世田谷246ハーフマラソン

この前の日曜日は世田谷246ハーフマラソンだった。
今年も運よく抽選にあたり、ハーフマラソンに出場できた。

と言いつつ、二週間後にフルマラソン富士山マラソン)を控え、どのように走るか微妙なところ。
とりあえずは、前半抑え気味で後半あげるという大雑把なところまでは想定しておく。また、15キロすぎに坂があるので、フルマラソンの予行演習がてら(フルでは21キロ付近で1キロで100メートルの上り坂がある)気合いを入れることまでは頭に入れておく。タイムは特に想定していないが、フルの想定ペース4分40秒/キロを上回るくらいの4分30秒/キロあたりか。

スタートして最初の1キロは5分程度かかる。これは毎年のことなので、冷静にしているつもりだったが、次の1キロで4分17秒まであがる。ちょっとあがりすぎだと思いつつ走っていると、入りの5キロが22分30秒。うーん、さすがに少し速いか。

次の5キロは我慢しながらで、ここも22分30秒程度で流す。この程度のペースならハーフくらいならまったく問題ない。でも、30キロすぎるとそんなこと言ってられないのだろうな。

10キロすぎから少しずつペースをあげていく。例年はへばりつつ迎える上り坂も、今年は気合いを入れて登りきることができた。坂を上った後は、そのままペースを緩めず15キロからの5キロは21分まであげる。

結局ゴールは1時間32分22秒。昨年より30秒ほど遅いが、レースの位置づけが違うのであまり気にしていない。脚へのダメージもあまりなく、よい調整になった(と思いたい)。

ハーフはやっぱり楽しい、というか距離的にちょうどよい。
来年の春くらいには、タイムを狙ってハーフを走りたいものだ。

ワークショップと学び1

ワークショップと学び1 まなびを学ぶ

ワークショップと学び1 まなびを学ぶ


ワークショップシリーズ全三巻の一巻目。だから、というわけではないが、概論的な話が中心。
本書(というかこのシリーズ)では、ワークショップとは、まなびの凝りをほぐす、いわゆる「まなびほぐし」の場であるという設定になっている。もちろんそういう一面もあるだろうが、それだけでもないような気がする。二巻目や三巻目はどんな展開になるだろうか?


なお、第二部でなぜか宮台真司が登場。相変わらずナルっぽさ全開の内容に辟易する。

箱根前哨戦としての全日本

今日は全日本大学駅伝があった。
もちろんこのレースも三大駅伝なので重要だが、箱根駅伝の前哨戦として、各チームの動向をつかむ材料としても捉えることができる。
その観点から本日のレースを振り返る。ということで、主要校についてコメントしてみる。

駒沢大学
 本日は優勝したが、箱根に向けてを考えるとかなり不安の残るレースだった。今日は油布と窪田で勝ったようなもので、必ずしもよい内容とは言えない。出雲同様、攪上と村山は自重しながら沈むというパターンで、こうした消極的な走りが続くようだと、箱根も出雲のような結果になる可能性すらある。本日三大駅伝初登場の二人も、箱根の戦力になるかどうかは不明。その意味で、結果オーライ的な印象は否めない。

東洋大学
 こちらは逆に好材料が多い。今日本当に勝ちたかったら、最終区に設楽弟をもってくればよかっただけのような気がする。出雲と今日で新戦力に目星がついた(しかも、この二戦で新戦力のうち二人が区間賞をとってしまうのだからすごいものだ)。エースの設楽兄弟も調子は上向きな様子(この二人は長い距離を戦略的に走れるという点で本当に頼りになる存在)。あとは、山登りをどうするか、という点さえクリアできれば、かなりの確率で箱根は勝ちそうな気がする。

早稲田大学
 もともとあまり厚くない層が、「薄い」と感じられるようになった。結局大迫と山本だけのチームで、あとのエリートメンバーもそこそこ走るレベルになってしまった(一昨年は、当時箱根に出場できなかった佐々木と志方を「飛車角」と呼んでいた記憶があるが、遠い昔の話になってしまったような気がする)。大迫と山本のどちらかがブレーキになれば、その時点でアウトという感じ。今日は第一区の起用がギャンブル過ぎたきらいもあるが、それを除いても、駒沢・東洋とはかなり差ができたような気がする。

日本体育大学
 いい感じで仕上がってきている印象。服部はこの世代ではトップクラスの力を持っているのだから、今日(区間賞)くらいは期待してもいいだろう。他のメンバーもしっかり走れているのは好材料。ただ、三強(といっていいのか?)を脅かすにはちとつらいかもしれない。

明治大学
 相変わらず走る人もいれば(今日は有村)、そうでない人もいる、という安定して不安定なチーム。まだ主力メンバーが二年生と若いので仕方ないか。ただ、層は厚いので、ある程度くらいつけば昨年の再現も期待できるかもしれない。

日本大学
 今日のような一区間だけ異様に長い区間があるレースでは、ベンジャミンのような大駒を持っているチームは強い。しかし、選手層自体は厚くないので、箱根ではまた苦戦しそう。

上武大学
 突出した選手はいなさそうなので、ブレーキさえなければ、という感じか。

山梨学院大学
 オムワンバはすごいが、このままだと箱根も似たパターンとなるかも。

中央大学
 こちらは逆にブレーキさえいなければ箱根は期待できそう。昨年以上の順位はねらえるような気がする。


すみません。残りについてはテレビ観戦ということもあり、フォローできません。
出雲覇者の青学、それから今日は出ていない城西あたりも加え、残り二ヶ月の仕上がりが楽しみです。

今月サマリー

何度目かの再開。今度は続くだろうか。


今月のRunについてのまとめ。
 総走行距離:280Km
 走った日数:17日
  ・30キロ走:2回(うち一回は荒川30K)
  ・20キロ超:1回(25キロ)

走行距離は初めて250キロを超えた。ようやく走りこめたという水準に近づいたか。
レースも一本走れて、来たるべき来月のフルマラソンへ向けての準備ができたような気がする。
あとは本番でどれだけ走れるかだが、それが難しいんだよな。

「対案を出せ」への正しい対応法


7/19〜20にツイートされた@ynabe39氏の「対案を出せ」に答えなくてよい、という一連の主張を読んだ。「対案を出せ」というのはレトリックだとか、客観性やら価値観やらいろいろな言葉が飛び出していたが、どう好意的に見てもこの主張は、「対案を出せ」と言われても何も答えなくてよい、ということを正当化しているようにしか聞こえない。


ただ、もちろん「対案を出せ」と迫る側にも問題がある。「対案を出せ」という言葉を発する前に、いくつか踏まなければならない手続きがあり、それをすっ飛ばしているからだ。

「対案を出せ」と迫るからには、迫った側は何等かのアイデアを提示している。そのアイデアは、何か現状を変えたい(もしくは今のままだと現状が悪化する)から提示しているものだ。つまり、「Aをすべきだ」というアイデアを提示する際の主張を丁寧に書くと、「〇〇という状況を改善すべきだから、Aをすべきだ」となる。

その主張に反対する側は、大きく分けて二つの観点から反対できる。
1.「〇〇という状況は改善しなくてもよい」
2.「Aというアイデアは〇〇という状況を改善する策として適切でない」

もちろん、主張に反対した側に対し、1から確認するのが筋だ。つまり、「〇〇という状況はそのままでもいいんですね」という形で。もしそれでYesという答えなら、その現状認識の妥当性を議論すればよい。

仮にNoだとした場合、初めて「対案を出せ」と迫ることができる。そして、反対する側も対案を出す必要が出てくる。というより、出さなければ単なる「言いっぱなし」だ。野党のやっていることと変わらない。

つまり、もしあるアイデアに反対して対案を出さないということなら、1の主張をしなければならない。でなければ、議論として成り立たないだろう。


今話題になっている原発の話で考えてみよう。「原発再稼働をする」というアイデアは、以下のように言いかえられる。

「現状では気候条件によって停電リスクが高まる可能性があるので、原発を再稼働すべきだ」(まあ、いつまで稼働するかとかそういう話はあるが、ここでは短期的なところだけで見る)

この主張に反対する場合、
1.現状の停電リスクの可能性を甘受する
2.停電リスクを下げるための対案を出す
のどちらかを主張すべきだ。仮に2の対案を出さないなら、声を大にして(しなくてもよいが)、1の主張、つまり「気候条件による停電リスクは避けられないが、それは我慢しますよ」という主張をしなければならない。それで初めて相手方も、「対案を出せ」というのは無茶振りだということになる。

もちろん、「私たちは既に現状維持という言葉で同じことを言っていますよ」という人がいるかもしれない。もしいたのなら、自分の不明を恥じるばかりだが、少なくとも「原発反対」という声は聞くけれど、「もし停電になっても、原発を動かすくらいならみんなで我慢して乗り切りましょう」という声を耳にしたことはない。こういうところに、ぶっちゃけ言ってしまえば、「ずるさ」を感じる。

こうした耳障りのよい主張だけして、相手が少しでも理解できるような反論をしようとしない一方で、「対案を出せ」という恫喝(まあ一種の恫喝ですな)を、「レトリック」だとか「もともとの価値観が違う」だとか言って貶めるのは、言い訳がましい自己正当化以外の何物でもないと考えるのである。

「最強のクリティカルシンキング・マップ」


最強のクリティカルシンキング・マップ(道田 泰司、日本経済新聞出版)という本を読了した。現在いろいろな分野で使われ、やや混迷しつつある「クリティカルシンキング」を概観しようという一冊である。

最強のクリティカルシンキング・マップ―あなたに合った考え方を見つけよう

最強のクリティカルシンキング・マップ―あなたに合った考え方を見つけよう

本書を読了して、正直違和感が残った。細部にいろいろ違和感があるというならスルーしてもよかったが、根幹となる部分への違和感はスルーしづらいので、その点についてまとめてみることにする。



本書の概要
前述の通り、本書は「クリティカルシンキング」という概念を整理・体系化しようと試みたものである。特にビジネスシーンで「クリティカルシンキング」という言葉が使われるようになって、言葉が一人歩きをしているような印象すら受ける。

そのような中、地道にクリティカルシンキング(批判的思考)を米国での潮流とあわせて研究している方々にとっては、こうした風潮を「なんなんじゃい」と思われるのは十分理解できる。ただ、研究界でもクリティカルシンキングに対していろいろな角度からのアプローチがあり、十分整理しきれていないのが正直なところだと感じる。

こうした状況で、ひとまず現在日本で「クリティカルシンキング」という言葉を使っている分野を概観し、そこでの特徴などを整理・体系化しようというのが本書である(というのが自分の理解)。

本書では、クリティカルシンキング(以下クリシン)を、出版物の状況などから4つに分類し、それぞれ以下のように特徴づけている。
・ビジネス系クリシン:網羅的に状況を捉える
・論理学系クリシン:議論を理解、評価する
・心理学系クリシン:人の情報処理の枠組みを理解する
・哲学系クリシン:クリシンを実現するための姿勢

その上で、様々な状況でそれらがどのように活用されているのかを示す、というのが本書の大まかな構造だ。



本書の根本にある違和感
次に、本書に対する自分の違和感をあげていくことにしよう。本書に対する違和感は、大別すると2つある。ただ、この2つの違和感はいろいろからみ合っていて、必ずしもきれいな切り分けはできていない。


違和感1.自分にあった考え方をみつける?
本書の副題は、「あなたに合った考え方を見つけよう」だ。

本書がクリシンを題材にした書籍だとすれば、当然ここでの「考え方」はクリシンに何らか該当するものだろう。となると、「あなたに合った考え方をみつける」という主張には、「クリシンにはいろいろな考え方がある」という前提があることになる。ここでの「いろいろな考え方」には、二つの捉え方がある。それぞれの捉え方で、「自分に合った考え方を見つける」というフレーズを言いかえると、次のようになるだろう。

A:同じ言葉だけと意味が違う(要は宗派の違いのようなもの)
 →「クリシンって呼ばれているものはいろいろあるみたいだけど、僕にはこれがよさそうかな」
B:クリシンを細分化した中での強調の仕方の違い(要は見ている構成要素の違いのようなもの)
 →「クリシンっていろいろな項目に分かれているけど、僕に使えそうなのはこれかな」

Aというのは正直おかしな発想だ。「クリティカルシンキング」というのは、「自分や他者の思考(結論を導き出すまでの過程)を批判的に振り返り、よりよい結論を導き出す」というもので、それ以上でもそれ以下でもない。Aのパターンを許容するのは、たとえて言えば、いろいろな仏教の宗派が乱立しているのをお釈迦様が見て、「うん、仏教にもいろいろな宗派があるようだが、同じ仏教だからどれを信じてもいいだろう」と言っているようなものだ。

一方、Bはどうだろうか? もちろんクリシンには様々なものから構成されている。本書でも触れているように、「疑ってみる」「広げてみる」「客観的にみる」など様々な考え方がある(おっと、「考え方」という言葉を使ってしまった)。だから、「クリシンには様々な考え方があって、それを自分に合った形で使ってよい」という結論になるのだろうか?

そもそもクリシンで何をしたいのかと言えば、前述の通り自分なり他者なりの思考(結論)を批判的に振り返り、より適切な思考を導き出すことだ。つまり、前述した「考え方」は物事を批判的に振り返ったり、結論を導き出すための手法の一つにすぎない。そのどれか一つだけ選んで使えばよいという話ではないのだ。これが野球だったら「投げるのだけ得意」とか「打つのだけ得意」でも、その道のスペシャリストとして通用するかもしれない。しかし、考えるという場面で「客観的にデータを見るのだけ得意」であっても、それはクリシンを活用しているとは言えないだろう。

こうした点から、クリシンの中にはあなたに合った考え方が存在する、と訴えてしまうのは相当違和感が残るのだ。

補足1:著者は「『クリシンにはいろいろな考え方がある』というのはパターンAでもパターンBでもない。言うなれば、前述整理したような「ビジネス系」「論理学系」「心理学系」「哲学系」という違いのことだ」と主張したいのかもしれない。しかし、この分け方は「考え方」を分類したものではない。それは違和感2で説明する。

補足2:補足1とは別に、「ここで『いろいろある』と言いたかったのは、本書の最後に触れている『どの程度使うかは人によって違うのだから、自分にあった使い方を見つけてほしい』という意味だ」という反論があるかもしれない。しかし、「考え方の違い」と「その考え方を使う程度の違い」は別の話だ。もし使う程度が違って、その最適解は人によって違うということを訴えたいなら、「あなたに合った考え方」という副題は明らかにミスリーディングだ。


違和感2.不自然な分類
繰り返しになるが、本書ではクリシンを次の4つに分類している。
・ビジネス系クリシン
・論理学系クリシン
・心理学系クリシン
・哲学系クリシン

この4つの並べてみて、違和感はないだろうか。そう、「ビジネス系クリシン」は他と少し位置づけが異なるのだ。他の3つは「ある学問分野でクリティカルシンキングと言う場合の該当領域」という位置づけなのに対し、ビジネス系クリシンだけは「ビジネスシーンでの代表的なクリシンの使い方」という位置づけなのだ。もし、位置づけを同じにして並べるのなら、ビジネス系クリシンは「経営学クリシン」とでもして、経営学でクリシンというのはどんなものかをあげていかなければならない(そんなものはないと思うが)。

このあたりのレベル感の違いは著者も気づいていて、途中で他のクリシンとは位置づけが違うというような説明をしている。例えば、図の2−2ではビジネス系クリシンを教育系クリシンや専門系クリシン(これまた謎めいている)と同列に置き、他の3つとは違う位置づけだと説明している。つまり、この時点で著者は、ビジネス系クリシンというのはビジネスシーンという使用場面で特徴的なクリシンであると位置づけているのだ。

ところが、第4章以降で、クリシンが適用される具体的状況を説明する際、論理学や心理学、哲学とまったく同じような言葉の使い方でビジネス系クリシンが登場している。つまり、図2−2の前の段階に戻ってしまっている。

これは、当初の分類を、「現在世の中にあるクリティカルシンキング関連の書籍」をベースに行い、それを引っ張ってしまうからである。先人の業績に素直に従えば、クリティカルシンキング
・知識
・スキル
・態度
であるとされている(Glaser,1941)。これを著者の言葉で言いかえれば、
・知識(結論導出の):論理学系クリシン
・スキル(適切な推論を実現するための):心理学系クリシン
・態度:哲学系クリシン
とでも整理できるだろう。なぜこのようなシンプルな整理でよしとしなかったのだろうか?

結果として、本書では「ビジネス系クリシン」というひどく中途半端な位置づけのカテゴリーが時に姿を変えながらいろいろな場所に顔を出す、という不自然な内容となってしまった。



違和感の根本にあるもの
前にも触れたが、本書の副題は「自分にあった考え方を見つけよう」だ。しかし、最後のくだりを見ると、いろいろあるのは考え方というより、どの程度までクリシンを使うか、という程度問題のように見える(少なくとも、本書では「いろいろな考え方」というレベルまでクリシンの考え方を示していない)。

また、第5章「クリティカルシンキングを広げる」を見てみると、そこで扱っている心理臨床や失敗工学、ファシリテーションなどは、「これらで訴えていることは結局クリシンでやっていることに近い」という、「クリシンの応用例」を説明している。一方、同じ第5章で心理臨床等と同列に扱っているノンフィクションは、「ノンフィクションを読めばクリシン的発想を身に付けることができる」と「クリシンを獲得するための手法」の説明となっている。

いろいろあってよいのは、「考え方」なのか「どの程度までクリシンを使うか」なのか。クリシンを使う場面なのか、クリシンを学ぶ場面なのか。本書ではこのあたりの、必ずしも微妙とは言えない違いをごっちゃにしてしまっている。

こうした説明のブレというか何というかは、とりあえず自分の思ったことをつらつらと書いてみました的なエッセーの類ならよいのだろう。しかし、何かを体系立てようとした書籍、しかもその内容が「考える」ことをテーマにしたものの場合、こうしたブレというのは単なる「気持ち悪さ」以上の印象、つまり体系だっていないのではないか、十分整理しきれていないのではないか、という印象を与えかねない。



おわりに:「ビジネス系クリシン」という落とし穴
なぜ本書が世に出たのか。ここからは想像にすぎないが、あとがきに次のような一文があるところからも、ビジネス書で扱われているクリティカルシンキングをうまく学術的な領域にビルトインしたい、といったところにあるのだろう。

それ(クリティカルシンキングって何だろう)に対して学術的に考察することはできましたが(道田、2003)、今度は、ビジネス書などに書かれているクリティカルシンキングをどう理解したらいいのか、ということが気になっていました。(258ページ)


こうした問題意識を持つことは素晴らしいことだと思うが、そこまでビジネス書で触れているクリシンを買い被る必要はないでしょう、というのが個人的な意見だ。

おそらくビジネス書で「クリティカルシンキング」という言葉を初めて使った「MBAクリティカル・シンキング」に、次のような一節がある。


クリティカル・シンキングに関する書籍は、翻訳本を含め、日本でも何冊か出版されている。認知心理学の研究者が中心となって心理学的な側面からまとめたものや、「思考の罠」(陥りやすい間違い)について簡単にまとめたものなどがある。

そのなかで本書は、経営教育の現場で数多くのビジネスパーソンの思考方法を見てきた筆者が、「ビジネスパーソンが仕事を進めていくうえで役立つように」という観点からまとめたものだ。(11〜12ページ)


これをぶっちゃけで意訳してしまえば、「クリシンという言葉はすでに使われているが、筆者(グロービス)はビジネスパーソンに役立つ思考法という意味で使います」と宣言しているにすぎない。つまり、大枠では「クリティカルシンキング」という言葉からは外れていないが、単にビジネスで有益な考え方を表現したものにすぎない、というのが自然な見方となろう(おまけに、当該箇所の見出しが「グロービスクリティカルシンキング」だったりする)。論理学や心理学、哲学などの分野で研究されているものと比べるほどのものではない、と考えるのが自然だ(断っておくが、だからグロービスのクリシンはダメだ、と言いたいのではない。あれはあれで役に立つだろうし、現にそう考えている人は多数いるのだから)。

にも関わらず、ビジネス系クリシンには何か特別なものがあるのではないか、というのは、深読みというか買い被りしすぎのように感じる。さらに、深読みが高じて、「ビジネス系ロジカルシンキング」という不思議な言葉を生み出すに至ってしまった(ビジネス系ロジカルシンキングがあるなら、別の場面で特有のロジカルシンキングというものがあるのだろうか? そして「ビジネス系」ロジカルシンキングと何か違いでもあるのだろうか??)。ここは冷静に出所を確認しておけばよかったのではないだろうか。



まあ、わかったような顔をしてビジネス書で「クリティカルシンキング」という言葉を使うな、ということなのでしょう・・・。となぜか自虐的に終わる。

「アカデミック・キャピタリズムを超えて」〜基礎科学と応用科学という虚像

「アカデミック・キャピタリズムを超えて」を読了した。さすが、読売・吉野作造賞を受賞しただけのことはある、素晴らしく充実した内容の一冊だった。

本書に関しては、おそらくパトロネッジという観点から見た大学の動向を追ったという点で評価されていると思う。もちろんその部分に関する調査や考察は綿密で、いかに大学がカネと関わってきたのかがよくわかるし、俗世界にどっぷりつかっている大学(特に米国)の姿は新鮮だったり、いささかうんざりしたりもする。

しかし、個人的に興味を持ったのは、そうした大学とカネとの絡みの部分ではなく、「基礎科学と応用科学」という虚像についての指摘だ。


■「基礎科学」の誕生
本書によれば、「基礎科学」という概念が生まれたのは1920〜30年代、舞台はアメリカだったという。当時のアメリカは(今でもそうだが)、どんな研究でも何等かの金銭的利益や精神的利益に結びつかなければならない、という考え方が主流を占めていた。その結果、ヨーロッパでは盛んだったいわゆる「利益に直接結びつかない科学研究」をアメリカに根付かせるのは難しかった(要はカネがこうした科学研究には回ってこなかった)。

このような状況を逆転するために作り出されたのが「基礎科学」という概念だという。こうした概念を生み出すことにより、利益に直接結びつかなくても、次のような説明でその研究の正当性を訴えることができるようになったのである。

科学は純粋な基礎研究であり直接的に社会に役立つものではなくとも、やがては応用的技術へと波及し、企業にとっても一般大衆にとっても、おおいなる利益を生み出す(163ページ)

そして、「基礎研究の推進は、一国の経済政策や科学政策の根幹をなすものだ」という考え方にまで発展する。都合のよいことに、当時は軍事研究への貢献を示しやすい時期でもあった(マンハッタン計画など)。

こうした考え方は、一度生まれてしまえばあとは勝手に人々にすりこまれていく。うまいことに「基礎」「応用」とすみわけができたことで、「どちらか片方を優先」ではなく「どちらとも重要」であることを説明もできた。

今、私たちが暗黙のうちに分類している「基礎科学」「応用科学」は、決して科学的体系から生まれたのではなく、片方側のカネ獲得の方便として生まれたものなのだ。その点から見れば、「基礎研究」「応用研究」という区分けは、「文系」「理系」という区分けと同じように不毛で、思考を停止させるものなのかもしれない。