うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

わたしのここ数ヶ月のこと。考えていること

早いものでもうすぐGWですね。

今年はいろいろあって関西へ行く計画が立てられず未定ですが、今年も行きたいと考えています。その前にやることがあるので、晩夏か秋かな。

 

わたしにとって今年は序盤からこれまで使わせてもらっていたスタジオが急に閉館になったり父親が他界したりして、複数の出来事が重なりました。

この数ヶ月、キャパオーバーしかけても投げやりにならないよう、気をつけながら過ごしてきました。

 

 

なにか変化が起こるときには視点も変わるもので、自分の中から湧き上がってくる未知の感情がありました。それを整理して少しずつ人に話してみたら、中年にもなれば各自がいろんなことを乗り越えているもので、お互いはじめて聞く話もあり、人間関係の深みと奥行きを感じる機会を得ました。

何かタイミングがないと話すことのないトピックって、あるものですね。

 

 

自分で考えた未来のための種蒔きもはじめました。

わたしは人生が100年なのだとしたら、人生の後半のために今から蒔いておくとよい種があると考えていて、それは、スマホ登場以降のコミュニケーションの変化に伴う帰属意識・関係性の空白にヨガの教えがどう役立つかを見つけていく作業です。

 

 

先日、ヨガクラスのはじめに雑談でこんな話をしました。

 

わたしは古い日本の映画をコロナの時期から観るようになって、

すると、そこでは

住んでるアパートみたいなとこのキッチンが共同だったり、

”お醤油貸して=共有” の世界だったりするのだけど、

アラエイ(around eighty)の母は子供の頃にその生活をしてきて、

今はスマホでピッとやる時代になっているんです。

 

 

母に「ものすごい変化だよね」と聞いてみると、

実際「ものすごいどころじゃないよ」と教えてくれます。

その世代の人にとっては、実際別の世界どころか、別の星くらいに感じてもおかしくないですよね。

 

この話の途中からみなさん首を縦に振りはじめて、

「わたしすでに少し、別の星にいる感じがあります」と言う人もいて。

 

変化に合わせること自体は、まあ所作として、できるにはできるんです。脳は機能しているのでね。

一方で、意識的に選び取ったり自分の経験からの学びを組み合わせていく意思決定が、ライフサイクルの中に上手に組み込めていないと感じることもあって。

若い頃はそれでも勢いで進んでいけるけれど、これからは別の知恵が必要になるだろうと思っています。

 

 

いまやブログを書く人は少ない時代になったけれど、ブログはSNSと違って無限スクロールで煽ってこない良心的なメディアです。他人の可処分時間を力づくで奪いにいかないところが気に入っています。

この媒体をきっかけに、濁流型ではない意識の持ち主のみなさんと、これからも少しずつ繋がっていけたらうれしいです。

 

 

それにしても、春ですね。

 

美しい砧公園の桜です。父親と数え切れないくらい散歩に来た場所です。

30歳を過ぎて大人になってから同居して話をし、この広い敷地を歩きながらいろんなつぶやき・思い出話・主張を聞きました。

その人はわたしが生まれる前から渇愛を抱えていたようでした。

たまたま親子という縁で生まれてきた人と、のっぴきならない交流がありました。

(両親はわたしが20代・弟が10代の頃に離婚しており、以後はそれぞれが別々に交流してきました。シンプルな家庭環境て、案外少ないものです)

 

 

 

今年は桜が遅かったので、チューリップも同じ日に見ることができました。

ツツジもぽつぽつ咲きはじめていて、春の協奏プログラムがいっきにはじまった感じ。

 

 

 

そして我が家では、なんと同じ球根で3年目のヒヤシンスがひとつ咲きました。1月28日に植えて3月28日に咲いて、4月10日頃から茶色くなり始めました。

めちゃくちゃ香っててびっくり。経年しても変わらぬ香りの力は、なんか Goddess! 

(該当する日本語がない)

 

 

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このブログはしばらくお休みします。

また戻ってまいります。これからもどうぞよろしくお願いします。