浅草には昔からなめし皮職人やトサツ業者が多くいた。
そして私の義姉の家は、浅草で昔からトサツ関係の仕事で生計を立てている。
このことの意味は分かる人には自明なことである。


結婚式の前後には、ご親切にもそのことをわざわざご注進に来る奴がいた。
笑える話である。
50年以上にわたる差別撲滅運動は無意味な言葉狩りをしていただけだ。


言葉が存在しなければ、問題は封印されるだけである。
残ったのは上の話題の意味を理解できない若者と、いまだに心の中で意識を何一つ変えない老人だけだ。
問題を隠蔽しただけの運動が失敗であることは明白だ。

命を数字として扱うことについて

先日、ネットの掲示板を見ていて、命を数字としてしかみない医療行政に苦言を呈する発言を見かけた。
具体的に病院などで不愉快な経験をしての発言なのかもしれないが、私はやはり行政は命を数字として扱うべきだと思うのである。


もちろん私にとって命は数字ではない。
私は喜びも悲しみもある彼らの人生を知っており、その夢を知り、その努力を知っている。
彼らが抱える仕事や子供について知っており、仲間や家族にとって彼が代えがたい大事な存在であることも知っている。
だから彼らの命は重い。
とても重い。


それに比べて、会ったことも見たこともない連中の命なんてあって無きがごとしだ。
連中の命なんぞ羽毛より軽い。


私にとって命はただの数字ではない。
仲間や知人の命は大事であり、知らない他人の命はそれに比べればどうでもいい。
命には大小関係がある。


ここまで極端でなくても、自分の家族や恋人、友人、思い入れのある人間の命のほうが見ず知らずの他人より大事なのは一般的な話であるだろう。


命を数字としてみないということは、つまり命の価値に優先順位をつけるということである。


だが行政はそれでは困るのである。
彼らには、全ての人に人生があり、夢があるかもしれず、守るべきものがあるかもしれないことを承知しておいてもらわないといけない。
彼らは全ての人生に等しく価値があることを知るがゆえに、全ての命を平等に扱う者でなくてはいけない。
それは、つまり命を数字として扱うということである。


命に全て同じ価値があるならば、10個と9個の命のどちらかを選ばないといけないときに、行政は10個の命を選択しないといけない。
もし9個の中に自分の家族や恋人がいたならば、その人にとって「より重い」のは9個の命の方だ。
だか行政はそんな理由で救われる人と救われない人を分けてはいけない。
命を数字として扱うということは、エコヒイキや不公正をなくすということでもある。


そしてより多くの数字を確保するためには、助かる見込みのない命を捨てて助かる命を助け、
サラリーマンを助ける前に、医者やライフラインを守る役人を先に助ける。
そういう事態も起きうる。
それにより結果的には、より多くの数字が残ることができるからだ。


命の価値に優先順位をつけないがゆえに、救われるべき命に優先順位をつけるのである。


それでは私たちは救われない人々のことは忘れるべきなのだろうか?
彼らの命をあきらめるべきなのだろうか?


そんなことはない。
今回の話は行政には行政の役割があり、私たちには私たちの役割があるという話である。


ある文学者はこう言った。
100匹の羊の群れがいて、そのうちの1匹がはぐれたとき
政治の仕事は99匹の群れを守ることであり、はぐれた1匹のことを気にすることでない。
はぐれた1匹を追いかけるのは文学者の仕事である、と。


今回の話もそれと同じである。
行政がより多くの数字を救うのが仕事ならば、私たちが小さな数字とみなされた命たちを追いかければいいのである。


もし行政までも私たちと一緒になって1匹の羊を追い始めたら、残り99匹の羊まではぐれてしまう。


私の仲間はお世辞にも一般的に高い優先順位をもらえる命たちではない。
むしろ優先的に死すべき連中だ。
だからこそ私は、準備を怠らないようにしている。
そして行政が公平であることを信頼すればこそ、私は心置きなく「不公平」に救いたい命だけへ集中することができるのである。

スイス人に新撰組について説明した

姉の知り合いの日本語のできるスイス人に


新撰組とはどういう団体ですか?」


と聞かれたので、以下のように答えた。


「私も詳しくは知らないので、間違っているかもしれません。


新撰組は江戸時代末期に活躍した刀を持った農民たちの集団です。貴族階級のサムライではありませんでした。


彼らはバクフ、つまり当時の政府に雇われて、反政府勢力を取り締まりました。テロ行為をもくろんでいた集団を事前に襲撃したイケダヤ時件というのが有名です。


ですが最期に反政府勢力が勝ちメイジ政府ができて、バクフ政府側の彼らは消えました。


もっとも彼らは反政府勢力に倒される前に、仲間同士で殺しあう内部ゲバルトを繰り返し行い自滅に近い形で衰退しました。


連合赤軍はご存知ですよね?ソウカツというリンチを繰り返して仲間同士殺しあった集団です。理念を重視して、それからわずかでも外れたとみなすと些細な理由で仲間を粛正した人たちです。


新撰組もキョクチューゴハットという名目で仲間同士際限なく殺しあいました」


「しかし新撰組は日本でとても人気があります。一方で連合赤軍は日本でとても人気がありません。何故でしょうか?」


新撰組は刀を振り回してクールだからです。それに多くのドラマ、マンガ、アニメや小説、芝居にもクールな役で出てきます。日本人はクールなサムライにあこがれます。


スポーツで日本選手が活躍するとサムライと呼ばれます。自分たちの先祖は農民なのに、サムライの後継者であることを誇る人もいます。


とにかくサムライは人気があります。だから新撰組も好かれています」


「よく分かりました。ありがとうございました。ところであなたも新撰組は好きですか?」


「嫌いです。だから私の説明はフェアでないかもしれません」

陰謀論は善人と親和性が高い

昨日、私は殺人の是非を問い続けることの意義を書いた。
その際、はあちゅう主義というブログを引き合いに出して「殺人を自分とは無縁なものとして、人を殺してはいけない理由を考えることさえ許さないとする姿勢」を批判した。


調べたところ、この方はネットでカリスマ的人気を誇っているようだ。
先の引用した記事は既に各所で批判されており、私ごときが言葉を重ねる必要もないものであった。


だが意見の相違があるからといって、その人の発言の全てを否定しないように私は心掛けている。
人気があるのならば、学ぶべきことも書いてあるのだろうと思いいくつかの記事を読んでみた。

私はもっぱら聞いてたんだけど、もう出てくる話がすごかった!日ユ同祖論とか、知らなかったし!!おもしろかったけど、今日もまたいろんな秘密のお話を聞いちゃって、「上に行けば行くほど、秘密が多いなー」って。すごいね、

なんか。日本って一体どうなってんだろうね。どうせ核心部分は一部の人しか知らないんだよね、きっと・・・。


信じられないような本当の話。ブログにはとても書けないや・・・


もし私が作家だったら、その日得た知識だけで3冊くらい本かけそう。それにしても怖い・・・。
勉強になった1日だった。

http://blog.livedoor.jp/springflavor122/archives/50215509.html


……えーと、あなたは宇野正美ですか?

まず、911は全て仕組まれていたのではないかとする説があるのは
ご存知のとおり。

全てを仕組んでいたのが、ユダヤ人ではないかというのが


一般説。


でもユダヤによる洗脳や歴史のコントロールは昔からあって、


それに気づいたヒットラーユダヤ人を虐殺したらしい。

一連の話の中で一番驚いたことを、書くね。


NYQ33が貿易センターの番地らしくって。


それを英数字用フォントのWingdingsに変換すると…。

そのあたりではもうシナリオが完成されていたのではという噂。

http://yaplog.jp/ha-chu0122/archive/124


ダメである。
やっぱり、彼女を全面否定させていただく。


いくつかの記事を読んで、彼女が社会性もあり、善良であり、美人でもあり、勉強もできることが分かった。
だが愚かなる陰謀論者でもあった。


「自分だけは世界の秘密を知っている」という快楽に酔い、稚拙で使い古された陰謀論を嬉々として語り、罪もない人を侮辱する姿は醜悪でさえある。
彼女は現在、メディアコミュニケーション研究所に在籍されているようだ。
喜劇的かつ悲劇的な悪い冗談である。
この研究所の教授は指導員の責務としてきちんと彼女を叱ってあげないといけない。
それともその教授も同じ穴のムジナなのだろうか。


とりあえずユダヤ陰謀論を唱える人はメディアの世界にいてはいけない。
そういう人は世界に害悪をなす存在でしかない。


平和運動家といい、人間力とか言い出す道徳主義者といい、彼らはどうしてこうも陰謀論を簡単に信じてしまうのだろうか。
彼ら善良な人間は、この世が良くならないことを嘆いている。
そして、その原因を誰か悪い奴らが何かしているからだと考えてしまうようだ。
その誰かはアメリカ帝国であったり、ユダヤ秘密組織であったりする。


誰か悪い奴が世界平和の邪魔をしているなら、そいつらを糾弾し排除してしまえばいいだけなので簡単だ。
そして彼らはアメリカやユダヤを非難することで、安易に「世界平和に貢献した」という達成感も優越感も得られる。
だがそれらの行為は現実の世界を無視しているだけであり、世界平和には1ミリも貢献しない。

私は「どうして殺人をしてはいけないか」という愚問をやめはしない

自殺したがる知人に対して私はいつも思う。
本当に死にたいのならば、殺して差し上げてもかまわない、と。
ただし、本当に死にたいのならば、という条件付きで。


実際には彼らは死にたいのではなく、生き難いだけなので、私も殺したりはしない。
彼らが生きやすくなるように手伝うか、何もできずに傍観するだけである。


どうして人を殺してはいけないか。
どうして自殺してはいけないか。
更にはどうして人を「殺さないといけないか」ということさえ私は考えている。


これらの問いは私には決して自明なことではない。
少なくとも私にとっては、殺してはいけない人間も、自殺してはいけない人間も存在しない。
人は殺すべき時に殺し、自殺するべき時に自殺するものだと信じている。
だから「その時」とはいったいどういう場合なのかを常に考えている。


犯罪に巻き込まれた際の正当防衛、徴兵された際の戦闘、国のお墨付きで殺人行為をする死刑制度、苦痛に耐えかねる人間の尊厳死、独裁政治で国を滅ぼしかけている人物の暗殺、、、
そのような事例を考えれば、殺人も自殺も場合によりけりだということは、常識だとさえ思える。


しかしこのような疑問を持つこと自体が不道徳で、非常識で、心の貧しい行為だと怒る人がいる。
たとえば今適当に検索をかけたところ、私のような人間に対して「はあちゅう」さんは大変お怒りのご様子である。


この間テレビで


「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」


って言ってる高校生を見て、


「は?」って思った。


もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。


世の中には説明の要ることと要らないことがあって、


その質問は後者のカテゴりーに属するでしょ。


生きるのに苦労してないからそんな質問出てくんだろうね。


あたしも大して苦労してないけどさ。


生きることがどれだけ大変なことか知ってたら、


そんな質問できなくない?


そういう低レベルなことをぼやいてる奴らをまとめて、カルカッタマザーハウスとかルワンダとかに全員ボランティアに行かせるべきだと思った


向こうも迷惑だろうけど、頭下げて勉強させてもらいに行くべき。


必死に生きることにすがりつく人間を目の当たりにしたら、


「なんで殺しちゃいけないか」なんて言えなくなるはず。


http://blog.livedoor.jp/springflavor122/archives/50165246.html



はあちゅうさんは殺人をしてはいけない人間に対してもこれだけ怒るのだから、実際に殺人をした人の存在など考えたくもないのかもしれない。
彼女は殺人者に対しては「末代の恥」以下のどんな称号を授けてくださるのだろうか?


私の祖父は戦争でアメリカ人を殺している。
私の仲間の中国人の祖父は、ゲリラ活動で日本兵を殺している。
私の姉のアメリカ人である夫の父は、日本兵を機関銃でなぎ殺している。
姉の結婚式にて、そのお父さんが足を引きずって歩いていたので「どうしたのですか?」と訪ねたら、笑いながら「日本兵に撃たれた」との返事をいただいた。)


人を殺すのは悲しいことだ。
私の祖父が、仲間の家族が、義理の家族が人を殺したことは悲しい。
しかし私は彼らの殺人を責める気にはなれない。
だからこそ、私は問い、悩み、考える。


どうして人は人を殺してはいけないのか、と。
どうして人は人を殺さないといけないのか、と。


戦争に限らず、殺人を要求される場面はいくらでもある。
時代や事件が人に殺人行為を求める。
どんな良き隣人であっても、彼らは時として人を殺すことがある。
もちろん殺された人は気の毒であり、どのような理由があれ人は自分の罪を正当化することはできない。
しかし人は罪を犯してしまうものだ。誰一人例外はない。


殺人をしたことのない人は、たまたま運が良くて人を殺さないで済んでいるだけである。
運が良かっただけの人間が、自分を罪とは無縁な高みに置いて、上から目線で「末代の恥」と心貧しき者たちにご高説を賜わる。


しかし殺さないといけなかった人間を目の当たりにしたら「末代までの恥」なんて言えなくなるはず。
そのことを考えられないのは、単に歴史や社会に無関心だからとしか思えない。


私は殺される人間がより少なくなる社会を望む。
だが人が殺されなくてはいけない時があることも知っている。


はあちゅうさんの言うような「人間力」や「愛国心」を持っている人だって、他人を殺すことがある。
殺人を本当に減らしたいのならば、まず人は人を殺すものだということを認識し、その上で殺人の発生するメカニズムを解明し、その予防策を考えるべきである。
だからこそ私はこの愚問を繰り返し、問い続ける。


「どうして人は人を殺してはいけないのか?」


「どうして人は人を殺さないといけないのか?」

うつ病の知人がマンションから飛び降りた。
だが運良く、死なずにすんだ。


このようなとき、他人にできることは少ない。
必要なのは適切な薬物投与と休養であり、いずれも私には用意できない。


ただ私はこれからも、今までと変わらない態度を保つだけである。


同じようなことを二年前にも書いたような気がする。
当時、私の家のベランダから飛び降りようとした別の「うつ」の知人は今では安定している。
今度の知人もそれくらい回復すればいいのだが、あまり社会に適応するのを期待されるのも辛そうだ。

同じ職場の派遣社員の契約が更新されないことが分かった。
つまりはクビだ。彼は次の派遣先を探さないといけない。


それは突然のことで、明日は我が身である。
要らないと判断されればすぐに捨てられる。
私には何故か、それが楽しい。


しかし他人が捨てられるのを見るのは少し残念だ。
特に彼は飲み仲間だったので、寂しくなる。


そして私は何故か派遣会社からその現場に派遣されている派遣社員たちの代表になるように言われた。
昨年まで印刷屋をしていて技術力において彼らより一段も二段も劣る私が代表とは困ったものだ。
もっとも、それは派遣会社からの伝言を他社員に伝えるだけの雑用係なので私にこそ相応しい役ともいえる。


私は今は何も望んではいない。
正社員の地位も、友人も、恋人も、尊敬も、名誉も、安定した給料も、家族も、家も、車も、どうでもいい。
自分の会社の社員を捨て、仲間を捨てて一人になった私に望んでいいものは何もない。
私もいつかは捨てられるべきであろう。


ただ私もクビになってしまう前に、なるべく多くの技術を手に入れておきたい。
今の職場には設備も人材も豊富にある。
高価な道具を無料で長時間も使わせてくれる機会は滅多にあるものではない。
優秀なエンジニアからお金をもらいつつ指導を受けられるなんて、まるで自分が詐欺師になったような気分だ。
捨てられるその日まで、もっとこの職場をむさぼり喰らいたい。


私は何も望んでいないが、とても楽しい。