『白鯨』をめぐって

 年頭にメルヴィルの『白鯨』を読んださい、ふと気になったことがあり、映画の生き字引のような年長の友人に尋ねてみた。
 ジョン・ヒューストン監督、グレゴリー・ペック主演の『白鯨』の日本公開は1956年。その時点で、原作は阿部知二訳、田中西二郎訳、ともに書店に並んでいた。では、本は映画公開にからめて宣伝されたのだろうか。
 が、『白鯨』を封切時に劇場で見た彼からは、「それはなかったなあ」という答えが返ってきた。そのような宣伝の仕方は、まだされる時代ではなかった、ということか。
 ヒューストンの『白鯨』といえば、脚本の共作者がレイ・ブラッドベリであることしか知らない。DVD(20世紀フォックス)で見てみることにした。
 驚いたのは、あの鯨事典のような原作から、筋立てだけをうまく取り出していること。だから、いくぶんあっさりめにも見えるけれど、雄大な海洋冒険映画に仕上がっている。あの時代の捕鯨船や、捕鯨のしかたが映像で見られるのには、わくわくした。たしかに、今の目からだと、特撮などはつたなく見えるかもしれない。でも、それを些細なことにしか感じさせない力強さが、この映画には湛えられている。
 映画館のスクリーンでこれを見た、かの老友が、うらやましくてたまらなくなった。

 その『白鯨』の脚本を書いた頃の自分を、ブラッドベリが小説に書いている、というので、読みたくなった。
『緑の影、白い鯨』という長篇小説だ。すぐに見つけて読んでみたが、これもまた、素晴らしい小説だった。ハリウッドの赤狩りを逃れたヒューストンの招きで赴いたアイルランドは、SF作家の彼にとってさえ不思議な土地だった、ということが、物語のあちこちから伝わってくる。
「集会」などの短篇が、のちに長篇『塵よりよみがえり』の一部になったように、この長篇の中にはアイルランドを舞台にした短篇の数々が吸収されている。だからなのか、ときどき小説そのものの流れが見えなくなるところもある。が、読み終えたとき、心の奥に深く響くものがある。異世界アイルランド。異人ブラッドベリ。鯨の映画がなければ出会わなかった、不思議の国と不思議な旅人の物語は、とても優しく、あたたかい。
 翻訳は、ブラッドベリにも映画にも造詣の深い川本三郎氏。少々気になるのは、カタカナ言葉に漢字のルビがついていたり、訳注が必要以上についていたりすることで、その箇所だけ読みづらくなってしまうのが残念だ。もっとも、これは訳者よりは編集者の問題なのかもしれない。

『緑の影、白い鯨』レイ・ブラッドベリ 川本三郎訳 筑摩書房 2007
GREEN SHADOWS, WHITE WHALE by Ray Bradbury, 1992
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480831866/

 さて。ほぼ三年間続けてきたこのブログですが、このあたりでお休みさせていただきます。
 三年ものあいだ、お付き合いいただき、ありがとうございました。
 いずれまた、何か書きたくなるかと思いますが、ひとまずはこのあたりで。
 感謝を込め、皆様との再会を約しつつ、倉庫のシャッターを下ろさせていただきます。(Uncle Mojo)     

俳人とUボート

 先月、書評サイト「Book Japan」に、西東三鬼の『神戸・続神戸・俳愚伝』(講談社文芸文庫)が取り上げられていた。評者は北條一浩さん。

http://bookjapan.jp/search/review/201101/houjo/20110119.html

 ぼくは俳句のことはよく知らないが、西東三鬼の句には若い頃、はまったことがある。名前の字面に惹かれたのだが、俳句もその名に劣らぬ、独特のものだ。

水枕ガバリと寒い海がある
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
日本の笑顔海にびつしり低空飛行

 ちょっと思い出しただけでも、なんともいえない不思議な味わいの句が並べられる。余談だが、三番目の句にインスパイアされたというヒカシューの曲「日本の笑顔」も好きだ。
 三鬼の生涯は、その俳句以上に特異なものだったことが、この文庫の巻末に収録された年譜からも読むことができるが、その生涯のひととき、戦時中から終戦後にかけての神戸での生活を描いたのが、ここに収録された小説「神戸」と「続神戸」だ。やはりこれらも、特異な小説という印象がある。
「神戸」の舞台は、古ぼけた安ホテル。いや、建物はホテルでも実質は下宿屋のようなものだが、そこで生活している在日外国人たちや、バーの女たちの日常を、東京に嫌気がさして逃げてきた三鬼は描く。俳人だからか、文章には無駄がなく、描きだすイメージは鮮やかだ。登場人物の一人ひとり、誰もが悲しみを背負っているし、戦争も影を落とすから、やりきれない話になりそうなのに、逆にどこかしら明るく、あたたかく、どの物語を読んでも自然に共感の笑みが浮かんでくる。ホテルが戦災で焼失してしまい、だだっ広い借家に移り住んだ三鬼の、進駐軍を相手に右往左往する日々を描いた「続神戸」にも、同様のおかしみと悲しさがともにある。
「俳愚伝」は、題名どおり俳人としての三鬼の小自伝といった趣の一篇だが、戦前の俳句界も俯瞰できる。興味深いのは、特高警察による言論弾圧「京大俳句事件」の一部始終が、当事者の視点から語られていることで、一人の警察官の功名心が事件を捏造し、根拠もなく関係者を追い詰めていくさまには、不条理な恐ろしさを覚えずにはいられない。

 さて。「神戸」にしばしば、「ドイツ潜水艦の水兵」が登場する。潜水艦とはUボートのことだろうな、と思ううち、つい手に取ってみたのがチャールズ・マケインの小説『猛き海狼』。原題を直訳すると「誇り高きドイツ人」だが、まさに原題どおり、若き独海軍士官の誇りと戦いを描いた逸品だった。
 主人公の海軍士官マックスは、前半では「ポケット戦艦」グラーフ・シュペー号の乗組員として英艦と海戦を交わし、後半ではUボートの艦長としてフロリダ沖へ攻撃に向かう。だが、もちろんそれだけの物語ではない。負傷と挫折、荒れ果てた祖国とナチの台頭、婚約者との身分や家柄の格差、困難な任務と致命的な誤謬といった、戦場でもその外でも待ち受ける戦いの中で、成長してゆく青年の姿を描いたビルドゥングス・ロマンでもある。著者が史実を丁寧に追っているためか、いくぶん地味な印象はあるが、ヒギンズの『鷲は舞いおりた』やフォレットの『針の眼』のような、第二次大戦をドイツ側から描いた冒険小説に、またひとつ傑作が加わった。翻訳もすばらしく、たとえば上巻の海戦場面は、繊細な言葉が勇壮な情景を鮮やかに浮かび上がらせている。
 なお、三鬼が神戸で見聞したドイツ水兵の行状だが、本作にも同様の記述があった。撃沈した敵船から食糧や生活必需品を調達することで、三鬼は海賊のように思ったか、快くはなさそうな書き方をしているが、物資の調達が困難な海の上、やむを得ないことだったのではないだろうか。

『神戸・続神戸・俳愚伝』西東三鬼 講談社文芸文庫 2000(初刊1975)
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1982125
『猛き海狼』上下 チャールズ・マケイン 高見浩訳 新潮文庫 2010(AN HONOURABLE GERMAN by Charles McCain, 2009)
http://www.shinchosha.co.jp/book/217781/
http://www.shinchosha.co.jp/book/217782/

ラピエール&コリンズ『さもなくば喪服を』

『さもなくば喪服を』。いちど目にしたら、なかなか忘れられないタイトルだ。これは初戦を控えた闘牛士が、自分の身を案じる姉に言った言葉だということが、最初のページでわかる。
「泣かないでおくれ、アンへリータ、今夜は家を買ってあげるよ。さもなくば喪服をね」
 この言葉だけでも、闘牛士というのが富と名声を得られる職業であり、その富と名声は死と隣り合わせである、ということが伝わってくる。こう言ったのは、本書の主人公マヌエル・ベニテス。「エル・コルドベス」として知られる、1960年代のスペインの英雄である。
 九章立ての本書では、章ごとに二つのことがらが語られていく。奇数章では、1964年5月20日マドリードで行われた、エル・コルドベスの闘牛の顛末。闘牛士の一挙手一投足。猛牛の角の一閃、濡れた砂を蹴上げる蹄。映像を見るかのような動きが、闘牛場に詰めかけた観衆の、場内に入れずTVにかじりつく人々の熱狂とともに、文章から鮮やかに伝わってくる。その克明さには驚くほかない。たとえば、第一章では闘牛はまだ始まらない。驟雨のなかエル・コルドベス本人が闘牛の開始を宣言するまでに、六十ページあまりを費やしている。続く第三章では、猛牛インプルシボが入場してから闘牛士と対峙するまでに、十ページを要している。それでいて、読んでいてまったく長く感じられない。まるで映画を見ているように、綿密で鮮やかなのだ。
 偶数章では、貧しい少年マヌエルが闘牛士になる夢を叶えるまでを、彼に近しい人々の言葉をまじえながら語っているのだが、サクセス・ストーリーに留まってはいない。まずは彼が誕生する前、スペインが君主制から市民戦争を経て共和制に移っていくさまを、参戦した彼の父のエピソードとともにつづっていく。だが、新政権は旧悪を保ったまま腐敗。自由を期待した人々は、さらに悪化する貧窮のなか、教会が押しつける旧弊なモラルに加え、警察権力からも自由を奪われていく。禁書はじめ「これは中世の話か?」と驚くようなことが、二十世紀のスペインでは行われていたことも書かれている。そんな不自由な環境でも、マヌエルが夢を捨てることはない。彼がひたすら闘牛士への道をめざすさまが描かれているから、逆境も悲惨には見えないのだ。遍歴と冒険の騎士道物語を読むような思いになってくる。
「スペインを知ることは闘牛を知ることだ」という言葉が、本書のどこかに出てくる。フランス人のラピエールと、アメリカ人のコリンズは、取材にあたりエル・コルドベスと長期にわたり行動をともにしたというが、彼らが知ったスペインを、日本人のぼくもまた、いながらにして知ることができる。ひとりの闘牛士の物語としても、闘牛を通して書かれたスペイン現代史の本としても、本書はすばらしく面白い。
 本書はかくも見事なノンフィクションなのだが、現在は入手しづらいのが残念だ。だが、ノンフィクションの名著は全般に同様の現状で、フィクションの名作にくらべると、恵まれているとは思えない。

『さもなくば喪服を』ドミニク・ラピエールラリー・コリンズ 志摩隆訳 ハヤカワ文庫NF 1981
...OU TU PORTERAS MON DEUIL (OR I'LL DRESS IN MOURNING) by Dominique Lapierre and Larry Collins, 1967

山田風太郎『警視庁草紙』

 明治六年、東京を去る西郷隆盛を、川路利良大警視が部下を連れ見送る、という場面から、この物語は始まる。が、本筋は歴史の表舞台に立つ側にはない。大警視の後ろに控えた部下の一人、六尺棒を担いだ髭づらの油戸杖五郎巡査が、さまざまな怪事件を追うほうにある。
 明治も初頭、もちろん江戸の記憶が薄れるはずもなく、新政府に反感を覚える人も多い。その中には、かつての犯罪捜査のプロもいる。元同心の千羽兵四郎、元岡っ引きの冷酒かん八もやはり事件とは縁が切れず、いきおい杖五郎はじめ警察と額を突きあわせることとなり、知恵比べの様相を見せてくる。初代警視総監の川路と、兵四郎らを使いその鼻をあかそうと企む元南町奉行の駒井相模守。新旧の対決は、それぞれの心意気やことわりも垣間見せて、変化に富む物語をさらに深く、厚くしている。
 三遊亭円朝を巻き込んだ密室殺人(?)にはじまり、謎解きありケイパーあり、とミステリ風味を楽しむうちに、いつしかミステリっぽさがなくなっていても、面白さは加速していく。
 作者の目は時代のうねりを捉え、江戸から東京へと激変していく風景を見る。その中を行き交うは、大久保利通黒田清隆井上馨岩倉具視、のちに夏目漱石樋口一葉幸田露伴となる子供たちや、三河町の半七らも顔を出す。作者は物語の中で弱い者たちに優しく語りかけ、奸佞な輩には辛辣な言葉を向ける。
 筋立ても書きぶりも大胆豪快でいながら、人物事物の描き方、細部の計算は繊細にして緻密。新旧対決のゲームが迎える思いもよらぬ結末も、歴史の流れと登場人物たちの情理をふまえて、心を強く、重く打つ。読み終えてしばらく、声が出なかった。
 面白い本は尽きない。読んでいて居住まいを正すような本(もちろん堅苦しいのではない)にも、しばしば出あう。でも、居住まいを正すほど面白い本、とくると、そうそうはないだろう。が、書いたもののどれを読んでもそんな思いにさせてくれる作家は、多くはないがたしかに存在していて、ぼくにとって山田風太郎は、その筆頭に挙げられる人だ。この『警視庁草紙』も、かくのごとく読むうちに背すじが伸びてくるほどに、面白さが横溢している。嬉しくも、昨夏にちくま文庫は《山田風太郎明治小説全集》全十四巻を復刊。本作にはじまる明治物を楽しむ好機だろう。ぼくも全巻まとめ買いしたので、これからどっぷりはまることにします。

山田風太郎『警視庁草紙』上下(山田風太郎明治小説全集1、2)ちくま文庫2010復刊(初版1997、初刊1975) カバー装画・デザイン:南信坊
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480033413/
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480033420/

『白鯨』航海日誌(3)

 第二十二章「メリィ・クリスマス」まで読んだところで、前の航海日誌の筆を置いた。が、結局、そのあとも休まず読み続け、とうとう読み終えてしまった。けっして読みやすいとはいえない、いわば破格の小説なのに、文庫の千頁は、いっこうに長い気がしなかった。
 ぼく自身、昔から冒険小説はもちろん、動物も海も好きだから、まさに自分のための小説だ、と若い頃に飛びついていてもよさそうなものなのに、なぜ四十路も半ばに至るまでこれを読まなかったのか、と、読み終えて首をひねっている。
 もっとも、この『白鯨』、誰にでもお薦めできるような小説ではない。ユーモラスな語り口の冒険小説と思って読んでいられたのは、実は先週に書いたあたりまで。船出のあと、物語は破調に破調を重ねて、なんとも不思議な航海が続くからだ。
 一等航海士スターバック以下、荒々しくも勇敢な乗組員たちが顔を揃える。白人ばかりでない。クィークェグのほかにも、タヒチ人やアフリカ人やアメリカ先住民の船員もいる。膚の色に関わりなく、みな「船乗り」で「鯨捕り」だ。謎めいたエイハブ船長も、意外にあっさりと姿を現す。このあたりだけでも、いくらでも劇的に書けそうなのに、早くも脱線がはじまる。白鯨モービィ・ディックと、それを仇と狙う隻脚のエイハブ船長の対決だけを語っても、血沸き肉躍る物語になるだろうに、語り手の心は物語からは遠ざかっていくようだ。
 それを象徴しているのが、第三十二章「鯨学」。まさに章題どおりで、まるで動物学の本の序論のようだ。さらに語り手は捕鯨への偏見に抗議し(第二十四、二十五章)、「白」が象徴するものとその歴史を考察していく(第四十二章)。図像学に触れて古い「海の怪物」のイメージを笑いとばし(第五十五章〜第五十七章)、解剖学をもって抹香鯨とせみ鯨を比較していく(第七十四章)。乗組員たちの作業を通しても、鯨油の採取法から鯨料理にいたるまでを語るという、本筋を忘れてしまうほどの博引傍証ぶりだ。
 これは小説の形をしてはいるが、実は鯨の百科全書なのだ。広大な海と、そこに棲む巨大な海獣を、本の中に封じ込めてしまわんばかりに、メルヴィルは章を重ねているのだ。そう気づくと、鯨への、さらには海への畏怖が、いたるところに描かれているのが、わかってきた。鯨の生態を語る言葉の端々からは、驚きと敬意が読み取れる。この小説が書かれた当時、鯨の知性についての理解がどの程度だったかは知らないが、少なくともメルヴィルは、気づいていたのだろう。また、第五十一章に描かれる夜の光景や、第五十九章の巨大な烏賊の描写からは、海への「畏れ」が伝わってくる。のちにW・H・ホジスンやH・P・ラヴクラフトが書いた、海の恐怖小説のように。
 筋立てではない、この博覧強記ぶりを楽しもう。そう思えば、脱線も脱線ではない。だが、鯨の化石から遠い過去に思いを馳せ、この種族の未来を案じたあと(百四、百五章)は、物語の流れは冒険小説へと戻っていく。エイハブとモビィ・ディックの追跡と対決が、三十章に亘って描かれるのだ。
 読み終えたときには、とんでもなく巨大なものに触れたような、長くはないが波瀾に富んだ旅を終えたような思いがした。
 この小説、まずは素のまま読みたかったので、「訳者ノート」はもちろん、予備知識になりそうなものには、いっさい目を向けずにいた。だから、これまでの読者の深い「読み」がどんなものか知らない。だが、思いついたことがあるので、ちょっと書いておこう。
 イシュメールという語り手、風来坊を自称する船乗りなのに、やたら博識で、なんとも妙なキャラクターだ。彼のことを考えていて、ふと思い出したのがジュール・ヴェルヌの『海底二万里』(1870)。アロナックス博士は、自分の乗った船が難破したさいにバイロンを思い出すほどの、常軌を逸した文学好き。彼の助手コンセイユは、海洋生物の生き字引ながら、知識のほとんどは文献から得たもので、実際に生体に触れたことはほとんどない。銛打ちネッド・ランドは、船乗りの経験を重ねて、海とそこに生きる生物の知識を得ている。もしかして、彼らはイシュメールを三人に分けたのではないか。すると、白鯨への妄執ゆえに孤独にならざるを得なかったエイハブ船長に、やはり孤独なネモ船長の姿が重なってくる。
 船長といえば、ジャック・ロンドン『海の狼』(1904)に登場するアザラシ猟船の船長「狼ラーセン」は、エイハブの孤独と妄執をさらに拡大させたような人物ではないだろうか。
 ヴェルヌもロンドンも『白鯨』を読んだのかもしれない、と思いをめぐらすうちに、物語のはじまりである「ナンタケット」という地名が、ふと気になった。そこで、この港町といえば、とばかりにE・A・ポオの「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」(1837)を何気なく開いたら、その書き出しが……。この時代のお約束だったのかもしれないが、メルヴィルもポオを読んでいたかもしれない、と思うと、楽しくなってくる。『海底二万里』や『海の狼』を読んだのはわりと最近だから、これからポオを、そのあとでヴェルヌの『氷のスフィンクス』も読んでみようか。もちろん、『白鯨』がどう読まれていたか、これまでに書かれた解説や評論も、気になってはいるのだが。

『白鯨』上下 ハーマン・メルヴィル 田中西二郎訳 新潮文庫2006改版(1952初版)
MOBY-DICK by Herman Melville, 1851
http://www.shinchosha.co.jp/book/203201/
http://www.shinchosha.co.jp/book/203202/

映画『アンストッパブル』

 近頃は洋画も邦画も、二時間を超える大作が普通になってしまっているようだ。そんな中で、この映画の上映時間は一時間四十分ほど。やはり映画は、これくらいの長さがいいように思う。
 この『アンストッパブル』、ストーリーはいたって単純だ。小さなミスの積み重ねで、無人のまま暴走をはじめた貨物列車。積荷には大量の毒性ある燃料。市街地で脱線したら、大惨事になることは間違いない。偶然、同じ線路を運行していた列車の、ベテラン機関士(デンゼル・ワシントン)とルーキーの車掌(クリス・バイン)が、貨物列車を停めるため追跡する。
 列車暴走の危機。回避のため連携し力を尽くす鉄道会社の面々。筋立てに目新しいところは、さしてない。だが、鉄やグリースの匂いがしてきそうな画面から湧き出すサスペンスに、とにかく圧倒される。
原因のミスは、実際に充分ありそうな、小さなことの連続で、テロや犯罪ではないし、鉄道会社のお偉いさんは、仇役だが悪人ではない。貨車だから人命救助はなく、事故回避だけを正面切って描いている。
 主人公の二人についてさえ、多くは語られない。だが、映画の進行とともに、彼らのことが、だんだん見えてくる。なぜ、彼らがこのような危機にみずから立ち向かうのか、状況も心情も、映像と少ない台詞で伝えきってしまう。もちろんそれは主人公たちだけではない。彼らの家族や同僚たちなど、他の登場人物も同様だ。映画の中に、一人ひとりがくっきりとした存在を見せている。監督はもちろんだが、脚本も良いのだろう。
 強烈なサスペンスが爽快なエンディングを迎えたあとも、急いで席を立たないように。心の隅が暖かくなるエピローグを見逃したら、あなたは後悔することでしょう。

アンストッパブル』 UNSTOPPABLE トニー・スコット監督(2010 アメリカ映画)

『白鯨』航海日誌(2)

『白鯨』に難解なイメージがあるのは、おそらくは巻頭の「語源」と「文献抄」の印象が強いからに違いない。だが、これらが鯨の「世界」や「歴史」を示すもの、と気づくと、この航海、さほど厳しいものではない、という気がしてきた。
 そして本編、第一章に入るや、語り手がこのように名乗りを挙げる。
「まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ」
 難解という言葉とは縁遠い口調だ。原文は「Call me Ishmael」で、阿部知二訳だと「私の名はイシュメイルとしておこう」となり、比べると田中訳は演出が強いような気がしないでもない。が、読み進めるとすぐに、この歯切れのよさや勢いが、なんともしっくりしてくる。
 この自分のことは語らない、何者ともつかぬ、まさに「風来坊」の語りは、威勢も歯切れもよいうえに、やけに饒舌で、おまけに博識でもある。そこから、なんともいえない可笑しみが湧いてくる。そう、この語りは諧謔的なのだ。さらに、笑いを誘う彼の言葉には、妙に冷静な裏打ちがあって、「拳骨は世の中をごつんごつんと回りあるく」なんていう軽口さえ、箴言のように思えてくる。イシュメールというやつ、ちょっとした哲学者なのかもしれない。
 だが、だからといって、彼は洒落た言葉をひけらかすばかりの、生意気な若僧ではない。海に憧れるだけでなく、海への畏れも知っている。この章の章題「海妖(あやかし)」、阿部訳では「影見ゆ」だが、どちらも彼のその畏れを映しているようだ。ちなみに原文は「Looming」、直訳すれば蜃気楼となるところ。

 軽い荷物で旅に出たイシュメールだが、ニューイングランド捕鯨の町、ニュー・ベドフォードの旅宿「汐吹亭」に宿を取るや、一人旅は珍道中となる。旅の友は、片時も銛を手から離さぬ異形の威丈夫、南太平洋のある島から来たクィークェグ。この二人の出会いの場面が実に可笑しいのだが、キリスト教徒にはない視線でものを見、考える彼もまた、海の哲学者の一人である。
 このクィークェグをはじめ、第三章から、面白い登場人物が次々に現れる。「汐吹亭」の主人コフィン。元船乗りで、礼拝堂を船に見立ててヨナの物語を説教するマップル牧師。イシュメールとクィークェグがナンタケットで泊まる「鍋屋」の豪快なお上さん(第十五章で語られる、彼女のチャウダーがやたらに旨そうだ)。第十六章で、イシュメールが捕鯨船ピークォド号に乗船を決める段では、船の事務方であるピーレグとビルダド、二人の老船長のやりとりが楽しく、ビルダド船長の妹で備品調達係、「慈愛小母さん」の甲斐甲斐しさも微笑ましい。かれら登場人物の一人ひとりのキャラクターにふれるたび、なんだかコミックを読んでいるような気さえしてくる。それほどにわかりやすく、楽しげに描かれているのだ……まだ現れないエイハブ船長を別にすると。彼については、謎めいた老水夫イライジャの、不安を誘う告げ口があるばかりだ。
 だが、船長が姿を現さないまま、船は出る。第二十二章「メリィ・クリスマス」で、水先案内の夜直ビルダド船長の、希望にあふれた乱れぬ唄声とともに。

 もはや、当初に抱いていた難解さの先入観は消えた。ここまでの『白鯨』は、実に面白い海洋冒険小説だ。笑いあり、謎あり、大冒険への予感あり。だが、船出のあとから物語は奇妙になり、そして、さらに面白くなっていく。
 なお、古書店岩波文庫の旧版、阿部知二訳を入手したので、今回から田中訳を読みながら、ペンギン・ブックスの原書とともに、ときどき参照している。同時期の翻訳ながら、対照的なのが実に面白い。阿部訳は翻訳のお手本のような、きっちりした文章。田中訳は端整な言葉遣いのなかに、ときどき講談を思わせるくだけた語調がある。阿部訳はオーケストラ、田中訳はビッグバンド、といえば、わかりやすいかもしれない。

『白鯨』上 ハーマン・メルヴィル 田中西二郎訳 新潮文庫2006改版(1952初版)
MOBY-DICK by Herman Melville, 1851
http://www.shinchosha.co.jp/book/203201/