日記の存在確認.

十五年前から九年前までつけていた日記がまだ存在していたことに驚く。

もの凄く恥ずかしくもあるが、折角大事に書いていたので消えていたら自分の歴史上勿体ないとずっと心残りだった。少し嬉しくもある。

痛々しく、澱んだぬるま湯のなかで生きてきた証拠。また、この頃は父も生きていた。

 

これから使うにはメンテナンスをしないと全く使えないな。

一度エクスポートして真っ白にできればな。

 

…なに、別アカウント準備中だと?どこに作ったのか、自分よ。

田舎の夜

UTAUUTAU*1

墓の中でも聴いていたい音楽、そういう音楽にこの先どれだけ出会えるだろうか。

 外界に散りばめられた輝く何かを手に入れることは、幸せを感じる方法としては手軽すぎる様に思う。が、何年経っても手に入れた当時の輝きは失われず、或いはむしろ時の経過と共に輝きが増すものは確かにあり、そういうものとの出会いは、幸せと表現する以外にうまい言葉が見つからない。
 そういう風に感じられるものを既に手にしているとすれば、今は分からないが年を重ねるにつれ幸せの数や度合も増す、ということになる。毎年一つ一つ年を取っていく事もそう満更悪くない、という気になった。
 どう足掻いてもきっと、墓の中には何も持ってゆけぬ。今ここで、様々に変化する昼の光を、光を内包する夜の闇を、散りばめられた何かを、両手いっぱいに抱いて過ごしたい。
 ただ、手軽に手に出来る細々としたものを、これを手にすれば幸せになれる、と勘違いしてはいけない。幸せを感じるのは、手にした過程でも瞬間でもなくて、手に抱き胸に抱き徐々に自分の日常に加えていってから、ひょっとすると失ってからという場合もあるかもしれない。

*1:DISC1のみ。2枚組の方は、教授のピアノソロ集DISC2も入っている。個人的にはDISC1だけで感無量。

田舎の午後

毎日都会に通う日々と、後数日で一旦別れとなる。
色々あるのが日々だけれども、どんなそれでも礼を云いたい人達はいるもので、今日はその人達への進物を買いに、地元の百貨店へ行った。地方小都市でありながら、百貨店、と名のついた建物が駅前に建っている。が数十分も自転車もしくは自動車を走らせれば田園地帯が広がる。
事務所の社員全員に行きわたるように、と考えて購入した進物を、自転車の籠に入りきらないので腕に通し自転車をこぎ出した数分後、雨の匂いを感じた途端躱しようのない夕立に見舞われた。
普段ならば、濡れるのも構わず走り抜けるのだが、進物が台無しになるのを恐れて雨宿り先を探せば、丁度良いところにお地蔵様のおわす小屋が見えたので、しばし軒を借りることにする。
幼稚園に通っていた頃や、町に出る時は必ず前を通っていた小屋で、最近土地の整備と共に改築された様だった。新しい木の香りが、徐々に強くなる雨脚で立ち上がる。雨はなかなか止まない。止まない雨はない、とか、もうしばらく軒先を貸してください、とか唱えつつ、じいっとそらを見る。
一瞬晴れ間が覘いて、虹が架かった。時折壁なんかにふと映るプリズムの七色と同じ様な作用が、遥か上空でしかもあんなに大きく半分の輪っかになって起こるなんて、と科学に弱い頭で考える。上空に今きらきらと光っている無数のプリズムを浮かべていると、再び雨脚が強くなり、ふと目を他にやっているうちに虹も消えてしまっていた。
夏の通り雨は美しい、と感じるのは、今地元の田舎に立っているからだろうか、と都会での日々を思う。見たいと思った時にごく軽く首を持ち上げただけでそらが見える。雲間から放たれた午後最後の光線が、勢いよく降り続く雨をまるで檸檬の滴の様な色に染める風景に、愛を感じざるを得ない。地蔵尊の軒下というのは、何とも落ち着く場所だと気付いた所為もあるかもしれない。
財布にあるありったけの小銭をかき集めてさい銭箱に入れ、鈴を鳴らしてお地蔵様にお邪魔したお礼を云って軒下を出た。
そういえば会社勤めを始めた時に購入してから一度も面倒を見てこなかった自転車を、雨でずぶ濡れになったついでにくまなく雑巾がけした。
一人だな、とか、落ち着いたな、とか感じながらも一方で、ものや人、土地や土地にある何かといつもどこかで沢山繋がっているものなのだ、と静かに思う午後であった。
檸檬が次第に色づいて、雨上がりは橙の浮かぶ格別美しいそらになった。

ない才能.

ある才能(持っている才能)については全く想像もつかないのに、ない才能(持っていない才能)については何となくわかるのは、なぜだろうか。理由は定かでないけれども、その事実については何の感慨も抱かない。ないと分かっていて無理したりもがいたりする必要は、今のところ感じていないからだ。
先日、愛着を抱いて側に置いていた、エアープランツ、という類の植物を死に追いやってしまった。栽培、観賞には水も土も必要ない植物だそうだ。正確には空気中の水分を自分で吸い取って生きていくので、乾燥する季節は、定期的に一晩水に浸してやらねばならない。この類の植物を一度干からびさせたことがあるので、今回はまめに様子を観察して適度に水分を与えていたはずだったのだが、梅雨に差し掛かった辺りから「顔色」が悪くなり始めた。下手に気を遣いすぎたのが仇となったのか、終いに、根っこ(ほうれん草でいう束になっている部分)から痛んで、触れると崩れてしまった。
途中まではうまくいくのに、立派な最後を見届けたことのないものに、美術と植物の栽培、そして写真、があり、両方とも嫌いではなくむしろ好きなのだが、どうしたっていつもうまくいかない。これはもう、才能としか云いようがないのではないか、ということにしている。
植物については、命を大切にしたくば触れないことだ、としばらく思うことにする。

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高級住宅も広い土地もなく、単調な色彩と形状の住宅ばかりが並んでいる地域に住んでいるが、それでも思い思いに丹精された庭は季節ごとに目を楽しませてくれる。
この季節は専ら紫陽花で、少し前だとジャスミンの香りでむせ返りそうになっていた。ところどころで薔薇も咲いている。薔薇は高級なイメージだが、庶民の手による雑多な寄せ植えの中や、塗装が剥がれたり経年と風雨で色あせたりしている壁を背にして咲いている方が、不思議と目に留まりやすく味わいがあるものだと思う。

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薔薇の木、という名の喫茶店がある(調度品や雰囲気がよく、平日の会社員御用達で繁盛はしているが、味と給仕に関しては大して良い店とは思えない)。
薔薇の木、と聞いて、薔薇の木とはどんな木なのか、当初想像がつかなかった。見掛ける薔薇は大抵低木か高くとも背丈位で、木が沢山花をつけているところを見たことがない。
ある曇天の日、下を向くのがあまりにしんどい為上を向いていつもの住宅地をとぼとぼと歩いていたところ、高いところに真紅の花が、白い壁の洋風家屋を背景に幾つも咲いているのが目に入った。花の一つ一つが大振りで、ビロード状の肌理は見事なものだ。
それが最初に見た、薔薇の木だった。まるで絵の様な風景。
(こういう場合も、写真にしない方が、才能のないものにとっては正解なのである)

舐めたらいかんぜよ.

時流に乗せられていることを否定はしないが、改めて幕末から明治維新にかけての事を考えるに、坂本龍馬という人物はもの凄い人物で(彼だけでは勿論ないが)、薩長同盟締結というのは極めて斬新な出来事だったのだな、とつくづく感じる。
悩んだ挙句、グッヅを購入してみた。

デンマーク製のフローティングペンだそう。こういった類のものは、数年後劣化して液漏れするのが嫌で買わないようにしていたが、初めて見掛けて1か月程考えても心を掴んで離さなかった為、ついつい、である。
坂本を介して桂小五郎が、西郷とがっちり握手する(後に控えているのは、大久保と小松帯刀)。
京都の便利堂他、土産物屋に置かれている。一本あたり945円也。

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薩摩藩長州藩が肩を組むなど晴天の霹靂、という印象を当時の民は受けただろうが、現在自民党民主党とがっちり肩を組んで日本をよくするべく歩んでゆきます、と宣言したとしても、期待の「き」の字も抱けない様に思う。まっこと残念。

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参議院選よりも知事選の行く末が気になっていた井の中の蛙も、予想通りの結果になった様で一安心である。
知事選、市長選(市会議員、県会議員は印象が薄い)等地元の選挙での個人的な投票決定点として、地元を如何に愛し、如何に地元にとって的を射た公約を掲げ、真摯に活動してくれそうか、というところがある。選挙前だけしゃしゃり出てきて偉そうにのたまうのではなく、平素からフォーラムやイベントで、皆が興味を持ち理解し易い言葉で会話出来る力のあるトップでないと、票を箱に入れる気も起きない。

あんた誰やねん、という人に票なんか入れるかいや。国民を舐めたらあかんえ。
と云いたい。

七夕.

近頃の気軽な話相手は専ら男友達かおっちゃん(失礼)だが、頻度は低くとも一を語ると七、八、或いは九まで通じるのはやはり同性の親友なのだな、と実感すると、彼女らを日々おざなりにし過ぎているのではないかと反省する。異性(男性)に対しては、ギブアンドテイク、需要と供給の一致が良好なバランスである。が、時々つい要求し過ぎて思い叶わず一人落ち込む。

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七夕だが、かささぎの姿は見えず。例え見えても、身体が重いため拒否されること間違いない。特に腰が重い。
声だけは常に聞こえているのだ。秋になったら、会いたい人たちがいる。白いかささぎでは時間が掛かるので、白い高速の乗り物で関東方面へ向かう予定である。

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複合オフィスビル、という所に毎日収納されることは、一般的に平坦な日々と認識されるようで、その感覚を少しでも軽減する為か、ビル管理会社も多少努力する。巨大な観葉植物の鉢植えを見飽きる寸前で入れ替えてみたり、季節のイベント事を取り込んでみたり。七夕は、外界のムードに併せて巨大な笹を2房程立て、ご親切にも短冊記入台まで設けられる(一体誰があんな高いところに短冊を吊るしたのだろうか、と短身として思う)。短冊に願い事を記入する姿を同僚に見られるのは些か恥ずかしいので書きはしないが、書く文言は決まっている。
仕事くれ。
太字、手書き、毛筆で。
受験勉強と就職活動には相当縁のある人生のようだ。やる気のない性格のくせに変化を求めてしまうのか、あるいは、変化を引き寄せてしまうのか。恐らく両方であろう。
何かが一つ進入に成功すれば、何かが一つ落伍する、そういうイメージを社会の仕組みに対し抱いている。社会のみならず生物学的な世界における淘汰という仕組みを鑑みても、この世の大体の仕組みは前述の様な法則が根底にあるのだ、ということに気付く。そう考えると、とある組織から押し出される身としては、致し方なし、と踏ん切りがつこうものだが、落伍者の行く末にスポットを当てた歴史なり研究なりが少し位あっても良いではないかと、高度文明社会において思う訳である。

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転職サイトにお世話になることにしたので、久々にパソコンを仕事後も立ち上げる日々がやってきたが、どうも使用中のパソコンの動作が遅い。1分1秒争うスマートフォン時代において、どうも勝利を収められそうにない。マウスも反応しなければ、文字の表示速度がタイピングに追いつきもしない。
パソコンも加齢するらしい。或いは、早々に夏バテかもしれぬ。

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ウイルスバスターはもう少し軽やかにならないものだろうか。

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こういうこと(どういうことかは表現し難いが、感覚的なことというより左脳で把握した現実的なこと、と云うべきだろうか。色味としては灰色)を書きたいのではないのに、泡のようにこういうことが浮かんでくるので、優先して書いてしまう。書きたいことはすぐ消えてしまう、かといって「つぶやく」のも何だか勿体ない。ああだこうだ。

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uuiya-ui uuiya-ui*
uuiya-uiya-uiya-ui*
本日口ずさんだ唄也。自由になれる唄、大の字になった気分になれる。

ボーイ全部もってって.

○唐突にまた何か書きたくなってきたので、心機一転の意味を込めて別アカウント準備中。結局また戻ってきてしまうのだ、はてなに。折角ここまで色々書きためたので、ここは残しておこうとおもう(残しておけるものなら。消えたらショックだ)。
ぼちぼち準備しようというところ。次回はもっと、日記以外の随想、散文、本の話、音楽の話、色々な文体、書簡体、等挑戦を多くしていきたいものだがさて、どこまで出来るのやら。読み手あっての部分もある訳だし。
○写真も載せたいものだが、私はどうも写真と相性がわるいみたいだ。残念である。でじ子(養子に来たデジタル一眼レフ)、銀一(養子に来たフィルム一眼レフ)、育児放棄して御免。
○春だからか、“くるり”をよく聴く。“World's end supernova”が再生回数第一位を獲得している。名曲として名高い“ばらの花”にはわざと行かないようにしているけども、時々、安心な私らは旅に出て 思い切り泣いたり笑ったり したくなって、ついつい胸が詰まる思いに気付くことがある。
(切れ切れにしか書けないのは多分、文章を書く集中力が落ちているからだと思う。やはり何事も続けなくてはだめである。どうもひとつひとつの文章に気持ちが沁みなくて、漬かりの浅い味がする。あと、文の前後を呼応させるボキャブラリーが随分と外出中。)


reference-----

くるり“word's end supernova”

SHANADOO ver. (こういう「顔見つけっこ」は時々やる、という意味で貼付)