ウチそと研通信170 ー港のにぎわいー

最近では11月3日頃に催されることが吉例の八幡起業祭は、官営八幡製鐵所の創業を記念し20世紀初めより、もとは11月18日を中心に前後3日間、地区をあげて盛大に催されてきたという。まさにそのシーズンに、母娘とおぼしきキツネ襟巻の婦人、白い帽子の少女はこの森を訪れた。正門前で撮られたネガに写り込むそのシーンでふと眼を惑わされるのは、画面のストライクゾーンど真ん中、フォーカスの範囲からやや外れた奥に、巨大な白い客船があたかも寄港しているように見えること。森のドックに悠然と停泊しているそれは、現地に今もある“子供ホール”という1936年竣工のモダンで瀟洒な建物。園長室に眠っていたネガの中にこの建物はたびたび登場し、いずれの状況、どのアングルからのショットを見ても、そこには巨大な遊覧船のまぼろしが揺曳している――。

べつの1枚、この埠頭から出港しようとしているのは何処へ行く船か? リンドバーグが大西洋横断飛行に成功でもしたかというほどに押し寄せる人だかり、この大群衆は誰を待っている? 見送ろうとしている? デッキに吹き流しの竿が立てられ、だから5月、端午の節句だろう。子供ホールそのものの出港を祝う日の場面だとすれば、1936年撮影ということになる。

また、いまひとつの光景、子供ホールの2層あるデッキ、及びホール前の広場に大人も子供も、たいへんな数の人々がうごめいている。上階デッキ手すりに「紙芝居と舞踊」とアールデコ調の文字を大きく貼りだしていることから、これは1939年到津遊園で開催と伝えられる「紙芝居大会」ではないかしら。前景をいっぱいに蔽った広場の人混みへ分け入ると、驚くことに、視認できるだけで8組の紙芝居師がそこで一斉に発声、それぞれの物語を上演中――なんという波止場のジャムセッションぶりであることか!

さらに、夜になって撮られた1枚では、後景の暗がりの中、デッキの電飾の光でうっすらと浮かび上がる子供ホールは、さながら眠りにつこうとする豪華客船いとうづ丸であり、画面前方でおもいおもいにポーズし、フラッシュの光のもとハレ姿を披露する「石上獅子」の一座――豊後国(大分)阿蘇野、直入中臣神社に所属する神楽座の若者たち――との、微笑ましくもユニークな取り合わせを見せる。

子供ホールという遊覧船の着港ににぎわうこれらのモッブ・シーンは、“鉄都”八幡を中心とする1930年代北九州の都市の息吹き、心拍音をまざまざと感じさせる。とともに、この森が、さまざまなパフォーマンスの繰り出される、声と語りの交響する芸能空間だったことを教えてくれる。(「古いネガから」‐3)

ウチそと研通信169 −アシカ池ー

現在の到津の森公園にバス停側の南ゲートから入場してすぐ、起伏に富んだ地形の公園内でもっとも低地にあたるところに“姿見の池”がある。それと同じ地点だろうか。乾板の中に2枚、クロマツの疎林に囲まれたアシカ池の光景を見つけた。

ウェブサイト「福岡県の希少野生動物」(福岡県自然環境課)によれば、アシカは“以前、中国地方の日本海沿岸や北九州沿岸および離島に回遊し、生け捕りされたものはサーカスで曲芸をしていたという。しかし、最近数十年間生息情報はない”とのこと。到津の地に湊があったという遠い昔なら、潮にのって回遊し、野生アシカがこのあたりまでやって来ることがあったかもしれない。

2枚のアシカ池はたぶん違う季節に撮られている。日傘をさす女たちがちらほら見える1枚に較べ、休み台の上のアシカをフレーム右端に入れ、見物客たちを真ん中に写した1枚では、コート姿や襟巻が目にとまり、空気がより冷たく感じられるだろう。(「三井田川禁酒会」という文字の入った襷がけの青年も気になる。)とくに後者のショットにうかがえる撮影者のねらいは、この池のアシカのもつ芸能者的性格をくっきり浮かび上がらせることにあったのではないか。“曲芸”こそしなかったとしても、ここには舞台(アシカの乗る休み台)と観客のあいだの円形劇場的な構図があり、まなざしとパフォーマンスのやりとりが見事に掴まえられている。

この1枚の中につどう登場人物たちの中で、動きによる被写体ブレを大きく起こしている一人、画面真ん中より少し上のところに陣どった白の割烹着姿のおばさんは、アシカの相棒、芸能上の相方的存在ではないだろうか。 眼鏡をかけているらしい小柄だが堂々とした印象のおばさんは、柵の前の釈台のようにもみえる小机に並べたヒカリモノの魚だろうか、その何かしらを相棒にむけスローしている。 見物人たちの興味はどうやらアシカとおばさんの掛け合いに集まっている。おばさんはリズムをつけ、絵解き語りでもするように口上を発声しているのではないか?

この日は、11月後半と思われる。割烹着のおばさんの傍ら、向かって左隣に立つキツネの襟巻をつけた和装の奥さまと、E.スタイケン撮るところのリー・ミラーが被るみたいな白いハットの少女は、これとは別のネガに中にも同じ日の装いで佇んでいて、到津遊園正門前で撮られたそのショットに、「祝 八幡製鐵所起業祭」と大書した看板が掲げられていた。(「古いネガから」‐2)

ウチそと研通信168 ーいとうづの森へー

北九州市戸畑区、八幡西区、小倉北区にまたがるエリアに、金比羅山という標高125メートルの山を中心とした大きな自然公園「福岡県営中央公園」があり、「到津の森公園」はその一角に位置する。

現在は市営の同園、その前身は“到津遊園”。1932(昭和7)年、九州電気軌道株式会社(現・西鉄)により、北九州沿線市民の憩いの場、とくに子どもたちの教養とレクリエーションのためのセンターをめざしオープンし、ライオン、トラ、ヒョウなどを揃えた動物園が翌33年に設置され、到津遊園の目玉となった。以来、戦争期の休止をはさみ長く営業を続けてきた同園は、20世紀末になって経営不振のため、いったんその歴史に幕を下ろすのだが、閉園を惜しむ多くの人々の声が寄せられ、2002年に市の所管のもと再出発し、今日へ至っている。(興味そそるこの間のドラマは、中公新書『戦う動物園―旭山動物園到津の森公園の物語』小菅正夫、岩野俊郎著に詳しい。)

2015年秋、当地を初めて訪ねてみようと思い立ったのは、一群の古いガラス乾板ネガに写った“いとうづの森”を見たためである。新聞記者Tさんがやって来て見せてくれた50枚ほどのキャビネ判ネガ、それらは到津の森公園の園長室に残されていたもので、創設後まもない1930年代の園内で撮られたショットが大部分を占めるのは推測できたが、撮影者は不明。あちこちに損傷やカビの目だつ、危うい状態にあるネガだった。

ルーペでたどりすすむ細部につぎつぎ惹き寄せられ、目を瞠った。うごめく顔、顔、顔。熱気を帯びたまなざしの交叉。森の中で渦をなす群衆。とるものもとりあえず、この森へ行ってみなければ―。古いネガに写り込んだ光景にさそわれ、いとうづの森を歩きまわった報告を以下に。(「古いネガから」‐1)

ウチそと研通信167 ―飯田鉄写真展「RECORDARE」開催のお知らせ―

昨年の個展「街の記憶術」に続いて飯田鉄が写真展を10月2日から10月7日まで開催します。題して「RECORDARE」。今回は13年間にわたってデジタルカメラで撮影してきたカラー写真を展示します。デジタル画像のみの展示は2007年の「腐爛と成熟」以来になります。この際の展示は発売されて間もないライカM8デジタルカメラによる撮影写真でした。今回はそれに続くものともなります。「腐爛と成熟」では、デジタルカメラで撮影しているのに、フィルムで撮影した写真と画調が変わらないのは、意味が無いという批評をうけたことがありましたが、写真撮影に対する考えは、当時も今も、また写真を撮影し始めたときからも変わりません。デジタルカメラを多用するようになってから、大きくまた重く受け止めているのは、ひとつひとつの写真の現れ方よりも、時間を経た幾つもの画像を瞬時に呼び出すことが出来ることではないかということです。今回の展示もそうしたある意味の編集機能を利用して作られたものかと思っています。まずはご高覧のほどをお願いいたします。題名の「RECORDARE」とはラテン語で思い出しなさいというほどの意味合いになります。

飯田鉄写真展「RECORDARE」
展示期間 2018/10/2~2018/10/7
     12:00〜19:00まで
展示会場 ルーニィ247ファインアーツ
     中央区日本橋小伝馬町17−9さとうビル4F
     03−6661−2276 mosimosi@roonee.jp
     *10月7日(日曜日)14:30より日本写真年鑑編集長、河野和典さんとの
      トークショウを開催。参加費500円 要予約(03−6661−2276)

ウチそと研通信165 ―写真の内側・外側研究会 第二回展覧会『水平の瞳孔』―

本ブログ「ウチそと研通信」を始めて、そろそろ10年になろうとしていますが、このたび、われわれ研究会の二回目の展覧会『水平の瞳孔』を8月26日(日)より、ギャラリーニエプスにおいて開催することになりました。
なお初日は、16時より来場者が持ち寄ったリバーサルフィルムによる「幻燈会」(スライドショー)を開催します。
皆様のご来場をお待ちしております。


 タイトル: 『水平の瞳孔』

 出 展 者: 飯田鉄   「Pin Up」
       大日方欣一 「古いネガから―いとうづの森1938」
       大山裕   「層序学(stratigraphy)」
       森規容子  「陽炎」

 日  時:8月26日(日)〜9月1日(土) 12:30〜19:00(最終日は16:30まで)
 
 場  所:ギャラリーニエプス(四谷三丁目 消防署出口より徒歩5分)

ウチそと研通信164 ー「夏の驟雨」そして、「真夏の夜のジャズ」のマへリア・ジャクソンー

今年の夏は早い梅雨明けとともに、連日、過酷な暑さが続き、日本全国で多くの老人達が亡くなり、誰もが心身ともに疲弊している。8月も暑さが続きそうだ。こうした夏は私が記憶する限り初めてだ。同時に西日本の惨禍を聞くと、日本中が空襲をうけ、原子爆弾に焼かれた1945年の夏をふとシンクロさせてしまう。いつもの夏であれば、昼過ぎや夕方に雷雨や通り雨があり、道も樹も濡れて気温が下がる時もあったはずである。東京都区内では今年の夏はそれも少ない。
夏の驟雨といえば印象的ないくつかの小説や映画の重要なシーンを思い出すが、もうひとつ個人的には1950年代のニューポートジャズフェスティバルを記録した、「真夏の夜のジャズ」という映画と関わる一つのライブ録音盤がいつも頭のなかに浮かんでくる。これはCD化もされているのだろうがもちろんレコードである。このジャズフェスティバルには当時人気のあった人たちが多数出演しているが、私の聴いていたのはマへリア・ジャクソンというゴスペルシンガーのステージのライブ盤だ。ここでは1958年にアメリカのロードアイランド州ニューポートで開かれたジャズフェスティバルに、マへリアが出演した際の音源が収録されている。 、、、偉大なゴスペルシンガー、ミス・マへリア・ジャクソンの時間がやって参りました、、、と司会者に紹介されて、マへリアが「夕べの祈り」という曲を歌い始める。多分陽が暮れてからの出演なのだろう。ちなみに日本で「真夏の夜のジャズ」と題された映画だが、原題は「Jazz On A Summer’s Day」となっている。このLPレコードを聴いたのは1964年の東京オリンピックの前後だったと覚えている。家にあった粗末なレコードプレイヤーで何度も聴いている。ゴスペルソングとは何と人に迫る歌い方をされるものだろうと、彼女の歌唱を聴くと当時そう思った。このLPと夏の驟雨と何の関係があるのだろうか。実は野口久光さんのライナーノーツに彼女の演奏中、真夜中に雨が降り出し、しかしその場を聴衆は立ち去らず、急な雨の中彼女の歌に聴き入っていたというくだりがあり、印象深かったからだ。確かに録音の途中、「ジェリコの戦い」を歌い出す前にマへリアが聴衆に呼びかける箇所がある。 、、、皆さんは私をスターみたいな気持ちにさせてくれる、、、この雨の中で、、と言っていたように覚えている。レコードからは真夏の夜の雨音などは聴きとれなかったと思う。だがそのライナーノーツを読んだ後では、雨が降る夜の会場の様子がどうにも想像されてしまう。映画ではそんなシーンがあるのだろうか。
ここまで書いてきて、家にあるはずのそのLPは見つからず、解説を書いていたのが野口久光さんだったのか、実は自信がない。この映画の監督、撮影はこの時代に活躍中の写真家バート・スターンだ。しばらく前の電車の中吊り広告に、彼の撮影したニコンFを持つマリリン・モンローの写真が使われていて、またバート・スターンの「真夏の夜のジャズ」をふと思い出したのかも知れない。Webを検索するとそのLPは「NEWPORT 1958 MAHMLIA JACKSON」というタイトルのものにも思える。尤も邦盤はタイトルと曲目は異なる事が多い。伴奏するプレイヤーをチェックすると、ピアノがミルドレッド・ファリス、オルガンがリルトン・ミッシェルという人たちのようだ。二人のプレイは素晴らしかった。このアルバムの中に「歌のように生きよう」という好きな曲があって、これが何処か小節を効かせたような歌唱で、笑われてしまいそうだが、ええっ、美空ひばりの「リンゴ追分」と似ているなんて感じたりもした。飛行機が嫌いだったマへリアが来日公演を行ったのが1970年代半ば。眼の前に出演料が積まれるまでステージに上がらなかったというエピソードを聞いたことがあるが、真偽のほどはわからない。