蔵あり。)。

*2:呉建『心臓病診断及治療学』NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/934060/1/3

*3:宮入慶之助『衛生学』NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/935511/1/3

中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字

「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」に書いていなかった、築地活版の初期ポイント活字のことを記しておきます。

アメリカン・ポイント・システム

日本にポイント活字を普及させた功績等で大正51916年に藍綬褒章を受けた東京築地活版製造所第4代社長の野村宗十郎(「藍綬褒章を拝受した野村宗十郎氏とは怎麼人か」『日本印刷界』77号〈1916.3〉46-51頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1517496/1/54、ポイント活字の紹介を含む記事を様々な機会に記していました。

最初のものが『印刷雑誌』1巻5号(明治241891年6月)に「東京築地活版製造所寄稿」として掲載されたものでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1498916/1/10、「今泰西諸國ニ於テ活字ノ基本トシテ一般ニ規定セラルヽモノハ我四號五號ノ中間ナルぱいかニ在ルガ如シ即チ此ぱいかハ六分一インチニシテ一フート七拾貮本ナリ之ヨリシテ又一インチヲ七十ニニ等分シ其七十二分一吋を以テ一トシ順次此一ヲ以テ其大小ヲ規定セリ」云々と解説されています。

『印刷世界』9巻6号(大正41915年6月)に掲載された野村宗十郎「日本に於けるポイントシステム」(後に大正元年版『新聞総覧』〈日本電報通信社、大正4年〉に転載)の「日本に於ける來歴」の項に「自分は千八百八十九年(二十五年前)米國貿易會社の手を經て桑港のパーマーエンドレインの見本帖を得て初めてポイントシステムの大小活字を確實に知ることが出來て」と書かれている通り、サンフランシスコのPalmer & Rey社が1884年に発行した活字見本においては「Americanと名付ける『1ポイント』が、Picaの12分の1であり、1インチの72分の1である」ことが明記されていますhttps://archive.org/details/newspecimenbook00palmrich/page/n7/mode/2up。「Small Pica」や「Long Primer」などという古くからの呼び名が単なる目安でしかなかった活字サイズの関係性を整理し「American system of interchangeable type bodies」と名付ける一定基準にする試みを最初に提唱したというシカゴMarder Luse社の、いまウェブ資源として閲覧できる1881年見本帖https://www.galleyrack.com/images/artifice/letters/press/noncomptype/typography/marder-luse/marder-luse-1881-dmm.pdfでは大小関係の整理はされているものの肝心の1ポイント(あるいは12ポイント=1パイカ)が物理的にどういう寸法なのかが示されていません(Richard L. Hopkins『Origin of The American Point System for Printers' Type Measurement』(Hill & Dale Private Press、West Virginia、1989年)によると、Marder Luse社の1879年見本帖『The Chicago Specimen』が「American system of interchangeable type bodies」の初披露となり(34-35頁)、やはりPicaの実寸は定義されていなかったようです)

野村は大正4年の「日本に於けるポイントシステム」中、「先に新聞に採用」と題する項において次のように記しています(『新聞総覧』54-55頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/425)。

明治三十七年の日清役で大分新氣運が促進されて居る所に丁度大阪で第五回勧業博覽会が開會されたので、築地活版製造所は九ポイント活字約三千個を主とし他のポイント十種ばかりを五六十個づゝ出品したが大阪毎日新聞社は大に之を注目されて、記者の菊池幽芳氏が綿密に調査して同紙上に二日間數段に渉つて委しく記載された。自分は愈よ気運の向ひて來たことを感じて大に自ら慶して居たが、其時旅順口が陥落したので九ポイント活字を記念せんとて陥落祝賀記念活字と稱したことを記憶して居る。

第五回内国勧業博覧会に出品された「他のポイント十種ばかり」というのがどのようなものであったのか、明確な記録を見つけ出すことはできていません。例えば第5回内国勧業博覧会事務局編『第五回内国勧業博覧会審査報告 第9部』における「活字、活版、字母」にも内訳は記録されていない状態でhttps://dl.ndl.go.jp/pid/994150/1/164、また菊池幽芳が明治36年3月22日・23日付『大阪毎日新聞』に記した博覧会レポートでも判明しません。

野村宗十郎は生涯1ポイントは72分の1インチだと記していましたが*1、実際にはMS&J社の所謂Johnson Picaを12等分した寸法を1ポイントとする、現在の私たちが言うところのアメリカン・ポイントが採用されていました。

築地活版の宮崎榮太郎が大正121905年3月に行ったという講演会(『印刷雑誌』に「新聞社と活字縮小(上)」〈4月号〉「新聞社と活字縮小(下)」〈6月号〉として掲載)で語ったところには、①シカゴ大火からの復興の際にMarder & Luse社がアメリカン・ポイント・システムを提唱したこと、②1インチを6パイカとするこの提案は多くの既存活字と合致せず負担が大きいため棄却され、デファクト・スタンダードであるMacKellar Smiths & Jordan社のパイカ業界標準として採用されたこと、③日本でも72ポイントが0.9964インチとなるマッケラー式のポイント活字が採用されており「本邦では以前は一吋の七十二分の一が一ポイントだと信じられて居りましたが、實際は少し異ひます」と正確な認識が示されています。

築地活版の最初のポイント活字――9ポイントと4.5ポイント

野村が大正4年の「日本に於けるポイントシステム」中「先に新聞に採用」の項に記した旅順陥落云々について、森銑三が『明治東京逸聞史 第2』(平凡社昭和441969年)で明治381905年1月6日付読売新聞掲載の「旅順陥落戦勝記念 ポイント式活字(九ポイント)発売広告」を紹介しています(183頁 https://twitter.com/uakira2/status/697387910564171777。これと同じ広告が同年1月4日付『東京日日新聞』2面に掲載されているなどhttps://twitter.com/uakira2/status/689047273418821633、野村の回想は、築地活版で最初に実用化したポイント活字として9ポ、18ポ、4ポ半という3種類が主に新聞用として発表された状態を指すようです。

これらの広告群については『印刷雑誌』15巻7号(明治381905年7月)に「九ポイント新活字」という記事が書かれているのですが、そこにも「然るに東京築地活版製造所が本年一月旅順陥落戦捷記念として賣出した九ポイント活字」云々と書かれており(208頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1499083/1/5)、また明治39年1月に発行された東京築地活版製造所『新製見本』4巻2号(印刷図書館蔵、Za320)には「九ポイント書體漢字」「仝 片假名交り」「仝 平假名交り」という見本が掲げられています。

東京築地活版製造所『新製見本』4巻2号(印刷図書館蔵)より九ポイント活字見本

さて、先ほど引用した「先に新聞に採用」と題する項の続きにはこう書かれています。

其後中央新聞の大岡力氏が弊社に來られて、九ポイント活字を見、之れだけで新聞を作らう、さうしたら新聞も美しく記事も豐富になるだらうといふので、採用される亊になつて九ポイント活字を七八千種製造して供給した。これは新聞紙に用ひられた嚆矢で其後函館毎日、大阪毎日、鹿兒島新聞其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた。

中央新聞による9ポイント活字の採用について、牧治三郎『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会、1972年)が巻末年表で明治391906年12月とし(705頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12047860/1/399)、また矢作勝美『活字=表現・記録・伝達する』(出版ニュース社、1986年)も同年同月としています(63頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12274057/1/38)。

確かに旅順陥落戦捷記念として広告された3種のうち9ポイント活字の総数見本が明治391906年に発行されているのですが(印刷図書館蔵『九ポイント明朝総數見本 全』Za321)、国会図書館マイクロフィルムで遡ってみたところ、中央新聞が本文に9ポイント活字の使用を始めるのは明治38年のことです。39年ではありません。11月1日付の紙面は従来の五号活字(1行19字詰め7段組)、12月1日付の紙面は9ポイント活字(1行19字詰め8段組み)で構成されています。

明治38年11月1日付『中央新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルム紙焼きより)
明治38年12月1日付『中央新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルム紙焼きより)

明治39年12月の中央新聞がらみの出来事としては、12月1日付『中央新聞』1面に「商工戦士月旦 野村宗十郎君 築地活版の支配人 ポイント式発明者」という記事が掲載されていて、記事の中ほどに「築地活版製造所は殆ど我日本活版界の開祖で我中央新聞が率先して採用したる九ポイント式活字は即ち君に由つて案出せられたるものである」と書かれているのが目につきますが、活字史家type historianとして注目すべきは同記事の末尾。「君今印刷機械の製造を企て重ねて十八ポイント式活字の字母製造中に在りと聞く我印刷界の更に新生面を開かざるべからざるもの甚だ多し君それ幸いに自重せよ」とあります。紙面を見ると9ポイント本文に対するルビは既に4ポ半になっていますから、『九ポイント明朝総數見本 全』45頁に「四ポイント半平假名」「四ポイント半片假名」が掲載されている通り明治38年の段階でまず9ポと4ポ半が実用化され、18ポは40年か41年まで完成しなかったということになるようです明治41年1月の中央新聞に18ポの用例があるのを見つけているのですが、40年を調べそびれたまま今に至っています)

仮称「前期9ポイント仮名」と仮称「後期9ポイント仮名」

なお、前掲『新制見本』では〈打ち込み点〉がある形に作られていた「し」の字が、横浜市歴史博物館小宮山博史コレクションの『九ポイント活字総數見本 全 昭和四年五月改正』(1931:小宮山博史文庫「仮名字形一覧」:https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/jikei/data_katsuji/002019310/)と印刷図書館蔵『九ポイント明朝総數見本 全』(1906)では打ち込み点の無い形しか掲載されていないなど、細かく見ていくと初期の段階で幾つか調整されてから〈前期9ポイント〉とでも言うべき明治39年総数見本の仮名セットになったのかもしれません。

明治39年総数見本(仮称「前期9ポイント仮名」)と昭和4年総数見本(仮称「後期9ポイント仮名」)を比べていくと、「で」「ぼ」「ぽ」のように濁点・半濁点の位置が明らかに変更されていることに加えて文字が全体に若干小ぶりになるよう調整されたものがある他、「じ」「り」のように若干小ぶりかつ丸みを帯びるよう調整されたものがあるようです。逆に明治39年型で文字面が小さすぎたものが昭和4年型で大ぶりに作り替えられたのは、「え」だけではないかと思います。

築地9ポイント明朝の新旧比較(旧:印刷図書館蔵明治39年総数見本/新:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵昭和4年総数見本より)

この25年間のうちに様々な調整が施されていたようだ、ということは言えるのですが、モデルチェンジのタイミングについては未詳です。

ちなみに、昭和5年1月に凸版印刷が刷った芥川龍之介『大導寺信輔の半生』(岩波書店昭和51930年1月)の本文活字は、ここでいう仮称「前期9ポイント仮名」です。

芥川龍之介『大導寺信輔の半生』(岩波書店、1930)104-105頁:「え」「で」「ぽ」に注目



以下2024年5月4日追記:
記事タイトルを「東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」から「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」に変更しました。

*1:活版印刷家の協同すべき二問題」〈『印刷雑誌大正11年2月号〉で野村は過去の解説を捨て「全米の活版業者の代表者が一八八六年末に協議することとなつた。その結果、米國の一印刷所マッケラー・スミス・ジョルダンのパイカ大の活字を十二分した寸法を以て標準としたのである。これが卽ちポイント式測定法であつた」という説明を記しますが具体的な寸法には触れていません。

隷書活字で知られた活版製造所文昌堂の『花形見本』とその周辺

日本で最初の隷書活字製造販売元として知られる活版製造所文昌堂が発行した、花形を主題とした活字見本帳である『花形見本』が、印刷図書館に蔵されています(Za359 https://mba-web.co.jp/opac/prj/details.php?id=7686)。表紙のコピーが手元にあったことを完全に失念していた文昌堂『花形見本』を久々に見返したところ思いもよらぬ意匠のものだったため、文昌堂の概要をまとめ、併せて刊記のない『花形見本』の発行年を推定してみます。

活版製造所文昌堂『花形見本』表紙(印刷図書館蔵)
活版製造所文昌堂『花形見本』文字活字の広告(印刷図書館蔵)

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫「仮名字形一覧」の「活字見本帳一覧」https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/jikei/data_katsuji/に見える表紙と比べていただくと、文昌堂『花形見本』が飛び抜けてグラフィカルな仕立てになっていることに驚かれることと思います。

何と言っても、いま『近代出版研究』第3号(皓星社、2024.4 https://www.libro-koseisha.co.jp/publishing/9784774408200/)で話題の「パブリッシャーズ・マーク」と同様の意匠で掲げられた文昌堂の図柄!

『京橋の印刷史』と『本邦活版開拓者の苦心』に見える文昌堂

文昌堂の足跡を記す数少ない資料が、この2点になります。

牧治三郎『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会、1972年)*1の第1章中に「早期の活字製造業者」として「京橋地区の築地活版製造所と弘道軒を除いた活字鋳造業者の早期功労者として、本町三丁目書肆瑞穂屋清水卯三郎、銀座四丁目博聞社長尾景弼、南佐柄木町の文昌堂松藤善勝のほか秀英舎の製文堂の四業者を除外するわけにいかない。」とあり(20頁)、「松藤善勝の文昌堂活字製造所」という半頁のまとめが記されています(23頁)。全文を引いておきましょう。

 明治十六年四月創業の京橋南佐柄木町一番地文昌堂は松藤善勝(幼名常吉)その他の共同出資で始めた活字店であった。
 文昌堂は最初の隷書活字製造販売店で、松藤は長崎製鉄所活版伝習所で本木昌造とともに、ガンブルから電胎母型の製造と活字鋳造法の指導を受けた一人で勧工寮活版所十三等出仕から紙幣寮(後の印刷局)鋳造課長に出世し、退官後、活字販売を始めた経歴の持主。のちに文昌堂を他へ譲り、新富町で松藤善勝堂として再発足したが、松藤が有名になったのは、明治三十三年十月、都新聞のためにマリノーニ輪転印刷機胴から割出した九ポ七五の都式活字創製である*2。一時は、東京築地活版製造所の九ポ及十ポ活字と対抗、万朝報の扁平活字と三ツ巴になって、新聞界を風靡した。
 松藤は、この外に連柱活字を考案するなど京橋区に於ける活字鋳造者として歴史上、書きもらすわけにはいかない。

『京橋の印刷史』が記す松藤の略歴は、幼名や「十三等出仕」という記載などから遠山景澄編『京浜実業家名鑑』(京浜実業新報社、明治40年〈1907〉507頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/779587/1/282)に依拠して記されたものと想像され、この底本が紙幣寮での役職を「鑄字課長」と正しく記しているところ――明治36年の『印刷局沿革録』では明治9年10月のこととして「鑄字課長松藤善勝活字組立ニ要スル輕量ナル大小各種ノ込物ヲ鑄造スルコトヲ工夫セリ」と記載(https://dl.ndl.go.jp/pid/784387/1/114)――を、『大正人名辞典』(東洋新報社、第4版:大正7年)の木戸善輔の項に「松藤氏は」「十一年鋳造課長に進み」とあることから(49頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11557513/1/1116)一部調整して書かれたのでしょう*3

津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、1934年)の「江川次之進氏」の項には「尚ほ二十九年(明治:引用者注)には、隷書活字の創製者たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鑄造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年に設立したもの)を買収した」と記されています(180頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/109)。

新聞広告に見る文昌堂――明治16年〈1883〉から明治20年まで

2012年に記した「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」に掲げた新聞広告から、この時期の文昌堂の活動を辿ってみましょう。

M16/04/07時事新報の文昌堂広告

明治16年4月7日付『時事新報』掲載広告に「昨夏以來母型長(年か)製造罷在候處此節整頓致候ニ付本月十五日ヲ以テ前期之諸品(發か)賣致候」とあることから、文昌堂は明治15年夏から母型製造を始め、明治16年4月15日に明朝四号活字・明朝五号活字の販売を開始したようだと判ります。この広告から、私は文昌堂創業期に関する『京橋の印刷史』の記述は誤りだと思っています。文昌堂が「明治13年に設立」かどうかは未詳ですが、『京浜実業家名鑑』は松藤の動向について明治「十五年七月同局を辭し民間に下り活字製作所を設く」と記しています。

M18/05/16時事新報の文昌堂広告
M20/12/12時事新報の文昌堂広告

明治18年5月16日付『時事新報』掲載「活字幷附属諸品以廉價販賣」広告や、同20年12月12日付「活版印刷機械/蒸汽器械ダライ並シカル盤」広告では、まだ隷書活字について触れられていません。

新聞広告に見る文昌堂――明治21年〈1888〉以降

先ほどの「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」と、これに続く「江川行書活字と久永其頴書の名刺(付文昌堂)」に掲げた新聞広告から、明治21年以降の活動を辿ってみましょう。

M21/05/14時事新報の活版製造所文昌堂広告

活版製造所文昌堂名義で明治21年5月14日付『時事新報』に掲載された「活字広告」で、はじめて明朝二号サイズと明朝五号サイズの隷書活字が使われました。宣伝文句に「隷書活字」に類する語句は見えませんが、私が知る範囲ではこれが最初の隷書活字広告になります。

M23/10/26時事新報の活版製造所文昌堂広告

活版製造所文昌堂名義で明治23年10月26日付『時事新報』に掲載された「活版発売広告」では、見出しと本文のすべてに隷書活字が使われています。本文に曰く「各位益御清福奉賀候陳𛂥弊堂義従來活版其他附属器機類製造営業罷在候處今般品位〓〓代價之義一層勉強御用相勤申候間何卒舊𛂇倍𛁈陸續御注文之程奉願上候也」。

M26/11/10東京朝日新聞の文昌堂広告

明治26年11月10日付『東京朝日新聞』に掲載された「活版広告」の本文には「弊堂儀從來活版製造仕候處各位の御愛顧を以て日増繁昌仕千萬難有奉存候猶一層地金等精撰し諸事入念非常之廉價を以て御用相務可申候且舊來より餘程字面も面目を改め候間舊𛂌倍し多少𛂌不拘御注文之程偏𛂌奉願候」とあります。

屋号あるいは商号として、松藤は単に「文昌堂」または「活版製造所文昌堂」と名乗っており、『京橋の印刷史』が見出しに記す「文昌堂活字製造所」は不適と思われます。

活版製造所文昌堂『花形見本』の推定刊行年

まず注目したいのは、『花形見本』から掲載した2枚目の画像。名刺を模した隷書活字見本の中に「電話番號千貮百〇四番」と書かれているのが見えます。新聞広告を振り返ると明治23年『時事新報』「活版発売広告」までの間には電話番号の記載が無く、電話番号が掲載されるのは明治26年11月10日付『東京朝日新聞』「活版広告」からになっています。

また、その東朝「活版広告」に記された広告文は、『花形見本』の広告文(下記)と非常によく似た内容でした。

各位益御清榮奉恭賀候降而弊堂儀從來活版製造仕候處各位ノ御愛顧ヲ以テ日増繁昌仕千萬難有仕合ニ奉存候猶一層地金等ヲ精撰シ諸事入念非常之廉價ヲ以テ御用相務可申候且字面モ𦾔來ヨリ餘程面目ヲ改メ申候間𦾔ニ倍シ多少ニ不拘續々御注文之程偏ニ奉願候敬白

その後の広告類の状況等を見る限り、文昌堂が江川活版製造所の江川次之進に買収されたのは明治29年のことと考えて良いだろうと思われますので、『花形見本』が発行されたのは広く見て明治24年から29年の間、狭く見れば明治26年秋だったのではないかと思います。

新聞や書籍で小見出しに使われた隷書活字

『中外物価新報』は明治22年〈1889〉に『中外商業新報』へと改題しているのですが、2007年の記事「明治十年代後半の楷書活字と明朝活字の攻防」に記した通り、改題から間もなく「官報」欄や「雑報」欄等を示す小見出しに文昌堂の隷書活字を使うようになっています。

明治22年11月15日付『中外商業新報』1面(部分、復刻版より)

又間精華堂『受験応用新編数理問答』巻末に掲載されている、吉野寛述『改正日本民法問答講義』(精玉館、明治31年)の広告文に「書キ方ハ俗ニ解リ易ク逐條手ヲ以テ導ク如ク口授スルニ異ナラズ且ツ各條目ハ一種字體ノ變リタル隷書活字ト爲シタリ以テ其注意ノ周到ナルヲ知ル可シ」とありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826307/1/109。吉野『改正日本民法問答講義』の本文を見ると、確かに「第n條」の文字が隷書活字になっており、現在の角ゴシック体を用いたような見出し効果が得られていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/791356/1/13。そうした効果を自覚的に用いていることを記した同時代文書を見つけることがなかなか出来ていなかったのですが、国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによる全文検索機能によって今回、吉野『改正日本民法問答講義』中の広告文を拾い出すことができました。

文昌堂の隷書活字は「伝統書体の活字化」という側面ももちろん持っているのですが、少なくとも明治時代の実用例としては、明朝活字という本文基本活字に対抗する強調文字のための活字書体という面が大きく働いたように見受けられます。

強調文字のための活字として、隷書活字(や江川行書)に少し遅れて明治20年代半ばに築地活版製の和文ゴシック体活字が登場してくるのですが(「和文ゴシック体創出の研究/ゴシック体史研究の最前線」https://uakira.hateblo.jp/entry/20110317、過渡期の現象として、見出し活字に隷書と角ゴシックを混用するものなどが見られました。

例えば下図チャーレス・スミス著『小代数学(スミス氏) 上』(加藤鎮吉ほか、明治26年)章扉では、「上巻」「第壹編」が二号隷書活字、「定義」「代数學」が四号ゴシックで刷られています(1頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/827972/1/3)。

チャーレス・スミス著『小代数学(スミス氏) 上』章扉

伝統書体として生き続けた隷書活字

和文ゴシック体活字が生まれ育っていったことで単なる強調文字としての役割を求められることが減り、明治末頃から改めて伝統書体としての位置づけを得ていった文昌堂創製の隷書活字は、江川行書の仮名活字との組み合わせで、現在にまで生き延びることとなりました。

下図は、昭和38年に発行された日本活字工業株式会社『NTF活字書体』に収録された隷書活字の見本になります。

昭和38年『NTF活字書体』より隷書活字見本


*1:『京橋の印刷史』は2024年4月20日現在、国会図書館デジタルコレクションで「図書館・個人送信限定」扱いで閲覧可能資料となっています。「あとがき」と刊記から、団体著作ではなく牧治三郎個人の著作と思われます。同日時点でNDL典拠情報に生没年の情報が欠けていますが(https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00409466)、『印刷界』228号(1972.11)に掲載された「『京橋の印刷史』の編・著者牧治三郎さん(スポットライト)」には「明治33年生」と記されています。

*2:都式活字の大きさについて、一般に九ポ七五説が流布していますが、私は各種資料の実測値から九ポ半だと考えています。詳しくは「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」https://uakira.hateblo.jp/entry/20170520

*3:『世界之日本』(二六新報社、大正10年)の「木戸善輔氏」の項(274頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/946122/1/359では、松藤の役職が正しく「鑄字課長」となっています。)